第2話 6.

 翌日。念のため俺は朝六時には家を出た。

 ゴールデンウィーク間近の穏やかな気候といっても、朝はまだそれなりに冷える。清涼な空気を吸い込みながら歩くうちに、纏わり付く眠気は少しずつ晴れていった。……昨夜は恐怖で眠れなかったからな。

 覚醒に従って心の方も落ち着き、死地に向かう心境にしては大分余裕を取り戻していた。野球部やサッカー部の朝練風景を見て「毎日こんな朝早くからお疲れ様だぜ」と労いの気持ちを抱けるくらいには。なんで上から目線?

 教室に着き、精神統一をしていると、しばらくしておどおどしながら桜木さんが現れる。

「あの……上津くん? どうして座禅を組んでいるんですか?」

「精神を集中させている」

「なぜそんなことを……?」

「相手はあの藤峰渚紗だ。いくら俺といえども一筋縄にいく相手じゃあない。こちらにも、いわゆる心の準備というやつが必要なのさ」

「は、はぁ……」

「相手の気に呑まれた方が負ける。これはそういう戦いだ」

「……か、上津くん……? 大丈夫ですか……?」

 反応に困っている桜木さんの目には覚えがあった。中学時代に女子が俺に向けていたものと同じ、腫れ物に触るような……というか触るのも嫌だ、的な目だ。しまった、追い詰められすぎてついうっかり昔のキャラが……。

「いや、平気平気。気にしないで。さ、渚紗が来る前に桜木さんはロッカーに隠れて」

「はぁ……。あの、やっぱりそれは必要なことなんでしょうか?」

「ああ。君がいることが知られてしまっていては、渚紗は本音を口にしない」

「でも、それってつまり、藤峰さんが隠していることを私が盗み見するってことですよね? そんなのやっぱり良くないことじゃ……」

「確かに、多少強引な方法ではある。でも渚紗の裏をかくにはこれくらいはやんねーと。桜木さんだって今まで渚紗のことストーキングしてたじゃないか」

「あ、あれは話しかけるタイミングを窺っていただけです!」

「同じようなもんだって。さあ、いいから隠れた隠れた」

 俺は必死に言い訳する可愛らしい桜木さんをロッカーに押し込んだ。もう桜木さんが中に入ってるってだけでロッカーごと可愛らしく見えてくるから不思議だ。この感覚を布教していけば「桜木さんがいるんだからみんなで地球を守ろうぜ」ってことになって世界平和が実現するだろう。桜木さんの可愛さが人類を救う。かもしれない。

「桜木さん。もうしばらくしたら渚紗がやってくる。そのときの渚紗は君の知っている性格とは大分違っていて、驚くかもしれないけど……でも、渚紗の本質が変わるわけじゃない。だから君は、ありのまま、渚紗のことを信じて、受け入れてやってくれ」

「……あの? 上津くん、それは、どういう……」

「じゃあ、また後で」

 ロッカーの扉を閉め、俺は座禅をやめてロッカーから一番近い席に着いた。現在時刻六時三十分。約束の七時まであと三十分だ。渚紗の性格からして早めに来ることも十分考えられる。

 桜木さんが隠れていることを知らない渚紗は、俺の前でいつものように裏の顔を見せるだろう。そこで俺はうまいこと話の展開を操作して、渚紗には「桜木さんが渚紗の裏の顔を知っても慕ってくれるであろうこと」と伝え、逆に桜木さんには「渚紗は本当の顔を見せられる友達を心の底では欲していること」を伝える。そのタイミングで桜木さんに登場してもらい、二人は仲良くなってハッピーエンド。……という作戦。作戦というか希望。桜木さんの様子からしておそらく成功するとは思うが、まあ成功したところでどうせ俺は渚紗にとんでもなく怒られるだろう。覚悟の上だ。渚紗と桜木さんをにゃんにゃんさせるためなら俺の命など惜しくはない。

 こちらの準備は整った。さあ掛かってこいよ、藤峰渚紗。


「――あれ? もう来てたんだ、怜助くん」


 時刻は六時四十五分。

 教室の扉を開けて入ってきた渚紗に――俺は初っ端から度肝を抜かれた。

 その笑顔。その声。その言葉。

 どれを取っても、そこに現れた渚紗は完全に「」だったのだ。

「意外だな。怜助くん朝弱いと思ってたのに」

「あ……ああ……」

 ニコニコと真っ白な笑顔を崩さない渚紗。俺は何が起こっているのかわからず、まともに言葉を返すこともできない。

「ひょっとして私に会えると思ったら楽しみで早く目が覚めちゃったとか? なんてね」

 一向に裏返る気配を見せないまま、可愛らしいことを言って俺の前に座り、鞄からノートと筆記用具を取り出す渚紗。

 どういう……ことだ……? な、なぜ裏返っていない? 俺と渚紗二人きりの教室で、表の仮面を被る必要など一切ないはず。何かの冗談か、或いは――?

 鼓動の加速に反比例して圧縮される体感時間の中、俺は渚紗を観察し、そして彼女が表である理由を考える――恐怖の正体を確かめることは生物として当然の防衛本能だが、輪郭のぼやけた恐怖に敢えて実体を与えることは精神に多大な負担を強いる行為でもあった。

「どうしたの、怜助くん。なんだか様子が変だよ?」

 白いを通り越して白々しいほどの笑顔で、渚紗は言う。それは一体、誰から何を隠すための仮面なのか。

 尋常でない緊迫感が肺を圧迫していた。早朝の教室はこんなにも静かなのに、俺の心臓の音だけがうるさいほど、痛いほどに内側から体全体を波立たせるように鼓動を打っている。

 理屈ではなく、これは根根源的な恐怖。心や感情よりも深く古く、生物として原始のシステムに組み込まれた、絶対的な危機を察知する能力。

 本能が――俺という存在を構成する全ての要素が。総動員で警告を発している。

 こいつはヤバイ、と。

 それでも俺は逃げない。逃げられない。

 浅く漏れ出す呼気に乗せ、俺は辛うじて震える声を発した。

「ど、どうした渚紗……お前こそ……どうして今日はそんなに、ご機嫌なんだ……!?」

「えーそうかなぁ? 別に普段と変わらないつもりなんだけど」

 言いながら渚紗は、さらさらと流れるようにノートにペンを走らせる。

 微かに痙攣しながら渚紗の顔を見つめ続ける俺に――緊張のあまり視線が動かせないのだ――トントン、と渚紗はノートを人差し指で軽く叩いてそちらを見るように合図した。

 唾を飲み、必死で心を落ち着かせながら、ゆっくりと震える視線を降ろしていく。辿り着いた先、渚紗がノートに記していた文字は。



『         ゲ 

     騒           バ         ス

                     殺              』


 ぎゃあぁああぁあああああああ怖ぇええぇえぇえええええぇえーーーーーーー!!

 なんでカタカナなの! なんで鮮血色の赤インク使ってるの! なんで微妙に血しぶきみたいなエフェクト散らしてあるの!

 字自体の造形もまるでカッターナイフで削ったかのように禍々しい直線だらけで、もうたった五文字に込められたありとあらゆる要素が全て俺の恐怖心を煽るためだけに機能している。なんとういう脅迫文字テクニック。こんなスキルどこで鍛えたの。

 驚いたとかいうレベルではなかった。背筋どころか背骨ごと凍り付いた。

 もう疑う余地はない。渚紗は気づいているのだ。この教室に、俺達以外の人間がいるということに。そしてそれが俺の手引きによるものだということも。

「じゃ、早速始めよっか。五月末の奉仕活動の計画」

「あ、ああ……そう……だな……」

 相変わらずの鉄壁笑顔を見せる渚紗。しかし纏っているオーラの禍々しさはハンパない。見ただけで心が折れてハゲ散らかしてしまいそうだ。今すぐここに念空間を開いて逃げ帰りたい。

 なぜバレた? どこまでバレた? どうすれば生き残れる? どうすればこの状況を打開できる?

 頭は目まぐるしく回転するが所詮空回りにすぎず、考えは纏まらないまま焦燥感のみが高まっていく。

「やっぱり無難にゴミ拾いとかがいいかなぁ。怜助くん何かアイディアある?」

 適当に話を続けながら、渚紗はノートに俺への密かなメッセージを書き加えた。

『いるのは桜木さんね? ロッカーに隠れているの?』

 ……どこまで鋭いんだ、こいつ。最早誤魔化しは無意味と悟り、俺は素直に頷いた。

「それで……いいんじゃないかな……」

「そっか。じゃ具体的な場所とか決めちゃおう」

 ロッカーの扉の僅かな隙間しか視界がない桜木さんには、当然渚紗の筆談の様子などわかりはしない。彼女の目には今、普通に、いつも通り完璧な美少女である渚紗の姿が映っているのだろう。一体俺が渚紗の何を見せたかったのかと疑問に思っているに違いない。

 渚紗の指示がノートに追加される。口では全く別のことを話しながらなんの違和感も見せずに文を綴る器用さはさすがである。

『これから私がトイレに立つふりをして教室を出るから、その間に桜木さんを帰しなさい。制裁はその後よ』

 ああ……やはり裁かれるか。いや、そのこと自体はもういい。俺の命は桜木さんのために使い捨てると決めている。しかし、結局何もできないまま終わるなんて悔しすぎる。

 桜木さんを帰して、渚紗に犯行動機を話せば、渚紗は間違いなく「余計なお世話よ。私にはそんな友達なんて必要ない」と返すだろう。そしてこれからもずっと、みんなの前で仮面を被り続けるのだろう。

 それが、渚紗の計画にとって最善の手であることはわかっている。俺のやっていることがただの自己満足で大きなお世話だということも十分承知の上だ。

 ……だけど。

 お前が寂しそうにしていることを見逃さなかった女の子の気持ちに嘘を吐いたままで、お前のいう『理想の教室』なんて作れるわけがないじゃないか!

 バン! と両手で机を叩いて、俺は立ち上がった。突然の行動に渚紗も少し驚いたようだったが、しかしその程度で渚紗の仮面は揺るがない。

「ど……どうしたの、怜助くん」

 動揺の表情すら完璧な「表」。さすがだよ渚紗。一体どうすればその強固な仮面を外すことができるのか――いくら考えても、俺なんかにはやっぱり、これしか思いつかないな。


「渚紗。ちゅーしようぜ」


 その瞬間、空気が凍りついた。

「……は?」

 真顔でぶっ放した俺の言葉は、いくら渚紗といえども予想の範疇を越えていたらしい。ほんの一瞬だが、渚紗が裏の顔――いや、それすらも通り越した素の顔を覗かせる。マジで意味がわからなかったんだな。

「……え、えっと? 怜助くん、それ冗談?」

「いや。俺はマジだ」

 椅子を離れ、限界まで渚紗の近くに詰め寄って、俺は両手で彼女の肩を掴んだ。

「お前の顔を見つめていたらあんまり可愛くて辛抱たまらなくなった。頼む、ちゅーさせてくれ」

「ちょっ、ちょっと待って! いや……その、き、気持ちは嬉しいけど、さすがにいきなりすぎるよ」

 顔を赤らめてもがき、抵抗する渚紗。椅子から立ち上がって俺から離れようとするが、俺に肩を押さえられているので逃れられない。

「嫌なのか渚紗。どうしてだ。俺達は恋人同士じゃないか」

「そうだけど……でも、だからこそこんな風に流れでなんてしたくないっていうか……」

 渚紗は潤んだ目を伏せて、呟くように言った。

「……私、怜助くんが初めてだし……大好きだから、こういうことは大切にしたいの」

 うーわーなんだこれやべーよこれ演技じゃなくて本当にちゅーしちゃいたいよ。愛されるよりも愛したいマジで。

 ……しかし俺の理性はギリギリのところで踏みとどまってくれた。

 落ち着け。騙されるな。あれは演技だ、本当の渚紗の心は今、俺への殺意で埋め尽くされているはずなんだ。桜木さんが見ている手前裏返ることができず、なんとか表のままで俺の凶行をやり過ごそうとしている。

 そうはいくか……!

「大丈夫さ。俺だって初めてなんだ。いやそれどころか、お前が最初で最後の相手だよ。俺はこれから先の人生、お前以外の相手とちゅーするつもりなんかない」

「あ……ああそう……」

 渚紗の返しが雑になってきた。怒りと憎しみと気色悪さで表の維持が難しくなってきたんだろう。あと少し。俺は攻撃の手を緩める気なんてない。たとえ変態にこの身をやつそうとも、必ずお前のすました仮面を剥ぎ取ってやる……!

「流れなんかじゃないさ。俺は常に、二十四時間三百六十五日お前とちゅーしたいと想い続けていたんだから。暇さえあればお前の唇をノートにスケッチして予行練習していたくらいだ。もう限界なんだ。これから最初のちゅーがいつだったかなんてわからなくなるくらい何回も何回も繰り返してあげるから、初めてを気にすることなんてないのだよ渚紗」


 こ れ は 気 持 ち 悪 い。


 自分で言うのもなんだが言葉だけで犯罪レベルだ。言いながらなんかもう笑えてきちゃって、しかしおそらくその「ニタァ……」とした笑みも犯罪係数上昇に一役買っている。

 そんなものを目前に晒された渚紗の顔は、当然青ざめる。フフ……もう我慢の限界だろう? 今の俺を止めるには、裏返って物理で殴るしか方法はないぜ。

 とどめとばかり、「ん~」と今時漫画のギャグシーンでもやらないくらい大げさに両唇を「3」の形に突き出して渚紗に迫る俺。第三者に見られたら通報されても文句は言えん。

 さあ俺がここまでやったんだ。裏返って見せろ、渚紗!

「……

 え? と思った瞬間、渚紗が俺の後頭部を抱きかかえるように腕を回し、ぐいと自分に近づけた。もう互いの唇の距離は数センチしかない。

「な……!?」

「怜助くんがそんなにしたいなら……いいよ。私の初めて、あなたにあげる」

「……!!?!?」

 小悪魔のように微笑む渚紗。その顔は――ど、どっちなんだ? これは表か裏か? 或いは夢か?

 おおおお落ち着けこれは渚紗の策略だ髪の毛超いい匂い俺の土壇場の度胸不足を見抜き逆に攻勢に出ることで牽制して何そのすべすべお肌のきめ細やかさぱふぱふしてぴくぴくしてぷにぷにしてぺろぺろしてぽにょぽにょしたい。

 ダメだヤバイ! マジで理性が限界! どうすりゃいいんだ俺は!

『ククク……チャンスじゃねえか、本当にちゅーしちまえよ。まあ間違いなく後で殺されるけどどうせこの先生きてたっていいことないんだし最後に思い出作って死んじまえ』

 俺の心の中の悪魔がまさしく悪魔のようなことを言う。なんで自分の分身にこんな辛辣なこと言われなきゃいけないの?

『待ちなさい!』

 しかし一方で天使が凛々しい制止の声を発して、

『そんなことより彼女の粘膜の細胞を少し持ち帰って培養しましょう!』

 天使ィイィィイイ!? こ……こいつ性癖やばすぎるだろ!? つーか俺! 俺の心悪魔と変態しか住んでねーじゃねーか!

 もう心の声なんか当てにならん。最後に頼れるるのはやはり十五年掛けて育て続けた俺自身の童貞力のみ。

 ……渚紗と俺は本当の恋人同士じゃない。それは重々承知してるし、今だって本当にキスをするつもりなんかなかった。渚紗だって本当は嫌に決まってる。そもそも「渚紗に本当の友達を作ってあげたい」という俺なりの純粋な厚意から始まった行動で渚紗を傷つけることになっては、本末転倒にすぎるじゃないか。

 まさか渚紗がここまでして裏の顔を隠したがるとは思わなかった。俺の認識不足だ。

 これ以上は意味がない。敗北を悟った俺は、渚紗の肩を押して引き離そうとした――

 そのとき。

「ダメ――――――っ!」

 ロッカーの扉が勢いよく開き、桜木さんが弾丸のように突っ込んできた。おそらく彼女は俺の毒牙から渚紗を守るため勇気を振り絞ったのだろう。その頑張りは認めてあげるべきだと思うが、しかし、なりふり構わず飛び込んできた彼女には、俺と渚紗の位置関係を確認する余裕などなかったらしい。

 揉み合いながら少しずつ移動していた俺達は、ロッカーから見て手前側に渚紗、奥側に俺という配置で向かい合っていた。つまり桜木さんは渚紗の背中に体当たりを浴びせる形になってしまったのである。

 桜木さんの華奢な体でも体当たりすればそれなりの衝撃を生む。……少なくとも、渚紗の背中を押し、残り数センチだった彼女と俺の唇の距離をゼロに埋めるくらいには。

「――ッ!!?」

 唇に触れた柔らかい感触……なんてほとんどわからなかった。唇だけ触れ合うなんて器用に衝撃を殺すことができるはずもなく、俺と渚紗は顔面全体でごっちーん! と正面衝突したのだ。だから主に感じたのは一番強くぶつかった額の痛み。

 俺のファーストキスの感触は完全に痛覚に塗りつぶされてしまった。酷いよ。

 ……だが、渚紗も俺と同程度か或いはそれ以上のダメージを負ったようだ。

 反射的に俺を突き飛ばした渚紗は、おでこと唇を同時に押さえるというちょっと面白い格好で固まってしまっている。愕然というか呆然というか、とにかく言葉を失って立ち尽くしていたけれど――やがて徐々に瞳が光を取り戻し、憤怒の色に染まっていった。ああこれは遺書を書いておいて正解だったなと覚悟を決めたが、しかし渚紗は俺への殺意をぐっと呑み込んで、自分の腰にしがみつく可愛らしい生物へと視線を移した。

「あの、桜木さん……」

「だ、ダメです……! いくら恋人の上津くんでも、藤峰さんが嫌がってることをしちゃダメなんですっ!」

 桜木さんの全身はぷるぷる震えているし、声は大きくなったり小さくなったり所々掠れたりと安定しない。あれでは渚紗を守ろうとしているのか渚紗に守られているのかわからないような頼りない有様だったが、それでも彼女は、渚紗のために勇気を振り絞ったのだ。

 渚紗に話しかけることすら怖がっていた桜木さんが、である(結果的には彼女のせいでカタストロフちゅーが成立してしまったことは黙っておいた方が良さそうだ)。

 必死に飼い主を守ろうとする子犬のような桜木さんの姿には、さすがの渚紗も完全に毒気を抜かれたらしい。表も裏も越え、心底困った表情で目を泳がせたあと、観念したように目を瞑って深い溜息を吐いた。

「……ありがとう、桜木さん」

 目を開けた渚紗は、で桜木さんにそう告げた。そのときの渚紗の瞳は驚くほど慈愛に満ちていて、きっとあれが、彼女の心の根本、優しさの源流なのだろうと俺は確信した。

 それは、渚紗が表や裏の顔で垣間見せていた優しさが嘘偽りでなかったことの証拠だ。仮面の下、僅かなひび割れ隙間の奥に隠れていた本当の心。桜木さんはそれをもっと近くで見たかったのだろう。だから今の渚紗の表情は、桜木さんが最も見たかったものであるに違いなかった。だって実際泣いちゃってるし。

「藤峰さ……ごめ、なさい……! 私、藤峰さんに隠れて……ヘンなことを……!」

「もういいわ。むしろ謝るのは私の方よ。色々隠し事をしていて、ごめんなさい」

「……う、ううう~……!」

 更に強く渚紗に抱きつく桜木さんと、その頭をよしよしと撫でてあげる渚紗。

 実に良い。なんと心温まる光景か。お好み焼きの鉄板のような桜木さんの熱い愛情が、いちご味かき氷のように冷え切った渚紗の心を融かしたのだ。……全然うまいこと言えてねーなこれ。最終的になんかぬるくてまずそう。

 なにはともあれ、こうして桜木さんと渚紗は真の友情を手に入れましたとさ。めでたしめでたし。

 さて、本音を言えば百合百合した二人の様子を克明に録画しておきたいところだが……無粋な真似はやめておこう。ラブシーンにおいて解説役はクールに去るものと相場が決まっているのだ。そうして颯爽と教室を去ろうとする俺の背を、

「怜助くん」

 渚紗が見逃してくれるはずがなかった。大魔王からは逃げられない。

「放課後。体育館裏にきてちょうだい。二人きりでお話がしたいの」

 渚紗の笑顔はとても美しく、思わず視線を、というか眼球を釘付けにされてしまうほど――真っ黒でした。

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