22. インド辺境の混乱【2060年代後半】

 時間宇宙の意思が台湾人に亡国の運命を突き付けた2065年、プラトッシュはラージャスターン州の州都ジャイプルに移住した。

 この地に知った人間は1人も居ないが、インド北部に位置する彼の故郷である。

 インドでの唯一の知り合いは、200㎞ほど北東に離れた首都ニューデリーに少尉として駐在するダーファである。

 プラトッシュ自身は、アニー社の技術顧問として得た報酬を使い、ジャイプルで豪族の邸宅だったと言う廃墟を広大な庭付きで購入した。

 インド近世の特徴を踏襲した煉瓦造りの大邸宅だったが、人が住めるように改装する為には、購入費以上の資金が必要だった。未だ一部は工事中だったが、2065年の暮れに移住して来た。

 ラージャスターン州はパキスタンと国境を接しており、両国の国境線も2年前の終戦協定に従って大きく後退していた。

 インドの中でもヒンズー教の教えが色濃く残るラージャスターン州では、終戦後に進出して来たイスラム教徒との間で不穏な空気が流れていた。

 プラトッシュ自身は信仰を持たないままだったし、もう老い先も短いので、今更どちらかの宗教に肩入れするつもりは毛頭無かった。

 暴動に巻き込まれず静かに生活できれば、それで良かった。

 幸い、ダーファが州知事に紹介状を書いてくれ、治安部隊の警護対象にプラトッシュ邸の屋敷を指定してくれたので、非常に心強かった。

 それに大邸宅周辺の人口密度は極めて低く、荒れ地か綿花畑だった。暴徒が集まるような場所には全く見えない。

 この地でプラトッシュは、人生最後の奉公だ――と心に決めて、無償で女性や子供を教育する慈善事業を始めた。

 プラトッシュ自身には慈善活動の運営経験が無く、自分は役に立たない人材だと最初からわきまえていた。だから、運営の核となる人材を雇った。

 チャンドリカ・パティルと名乗ったその女性は2044年生まれ。インド人としては色白の肌をしており、鼻筋のハッキリした顔立ちで、身長170㎝程の魅力的な女性だった。

 面接の時、プラトッシュは「自分はこの女性の孫の世代に当たるのだなあ」とボンヤリ考えた。

 チャンドリカはデリー大学で教育論を修め、当然ながら英語も堪能だった。

 インドの公用語の1つは英語だが、インド人の訛りは酷くてプラトッシュには聞き取れない事が多かった。それに学校教育を受けていない者も使用人には多く、彼らは英語を全く理解しなかった。

 だから、チャンドリカは自然と、大邸宅での執事役もこなすようになった。

 チャンドリカが執事としての仕事に追われ始めたので、肝腎の慈善事業の為には追加で人材を雇った。

 チャンドリカが面接して採用者を決めた。プラトッシュの出した条件は1つだけ。綺麗な英語を話す事、だった。

 大邸宅の屋敷には使い切れないほどの部屋数が有ったので、教育スタッフだけでなく、引き取った孤児や夫の暴力から匿った婦人やらも多く住むようになった。

 軟禁生活が長かったプラトッシュには、大家族の賑やかさが逆に心地良かった。特に子供達の笑い声を聞くと心が和んだ。

 時折、ダーファが休暇を取って遊びに来た。プラトッシュにとってダーファはインド情勢を把握しておく上での貴重な情報源である。

 そんな時はチャンドリカも呼んで3人で紅茶を飲んだ。

「福建省の事故と言うか、台湾の事故と言うか、あちらの騒ぎはリウ少尉には大して関係しないのか?」

「インドはインドですから。人民解放軍としても、インド再建の責務から手を抜く事は考えていません」

「立派な事だ。でも、自分の故国に衛星ロケットが墜落して、あんな大参事を招いたんだ。

 君も心中穏やかではないだろう?」

「それはそうです。しかし、軍隊に入ったからには、自分の役目を果たすのみです」

「あっちは落ち着いたのかね?」

「まだ混乱の渦中のようです。台湾からの避難民が戻れるか如何(どう)かも定かではありませんからね」

「戻れなかったら、如何どうするんだろう?」

「私には分かりません。でも、台湾人といえども、中国人ですからね。逞しく生きて行きますよ」

「そんなものかねえ」

「一方で、此処はインドの中でも別世界ですねえ」

「そうかい?」

「ええ、平和ですよ。此処の州知事は優秀ですからね。よく治めていると思いますよ」

「パキスタンとの国境地帯は、どんな感じなんだい?」

「奇妙な緊張感が漂っていると言う感じですかね。

 ラージャスターン州側より寧ろ、パキスタン側に不穏な空気が流れています。

 と言うのも、いよいよパキスタンでも骨髄病の発症者が多発しているようで、内部崩壊を起こし掛けています」

「宗教的善意による虐殺って奴が本格化したって事か?」

 プラトッシュの指摘にダーファは頷いた。

「ラージャスターン州ではヒンズー教が強いと聞いていますが、イスラム教徒が皆無と言うわけでもありません。

 州知事としては、自国のイスラム教徒に虐殺の騒ぎが伝播しないか、寧ろそちらに気を揉んでいます」

「チャンドリカ。一方のヒンズー教徒は、宗教的善意で骨髄病の発症者を虐殺しようなんて発想に至らないのか?」

 プラトッシュは隣に座るチャンドリカに意見を求めた。

 イスラム教徒とヒンズー教徒を比べると言う論評は、無信心なプラトッシュやダーファには難しい所作だった。

「ヒンズー教には沢山の神様が居ますからね。宗教的な潔癖症を押し通すと言う信念は薄いと思いますよ。

 ヒンズー教の問題は、カーストに顕著ですけど、逆に交わらない点に有ります。ヒンズー教徒同士であっても、中々協力しようと言う動きになりません」

「その為にも教育だな。チャンドリカ! 俺達、頑張ろうな」

 プラトッシュとチャンドリカの仲は労使関係と言うよりも同志関係と言った方が馴染む。チャンドリカを励ますように、プラトッシュは自分自身も含めて鼓舞した。

「ええ、そうです。

 でも、グプタさん。ラージャスターン州には、教育を受けても、それに相応しい職業が大して無いと言うのが問題ですよ」

「確かになあ。綿花畑と紡績工場くらいしか目ぼしい産業が無いからなあ。

 世界遺産は多いけれど、観光産業としてのインフラは全く駄目だからなあ」

 チャンドリカの指摘はもっともであった。

 3人が集うテラスから屋敷の周囲を見回しても、人工の構造物は何も視界には入って来ない。赤茶けた荒地に枯れ木と見間違えそうな灌木が疎らに生えている光景のみが広がっている。

 ぼやく事しかプラトッシュには出来ない。

「リウ少尉。ラージャスターン州の知事は産業振興について、どう考えているんだろうか?」

「我々、中国政府に産業振興の為の支援を求めています。

 インド南部では自動車産業が盛んですが、北部の産業基盤は弱いですから。

 そう言えば、父が董事とうじをしているウサギの血液パックの会社ですが、インド進出を考えているみたいです。

 インドでも骨髄病の発症者が増えていますから、現地生産しても事業が成り立つだろう――って、考えているみたいです。

 早ければ、今年中に進出地を決めるそうですよ」

「リウ少尉。是非、このラージャスターン州に誘致しろよ。

 この屋敷で養っている子供達の就職先になるしな」

「リウ少尉。私からも、お願いします」

 チャンドリカが頭を下げると、ダーファは頬を紅くした。

 プラトッシュはティーカップに口を付けたまま、若い2人が交わす仕草を黙って見守っていた。

――2人とも純真で何と初心うぶな仕草だろう。

 プラトッシュは自分達“未来”の人間と比べてしまい、そんな2人を微笑ましく感じた。

“未来”において、殆どの病気に治療法が確立されていた。性病の類も例外ではない。

 唯一の例外が骨髄病だったのだが、人類の大半が感染してしまえばセックスを躊躇ためらう理由にはならない。妊娠の可能性を気にする必要もない。

 労働はアンドロイドに任せ、人類は享楽的な暮らしに耽溺していれば良い。

 だから、時候の挨拶と同じくらい気軽に性行為に及んでいた。

 チャンドリカやダーファのように二十歳を過ぎたばかりのエネルギッシュな年頃の男女ともなれば、意気投合してベッドに転がり込まない男女を探す方が難しかったのだ。


 2066年、ダーファのロビー活動が効を奏したのかは定かでないが、ヤン・カイコーが董事とうじ長を務める国営企業は、ラージャスターン州にウサギの血液パックの製造工場を建設する事を決定した。

 その建設予定地はジャイプル近郊で、プラトッシュ邸の屋敷からも近い。

 プラトッシュは請われて、その現地会社の役員に就任する事になった。

 少しでも親交の有る人間を役員として起用する事は、過去に鍛造部品工場のインド進出を敢行したヤン・カイコーにとっても安心材料になった。

 年老いたヤン・カイコーの野心は以前に比べて小さく、今は寧ろ安定と安寧を求める傾向が強かった。

 役員に就任したプラトッシュは、大邸宅周辺の土地を更に買い増し、ウサギの放牧地とする準備を進めた。

 そして秋も深まった頃、ウサギの血液をパックに詰める小さな工場が稼働を始めた。

 行く行くは一大生産地となる予定だが、第Ⅰ期としては小さく立ち上げた。まだインド需要の強さに自信を持てなかったからである。


 2067年3月の或る夜。

 プラトッシュ邸の屋敷を取り囲むように、松明を持った民衆が集まり始めていた。

 使用人の1人が群衆に気付き、就寝中のプラトッシュを起こしに来た。

「旦那様。起きてください。大変でございます」

「何だ? こんな夜更けに?」

「大変でございます。窓の外をご覧ください。不穏な輩が屋敷を取り囲んでおります」

 緊張の面持ちの使用人が指差す通り、プラトッシュは顔を窓に向けた。

 プラトッシュの寝室は2階にあり、窓からは星空しか見えない。ベッドから起き出し、足をスリッパに通すと、抜き足差し足で窓際まで近付いた。

 使用人の報告する通り、屋敷を取り囲んでいる松明の火が確認できた。

 松明の火は闇の中にポツリポツリと言う風で灯っていたが、大邸宅の敷地は広い。

 落ち着いて松明の数を数えれば、百を下らないだろう。松明を持たない人間も含めると500人超となるのは確実だった。或いは千人以上の民衆が集まっているのかもしれなかった。

 この様な事態は初めて経験する。

 言い知れぬ恐怖を感じたプラトッシュは、深夜の遅い時間だったが、ダーファに電話した。

「リウ少尉。夜分遅くに電話して申し訳ない。ところで、今、私の屋敷は松明を持った群集に取り囲まれているんだ。こんな事は初めてでね。

 この屋敷は大きいから、金持ちが住んでいると言うのが一目瞭然だ。

 地元住民が集団で強盗に押し入って来るんじゃないか?――と、冷や冷やしている。

 どうか助けを寄越してもらえないだろうか?」

 ラージャスターン州では民衆蜂起の報告を受けていないが、他の州では幾つもの事例が有ると聞いていたダーファは真剣な表情で、プラトッシュからの電話に耳を傾けた。

 プラトッシュ邸でも民衆蜂起が起きたとなると、ラージャスターン州の全域で連鎖反応を招き兼ねない。

「分かりました。屋敷の人間を1つの場所に集めておいてください。

 民衆が押し入って来ても、ミスター・グプタは決して抵抗しないでください。私達が到着するまで身を隠して頂くのが最善です」

 プラトッシュは「承知した」と言ってダーファとの電話を切ると、使用人に対して「屋敷に住まう全員を大広間に集めなさい」と指示した。

 プラトッシュもパジャマを脱いでシャツとズボンの動き易い格好に着替えると、1階の大広間に降りて行った。

 チャンドリカが子供達を連れて大広間に遣って来た。

 子供達はパジャマ姿の儘だ。子供達の半分は寝惚け眼で、もう半分は緊張で顔を強張らせていた。チャンドリカと他の孤児院スタッフが子供達をあやす。

 使用人達も全員が大広間に集合した。

 2時間後、遠くに聞こえ始めたヘリコプターの爆音が屋敷に近付いて来た。ダーファが軍用ヘリコプターでプラトッシュ邸に乗り込んで来たのだ。

 自動小銃を肩に掛け、腰回りには手榴弾を幾つもぶら下げた州兵が5人、軍用ヘリコプターに同乗していた。

 ダーファは、屋敷の芝生の庭に着陸したヘリコプターから飛び降りると、玄関の扉へと続く階段を駆け上がった。

「ミスター・グプタ! ミズ・パティル! ミスター・グプタ! ミズ・パティル!」

 屋敷の中に入ると、ダーファは大声で住人の安否を問うた。

 州兵は二手に別れ、一方は2階に続く螺旋階段を駆け上がり、もう一方はダーファと反対側の1階の部屋の捜索に散った。

 ダーファが大広間の扉を開けて入って来た時、プラトッシュの横で子供達と抱き合っていたチャンドリカは緊張の糸が途切れてしまい泣き出してしまった。

 それだけダーファの到着は不安の中で助けを待つ身には心強かったのだ。

 チャンドリカのみならず、プラトッシュもダーファの到着で大きく安堵した。

「有り難う。此処には老人と女子供しか居ないのでな。

 リウ少尉が駆け付けてくれたのは、本当に心強い」

「とんでもありません。ところで、屋敷の外の様子はどんな感じなのですか?」

「屋敷の中に籠っていたから、俺にも分からん。

 ただ、今の処、屋敷の中に押し入ろうとする動きは無い」

「どうやら間に合ったみたいですね。

 ミスター・グプタとミズ・パティルの安全を確認できたので、私達で外の様子を直に確認してきます」

 プラトッシュとチャンドリカはダーファの言葉に頷いた。

 ダーファは無線機で5人の州兵を呼び戻す。プラトッシュらの安全を確かめたダーファは、州兵を引き連れて屋敷の外に出て行った。

 一方、屋敷の外では、ヘリコプターの爆音に驚いた一部の住民が逃げ惑い、屋敷を包囲する群衆の輪が大きく崩れ始めていた。

 20分ほど経った頃、大広間に戻って来たダーファに聞いた処では、この近辺――と言っても屋敷から相当に離れているが――其処の村人達が屋敷を取り囲んでいたのだった。

 その村は細々と自給自足の生活を送っている貧乏な村で、血液パックを買う金銭的余裕が村人達には無かった。一方で、骨髄病の発症者が出始めていた。

 村にはテレビやラジオの類が無い。外部の情報は人伝の噂話でしか入ってこない。

 ウサギに限らず家畜の生き血を飲む事で骨髄病の対症療法となる事を、彼らは知らなかったのだ。つまり、血液パックの中に含まれている薬を飲まないと呼吸困難で死んでしまうと思い込んでいた。

 追い込まれた彼らは、血液パックを寄付して貰おうと直談判する為に、血液パック工場の経営者の住む屋敷に押し駆けた。

 ところが、いざ広大な屋敷に到着してみると誰もが圧倒されてしまった。屋敷の主人を夜中に叩き起こして談判する度胸を奮い立たせる事が出来ず、屋敷を取り囲んだ状態で無為に時間を過ごしていたと言うのが真相だった。

 プラトッシュはチャンドリカを伴うと、村長格の男に事情を説明した。

 家畜の生き血を飲めば、対症療法としては十分だ。血液パックは利便性を売り物にしているに過ぎない、と。

 真相が分かってしまうと拍子抜けだが、それまでは本当に怖い時間だった。プラトッシュとチャンドリカはダーファに何度もお礼を言った。

 ダーファがヘリコプターに乗り込む際、感極まったチャンドリカは彼の首を強く抱き締め、熱くキスした。不意打ちだった。

 意中の女性から突然キスされたダーファは大きく目を見開き、チャンドリカの豊満な身体を強く抱き締めるべきか、或いは引き離すべきかで躊躇した。部下の州兵は皆、無表情に見て見ぬ振りをしている。プラトッシュは、チャンドリカの情熱的な一面を初めて目にする事になり、少し唖然とした。


 この夜の経験をダーファは上司に報告し、翌日には各州政府を通じて、血液パックに依らずとも家畜の血液を直接飲用すれば対症療法として有効である事を公布した。

 この公布は小さな行為だったけれども、予防的に民衆蜂起の芽を摘んだと言う点では、大きな効果を上げていた。

 また、今から中印戦争を振り返ってみると、血液パックの供給が滞った事でインド国軍全体に厭戦気分が蔓延した背景として、彼らが家畜の血液で代替できる事を知らなかったからだと類推された。

 中央軍事委員会の戦史編纂局は、中印戦争の勝因分析において『情報戦における敵失も大きな貢献を果たした』と後に評価している。


 2067年6月、エディットは中国でも人工胎盤技術を完成させた。

 中国国営放送は、その完成を大きく報道した。報道から間も無く、中国共産党の目論見通り、アメリカ政府は人工妊娠サービスの海外展開を環太平洋経済同盟と米欧経済同盟以外の国々にも解禁した。

 根治療法としては、アメリカ政府が、2065年の重水治療技術の完成に続いて、翌2066年にはエンリコ・フェルミ炉を再稼働させて重水の量産体制に入った。

 一方、中国では、2068年に北京中医薬大学が骨髄病の特効薬を突き止めた。その特効薬はチントテチンと命名される。

「大量生産化にはもう一段の研究開発が必要だが、その暁には漢方薬事情報工学として新たな産業を育成し、西洋医学に勝るとも劣らない医療サービスを全世界に提供して行く」と中国共産党は大見得を切った。

 こうして人類は骨髄病の治療法を2つも手に入れた。

 但し、アメリカ政府と中国政府が保有する根治療法の治療能力は双方ともに、60億人と言う世界人口をカバーし切れるレベルに至っていない。

 限られた治療能力を使って自陣に有利な展開を如何に果たして行くか?――と言う旧態然とした思惑に囚われており、お互いに胸襟を開いたわけでは決してない。

 しばらくは両陣営の睨み合いの時代が続く事になる。

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