第3話 10.

「な、なあ渚紗……本当に俺の部屋に来るつもりなのか?」

「そんなに荒い息でそんなことを確認されると行きたくなくなるわ」

「ああああ荒くねえよ! ただ、一人暮らしの男子の家にあがるのって、こ、怖くねえのか? いや、別に俺は何もする気ないけど! 全然マジでホント、必要以上にお前の匂いを嗅がないようにできるだけ呼吸だってしないし!」

「そういう発想が出て来る時点でもう危ないわね……」

「い、いや冗談抜き本当に何もしないけど。でもほら、お前の心情的にな? 大丈夫なのかなってさ……」

「平気よ。日本は私の味方だから」

「後ろ盾が強大すぎる……!」

 どういう立場なんだよお前は。国家クラスの要人か?

 そんなやり取りをしているうちにアパートに着いてしまった。っていうか渚紗の足取りに迷いがなさ過ぎて俺の方がちょっと怖かった。

 住所を把握されてるのは知ってたけど、実際に来たことは一度もないはずですよね? なんでそんなバッチリ道順まで覚えてるの?

 家賃格安の二階建てボロアパート。その205号室が俺の部屋だ(渚紗は部屋番号まで覚えてやがった)。

「さて、鍵はどのポケットかしら?」

「しゃ、シャツの胸ポケットに……あっ、ひゃ、やんっ」

 おもむろに胸ポケットをまさぐられて変な気持ちになっていると、荷物で両手が塞がっている俺の代わりに渚紗が部屋の鍵を開けてくれた。

「お邪魔します」

「ど、どうぞ」

 渚紗はちゃんと靴を揃えてから部屋に上がった。こういうとこ律儀だな……。

「へぇ。意外に綺麗にしてるじゃない」

「ま……まあな……」

 綺麗にしてるって言うか、まだこの部屋に住み始めて一ヶ月しか経ってないんだから汚くする余地がないってだけなんだけど。

 六畳1K俺の部屋は、キッチン部分を除けば多分実家通いの男子高校生の平均的自室とあまり変わらないと思う。家具はベッド、勉強机、テレビ、本棚、テーブルくらいしかない。というかこれ以上は入らない。

「さて……と」

 渚紗はバッグを下ろし、上着を脱ぐと、そのまま何の迷いもなくその場に伏せてベッドの下に腕を伸ばし、俺の性なる聖域を容赦なく荒らし始めた。

「ちょちょちょちょちょなにしとんねーん!!」

 思わず若手芸人みたいなノリでツッコミをいれ、渚紗の恐るべき蹂躙をやめさせようとするが……い、いやどうすればいいんだこれ!?

 渚紗は俺の方にお尻を突き出すような姿勢で四つん這いになっている。スカートだったら絶対にパンツが見えている(残念なことに渚紗はタイトなデニムレギンスだったけどそれはそれで形のいいお尻の輪郭がはっきり見えたので嬉しかったです)、そんな体勢で両腕を根元からベッドの奥に突っ込んでいるので、こう……ほら、渚紗の体は、「恋人でもない男子が触ってもいい部分」が全くなくなっているのだ。ある意味対男子絶対防御態勢と言っていい。

 要するにどこも触れねえんだよ! 基本男子の女子可触領域は腕と肩しかねえんだから! 

 胸やお尻は勿論ダメ、お腹もダメ、足は、まあ……いややっぱダメ! 女の子の足掴んで引き摺るとかできないから!

 ベッドの下から絶え間なく「ウフフフフフフ……」と笑いが漏れていることから考えて、渚紗はおそらく確信犯的だ。俺に何の手出しもできないことを知ってわざと焦らしてやがる。

「お……お願い! やめて! やめてください! お、大声出しますよ!?」

「男性側の台詞とは思えないわね……」

 半泣きで訴える俺を哀れに思ったのか、やっと渚紗がベッドから這い出した。

「まあいいわ。今日は見逃してあげましょう。次回はちゃんと用意しておくのよ」

「何をだよ! つーかなんでお前は真っ先にサルベージに向かったんだよ! ベッドの下にあるってことは隠してあるってことなの! そういう本なの!」

「だから見たいんじゃない。あなたの性癖がわかるかもしれないでしょう」

「わかられてたまるかぁあぁああ!」

 いや、別に俺は異常性癖じゃないけど。健全だけど。健全すぎて退かれるレベルだからだめなの。

「今五時半ね。丁度いい時間だし、早速作るわ。三十分くらいでできると思うから、宿題でもして待っていて」

「あ、ああ……」

 キッチンに移動して手際よく夕食の準備を始める渚紗。

 髪を後ろに束ねたり、手を洗ったり、野菜を袋から取り出したり……そういう何気ない仕草の一つ一つに「女の子っぽさ」を感じて、なんだかすごくどきどきした。

 本当に渚紗は何をやらせても様になる。キッチンの隅で美しい所作を舐め回すように見ていたら、「気持ち悪くて邪魔で気持ち悪いわ」と追い出されてしまった。仕方ないので、言われた通り勉強机に向かう。

 リズミカルに包丁がまな板を叩く音をペースメーカーに、二次方程式の解を求める。

 パスタを茹でるお湯の沸騰をBGMに「effect」の意味と綴りを頭に入れる。

 熱したフライパンに肉汁が弾ける情景を思い浮かべながら、遥か平安の空に思い人への歌を詠んだ歌人の感性を読み解いていく……。

 うん。

 集中出来るわけねえだろうがァ!!

 今俺の背中の後ろで美少女が俺のために手料理を作ってくれてるんすよ!? 美味しそうな音と匂いが漂ってくるんすよ!? この状況で宿題とか何の精神修行だよ! 危うくeffectのf二つをr一つに置き換えて覚えちゃいそうだよ!

「怜助くん、できたわよ」

「はい、ごめんなさい!」

 反射的に謝ってしまった俺に不審そうな顔をしながらも、渚紗は出来上がった料理をテーブルに持ってきてくれた。

「アスパラとベーコンのトマトペンネ、オレンジソースのチキンソテー、あとは付け合わせに余った野菜と玉ねぎのサラダよ」

「っ……す、すげぇ……!」

 思わず言葉に詰まる。なんだこの圧倒的なおしゃれ感。

 アスパラとベーコンのトマトペンネ……名前からして、あのマカロニみたいなパスタはペンネというらしい。トマトの香りがしてすげーうまそう。

 オレンジソースってなんだ。どういう発想だ。オレンジなんてちょっと食べづらいミカンであって、ソースにして鶏にかけるようなもんじゃないだろうに。でもなんか甘酸っぱい香りがすげーうまそう。

 ……料理知識と語彙の低さに我ながら悲しくなる。アホみたいなことしか言えてねぇ。だってこんなおしゃれな料理、料理漫画でしかみたことねえもん。

 とにかくすげーうまそうなんだよ!

「……ちょっと怜助くん、何をしているの」

「へ? 何って……」

 渚紗が何を指摘したのか、一瞬本気でわからなかった。俺は普通にテーブルに料理を並べていただけだ。俺の分と渚紗の分を、向かい合わせに。

「その並べ方では、ほら」

 と渚紗は部屋の中を探るように見回してから、少し言いにくそうに、

「……テレビが、見えないでしょう」

 テレビ? ああ、確かに、今の方向でテーブルに二人が向かい合わせになったら、一人は完全に背中を向けることになるし、もう一人は正面が塞がって、二人ともテレビは見えないな。

「お前、何かそんなに見たい番組あるの?」

「……そうよ。この時間にテレビを見たかったからここに来たと言っても過言ではないわ」

「そ、そうなんだ」

 家が遠いからか。帰ると間に合わなかったのか。

「なら横に向かい合うか? それなら見えるだろ」

「ダメね。首が疲れるわ」

「わがままだなぁ……」

 じゃあどうしろって言うんだよ、と俺が訊く前に、渚紗はささっと二人前の料理をテレビの正面になるテーブルの一辺に横に並べ、その前に座った。

 左隣に不自然なスペースを空けて。

「……渚紗、これ」

「うるさい。つべこべ言わずにさっさと座りなさい」

 ……仕方ないので、渚紗の左に隣り合って座る。

 狭い。元々一辺に一人と想定された小さな四角テーブルなので、無理矢理二人が並べば窮屈に決まっている。それでも俺は、互いの体が接触しないようにやや遠慮がちに渚紗から離れて座ったのだが、渚紗はノータイムでその距離を詰めてきた。互いの肘がぶつかるぎりぎりまで。お陰で俺のスペースはテーブルの三割くらいしかなくなった。

「……いや、ちょっと渚紗」

「うるさい。いただきますだけ言ってさっさと食べなさい」

「そうじゃなくて」

「なによ。男のくせに文句ばかり言わないで。狭いのは私も同じなのよ」

「や、だから。……テレビ見なくていいのか?」

 リモコンを差し出しながら言うと、渚紗はあからさまに「しまった」という顔で、既にかなり赤かった頬を真紅と呼べるレベルにまで色濃くして俺の手からリモコンをひったくり、急いでテレビの電源を入れた。

 見たことのない冒険モノっぽい洋画をやっていた。主人公らしき一行が実にアメリケンなジョークを飛ばし合いながら広大な砂漠を歩いている。

「こ、これが見たかったのか?」

「そうよ。……あ、アクション映画を見ながら食べる夕食の味は格別よ」

 ホントかよそれ……?

 まあとにかく冷める前に頂こうと思って、俺が手を合わせて「いただきます」をすると、そのタイミングで砂漠の中から大量のミイラが現れ、主人公達に襲いかかった。

 眼窩はえぐれ皮膚は爛れた亡者の大群が喉元から何かの幼虫をボロボロ零しながらこの世のモノとは思えない不気味な声を発し主人公達に群がって砂の下に引きずり込もうと――その前に渚紗が素早くリモコン手に取ってボタンを押し、料理番組にチャンネルを変えた。

「…………」

 俺のジト目から逃れるように、露骨に目を逸らして俯く渚紗。

「……ご、ごめんなさい」

 素直に謝った。うん、そうだよな。ミイラをおかずにご飯食える女子高生は流石にないと思うわ。

 しかし渚紗は一体何考えてるんだ……? さっきから変だぞこいつ。妙な口実をつけてまで横並びになろうとしたのはなんでなんだ?

「ちょっと。いい加減、食べてよ」

「あ、ああ悪い」

 ムスッとした顔で促され、俺はフォークでペンネをアスパラもろとも突き刺し、トマトソースと粉チーズを絡めて口に入れた。

「うまっ! なんだこれ! 手作りでこんなうまいもんできるのか!?」

 その瞬間、ぱぁっとまさに花咲くように渚紗が満開の笑顔になった。が、すぐに無理矢理その表情を引っ込めて女王様めいた微笑を貼り付ける。

「そう。この味がわかるの。良かったわね、あなたの舌だけは人権が認められるわ」

「本体は人権ないの!?」

「ほら、次はそっちのオレンジソースを食べなさい」

「あ、ああ」

 言われるがまま、こんがり焼けた鶏もも肉をナイフで切り分け、鮮やかなオレンジ色(まさにオレンジ使ってるんだから当たり前だけど)のソースをつけて一口頂く。

「……うん。こっちもすげぇ」

 ペンネの方は、トマトソースがどんなものか知ってるから大体味の予想はできたけど、このオレンジソースは完全に新体験、そして予想と期待を更に上回るおいしさだった。

 確かにオレンジの味はする。だけどその適度な甘さと酸味がより肉の味を引き立てるというか、うんまあそんな感じ。

「なんか、どっちの料理もさっぱりしてて食べやすいな。女子に人気そうだ」

「……ならあなたも女子になる?」

「えっちょっと何その手つき何を引き千切る気? べ、別に女子にもウケそうだって思っただけで、俺は俺で男のままですげーうまいと思ってるからな?」

「そう。命拾いしたわね」

 だから怖いって……。本当にもう、ちょっとしたことで機嫌損ねるんだから。

「今日はお昼にお好み焼きとか焼きそばとか、味の濃いものを食べたから。バランスを取って夕食はさっぱり系にしたのよ」

「なるほど、流石だな渚紗。マジでびっくりするくらいうまいよ」

「……本当に、そんなにおいしい?」

「ああ」

「……良かった。足りなかったら私の分もあげるから、いっぱい食べて」

 不意に、裏の渚紗らしからぬ、母性と優しさに満ちた素の微笑みを向けられて、瞬時に胸の奥を鷲掴みにされる。

 ……くそっ、そういうのやめろよ。ギャップがやばいんだって。我慢できなくなったらどうしてくれる。

 渚紗は料理を褒められて大変ご機嫌な様子で、食事中何度も何度も俺に感想を求めてきた。こっちばっか見てテレビなんか全然見てねえ。せめてポーズくらい取って、少しは俺から目を離してくれって。こっちはお前が可愛すぎて顔まともに見れねえんだから。あと凄く狭いんだけど。なんで更に寄ってこようとするの。


「……ごちそうさまでした」

 居心地の悪い天国のような食事が終わるころには、渚紗の口数は大分減っていた。

 というか目に見えて大人しくなっていた。

 今はまるで借りてきた猫のようである。普段は自前の猫を被っているくせに一体どうした。

 テーブルの上の食器は全部空になっていて、これ以上ないほど理想的な「ごちそうさま」を体現しているのに、渚紗は食べ終わった後もテーブルに着いたまま動こうとせず、また俺の袖の端をきゅっと掴んで俺が動くことも許してくれない。

「……あの? 渚紗さん?」

 呼びかけても返答がない。ぼーっとしたような視線を正面に向けて、ただ黙っているだけだ。

 ひょっとしてテレビを見ているのかな、ようやく集中し始めたのかな、と思ったら、渚紗はブツンとテレビの電源を切った。おいおい。

 部屋に静寂が訪れる。薄い壁の向こうから微かに聞こえる、隣人がつけたテレビの音が、自分の鼓動と同じくらいに大きく聞こえていた。

 じぃっと、いつのまにか渚紗が、少し濡れたような瞳で俺を見つめていることに気づく。

 ……いや、どうしろと。俺に何を求めているんだ。

 何を言うべきかしばらく迷って、結局纏まらないままとりあえず名前だけ呼んでみようと口を開き掛けたとき、

「渚――」

 こてん、と。

 渚紗の頭が、俺の肩の上に倒れた。頭だけじゃない。右半身に、柔らかい圧力が少しずつのしかかってくる。

 女の子に寄りかかられている。俺の人生において女子との接触面積最多記録が一気に、大幅に更新された。

 渚紗の体は軽い。華奢で、でも柔らかくて、触れている部分からじんわりと体温が伝わってくる。その感触と温もりを味わおうと、全身の神経細胞が全て右半身に集中しているような気がした。神経単位でスケベか俺は。

 さらさらの黒髪が文字通り目と鼻の先に見え、滑らかに光を弾いて天使の輪を形作っている。シャンプーと……多分それだけではない、「女の子の香り」としか表現できない芳香が、鼻どころか心の深奥までダイレクトに届いてくすぐってくる。

 理性を。

 メチャクチャに掻き乱して来やがる。

 渚紗が、ゆっくりと。

 俺の指に自分の指を絡めようとして――

「っ……あ、洗い物! 俺、やってくる!」

 全身を這い上がる甘いの誘惑に雁字搦めにされる直前、邪念を断ち切るため、俺は叫び声をあげるように宣言して唐突に立ち上がった。

 そのショックで渚紗も少し我に返ったらしく、慌てた様子で俺に続こうとする。

「あ……わ、私も」

「いや、お前は休んでてくれ。作るの全部任せちゃってたんだから、片付けくらい俺がやるよ」

 半ば強引に渚紗の申し出を退け、俺は一人で食器をキッチンに運んだ。

 危ない危ない……。危うくリミットブレイクするところだった。

 いや、つーか、危ないのは渚紗だよ。何のつもりだあいつ、あんな無防備な態度……その辺の男子だったら即座に化身して襲いかかってたぞ。俺が類い希なる紳士だから辛うじて持ちこたえてるんだ。ヘタレとか言わない。

 ……だけど、渚紗はバカじゃない。冗談でも密室で男と二人っきりの時にあんなことしたらマズイって、わからないわけがないじゃんか。

 それなのに、それをしたってことは。

 …………。

 や、やめよう。考えるのを。そして渚紗には今日はもう帰ってもらおう。うん。

 水の冷たさを指先に感じながら無心に洗い物をしている内に、自然と心は落ち着き頭は冷えていった。よし。食器やフライパン、鍋を全部片付け終えた俺は、まさに賢者のように澄み切った心を携えてキッチンを出た。

「じゃあ渚紗、今日はそろそろ――」

 お開きにしようぜ、と言いかけて、渚紗が俺のベッドの上に寝転んでいる姿を見て驚き、そして俺のベッド上に寝転がりながらベッドの下にあったはずの本を開いている姿に超驚いた。

「うぎゃぁあああぁああぁぁ――――!!! お、お前何見てんだあああぁあ!」

 ベッドから立ち上がって俺の手をひらりとかわし、渚紗は赤い顔でニヤニヤと笑う。

「いいじゃない。大丈夫よ、私、こういうことについては理解が深いから。男の子はそういうものだってわかってるから」

「そういう問題じゃねーんだよ! とっとにかく返せ!」

「怜助くんの好みってよくわからないわね。一通り吟味してみたけれど、ジャンルが多岐に渡りすぎていて特定の性癖をあぶり出すことができなかったわ」

「一通り吟味してんじゃねえええええええ!!」

 テーブルを中心にぐるぐる回って逃げる渚紗と追いかける俺。漫画のようなアホらしい追いかけっこを二週ほど繰り返し、ついに追い付いた俺は全身で渚紗に飛びかかった。

「よ、よし……」

 手の中にしっかりと本の感触。俺は性書の奪還に成功したのだ。だが――目の前に渚紗が息を呑んだ微かな音で、俺は今自分達がとんでもない体勢に陥っていることに気づく。

 俺が飛びかかった衝撃で渚紗はベッドに倒れ込み、そして俺はその上から渚紗に覆い被さっていたのだ。

 マウントポジション。ベッドの上で。

 密室に。若い男女が。二人きりで。

 俺は――ヤバイ、早くどかなきゃという冷静な声を、頭のものすごく片隅の方に押しやって聞いていた。

 熱に浮かされたような、渚紗の赤い顔。潤んだ瞳。熱い吐息。少し乱れた髪。

 それら全ての要素が、抗いがたい欲望の炎に次から次へと燃料を投下する。

「ねえ、怜助くん――」

 は、と渚紗の声で少しだけ意識が前方に戻ってくる。

 危ない。良かった。ブレーキを踏んでくれた。

 そう思ったのに。

 渚紗は、細い指先を伸ばして俺の頬に触れ、俺の目をじっと見つめて、少しだけ切なげな響きを込めて、言う。

「怜助くんは、本に出て来る女の子の方が、いいの……?」

 ――アクセルを、踏み抜きやがった。

 もう駄目だ。もう無理だ。

 たった一つの感情が、暴力的に、破壊的なまでに意識の全てを塗りつぶしていく。

 俺は渚紗の後頭部に手を回し、少し彼女の頭を持ち上げて――渚紗はすっと目を瞑り、何の抵抗もせずにされるがままになっている――そして、

 互いの唇を、



 けたたましい音量が部屋中の空気を震わせた。



「……あ」

 電話だ。俺の携帯がカラフルな光を明滅させながら、機械的な着信音を鳴り響かせている。

 一気に現実に引き戻された俺は、俺達は、弾かれるように互いから離れ、そして俺は電話を取った。発信者を確認する余裕もなく縋るように通話ボタンを押す。

「あ、も、もしもし」

「うわ。出た」

 妹の声だった。いや、確かに出たけれども。なんで自分が掛けた電話に相手が出てそんな嫌そうな反応するの。

「……何の用だよ」

「お兄ちゃん? 確か明日帰ってくるんだよね? ん、明後日だっけ? それともゴールデンウィークは帰って来ないんだっけ? いや、……あれ、待って。

 そういえば。

 ……あたしに、お兄ちゃんなんか――いたっけ?」

「どんなレベルで曖昧なんだよ! 怖えこと言うな!」

「で、何時頃帰ってくるの?」

「……昼前には帰るよ。昼飯用意しといてくれ」

「はーい。……おかーさーん! ホウ酸ってまだ残ってたっけー?」

「オイお前は実の兄に何団子を食わせる気だァ!?」

 通話は既に切れていた。くそ、あのアマ……。ゴキブリと電話してたつもりかよ。

 溜息をついて携帯をしまうと、いつの間にかしっかり帰り支度を整えた渚紗の姿が目に入った。

「そろそろ、帰らせてもらうわ。お邪魔したわね」

「あ、ああ……」

 渚紗の頬はまだ若干紅潮しているが、それでもかなり正気を取り戻したらしい。さっきまでの雰囲気などなかったことのように、できる限りの平静さを取り繕おうとしている。……まあそれが俺にバレている時点で完璧に取り繕えてはいないんだけど。

「じゃあ、連休明け、また学校で会いましょう。さようなら」

「おう。……あ、待ってくれ、一応駅までは送るよ」

 俺はそそくさと出て行こうとする渚紗を玄関で呼び止める。

 時刻は既に十九時を回っていて、外は真っ暗だ。自分の家に呼んだ(押しかけられたとはいえ)女の子を一人で帰すのは気が引ける。

 しかし渚紗は、こちらに背を向けたまま振り向きもせず、「結構よ」ときっぱり拒絶を示した。

「え……いや、でも、一人じゃ危ないぜ」

「この時間ならまだ外は人通りも多いし、駅はすぐそこじゃない。必要ないわ」

「だ、だけど……」

 そんなに頑なに拒まなくても、と少し凹みながらも、俺も半ば意地になって譲らない。

「やっぱ送るって。俺がそうしたいんだ」

「いいから!」

 予想以上の強い口調に、俺は僅かに怯む。

「あなたの気持ちはわかったから、だからやめて」

 そう言って、何かを堪えるように微かに震える両腕を交差させて自身の体を抑え、顔だけをこちらに向けた渚紗の表情は――。

 その。

 なんて言ったらいいのか。

 ひたすらに、ああ、これはだめだ、直視したら、まずい、という感想しか浮かんでこないような。

「せっかく、我慢したのに。これ以上一緒にいたら、もう、本当にまずいの。……わかるでしょう?」

 無言で硬直する俺に、小さく「じゃあ」と残して、渚紗は早歩きで駅の方へ去って行った。

 ……とりあえず、俺は、玄関を閉めて部屋に戻り、そのままベッドに頭から潜って布団をひっかぶり、

 

 謎の衝動に駆られるまま一人で叫んだ。

 隣人から壁ドンが来るまで叫び続けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る