第4話 2.
廻谷さんの家までは学校から徒歩とバスで三十分ほどの距離だった。
「
「お、おい渚紗。なんかこの辺、凄いお金持ち感が漂ってるんだけど」
「知らなかったの?
「マジか。ってことは、ひょっとして廻谷さんの家も……」
「ええ。ほら」
きょろきょろと辺りを見回していた俺は、足を止めた渚紗の指差した方を見て、思わず息を呑んだ。
高級住宅……どころか、これはもう豪邸と言っていい。
俺の実家と比べると、縦二倍、横三倍、高さ一.五倍くらいの差がある。鉄柵で囲まれた敷地の中には芝生の広い庭があり、これまた豪華な犬小屋にゴールデンレトリバーが寝そべっていた。
石造りで凝ったデザインの表札には「廻谷」の文字。
「ここが廻谷さんのご自宅よ」
「すげー……!」
な、なんか急に不安になってきた。こんな豪邸に俺なんかが訪ねて大丈夫なんだろうか。礼儀作法とか全然わからんよ俺?
しかし渚紗が全躊躇なくインターホンを押してしまったせいで、俺には心の準備をする時間もなかった。
すぐにマイクの繋がる音がして、インターホンから若い女性の声が返ってくる。
「はい」
「すみません。私、真鶴さんの同級生の藤峰と申す者ですが……」
「存じております。藤峰様、昨日は失礼致しました。せっかくお嬢様を訪ねてきてくださった方に、玄関先で追い返すような真似をしてしまって」
「いえ、気にしないでください。真鶴さんはいらっしゃいますか?」
「ええ。ですが……その。申し上げにくいのですが、お嬢様に藤峰様のことをお伝えしても、おそらく昨日と同じようなことになってしまうかと……」
「大丈夫です。そうならないように、対策をしてきましたから」
渚紗が手招きしてきたので、俺はおずおずとインターホンの前に進み出て頭を下げた。……多分カメラ付きだろうから向こうに姿が見えているはずだ。なんかそう思っただけでちょっと恥ずかしい。
「……かしこまりました。すぐにお嬢様をお呼びしますので、少々お待ちください」
若干の間が空いた後、女性の声はそう言って一旦マイクを切った。
「な、なあ渚紗。今の人ってひょっとして、本物のメイドさんか?」
「メイドさん、というか家政婦さんね。松下さんという方で、家を空けがちな廻谷さんのご両親に代わって、彼女の世話や家事をこなしているそうよ」
「すっげー! 実在するんだ、メイドさんって……!」
「言っておくけれど、あなたがよく通っているお店にいるような、オムライスにケチャップで文字を書いてくれるタイプのメイドさんとは全然違うからね」
「通ってねぇよ!」
それどころか一回もいったことねぇ。一緒に行く友達なんていなかったし、女子に話しかけることさえできなかった俺が一人でメイド喫茶に入れるわけなかった。
「お待たせ致しました。今お嬢様に代わります」
インターホンから松下さんの声がすると、渚紗が一歩下がって俺を前に出した。
少し緊張しながら廻谷さんの言葉を待っていると、不意にインターホンから、
「I am the created of my blades.」
と、やけに渋い声……にしようとしたけど失敗しちゃった感じの女の子の幼い声がした。
「
「正解」
よし、いける。後ろでぽかんとする渚紗に小さくガッツポーズをしていると、「第二問」と再びインターホンから声が。
「ああ~心がぬるんぬるんするんじゃぁ~」
「『お中元はうなぎですか?』」
一瞬の静寂。そして。
「正解」
「よっし!」
「ねぇ、全く意味がわからないのだけれど。今のは何なの?」
「『お中元はうなぎですか』――通称『おちうな』は、可愛い女の子達の日常を描いたアニメだ。そのあまりの中毒性に、ニマ動で配信中のアニメ第一話の再生数は600万回を突破。オープニングテーマの歌詞の一部である『心ぬるんぬるん』のフレーズから生まれた『ああ~心がぬるんぬるんするんじゃぁ~』という謎のコメントが砂嵐のように画面を覆い尽くしている」
「……いえ、やっぱり意味がわからないのだけれど」
小首を傾げる渚紗に構わず、「第三問」と廻谷さんが言い――息を吸い込む音がインターホン越しに少しだけ聞こえた。そして。
「君に欠けているものは、それは! 熱情・理想・思念・知能・品位・優美さ・真剣さ! そして何よりもォォォオオオオッ!」
「
その直後、廻谷家の門が清々しく開け放たれた。
「……あれでいいの? ただあなたが言葉の限り罵倒されただけに聞こえたけれど?」
「いいんだ。ああいう名言があるんだ。それにしても、今まで持ってた廻谷さんに対するイメージが凄い勢いで更新されていくな」
明らかに何度も練習したとしか思えないクオリティで兄貴の名言を言い放つとは……。しかもあんな熱いテンションで。文学少女かと思ってたけど文化的少女だったわ。
「ようこそいらっしゃいました。お嬢様のお部屋は二階でございます」
松下さんが玄関から出てきて、俺達を案内してくれた。眼鏡を掛けていて、凄く姿勢が良くて、家政婦とかメイドというよりも秘書といった方が似合いそうな印象を受ける美人のお姉さんだった。メイド服じゃなかったのはちょっと残念だったけど。
廻谷家のリビングは吹き抜けになっていた。松下さんの案内にしたがって、俺達は螺旋状の階段から二階に上がり、廻谷さんの部屋の前に辿り着く。……子ども部屋なのにドアが両開きって時点でもうすげーよ。
「失礼します。お嬢様、ご学友の藤峰様と上津様がお見えです」
「……どうぞ。開いてるから、入って」
松下さんがドアを開けてくれたので、渚紗に続いておそるおそる室内に足を踏み入れる。
廻谷さんの部屋の中は、とにかく衝撃的だった。
まず広さ。何畳くらいあるのか、ぱっと見では判断できない。だが明らかに俺んちのリビングよりも広い。広いのだが、あまりにも物に溢れているせいで体感的には面積ほど広いとは思えず、むしろなんだかちょっと窮屈感を覚える。
左側の壁一面の本棚が本で埋まっており、その大半は漫画かラノベのようだが、一般小説や技術書、専門書なんかもちらほら見える。
部屋の右側に視線を移すと、パソコンデスクの周辺にシンセサイザーやオーディオインターフェース、スピーカーなどの音楽機器が並んでいた。その中心の椅子がくるりと回転して、座っていた廻谷さんが俺達の方に正面を向ける。
廻谷真鶴さん。ちょっと猫っぽいつり目で、外見はかなり美形の部類に入る……はずなんだけど、今は髪に寝癖がついたまま、上下共にジャージ姿だ。妹に「お兄ちゃんはセミの抜け殻よりファッションセンスがない」と謎の評価を下された俺にだって、この廻谷さんの格好が色気もへったくれもないものだということくらいはわかる。
「……意外。上津くんって、ただのリア充かと思ってた」
言葉とは裏腹に、特に驚いた様子もなく俺を見て言う廻谷さん。
「俺の方が意外だったよ。廻谷さんがこの手の話に詳しいなんて」
驚いたのはそれだけじゃないけどな……。この家の豪華さにも目が眩みそうだ。
「でももっと意外だったのは、藤峰さん」
廻谷さんは渚紗に視線を移し、無表情のままで続ける。
「追い返したのに、次の日にまた来るなんて思わなかった」
「私、昨日言ったでしょ? 明日また来るねって。だから、ほら」
渚紗は、鞄の中から包装紙に包まれたお菓子の箱を取り出した。
「これ、みんなで一緒に食べよ」
「なんだそれ?」
「クッキーだって。昨日の帰り際に松下さんからもらったの。廻谷さんが、『ただ追い返すだけじゃ悪いから』って用意してくれたみたい」
渚紗に微笑みかけられ、廻谷さんはばつが悪そうに目を逸らした。
なるほど。「会いたくはないけど、せっかく来てくれたことには感謝する」ってことだったのかな。変わり者だけど筋は通ってるような印象を受ける。
そしてこれも俺の印象だが、廻谷さんには、俺達が一般的に「不登校」と聞いてイメージするような、切羽詰まった感じが全然しないのだ。ある種の余裕があるというか、追い詰められてこの状態に陥ったわけではなく、自らの意志によって不登校を選択している、みたいな……。
ひょいと椅子から降りてきて俺達の前に座り、リスのようにクッキーをつまみ始める廻谷さん。無言である。
渚紗も無言で俺を見つめる。視線に「お前がなんか話しかけろ」という圧力が込められている。俺は話題を探して部屋を見回し、廻谷さんが今まで座っていたデスクの周辺に目を留めた。
「なぁ廻谷さん、ひょっとしてそれって、パソコンで音楽作ってるのか?」
俺がパソコンと周辺の音楽機器を指差して訪ねると、廻谷さんは頷く。
「へー。今話題になってる……えっと、
「そうそう。シンガロイドな」
シンガロイド――人間に近い歌声を作り出す音声合成ソフトだ。かなりメジャーになったから、渚紗も名前くらいは聞いたことがあったのだろう。
「それだけでもないけど……うん、シンガロイド楽曲も作ってるよ」
「すごーい! ね、なにか聞かせてよ廻谷さん!」
「えー……」
渚紗に迫られるとなぜか嫌そうな顔になり、廻谷さんは俺の方を見た。
「俺も聞きたいな。実際身近に曲作ってる人なんかいないし、気になるよ」
「……わかった」
廻谷さんがパソコンの前に戻り、何やら操作を施し始める。
正直言って、あんまり期待はしていなかった。そもそもこの話題は、廻谷さんと『本題』について話しやすい空気を作る場つなぎの目的で、内容自体に重きを置いていたわけではなかったのだ。
それが、どうだ。
実際にスピーカーから曲が流れ出した瞬間、俺も渚紗も、話題云々の打算を忘れて、一気に演奏自体に引き込まれてしまった。
明るくハイテンポなイントロから、軽快さはそのままに徐々に懐かしさや切なさを醸し出しサビで爆発させるメロディーライン。それをほぼ肉声そのものと言って良いレベルに合成された歌声がまるで情感を込めたように伸びやかに歌い上げる。
伴奏やコーラスも素晴らしく、楽曲全体の完成度はプロレベル――いや、この場合は何を以てプロと言えばいいのか微妙だから、具体的に言えば大手動画投稿サイトで数十万数百万回の再生数を誇るシンガロイド楽曲と比べても全く遜色がないレベルだった。
そのことは、おそらくこういう文化にあまり造詣が深くないであろう渚紗でもわかったらしく、目を丸くして俺の方を見ていた。
「こ、これを……作ったのか!? 廻谷さんが!?」
「うん。これが一番新しいやつ」
「す、すげぇ……。マジですげえよこれ。YOUCUBEとかニマニマ動画とかに投稿したら絶対ヒットするって!」
「もう投稿したよ」
「え!?」
「この曲はまだだけど。今まで何曲か投稿してるし、それなりに有名になった曲もあると思う。……これとか」
無表情のままそう言って、廻谷さんが再生したのは、ニマ動で
「えっ? これ『迷走スタビライザー』だよな? これの作者って、え!? じゃ、じゃあ、まさか人工猫Pって……!」
「そうだよ。わたし」
「……ウッソだろぉ!?」
俺は思わず立ち上がって頭を押さえる。さっきから驚きっぱなしだが、これはもう驚いたなんてモンじゃなかった。
「人工猫ピー? ってなに?」
首を傾げる渚紗に、俺は早口で説明する。興奮のあまり舌がもつれそうだ。
「シンガロイド楽曲の投稿者のこと、シガロPって言って、それを短縮して『P』を投稿者の名前につけて呼ぶんだよ。そんで人工猫Pってのは、有名なシガロPの一人だ。今の『迷走スタビライザー』って代表曲なんか、カラオケ化やCD化、それに小説化まで決まってる大ヒット曲だぜ」
一度聞いたらクセになる中毒性の高いメロディーもさることながら、「ただ生きているだけで周囲に『退屈』を振りまいてしまう少年が、ただ生きているだけで周囲に『混乱』をもたらしてしまう少女と出会って互いに寄り添っていく」という短編小説さながらの物語性溢れる歌詞、及びその世界観を美麗に表現したハイクォリティなMVが人気を博し、楽曲のみに留まらず様々なメディア展開を見せている。
雑誌やニュースサイトなんかでも『シガロ楽曲の新たな可能性』と評された、前代未聞の話題作。
その作者が。
俺のクラスメイトの。
廻谷真鶴さんだったってのかよ……!?
「ほ、ホントなのか? なんか全然、現実感が湧かないんだけど……」
「こんなことで嘘ついてもしょうがないでしょ」
そりゃそうだが……。あまりに突飛な事実に感情が追い付いてこない。
クラスメイトの、それも不登校に陥りかけている女の子が、実は有名人(正確に言うとその中の人)だったなんてさぁ。ハイそうですかって受け入れられるかよ。
「えと……待てよ、確か人工猫Pって、曲だけじゃなくてMVも全部自分で作ってるってことも話題になってたよな。あれって本当なのか?」
「うん」
「小説化に当たっては本人がそれを執筆することになるって聞いたけど、それも本当なのか!?」
「……うん」
「ってことは、曲作りだけじゃなくて、映像や文章の創作までできるのかよ……! やべーよ! 凄すぎるだろ廻谷さん!」
「……別に」
流石に照れたような顔で目を逸らす廻谷さん。
「わたしの頭の中にあるものを形にしようと思ったら、音も文字も映像も全部欲しくなっちゃったから」
「いや、欲しくなっちゃったからって……普通はそれで出来るもんじゃないだろ」
俺だって中学の頃、自分の厨二設定をノートに纏めたり主題歌作ったりしたけどさぁ。そのクオリティといったらもう、『恥』の一文字以外には表現のしようがない。どこに出しても恥ずかしくない廻谷さんの素晴らしい作品とは比べものにもならない。
どうなってんだよ……。廻谷さん十五歳だぞオイ。それどころか、迷走スタビライザーの投稿時はまだ中学生だったはずだ。
確かにイレギュラーだ、この人は。だけどその度合いが凄まじすぎる。高校一年生の女の子としてのイレギュラー、なんて枠には到底収まりきらない――社会全体から見てのイレギュラー。それも、価値としてプラスの方向に突き抜けている。
このレベルに達すると、イレギュラーはそれ自体を中心に新たな価値領域を生み出してしまう。それは最早、『
社会規模で代わりがいない希少価値。彼女のような存在を、人は、天才と呼ぶのだろう。
「……それで。二人は何しに来たの?」
廻谷さんの声で、はっと俺は我に返った。
気づけば渚紗も廻谷さんに見えない角度で俺を睨み付けている。
そ、そうだ。興奮してる場合じゃない。俺達の目的は、廻谷さんから不登校の理由を訊き、それを解決して彼女に学校へ来てもらうこと。渚紗はそのために俺を頼ってくれたんだから、期待に応えなければ――。
いや、だけど。
「あー、えっと……。まぁ、クラス委員の俺達が訪ねてきたって辺りで多分予想ついてると思うけどさ。最近廻谷さん、学校休んでるじゃん?」
このとき俺は、思いがけず知ることになった廻谷さんの逸脱ぶりについて、完全に圧倒されてしまっていた。ゆえに、彼女へ登校を促す役割の者としては、抱くべきではない想いが胸の内に膨らみつつあった。
それは。
廻谷さんに、敢えて朱礼舞高校に通う必要があるのか……という疑問だ。
「できれば、また学校来て欲しいなって、さ」
俺の言葉を受けて、廻谷さんはじっと目を見つめ返してきた。俺は、今の言葉が百パーセント本心からのものではないという自覚による後ろめたさで、思わず目を逸らしてしまった。
見逃さなかった渚紗がすかさずフォローに入る。
「無理強いはしないよ。でも、なにか学校に来たくない理由があるんだったら、よければ教えて欲しいな。私達が、力になれるかもしれないし」
廻谷さんは、つまらなそうに溜息をつき、背もたれに小さな体を預けた。
「質問に質問で返すのはよくないことかもしれないけれど、せっかくだから、逆に教えて欲しい。上津くんと藤峰さんは、どうして学校に通ってるの? どうしてわたしも学校に通った方がいいと思うの? ……この質問に、わたしが納得できる答えを返してくれたら、学校、行ってもいいよ」
無表情ながらも、その声にはどこか挑むような響きがある。
しかし、廻谷さんからの
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