23. 南極条約【2076年】

 2068年夏、フェイとイレーネは、中国青海省にある青海湖の湖畔に立って、静かに波打つ湖面を眺めていた。

 青海湖は米国ユタ州のグレートソルト湖に次いで世界に2番目に大きい内陸塩湖である。

 海抜が3000mを越す場所に穿たれた塩湖の周囲は360㎞もあり、視界の向こうには水平線を臨むばかりである。

 右手で目の上に笠を作り陽光を遮りながら湖面を見詰めるイレーネに向かって、フェイが言った。

「僕が幼い頃に収容されていた収容所は、この近くに在ったはずなんだ。

 収容所から青海湖を見た記憶は無いし、実際は相当に離れていたんだろうけど、まっ、この近くのはずだ」

 2人は、此処から100㎞離れた西寧市で四輪駆動の車を借りて、青海湖にまで遣って来た。

 “此の世界”ではフェイの居た収容所は建設されていないし、起伏に乏しい地形なので目印になるものも無い。取敢えずの目標として青海湖を目指して草原を疾走して来たのだ。

 湖畔には地平線の彼方まで背丈の低い草が茂っている。

 風景は草原の緑と、晴れ渡った青空、そして青空を反射した青海湖の3色だけの単調な世界だったが、それだけに自然の雄大さを実感できる風景だった。

 見渡す限り、住居も無ければ、家畜を放牧している者もいない。完全に2人だけの世界だった。

「僕達の居た時間宇宙では、中国政府がチベット族を弾圧していたから、政治犯の収容所も此処ら辺に点在していた。

 “此の世界”ではチベット族と共存しているから、政治犯の収容所が建設される可能性はゼロに近いだろうけどね」

「この湖の向こうにチベット自治政府の土地が広がっているのね」

「うん。青海湖の遥か向こうだ」

 乾燥した風が2人の髪を靡かせる。寒くもなく暑くもない、気持ちの良い気候だ。

「ねぇ、フェイ。昨日、レストランで聞いた放射性廃棄物の話を憶えている?」

 昨夜、2人は西寧市のホテルに宿泊した。

 西寧市には漢民族だけでなく、チベット民族やウィグル民族もソコソコ住んでいる。

 2人は町中のチベット民族料理店で夕食を摂った。

 家畜のヤクや羊の肉を煮込んだ鍋料理と餃子。餃子と言っても、北京や上海で食べる餃子よりも大きく、パンと言った方が2人には馴染む。小麦粉を練った生地の中には色々な野菜や肉を煮込んだ具を詰め込んであり、それを揚げたパンだ。

 イレーネは中国に来るまで羊肉を食べた事が無かったが、今では好物と言っても良い程にすっかり慣れた。

 そのチベット民族料理店の主人と交わした世間話では、チベット地域には放射性廃棄物の保管施設が幾つか点在しているらしい。

 中国政府が人口密度の低いこの地域に放射性廃棄物を保管するのは、総論としては理に適っている。管理する人民解放軍もその安全性を保障していると言う。それはそうだろう。

 中国が配備した核兵器の弾頭数は米ロ両国に比べて圧倒的に少ないし、今では原子力発電所の数もアメリカを上回っているが、その稼働のべ年数は短い。

 つまり、中国政府が抱え込んでいる放射性廃棄物の総量は、米ロ両国に比べると遥かに少ないだろう。

 逆に言うと、“此の世界”には放射性廃棄物が溢れているんだろうな――と、訛りの強い主人の話を聞きながらフェイは思った。

 米ロ両国に比べれば少ないとは言え、この地域に住む人間にとっては気持ち悪いだろう。

 それは口に出さずとも兵士にとっても同じはずで、骨髄病の特効薬も特定されたし、捜索隊の駐留が5年余りで終了するのは幸いだ、とも思った。

「うん」と答えるフェイに、イレーネは湖面を眺めつつ言った。

「骨髄炎を引き起こす細菌の変異種って、もしかして、その放射線が原因だったのかもね」

「そうかもしれないね」

「私も“あの世界”では骨髄病の事しか頭に無かったけど、無数の時間宇宙は其々それぞれに問題を抱えているのかもしれないわね」

「そう言えばね」とイレーネはフェイに振り向き、ニッコリと微笑んだ。

「私が冷凍睡眠カプセルに入る前、フェイが私に何と言ったか?――、憶えている?」

「何だったかなぁ」と頭を掻きながら中々答えられないフェイにイレーネは言った。

「こう言ったのよ。「価値の無い過去なんて無い」って。あの一言に救われたわ。

 こうして冷凍睡眠から抜け出し、また貴方と会えるなんて想像しなかったもの・・・・・・」

 イレーネは再び青海湖の方に顔を向けると、両腕を軽く後ろ手に組んだ。

「私の人生は、貴方に会えただけで、十分価値の有るものになったわ。・・・・・・愛している、フェイ」

 付近には誰も居ない。

 恥ずかしがる必要は全く無かったのだが、突然の告白にフェイは照れた。


 プラトッシュ邸の屋敷が民衆に包囲された一件以来、ダーファとチャンドリカは急速に交際を深めて行った。そして、ダーファの帰国を機に2人は結婚する事にした。

 2069年6月、2人の結婚式が上海で行われた。ダーファは26歳、チャンドリカは25歳であった。

 人民解放軍情報工学大学を卒業したばかりのダーファは、中国に依るインド統治が始まった翌年にニューデリーに赴任し、彼のインド滞在期間は4年弱に渡った。

 今後、ダーファは上級軍人として転属を繰り返し、世界中を渡り歩くキャリアを積み重ねて行く。

 初対面の時に魅力的な女性だと見初めたチャンドリカを、ダーファは人生を伴に歩む伴侶として選んだのだ。

 チャンドリカの方でもダーファを頼もしい男性だと慕っていた。

 考えてみるとチャンドリカの周りには適齢期の男性が居らず、彼女の両親が探してくる見合い相手と結婚するのが唯一現実的な選択肢だった。

 そんなチャンドリカの境遇を踏まえると、この恋の鞘当てでは、ダーファの方が圧倒的に有利であった。

 それでも奥手なダーファは中々チャンドリカを口説こうとはしない。

 ダーファはプラトッシュ邸を頻繁に訪問するようになったが、此処では逢引する場所が荒野しかない。ロマンチックとは程遠い周辺環境なのだ。

 気を回わしたプラトッシュは、ウサギの血液パック工場の用事が発生すると、意識してチャンドリカにお遣いを頼んではニューデリーまで遠出させた。

 ニューデリーから帰宅したチャンドリカの表情をプラトッシュが窺っても、彼女の顔にはキスした形跡も見当たらず、上気した雰囲気さえ漂っていない。

 チャンドリカの後見人を自認するプラトッシュとしては、意気地の無いダーファに何度も歯軋りした。

 だが、2人は着実に愛情を育んでいたのだ。

 歓喜と恥じらいの入り混じった表情でチャンドリカが「ダーファから結婚を申し込まれました」と報告してきた時、プラトッシュは椅子から跳び上がると彼女の両手を握り締め、2人でグルグルとステップを踊った。

 ダーファの両親もチャンドリカの両親も中国やインドでは裕福な方であるが、上海での結婚式は円卓が10個程度並んだだけの、どちらかと言えば小じんまりした規模であった。

 その事について、ヤン・カイコーは隣に座ったリウ・フェングに顔を寄せて「お前の今の地位を考えれば、もっと盛大な結婚式にすべきだ」と軽く抗議する。

 リウ・フェングは「これは息子の結婚式だ。俺の結婚式ではない」と反論する。

 双方の妻達が「あなた、結婚式が始まりますよ」と、口喧嘩を諫めていた。

 最前列中央の円卓にはダーファの関係する人民解放軍の上官達が着席していた。他の円卓にはダーファの大学時代や高校時代の友達が集い、別の円卓には人民解放軍の制服を着た同僚達が集まっていた。

 新婦側の介添人としてプラトッシュは出席し、チャンドリカの両親と一緒にインドから上海に来ていた。タルヤは勿論の事、エディット、イレーネ、フェイも結婚式には列席した。親族の集う円卓の隣の円卓に5人は揃って配席されていた。

 5人は4年ぶりの再会を改めて喜んだ。

 同じ円卓には、チーリン・ハドフィールドとクリス・ハドフィールドの夫婦も着座している。エディット以外の4人とハドフィールド夫婦とは面識は無い。初めての自己紹介に続き、お互いの運命が交差した妙に会話を弾ませた。

 アンドロイドが円卓の回りを縫うように歩き、料理の載った皿を配って回っていた。

 アメリカ政府がリースするアンドロイドを中国でも頻繁に目にするようになった。コスト的には全く算盤勘定が合わなかったが、先端技術に接していると言う客の虚栄心をくすぐる事が求められる場所では、人間の労働者に替わってアンドロイドを投入する事例が増えていた。

 このホテルでも利用客の前で給仕する仕事にアンドロイドが投入されていたのだ。

 結婚式が始まる直前にプラトッシュは円卓を離れた。花嫁の介添人として準備する為である。

 本来、花嫁は父親の腕に自分の手を添えて入場するものであるが、チャンドリカの両親はプラトッシュが介添人の役を果たすよう強く望んだ。

 ダーファとチャンドリカの仲を取り持ったのはプラトッシュだから――と言うのが、その理由である。

 結婚式が始まると、黒の燕尾服に身を固めたダーファが会場の正面奥の雛壇に立った。

 軽快なクラシック音楽が鳴り始め、会場入口のドアが開け放たれた。

 雛壇まで続く赤い絨毯の上を、プラトッシュが片腕を曲げ、その腕に手を添えたチャンドリカを伴って、ゆっくりと入場して来た。

 プラトッシュは目の前に佇むダーファの正装姿を眺め、「軍服姿も凛々しいが、こっちも決まっているじゃないか」と思った。

 軍隊生活で鍛えられた筋肉が白いシャツを僅かに膨らませ、上半身の逞しさを浮き上がらせていた。

 隣で歩むチャンドリカの顔を窺い見ると、彼女は真直ぐにダーファを見詰めている。幸せな気持ちが溢れ出た笑みを口元に浮かべていた。

 チャンドリカはピンクのウェディング・ドレスをまとっている。

 彼女の後ろをベールガールとして、11歳になったリンダ・ハドフィールドが緊張した面持ちで続いた。

 12年前、リンダの両親の結婚式ではダーファがベールボーイを務めたが、今度はリンダがダーファ達のベールガールを務めた。

 チャンドリカは純白のウェディング・ドレスを希望したが、中国では白い衣装は葬送用を意味し、目出度い席では敬遠される。彼女は中国の慣習に倣った。

 上海での結婚式に続いて、インドでも披露宴を開く予定だった。

 チャンドリカの両親は地元では名士であり、血縁者や地縁者達を招いた披露宴は三日三晩の長丁場となるだろう。インドの披露宴では、新郎新婦は会場に座り続け、祝福に訪れた多数の来訪者から好奇の目を注がれる。

 純白のウェディング・ドレスは、その時に着用するつもりだ。

 この場に本物の神父は居ないので、変則的だが、介添人としてチャンドリカをダーファの横まで誘ったプラトッシュがまま、神父役に早変わりした。

 短めの挨拶をした後で、2人に指輪を交換させた。招待客の前でキスさせる事は流石さすがに控えた。

 指輪交換の後、自分達の姿を間近で招待客に披露する為、2人は手を添え合ってキャンドルライトを持ち、各円卓に設置された蝋燭に火を灯して回った。

 火の灯った蝋燭は赤い提灯を被せられ、中国風を感じさせた。

 そして、衣装替えの為に2人は一旦会場を後にした。

 30分後、2人はチャイナ服に着替えて戻って来た。

 ダーファは青黒く落ち着いたチャイナ服を着ており、チャンドリカは鮮やかな赤いチャイナ服をまとっていた。2人は親族の座る円卓に加わった。

 此処からは中国式の結婚式となる。宴会が賑やかに再開された。招待客は思い思いに2人に近寄り、談笑し、祝杯を上げては自席に戻って行った。


 招待客の祝福に囲まれ、結婚式場から出て行く新郎新婦を見送った後も、イレーネ達5人はロビーまで移動しただけでしばらく佇んだままだった。

 楽しい宴の後には寂寥感が漂う。

 5人は、自分達も散り散りになる事を思い出し、お互いの別れを惜しんだ。

「若い2人の門出を見送るって、良いわね」

 招待客に挨拶している2人を遠目に眺めながら、タルヤが呟いた。

 プラトッシュが同調する。

「本当にそうだ。俺は、孫みたいな年齢のチャンドリカと数年生活を共にしたが、今なら親の気持ちと言う奴が分かるような気がする・・・・・・」

「子供達に松明たいまつつないで行く・・・・・・。これが人間の営みなんだわ」

「そうだな。俺達が生まれた“未来”では先細りする将来の可能性が濃厚だったからなあ。

 人々は自分達の行く末に自信を喪失してしまい、とても松明を繋ぐと言う感じではなかったものなあ」

「本当。“此の世界”では若い世代が将来に希望を持てる世界であって欲しいわ」

「その為に俺達5人は苦労してきたんだ」

 プラトッシュは自分に言い聞かせるように強い口調で言った。

 エディットが2人の会話に加わった。

「私も養子を取るチャンスが有ったら良かったのに――と、この歳になって思うわ。

 私の人生は人工胎盤で新生児を生ませる助産婦みたいな立場だった。

 まぁ、神の子を取り上げているんだ――って思う事にしているけれど、私を養子にしてくれたフランス人夫婦の気持ちも良く分かる」

 タルヤがフェイとイレーネの方を向いて尋ねた。

 フェイとイレーネは、タルヤのマンションを出て、同じ北京市内だが別のマンションに引っ越していた。

「フェイとイレーネは結婚式を挙げないの?」

 話題を突然振られた2人は顔を見合わせる。そして、イレーネが答えた。

「今の儘で十分。それに私も55歳よ。こんな叔母ちゃんにウェディング・ドレスは似合わないわ。

 チャンドリカの様に若い娘じゃないとねえ?」

 悪戯染みた軽口を叩くと、フェイを揶揄からかうように見詰めた。

 プラトッシュが混ぜっ返す。

「俺なんて72歳だぞ。俺に比べたら、イレーネは若いよ。未だ未だ綺麗だよ。なあっ!」

 フェイの肩を小突いて女性陣の笑いを誘った。

「でも、君達に会うのは、もう、これが最期だろうな」

 少しシンミリした口調でプラトッシュが続ける。

「これから如何どうするの?」

 エディットがプラトッシュの今後の予定を尋ねる。

「またインドに帰るよ。静かな生活に戻る」

「インドって生活し易いの?」

「そりゃぁ、上海なんかに比べたら不便さ。でも、年寄りには丁度良い。

 俺の屋敷には、沢山の子供達が居るしな。都会の喧騒は無いけれど、子供達の笑い声に囲まれているから全然寂しくはないよ」

「ねぇ、私もプラトッシュの屋敷に付いて行っても構わないかしら?」

 エディットが尋ねる。

 エディットは、人工胎盤技術の開発を終え、上海で手持無沙汰な毎日を送っていた。

 上海では教会によるボランティア活動に参加すると言うのも難しかった。孤児達を育てると言う暮らしはエディットの理想でもあった。

 それに・・・・・・CDC隔離棟で一緒に過ごした頃から、プラトッシュを人間的に良い男性だと思っていた。

 老い先短い自分の人生を全うするに当り、気心の知れた同志的関係のプラトッシュと最後の時間を共有するのは、悪くない選択だった。

「上海の方が便利だぞ?」

 そんなエディットの女心に気付かず、彼女の真意を測りかねたプラトッシュは怪訝な表情を浮かべる。

 プラトッシュは人格的に良い人間だし、第三者を冷静に観察する分には鋭いが、自分が相手にする女性に関しては、感情の機微を中々察知できない。

 そんな鈍感な処は昔から全く変わっていなかった。

「でも、此処じゃ独り暮らしなのよ。寂しくってね。

 プラトッシュの屋敷で子供達の相手をすれば、寂しさも紛れるでしょう。

 そうだ! タルヤ! 貴女も一緒に行かない? 貴女だって北京で独り暮らしなんでしょ?」

「そうねえ、そうしようかな?」

 タルヤも独り暮らしの寂しさは身に沁みていた。

 エディットの提案は突然だったけれど、タルヤの気持ちは揺れ動く。

「でも・・・・・・プラトッシュの屋敷では家政婦さんが働いているのかしら?

 インドまで行って、プラトッシュの部屋を掃除するなんて、勘弁してもらいたいわ」

「そう言えば、隔離棟のプラトッシュの部屋ってゴミ屋敷だったわよね。今も相変わらずなの?」

「心配ご無用。ちゃんと家政婦は居るよ。それに屋敷は広いからな。多少散らかっていても気にならないよ」

 冗談めいた反応をしてエディットの提案を一時的にはぐらかしたタルヤであったが、短い逡巡の末にインド行きを決心した。

「ダーファとチャンドリカ以外の子供達にも松明を引き継がなくちゃね。

 でも、プラトッシュの屋敷は孤児院から養老院になっちゃうわね」

 タルヤの冗句に皆が笑った。タルヤが、思い出した風に、フェイとイレーネに尋ねた。

「貴方達は、如何どうするの?」

「うん。この4年間、イレーネと2人で中国のあちこちを見て回ったよ。自分が幼少期を過ごした場所を確認してみたい――と言う気持ちも有ったからね。

 でもね、何か違うんだ。シックリ来ないんだよ」

「何がシックリ来ないの?」

「うん。当然だけど、同じ中国と言っても“此の世界”の中国には僕の知り合いが1人も居ない。自分の故郷であっても・・・・・・だ。

 人生って、自分の知り合いとつながって歩んで行くものなんだって、今はそう実感している。

 だから、僕達にとっては、この5人が特に掛け替えのない存在なんだって。そう思う」

「そうだよ。俺達5人は、血は繋がっていないけど、確かに家族なんだよ!」

「だったら、フェイとイレーネも、インドに来るのね?」

「うん、最後はインドに行くよ。でも、もう少し待って欲しいんだ。

 僕達は人類を救おうとして“此の世界”に遣って来た。だから、実際に世界が救われつつあるのか如何どうか、自分の目で直に確かめてみたいんだ。

 イレーネと2人で世界を回って来ようと思う」

「手始めに何処に行こうとしているの?」

「コロンビアだ。イレーネも見たがっているし、イレーネの故郷を最初の訪問地にしようと思う。2人の原点だからね」

 そう言うと、フェイはイレーネと目を合わせた。

「分かった。お前は俺より6歳も若い。俺の替りに世界を確かめて来てくれ。

 そして、俺達に教えてくれ」

 プラトッシュは、「でも急いでくれよ。俺も72歳だ」と言いながら、フェイに手を差し出した。

 フェイはプラトッシュの手を握り返し、2人は固く握手した。


 根治療法を手に入れたアメリカ政府と中国政府であったが、其々それぞれに悩みを抱えていた。

 アメリカ政府の重水治療技術は治療期間が短いのが取り柄だが、その施術装置が高価だった事である。高い製造コストが原因だが、それは繊細な施術装置が大量生産に向かなかったからである。

 一方の特効薬であるが、中国政府は大量生産に目途を付けたものの、所詮は漢方薬の範疇なので長い治療期間を必要とする点が短所であった。

 帯に短したすきに長し。

 双方とも治療実績を積み上げるのに苦労した。時間と共に中国政府は特効薬の量産規模を拡大したので、どちらかと言えば、特効薬の方に軍配が上がりつつあるが、それでも十分ではなかった。

 根治療法が普及するまでの間、人工妊娠サービスで出生率を底上げしなければならない。

 でも、60億人の世界人口を維持するには、毎年1億人強の新生児が生まれる必要があった。必要数に比べて、人工妊娠サービスが対応できる人数は桁違いに少なかった。

 しかも、人工妊娠サービスが始まった地域は富裕国に偏っていた。よって、世界の出生率は徐々にだが、開発途上国を中心に確実に減少し始めた。

 出生率の下降推移を表示した折れ線グラフを眺め、世界中の人々は落胆を隠せずにいた。

 更に、全世界に共通する問題があった。

 両政府の根治療法で健全な身体を手にした患者が退院すると、また感染者に接触せざるを得ない。つまり、治療と再感染のスパイラルから抜け出せなかった。

 冷静に考えると当たり前の事で、何故これまで思いが至らなかったか?――と、不思議な気がする。

 まずは根治療法の開発だと一目散に駆けてきたのが現実で、いざ開発してみると中々抜け出せないジレンマであった。

 5年余りの睨み合いの結果、これでは埒が明かないと判断した米中両政府は、阿吽の呼吸で歩み寄りを見せた。

 そして、2076年。国連加盟国は全会一致で南極条約を締結した。南極条約の骨格は大きく2つ有った。

 1つ目は、ハンドリングすべき世界人口を少しでも減らそうと言う趣旨から、南極大陸に冷凍睡眠カプセルの大規模な保存施設を建設するのである。南極条約の名前は、このコクーン建設地に由来している。

 出生率低下と裏腹の高齢化に直面した各国は、身体的弱者を養う余裕を喪失しつつあった。

 アンドロイドの存在は社会活動の維持と言う観点で非常に助かりはしたが、アメリカ政府がリースしたのは富裕国だけであり、その恩恵は偏っていた。

 従って、アニー社のアンドロイド事業を分離して国連信託企業とし、全ての加盟国を平等に扱い、冷凍睡眠対象者の選出と同数だけアンドロイドをリースする体制に移行した。

 各国政府としては国民の誰を冷凍睡眠対象者にするか?――と言う悩みと向き合う事になるが、国際的には富裕国と開発途上国の不公平感を大きく解消する妙案であった。

 2つ目は、軌道エレベーターを建設し、更には宇宙コロニーを建設する事で、骨髄病の完治者を其処に隔離しようとする政策だ。

 完治者の隔離と言う目的とは別に、原子力発電所の放射性廃棄物を宇宙空間に廃棄する手段としても期待されていた。

 台湾滅亡の事故を契機に、国際社会が原子力発電所に向ける視線は厳しくなっていた。

 重水を製造するエンリコ・フェルミ炉の存在があるので、原子力発電所を一網打尽に休止しろ――との急進的論調が国際世論の主流となる事は無かったが、少なくとも放射性廃棄物の始末には答えを出す必要があったのだ。

 重力と遠心力の双方に引っ張られ、その張力に耐えうる素材を開発できるか否かが技術的課題であったが、その製造に目途を付けた日本企業があった。

 また、軌道エレベーターの設置場所は、建設の容易さから赤道付近とするのが望ましい。

 高緯度の場所に建設すると、軌道エレベーターは真っ直ぐに天頂を目指さず、斜めに傾いてしまうからである。

 一方で、赤道付近に適切な場所を探す段階に至ると、大半の陸地は火山帯と重複しており、この100年の大計とも言える軌道エレベーターに適切な建設地としては認められなかった。

 よって、海洋に人工浮体構造物を浮かべ、其処を基点とする案が採用された。

 候補地となる海洋には、太平洋と大西洋、インド洋の3つが挙がるが、運用を考えると陸地と近い方が経済的にも相乗効果を狙い易いと言う理由で、インド洋に軍配が挙がった。

 当初はアメリカ政府が難色を示したものの、中国政府が人工浮体構造物を中心とする半径100㎞圏を国連信託統治領とする事を提案し、アメリカ政府も妥協した。

 南極大陸で冷凍睡眠に入る感染者を増やすと共に、完治者の宇宙への避難を同時に進める事で、地上に残った感染者数を徐々に減らす。

 そして、オーストラリア等への集団隔離で制御できるレベルまで落ち着いた時点で、地上での根治療法を一挙に進めようと言う長期戦略だ。

 この2つの政策は、イレーネ達が出発した“未来”と同じ結論でもあった。

 ただ、イレーネの“未来”が重水治療しか解決策を準備できなかったのに比べ、“此の世界”では特効薬を追加で手に入れていた。

 しかも、中国政府は特効薬の製造能力を幾何級数的に上げていたので、人類全体の治療に必要な期間は短くて済むだろう。

 将来に対して遥かに強い期待を抱く事が出来た。

 尚、北朝鮮は国連総会の場で賛成票を投じたものの、自国の政治体制を国際社会に開くべきなのか?――に未だ逡巡している。ただ、遅ればせながら、北朝鮮にも骨髄病の感染は広がりつつあった。

 金総括書記としては、閉鎖的な政治体制を続ける限りにおいて、支配する国民が砂上の楼閣の様に若年層から崩れて行くと言う究極の選択を迫られていた。

 今や、国際協調のネットワークに身を投じなければ、国家は生き残っていけなかった。アメリカ政府と中国政府でさえ、例外ではなかった。

 イレーネの“未来”の様に地球連邦政府が樹立されるのか否か――は、誰にも分からなかったが、国家と言う仕組みは明らかに形骸化しつつあった。

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