一 白峨二年春―同三年初春
紫秦国の後宮と隣り合う禁苑の中に建つ
王宮では主に柱や扉、調度品に使われている黒樫を贅沢に使った外壁は、年月を重ね花の色がよく映える艶やかな黒だ。
中に入れば梁や柱は同じく黒樫で、壁や床は香りのほとんどない白い雪杉と何から何まで花見のために作られている。
今日は王の即位一周年を祝うために上位の官吏やその家族が招かれ、咲き乱れる桃花を肴に酒を酌み交わしていた。
招かれた客の中でもごく一部の官吏と王しか立ち入れない二階の露台で、
形ばかりの護衛とはいえ花に気をとられるわけにはいかない。
しかしながらあまり面白くない光景である。
王である呂淳への挨拶もそこそこに官吏たちが媚を売るのは鴻羽の父である丞相の
若干十八。いつも自信のない顔で丞相の後ろに隠れがちな呂淳に対しての不愉快な評価は何度も耳にしている。
彼に敵こそはいないが味方もいない。
けれど、自分だけは違うと思っていた。誰よりも忠を尽くしていて、何よりも実の兄弟のように大切に思っているのを、呂淳も分かっていると信じていた。
視線は自然と呂淳の左腕へ移りやがて裾に隠された手首へと向かい、胸に苦いものがこみあげてきて鴻羽は拳を握りしめた。
「なにしかめっ面してんの?」
ふと斜め下から声がかかってそちらに目を落とすと、花の
年の頃は自分と変わらないくらいの少女とも、あるいは年下の少年とも見える人物は宦官である。この場にいることが許されるほど高位ではない。
「なんでもない」
鴻羽はこの
「相変わらず冷たいね」
ぼやいて堂々と丞相を中心にした人の輪に入っていく湲のふてぶてしさはもちろんだが。
「呂淳、下のやつらにさ、ワタシのことちゃんと言った?なかなか通してくれなかったんだけど」
主君に対するこの口のききかたである。
自分も人目のないところでは子供のころからの気易さで声をかけるが、後宮に入ってたかだか半年。しかもこんな公の場でこの態度は、主君を馬鹿にしている。
しかし呂淳は鴻羽の憤りも知らずに眉をひそめることもなくすまないと答えていた。
周囲は驚きを見せるものの、すぐに湲の容姿に見入ってしまう。
華奢な背から細い腰まで流れる、結いあげられていない黒髪は一本一本が極上の絹糸のようだ。髪によく映える肌は新雪の如く白く、頬はほんのりと朱色が滲んでいて健康的である。
纏う衣装は飾り気のない官服だが、生来持ち合わせているものだけで湲はどんな花よりも美しくそこにあた。
表情ひとつで少女にも少年にかわる、不思議な印象の顔に笑みを浮かべるだけで人々の感嘆を呼ぶほどに。
その中でやはり自分と同じく湲が気に入らない渓雁が、苦虫を潰した顔をしてこちらに寄ってくる。
「あれをあまり陛下に近づけるな」
出来ることならとっくにそうしている。
後宮の女たちに見向きもせずにいた呂淳が、宦官を甘やかしこんな場にまで連れてくるのは外聞が悪い。
「ですが、陛下が望んでいる以上は強くは言えません。父上、陛下は繊細なのです。分かっておいででしょう」
鴻羽がため息と共に答えると鼻で笑いながら繊細、と渓雁が繰り返す。
父のこういう態度も嫌いだ。
なにかと昔から伯父という立場で呂淳に厳しくあった父だが、度が過ぎるほど辛辣だ。七年前に父の妹である呂淳の母が亡くなってからはさらに酷くなり、呂淳がこうまで萎縮してしまったのは父のせいだと思っている。
しかし、最後の最後に呂淳を追い詰めたのは自分だった。
即位して二カ月。いまから八か月前。
朝議の後、卑屈になりすぎる呂淳にどうにか自信を持たせようと始めた会話だった。そのときに呂淳は言ったのだ。
お前も兄上ではなく私が死ねばよかったと思っているのだろう、と。
叔母が亡くなる少し前に急死した呂淳の腹違いの兄である第一王子、
呂淳がそんな輩と自分を同じだと見ていたことの衝撃に、否定の言葉も出せずに絶句してしまった。
沈黙こそが肯定ととったのか、そのまま弁解する間もなく呂淳は後宮の奥へと駆けだした。
そして自室に戻った呂淳は自らの手首を切った。
命に別状はなかったが、それから彼は後宮の奥に引きこもってしまっていた。
「鴻羽、呂淳が疲れたってさ」
その呂淳と共に先月表に出てきたのが横柄に自分を呼ぶ湲である。
鴻羽は静かに呂淳のそばにより道を開けさせる。
「……大丈夫か?」
人目につかないところまで来て鴻羽は呂淳に問いかける。
「少し人に酔った」
あの時のことはお互い口にしない。
だからといってなかったことになることなどなく、言葉を選ぶのに慎重になりすぎる自分に鴻羽は苛立ちを覚える。
「だから上に人あげないほうがいいって言っただろ。あいつらは呂淳に用があるわけじゃないんだし丞相と一緒に下に置いとけばよかったんだ」
遠慮というものがまるで頭にないのだろうか。
湲の物言いに苛立ちを上乗せされながら鴻羽は呂淳の表情をうかがう。
もとよりあまり感情を見せるほうではなかったが、ことさら無表情になってしまっている気がする。
「こっちのほうがゆっくり見れるよ」
奥の部屋に先に入った湲が窓を開けると、黒樫の窓枠の内いっぱいに薄紅の花が敷き詰められていていた。静かに花は揺れ、零れ落ちた花びらが甘い香りと共に部屋に舞いこんでくる。
部屋の入口で立ち止まった鴻羽は、ほらほらと手招きする湲を見ながら何度目かの疑問を持つ。
あれは本当に男なのだろうか。男というにはあまりにも花の香が似合いすぎる。ともすればそれは湲自身から放たれる香気とすら思えるほどだ。
しかし女が男のふりをして後宮に入る意味などあるはずがない。
「鴻羽?」
いつまでも部屋に入ってこない鴻羽を呂淳が呼ぶ。
「あ、ああ、俺は部屋の外で見張りをする」
花に彩られ無邪気に笑う湲がふと誰かに似ている気がして、じっと顔を眺めていた鴻羽はびくりと肩を跳ね上げて答える。
なぜか早鐘のように心臓は動いていた。
自分の脳裏に浮かんだおぼろげな人影は一体誰だったのか、思い出すことはできなかった。
***
宴から二月の後、鴻羽は呂淳の護衛の任から解かれた。
代わりに命ぜられたのが禁軍の騎兵隊小隊長だった。
北の
手薄とまではいかないが紫秦国の兵力はおぼつかない。
この頃は防戦に窮し王都まで救援を求めることも増えてきた。それ故に国境まで出向いていかねばならない事態は増えつつあり、城を空けることは必然的に多くなる。
呂淳はやはり自分と距離を置きたいのかと、半ば安堵しながら鴻羽は新たな任に就いたのだが補佐に湲がくっついてきた。
要は湲が軍に行きたいというから、呂淳は自分を護衛代わりにつけたということだった。さすがにこれには父も激怒していたものの、呂淳は聞かなかった。
「……まったく、どこへ行ったんだ」
東の国境側に広がる粟畑の畦道を馬で辿りながら、鴻羽はいつのまにか姿を消した湲を探していた。
道の向こうには畑を一望できる小高い場所にある村が見える。そのすぐそばまで、紫秦の東隣に位置する
「まだ残党がどこかにいるかしれないのにひとりでうろうろするな」
実りを迎えた粟が泥と血にまみれ腐臭の漂う畑に湲がたたずんでいるのを見つけ、鴻羽は馬を降りる。
「本当は殺されてなくて残念なんじゃない?」
湲は国境の砦があるほうへと目を向けたまま投げやりに言葉をよこした。
人が心配してやったのにまったくもって可愛げのない奴だと思いながらも、鴻羽はその横顔の真摯さに腕を組み問う。
「……戦は初めてか?」
湲が切れ長の黒目の大きい瞳を向けきてうなずいた。
「頭で考えた通りに人を動かすのは難しいね。敵も味方も。大まかな状況での策は書にあっても、実際にはその通りなんて絶対無理。地形なんてほんと、その場に立たないとわかんないしさ」
予想とは違う湲の返答に拍子抜けした。
十四の時小競り合い程度であったが初めて戦場に出て二晩はろくに眠れず、師に諭されてどうにか持ち直した鴻羽は湲もそうかと心配してみたが無用だったらしい。
「無茶な策だったが、半日で勝てたんだ。上等だろう」
「でもこれってワタシの手柄にはならないよなー。約束したしなあ」
湲が不満げに唇をとがらす。
今回の鴻羽率いる右軍騎兵第一小隊の他に、騎兵小隊一つと右軍歩兵小隊をふたつ統括する隊将は最初話半ばで湲の軍略を聞いていた。
しかし敗戦の責任は湲に、勝利の功績は隊将にと提示され、策に勝機を見出した途端乗ってきた。
「どうだろうな。砦を半壊させた責任をとるのが嫌で押しつけてくかもしれないぞ」
敵軍が陣を張った砦へ夜襲をかけた。
あまり使用されていない砦の一部はもろくなっており、そこに敵を誘導した。あとは砦をよく知る者が槌で壁を崩落させて敵の一部を瓦礫の下敷きにして、残りは暗闇の中右往左往するところを叩いたのだ。
そして日が昇る頃には向こうは撤退していった。
「でも、あれはどっち道だめだっただろう。ちょっとついただけであの通りなんだし。補修が間にあってなくてよかったんだか、悪かったんだか。どっちにしろ村の人間はこれ以上荒らされなくて良かったか」
湲が見つめる先では疲れ果てた顔の村人が身内の死体を引き揚げたのち、あちらこちらに転がる敵の骸の武器や装備を引きはがしていた。
こちらに気づくと小さく頭を下げ、またすぐに金になりそうなものや使えそうなものを無心に探し出す。
収穫は半分以上終わっているとはいえ、被害はけして軽くない。
「お前の父親がごねてなかったらまだましだったかもしれないけどね。いつまでああしてるつもりなのさ」
不意に矛先を向けられ、鴻羽は渋面を作った。
連日禁軍側と丞相を筆頭とする文官ら側で、兵の増強について話し合われているがまだまとまりきらない。
父は長年かけて軍を国防に必要な程度まで縮小し、領土を増やすより今ある土地を豊かにすることに尽力してきた。そして武官主導から文官主導へと今日の政を導いた。
今になってまた武官らが力を増すのを嫌がり、なにかと文句をつけているらしく情けないばかりだ。
ことに呂淳が王位についてから父の横暴さは目に余る。
禁軍の二柱のうち一柱である左軍将軍と父が衝突しているのを、もう一柱である右軍将軍が仲裁し、軍と丞相側はどうにか割れずにいるもののこのままでは危うい。
「もう、父上も折れるだろう」
しかしこのまま乱世に入れば紫秦が生き残れないことも分からないほど、父は愚かではない。すでに自分を軍に取り入る足がかりにしようと画策している。
そもそも父と同じ道を歩むのが嫌で軍に入った自分は協力してやる気はないが。
「そう言ってもすぐには使い物にならないだろ。今回は敵が馬鹿だからよかったけど、その馬鹿にここまで入り込まれるんじゃ駄目だな」
去年から幾度か洪水に見舞われ食糧難にあえいでいる香陽は、数を揃えれば短期で圧倒できるだろうとろくな準備もせず食糧目当てで大挙してきた。
そんな軍というより強盗団に近い半ば破れかぶれの集団に、数は負けるとはいえここまで苦戦させられたというのはたしかに由々しきことだ。
「当分足らない頭数は知恵をまわすしかない……だが来年の春までにだな」
鴻羽は渋面のまま山の稜線を見やる。
あと半年持ちこたえれば西側から南側の国境に横たわる白線山脈が雪に覆われ、多くの敵を阻んでくれるだろう。問題はその後だ。このままいけばさらに乱は激しくなる。
「……来年の春、か」
ゆったりとそうつぶやいた湲は何か考えをめぐらしている。
鴻羽は不思議に思う。
戦のことがまるで分からずに湲は軍に来たわけではない。軍略家としての知識があった。
「なぜ最初から軍に入らなかった」
疑念を口にすると湲が少し間を開けて答える。
「いろいろとさ、面倒だから」
「なにかやましいことでもあるのか?」
湲の素性は後宮に勤める官吏の遠縁、ということになっているが生家についてまるできかない。その官吏もなにかと評判の悪いもので、実際遠縁というのもあやしい。
「……この体じゃ入れないよ」
拗ねた子供のような言い草だった。
「悪い」
その言葉の意味の裏に気づいた鴻羽は反射的に謝罪を口にしていた。
よくある話だ。
貴族階級以外が官吏となるには宦官になるしかない。そのために自らなる者もいるが、子供が貧しさから親にそうされたり人買いによるものも多い。
湲もそうして自らの意思に反して後宮にねじ込まれたのだろう。
「別に謝んなくてもいいよ。運よく最初から小隊の補佐官やらせてもらえたからもういいや。さ、帰ろうか」
踵を返して歩み寄ってく湲の表情に影はないがどこか作り物めいて見えた。
「兵法はどこで習った?」
先に行く湲を追い馬の手綱を引き緩やかに歩みながら鴻羽は静かに問う。
「爺様。名前は
「彭軍師……?」
予想外の人物の名前に鴻羽は目を瞬かせる。
彭吾准といえば左軍将軍の師にして先々代王の頃の禁軍の要として名高い人で、丞相をも務めていた傑物だ。将軍職を兼任することはなかったが、筆頭軍師という特別に設けられ役職にも就いていた。
先代にはあまり重用されず、むしろ厭われて筆頭軍師という役職も撤廃されたが、左軍将軍をはじめとして彭軍師を師事していた彭門下生と呼ばれる者は軍内にまだ多い。
そうして彭軍師の推挙で前国王の近侍として取り立てられた父は、彼が王に閑職に追いやられてもなにひとつ異議を唱えずにいたことで恩知らずと軍内では蔑まれている。
その恩知らずの息子である自分は、父と同じ道を歩むのを拒んで十二の頃から軍に入ったのだがやはり向けられた目は厳しかった。
今はずいぶん自分に対する敵意は和らいだものの揉め事があると肩身は狭い。
たしか彭軍師は十八年前に王都から二つ隣の州にある領地にある村に居を移し、そこで盗賊に押し入られ共に暮らしていた娘と共に殺されたときいた。
娘は寡婦でひとり息子の生死は不明だった気がする。この見目のよさならそのまま攫われ売られたとしてもおかしくはないだろう。
それにやたらと父に対しては刺々しい物言いの理由も納得できる。
信じるに足るものはないが、疑うこともできない。
神妙な面持ちで湲を見下ろすと、品と華のある笑みがかえってきた。
「深くは考えなくていいよ。ワタシは軍にいられればいいだけだから」
言いきる言葉に芯の通ったものを感じた。
けして不真面目なばかりではないし、頭も切れる。これから共に戦っていく不安は和らいで、どうにかやっていけるかもしれないと鴻羽は思った。
***
後宮の最奥の部屋は扉を開いてすぐ、こぶりな円卓と二脚の椅子が見える。
中央には奥との間仕切りになっている背中あわせの書棚。書棚の左端と左の壁際は隙間があって、最奥に見える分厚い玻璃が嵌めこまれた窓とちょうど同じ幅だ。そこを通り進むと寝台と小物や書簡を入れる箪笥があって他に調度品はない。
そんな数少ない調度品は全て黒樫で作られているので、色合いすら質素であるがここが王の私室である。
王の部屋してはこぢんまりしているのは、本来ここが衣装部屋であるからだ。隣の本来の王の私室は書庫にしてしまっていた。
広さも様相も総じて粗末とさえ呼べるこの部屋が、呂淳にとっては最良の空間だった。
もっとも近い正妃の部屋も空き部屋なおかげで、煩わしい人の声も気配も届いてこない。 世界に自分ひとりきりの気がして居心地がいい。
呂淳は読み終えた本をたたみ、寝台に寝転がる。
今日は後宮から出ず、朝から気ままに書物を読みあさりぼんやりとしていた。そのうちに時間は無為に流れて、もうすぐ日が暮れる。夜には明日伯父に詰られることを考える。翌朝にはまたここから出るかどうかぐずぐずと悩む。
湲が来てから表に出る機会は増えたが、三月前に軍のほうに異動してからは遠征に行かれると部屋から出ないことが多くなってしまう。
身体を丸め瞳を伏せると眠気がやってきた。
夕餉まで寝ていようかとうつらうつらし始めたころ、足音が聞こえてきて目が覚めた。
「ただいま」
入室の許可も取らずに入ってきたのは湲で、身を固くしていた呂淳はほっとしながら身体を起して寝台の上で正座する。
「早かったな」
遠征に出たのは五日前。七日はかかると言っていたが存外早くすんだらしい。
「ああ。鴻羽がさっさと相手隊将の首取ってくれたおかげで思ったより手間がかからなかった。ほんと、馬鹿みたいに強いね」
従兄の功績に呂淳は表情を曇らせる。
戦場に鴻羽が出ればこうなることは分かっていた。三年前まで近衛ではなく騎兵隊の一員だった鴻羽の評価は、戦が増えてから高くなっていっていった。
そうなるのが嫌でほとんど宮から出ることのない自分の近衛に任命した。
だがその後も鴻羽は鍛錬を欠かさず、同輩に実力で置いておかれるどころか差を広げて強くなっていく。
再三軍議で右軍の
昔から学問も武術も秀でていて見栄えもよく、真面目で人のいい鴻羽は本人がどんなに謙虚に隅にいても誰かが中央へ押しやる。
そして自分は端のほうへはじきだされる。
「呂淳」
窘める声に呂淳は自らの左腕を強く握りしめ、爪を食いこませんとしていた右手から力を抜いた。
「別に鴻羽に張り合う必要はないんだ。あの手の単純で人のいい奴は扱いやすいから上手く使ってやればいい」
そういうことは、対等かそれ以上のものが出来ることだ。自分のような者が利用しているなどと言ってもただ助けられているだけだと見られるだけで惨めでしかない。
不満げに口を閉じていると湲が苦笑して、責め立てることもなく寝台の上にあった本へ話題を移す。
ざらざらとしたものを胸に残しながらも、呂淳はとつとつと話しているうちに懐かくなってきた。
母が生きていた頃はこうしてよく本を広げとりとめなく言葉を交わした。伯父の怒声に耐える毎日の中で何よりも安らげる時間だった。
呂淳は次第に重なっていく母と湲の声に微睡むのだった。
***
季節は冬を目前としていた。
王宮の南東の一角にある軍舎は広い。入口には門があり、小さな
文字通り右手側に右軍、左手側に左軍が詰めている。
鴻羽は冷たい風が容赦なくぶつかってくる右軍側の回廊から右へと曲がる。この先には隊長、補佐官の私室がひしめく棟だ。
向かう先の湲の私室へ持っていくのは香陽陥落の知らせである。
一月前、ついに香陽の民は蜂起した。数年前から私腹を肥やすことしかしない王や官に民は不満を募らせていた。そうして去年からの食糧難に加え、半年前の無謀な進軍についに立ち上がり紫秦は民を後押した。
香陽反乱の援助を最初に提案した湲の部屋の前についた鴻羽は扉を叩く。返事はないが中から声がするのでいることはいるらしい。
ふと聞こえる男の声の語調が荒いことに気づいて一度目より強く叩いた。
返事はなくかわりに何かが叩きつけられる大きな音と陶器が割れる音が響いた。
思わず部屋に飛びこんだ鴻羽が目にしたのは、茶杯の欠片が散らばる床に倒れた湲を小太りな男が蹴りつけているところだった。
「何をしている!!」
怒鳴りつけると男が動きを止め鴻羽を一瞥する。
たしか湲の『遠縁』となっている男だ。
「同じ過ちは二度も許されませんよ」
低い声で諌めれば過去に宦官への暴力で問題になった男は舌打ちして湲を見下ろす。
「この淫売めが」
聞くに堪えない言葉に鴻羽は嫌悪感をあらわにして顔をしかめた。男はそんなことには気にも留めず乱暴な足取りで部屋を出て行った。
「破片に気をつけろ」
鴻羽がそう言いながら手を差し伸べるが、湲はその手を取らずに立ち上がって椅子が倒れているのでかわりに寝台に腰かけた。
乱れた髪が背に流され露わになった顔は酷い有様だった。
最初に目が行ったのは唇の左端下の顎あたりの赤紫色。頬や額にもにも破片につけられたのだろう幾筋かの緋色がある。
「来るのがはやいよ。あとちょっとで正当防衛だったのに」
湲がむくれ顔で懐から短刀を取り出し寝台に投げる。
「気持ちはわからんでもないが、軍舎をあんな男の血で汚すな。元から素行の悪い男だ。訴え出れば正当に処罰される」
「そうしたら揉めた理由は言わないといけないだろ」
頭が痛いと鴻羽はため息を吐きだす。
態度はふざけているが湲は軍師としても優秀であるし、仕事ぶりは悪くない。
剣を合わせてみればたしかに上手いとまでは言い難いが、真摯に切先を操り食いついてくる様子に本質は意外と生真面目だと気づかされた。
しかし身辺がきな臭すぎる。その点を見るとこのまま呂淳の側に置いておくのも考えものだ。
「あまり問題を起こすと軍にいられなくなるぞ。それと、自分の体は大事に使え。特に足は、命取りになる」
屈んだ鴻羽は床につけられずぷらぷらと揺れている湲の足をとる。さっき立ち上がる時にふらついてたので、もしやと思い裾を少しめくれば案の定、足首は赤く腫れていた。
「はい。はい。気をつけます」
投げやりな返答にいらつきながらも、握った足の細さに鴻羽は驚く。ほんの少し力を込めただけで小枝のように折れてしまいそうだ。
「まずはもう少し肉をつけることだな」
立ちあがって見下ろせば、湲が座っているせいもあっていつもより小さく見えた。自分の背丈が高いせいもあるがだろうが、肩の線といい長い手足の細さといいまるで少女だ。
自分と同い年というのが本当であれば、いくらなんでもこれは男と言うのは無理があるのではないだろうか。
そんなことを思いながら湲を見ているといきなり手を掴まれた。
そのまま目を見開く鴻羽の手は湲の薄い胸にあてられる。見たとおり、平らで押し返してくる弾力などない胸だった。
「きゅ、急になんだ」
声を不安定に波立たせてうろたえる鴻羽に湲が悪戯っぽく笑う。
「いや、なんかすごく疑ってる顔してたからさ。期待はずれだった?」
「何も期待していない!」
自分の動揺ぶりに赤面しながら鴻羽はやたら力を入れて言った。それにしてもこの手で確かめても小さく吹き出している湲はまだ女にも見える。
「で、何しに来たの? あ、香陽か。落ちたの?」
まだ声が震えている湲の問いに平常心と自分に言い聞かせて鴻羽はうなずく。
「香陽の民は紫秦に属することには異議がないらしい」
民が粟の粒が浮いた白湯をすする暮らしをしているというのに、肉に首が埋もれて斬首に困るほど肥太った王などは必要なく、欲しいのは堤を整え、田畑に実りをもたらしてくれる王だそうだ。
「まさに討たれたのは自業自得だね。せめて官がまともならこうはならなかっただろうけどな。でも、こっちもよそのこと言ってられないか」
意味ありげに視線を送ってくる湲の言わんとしていることはわかる。
呂淳はまだ王として頼りなく、彼を支える父と禁軍将軍のふたりは齢五十近い。微妙な均衡を持ったこの中核は二十年持つかどうかといったところだろう。
呂淳が成長しなければならないが、我の強すぎる父に展望は阻まれている。
このままの状態で私欲に走る官が中核についたなら香陽の二の舞になる。
「俺にはもう呂淳を変えることはできない。父上も止められない」
そう、何も出来ない。
築いていたと思っていた信頼はただの思いこみであり、父の耳に自分の声は届かない。
「自分が丞相か将軍になろうとは思わないの?」
鴻羽はすぐに返答が思いうかばず、ゆったりひと呼吸する程度の間をおいて口を開く。
「呂淳が望むのなら」
自分の意思で自分の立ち位置を決めるつもりはなかった。呂淳のために出来ることは、従順であることでしかない。
「ねえ、呂淳に忠実なのは義務だから? ただの同情?」
どちらも違う。ならば何かと考えて脳裏をよぎったのは罪悪感だった。父を止められないことへのか、それとも追い詰めてしまったことか。あるいは両方。
鴻羽は唇を引き結んで、澄んだ瞳に影を揺らした。
「……臣下は王に忠実であるべきだ」
その場しのぎの答に湲がつまらなそうに息を吐いて、自分の腿に肘をつきその手に顎をのせる。
「そう言ってるうちは呂淳はお前を近くに置きたがらないだろうね」
それならばそれで仕方ないと鴻羽は思う。しかし、一つだけ納得いかないことがあった。
昔から母親以外とはあまり慣れ親しもうとしなかった呂淳が、出会って間もない湲のような苦手な部類に入るだろう人間を受け入れた事は不可解だった。
後宮の女たちなど足元にも及ばない容姿に惑わされたなどという者がいるが、そうではないだろう。
美しいというのなら。
国一の華と謳われた呂淳の母親である叔母の顔を思い出し、鴻羽は戦慄した。
「お前……」
ようやく、湲が誰に似ているのか分かった。
叔母だ。湲のほうがわずかにきつい印象があるものの、瞳や、口元など一つ一つ見ていけばよく似ている。瓜二つと言ってもいい。
「なに?」
怪訝そうに首をかしげる湲に乾いた口でなんでもないとかえす。
容姿とはこのことだろう。
七年前に呂淳の腹違いの兄が急死し、父が呂淳を世継ぎとするために暗殺したのではないかとの噂が立った。第一王子が生来病を得やすい体質だったので噂にとどまった。しかし第一王子の生母は殺されたのだと言い張った。
そしてついには呂淳と叔母に毒を盛り、自らも服毒し自害した。
幸い呂淳はその日体調が悪く毒の入ったものを口にせず助かったが、溺愛していた息子と寵姫二人を相次いで亡くした先王は消沈し、そのまま病を得ておととしついに崩御した。
この件があって宮中では叔母のことも、第一王子とその生母のことについては皆口を重くして曖昧にしていたのだ。
気づいてみればその顔の傷がなおさら痛々しく思えて、鴻羽は眉をひそめた。
「その傷、呂淳にどう説明するつもりだ」
「ワタシが話さなかったら追及してこないよ」
立ちあがってくじいた足をかばいながら卓の前まで歩く。寝台が部屋の半分近くを占める小さな部屋なのでほんの数歩の距離だった。
鴻羽は側で倒れている椅子を起こして片足立ちしている湲を座らせる。
「今はとにかく事をうまく進めていかないことには先も何もないな」
卓に敷かれた地図を見つめる湲の顔は見れば見るほど叔母と重なる。
「湿布と軟膏を持ってくる。他に痛むところはないか?」
痣や切り傷を放置しておくのは、見ている側としても心地よいものではないので鴻羽はひとまず近くの医務室に行くことを決めた。
「蹴られた肩のあたりが痛むぐらいかな。折れてないし、打ち身程度だな」
肩を少し動かしてみる湲の口調は軽い。慣れた様子にいったい今までどんな暮らしをしていたのかと鴻羽は呆れる。
いや、さっきの男の暴言からおおよそは察することが出来る。
けれどやけに哀しく腹立たしいものがこみあげてきて深く考えることは出来なかった。
***
年も明け白峨三年。春の気配は近く軍の演習場は溶けはじめた雪でぬかるみ、兵卒らは足をとられぬよう手綱を操り馬を走らせる。
軍の増強の算段が整い増えた部下たちの指導に当たっていた鴻羽は、
「精を出しているところすみませんね」
そろそろ五十近い夏将軍は柔らかい物腰とは裏腹に、若いころは単騎敵陣へと突っ込んでいく苛烈さで功績をあげた実力者であり、鴻羽の師でもある。
「いえ。そろそろ一区切りつける頃合かと思っていましたので。何かありましたか?」
「陛下がいらっしゃっているのでご案内を頼もうかと思いまして」
珍しいと思いながら鴻羽は首をかしげる。
大抵こういうときは湲が一緒についているものだ。
湲の所在を問うてみると夏将軍が苦笑した。
「湲殿は
はいと、うなずきながら鴻羽は内心でため息をつく。
呂淳の自殺未遂のことはごく一部の人間しか知らない。そして元凶が自分であることは父以外誰も知らず、自分は陛下の気心の知れた幼馴染と思われている。
こうして当然のごとく呂淳の相手を頼まれるとどこか後ろめたい。
「失礼します」
左軍側の軍舎の応接室にふたりは入る。
部屋の中央にすえられた長椅子に挟まれた卓では、湲と
幸い先日の怪我が痕になることもなかった湲の隣に、呂淳が座ってふたりで交互に郭将軍の相手をしているらしい。
「いつの間にか参加してしまわれていますね」
「そのようですね」
盤を覗きこめばすでに湲と呂淳側は追いこまれている。
年の頃合いは夏将軍と同じの郭将軍は見た目も性格も岩に似ているが、彭軍師の優秀な弟子であっただけに頭はやわらかく智将として知られる人である。
湲のことは気に入ったらしく、彭軍師も好きだったという趣味の軍盤によく付き合わせている。
「降参! あー、騎兵はとっとくんだったな」
真剣に盤を睨みながら将の駒の逃げ場を探っていた湲だが、退路は見つからず前のめりにしていた身体を椅子の背に投げ出した。
「うむ。あきらかにお前の読み違いだったな。陛下、お相手ありがとうございます」
深々と怖面をさげる郭将軍に呂淳も小さく頭を下げる。
「どうしましょうか。陛下をご案内するのに鴻羽を連れてきたのですが」
「鴻羽の隊、見せてあげて。ワタシはまだここにいるから」
再び盤を眺めて駒を何手か戻し湲が言うと、呂淳も頼む、と言って立ち上がった。
王直々の言葉に鴻羽は湲の態度を窘める言葉をのみこむ。
「では、こちらへ」
わずかな緊張とともに鴻羽は呂淳を誘い部屋から出る。
ふたりきりになってもお互い言葉はない。静まった回廊の遠くから兵卒らのかけ声がさざ波のように寄せては返していく。
思い返せば呂淳とふたりきりになるのはあの日以来だ。
あの日自分がよけいなことを言わなければ、幼いころみたいに今でも軍盤遊びをしていたのだろうか。
「……懐かしいな」
思い出に意識を飛ばしていた鴻羽の口から自然と言葉はこぼれた。
「軍盤か?」
隣にいる呂淳が視線だけ鴻羽に向ける。
「ん、ああ。子供のころはよくやったな」
「ふたりで母上に何度挑んでも一度も勝てなかった」
そういえば、そんなこともあった。
彭家と斎家の邸宅は近く、父と彭軍師の間に亀裂が入るまでは両家とも懇意にしていたので、年の近い叔母と彭軍師の娘は仲が良かったそうだ。そのときに鍛えたという叔母の軍盤の腕は相当なものだった。
やはり湲が彭軍師の孫、というのは真実かもしれないとまだ疑心を抱いている鴻羽は思う。
「湲は、似ているな」
誰に、とは言わずとも呂淳はうなずいて前を向いた。
「よく似ているよ。何もかも母上に瓜二つだ」
どこか浮ついた声に鴻羽は危うさを覚える。
幸福だった記憶に癒されるのはいい。ただそこへ沈みこんでしまうとなれば、引きずり出さなくてはならない。
しかし、その術は見つからない。
以前の自分ならば入れこみすぎるなとでも言えただろうに、今はそんな些細な言葉にすら気を使ってしまう。
隣にいるのに、呂淳との距離は途方もなく遠く思えて鴻羽はもどかしさに口を引き結んだ。
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