第20話 運命の日

 静かな夜だった。

 灯りを消した自室で,ハミルは寝台に腰掛けていた。

(ザハラ国王・・・)

 王は亡くなった。自分に全てを託して。ハミルは王の証を握りしめる。明日の朝,ラウガが“継の間”から出てくる。ザハラを送り出す喪の儀は昼過ぎからだ。王宮に王都(ランザバード)中の貴族が城に集まり,王の死を悼む。

(決着をつけるなら,その時だ)

 なるべく多くの人の目にふれる場所で自分が王位継承者であることを告げるべきだ。

 もう決意はかたまっていた。あのルトという物語作家が忘れていたクリスタイン家当主としての使命を思い出させてくれたのだ。

(――だけど・・・)

 もう決意はかたまっているはずなのに,なぜか震えはとまらなかった。ラウガへの恐怖,自分が王となった時のこと,そして何より・・・誰よりも大切な愛する人と別れなくてはならないという事実がハミルをためらわせていた。ハミルは軽く頭をふって,その考えを振り払おうとする。

(しっかりしろ。もう決めたんだから・・・)

 その時だった。

 こんこん,と窓の方から音がして,ハミルは顔をあげる。そして驚きに目を見開いた。

「ニーナ・・・?」

 窓硝子の向こう,太い木の枝に,ニーナが立っている。目が合うと彼女は微笑み「開けて」と口を動かした。そのいたずらっぽい笑顔を見たとたん,ハミルの脳裏に遠い昔の出来事がよみがえる。

 幼い頃,ハミルの部屋のすぐ側を生えている木をつたって,彼女はよくここに来た。悲しいことや嬉しいことをたくさん話した。

――これからもずっと,こうやってたくさんお話ししたいね

 胸のどこかがうずくのを感じながら,ハミルは窓を開けた。

「ハミル」

 夜風に髪をなびかせ,月光を背にして立つ彼女はまるで天の使いのようだった。

「ニーナ」

 ハミルは手をのばすと,彼女はハミルの手をそっと握り,部屋に入った。

「なんだか懐かしいな」

 ハミルが微笑むと、ニーナも笑った。

「でしょう?小さい頃はよく、屋敷を抜け出してここに来たものね」

「君もなかなかおてんばだったもんな」

 柔らかく笑うハミルを見つめて、ニーナはほっとする。

「…元気そうでよかった」

「え?」

 きょとんとしているハミルに、ニーナは少しむくれた。

「すごく心配したんだから。何日も部屋にこもっちゃって。扉から入れないなら、窓から入ってやろうって思ったのよ。――ほら、何も食べていないと思って焼き菓子まで持ってきたんだから…」

 そう言って片手にさげていた小さな手さげ籠をさしだす。

「あ…そっか、それで…」

 自分を心配して、幼いころのように屋敷を抜け出して木をよじ登ってここまで来てくれたのか。

 胸がつまって何も言えず、ハミルはただ彼女を見つめていた。

「そうよ。…私、どうしてハミルがなにも話してくれないんだろうってずっと考えていたの。今まで、どんなことでも話してくれたのにって。――でもね、気づいたのよ。私もあなたももう子どもじゃないって。話せないことがでてくるのは当然のことだって。だから、無理に聞き出そうとしたってあなたを苦しめるだけなんだって…。――だけど」

 自分に言い聞かせるようにそう言って、ニーナは大きな瞳でハミルを見つめる。

「だけど、ハミル。話せなくても、そばにいることはできると思うの。昔のようにすべてを話してくれなくていいから、そばにいさせて」

 ハミルは何も言えず、ニーナを見つめていた。

――ずっと一緒にいよう、ニーナ

 幼い日の甘い約束が、胸をしめつける。

 この人と一緒に生きていけるはずだった。よりそい、互いを支えあいながら歩んでいけるはずだった。

 自分の選択が、それをすべて壊した。

「ニーナ」

 胸が痛み、頭の芯が熱くなり、ハミルはニーナをかき抱く。すっかり身体になじむ、あたたかく柔らかい感触。もう二度と、この人に触れることはできないのだ。

「ハミル…?」

 ニーナは戸惑いながらも、ハミルの背に腕をまわす。

 絶対に失いたくない人だった。

「…ニーナ、聞いてくれ」

 だが、だからこそ自分がやるべきことは,ラウガの暴走を見て見ぬふりをして君と一緒になることじゃない。君を失ったとしても、ラウガをとめ、彼の代わりに国を守ることだ。君が生きていく、この先の未来を。

 ハミルはニーナにすべてを話した。

 ラウガの正体。彼の残酷な行為。そして自分の役目――

 ニーナは一言も発さず、黙って話を聞いていた。ハミルが王となれば、婚姻どころかもはや会うことすらままならなくなる。その事実をつきつけられても彼女の瞳は揺らがなかった。

 ハミルが話し終えると、二人の間に沈黙が落ちる。

 ハミルは自分の胸に顔をうずめているニーナの方を見ることができなかった。じっと彼女の言葉を待つ。怒るだろうか、泣いてしまうだろうか…

 ややあってニーナは顔をあげてハミルを見つめた。深い森の湖のような静かな瞳だった。

「…苦しかったでしょう?」

 呆然とするハミルの頬にニーナは手を伸ばして触れる。

「ずっと、一人でかかえこんでいたのね」

 ニーナの瞳が、わずかに揺れる。

「そして、きっとあなたはこれからもたくさんのことを抱えていかなくてはならないのね」

 その瞳がうるみ、一筋の雫が伝った。

「私は…そんなあなたのそばにいることもできないのね」

――ずっと一緒にいよう

 その約束はもう二度と果たされない。

 ハミルの顔が激情にゆがみ、静かに涙を流すニーナを抱きしめた。

「守るから」

 震える唇から、ハミルは声を押し出す。

「離れていても、僕は君を守るから」

 彼女は震えている。声を押し殺して泣いている。

 こんなにも愛し、愛された人を、僕は必ず守る。たとえ、二度と触れあえなくとも、僕は君を愛している。

 悲しみに押しつぶされそうになりながらも、ハミルの身体はもう震えてはいなかった。激しく燃える決意と闘志を胸に抱きながら、強く恋人を抱きしめていた。




 結局あまり眠れなかった。ルトは柔らかな寝台の上からそっと身を起こす。昨日、ハミルとの話を終えた後、この客室に案内された。ことが落ち着くまでここにいるように言われたのだ。

(ことが落ち着くまで、か…)

 今日中にラウガに話をすると言っていたが、果たしてラウガにどこまで通用するだろうか。そもそもハミルはラウガとどんな話をするのかも詳しく教えてくれなかった。

(大丈夫だろうか)

 胸にわだかまる不安をぬぐいきれぬまま、ルトは立ち上がり片足をひきずりながら窓辺へ向かう。ルトの背ほどの大きさのある窓の向こうには、緑があふれていた。紅葉した木々や色とりどりの花たちがここからでも生き生きと輝いている。木々の向こうには何件か立派な屋敷が見える。さらに奥には王都(ランザバード)と王都を囲む街(セル・ラグリンス)を隔てる石造りの壁が見えた。

 ここが王族と貴族の者たちが暮らす王都なのだ。なんと広大で厳かな場所なのだろう。

(いつか…この美しい場所が、炎と血にけがされる時が来るのだろうか…)

 それを止めたくて、自分は戦について調べ、綴ってきたというのに。いつの間にか、こんなところまで来てしまった。

 ルシカがルトを捜していたというニックの話を思い出す。

(ルシカ…)

 あげく、ルシカまでまきこんでしまった。彼は今も、このシンシアのどこかをさまよっている。

 ハミルがルシカを捜すよう兵を手配してくれると言っていた。その人たちに保護されるのを祈るしかない。暗澹たる気持ちで壮大な風景を見つめていると、ふと美しく整備された道を何かが駆けていくのが視界にはいった。

「…?」

 見てみると、それは三頭の馬だった。

(こんな朝早くから、一体どうしたのだろう?)

 流れるように走っていく馬をぼんやりと見つめていたルトの目にとんでもないものが映った。

「ルシカ?」

 両端の馬には中年の男がまたがり、真ん中の馬にはまだ小柄な少年が乗っていた。茶髪ということはあの“リャオ”という少年かもしれない。そして、彼のうしろにもう一人少年がいた。眠っているのかぐったりと茶髪の彼にもたれかかっている。

 どんなに遠くても見間違うはずのない。息子の姿だった。

 動悸がはやくなる。額に冷や汗がにじんだ。

(捕まったのか?ラウガに)

 早くハミルに知らせなくてはならないと思った。このままだとルシカは殺されてしまうかもしれない。

(いや…、だが、ハミル様に言ったところで、どうすることもできないのではないか)

 王家が捕えた者を御三家とはいえ貴族がどうこうできるはずがない。

 そう考えている間にも、馬はすぐに走り去り見えなくなった。

(ルシカ…!)

 ルトは焦燥にかられ、右足をひきずりながら扉の方へと向かった。

 城に戻ればきっと殺される。自分が戻ったところでルシカを救えるわけではない。それでも、動かずにはいられなかった。

(ルシカのもとへ行かなくては)

 ナリィが死んでから、ずっと二人で暮らしてきた。ルシカのそばにはいつも自分がいた。

 彼をこれ以上、一人にしておくことはできない。




 ラウガは一睡もせず、壁によりかかってもの思いにふけっていた。こんな風に、何も考えずぼんやりとするのは久しぶりだった。

 街を巡遊した時に出会った、無邪気に笑っていた幼い子どもたちの姿をふと思い出す。自分にはあんなにも無邪気に過ごせた時代があっただろうか。

 少し考えてみたが、思い浮かばなかった。思い出せるのは、苦痛や血や屈辱ばかりだった。

 しばらくすると、扉がたたかれる。

「ラウガ様」

 家臣にの声がし、外からかけられていた錠が外される音がした。

「今ゆく」

 ラウガは立ち上がる。部屋を出るときに、ラウガはザハラの遺体を一瞥する。

――さようなら、ザハラ国王陛下

 侮蔑を含んだ別れを告げ、ラウガは扉を開けた。


 ラウガは家臣に案内され,玉座のある大広間に連れて行かれた。

 そこには玉座への真っ直ぐな道をあけるようにして,何百という家臣や兵がひざまづいて並んでいる。ラウガが大広間に足を踏み入れると,皆いっせいにひれ伏した。

「お待ちしておりました。ラウガ国王陛下」

 重臣達が声をはった。

「ザハラ様の意を継ぎ,大地の神(アルゼスラ)よりこのシンシア王国を治める力を授けられしお方」

「どうぞ,玉座へ」

 ラウガは頭のどこかがしびれるのを感じながら,ゆっくりと周囲の床より一段高くなっている玉座へ向かった。大人五人は座れるであろう大きく豪奢な座に腰掛ける。

「ラウガ国王陛下,万歳!」

 何百人もの叫びを聞きながら,ラウガは指先がかすかに震えているのを感じていた。それが緊張なのか昂揚なのか自分でもわからない。

(そうか・・・,これが“王”になるということか)

 自分にひれ伏す者達を見つめながら,ラウガの顔には何かに憑かれたような暗い笑みが浮かんでいた。

 今の自分の姿をあいつらに見せてやりたい。蔑み,辱め,人間以下の扱いをした子どもが一国の王となったことを知ったら,あいつらはどんな顔をするだろうか。

 



「う・・・」

 腕に痛みを感じて,ルシカは目を覚ました。頬が熱くしびれている。

 がんがん痛む頭で,ルシカはあたりを見まわした。薄暗く,床も壁もうす汚れている。

(どこだ・・・ここ・・・)

「目が覚めたか?」

 ルシカははっとして,声のした方を見た。頑丈な鉄格子の向こうに少年が立っている。彼の顔を見たとたん,ルシカは先までのことを思い出し,胸の痛みに顔を歪めた。

「・・・リャオ」

 名を呼ぶと,彼は不愉快そうに眉をよせる。

「どうしてあんたは,俺の名前を知ってるんだ」

 冷たい声に,ルシカは起き上がり鉄格子をつかんだ。

「どうしちゃったんだ,リャオ!ここはどこだ?どうしてこんなこと・・・」

 つめよるルシカにリャオは舌打ちしてルシカを突き飛ばした。

「うるさいな。俺は,あんたなんか知らない」

 その言葉に,尻もちをついた格好のままルシカは愕然とする。

「知らない・・・?」

 ルシカの頭に,彼と過ごした時間が流れていく。リャオは全く感情を見せない淡々とした口調で話した。

「いくら森に住む田舎者でも,ローバルト王家のラウガ王子は知ってるだろう?ラウガ様がお前を捜していたんだ。・・・手間かけさせやがって。ラウガ様がいらっしゃるまで,ここでおとなしくしていろ」

 そう吐き捨てて去っていこうとする彼を,ルシカは必死に呼び止めた。

「っ・・・待ってくれ,リャオ!」

 足をとめ,鬱陶しそうな表情でリャオはふり返る。ルシカは足元に落ちていた紙綴り(クロッサ)を拾い上げ,手をのばしてリャオに差し出した。

「ずっと一緒に旅をしてきたじゃないか!君は何度も俺を助けてくれて――」

 リャオはいぶかしげにルシカからぼろぼろになった紙綴りをひったくり,頁をめくる。

 羊のいる村,三の区,二の区,ルトという男,見知らぬ少女,そして,自分でも信じられないほどの明るい自分の笑顔。

 それを見たとたん,頭の中で何かが弾ける。

――旅をするなら,俺と一緒に行かないか?

 喧騒,静寂,街,森,喜び,不安――ずっと心の隅に封じ込められていたものが一瞬で溢れ出す。

 リャオは先程とはうってかわった無垢な瞳で目の前の少年を見つめる。

「・・・ルシカ?」

「リャオ・・・」

 リャオの表情が自分の知っているそれと重なり,ルシカは安堵の笑みを浮かべる。つられて,リャオも微笑んだ。

 だが次の瞬間,再び頭の中で何かが弾け,リャオはうめいた。

――私とともに来い,リャオ

 長い黒髪の男が,自分の心を強くひっぱる。

 リャオの瞳が再び暗く濁り,彼は何かをふりはらうように叫んだ。

「違う・・・俺はラウガ様に仕えるしもべだ!あんたなんか知らない!」

「リャオっ・・・」

 リャオは苛立ったまま忌々しげに紙綴りを睨みつけ,力任せに破いた。

 紙の破れる音が,妙に大きく響く。

(知らない,知らない,こんな奴は・・・)

 こみあげてくる優しい思い出を払いのけるように,リャオは紙綴りを破き続けた。

 俺はラウガ様に仕え,策をめぐらし,何十人もの人々を殺し,自らの手を血で染めた。ラウガ様のそばで。ラウガ様のために。

 それだけだ。それでいいのだ。

「おとなしくしていろ」

 呆然としている少年にそう吐き捨て,リャオは足早にその場を去った。逃げ出したといってもいい。

(はやく,はやくラウガ様のもとに・・・!)

 心が落ち着かない。あの少年の赤褐色の瞳が,紙綴り(クロッサ)に描かれた絵が頭から離れなかった。


 ルシカは呆然と床にまき散らされた紙切れを見つめていた。

 あれは,ライラの絵の切れ端だろうか。あれは,父さんの絵の・・・――そしてあれは,リャオの絵の目元の部分だ。

「・・・どうして・・・」

 ぽかんと開いた口からかすれた声が漏れる。

――記憶を取り戻すと,記憶をなくしていた頃のことを忘れてしまう

 いつかのグリムスの言葉が脳裏をよぎった。

 まさか,記憶を取り戻したのか?それで自分のことを忘れてしまったのか?

 ルシカは震える手をのばし,無惨に散らばった紙切れを握りしめる。

 父さんがくれた,大事な紙綴り(クロッサ)。


――あんたなんか,知らない。


 ルシカの目から涙が溢れる。

 あんなのリャオじゃない。あんなの,あんなのは――

 かぶりをふるルシカの脳裏に,もう一人の自分がささやく。

 あれが彼の本当の姿なのではないか?自分とともに過ごした“リャオ”が偽者なのではないか?

 そう思うと,たまらなくてルシカはむせび泣いた。どこかもわからぬ暗い牢の中で,たった一人。そこには絶望しかなかった。




 扉が叩かれ,自室で椅子にもたれかかっていたラウガは入るよううながした。恭しく入ってきたのはシャンズルだった。

「ついに,国王におなりになったのですね・・・」

 自分より一回りは年上であろうシャンズルは感激に瞳を潤ませながらひれ伏した。ラウガはうなずく。

「ああ。――突然呼び出してすまない」

「滅相もございません。どうされましたか?」

「あれを実行するのを,早めようと思う。今日中・・・できれば喪の儀の前に始めてほしい」

 シャンズルが目を瞬かせた。

「今日ですか?」

「ああ。不祥事が起きてしまったのだ。・・・できるか?」

 シャンズルは驚きはしたものの,きっぱりとうなずいた。

「もちろんです」

 その返答に,ラウガは柔和な笑みをつくる。

「ありがとう。・・・私はこれまでほど自由に身動きがとれなくなる。殆どまかせることになってしまうが,大丈夫か?」

「問題ありません。お任せください」

 自分を信じきった瞳でうなずく男に,ラウガは彼が最もほしがっているであろう言葉を与えてやる。

「お前のおかげでここまで来れた。ここからが本当の始まりだ。頼りにしてるぞ,シャンズル」

 その言葉に,シャンズルはもう頬を上気させて頭をさげた。

「ありがとうございます」

 ラウガは大仰にうなずき,「ああ」とさも今思い出したように声をあげる。

「それともう一つ,頼みたいことがあるのだが――」




 ちょうどシャンズルが出て行くのと入れ違いで,リャオがラウガの部屋を訪れた。

「ラウガ様,只今戻りました」

 そう言ってひざまずくと,ラウガは少し目を見開いてうなずいた。

「今度は,約束通り戻ってきたな」

「はい」

 リャオは少しはにかんで顔をあげた。その目には喜びに満ちた輝きがあった。

「ついに即位なさったのですね。ラウガ国王陛下」

「ああ。・・・これからが忙しくなるだろうな」

 無表情のままそう言う主君にリャオは微笑んだ。ラウガは滅多なことでは感情を表に出さない。

「これからも,ラウガ様のもとで働かせていただきます」

「そうだな。・・・お前にもそれ相応の位を授けなくてはな」

 ラウガの言葉に,リャオは小さく首をふった。そんなものはいらない。自分を救いだし,生きる術を与えてくれたラウガがついに国王になられた。それだけで胸がいっぱいだった。たとえこれから戦が起こり・・・何千何万の人が亡くなろうとも,そんなことはどうでもよかった。それがラウガの望みなら・・・自分はそのために働くだけだ。

 あの絵描きの少年にかき乱された心はラウガの姿を見ただけですっかり消えてしまった。リャオは何のためらいもないまっすぐな瞳でラウガを見る。

「ラウガ様。もう一人のトレラ・アーレベルク・・・“ルシカ”を捕らえました」

「・・・そうか。よくやった」

 ラウガは特に驚いた様子もなくうなずいた。リャオもなんともないことのように軽く頭を下げる。

「ありがとうございます。・・・地下牢までいらっしゃいますか?」

「――いや,東の棟の客間に連れてきたくれ。・・・ルトのいた部屋だ」

「わかりました」

 最敬礼をし,出て行くリャオをみとめたあと,ラウガは一つ息をついた。脳裏にあの忌むべき物語作家の姿がうかぶ。

(貴様の息子を捕まえたぞ,ルト)

 あの身体ではそう遠くまではいけないだろう。ルトは見つけしだい殺す。息子は利用価値が見出せねば生かしてやってもいい。

 息子を守りたい,とどんな目にあってもその思いを貫き通した男の姿が,ラウガの頭には焼き付いていた。それを思い出すたび虫唾が走る。

(お前達親子はここで終わりだ)

 ラウガは踵をかえし,部屋を出た。東の棟の客間に向かう。

 もう少ししたら奴が来る。急がなくては。




「ラウガ様が・・・?」

 ニックの報告に,ハミルは思わず眉をひそめた。

 喪の儀のため正装に着替えている最中,ニックが部屋に訪れ,報告をしてきたのだ。先程,王家直属の使者が屋敷にやってきて,「至急,城に来るように」と告げてきたらしい。喪の儀は昼からだ。まだだいぶ時間がある。その前に自分に何か話があるということだ。

 背筋がぞくりと震えた。思わず首にかけていた“王の証”を服の上から握りしめる。

(まさか,僕が王位を継承したことに気づいているのか・・・?)

「どうしますか,ハミル様?」

 ニックが彼らしくない不安げな表情で自分を見つめている。ハミルは黙り込んだ。ハミルの考えでは喪の儀の最中,多くの人々の前でラウガを告発するつもりだった。ハミルの胸中に一瞬後悔がよぎる。

(一歩遅かったのか・・・?)

 だが,王子・・・否,国王の命令にさからうなどできない。行くしかなかった。

「・・・ちょっと行ってくるよ。屋敷のことは任せた」

「ハミル様・・・」

 上着を羽織り,出て行こうとするハミルを,ニックが心許ない瞳で見つめる。ハミルは苦笑した。

「大丈夫さ」

 そして壁に立てかけてある剣を腰にさす。なおも表情が曇ったままの部下にハミルは微笑む。

「行ってくる」

 不気味さと不安を抱えながらも,ハミルは決然と歩き出した。

(僕はここで斃れるわけにはいかない)



(ハミル様・・・大丈夫だろうか・・・)

 ラウガのもとへ向かったハミルを見送ったあと,ニックは不安を抱いたままルトの部屋にむかった。喪の儀の準備に追われ,まだ朝食すら出していなかったのだ。部屋の扉をたたいても返事がなく,ニックが少しいぶかしむ。

(まだ寝ているのだろうか?)

 そっと扉を開けて,部屋を見渡したニックは愕然とした。部屋の中には誰もいなかったのだ。

「そんな馬鹿な」

 まだ足が折れていて,身体中の傷も治っていないのに。

(あの身体でどこへ行ってしまったんだ・・・?)




 目覚めると,そこは牢ではなかった。暗い牢の中でいつの間にか眠ってしまったらしい。後ろ手に縛られた状態で,ルシカはのろのろと顔をあげた。

 まず,床が暖かかった。柔らかな絨毯が敷かれている。見るからに心地よさそうな大きな寝台と凝った造りの机と椅子。壁には飾り用だろうか,立派な絵や剣がかけられている。自分の部屋はもちろん今まで泊まったどの宿にも勝る豪華な部屋だった。

「起きたか」

 はっとして振り向くと,すぐ近くに茶髪の美しい少年が立っていた。

「リャオ・・・」

 ルシカは力なくその名を呼んだ。その冷たい瞳を見ていると,苦い思いが胸に広がっていく。

「もう少しでラウガ様がいらっしゃる」

 リャオが感情のこもっていない声音でそう言ったとき,ちょうど扉が開いた。

「あ・・・」

 入ってきた男を見,ルシカは息をのんだ。

 腰のあたりまでのびた美しい黒髪に赤褐色の瞳。今まで見たことがない高級そうな群青の服に身を包み,そこに立っている。近寄りがたい威厳と見とれるほどの美しさを兼ね備えた男だった。

「ラウガ様」

 リャオがそう言って頭をたれるのを,ルシカはぼんやりと見ていた。

「お前がルシカ・アーレベルクか」

 深く響く声だった。ルシカは小さくうなずく。ラウガはルシカを見下ろしたまま淡々と告げた。


「・・・お前の父親は,ついこの間までここにいた」


 とん,と目の前に落ちてきたその言葉をルシカはしばし理解することができなかった。

「・・・え?」

 ちちおや,という言葉だけが,ゆっくりと心に染みわたっていく。

「・・・とう,さん?」

 必ず,父さんを見つける。

 幾度となく自分を支えた決意が,胸に溢れ出す。

「どこにっ・・・」

 ルシカは思わず身を乗り出して前につんのめる。床に這いつくばった状態で,ルシカは必死に顔をあげた。

「どこにいますかっ,父さん・・・!」

 哀れな格好になった少年を見下しながら,ラウガは柔和な作り笑いを浮かべる。

「今は城にはいない。ルトはな,私がこの城に招いたのだ。彼の物語は素晴らしい。ぜひ私も彼の物語が読みたくて,ここに呼んだのだ。そして彼は物語を書いてくれた。だが,書いたあと,ちょうど一昨日の夜,忽然と姿を消してしまったのだ。今,必死で兵に彼の行方を捜しているよ」

 うたうようにそう言って,呆然としているルシカの足元に手にしていた紙の束を置いた。そこには「戦の歴史」と書かれている。ルトの字だった。ずっと遠かった父の存在を身近に感じ,ルシカの目に涙がにじむ。

「見つかりますか?俺,ずっと父さんを捜してて・・・」

「大丈夫。すぐ見つかるさ。・・・それでな,ルシカ。君に頼みたいことがあって,ここに呼んだのだ。リャオの不手際で,少々荒っぽい招待になってしまったがな」

 苦笑しながらそう言って,ラウガはリャオにルシカの縄をとくように命じた。腕が自由になり,ルシカはそっと紙の束に触れる。

「ルトはその物語を残して去ってしまった。彼は“あとはこの物語に絵をつけたら完成する”と言っていた。絵は息子が描いているとな。お前の父親は必ず見つけ出そう。だから,そのかわりにその物語に絵をつけてくれないか?」

 撫でるような優しい声音だった。無意識のうちに安堵感が胸に広がる。父さんに,もうじき会える。ようやく,ようやく――

「わかりました」

 ルシカは潤んだ瞳でうなずいた。ラウガは微笑んで机の方を指さす。

「色墨(シェト)と紙はその机の引き出しの中にある。自由に使ってくれて構わない」

 ルシカはうなずいてぱらぱらと紙束をめくる。その様子をラウガは満足げに見つめていた。少年にばれぬよう,暗い光を瞳にたたえながら。

(息子の方は簡単だったな)

 あとはこの物語の絵を描かせてから殺せばいい。

 百年前に起きた戦のラージニア王国のむごい行為が綴られた絵本。これが街中に広まれば,人々の心にラージニアへの憎しみをさらに植え付けることができるだろう。

 そこまで思いを巡らせた時,紙をめくっていく少年の顔つきが徐々にこわばっていくのにラウガは気づいた。少年は信じられないというような表情でゆっくりと顔をあげる。

「・・・ラウガ・・・さま。これは本当に父さんが書いた物語ですか?」

 少しやつれた顔には,疑惑の色が浮かんでいた。ラウガは内心驚きながらも,平然とうなずく。

「そうだ。私が戦についての物語を書いてほしいと言ったら,お前の父親が,それを書いたのだ」

 ラウガの言葉にルシカは呆けたような顔つきになったあと,ゆるゆると首をふった。

「・・・ちがう・・・」

 ルシカがその場にへたりこんだまま,ラウガを見つめている。その目がルトと重なり,ラウガはたじろいだ。

「これは,父さんの物語じゃない」

 震える声で言うルシカにリャオが苛立ってルシカの背を思い切り蹴り上げる。

「何言ってんだ,お前」

 痛みに顔をしかめながらも,ルシカは首をふり続けた。

「違う・・・違う・・・これは父さんの書いたものじゃない」

「どうした,ルシカ?よく見ろ,字はルトのものじゃないか?」

 ラウガの穏やかな声にルシカはうなずいた。

「字も・・・言葉も父さんのだけど・・・でもこれは父さんの物語じゃない」

 ルシカには確信があった。だが,それはとうてい言葉で表せるものではなかった。父の笑顔,父の言葉,父の物語を思い出す。

(ちがう・・・これはちがう)

 戦争の物語。それがつい最近見た光景と重なる。ソノマ,ラニ,コルト,ホルソム――

――なあ,シンシアは今,どうなっているんだ?

 薪の向こうから聞こえてきたコルトの言葉がよみがえる。

――ラウガ王子の仕業なのか?

 血の臭い,どこかの施設で行われている虐殺,リャオ,ルト――様々なものが,胸の中でごちゃまぜになっている。目の前にいる美しく毅然とたたずむ王家の男がルシカは急に信じられなくなった。赤褐色の瞳の向こうにはかりしれない闇がかいまみえる。

「・・・ピルトの森の・・・」

 ルシカは震える声で続けた。

「・・・奥に施設があって,そこで・・・たくさんの人が死んでて・・・」

 それまで柔らかな笑みを浮かべていたラウガの顔から,すっと表情が抜け落ちる。ルシカは思わず身をすくませた。

「・・・そこに,あなたがいたって・・・」

 ラウガは全く表情を動かさない。目の前の得体の知れない男におびえながらも,ルシカは言った。とめられなかった。

「父さんは,どこですか?」

 自分でも意外なほどしっかりした声だった。

「父さんを返してください」

 しん,と部屋が静まりかえる。ラウガの無だった表情が,少しずつ残忍な笑みに侵されていく。

「くっ・・・はは」

 ラウガは口元を歪め,小さく笑った。先の柔和さはかけらもなかった。

「まさか,ピルトの収容所のことまで知っていたとはな・・・。さすがあの男の子どもだな」

 吐き捨てるような声音,暗い瞳にルシカはラニの話が本当だったことを悟った。

「たくさんの人を,殺させたのは,あなたなんですか・・・?」

「ああ。そうさ。実験のために生きた人間が必要だったからな。私に邪魔になりそうな奴等からどんどん死んでもらった」

 あまりにも軽薄なもの言いに,ルシカはぐっと唇をかみしめる。ラウガは腰から剣を抜き,ルシカののど元につきつけた。

「お前の父親も,目障りな物語を書いていたから引っ捕らえてやった。おとなしく俺の言うことを聞いていればいいものを,どんなに痛めつけても反抗して,あげく逃げやがった」

 ルシカは目を見開いた。ラウガはせせら笑うようにルシカの腫れた頬に浅く傷をつけた。

「足を折られ,身体中に火傷を負わされ,斬りつけられてもお前を守ろうと必死だったぞ」

 目から涙が溢れる。父さん,父さん,父さん――何度も心の中で呼びかけた。ずっとここで,この残酷な男にどんな目に合わされたのだろう。こんな物語まで書かされて・・・

「どうする?ルシカ。お前がおとなしく絵を描けば,父親を助けてやろう」

 ルシカはきっぱりと首をふった。考えるよりも先に身体が動いた。渾身の力をこめて目の前の男を睨みつける。

「描きません」

 ラウガは驚いたように目を見はった。一瞬なぜかその表情がとてもあどけなく見えた。

「あなたはきっと,俺が絵を描いても,父さんを助けてはくれないでしょう・・・。俺は,あなたのためになんか絵を描きたくない!」

 自分の描いた絵を見て幸せそうに笑ってくれた人達の姿が頭をよぎった。「お前の絵はまだまだ進化していく」と言ってくれた,父の言葉が胸をしめつける。

「あなたのような人の言いなりになって,絵を描くのは嫌だ!」

 自分でも驚くほどの力だった。

 ルシカは自分を押さえつけていたリャオを突き飛ばし,一直線に窓に向かって走った。


 父さんに会わなくては。


(きっと,この城の近くに・・・!)

 ルシカは窓を開け,迷うことなく露台からとび降りた。二,三階だったらしく,全身が草地にたたきつけられたが,ルシカはうめきながら起き上がって走った。

 悲しいくらい綺麗に整えられた緑が広がっていた。あちこちで紅葉が始まり,紅や木に染まった木々や花が輝いている。父と暮らした故郷の森を思い出す。

(父さん,父さん――)

 ルシカがとびだしていくのを,リャオは尻もちをついたまま呆然と見つめていた。

――リャオ

 これは何の記憶だろう。ルシカが自分の隣で絵を描いている。とても生き生きと。自分はそれをほほえましく眺めている――

「リャオ」

 名を呼ばれ,リャオははっと顔を上げる。ラウガもどこか呆けた様子でそこに立っていた。

「も,申し訳ありません・・・。不意をつかれて――すぐに捕らえて参ります」

「いや,私も動けなかった。・・・全く,いつも予測できない動きをするな,あの親子は」

 ラウガは忌々しげに・・・だがどこか楽しそうにつぶやいた。

「ルシカもルトも見つけ次第殺して構わない」

「わかりました」

 リャオが足早に部屋を出て行く。ラウガは開け放たれた窓をじっと見つめていた。その時,扉がたたかれる。

「ラウガ様,ここにいらっしゃいますか?」

 家臣の声だった。ラウガは入るようにうながす。

「失礼致します。・・・こんなところでどうなさったんですか?」

「ああ,物音がしたから入ってみたら,窓が開いていたから閉めようとしたんだ。――何かあったのか?」

「クリスタイン家当主のハミル様がおみえになっております」

「そうか。・・・私が呼んだのだ。謁見の間にお通ししてくれ」

「かしこまりました」

 廊下を歩きながら,ラウガは密かに笑んだ。

(ハミル・・・面と向かって会うのは三ヶ月ぶりか・・・)

 ザハラ国王から信頼を得ていた若き当主。おそらく彼が,ザハラから王位を継承したに違いない。

(まあ,はずれていたとしても構わない。どっちにしろハミルには死んでもらわなくてはならないのだから)

 ラウガが戦を起こすだけの莫大な兵力を手に入れるには,国軍大半の指揮権を握っているクリスタイン家の当主がいなくなる必要がある。

(そろそろシャンズル達も準備が整っただろう)

 ラウガはまっすぐに謁見の間に向かった。




 ルシカは無我夢中で走っていた。広大な緑の庭には全く人通りがなかった。ぬけるような青空が広がっていたが,見とれる余裕もなかった。身体中が痛い。

「父さんっ・・・」

 足を折られ,身体中に火傷を負わされ・・・ラウガの淡々とした声が脳裏に甦る。父さんの苦しみに比べたら,自分の痛みなんてきっとちっぽけなものだ。

「とうさん」

 どこにいる?無事だろうか?

 王家に逆らった自分は,自分達はこれからどうなってしまうのだろう?

 そんなことわからなかったし,考えたくもなかった。

 ただ,ただ父に会いたかった。




 ルトは片足をひきずりながら歩き続けた。それは歩いているというよりむりやり前に進んでいる有様だった。城が少しずつ大きくなっていく。

(ルシカ・・・)

 まだ無事だろうか?殺されてはいないだろうか?

(ああ,ナリィ・・・)

 ルトは空を見上げる。空は高く蒼く広がっていた。

 俺一人では,ルシカを守ることすらできない。

 一瞬,身体が軽くなり,倒れそうになる。なんとかふみとどまり,顔を上げたときだった。前から走ってくる人影が目にとまった。

「・・・?」

 陽の光が反射して,顔はよく見えない。だが,顔を見なくてもそれが誰かわかりきっているような気がした。

 影が立ち止まる。今度こそ,相手の顔がはっきりと見える。うしろでひとつにまとめられた黒髪。まだ幼さを残した瞳。

「・・・ルシカ?」

 目の前に立っている少年は信じられないというように目を見開いている。やつれているし,頬も腫れている。服もぼろぼろだ。だが・・・

(最後に会った時より背が伸びたんじゃないだろうか?)

 そんなことを思い,思わず口元がほころんでしまう。

「ルシカ」

 今度はしっかりと,息子の名を呼んだ。


 ルシカは目を見はったまま動けなかった。目の前に父がいる。そこにいて自分の名を呼んでいる。

「っ・・・父さん・・・!」

 ルシカはうたれたように走り出した。父の姿がはっきりと見えてくる。ここからでも父が怪我をしていることがわかった。

「父さんっ・・・!」

 父のそば,もう手が届くところまで走り寄った。父が自分を見下ろしている。いつもと変わらない,穏やかな笑みだった。ルシカの瞳に涙があふれる。

「ルシカ」

 父が腕を伸ばし,その存在を確かめるようにルシカの頬に触れる。くすぐったくてルシカは泣きながら小さく笑った。

「・・・ずっと捜してた」

 ルシカがそうつぶやくと,ルトはルシカに触れた手に少し力をこめる。

「父さんに会いたくてっ・・・」

 涙を流し続ける息子にルトは眉を下げてほほえみかけた。

「・・・ごめんな,ありがとう」

 父の声,存在,ぬくもりを感じながら,ルシカはうなずく。話したいことは山ほどあった。だが,まずは安全なところまでいかなくては。

「逃げよう,父さん」

 ルシカは涙にぬれた顔をあげる。ルトもすぐにうなずいた。

「ああ」

 二人は走り出す。ルシカはルトの身体を支えながら。前に進む息子の姿を見てルトは不思議な気持ちになる。

(いつの間に,こんなに力が強くなったのだろう)

「父さん,俺ね」

 ルシカが前を向いたまま父に語りかける。

「父さんに話したかったことがあるんだ」

 ルシカの横顔が,とても大人びて見える。

「あ,もちろん,それはたくさんあるんだけど,特に話したいことがあるんだ」

「ああ」

 ルシカはきっと,自分が知らないたくさんの経験をしたのだろう。

 たった一ヶ月間。その中でルシカはどういう日々を過ごしたのか。

 クリスタイン家の屋敷が遠くに見えてくる。

「ああ,あれだ」

 そう言いかけた時だった。背後に気配を感じて,ルトはふり返った。


「見つけた」


 小さなつぶやきとともに,しゅっと何かが風をきる音が響く。次の瞬間,濃厚な鉄の臭いが広がる。

 一瞬だった。

 気がついたとき,ルシカの目の前には血まみれのルトが倒れていた。

「父さん!?」

 ルシカはしゃがみこみ,父の身体を軽くゆすった。背中にばっさりと斬り跡があった。そこから血がどくどくと流れ出る。父は全く動かない。

「父さん・・・!」

「てこずらせやがって」

 冷たい声がして,ルシカは顔をあげる。そこには,真っ赤に染まった剣を持ったリャオが立っている。

 ルシカは呆けた顔つきでリャオを見た。彼は容赦なくルシカの目の前に剣を突きつける。

「・・・きみが,やったのか?」

 蹴られ,紙綴り(クロッサ)を破かれてもルシカは心のどこかでリャオのことを信じていた。かたくなだったその想いに,罅が入る音が聞こえた。

「ああ」

 リャオはあっさりとうなずき,乱暴にルトを蹴った。

「死んだか」

 その言葉にルシカはかぶりをふる。

「違う!父さんは死んでいない!」

 ルシカは最後の希望にすがるようにリャオを見つめた。

「助けてくれ,リャオ!誰か,医術師を・・・父さんを助けて!」

 今,父が死んでしまったら,自分はどうなってしまうのか。

 ようやく会えた。やっと見つけた。ずっと伝えたかったことを話せると思ったのに。

「リャオ!」

 だがリャオは倒れている男とそのかたわらに寄り添う少年を見下ろしてうすく笑った。

「次はあんただ」

 その声に,かたくなだったリャオへの信頼と愛情が崩れていくのがわかった。

「リャオっ・・・」

 リャオは震えているルシカの腹のあたりを思い切り蹴りつける。目の前で火花が散り,ルシカは倒れこんだ。かすんだ視界に父の姿がうつる。かすかに開かれた瞳には全く光がなく,口からは赤黒い血がしたたっていた。

――父さん

 父さんは死んでいない。気を失う寸前まで,ルシカはそう信じていた。そうしないと,心が壊れてしまいそうだった。




「お久しぶりです,ラウガ様」

 家臣に案内され,ハミルが謁見の間に訪れたとき,もうラウガはそこにいた。

 ここは王が外部の者と重要な会議をする際に使われる部屋だ。部屋は広く,一番奥には豪華な椅子が置かれている。王が座る場所だ。

 そしてそこに,ラウガは座っていた。

「父の喪の儀の前に,わざわざ呼び出したりしてすまなかったな」

 まったく申し訳なさを感じさせない声音で新たな王はそう言った。三ヶ月ぶりに顔を見るが,長い黒髪も何かを秘めたような赤褐色の瞳も何も変わっていない。

(本当にこの人が,父様を殺して,ルトを監禁し,多くの国民を殺したのか・・・?)

 とてもそうは思えなかった。落ち着いていてなお,毅然とした佇まい。とても理知的で立派な王に見えた。

(僕よりも,ずっと王にふさわしいのではないか・・・)

 そんな弱い思いが脳裏をよぎる。それをふりはらおうとラウガは小さく首をふった。

(・・・だめだ,もう逃げちゃいけない)

 ハミルは膝をついたまま,真っ直ぐにラウガを見据える。

「お話とは,いったいなんでしょうか?」

 なるべく声をはって尋ねると,ラウガはその端整な顔にわずかに笑みを浮かべる。

「お前は数日前,父に呼ばれ城に来ただろう?」

 ハミルは身体をこわばらせた。慌てて気づかれないよう身体の力をぬいたが,ラウガの目はごまかせなかった。王は勝ち誇ったように微笑む。

「どんな話をしたのだ?私に教えてくれないか」

 それは問いかけではなく,命令だった。ハミルは確信する。ラウガはもう,僕が王位継承者であることを知っている。

(・・・どうする?)

 ハミルは自身に問いかけた。やはり,一人でのこのこ来るべきではなかったのだ。このままでは,人知れず殺されてしまうかもしれない。なんとかそれだけは防がなくてはならない。

(ラウガを捕らえて,皆の前で真実を吐かせるしかない)

 だが,彼がそんなことをするとは思えなかった。へたをすればハミルが謀反罪で処刑されかねない。

(・・・それでも,ここでおめおめと殺されるよりは,道が開ける可能性がある)

 今ここで,ラウガの自由を奪い,捕らえる。今の自分にできるのはそれだけだ。

 ハミルはさりげなく腰にさした剣の存在を感じながら,ゆっくりと口を開く。

「・・・ぼく,いや,私は,以前ザハラ国王陛下から,王位継承権を授かりました」

 ハミルは首にかけ,服の内側にたらしていた王の証をとりだし,ラウガに見せる。窓から差し込む陽の光をあびて,それはきらきらと輝いていた。

 ラウガの瞳に一瞬深い憎悪が垣間見える。

「ザハラ様は,私に全てをお話しくださいました。二十年以上前の,ザハラ国王の過ち・・・――そして,あなたの正体を」

 ラウガは殺意と憎しみを全身にみなぎらせて,こちらをにらみつけている。冷静沈着で心優しく理知的な,国の頂点に立つ者としての姿はもうそこにはなかった。 

 ついに本性をあらわしつつある男にむかって,ハミルは言い放った。


「あなたは,このローバルト王家の人間ではない。王家の血など一滴たりともひいていない。――あなたは,二十五年前,後継ぎ・・・子どもができないザハラ国王に密かに拾われてきたんだ」

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