第2話 3.

 渚紗の手前つい強がってしまったが、今まで大した接点もなかった女子を「帰る方向同じだから一緒に帰ろうぜ」なんて誘うのは、「受注条件:自分がイケメンであるか、相手が二次元であること」みたいな条件付き高難度ミッションである。

 俺は中学時代女子と一緒に帰ったことなんて一度もない――女子に「帰れ」と言われたことなら何度もあるが。そして家に着いたら妹が「帰ってくんな」ってね。もうどこで生きればよかったんだろうね俺。

 このミッション、中学時代の俺なら間違いなく達成は不可能だっただろう。だが数々の厳しい特訓を乗り越えた今の俺は違う。「女子とまともに話せるようになる」ことは彼女を作るために避けては通れない課題であり、また最難関でもあった。これをクリアするための特訓は想像を絶する過酷さで、あれを思いついた妹に対して俺はもう「こいつマジで人間じゃねえよ……」と涙したほどだ。思い出すだけでSAN値が削られるので詳しくは記述しないが、キーワードは「俺/パジャマパーティー/晒し者」である。ググっても答えは出ないので悪しからず。

 あの特訓を乗り越え、女子の視線を感じただけでキョドっていた過去の俺はもう死んだ。今の俺は、喩え女子にどんな蔑んだ目で見られようともそれを快く気持ち良く受け入れることができる強靱な精神力の持ち主だ。何も問題はない。

 そんな後ろ向きにポジティブな自己暗示で自らを奮い立たせ、俺は校門の陰に隠れてターゲットが現れるのを待っていた。

 まず昇降口から、渚紗と、高山さん柿田さん橋ヶ谷さんのいつもの四人組が仲良く現れる。楽しげな笑顔を浮かべる渚紗。あの笑顔が渚紗の全てだと思っていた時期が俺にもありました。

 続いて――本日のターゲット、桜木桃香さんの出現を確認。

 身長は140㎝くらいしかない。相変わらずちっちゃくて可愛らしい。天然の髪質なのかセットしているのかは判断がつきかねるが、とにかく緩くウェーブした柔らかそうな髪をボブカットにしている。肩幅は狭く手足は細く、体中のほとんどのパーツが小さくて頼りないけど、くりっとした円らな目だけが大きくてまた愛らしい。儚げな容姿と大人しい性格が相俟って、いかにも深窓の令嬢といった雰囲気を醸し出している。まあ実家はお好み焼き屋さんなんだけど。

 ただ、今の彼女の行動はどうもそういったたおやかなイメージとは違って、なんというか、不審の一言に尽きた。なるほど確かに渚紗を尾行している。ただし恐ろしく下手である。昇降口の扉から半身を乗り出したり、物陰から物陰にいちいち走っては止まって走っては止まってを繰り返して移動している姿なんかは、もう隠れたいのか目立ちたいのかよくわからない。普通に下校していた方がよっぽとマシである。

 校門を、まず先に渚紗達四人が通過する(渚紗は雑談の合間に一瞬だけ俺に鋭い眼光を浴びせていった)。ややあって、「こそこそ」と陽気な擬音をその身に纏った桜木さんがやってきたので、俺は彼女の死角からそっと近づいた。

 大丈夫だ……落ち着け……こんなシチュエーション何度もプレイしたじゃないか……俺は主人公……常に前髪で目が隠れているという不審者っぷりでありながらなぜか女の子達から無条件に好かれるタイプの主人公……!

 そして俺は、確実に好感を持たれるであろう爽やかオーラをその身に憑依させ、桜木さんに声を掛けた。

「やあ桜木さん、こんにちは! 奇遇だな!」

「ひぃっ……!?」

 桜木さんは小さな悲鳴を上げ、びくっ! と大げさなほどすくみ上がった。怯えた瞳が俺の純情な心に深く突き刺さる。

あ……駄目だこれ効くわ、悲鳴はすげー効く。ガッツリ精神力持ってかれる。

 意図的にこちらを傷つけようとする女子の態度が物理攻撃だとするなら、ナチュラルに怯える態度は特殊攻撃のようなもの。俺は努力値を物防に振りすぎた分、特防が低いままだった。こうかはばつぐんだ。

「いや、あの……俺だよ俺。同じクラスの、クラス委員。上津怜助」

 桜木さんの表情が一瞬柔らかくなりかけたが、すぐに再び強張った。なんだ今の変遷は。「誰!? あ、なんだ上津くんか……上津くん!? え、嫌、何、怖っ!」みたいな心の声がバッチリ聞こえてきて泣きそうになる。 

「あ……桜木さん、ちょっと――」

「ごっ、ごごごご、ごめんなさいっ!」

 桜木さんはがばっと頭を下げると、一も二もなく全力疾走で駆け出していった。校門を過ぎ去り、学校前通りの横断歩道を越えてあっという間に小さくなる背中。

 …………。

 傷ついていた俺の心は、これで完全に折れた。ぽっきりと真っ二つに折れて――中からどろどろした暗黒の瘴気が溢れ出してきた。厨二病時代の残滓とも言えるその膿は、妹との特訓や渚紗のご褒美などを経て俺の中に新たに芽生えつつあった女子に対する歪んだ愛憎と混ざり合い、闇の化学反応を引き起こし、生み出してはいけない何かを俺の心に誕生させてしまった。

 ……フッ、面白い。

 久しぶりだな、こういうの。話しかけただけで相手が逃げていくこの感じ。

 かつての俺は弱かった。こういうことがあると三日は立ち直れず、ひたすらブタムシを愛でることで傷を癒やしていた。ブタムシはまるで俺の悲しみを餌にしているかのようにのようにぶくぶくと肥え太っていった(普通に餌を与えすぎただけだ)。

 それももう昔の話。今の俺はこれくらいでへこたれはしない。むしろ――燃えてくる。

 右肩に掛けていた学生鞄の、両方の持ち手に両腕を通し、リュックのように背負う形にする。続いて両手の指を大地につけ、クラウチングスタートの構えを取る。そして。

 よーい……どん!

「桜木さぁあああぁあぁあん! 待ってぇえぇええぇえ!」

 逃げるあの子を全力で追い掛けた。

「えっ……!? きゃああぁ~~~~っ!?」

 引き離したと思って走るのをやめていた桜木さんは、猛烈な勢いで迫り来る俺の姿を見つけて絶叫。再び逃走を開始。

 逃げ切れると思うなよ。

 妹との特訓の一環として、俺は一年間走り込みを続けていた――特訓というか罰だったが。自分が凹む度にブタムシに過剰なおやつを与え続け太らせた罰として、ブタムシのダイエットに付き合うことも特訓の条件に加えられたのだ。

 そうだ。きっと俺はこのときのために一年間、休まずデブ猫と共に走り続けていたのだ。そうして培った力が今! 必死に逃げ惑うクラスメイトの女子を嬉々として追い詰める限りない力を、この俺に与えてくれる!

「あーっはっはっハッハァ! 逃がすかァ!」

 ストーカー? いいえ違います。私はハンターです。

 桜木さんは体力も運動神経もそんなに恵まれた方ではなかったらしく、みるみるうちに俺と彼女の距離(物理)は縮まっていく。体力勝負になったら逃げ切れないと踏んだのか、桜木さんは大通りから小道に入り、地元出身の地の利を活かして俺を撒こうとした。

 だが甘いな。もう俺はいつだって君を捕まえられるんだぜ。ただこの鬼ごっこが楽しいからわざとスピードを緩めて君の後ろ姿と翻るスカートを堪能しているだけで――

 と。見通しの悪い三叉路で、前方のカーブミラーにトラックが映った。桜木さんは気付いていない。

「危ない!」

 咄嗟にスピードを上げて桜木さんの腕を掴み、思い切り引き戻す。華奢な体を抱き止めてそのまま倒れ込むと、直後、妙に恐ろしい笑顔のライオンさんマークが入ったトラックが前の道路を走り抜けていった。あれが俺の中に生まれた怪物モンスターの姿か。暴走した俺の暗黒面は笑いながら自身すらも傷つける獣となるのか――とか全然意味のわからない気持ち悪いことをぼんやり思ったりした。

「大丈夫か、桜木さん?」

「は、はい……あっ!」

 桜木さんはすぐに俺の腕から飛び退いた。手を胸の前で組み、俺の視線から全身を隠すように背中を丸めて震えている。目尻には今にも零れそうな大粒の涙が溜まっている。

 その姿はまさに悲劇のヒロイン。そして俺はまさにヒロインを拐かそうとするやられ役の変態暴漢野郎。

 さあっと頭から全身に冷たい血が降りてくる。やばい。完全にやりすぎた。テンションが上がりすぎて、また暴走してしまった。

「……ご、ごめん!」

 俺は桜木さんに向かって、座ったまま深々と頭を下げた。こうなったらもう誠心誠意謝るしかない。

「そんなに怯えさせるつもりはなかったんだ。つい調子に乗っちまって……君に危害を加える気なんかこれっぽっちもなくて。そう、ただ犬のように逃げたものを追う本能っていうか、追いかけっこ自体が楽しいワンっていうか、つまり、あの……」

 まずい。俺の謝罪スキルは形式上或いは技法上にのみ特化していて――「とにかく謝れ」っていう妹みたいな横暴なタイプを鎮めるには適しているんだけど、本気で怯えている女の子を安心させるには向いていない。ビジネスシーンでは役立つけれどプライベートシーンでは「本当のあなたが見えないの。別れましょう」みたいな展開を引き起こしかねないスキル。誠意を込めて正直に謝ろうとすると、ただの欲望垂れ流しになってしまう。

「悪気があったわけじゃないんだ。ただ、桜木さんと話がしたかっただけなんだ……」

 これ以上は口を開かない方が良い。俺が黙って土下座の姿勢を保っていると、しばらくして「頭を上げて下さい」というか細い声が降ってきた。

「私の方こそ、すみませんでした。声を掛けられただけでいきなり逃げ出すなんて、上津くんにあんまり失礼でした」

 顔を上げると、今度はきちんと俺の方に正面を向けて正座している桜木さんがいた。ちょこんと姿勢良く座る様は良くできた人形の様で可愛らしい。

 だがそんなことはどうでもいい。

「何してんだよ桜木さん!」

「えっ?」

「アスファルトの上で、しかもスカートで正座するなんて! その綺麗な足に傷でもついたらどうすんだ! さあ早く立て!」

 俺が手を差し出すと桜木さんは戸惑ったが、ここは退くわけにはいかない。たとえ桜木さんが引こうとも俺は退かない!

「えっ、あの、でも」

「早く! もし怪我をしていたら俺が舐めてでも治すから!」

「ひぃっ!」

「あ、いや今の違う! 冗談、冗談だって!」

 桜木さんはおずおずと俺の手を取って立ち上がった。よし、怪我はないな。……まあいい、足を舐める口実など後からいくらでも浮かんでくるさクックック。

「あの……そんなに見ないで下さい……」

「あ、ごめん」

 桜木さんの真っ赤な顔を見て、俺は生足から目を逸らした。これ以上恐怖心を抱かれるような行動をしてはダメだ。目的を忘れるな。……でも、なんかついいじめたくなっちゃうんだよなぁこの子。

「とにかく、どこか座れるところに行こう。落ち着いて話がしたい」

「じゃ、じゃあ近くの公園にでも……」

「公園はダメだな。おもしろくない」

「え? おもしろ……え?」

 多大な困惑と若干の恐怖に見舞われているらしい桜木さんの手を逃げられないようにしっかり握りしめたまま、俺は周囲の様子を窺った。普段はあまり入らない住宅街の方ではあるが、この辺りは俺のアパートの近くだ。景色に見覚えがある。ということは、もう少し歩けば――

「いいことを思いついたぞ」

 微笑んだ俺を見て、桜木さんが更にそそる……じゃなくて不安そうな顔になった。

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