第19話 説得と裏切り

 その日の早朝,ニックはクリスタイン家の庭で花の手入れをしていた。

 ニックはその強面な外見に似合わず土いじりが好きで,幼い頃からこの庭の花々や木々を育てている。ニックは如雨露で水をまきながら,ふと立ち止まってホルソムの花の蕾にそっとふれた。少しふくらんできたそれに自然と口元がほころぶ。

(もう少しで開く。・・・冬が近いんだなあ)

 冬に咲くこのめずらしい花は,別名“雪の花”とも呼ばれている。

 美しい色と香りに包まれた小径を,鼻歌交じりに歩いていたニックは,ふいにぎょっとして足を止めた。

「!?」

 小径を横切るように,人が倒れている。男だった。ニックは慌ててかけよる。

「大丈夫か?」

 そう言いながらも,ニックは警戒心をゆるめなかった。この男が突然起きあがって襲ってくる可能性もある。だが,男は完全に気を失っていて右足を骨折しているようだった。少しまくれた袖からのぞく腕は切り傷や火傷のあとがあった。

(なぜこんなところに・・・?何者だ・・・?)

 困惑しながらも,男の身体をまさぐり武器を持っていないことを確かめると,ニックは彼を背負いあげる。異常に軽かった。

(拷問にでもかけられたんだろうか?)

 とにかく,なぜクリスタイン家の庭で倒れていたのか,事情を聞かなくては。この男の措置を考えながら,ニックはもときた道を戻りはじめた。




「ルトが逃げた?」

 普段は揺るがぬラウガの瞳がわずかに揺れた。サマンナも彼女らしくない不安げな表情で頭を下げる。

「申し訳ありません・・・。朝,気がついたときには,もういませんでした。窓が開いていて,窓かけの布がなくなっていたので,窓から逃げたのだと思います」

「・・・そうか」

 ルトはサマンナから目をそむけた。広いラウガの自室に重い沈黙が流れる。サマンナの身体はずっと震えていた。ラウガから責任を問われるのを恐れているのではない。ルトの身を案じていたのだ。

(あの身体で無理に動いたら・・・死んでしまう)

 昨夜のルトの物語が,ぬくもりがよみがえる。

(ルトさん・・・)

 サマンナはきゅっと唇をかみしめた。


――やはり,逃げたか・・・ラウガの口が無意識のうちにゆるむ。ルトがいなくなったのは意外ではなかった。はじめてあの男に会ったときから,こいつは人に流されるような人間じゃないと直感していた。

「ルトは私が指示した物語を書いていたのか?」

「はい。もう少しで書き上がると言っていました」

「わかった。・・・やはりずっと兵をつけておくべきだった。・・・サマンナ,お前に落ち度はない。今までずっとルトにつきっきりだったろう?これを機に少し休め」

「・・・はい,ありがとうございます」

 サマンナはただ頭をさげる。王宮につかえて二年ほど経ったがサマンナは未だにこの王子のことがよくわからなかった。優しいのか,冷酷なのか。

「その前に,ルトが書いた物語をここに持ってきてくれ」

「わかりました」

 サマンナは最敬礼をし,部屋を出た。

 村が襲われ,父が死んだあの日から空っぽだった心は,今はルトのことでいっぱいだった。

(ルトさん・・・どうか無事でいて)


 サマンナが去ったあとも,ラウガはその場に立ち尽くしていた。

(物語がある程度完成しているのなら,もうルトは見つけ次第殺してもいいだろう)

 問題は息子の方だ。父親と同じく葬ってやるか,利用できるだけ利用するか・・・。ラウガが思考をめぐらせていた時だった。遠慮がちに扉がたたかれた。

「クロラン・セアトでございます」

 何十年も父を診てきた王家専属の医術師だった。ラウガが入るよううながすと,ゆっくりと扉が開く。入ってきたクロランの憔悴しきった顔を見て,ラウガは鼓動が速くなったのを感じた。

「どうした?」

 クロランは最敬礼し,顔をあげる。

「恐れながら申し上げます。・・・お父上が・・・ザハラ国王陛下が,先程息をひきとりました・・・」


 ザハラが死んだ。


 ラウガはしばらく指一本動かせなかった。国王が死んだ・・・その事実が徐々に全身にしみわたり,今度はほころびそうになる口元をひきしめることが大変だった。

「・・・そうか」

 わざと沈鬱な声を発し,ラウガはうなずく。

「父のもとへいく」

 そう言って,ラウガは部屋を出た。クロランもついてくる。

 ラウガは胸の昂揚をおさえることができなかった。

(死んだ・・・ザハラが。ついに・・・)

 脳裏に,まだ若かりしザハラ国王の姿と言葉がよみがえる。

――私は,妃を・・・妻を,愛していた。だから・・・

 愚かな男だった。国のため,民のためとほざきながら,結局は己の愛と欲を優先した。

 ラウガはほくそ笑む。

 せいぜい,地の底から見ているといい。これから,長年治めた自分の国がどうなっていくのかを。




 ルトはゆっくりと目を開けた。高い天井。まずそれが視界に入った。

 ぼんやりとそれを見つめているうちに、徐々に意識がはっきりしてくる。

(そうだ、俺は城から逃げ出して…)

 ルトは起き上がろうとしたが、身体がまったく動かなかった。

「!?」

 そこではじめて、身体が寝台に縛りつけられていることに気がついた。恐怖におそわれ、ルトは必死に身体を動かす。

(逃げる途中で倒れて…またラウガにつかまったのか?)

「目が覚めたか?」

 ふいに鋭い声が聞こえ、ルトは動きをとめてそちらを見た。適度に筋肉のついた、たくましい男が腰に剣を携えてこちらを見下ろしている。

「あなたは…?」

 思わずルトが問うと、男はぐっと顔を歪めた。

「それはこちらの台詞だ。お前は何者だ?なぜクリスタイン家の庭に倒れていたのだ?」

 その言葉に、ルトは目を見開く。クリスタイン家といえば、御三家のうちのひとつ、国軍の指導権を握っている名家だったはずだ。

「ここはクリスタイン家の屋敷…?」

「そうだ。客室のひとつだ。本来なら牢に入れるべきだが、身体の怪我がひどかったからここに運んだのだ。…さあ答えろ。どうしてそんなに傷だらけで倒れていたんだ?」

 だが、その問いはルトには届いていなかった。ルトはじっと考えていた。クリスタイン家の当主にラウガの陰謀を話せば…協力してくれるかもしれない。御三家のひとつならば、ラウガを止める何か手立てがあるのでは…

(だが、すでにクリスタイン家がラウガの手中にあったとしたら)

 自分は間違いなく殺されるだろう。

 そう思うと、一瞬ぞくりと背筋が震えた。だが、どのみち逃げ道はないのだ。それなら、賭けてみたほうがいい。

 業を煮やした男が舌打ちしてルトののど元に剣をつきつける。ルトはそれをものともせずに、まっすぐに男をみすえた。

「俺の名はルト・アーレベルク。ローニャの森に住む、物語作家です」

 そう言うと、男は困惑しながらも剣をひく。

「物語作家…?」

 ルトはうなずき、疑惑のまなざしをむける男に言い放った。

「当主に会わせてください」

「なっ…」

 男の顔から血の気がひいたのがわかった。得体の知れない一般人が、御三家の当主に目通りするなど、常識外れもいいところだろう。だが、そんなことは気にしていられなかった。

「ふざけるな!お前のような怪しいものを、おめおめと当主に会わせることなどできるか」

 男の声には武人らしいどこか圧倒するような気迫がこめられている。だが、ルトはくいさがった。

「頼みます。どうしても…」

 ルトは一瞬言いよどんだが、思い切って口にする。

「ラウガ王子を止めなくては…戦争が起きるのを防がなくてはならないんです」

 ぴたり、と男の動きが止まった。

「俺は、今までラウガ王子に軟禁されていました。そこから逃げ出してきたんです」

 言葉を失っている男に、ルトはたたみかける。

「急がなくてはなりません。…ラウガが王となれば、すべてが彼の思い通りになってしまう。…ルシカだって、いつ捕まるかわからない…」

「…?」

 ルシカのことを思い、目を伏せたルトに、男は呆然として尋ねた。

「 “ルシカ”?」

「ああ、俺の息子のことです。ルシカもラウガに追われています」

「それは…黒髪を後ろで一つに束ねた、十五歳くらいの少年のことか?」

 ルトははじかれたように顔をあげた。

「ルシカを知っているんですか?」

 男は神妙な顔つきでうなずく。

「三の区印刷場で会った。父親を捜していると言ってたよ」

 ルシカがちゃんと生きている。その確証を得ることができた。ルトの胸に喜びが広がる。

「それはいつのことですか?」

「ええと…一か月くらい前のことだ」

「…元気そうでしたか?」

「ああ…。だが、父親が見つからないとひどく悲しそうだった」

 その言葉に、ルトは胸に鋭い痛みを感じた。やはりルシカはルトを捜すために街まで出てきていたのだ。森の暮らししか知らず、自分の世界にひきこもりがちなあの子が、街に出て人探しをするなんてどれほどの苦難があっただろう。今もたった一人でこのシンシアのどこかをさまよっているのだろうか。

(ルシカ…)

 子どもへの愛しさと心配と、申し訳なさがあふれ出し、ルトはぐっと拳を握りしめた。


 ルトのそんな姿を、男はじっと見つめていた。男の脳裏に、遠い日の…まだ自分も自分が仕えるハミルも幼かった日のことがよぎる。ハミルの父・コリアはよくできた人柄であったが、武術訓練中は実の息子にも容赦なく怒鳴りつけ、手加減なく技をかけていた。ずたぼろになって泣くハミルを遠くで見つめながら、彼はよくつぶやいていた。

――私は間違っていないだろうか…。これはちゃんとあの子のためになっているんだろうか…

 その時のコリアの愛しさと迷いと痛みのまじった瞳は、今も男の心に残っている。自分の子どもを、心から愛おしむ瞳。

 目の前の人物は、その時のコリアと同じ目をしていた。

 男はしばし逡巡したあと、ひとつ息をつく。

「…本当に、ラウガ王子はよからぬ陰謀を企んでいるのだな?」

 男の問いに、ルトは虚をつかれたような表情をした後、しっかりとうなずいた。

「はい」

「――わかった。当主…ハミル様にお目通りしていただけるかうかがってくる」

 ルトは目をみはる。

「本当ですか?」

「ああ」

 ルトは安堵し、口元をほころばせた。

「ありがとうございます」

「だが、ハミル様が会ってくださるかどうかはわからないからな」

「はい」

 男はルトを縛っていた縄をほどくと、きびすを返し部屋を出ようとした。

「あ…、待ってください」

「なんだ?」

「あなたの名前は?」

 ルトの問いに、男は少し驚いたような顔になったが、すぐに真顔に戻る。

「ニック・ドートーヤだ」

「ニックさん…――ありがとうございます」

 ニックは小さくうなずくと部屋を出た。心の中でぴんと張っていた糸がふっと緩んだような気持ちになった。

(あの少年に…“ルシカ”に似ていた)

 印刷場で会った少年。帰り際,あまりに落胆していたので声をかけると,父を捜していること,手がかりがみつからないことを虚ろな瞳で話していた。

(ルトとルシカを再会させてやりたい)

 ふいに心にそんな思いが浮かんだが、ニックはすぐにその思いを打ち消す。

(とにかく今は、ハミル様にルト・アーレベルクに会っていただかなくては)

 ずっと気になっていたラウガの動向。ハミルは彼が戦争をおこそうとしているのでは、と考えていた。それが、本当のことかもしれないのだ。

 そして何より、ハミルのことが心配だった。ハミルが部屋に閉じこもってからもう五日だ。全く食事をとっていない。彼の心も身体も心配だった。

(なんとか、部屋から出てきてもらわなくては)

 一体,彼に何があったのだろう。

 十年近くそばにいて,こんなことは一度もなかった。

――ニック

 武人らしくない穏やかな微笑みと優しい声。

 ただハミルの柔和な笑顔が見たかった。




 ラウガは一人,ザハラ国王の遺体が安置されている“継の間”という部屋にいた。広く薄暗い空間の中央に,天蓋付きの豪華な寝台が置かれており,そこにザハラは眠っている。壁や高い天井には大地の神(アルゼスラ)の絵が彫られていた。

 王の権力は大地の神(アルゼスラ)より授けられしもの。王が亡くなると,大地の神がこの空間におりたち,亡き王から新たな王へ権力をうつすという言い伝えから,王が亡くなると王子はこの部屋で遺体と丸一日ともに過ごすのだ。

 ラウガは明日の朝までここにいなくてはならない。今はまだ昼時にもなっていないだろう。退屈ではあったが苦ではなかった。ラウガはザハラの亡骸など見もせずに,壁にもたれかかってこれまでのこと・・・そしてこれからのことを考えていた。今頃,御三家をはじめとする貴族や国民に,ザハラの死が伝わり始めているであろう。

 今日が終われば,明日は誰もが仕事を休み,ザハラ国王の死を国民全員で悼む“喪の一日”だ。そして明後日にはラウガの戴冠式が行われ,新国王として何日もかけて国中をまわるのだ。

(ことを起こすのはいつがいいだろうか)

 準備はもうほぼできていた。二年ほど前にピルトの森に極秘に施設をつくった。百年前のシンシア・ラージニア戦争についての記録が残っている村を焼き払い,村人達を実験台として,ラージニアからさらった学者達に研究をさせた。人体の構造から爆発物,毒薬,武器・・・戦につかえそうなありとあらゆる技術を発展させてきた。

(ラージニアも相当てこずるだろう)

 人々が際限なく殺し合う。互いの国にのりこみ,街も民も焼き払う。

 ラウガは思わず口元をゆるめた。

 すばらしい。そんな世界になるまで,あと少しだ。

(――ああ,そうだ)

 ラウガはふと,大切なことを思い出して,立ち上がった。王の亡骸に歩みよる。

 この“継の間”で王子は王の亡骸から,王の証である首飾りをいただくのだ。ラウガは冷たくなったザハラに触れ,襟を少しまくる。

(・・・!?)

 ラウガはわずかに目を見開いた。王が本来首にさげているはずの首飾りがなかった。

(どういうことだ・・・?)

 ラウガは慎重にザハラの身体をまさぐったが,どこにもない。あの首飾りは先代の王から次代の王へと引き継がれるもので,王としての証だ。普段は服の内側にさげておくものだが,戴冠式の時や国をまわるときは皆に見えるように首にかけなくてはならない。

 ラウガはわずかに焦りを感じながら,それでも冷静に頭を働かせた。

(誰かに盗られた?いや,そんなはずはない。――まさか・・・)

 ラウガは忌々しげに布がかけられている王の顔を睨みつけた。

(そうか,こいつ・・・)

 脳裏に昔のザハラの姿がよぎる。己の欲のために自分にすりよってきた男。

(最後の最後で,私の邪魔に入ったか・・・)

 ザハラは,ラウガが何かを画策しているのを察していたのだろう。お前はまだ,国のことを何も考えていないと言っていた,ザハラの言葉を思い出す。

(自分が死んだあと,私が国王になれぬよう,極秘で誰かに王位を譲ったのだ)

 腹の底から怒りがこみ上げ,ラウガはザハラの死体を殴りつけたいという衝動を必死におさえた。開けていた道に,もやがさした気分だった。

 首飾りがなくては,戴冠式を行うことができない。それどころか,父から王位をゆずりうけた者が名乗り出てきたりしたら・・・

(冗談じゃない。ようやくここまできたのに,こんなところで・・・)

 憎しみにも似た苛立ちがつきあげてきたとき,ふいにすっと心が冷えた。

(・・・そうか)

 戴冠式が行われる前に,この城を滅茶苦茶にしてしまえばいいのだ。ザハラが王位をゆずったなら,その相手はだいたい検討がついている。混乱に乗じてそいつを殺し,首飾りを奪えばいい。

(ことをおこすのを少しはやめるだけだ)

 ザハラの瞳に冷たい光が宿る。

 問題は今日だった。ラウガはこの部屋から出ることができない。もし今日,あいつが名乗り出てくれば,自分の負けだ。だが,明日すぐに、ここを出たら自分は動きだす。そうなったらもう手遅れだ。自分が勝つ。

 これは賭けだった。

(だが,あいつは王になる度胸など持ち合わせていないだろう)

 自分に課された任におしつぶされそうになっているに違いない。

 あと一日・・・あと一日で全てが決まるのだ。




「会ってくださらないと…?」

 ルトは険しい顔で戻ってきたニックの言ったことを繰り返した。彼も暗い表情でうなずく。

「ああ」

 そしてややためらってから口を開いた。

「…当主、ハミル様はもう五日も部屋に閉じこもったままなんだ。普段はそんな方じゃないのに、何か思いつめていらっしゃるようで…」

「五日も…?」

 ルトは焦りを覚えた。一刻もはやく動き出さなければならない,と何かが自分を突き動かすのだ。ルトは決意をにじませた面持ちでニックに尋ねる。

「当主のいらっしゃる部屋に連れて行ってもらえませんか?」

「は?」

 ニックがいぶかしげに顔を歪めた。

「扉ごしにでも、ご当主…ハミル様とお話ししたい」

 貫くようなまっすぐな瞳に、ニックはたじろぐ。大声を出すわけでも、きつい言い方なわけでもないのに、ルトの言葉には有無を言わせぬ響きがあった。




 しばらく何も食べていないのに、空腹は感じなかった。いっそこのまま餓死してしまえば、どんなによいだろうと思った。

 部屋の片隅で壁にもたれかかりながら、ハミルは暗くよどんだ瞳で宙を見つめる。自分はどうすべきなのか全くわからなかった。

 ニックは一日に何度も声をかけてくれ、ニーナも何度も訪ねてきてくれた。それでも外へ出る気にはなれなかった。現実に戻りたくない。見知らぬ深く暗い森を果てしなくさまよい続けているような気持ちになって、たまらず王の証を握りしめる。

 その時だった。

「ハミル様」

 扉がたたかれ、ニックの声がした。ハミルはのろのろと顔をあげる。

「先ほどの、ハミル様にお目通りしたいと申していた者なのですが…」

 ハミルはいらいらしながら声を荒げた。

「誰とも会いたくないと言っただろう!」

 だが、ニックはひるまず淡々と続ける。

「彼が、どうしてもハミル様に話を聞いてほしいと申すので、連れてまいりました」

 ハミルは驚き,目を見はった。用心深く聡明なニックが,わけもわからぬ部外者をここまで連れてきたというのか。

「ハミル様」

 かたく閉ざされた扉の向こうから,ニックのものではない男の声が届く。

「はじめまして。俺・・・私は,ローニャの森に住む,物語作家のルト・アーレベルクといいます。ハミル様にどうしてもお話したいことがあって参りました」

 決して大きくないのに,芯の通った声だった。ハミルは何も応えず,黙って聞いていた。

「この国の王子,ラウガ様のことです」

 その名を聞き,冷たい刃物で胸を刺された心地になる。ハミルは動けずに姿もわからぬ物語作家の言葉を聞いていた。

「私は三ヶ月近くラウガ様の手によって城に軟禁されておりました。そこから逃げ出してきたのです。・・・捕まっている間,私は知ってしまいました。ラウガ王子が国の平和をおびやかすほどの恐ろしい計画を立てていることを」

 ハミルは耳をふさぎたくなった。それ以上聞きたくない。

「王家の方を侮辱することが重い罪にあたることは重々承知しております。ですが,私は聞いてしまったのです」

 言わないでくれ。

「ラウガ王子は隣国のラージニアと戦争を起こそうとしています。そのために多くの人々を犠牲にして極秘に準備をすすめているのです」

 がしゃん,と心の中で何かが崩れる音がして“やはりそうだったか”というあきらめにも似た思いだけが残る。男の言葉を疑う必要もない。予想していたとおり,ザハラ国王の言っていたとおりなのだ。

「ハミル様,あなたを当主とするクリスタイン家は国の軍事力のほとんどを握っています。あなたの動きしだいで,ラウガ王子の暴走を止められるかもしれないのです。・・・どうか一度私の話をお聞きください」

 ハミルは震えていた。この国を任せると言ったザハラの言葉とルトの言葉が重なる。ラウガの冷酷な瞳。そしてニーナの優しい笑顔が脳裏をよぎった。

 あのラウガを敵にまわすなど,それがどれほど恐ろしいことか。

(できない・・・僕には・・・)

 クリスタイン家当主として国防と軍事を担いながら,ニーナと穏やかに暮らしたい。その思いが脳天を貫いた。

「・・・ちがう」

 ハミルは低い声でうめいた。

「ラウガ王子は,戦を起こそうとなんてしていない。・・・全部,あなたの勘違いだ」

 そうだ,ラウガは心正しき王子だ。国民の誰もがそう言っているではないか。

 ハミルの言葉に,ルトは愕然とした。ニックがもう耐えられないというように強く扉をたたく。

「いい加減にしてください!ラウガ王子には何かあるとおっしゃっていたじゃないですか!どうしてそんなにっ・・・――あなたは何から逃げているんですか!?」

 今まで聞いたことのない,責め立てるようなニックの声にハミルはぶんぶん首をふる。

 ラウガの恐ろしい企てを認めてしまえば,自分はラウガの敵となって彼に立ち向かわなくてはならない。ラウガは自分にとって邪魔になる者は平気で消す男だ。逆にいえば彼にとって都合のいい人間になれば,自分は殺されない。ラウガが王となるのを見届け,彼の手足となって動けば,自分やニーナ・・・大切な人々の身は安全だろう。・・・そう,よしんば戦になったとしても,自分は軍隊の頂点として指揮する側立つのだ。死ぬ確率は格段に低い。

 ハミルは薄笑いを浮かべて叫んだ。

「国民も皆言っているだろう。ラウガ王子は心優しきお方だ。彼が戦を起こすはずがない。・・・ニック,その人は逃亡犯だ。ラウガ王子のもとまで連れて行くんだ」

 ハミルの言葉にルトは身体をこわばらせる。ニックは怒りを通り越してあきれてしまった。

「何をおっしゃっているんですか・・・ハミル様・・・。一体,どうしてしまったんですか・・・?」

 長年付きそってくれた者が自分に失望の声をむけている。それを聞くまいとするように,ハミルは膝をかかえ,顔をうずめた。

 自分がニーナと幸せに生きていくためには,ラウガに従うしか方法はない。

 自分は間違っていない。何も――・・・


「一〇七年前に起きた,一年間にわたるシンシア・ラージニア戦争では,両国ともに国民の半数以上を失いました」


 重い沈黙の中,口を開いたのはルトだった。ニックはやるせない表情のまま,顔をあげる。ルトはまっすぐな瞳で扉の向こうにいる男に語りかけていた。

「当初,シンシアは攻めくるラージニアから自国を守る,という国防のためだけに剣をとりました。しかし,いつの間にか軍は暴走し,国を守るだけではなく,ラージニアへの侵攻も行いました。兵だけでなく一般市民も多く虐殺したと言われています。被害は国内にも及んでいます。シンシア軍は次々と一般国民を徴兵し,戦力に組み込みました。たいした軍事訓練もうけずに戦場に駆り出され,なすすべもなく死んでいった人が大勢います。終戦間際,シンシア兵たちに下されていた命令は“ラージニア兵を一人でも多く殺せ”“自分の命を守ることよりも敵の命を奪うことを考えろ”だったそうです」

 ハミルは信じられぬ思いでよどみなく流れてくる言葉を聞いていた。遠い昔,父から聞いた戦争の歴史が今,目の前に響いている。

「ザシャ帝国の介入によって戦が終結したとき,シンシアは焼け野原と化していました。人間も建物も自然も失った自国を見て,当時のクリスタイン家当主でありシンシア軍の最高指揮官であったジャナト・クリスタインはその光景を目の当たりにし,深い後悔と自責の念にとらわれたといいます。国を敵から守るという最初の目的を忘れ,民を血みどろの争いに先導してしまったと。ジャナトは戦の経過をこと細かに記録に残し,兵達には“敵を攻撃するのではなく国を守るために戦え”という教えを徹底しました。戦争の実態とおぞましさを後世に語り継ごうとしたのです」

――クリスタイン家当主は代々,ジャナトの業と願いを背負っているのだ。

 父の声が聞こえた気がした。

「彼の思いは受け継がれ,百年以上平和は守られてきました。ですが,今それは途絶えようとしています。ラウガ王子と・・・あなたの手によって」

 ハウルは目を見はった。頬をぶたれた気分だった。父の怒った顔がまぶたにうかぶ。

――何をしているのだ,ハミル

「百年前に比べ,今は技術が格段に進歩しています。今戦が起きれば,百年前とは比べものにならない悲惨なものとなるでしょう」

 目の前に父がいる。険しい顔つきで自分を見つめている。

――お前にとって大切なものは自分と恋人の命だけか?お前が私にしめした覚悟は,その程度のものだったのか?

「ハミル様,百年前の過ちをまたくり返すのですか?」

――シンシア王国の平和はクリスタイン家にかかっていると,あれほど言ったではないか

(父様・・・)

 遠い父の言葉が胸に迫る。

――人は己の信じるもののために,愛するもののために戦うことができる。だがな,戦争は戦いではない。ただの殺し合いだ。

 自分が忘れていた,決して見失ってはいけなかったものが押し寄せてくる。

――クリスタイン家の当主になる者として,この国の平和を,皆が殺し合いではなく戦うことができる国を

(そうだ)

 僕はニーナだけじゃない。この国の人々を守らなくてはならないんだ。

 ハミルは何かにひっぱられるようによろよろと立ち上がる。


 ルトとニックははりつめた思いで彼の返答を待っていた。ルトはめまいを感じ,倒れそうになる。ニックが支えてくれた。

「大丈夫か?」

「ありがとうございます」

 長く立っているのがつらかった。汗をかきながらも,ルトは扉を見つめる。

(ラウガのもとに連れ戻されたら終わりだ・・・)

 扉の向こうからは何の返事もない。やはり,届かなかったのか・・・そう思った時,かちゃん,と扉が開いた。

 ルトは目をみはった。出てきた男はルトが想像していたよりも若く,華奢で儚げだった。やつれはて,ぎらぎらした瞳でルトを見つめている。

「ハミル様・・・」

 ニックが安堵を含めた声音で主人の名を呼ぶ。ハミルはルトをまっすぐに見つめて口を開いた。

「詳しく話を聞かせてくれ,ルト・アーレベルク」




 ザハラの死の報せは王家専属の情報屋たちによって国中に伝えられた。国民は衝撃をうけ,大勢の者が涙した。

「ザハラ国王のおかげで,うちはお金がないのに上の子も下の子も学舎に行けたんだよ」

「よくうちの村に来てくださって,何か不便なことはないかと気に掛けてくださった。村に井戸ができたおかげで,遠くの川まで水をくみにいかずにすんだんだ」

「ああ,ザハラ様が治めてくださった世は,なんと穏やかで幸せだったことか・・・」

「ザハラ国王陛下に,永遠に大地の神(アルゼスラ)の恵みがあらんことを」

 人々は嘆きながら,明日の“喪の一日”に向けて準備をはじめていた。明日は一切仕事を休み,喪服を着て各地にさだめられた“慰霊の場”に行き,王の冥福を祈らなくてはならない。喪服や王に捧げる供物の準備にとりかかっていた。

「だが,これからはラウガ王子がこの国を守ってくださるだろう」

「ラウガ様なら安心だ」

 王の死を悼みながらも,誰もが次期国王ラウガへの期待を胸に抱いていた。

 彼なら必ず,ザハラのように,あるいはザハラ以上にこのシンシアを守り豊かにしてくれると。

「ラージニアとの外交も,なんとかしてくださるだろうか」

「この前の爆破事件は,ラージニアの仕業だったのでしょう?」

「このままじゃ,怖くてラージニアのものを食べられないよ」

 一の区の爆破現場も,ようやくもとの姿に戻りつつあった。だが,大切な者を失った者達の悲しみと憎しみは消えはしなかった。その矛先は当然のごとくラージニアへ向けられていた。

「あんな国,滅んでしまえばいい・・・。どうしてザハラ様は何もしてくださらなかったの?」

「大丈夫さ。きっとラウガ王子が何とかしてくれる」

 人々は,ラウガが望んだとおりに動いていた。




 クリスタイン家の屋敷の応接間でハミルはルトの話を聞いていた。扉の前に立って,ニックは二人の様子を見守っている。ルトは全てを話した。ラウガをずっと疑っていたこと。戦争について調べてきたこと。ラウガに目をつけられ捕まったこと,ルシカのこと――

 聞き終えたハミルは,呆然と椅子の背もたれにもたれかかる。

「そんなことが・・・。――村まで襲われているのか」

 ルトはうなずいた。

「はい。戦争の記録を抹消するのが目的なら,襲われている村は一つや二つではないと思います」

 ハミルの脳裏に不審な死を遂げた父や,燃やされた倉庫,そしてザハラ国王から聞いた,ラウガの過去がよぎる。

(ラウガ・・・そこまで・・・)

 ラウガを止めなくてはならない。

 ハミルはそっと胸に手をあてる。首にかけ服の内側にさげている首飾りの固さを感じる。

 切り札はこれだけだ。自分が王となる。それしかラウガをとめる術はない。

(だが,そのためには・・・)

 その時だった。

「ハミル様!いらっしゃいますか!」

 うわずった声とともに,扉がたたかれる。ハミルは驚きながらも,ニックに目配せをし,うなずいた。

「ここにいる。入ってこい」

 ニックによって扉が開かれると,そこにはまだ若い下仕えの青年が肩で息をしながら立っている。彼はひざまずくことも忘れて言い放った。

「ハミル様・・・,今朝方,ザハラ国王陛下が,崩御されたそうです。明日にはもう喪の儀が・・・」

 その報せに,三人は凍りついた。


 もしこの日のうちに,ハミルが王位継承者であることを名乗り出れば,後にあのようなことにはならなかったであろう。

 だが,この日ハミルは動き出さなかった。万全の準備をし,次の日――“喪の一日”に全てを明かそうと考えていたのだ。

 その決断がどんな結末につながるのかも知らずに。




 ルシカは一本道を歩き続けた。果てしなく続く緑に心が折れそうになるが,アルネが一日歩けば着くと言ってくれたので,それを励みに足を動かし続けた。

(日が落ちるまでには着きたいな・・・)

 そう思っていたとき,ふいに遠くに鐘の音が聞こえた。

(夕の刻を知らせる鐘だ・・・)

 ルシカの胸に喜びが広がった。鐘の音が聞こえるまで来たのだ。

 安堵とともに,切なさに似た悲しみが心をよぎる。この荘厳な音を聞くと,父の顔,そして何度もともにこの音を聞いたリャオの顔が頭に浮かんだ。

(リャオ・・・)

 一緒に捕まり,ともに逃げ,二人で旅をした。何度も励まされ,何度も助けられた。明るくて,知識豊富で,しっかり者で・・・

(リャオ,今どこにいる・・・?)

 どうか,無事でいてくれ。俺はもう一度君と・・・


「ルシカ?」


 名を呼ばれ,ルシカは反射的に顔をあげた。

「え・・・?」

 ルシカは目を見開いた。今,自分の瞳に映っているものが信じられない。うすい茶色の髪,赤い瞳,整った顔立ち・・・ルシカと同じ歳くらいの少年が,馬に乗ってそこにいた。

――必ず,君を助ける

「・・・リャオ?」

「ルシカ」

 ルシカは身体の力が抜けそうになり,ぐっと踏みとどまった。

 リャオだ。リャオがいる。目の前に。

「リャオっ・・・今まで,どうして――」

 ルシカは馬に乗った少年のもとに駆け寄ろうとする。彼は優しく微笑んでいた。

「俺,ずっと・・・」

 その時だった。

 だんっ,とルシカは突然地面にたたきつけられた。

「!?」

 起き上がれない。なんとか首をひねると,いつのまにか二人の男がいた。そのうちの一人がルシカの背に膝をのせ,ルシカは紙綴り(クロッサ)を抱きしめたまま,うつぶせになった状態で動けない。

「・・・?」

 ルシカは呆然と顔をあげた。ルシカのよく知る少年が,ルシカの全く知らない暗い笑顔でこちらを見下ろしている。

「あんたが,ルシカ・アーレベルクか」

 聞いたことがない低い声。少年は慣れた動作で馬からおりる。

「探したよ,“ルシカ”」

「リャオ・・・?どうしたんだ?」

 身じろぎしようとすると男がぐっと背に乗せた膝に力をこめる。まだ完治していない傷に響いて,ルシカは思わずうめいた。

 何がなんだかまったくわからなかった。どうしてリャオが,自分にこんなことをするんだ?この男達は何だ?

「リャオっ・・・」

――ルシカ

 明るい笑顔,優しい言葉がルシカの脳裏をよぎる。

「ラウガ王子があんたをお探しになっている。一緒に来てもらおう」

――絵だって素晴らしいよ,ルシカ

 一緒に泊まった宿。一緒にみた景色。一緒に歩いた道。

 たまらなくなって,ルシカは叫んだ。

「っ・・・どうしたんだ・・・リャオ!」

  ばんっと頬に衝撃が走る。続いて鉄の味が口いっぱいに広がった。

「うるさい。なんであんたが俺の名前を知っているんだ」

 リャオに頬を蹴られたのだ。そう気づいた瞬間,ルシカは愕然とした。

(リャオ・・・?)

「リャオ,どうするこのガキ」

 男の一人が言う。

「騒がれても困るから,少しの間眠っていてもらおうか」

「ああ」

 ルシカを押さえつけている男が手をあげる。

――リャオ,どうして・・・?

 首筋に衝撃が走り,ルシカは気を失った。


――リャオ・・・


 最後に見えたリャオの表情は,笑っていた。胸を突き刺すような,さげすみの目をしていた。


 

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