18. 米中の相互牽制【2060年代初頭】
中国の郭国家主席は、任期最後の外遊先としてアメリカ合衆国を5月に公式訪問した。その公式訪問の当初の目的は、太平洋を巡る勢力争いと北朝鮮問題を話し合う為であった。
しかしながら、両政府が公式訪問の日程を固めた後で、中国政府は爆弾会見を開催した。フェイの自叙伝の出版発表会である。その影響は大きく、善玉の中国政府が悪玉のアメリカ政府の陰謀を追及すると言う構図が鮮明となっていた。
アメリカ政府としては好ましくないタイミングの外交イベントとなったが、世界の2大国として、お互いに友好関係は維持しなければならない。
それに、中国政府の思惑を少しでも引き出したい――と言う気持ちも、アメリカ政府には有った。よって、国家主席の訪問を予定通りに受け入れたのである。
マスメディアの前で笑顔を振り撒きつつホワイトハウスに消えたマッケンジー大統領と郭国家主席は、会談のテーブルに着くと早速、火花を散らした。
「郭国家主席、我が国を訪問して頂くのは、これで3度目です。両国には悩ましい事案が横たわっていますが、その解決には何よりも対話が重要だと考えています」
「世界で最も大きな責任を果たしておられる貴国を、我が国は尊敬しております。
しかしながら、その世界に責任を果たすと言う点について、我が国は貴国の姿勢に若干の疑念を抱いております。これは中国に限らず、あらゆる国々が今や同じだと考えます」
「アメリカ政府としては、解決策の見通しを立てた段階で公表するつもりでした。そうしないとパニックが起きるだけだ。
だが、貴国が情報を公開してしまった」
「止むに止まれぬ判断でした。
ですが、情報公開が為された今となっては、貴国には残された情報を秘匿し続ける大義名分が無いはずだ。
貴国には人工妊娠技術と重水治療技術の早急なる開示を求めたい。これらはアメリカ政府が占有すべきものではなく、人類共通の財産とすべきものです」
「ですが、アメリカ合衆国が最も大きく骨髄病の被害を被っている。
それらの技術の恩恵に最初に浴する権利がアメリカ合衆国には有る――と、私は思いますが?」
「それは構いません。
中国政府が求める事は、全世界に恩恵を分け与えよと言う事です。別に矛盾はしません」
「使節団5人の内、2人は既に中国政府が囲っている」
「ですが、3人は未だアメリカ国内で拘束されている。1人は冷凍睡眠カプセルの中で。
そのミズ・サエスですが、科学者と言う説明は嘘かもしれない――と言う情報が有ります。
御存じですか?」
「おっしゃっている事が理解できませんが?」
「核融合発電技術を独占しようとして、彼女を冷凍保存しているのでしょう?
その核融合発電は単なる夢物語で、貴国の思惑は幻想に過ぎないかもしれない――と、そう御忠告申し上げているのです」
「何を根拠に?」
「これは国家機密ですが、中国にも別の時間宇宙から来た訪問者が居るのです。
貴国が御存知の使節団が居た時間宇宙とは異なる別の時間宇宙の事です。
その訪問者が言うには、骨髄病の治療薬の材料となる薬草がチベットに存在すると。
これもまた国家機密ですが、これから中国政府は、その薬草の捜索活動を大々的に展開します。
人民解放軍が主体となりますが、アメリカ軍には誤解しないで頂きたい。これは捜索活動に過ぎず、武器の類は持ち込みません。予め通告しておかないと、無用に世界の緊張を高めかねませんからな。
ですが、中国政府は、その薬草を発見し治療薬を開発した暁には、全世界と共有しようと考えている。勿論、貴国も含みます。
だからこそ、未だ開発途上のようですが、貴国が保有する重水治療技術も我が国に提供して頂きたい。これはWin・Win関係の提案ですぞ。
もし貴国が譲歩しないならば、我が国も同様の対抗策を取らざるを得ない」
首脳会談後のプレス発表では何の合意文書も発表されなかった。
郭国家主席が「中国政府はアメリカ政府に骨髄病に関する治療技術を全世界に公表するように要請した」と一方的に発言し、マッケンジー大統領は「適切な時期が来れば、アメリカ政府は全世界に公表する」と一蹴した。
米中首脳会談を踏まえ、ホワイトハウスでは国家安全保障会議が招集された。
「国家主席が白状した「中国にも未来人がいる」と言う情報についてだが、CIAなりは何か掴んでいるか?」
「残念ながら、何も掴んでいません。そもそも、本当の話なのか
私自身、“此の世界”に来た未来人が、そんなに多いとも思えませんが・・・・・・。ブラフではないでしょうか?」
国家情報長官がマッケンジー大統領の詰問にしどろもどろで答えた。国防長官が続いて発言した。
「別の未来人の真偽はさて置き、中国政府は、その未来人の戯言を信じて行動を起こすでしょう」
「捜索活動を展開する人民解放軍が武器を持っていないと言う事を確認できるな?」
「はっ。それは大丈夫です。偵察衛星で確認できます」
首席補佐官が冷静に新たな疑問点を提起した。
「使節団の5人は重水治療しか根治療法が無いと言っていました。
本当にチベットに特効薬が有るのでしょうか?」
国防長官が反応する。
「それも分からん。
だが、中国政府は本気で信じているようだ。そうでないと、人民解放軍をチベットに動かさないだろう?」
首席補佐官が食い下がる。
「だったら、中国政府の要請に応じた方が賢明ではありませんか? 重水治療技術を開示しろと言う要請ですが」
国務長官が無碍に否定する。
「そんな事は有りえん。仮に中国政府の主張する新たな未来人が居るとして、だ。
彼らは未だ特効薬を手に入れた訳ではない。こちらは重水治療と言う実態の有る物を手にしている。今、中国政府の要請に応じるのは、空手形に金を払うようなものだ」
マッケンジー大統領が質問した。
「その重水治療だが、進捗は
アラスカ州ジュノーでは、フェイが首席補佐官と強気の交渉をしていた。
アニーの保存した映像情報が流出した御陰で、フェイとプラトッシュが使節団のメンバーだった事が海軍基地でも明らかになっていた。基地外を出歩いた時には民間人の目にも触れる。
中国政府の情報開示から間もなく、インターネット上にはフェイとプラトッシュの近況映像が載るようになり、アメリカ政府から暗殺される恐れは全く無くなった。
そして、アメリカ国内でも重水治療技術に対する期待が高まっていたが、その命運を握るのはフェイ自身であった。
この5年間、冷凍睡眠カプセルに収容した刑務所の囚人を期限前に蘇生させ、必要な医療データを地道に蓄積してきた。
その開発段階の初期こそが正にフェイの知識と経験を必要とする時期であり、開発が進むに連れてフェイ以外の人間でも推進できる余地が大きくなる。
つまり、フェイとしては今こそが、自分自身を最も高くアメリカ政府に売り付ける好機であった。
フェイとプラトッシュはイレーネの蘇生を強行に主張した。イレーネを蘇生させなければ、自分達は開発をサボタージュすると。
アメリカ政府と2人の交渉は、完全に攻守が逆転していた。
首席補佐官としては条件闘争を挑むのが精々で、最終的にはイレーネの蘇生に同意した。但し、イレーネには核融合技術の概要をアメリカの科学者に教えて
フェイとしては、満額回答だった。
2062年9月、ジュノーの海軍基地内に設置された唯一の冷凍睡眠カプセルの周りでは、プラトッシュを筆頭に、医療技術チームが計器の数値をチェックしていた。イレーネの蘇生作業である。
蘇生作業自体は既に十分な場数を踏んでいるので何の心配もない。
但し、蘇生作業に長い時間が必要なのは致し方なかった。フェイは、その作業を遠巻きに眺め、待ち遠しさにイライラした。
この8年間、フェイは1日も欠かさずイレーネに話し掛けてきた。
冷凍睡眠カプセルの狭い観察ガラスには霜が付着し、そのガラス越しに見るイレーネの顔は、冷凍時の48歳の
濃い金髪をショートヘアに伸ばしていた。
細菌散布の事実が露呈して以降、隔離棟では丸坊主を強いられる事が無くなり、女性3人は髪を伸ばし始めた。
フェイは、ロングヘアにしたイレーネを見た事が無かったが、イレーネにはショートヘアが似合うと思っていた。
そのイレーネの寝顔を眺めつつ、毎日のちょっとした出来事を日記替わりに話し掛けるのが、フェイの唯一の楽しみだった。
その8年間に比べると、蘇生に必要な10日間と言うのはアっと言う間のはずだった。それでも、長く続いた諦めの期間の後に突然、訪れた再会の時である。やっぱり、待ち遠しかった。
冷凍睡眠カプセルの蓋は取り払われ、棺桶の様なカプセルの中にイレーネが裸で横たわっていた。
酸素を血管に供給する機器がイレーネの裸体に取り付けられている。心臓と大動脈、大静脈の循環系は既に蘇生し、心電図モニターが波形を描いていた。イレーネの口には酸素マスクが取り付けられ、乳房が軽く上下に揺れている。
残るは四肢の蘇生だけと言う段階まで蘇生作業は順調に進んでいた。この状態まで進むと、睡眠者の意識がフッと戻る事が有る。
フェイはイレーネが目覚める時に傍に居てあげたかった。
その日の早い日没の頃、医療技術チームの1人が小さく痙攣しているイレーネの瞼に気付いた。
恋人のフェイを手招きする。フェイはプラトッシュに目配せをし、プラトッシュもフェイに無言で頷き返した。
フェイはゆっくりと冷凍睡眠カプセルの方に歩き始めた。
自分でも緊張しているのがハッキリと分かる。気を付けて慎重に足を繰り出さないと、床を這う配線に爪先を引っ掛けそうである。
カプセルの脇まで辿り着くと、跪いてイレーネの顔を覗いた。
確かに瞼がピクピクと痙攣している。目を覚ました時に眩しくないよう、部屋の照明は落とされていた。薄暗い照明の中に浮かび上がるイレーネの表情をフェイは見詰め続けた。
その時。とうとうイレーネが重い瞼を明け始めた。
瞳の焦点が合わないらしく、
フェイが優しく声を掛ける。
「イレーネ。慌てないで。・・・・・・慌てる必要は無いんだよ。ゆっくりと目を慣らすんだ」
イレーネが視線だけをフェイの方に向けた。何か言おうと唇が震えるが、声は出ない。
「慌てちゃ駄目だ。未だ身体が覚醒し切っていないんだから」
声は出ない儘だが、唇が微かに動き、「フェイ?」と尋ねたように見えた。
「そうだ。フェイだ。安心して。僕は傍に居るよ」
イレーネは静かに瞼を閉じた。この段階では涙腺も機能していないが、見えない涙をイレーネは流した。
イレーネは蘇生後の2カ月で体力をかなり回復させていた。
最近は、短時間ながら、フェイと2人で散歩に出掛けたりもした。ただ、ジュノーは既に冬を迎えており、昼間の短い時間だけである。
イレーネには普段着が支給されていた。ジュノーの町の一般人が着るような服装であって、決して流行の服装とは言えない。
例えば、今日の服装は吊りベルトタイプのジーンズにダウンジャケットだ。でも、そんなファッションに身を包んだイレーネの姿を初めて見たフェイは、改めてイレーネを魅力的だと思った。
イレーネの方は、覚悟していた期間よりはずっと短かったとは言え、自分の冷凍睡眠期間が8年間に及んだ事実を知り、只々驚いた。そして、8年もの長い間ずっと、フェイが傍に居てくれた事に感謝した。
朝起きてから食事を摂り、他愛も無い会話を楽しみ、そして寝るまで2人は
出会ってから初めて、恋人らしい時間を経験していた。
もう少しすれば夜空にはオーロラが現れる。それまでにもっと体力を回復させて、深夜にはオーロラを2人で見よう――と、はしゃいだ。
そんな頃、首席補佐官を先頭に何人かの物理学者が、ジュノーの海軍基地を訪問して来たのである。
「早速だが、ミズ・サエス。
ミスター・ワンから聞いているとは思うが、君を冷凍睡眠カプセルから蘇生させるには条件を付けている。
核融合発電技術を我々に教えて貰う事だ。それを叶える為に、今日、此処まで来た」
首席補佐官の質問にイレーネは俯いた儘、黙り込んだ。気不味い沈黙が流れた。
「イレーネ!
堪り兼ねたフェイがイレーネを軽く小突いた。それでも、イレーネは黙り込んだ儘だった。
「イレーネ! 核融合発電の技術を彼らに教えないと、また冷凍睡眠カプセルに戻ってしまうんだぞ!」
フェイが大声で怒鳴った。イレーネは顔を上げ、目を宙に泳がせた。
「私には核融合発電の技術を教える事は出来ません」
イレーネが小声で呟いた。フェイは天を仰ぐと、「何故だ!」と大声で叫んだ。
「私は科学者では有りませんから」
予期せぬ回答にフェイは動揺した。物理学者達は事情が飲み込めず、互いに顔を見合わせている。首席補佐官だけが予期したように冷静だった。
首席補佐官がイレーネに質問する。
「貴女は、科学者でないとしたら、何なのです?」
「・・・・・・私は・・・・・・この作戦を指揮する工作員でした」
「
「・・・・・・扇動活動を専門とした工作員でした」
「貴女の未来では核融合発電を実用化したのでしょ?」
「・・・・・・していません。全ては欺瞞工作でした」
「他の4人も信じ込む程の?」
「・・・・・・そうです。この作戦は地球連邦政府が主導したものですから」
フェイは脱力して、椅子の上で身を崩した。絶望した表情を浮かべて。
一方の首席補佐官は、イレーネと密に対話した事の有るヘンリー政権以降の前任者達に、イレーネに対する感想を事前にヒアリングしていた。彼らが共通してイレーネに抱いていた印象は、科学者の割には能弁だ――と言うものであった。
結局の処、アメリカ政府がイレーネを再び冷凍睡眠カプセルに収容する事は無かった。
その可能性を中国国家主席から耳打ちされていたし、真の目的は核融合発電技術を期待できるのか否かを見極める事であった。それが確認できた今、イレーネを再び眠らせた処で何ら得るものは無かったからである。
寧ろ、中国政府が握っている情報に恐怖した。
彼らが何を知っているのか?――それを探る方にアメリカ政府としては精力を注ぎ込む必要が有ったのである。
一方、副次的効果は、フェイの忠誠心を獲得した事である。
フェイ自身はアメリカに止まり、重水治療を完成させるつもりだった。それが骨髄病の細菌を散布した使節団の一員としての責務だろうし、落とし前を着けたかったのである。
それでも、イレーネに対する温情ある処置は、フェイの気持ちを更に固める事になった。
イレーネ自身は、フェイと残りの人生を伴にすると決めていた。
プラトッシュについては、中国政府が国際社会に3人の解放を声高に喧伝していたので、中国に亡命すると意思表明する事は可能だった。
しかし、彼もまたアメリカに残留する事を決心した。自分の冷凍睡眠に関する治験はフェイの開発行為に役立つだろう。フェイも議論の相手が必要だ。それに、落とし前を着けると言う気持ちは、フェイと同じだった。
但し、プラトッシュはアメリカ残留に条件を付けた。
開発拠点をジュノーの海軍基地から南に移してくれと。「これ以上こんな寒い土地に居るのは真っ平御免だ」と言うのが、プラトッシュの言い分だった。
アメリカ政府は3人の意思を確認すると、その意思表明を伝える短い記者会見を開いた。中国政府の宣伝活動に少しでも対抗する為である。
3人が記者会見場に姿を現わせば記者達は再び興奮し、収拾の着かない状態に陥るのが容易に想像できたので、3人の意思はビデオレターと言う形で公表された。
その報道を目にしたタルヤとエディットは、少し残念な気がしたが、ビデオレターに写る彼らの表情からアメリカ残留を強制されたのではないと理解できる。
彼らが自分の意思でアメリカ残留を決めたのならば、タルヤとエディットに異存は無かった。
そのタルヤとエディットであるが、中国政府の求めに応じて、タルヤは原子力政策のアドバイザーに就任した。特に原子力発電所の安全性向上に第三者の視点で助言するよう期待されていた。
エディットは、中国人の医療技術チームを組織し、人工胎盤技術の開発を指揮し始めた。アメリカでの開発期間は8年。アメリカに比べて医療レベルが劣る中国であっても、もっと短い期間で開発を完了して欲しいと期待されていた。
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