13. それぞれの一歩【2050年代前半】

 2053年5月、環太平洋経済同盟の加盟国拡大の調印式がジャカルタで行われた。

 環太平洋経済同盟は、2010年代後半に発効したTPPを母体として発展してきた経済共同体である。TPPは、2020年代に入ると、原加盟国に韓国・タイ・インドネシアが加盟し、2020年代後半にはミャンマー・フィリピンも含めたASEAN全ての加盟国が参加する事になった。

 その後、20年余りも加盟国メンバーに変化はなかったが、2050年になると、それまで中華人民共和国との距離感に揺れていた台湾が環太平洋経済同盟の参加検討を表明。

 2053年にようやく正式加盟の運びとなった。

 台湾の中では、中国寄りの国民党と台湾独立志向の強い民進党が一定期間ごとに政権交代し、その度に国論は揺れてきた。

 だが、2032年に中国共産党がダライ・ラマ16世の亡命政府とチベット自治政府の発足で合意した事が台湾の世論に大きく影響した。その出来事1つだけならば、大陸の中国政府を疑って掛かる台湾国民の疑心暗鬼を解消する事は出来なかったであろう。

 ところが、その後も中国共産党はウィグル自治区でのイスラム自治政府の樹立を認めてイスラム教徒に融和的な政策を採用し、更にインドとも友好関係を深めて天竺鉄道を開設するに至り、大多数の台湾国民は中国共産党への見方を変えて行った。

 つまり、建前としての一国制度を否定しさえしなければ、台湾が国際社会に出て行く事を中国共産党は黙認するであろうとの楽観論が広がったのである。

 この日、ロビンソン大統領は台湾の加盟式典で基調演説を行った。

 この加盟式典に1年早く辿り着いていたならば、前年の大統領選挙でもう少し楽に勝利できたのに――と思いはしたが、結果的に再選を果たしたのだし、アメリカ陣営の経済体制が盤石になる事は、兎に角、めでたい事だと思い直した。

 マスコミ陣の放つフラッシュを浴びて、ロビンソン大統領は演台に登った。

「本日、環太平洋経済同盟に台湾を迎える事が出来ました。

 この環太平洋経済同盟は、古典派経済学派のリカードが提唱した比較優位理論を推し進める仕組みです。つまり、個々の加盟国は自国の得意な産業分野に特化する事で全体最適を追求しようと言う仕組みです。

 一国だけでは経済活動が完結しません。この相互依存の関係が、国際関係を友好的なものにして行きます。

 勿論、国際貿易には一定のルールが必要です。

 このルールは2010年代後半に原加盟国の間で合意され、その透明性と有効性が国際社会に認められたからこそ、加盟国は21カ国まで広がりました。

 そして今日、22カ国目として台湾が参加する事になりました」

 対米輸出に高い関税を課すロビンソン・プランは、発表当初、自由貿易を標榜する環太平洋経済同盟の加盟国から相当な不評を買った。

 この批判に対して、ロビンソン政権は、最終製品をアメリカ国内で組み立てる事を条件に部品輸出に関しては高い関税を免除すると言う条件付き譲歩案を提示し、国内の労働組合勢力との妥協を図った。

 アメリカ人の労働者は同時に消費者でもある。その消費者物価をいたずらに押し上げる事が保護貿易政策の本意ではない。

 ロビンソン・プランの原理原則はアメリカ国民の生活を豊かにする事に有るのだと議会でも度々演説し、世論に認めさせてきた。

 貿易外交でアメリカ政府が譲歩した恩典も、環太平洋経済同盟に加盟しない限り受けられない。

 しかも、自動車や家電製品のサプライチェーンに着眼すると明らかだが、台湾は対米部品輸出の一大拠点であった。この様な経済構造も、台湾政府に環太平洋経済同盟への参加を迫った一因であった。

「尚、我々は、今後とも参加国・参加地域が増える事を期待しています。国単位ではなく、特区と言う地域単位での加盟でも構いません。

 環太平洋経済同盟は、決して閉鎖的な仕組みではなく、開放的な仕組みなのです」

 未加盟国への参加を呼び掛け、ロビンソン大統領は基調演説を結んだ。

 聴衆の誰もが中国をイメージした。台湾の加盟は、中国の一部地域が先行して実験的に参加したものであると言う解釈は、中国と台湾の双方にとって都合の良い解釈のはずであった。


 この年の8月、タルヤ・ハルネンの暮らすエリー湖畔の別荘宅では小さな事件が発生した。

 タルヤはデトロイトの地に引っ越して来てから2度目の夏を迎えていた。

 ミシガン州の冬は長く厳しい。北欧育ちのタルヤにとっても夏の到来は嬉しいものであった。

 8月と言えば、夏真っ盛り。デトロイトは北緯40度の地にあったが、大西洋を暖流が流れているせいで、8月の最高気温は40度近くになる。

 タルヤは週末、テラスの日陰で木製の揺り椅子に座り、一日中ブレスト湾の湖面を眺めている事が多かった。

 監禁ではなく軟禁状態とは言え、未だにタルヤを別荘宅まで訪問する人間は居らず、休日ともなれば寂しい日々を過ごしていた。

 エンリコ・フェルミ炉に出向けば、日米共同開発チームのメンバーと話を交わす。

 だが、彼らは「タルヤはアメリカ軍の秘密機関の一員であり、不必要に親交を深める事を禁止する」と最初に釘を差されていた。骨髄病の感染が唯一確実な人間であるからして、それも仕方の無い事であった。

 そんな或る日、芝生の向こう、煉瓦塀の向こうに生い茂っている灌木の茂みから、アっと言う男の子の声が聞こえた。直ぐに「助けて」と片言の英語で助けを求める声が続く。

 タルヤは揺り椅子から立ち上がって周囲を見回したが、自分だけしか居ない。守衛所は建屋の反対側にある。

 仕方無く芝生を横切って煉瓦塀の向こうに首を突き出し、灌木の茂みを覗いた。

 10歳前後の男の子が独りでうずくまっている。ハッとしたタルヤは手を口に当てた。

「カール?」

 そんなはずはない――と自分に言い聞かせながら、タルヤは思わず声を上げた。

 男の子は中国人の様だ。呼ばれた男の子は振り返り、タルヤの姿を認めると、

「おばさん! 蛇に噛み付かれちゃった! 痛いよ!」

 と泣き叫ぶ。

 突然の出来事に一瞬だけ狼狽したものの、タルヤは煉瓦塀をじ登った。

 男の子の傍に腰を屈めると、男の子の脹脛ふくらはぎを検分した。確かに2つの噛み跡が付いており、周辺が赤黒く腫れ上がりつつあった。

 タルヤは急いで自分のブラウスの裾を細く引き裂くと、その紐で男の子の膝上を縛り、毒蛇の噛み口に自分の唇を吸い付けた。

 ――男の子の体から少しでも早く蛇の毒を吸い出さなければならない。

 その一心でタルヤは傷口を吸い、吸った血をペっと吐き出す行為を繰り返した。

 これ以上は応急措置として続ける意味は無いと思われた頃、タルヤは男の子に念押しする。

「坊や、良いわね? 此処で待っていてちょうだい。叔母さんは助けを呼んでくるから」

 タルヤの言葉に黙って頷く男の子。

 タルヤは急いで煉瓦塀をじ登ると、正門脇の守衛所に向かって一心不乱に駆け出した。

「自分が傷口に唇を付けた事で骨髄病の細菌が男の子に感染したかもしれない。でも、あの場では他に選択肢は無かったわ」と、自分に言い聞かせながら・・・・・・。


 プラトッシュ、タルヤ、エディットの3人が移送され、今やイレーネとフェイの2人だけがCDC隔離棟に残っていた。

 それでも、フェイは、重水治療に関する動物実験の臨床試験結果を医学チームと確認する為に、時々はテレビ会議で外部の人間と対話していた。

 一方のイレーネは、対話する相手も無く、自室で無為な時間を過ごすしかなかった。

 フェイも多忙とは程遠い境遇なので、自然と2人で静かに話し合って一日を過ごす日々が多くなった。

 そんな中、2人の最大の楽しみは3人から寄せられる手紙を読む事だった。

 相変わらず5人が所持するタブレットの発信機能は止められたままだった。よって、チャットで無駄口を叩き合う事が出来ない。その替わり、手紙の遣り取りは黙認されていた。

 5人はお互い、自分のタブレットで作文し、同じ文面を4部印刷し、相手に送り合った。手紙の文面には宛先人を特定する表現が一切無い。誰が返信しても構わない。それに再返信する時も宛先人を特定する表現は極力使わないようにした。

 それが何とは無く、5人の間に定着した手紙のルールだった。

 CDC隔離棟を離れて間も無くの頃、プラトッシュから届いた手紙の文面は、こんな風だった。

『こちらに来たのが冬の真最中。

 北緯60度くらいの場所なので、当たり前と言えば当たり前なんだが、太陽が殆ど上がって来ない。極夜と言うそうだが、この現象には驚いた。

 屋外の空気も、最低気温がマイナス10℃を下回る日もあって、非常に寒い。

 インド出身とはいえ北部の出身だから寒さには強いつもりでいたけれど、此処の寒さは別世界だ。エアコンの効いた隔離棟が懐かしく思える時がある。

 ジュノーに来たものの、建物の外は寒過ぎて、結果的に相変わらず隔離生活みたいな生活がしばらく続きました』

 タルヤから届いた最初の手紙は、こんな感じだった。

『プラトッシュに比べると、私の住んでいる場所は気候的に恵まれているわ。

 今は初夏を迎えようとしている。木々が芽吹き始めていて、エリー湖の青い水面と綺麗なコントラストを描いているわ。

 私の住んでいる家は、昔、金持ちの別荘だったようで、快適に過ごしているわ。ちゃんと門番も控えているわ。

 食事も含めて家事の一切は家政婦が熟してくれるので、私は本当に貴婦人と言った境遇よ。まあ、家事をしないと言う点では、隔離棟の生活も同じだったかしら。

 でも、アニーが居なくなってからは、少なくとも自分の部屋は自分で掃除していたのだから、隔離棟時代よりも一段と家事から解放されているわね』

 エディットから届いた最初の手紙は、こう言う文面で始まっていた。

『私はサンディエゴ海軍基地の中にある士官用の家族官舎に住む事になりました。

 家族用官舎と言っても、家族毎に平屋住宅が割り当てられているので、私1人で広い住宅に住んでいます。

 タルヤと同じように、やっぱり家政婦が家事の一切を遣ってくれています。

 でも、この家政婦、メキシコ人だと思うの。

 意味は分からないけれど、スペイン語で私に話し掛けて来る。替わりに彼女、英語を話せないみたい。だから、コミュニケーションには苦労しているわ。

 イレーネだとスペイン語で会話できるんだろうけど、私の母国語はフランス語だから駄目。折角なので、彼女からスペイン語を習おうと考えています』

 投函時に検閲されているはずなので、手紙には当り障りの無い内容しか書かないようにしていた。

 何度かの手紙の遣り取りを経て、最も期近の手紙としては、プラトッシュがこんな手紙を寄越して来た。

『冷凍睡眠カプセルが完成に近付いている。

 チンパンジーを使った冷凍睡眠実験では、100%の確率で無事蘇生させられる。いよいよ人間を対象とした冷凍睡眠実験を始めるようだ。

 陸軍としては、この冷凍睡眠カプセルを、戦場で負傷した兵士を後方支援地域に送り返す際の道具にしたいようだ。兵士の消耗率を下げる道具と位置付けるのは、軍隊としては自然な発想だ。その内、志願兵を募るんだろう。

 冷凍睡眠技術を開発し終えたら、俺もCDC隔離棟に戻されるんだろうか?

 そうすると、フェイやイレーネと再会できるね。楽しみにしている』


 2053年10月、2年ぶりに主席補佐官相手のテレビ会議が開かれた。

 テレビ会議は既に意見交換の場ではなく、単なる事務連絡の場でしかなかった。しかも、使節団のメンバーにとっては、裁判所の判決を聞く被告と同じ境遇に置かれた事務連絡だった。

 今日の会議参加者は首席補佐官のジルマ・ルセフのみ。こちらはイレーネとフェイだけなので、3人の会議だ。

「久しぶりね。元気にしていた?」

 ルセフとしては堅苦しい雰囲気を少しでも和らげようと思って話し掛けたのだろうが、初対面と言っても大差ない対話頻度なので、どうしてもイレーネとフェイは緊張してしまう。

「ミスター・グプタから伝わっているとは思うけど、冷凍睡眠技術が完成間近だそうです。

 そして、最初の冷凍睡眠の対象者を誰にするかも、議論している最中です」

「そのようですね」

 イレーネの返事にルセフは頷いた。そして、軽く深呼吸すると、話を続けた。

「一方で、ミズ・サエス。

 ロビンソン政権は、これまで貴女の処遇に悩んできました。その結論を伝えます。

 貴女に冷凍睡眠カプセルに入る最初の人間として立候補して欲しいの」

 衝撃的な宣告にイレーネは身を固くした。寧ろ、ルセフに食って掛かったのはフェイである。

「何故です? ルセフ首席補佐官。イレーネはテロリストではないと、貴女がたも同意したはずだ」

 ルセフは顔色を変える事なく応じた。

「そうです。ミズ・サエスをテロリストとは考えていません。

 だから、志願して欲しい――と、お願いしているのです。

 ミズ・サエスの頭に有る核融合発電技術は魅力的な技術だろうと、アメリカ政府は引き続き考えています。でも、ミズ・サエスが以前に指摘した通り、我々の“現在”の科学技術では実現しようが有りません。

 しかも、我々の科学技術が発展するのを待っていたら、ミズ・サエスはお婆ちゃんになってしまうわ。

 それに、ミズ・サエスは確かにテロリストではないけれど、貴女達の作戦の全容を知っていたにも拘わらず、途中で止めなかった。

 と言う事は、道義的責任を追及されても仕方が無い――と、私は思うわ」

「それでも、イレーネが気絶している間に細菌は撒かれたんだ!

 宇宙船を操縦できないイレーネに作戦を中止できたはずがないじゃないか!」

 声を荒げて反論するフェイの横で、イレーネはルセフの発言を黙って聞いていた。

 最初からフェイと口論するつもりが無かったルセフは、フェイを無視し、無言でイレーネを見詰めた。

 数分の沈黙が続いた。

「・・・・・・分かりました。冷凍睡眠実験に志願します」

 消え入るような小声でイレーネが答えた。


 その日の夜、イレーネとフェイだけの2人切りの夕食。

 気詰りな雰囲気の中、フェイはスプーンでスープ皿をガチャガチャ鳴らしていた。

 イレーネが口を開く。

「フェイ。今日は私の事を弁護してくれて、有り難う」

 フェイは何を言って良いのか分からず、相変わらずスプーンを泳がせていた。

 イレーネは言葉を続ける。

「“此の世界”の人達にとって、私達はテロリストの集団よ。

 彼らだって、怒りをぶつける相手が必要だわ」

「だからと言って、イレーネが志願する必要は無い」

 フェイはスープ皿を見た儘、押し殺した声で、だが強い口調で言った。

「そうね。志願する必要は無かったかもしれない・・・・・・。

 でもね、作戦チームのリーダーとして、私がケジメを着けるべきだわ。

 私だって良心の呵責は感じていたのよ。これまで・・・・・・ずうっと・・・・・・。これで肩の荷が降りたような気がする・・・・・・」

 イレーネは母親が幼子に言い聞かせるように静かな声で言った。

 しばらくの沈黙。

「でもねえ、私の人生って、何だったのかしら?

 50年の人生の中で、最初の20年は貪底を這い回るような生活。最後の10年は刑務所暮らしも同然」

「イレーネ! 価値の無い過去なんて無いよ」

 フェイは力強く言って、顔を上げた。

 イレーネがニッコリと笑みを浮かべてフェイを見詰め直す。イレーネの瞳から涙がジワリと溢れ出て、そして頬を伝った。


 気持ちの整理が着いたわけではないが、仲間に報告する心の準備が出来た頃。

 フェイは3人にイレーネが冷凍睡眠カプセルに入る事を手紙で伝えた。彼らからの返事はしばらく無く、ようやく届いた返信の文面は短かった。

 最も驚いたのはプラトッシュのようだった。自分が冷凍睡眠技術の開発行為でサボタージュをしていれば、イレーネは隔離棟にずっといられたわけだから。

 イレーネは特別に返信の手紙をプラトッシュだけに宛てた。「自分を責めないで」と・・・・・・。


 年が明けた2054年4月、イレーネはアラスカに移送される事になった。

 それまでの半年間、フェイは必死で条件闘争を繰り広げ、自分もアラスカに同行する事に成功した。

 重水治療の治験データを本格的に集め分析するならば、冷凍睡眠カプセルの有る場所が最適だと主張して、ルセフ首席補佐官を納得させた。

 2人してCDC隔離棟を出発する時、フェイの首にはGPS装置が装着されたが、イレーネには手錠が架けられた。

 GPS装置は不要だと言う事なのか。それとも、イレーネは犯罪者として扱われると言う事なのか。

 イレーネが腰の前で組み合わせた両手を、フェイは道中ずっと握っていた。


 この悲しき別離が起こった一方で、タルヤには新たな出会いが生まれていた。前年の2053年夏に命を救った中国人の男の子との出会いである。

 救助劇の数日後、男の子を伴って母親がタルヤにお礼を言いに訪ねて来た。

 自分が男の子の為に救急車を呼んだ事から、守衛所詰めのFBI捜査官は何も言わず、母子を別荘宅内に通した。

 突然の来訪だったので、タルヤはお茶菓子の準備も出来ず、その日は紅茶を出すだけの素気ない対応にならざるを得なかった。

「奥様。この子を救って、もらいました。ありが、とう、ございました」

 流暢とは言えない英語を一生懸命に話し、母親が何度も頭を下げる。

「とんでもない。直ぐに病院に運ぶ事が出来て良かったわねえ。

 ところで、お子さんのお名前を未だ聞いてなかったわ」

「ダーファだよ、叔母さん。リウ・ダーファ!」

 母親の背中に隠れていた男の子が顔を覗かせ、大きな声でタルヤに答える。

「そう、ダーファ君ね。ダーファ君は、何歳なの?」

「10歳だよ」

「そう。ダーファ君は、何処の学校に通っているの?」

 タルヤが誰でも聞きそうな事を尋ねた。

 でも、男の子は答えに詰まり、伏し目勝ちに母親の顔を見上げた。

「いいえ。この子は、学校には行って、ないんです」

 思いもしない返答にタルヤは驚いた。

「何故? 何か学校に行けない事情が有るの?」

「私達、アメリカの国籍が、有りません。公立学校には、行けない。

 私立学校に行く、お金は、有りません」

「そんな事って有るかしら? ダーファ君の年頃に教育を受けさせないと、置いてけぼりを食うわ」

「その通り、です。でも、私達は、5年間の、労働ビザで、アメリカで働いています。

 お金を貯めて、中国に、戻ったら、ダーファを学校に遣ります」

「雇い主にお金を借りる事は出来ないの?」

「社長さんの家族は、すごく良い人、です。

 でも、ダーファの学費を、借りたら、5年間でお金が、貯まりません。

 お嬢さんも、ダーファの学費を、こっそり、出してあげると、言ってくれているけど、特別扱いは、駄目です。

 ばれると、私の家族は、他の従業員から、いじめに遭います。社長も、困ります。仕方無いです」

 そう言うと、母親は項垂うなだれた。男の子も母親の横でモジモジし始めた。

 タルヤは、カールと同じ年頃の子供が学校にも行けずにいる現実を目の当たりにして、とても見過ごす事は出来なかった。

 幸い、自分は高速増殖炉の開発チームで働いた報酬をもらう身分だ。

 CDC隔離棟に幽閉されていた頃は、報酬なんて貰う事も無かった。人間社会から隔絶されているから当たり前の事だが、がりなりにも今は人間社会の一員である。

 家政婦の賃金も含め生活に必要な資金は国家機関の何処かが負担しているらしい。

 自分が報酬をもらっても仕方が無いと思いつつ、これまでに得た報酬の全額を銀行口座で手つかずの状態にしてある。

「事情は分かったわ。お母さん、私がダーファ君の学費を出すわ。

 アメリカに来た親戚に学費を出して貰うと言いなさい。それなら周りの中国人も文句を言わないでしょう?

 学校は私が手配します。貴女の連絡先を私に教えてくださらない?」

「息子の命を救って、頂いた、だけでなく、学費までも。何故、そこまで、してくれる、のですか?」

 驚く母親に向かってタルヤは笑みを浮かべると、言葉少なく寂しげに理由を説明した。

「私にも息子が居たの。丁度、ダーファ君と同じ年頃の男の子」

「お亡くなりに、なったの、ですか?」

 タルヤは、その質問には答えなかった。

 タルヤの顔に物悲しい表情が浮かんだのを見て、母親はタルヤが息子を亡くしたのだと早合点した。

「だから、是非、支援させて貰いたいの。ダーファ君の事、赤の他人だとは、とても思えないの」

 こうして、タルヤの里親人生が始まった。

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