第3話 5.
「浴衣」。
もうその字面だけでただならぬ色気を醸し出している。俺ほどに熟練した紳士ともなれば「浴」という漢字単体ですらいやらしい意味にしか捉えられず、そこに「衣」が組み合わさればもう「浴=エロ」「衣=い」という脳トレ的柔軟発想によって「浴衣=エロい」という確定解を導き出すことに一切の遅疑逡巡もない。
とにかく何が言いたいかというと、浴衣最高。そして浴衣を着た渚紗と桜木さん超最高。
桜木さんが浴衣を着ての宣伝を承諾した後、桜木さんと渚紗は一旦桜木さんの家(つまり『てつぢん』本店)に行って浴衣に着替えてくることになった。
この駅前商店街からてつぢん本店までは片道徒歩十分ほど。単に往復するだけでも二十分かかる。
仲良く連れ立っていった二人を待つ時間の長かったことと言ったら――しかし四十分後、待ちに待ったその瞬間が訪れる。
「ごめんなさい。お待たせしました」
祭りの喧噪の中から、人々の視線を否応なしに惹き付けて現れる――二人の天使。
渚紗の浴衣は、爽やかな水色をベースに白い蝶柄の模様をあしらった、清涼感溢れるデザイン。薄紫の帯が主張しすぎない程度に淑やかさを添えている。後ろで一つに纏めた長い黒髪に清純そうな容姿の渚紗と浴衣との相性は抜群で、絵に描いたような大和撫子の姿がそこにはあった。
続いて桜木さん。薄い桃色の地に鮮やかな色とりどりの花びらを散らし、濃い牡丹色の帯で締めた華やかな浴衣だ。その華々しさが桜木さんの小動物的な可憐さに拍車を掛け、見ているだけでなんかもう暴力的なまでの庇護欲という矛盾した感情に駆り立てられるほど。全力で守りたくてたまらなくなる。
ああ……。
もう教科書になんか生まれ変われなくていい。俺の幸せは今世に、この瞬間にあったのだ。
「ふふ。どう、怜助くん?」
渚紗が悪戯っぽく微笑んで、その場で華麗に一回転して見せた。遠心力でふわっと浴衣の袖や裾が浮き上がり、その隙間から渚紗の白くて綺麗な素足がちらりと覗く。
「何か言うこと、ない?」
「もう思い残すことはありません」
「ちょっ……そ、そこまでは望んでなかったんだけど。あれ、怜助くん? なんで泣いてるの?」
似合う、なんて言葉で足りるわけがない。渚紗の美しさはとっくに言語で表現できる限界を超えている。それを敢えて表そうとするならばこちらも命を懸けるしかないだろう。
渚紗と親しげに話していることで早くも俺は周囲の男達からの殺意を集めていたが……悪いが今は負ける気がしないな。
いいぜ、来るなら来いよお前ら。嫉妬なんて捨ててかかってこい。
「ちょっと。お客さんにガン飛ばさないで上津くん」
「あ、すんません」
瑞穂さんに怒られてしまった。そうだ、渚紗と桜木さんのの浴衣姿はあくまで宣伝という目的あってのもの。俺が二人の前に陣取って道行く男達に「何見てんだゴルァ!」とかやってたら営業妨害にもほどがある。
そんなわけで。
俺は洗い物とか水汲みとかの雑用兼経理に回された。
「いらっしゃいませー! お昼ご飯に、『てつぢん』のお好み焼きはいかがですか?」
「い……いら、いらっしゃい……ませ……」
案の定というか、渚紗は誰もが見とれざるを得ないニコニコ笑顔で、凄く堂々とそつなく仕事をこなしていた。対して桜木さんは、真っ赤な顔で縮こまるように俯いて、もう浴衣を着て立っているだけでも恥ずかしいということを全身で訴えてしまっている。
それでも集客効果は大したもので、てつぢんのお好み焼きは飛ぶように売れていった。渚紗は特に男性客に人気で、桜木さんは老若男女を問わず可愛がられていたようだ。
そんな中、明らかにナンパ目的で渚紗に近づいて来た見るからにチャラい男達も勿論いたのだが。
「ねぇ、君スッゲー可愛いね。良かったら後で俺達と一緒に回んねぇ?」
「お誘いありがとうございます。でもごめんなさい。私、彼と一緒に来てるんです」
そう言って、渚紗は屋台の中にいた俺の方に少しだけ視線を向けて微笑んだ。
そのときの優越感と言ったらまぁ。
それにしても、マジで演技派すぎるぜ渚紗。これが偽の恋人関係だって一番身に染みてる俺ですら「あれ? 俺達って本当にラブラブなんじゃね?」って錯覚に陥りそうなくらい。
可愛いは詐欺って、それ完全に渚紗自身のことだろ。
だけど、あいつ、なんであんなに完璧に「彼女」を演じられるんだろうか。今まで彼氏ができたこと無かったって言ってたし、経験がないなら一体何をあのリアリティの元にしているんだろう?
家でドラマとか見て練習してんのかな。もしそうだったらちょっと可愛いな。
そんなこんなで、二人が客引きを始めてから一時間。
丁度お昼時に被ったせいか目が回りそうな忙しさで、瑞穂さんは嬉しい悲鳴を上げていたが、ようやく客足も落ち着いてきたのでそろそろ休憩を取ろうということになった。
「いやーホントありがとね。渚紗ちゃんも、上津くんも。せっかくのデートだってのにこんなに手伝ってもらっちゃってさ。こりゃバイト代弾んであげなきゃ」
「そんな! お金なんていただけませんよ。好きでやらせてもらっただけですし、私達も楽しかったですし。ね、怜助くん」
「ええ、当然です。……お金よりずっと価値あるものを、もう既に頂いていますから」
俺はキメ顔でそう言った。が、
「あはは。上津くんはカッコイイ台詞を台無しにする才能に溢れてるわね」
「えっ」
「ありがと。でもせめてご馳走くらいはさせて。っていっても、お好み焼きだけどね」
そういえば、俺達はまだ昼飯を食べてなかったっけ。せっかくなので瑞穂さんの厚意に甘え、特製のお好み焼きを焼いてもらってみんなで一緒に食べることになった。
「おいしー! さすが専門店の味ですね。これなら人気なのも頷けます」
ご機嫌な様子でお好み焼きを頬張る渚紗。多少の表ブーストが掛かったテンションだろうけど、評価の内容は本心だろう。実際、屋台のお好み焼きとは思えないほどのおいしさだった。なんだろう、ソースが違うのかな。
「お褒めいただき光栄です。でも、こんなに売れたのは味だけが理由じゃないと思うわ」
瑞穂さんの言葉に、俺は頷く。
「確かに味もおいしいけど、やっぱり宣伝の効果も大きかったでしょうね。二人とも凄く似合ってたから」
「あ。怜助くん、やっと普通に似合ってるって言ってくれた」
ふふふ、と渚紗は嬉しそうに笑ってこちらを見ている。
確かツンデレって、元々の意味は「みんながいるところだとツンツン、でも二人きりだとデレデレ」だったはずだよね?
真逆じゃねーか渚紗ちゃん。なんだコレ。この超破壊力のデレのあとに絶対零度のツンが待ち受けているかと思うと、可愛さ余って悲しさ100倍だよ。
ところが、傍から見れば楽しそうにやり取りをする俺と渚紗の隣で、桜木さんはしょんぼりと肩を落としていた。
「桃ちゃん? どうしたの?」
「私……結局、ほとんどまともに宣伝なんてできませんでした……」
「そんなことなかっただろ。お年寄りから子どもから大きいお友達まで、みんなに大人気だったじゃないか」
「そうそう。ほら、優しそうなおばあさんにリンゴ飴もらったりしてたじゃない」
「お客さんからリンゴ飴をもらう客引きなんて……」
……うん、あのおばあさん、「小さいのに偉いねぇ。はい、コレあげるからがんばって」って言ってたもんな。
桜木さんの集客効果は確かに凄かったけど、実際はただ立っているだけで精一杯って感じだったというか、桜木さんの方から積極的にお客さんを呼び込むことはできていなかった。それどころか、話しかけられてもずっとおどおどしっぱなしだったし。
まぁ、普通に人と話すだけでも苦手だって子を、半ば強制的に浴衣で人前に立たせたワケだから、それに一時間耐えただけでもよくがんばったと褒めてあげたい(というか愛でたい。頭なでなでしたりお菓子あげたりしたい)ところではあるが。
どうやら本人は、自分の働きぶりに納得できていないようだ。隣に渚紗という、ハイレベルすぎるお手本がいたことも影響しているのだろう。
「また少しずつ慣れていけば良いよ。ひとまず今日はさ、ちゃんと挑戦できたこと自体が一歩前進だったんじゃない?」
「渚ちゃん……」
瞳をうるうるさせて渚紗と見つめ合う桜木さん。背景に花びらを散らしたくなるような、向かい合う二人の可憐な少女。
なんと絵になる光景だろう。絵っていうか俺の写真になる。こっそり撮るタイプの。
というわけで、俺がこっそり携帯のカメラを起動して二人に向けようとしたとき、ふと渚紗がこっちを向いた。
あ、やばい。
「す、すみませんでし――」
「カナ!」
渚紗の視線と声は、反射的に下げていた俺の頭の上を通過していく。
つられて振り返ると、そこには。
「渚紗、モモ! それに上津くんも。え、あんたら何してんの?」
うちのクラスでも、特に渚紗と仲の良い一人――高山佳奈子さんが、クレープを片手にこちらに歩いてきていた。
「あ、高山さん」
「カナもお祭り来てたんだ!」
「まーね。スズもユイも部活の合宿いっちゃってるし、どっかの薄情者は甘酸っぱい顔で『予定があるから』とか言ってたしー? しょうがないから一人で寂しく遊びに来たってわけ」
ニヤニヤしながら、これ見よがしに俺と渚紗の間で視線を往復させる高山さん。……こうやって正面からよく見ると、ちょっと覗いている八重歯に愛嬌があるせいか、意地悪っぽい表情が可愛いなぁこの子。
ニーソックスにショートパンツ、白いシャツに黒のジャンパーというボーイッシュながらも女の子らしい可愛さを備えたファッション。短めの髪におしゃれなキャスケットがよく似合っている。
「ってか、二人ともなんで浴衣? 可愛いじゃん」
「そうでしょ。モモちゃん可愛いよね~。思わず脱がせたくなっちゃうくらい」
「へっ……!? そ、そそそんな、私……」
顔を赤くしつつも、まんざらでもなさそうな様子の桜木さん。たまんねぇぜ。誰か渚紗が桜木さんの帯引っ張ってくるくるさせちゃう薄い本早く。
「モモちゃんの実家のお好み焼き屋さんがここで屋台を出してるの。その宣伝を手伝わせてもらったんだ」
「へー。ホントだ、この屋台『てつぢん』って書いてある。……あ、ども」
屋台の中の瑞穂さんと目が合って会釈する高山さん。互いの自己紹介の後、「じゃ、せっかくなんで一つお願いします」と高山さんがお好み焼きを注文した。
「はいよ。桃香の友達ってことで、100円サービスしてあげる」
「やった! ありがとうございます、お姉さん」
お好み焼きが焼き上がるまでの間、ガールズトークを繰り広げる三人を微笑ましい気持ちで見守っていると、
「桃香、学校でちゃんと楽しくやれてるみたいね」
と瑞穂さんが巧みにヘラを操りながら話しかけてきた。
「実はちょっと心配だったんだけど。友達ちゃんとできるかなってさ。高校生にもなる妹に過保護すぎたかな?」
「いえ……でも、大丈夫ですよ。渚紗がいますから」
渚紗達と楽しそうに話す桜木さんの様子に、その確信を抱きながら俺は言った。
「あいつがいる限り、うちのクラスで寂しい思いをする生徒は出ません」
「そーいうこと、ちゃんと本人の前で言ってあげてる?」
「……た、たまに」
二人きりだといつも罵られてばっかりであんまり機会がないけどね。
「そ。それなら――」
「あれぇー!? ひょっとして藤峰ぇ?」
唐突に、耳慣れない女子の、それもかなり大きな声がして、俺も瑞穂さんもそちらに視線を吸い込まれた。
というか、多分近くにいたほとんどの人の注意が一斉に集まったんじゃないだろうか。それくらいに――なんというか、派手な集団だった。
おそらく高校生くらいの、五人連れ。男二人に女三人。
見た瞬間に雰囲気だけで、俺があまり得意じゃない人種だとわかった。
リア充……それも、周囲に対して高圧的なタイプの。いわゆるスクールカーストの最上位に位置する奴らだろう。
その中でも特に目を惹くのが、外見だけで既にハンパないオーラを放っている金髪長身のイケメンと、集団の中心にまるで女王のように君臨する、茶髪巻き毛でやたら露出度の高い女子。胸元なんかもう男子を引き寄せる撒き餌みたいにおっ広げてあって、目のやり場には困らない(誤用ではなく)。
そして、どうやら今し方大声で渚紗の名を呼んだのも、この女子であるようだった。おいおいさっきから渚紗大人気じゃねーか。一応ここが祭りの場とはいえ、こんなに立て続けに知り合いと遭遇するなんて、偶然と言うよりも渚紗の人脈の広さが原因だろうか。
渚紗がこの人達とどういう関係なのかはわからないけど、うちの学校の生徒じゃなさそうだから、学外の友達か?
そんなことを思いつつ渚紗の反応を窺ってみると。
……明らかに、様子が普通ではなくなっていた。
というか異常だ。顔色が青ざめ、切羽詰まった、どころか絶望的とさえ言えるような表情で、その集団を見つめたまま固まっている。
こんな渚紗は初めて見た。俺は驚いて、渚紗に声を掛けることすら躊躇ってしまった。
「へぇー、浴衣とか超気合い入ってんじゃん! ウケるんですけどぉ~」
その発言は、あまり賢くなさそうな印象をうけるものだったが、内容も口調も渚紗に対する侮蔑が含まれていることは明白だった。巻き毛女子は嘲るような笑みを浮かべ、同意を求めるように他のメンバーに目配せをしている。
数人分の嘲笑が渚紗に注がれるが、しかし彼女は、一言も声を発せずにいた。それどころか、呼吸すらまともにできていないのではないか。
な……なんだよこれ。どうなってる?
渚紗がここまで他人から悪意を向けられていること自体驚きだが――まあそれに関しては渚紗の容姿や能力に対する逆恨みなんかで説明がつくとしても――対する渚紗が全く萎縮してしまっている理由がわからない。
なんでだ? お前だったらこんな奴ら、鉄壁の仮面で簡単にあしらうことができるはずじゃないのかよ。
「何? この人達。渚紗の知り合い?」
高山さんが嫌悪感を隠そうともせず、巻き毛女子達にも聞こえる声で渚紗に尋ねる。だが渚紗は肯定か否定かも曖昧な頷き方をしただけで、その彼女らしからぬ反応には高山さんも訝しげな顔になった。
「うわ。藤峰、あんたまた友達騙してんの? 懲りない奴。つーかサイテー。ねぇシオリ」
「……う、うん……」
巻き毛女子に同意を求められ、隣にいたその女子はぎこちなく頷いた。
その女子は他のメンバーに比べていまいち垢抜けないというか、気弱そうというか……何とかがんばって周囲に合わせています、というのが見て取れる。
「ちょっと。それどういう意味」
俺が何を言う暇もなく、高山さんが一歩進み出て巻き毛を睨み付けた。五人相手に全く怯んでいない。やば、胸キュンしそう。
「ん? そのままの意味だけど?」
しかし巻き毛も負けてはいない。挑発的な薄ら笑みを浮かべて高山さんを迎え撃つ。
「藤峰はぁ、多分あんたも含めて~、友達みんな騙してんのよ。気づいてない?」
「ね、ねえミキ。もう……」
シオリと呼ばれていた気弱そうな女子が巻き毛を止めようとしたが、横目で睨まれただけで「ご、ごめん」と謝って黙ってしてしまった。
最上位カーストの、その中でも更に順位がついているということか。あのシオリという女子は、リーダー格である巻き毛、ミキとかいう女子には逆らえないのだ。
「は? 騙す? 馬鹿馬鹿しい。どんな言いがかりよ」
高山さんが鼻で笑うと、しかし巻き毛女のミキは高山さんではなく相変わらず顔面蒼白の渚紗の方を見てこう返した。
「藤峰、もうそんなに信頼されてんだ。今回もうまくやってるじゃん。そうよね。演技がうまくなきゃ偽善者なんかやってられないわよね」
演技。偽善者。
薄々、ミキが何を言わんとしているのかは勘づいていたが――そのキーワードで確信を得る。
こいつ、……いや、こいつら、知ってるんだ。
渚紗が表と裏の顔を使い分けていることを。
中学の同級生か何かだろうか。だが、どうしてだ?
渚紗の演技は完璧だ。こんな奴らにばれるようなヘマをするとは思えない。
それに、渚紗はどうしてさっきからずっと黙ったままでいる?
二つの顔を持っていることをばらされるのが怖い――という理由なのかもしれないが、しかし、この場合黙ってたって状況がよくなるわけじゃないのはわかっているはずだ。
渚紗なら、例えば表の仮面でとことんとぼけ続けるとか、この状況でもうまく切り抜ける方法を思いつくはず。それなのにどうして何もせず、言われるままになってんだよ?
「あんたら、いい加減にしてよ。さっきから何言ってんの? 騙すとか偽善者とか、何の根拠があって渚紗を傷つけてんのよ!」
「根拠? あるけど? だって実際アタシ達そいつに騙されてたしぃ。二年以上もね。なんなら詳しく説明してあげようか? てか、あんたも聞いといた方が良いって絶対」
ま……まずいぞ、いよいよミキが渚紗の秘密をばらそうとしている。高山さんもそれを止めようとはしていない――当たり前だ、彼女にとっては、ミキの話の内容を聞いてからでなければちゃんとした反論もできないのだから。
どうする。俺が止めるべきか。しかしどうやって止める?
普通に「やめろ」と言ったところで、ミキがやめるとは思えない。むしろ余計に嬉しがって話そうとするだろう。実力行使……は、いくらなんでも女の子相手に使えないし、もし後ろに控えている二人の男が出てきたら多分俺は勝てない。
くそっ、何もできねーじゃねーか。
……ここは、仕方ないか。
大体ばらされたとしたって、既に渚紗の表裏について知っている桜木さん、朱礼舞高校の生徒じゃない瑞穂さん、話せば多分事情をわかってくれる高山さん、という三人しかこの場にいないんだ。渚紗の計画にとって大した打撃にはならないはずだろう。
俺はそう考えて――そう自分に言い訳をして、黙ったままでいた。
何もしなかった。
だが。
「藤峰は、その偽善者は、良い子ぶって本性隠してんのよ。あんた達の前じゃ優等生演じてるかもしれないけど、裏じゃどんだけ汚いことしてるかわかんないわよ」
「あ――」
そこで初めて、渚紗の声が零れた。
限界まで堪えて溢れ出した呼気に意図せず音が乗ってしまった、というくらいに小さな、ともすれば誰にも気づかれないほどに儚い、
だがこれ以上ないほどに張り詰めた想いの乗った声だった。
渚紗と俺の視線が交錯する。
まるで彼女らしくない、余裕を失った、泣きそうな表情の渚紗。
その潤んだ瞳が、何を俺に求めているかに気がついた瞬間。
喩えようのない、とにかく凄まじい感情の渦が、俺の胸の内から爆発的に噴出した。
馬鹿か俺は。どうしてもっと早く気づいてやれなかった。
あの渚紗が、俺でも思いつく程度の対抗策をとれていなかった時点で、それはもうとんでもない異常事態だろうが。
その時点ですぐに、俺は渚紗を助けてやるべきだったんだ。
渚紗は賢い。色々なことを知っていて、その知識をどう使えばいいかもよくわかっている。その上意志だって強い。俺なんかには途方もないものに思える野望を、理想を、現実のものにするために、常に努力を怠らずにいる。
――だけど。
それでも渚紗は、俺と同い年の、ただの高校生の女の子じゃないか。
綺麗なつつじを見て喜び、お祭りではしゃぎ、猫好きを認めない意地っ張りで、
「本当の自分」が誰からも好かれる人格ではないことに傷ついている、繊細な女の子だ。
あいつらは、その傷を抉った。或いは、過去にその傷をつけた張本人だったのかもしれない。
だから――渚紗は鉄壁の仮面を維持出来なくなってしまったのだ。
それほど深く、傷ついていたのだ。
卓越した能力を持っているからと言って、心まで鋼鉄でできているわけがない。
ばれても仕方ない? そんなわけねえだろうが。
こんな大勢の前で、公然と悪口を言われて。
喩え渚紗の計画に支障が出ないとしても、渚紗の心が傷つくじゃねえかよ。
そのことに気づいてやれたはずの俺が……今まで何をボケッと見てた!?
「――愚民めが。いい加減に黙れ」
ミキの話の間隙を突き、精一杯の威厳を込めて放り出した言葉は――ひとまずその場の空気をぶち壊すくらいの働きはしてくれた。
ミキも、その後ろのメンバーも、高山さんも、桜木さんも瑞穂さんも、単なる通りすがりの人々も、何事かと俺に視線を集中させる。
怯むな。慣れてるだろうがこんなモン。中学時代に、密かに動画サイトにアップしてた『歌ってみた』音源を勝手に昼の放送で流されたときのクラスメイトからの視線に比べりゃ100倍マシだ。
「……は? ねぇ、あんた今なんか言った?」
他人を傷つけるためだけの半笑いを浮かべてミキが俺に言う。はっ、その程度の攻撃が今更効くかよ。
「耳まで劣等か。救いようがないな。貴様の戯言は聞くに堪えんからその下品な口を閉じろと言ったのだ女郎」
「……なっ……」
俺は臆病な男だ。スイッチを切り替えなければ、自己暗示を掛けなければ、他人に攻撃的になることさえできやしない。
――そのためには。
暗黒時代の封印を解き、この仮面を被るしかなかった。
みんなに好かれる渚紗の仮面とは違って、誰からも嫌われる呪いの仮面だけどな。この状況には相応しいだろう。
それに、知ってるか?
「とっとと失せろ。我が片翼へのこれ以上の侮辱は、俺が許さん」
呪われた装備ってのは、呪いにさえ目を瞑れば、メチャクチャ性能高いんだぜ。
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