第18話 終わりと始まりの朝

 物語を綴ることは,こんなにつらく,苦しいものだったろうか。


――あったかい


 脳裏にナリィの顔がうかんだ。ルトの腕の中で,涙が伝った頬をほんのりと赤らめて,満ち足りた笑顔でそっと目を閉じる彼女。

――ルトの物語はあったかいね

(そう言ってくれたのは,いつのことだっただろう)

 ひどい頭痛をこらえながら,ルトは手をとめた。無駄に高価な木筆(ロッタ)は使いにくい。ラウガが用意したシナリオ通りに物語りをつむぐ。人々の憎しみをあおるためだけの虚偽の歴史。書いている最中,ずっと頭が痛かった。百年前の戦争で死んでいった者達にずっと見られているような気がしたのだ。

(ごめんなさい・・・――でも,俺は)

「ルトさん」

 名を呼ばれ,はっとルトは顔をあげる。サマンナがすぐ近くに立っていた。

「もう夜も遅いです。そろそろ休まないと,身体に障ります」

 小さな医術師見習いが淡々とした声で言う。ルトは微笑んだ。

「ありがとう。――あと少しだけ。もう少しで完成するんだ」

 ルトはもう一度机にむかう。つきり,と足が痛んだが,気にしない。はやく書き上げて,一刻も早くこの苦しみから逃れたかった。

(でも,これを書き上げても,きっと次が来る)

 そう思うと,絶望がこみ上げてくる。自分の物語を読んで,人々がラージニアを憎み,戦争を助長する。その苦しみをふりはらうように,ルトは息子のことを思った。

(ルシカ・・・今,どうしている?)

 ルシカがここに連れて来られたとき――自分はどんな顔をすればよいのだろう。

「顔色が」

 虚をつかれ目をやると,サマンナはまだそこにいた。

「よくないです」

「ああ・・・すまない」

 彼女がこんな夜遅くまで自分につきそっているのは最近ではめずらしいことだった。そんなに心配されてしまうほど,自分は弱っているように見えるのだろうか。

「息子さんのことを考えていたのですか?」

 ルトは驚き目を見はったが,すぐに眉をさげ疲れたような笑みをみせた。しんと静まりかえった夜の空間。気がつけば,机の燭台にしか灯りがない。赤い炎がサマンナの深い瞳の色を照らしていた。その目を見ていると,ずっと胸にしまいこんでいた想いがゆさぶられる。

 ルトは木筆を置いた。ふっと身体が軽くなったような気がする。

「・・・本当は,こんな物語は書きたくない」

 見失いかけていたものを取り戻すように,ルトはゆっくりとしゃべった。

「それでも,俺は息子を守りたいから・・・そのためには書かなくちゃいけない」

 ルトは穏やかな瞳でサマンナを見つめる。

「そう気づかせてくれたのは,サマンナのおかげなんだ」

「え?」

 サマンナはめずらしくきょとんとした表情になった。

「言ってくれただろう。“親なら最後まで子どもを守るべきだ”って」

 サマンナの目が大きく見開かれる。ルトはそれに気づかなかった。

「だから,俺は・・・」

 どんっと音がした。ルトははっとする。サマンナが手に持っていた治療用具入れの箱を落としたのだ。

 ルトはサマンナを見た。

「サマンナ・・・?」

 彼女は目を見開いたまま青ざめている。指先がかすかに震えていた。

「どうした?」

 小さな肩に触れようとすると,サマンナはそれをさけるようにあとずさる。

「・・・ちがう」

「・・・?」

 彼女はひきつった表情のまま首をふった。

「ちがう」

「サマンナ?」

 少女は震えている。おびえた瞳でルトを見つめている。

「私のせいじゃない」

 今のサマンナはいつもの冷静沈着な彼女ではなかった。

「あ・・・,俺は君を責めているんじゃなくて,ただ感謝を・・・」

「私のせいじゃない!」

 その叫びを聞いて,ルトははっきりと異様なものを感じる。激情に歪んでいた彼女の顔がふっとゆるんだ。虚無の表情だった。

 彼女は両手で顔をおおう。

「・・・ごめんなさい・・・」

 今度は聞き取りにくい,小さなつぶやきだった。

「ごめんなさい・・・おとうさん・・・」

 ふらり,と細い身体がかたむく。ルトは慌てて抱きとめた。その拍子に折れている足に激痛がはしる。

「うっ・・・」

 サマンナは気を失っていた。頬に一筋,涙のあとがあった。

「サマンナ・・・」

 ただの一度も笑わなかった少女。感情を全て押し殺したような目で,自分を見つめていた少女。

(この子は,一体何を抱えているのだろう・・・)




 どれくらい走っただろう。喉が痛い。うまく息ができない。

 頭には繰り返し,叫び声と剣が空をきる音が響いていた。

「ぐうっ・・・」

 吐き気がして,ルシカはその場にうずくまる。

「ルシカ!」

 ナターラも立ち止まり,ルシカによりそって背をなでてくれた。

「・・・見て,ルシカ」

 彼女が言い,ルシカはなんとか顔をあげた。

「あ・・・」

 暗闇の中,目をこらすと,そこには道があった。今までの獣道じゃない。ちゃんと整備された道だった。

「この道を右にいけばラージニアへ,左にいけば街に出るわ」

 ルシカは袖で口を拭きながら息をのむ。街へ戻る道・・・

「私はラージニアに戻る。・・・あなたは?」

 ルシカは何も答えられなかった。ぐっと胸のものがせりあがってくる。どうしてこの人は,こんなに落ち着いているのだろう。

「どうして・・・」

 やっとのことで声を絞り出す。

「どうして,逃げたんですか・・・?」

 ナターラの顔を見ることができなかった。しばしの沈黙のあと,ナターラが冷ややかな声音で言う。

「逃げなければ,誰かを助けることができた?」

 その声の冷たさにルシカは一瞬身をすくませた。だがすぐにかぶりをふる。

「でも,見殺しにするなんてっ・・・」

「私は」

 硬い声がルシカの言葉をさえぎる。

「感情では動けないのよ」

 ルシカははっと顔をあげる。ナターラの目には涙が浮かんでいた。

「私だって,みんなにかけよりたかった。出来る限りの力で,危険をおかしてでも助けたかったわ!」

 はらはらと,紫の瞳から涙がこぼれる。

「でも,私が死んだら誰がこの惨状を変えるの?人々に伝えるの?今も森のどこかで,何百人もの人々が亡くなっているかもしれないのよ。私たちが死ねば,真実が闇に消えてしまうわ」

 ルシカは言葉を失った。ナターラは涙をぬぐい,決然とルシカを見つめる。

「私は,死ぬわけにはいかない。あなたも」

 ルシカがぐっと身体のどこかに力を入れる。そうしないと泣いてしまいそうだった。しばし見つめ合い,やがてナターラがふっと泣き笑いの表情をうかべる。

「難しいわね」

 彼女らしくない弱々しい声。

「目の前の命を救おうとしたあなたは何も間違っていないのにね。・・・でも,私は自分が間違っているとも思わない」

 ルシカはうなずいた。その反動で,一筋涙がこぼれる。

 自分もナターラも間違っていない。

 生き方が違うのだ。彼女は一国の王女だ。国を治めるための生き方を彼女はずっと学んできたのだ。

「・・・ごめんなさい」

 ルシカがつぶやくと,ナターラがふるふると首を振った。

「謝らないで」

 しん,と空気が静まる。胸に悲しみがあふれる。

 ソノマ,ラニ,コルト,ホルソム――

「う・・・ああ・・・」

 ルシカは嗚咽した。せきをきったように涙が溢れる。

 なぜ,彼らは死ななくてはならなかったのか。

「・・・ルシカ」

 ふっと身体が温かいものに包まれる。ナターラが抱きしめてくれたのだ。彼女も震えながら泣いていた。

 まだ夜は明けない。二人はぴったりと身を寄せ,泣き続けた。




 ――お父さんが,お母さんのぶんも,サマンナを守るから

 温かいぬくもり。懐かしい。

「ん・・・」

 サマンナがゆっくりと目を開けた。ルトは彼女の顔をのぞきこむ。

「大丈夫か?」

「ルトさん・・・?」

 サマンナが大きな瞳をぱちくりとさせた。ルトの足はまだ完治していなく,少女一人を抱えた状態で動くことができず,サマンナを抱きかかえた格好のままだった。

 ルトに抱えられながら,サマンナはぼんやりとしていた。

 こんな風に,間近で人のぬくもりを感じるのは久しぶりだった。

――サマンナ,君はきっと,立派な医術師になれるよ

(お父さん・・・)

 脳裏に父の姿がよぎる。少しおっちょこちょいだけど,誰よりも優しくて誰よりもサマンナを愛してくれた。最後の,最後まで。

 サマンナの頬を涙が伝う。

「サマンナ・・・?」

 その声が,その顔が父のものと重なった。

 たまらなくなって,サマンナはぎゅっとルトにしがみつく。

「お父さんっ・・・」

 最後まで父は笑っていた。サマンナを守ってくれた。

 お母さんも,お父さんも,私が殺したのに――

「――私のせいなの・・・」

 震えるサマンナの背をルトが優しく撫でてくれる。

 温かくて,懐かしい。

 サマンナの涙を流しながら,ずっと胸に押し込めてきた,自分の想いをぽつぽつと言葉にした。




 サマンナはサブランの森にあるツァノ村で育った。

 ツァノ村は“医術の村”とも呼ばれており,自然の恵みを生かした多くの医術に優れていた。村人も大半が医術師であり,街の診療場で働いたり,訪問医をして生計をたてていた。サマンナの父も医術師だった。

――ただいま

――おかえりなさい,お父さん

 サマンナには母がいなかった。父に「どうして私はお母さんがいないの?」と尋ねても,ただ困ったように笑うだけだった。そして必ず,ぎゅっとサマンナを抱きしめて言った。お父さんが,お母さんのぶんもサマンナを守るから,と。

 内気でおとなしいサマンナは近所でも学舎でも全然友達ができなかった。それでも,優しくて明るい父がいてくれるだけで,サマンナは十分幸せだった。

 街の診療場で働き,村でも病人や怪我人を診る父の姿を見るうちに,サマンナも自然と医術師を志すようになった。医術に関する知識や技術は父が丁寧に教えてくれた。

――サマンナは器用だしよく気がつく。君はきっと,立派な医術師になれるよ

 また,父はよく家の書斎で本を見せてくれた。

――医術は,百年以上昔のシンシア・ラージニア戦争で大きく発展したんだ。死と隣り合わせの戦場で,人々は生きるすべを必死に生み出そうとしたんだよ

――せんそう・・・?

――もう,学舎でもあまりやらないんだろうね。この村は戦争に関する本が多いから,今度読んであげる

――うんっ


 父と過ごす幸せ名日々。だが,それも終わりに近づいていた。

 ある日サマンナは,村人たちの噂話を偶然耳にしてしまった。

――・・・ほら,ノースさんの家はお母さんがいないでしょう

――ああ,そういえば,どうして?

――サマンナを産んですぐ亡くなったのよ。もともとあまり身体の強い人ではなかったし,けっこう難産だったみたいで

 どん,と心臓を強く押された気持ちだった。十歳の少女には耐え難い事実だった。どうして母がいないのかと尋ねたときに,父が見せる悲しげな笑みを思い出す。

(私を産んだから,お母さんは死んでしまったんだ・・・)

 お父さんは今までどんな気持ちだっただろう。どうして私に何も言ってくれなかったのだろう――

家に帰ると,父は書斎で本を読んでいた。

「おかえり,サマンナ」

 いつも通りの明るい笑みを見て,サマンナは悲しいような怒りたいような気持ちになった。サマンナは父につめよった。

「どうして,教えてくれなかったの?お母さんが私を産んだせいで死んじゃったって・・・」

 父が驚きの表情を浮かべるのを見て,サマンナは泣きながら叫んだ。

「お母さんを殺してしまった私を,お父さんはどう思ってたの?ずっと・・・――本当は,私のこと,嫌いだったの・・・?」

「サマンナ・・・」

 うつむくサマンナに,父が何か言いかけた,その時だった。


「わあああ!」


 耳をつんざくような悲鳴と,ばたばたといくつもの乱暴な足音が響いた。

「何だ?」

 窓から外をうかがおうとすると,突然窓が真っ赤に染まり,熱風が二人を襲った。

「きゃあ!」

「火だ!」

 家に火をつけられた。そう悟ったときには,窓硝子は割れ,炎がなめるように部屋に入ってくる。

「あつっ・・・」

「サマンナ,外に・・・!」

 だが,火のまわりは想像以上にはやかった。玄関につくころには,もう扉は火でつつまれ,とても近よれない。家のまわり全てに火がまわっているようで,逃げ場はどこにもなかった。

 炎がまきあがり,煙が充満し,目が痛くなってくる。せきこむサマンナの肩を父がぐっとつかんだ。

「二階だ,二階に行こう」

 二人は黒煙と火の中,這うようにして二階へあがる。二階ももう火の海だった。

「お父さん・・・」

「大丈夫だ,お父さんの寝室に」

 二人は身体のあちこちに火傷をおいながらも,父の寝室に来た。

「窓からとびおりよう。二階だけど・・・このままここにいたら死んでしまう」

「・・・うん」

 父が椅子をつかみ,窓硝子を割った。

「下はちょうど草地になってる。サマンナ,先に行ってくれ」

 サマンナは一瞬躊躇したが,うなずいた。もう炎は迫ってきている。サマンナは窓枠に足をかけた。

 だがその時,窓のそばにあった書棚が,炎につつまれながら倒れてきた。

「あっ・・・」

「サマンナ!」

 どんっと押され,サマンナは尻もちをつく。顔をあげ,サマンナは悲鳴をあげた。父が燃えさかる書棚の下敷きになっていたのだ。

「お父さん!」

 父はなんとか顔をあげ,サマンナを見つめる。

「早く逃げるんだ」

「でも,お父さんが・・・」

 なんとか書棚を持ち上げようとするが,あまりにも熱くてとても長く持っていられない。

「はやく行って,サマンナ」

 父は苦しそうに,それでも笑った。サマンナはききわけのない子どものように首を振る。

「いやっ・・・」

「サマンナ」

 炎の叫びと濃い煙で,もう父の声も姿もかすんでいる。

「さっき,サマンナを産んだせいで,お母さんが死んだって話をしていたね」

 サマンナびくっと肩をすくませた。煙の中で父は微笑んでいる。

「サマンナのことをお父さんがうらんでいるんじゃないかって」

 炎が二人の髪をふきあげる。

「それは違うよ。・・・サマンナが産まれる前,確かにお母さんはまわりに心配されてた。子どもを産むだけの体力があるのかって。・・・でもお母さんは言った。“命をかけてでもこの子を産みます”って」

「どうして・・・」

「“私はこの子の母親だから”って言ってた。――サマンナ,親はね,どんなことがあっても,自分の子どもを守りたいんだ。命にかえてでも」

 サマンナの目から涙が溢れる。

「お母さんが死んでしまった時,お父さんも思ったんだ。“お母さんの分まで,この子を守ろう”って」

 お父さんが,お母さんのぶんもサマンナを守るから。

「お父さんっ・・・」

 涙がこぼれ,熱い床に落ちる。父に抱きつきたかった。ごめんなさい,ありがとうと言いたかった。だが,父の身体は今,炎にのまれている。

「・・・いいかい,サマンナ。森を出たら,すぐ青い屋根の診療場がある。お父さんが働いている場所だ。ここから逃げたらそこにむかいなさい。院長はとてもいい人だから,きっと助けてくれる」

「いや,お父さんを置いていくなんてっ・・・」

 ぎしぎしと床が音を立てる。今にも落ちてしまいそうだった。

「・・・サマンナ,たのむよ。生きてくれ。お父さんとお母さんの分まで」

 父の瞳から涙がこぼれる。サマンナははっとした。父が泣いている姿は初めて見た。

 サマンナはよろよろと立ち上がる。父が泣きながら安堵したように微笑む。

「サマンナがいてくれてよかった」

 サマンナは泣きながら窓枠に足をかける。もう何も言えないし,何も見えなかった。少しでも父の方を見れば心が折れてしまいそうだったのだ。

 身体が宙に浮く。

――お父さん・・・お父さん・・・

 身体中に激痛が走ったが,無我夢中で立ち上がった。全身痛かったがかまわず走り出した。森の中を走りながら,村の様子が目に入った。全ての家が燃えている。あちこちに死体が転がっている。学舎の級友も,近所のおじいさんもいた。何人もの兵がうろついている。見つかったら殺される。

生きてくれ。

(お父さん・・・)

 なぜ急にこんなことになったのか。そんなことを考える余裕はなかった。ただ,空に向かって叫びたくなるのを必死にこらえて走り続けた。

――お父さん・・・お父さん・・・


 サマンナは生きのびた。

 父に言われたとおり,父の働き先を訪ねた。そこの院長はサマンナを哀れみ,彼女をおいてくれた。院長の下でサマンナは診療場で働きながら日々を過ごした。院長は優しい人だったが,兵に襲われたと言っても信じてはくれなかった。賊と見間違えたのだろうと言っていた。

 賊でも兵でもどっちでもよかった。村が全滅し,父が死んだことにかわりはないのだ。

 何も感じない,笑うこともない空虚な時間がどれくらい経ったか,ある日,街を巡遊していたラウガ王子が,診療場に足を運び,サマンナに会いに来た。

――腕のたつ幼い医術師がいると聞いてきたが,お前がそうか

――はい

――王宮に来て,王家専属の医術師見習いにならないか。お前の力はきっとローバルト家に必要になる。

 王子の命令に逆らうことなどできない。別にどうでもよかった。院長には感謝していたが,それだけだった。診療場を出て行く日,院長はサマンナの肩を抱いて言った。

――あまり自分を責めるな。お父さんとお母さんが悲しむ

 その言葉はサマンナには届かなかった。王宮に入り,前より豪華な暮らしになっても,王家の専属医に高度な医術を教えてもらってもサマンナの心は動かなかった。

――お母さんもお父さんも,私がいなければ死ななかった。

 どうして私は,生きているのだろう。



 彼女がこぼす言葉を聞きながら,ルトは胸がしめつけられる想いがした。話している最中,サマンナはずっと泣いていた。

「・・・今日は,村が襲われた日なの」

 サマンナが嗚咽しながらつぶやく。

「お父さんが,死んでしまった日だから・・・」

 ルトはサマンナを抱く腕に力をこめた。彼女が今日,こんなに夜遅くまでルトにつきそってくれたのは,ルトが心配だったからではない。きっと一人になりたくなかったのだ。たった一人で父が死んだ日の夜を過ごしたくなかったのだ。

 サマンナが今までどれほどの悲しみと苦しみを抱いてきたかと思うと,息が詰まりそうになる。同時に熱い怒りも胸に広がった。

(ラウガ・・・)

 サマンナの村を焼いたのは,間違いなくあの男だ。戦争の資料を消すために,村に火をつけたのだ。

(資料を消すために・・・村ごと焼いて,口封じに村人まで殺したのか・・・)

 ルトは五年かけて戦争の記録を調べてまわった。資料を見せてくれたあの村や,慰霊碑がまつられていた村,戦争の話をきかせてくれた村・・・その一つ一つが心にうかぶ。

(彼らも,ラウガによって村を焼かれ,殺されたのか・・・?)

 それは許容しきれない事実だった。

 なぜだ。なぜそこまでするのか。なぜそんなことができるのか。

 心臓を炙られるような怒りと,自分はそんな男のもとで働いているという事実がルトを容赦なく苛んだ。

(俺は・・・)

 ルトの背にぎゅっとサマンナがしがみつく。ルトははっと少女を見つめた。

「おとうさん・・・」

 泣きじゃくる彼女が,ようやく年相応の子どもに見えた。ルトも彼女を抱きしめる。こんな時,なんと言ったらいいのかわからない。泣くなとも泣いていいのだとも大丈夫だとも言えなかった。全部,彼女の心を傷つけてしまいそうで。

 考えたすえ,ルトは少女の背をさすりながら物語を話した。

 それは,心にしみわたるような優しい物語だった。言葉がたおやかに流れていく。

「・・・あたたかい・・・」

 ルトの言葉を聞きながら,サマンナは小さくつぶやいた。小さい頃,眠れないとき,父もこうやってお話をしてくれた。

――サマンナ

 温かな物語がサマンナを優しい記憶へと誘っていく。

――大好きだよ

――守るから

 かたくなだった心がほどけていく。

――サマンナがいてくれてよかった

 父も母も,自分を恨んでなんかいない。自分を愛してくれている。

 そんなことは最初からわかっていたのかもしれない。

 ただ,受け止められなかった。あまりにも悲しすぎて。

 自分をあんなにも愛してくれた人達が,いなくなってしまったことが。

 むき出しになり,空っぽの心の中に,ルトの物語が流れこむ。

(生きてみよう,今度こそ)

 サマンナはそっと目を閉じた。

(お父さんも,お母さんも,それを望んでくれるから)


 語りながら,ルトは自身の胸が満たされていくのを感じていた。

――あったかい

(・・・思い出した)

――ルトの物語は,あったかいね

 あれは,ナリィとともに暮らしはじめてまだ間もない頃だった。真夜中に彼女はよく一人で泣いていた。声を押し殺して,何かに耐えるように。隣で寝ているルトはそれに気がついていた。今思えば,短命であることを自覚していた彼女はきっと悔しさや悲しみをかかえていたのだろう。だが,当時のルトはそんなことは知らず,なぜナリィが泣いているのか全く分からなかった。

 気安い慰めの言葉をかけることもできず,何も言うことができなかった。だが,放っておくこともできない。

 だからルトは彼女を抱きしめて物語を聞かせた。優しい話,面白い話,幸せな話。ナリィは少し驚いたあと,微笑んで,ルトにしがみついて泣きながら聞いていた。

 その日から,彼女は真夜中,泣きたくなると素直にルトの胸に顔をうずめて泣くようになった。

 そのたびにルトは物語を語った。話し終わると,ナリィはいつも満ち足りた笑顔で目をつむり,ルトの手を握ったまま眠りにおちるのだ。

――ルトの物語は,あったかいね

(どうして忘れていたんだろう)

――ルトの物語はこうやってたくさんの人を癒すんだね

(俺は)

――ルトの物語は,みんなを幸せにするんだね


 物語を話し終えると,サマンナは微笑んでいた。初めて見せる少女らしいあどけない笑みだった。

「ルトさん,ありがとう」

 サマンナはそう言ってゆっくりと目を閉じる。そしてかすかな寝息をたてはじめた。安心した,幸せそうな寝顔だった。その顔がナリィのそれと重なる。

 ルトは胸の中で何かが弾けるのを感じた。


 こういう者達のために,物語はあるんだ。

 ルシカの笑顔,ラウガの言葉,兄の顔,ナリィのぬくもり・・・全てが自分の中を駆けぬけていく。何年もかけて調べた戦争の真実。

 俺は馬鹿だった。

 戦争が始まれば,平穏なんてあり得ないのだ。戦がおきても自分の大切な人達が幸せに暮らせるなんて,そんな都合のいい話はない。

 だから何年もかけて戦について調べ,物語を綴ったのだ。人々を止めるために。

 なのにいつの間にか,ラウガの言いなりになって人々の憎しみをあおるような物語を書いて・・・

(どうして気づかなかったのだろう。俺は,人の幸福のために物語を書いているのだ)

 ここにいてはいけない。ここでラウガの思い通りの物語を綴り,ルシカが来るのを待っていてはいけない。

 ルトは足の痛みをこらえてサマンナを寝台まで運び寝かせた。あどけない寝顔を見つめながらそっと髪をなでる。

「ありがとう,サマンナ」

 自分がこれからすることが彼女に迷惑をかけないか心配になった。だが,ラウガは彼女を悪いようにはしないだろう。幼く野心がなく優秀であるサマンナはラウガにとって“都合の良い者”なのだから。

 ラウガは自分に都合の良い者を生かし,邪魔な者は容赦なく殺す。自分は今までラウガにとって都合の良い者だったのだ。だが,自分は今からラウガにとって邪魔な者となる。自分の命も兄の命も・・・そしてルシカの命も保障されない。むしろ危険にさらされる。

(それでも)

 それでもここで,ラウガの示した物語を書き続けることはできない。


 ルトは足をひきずりながらそっと扉に近づく。人の気配はなかった。ルトがラウガに忠誠を誓って暫くしてから,鍵は相変わらず外からかけられているが,見はりの兵はつかなくなったのだ。

 ルトは窓辺に行き,そっと窓を開けた。冷たい風に身震いする。下をのぞきこむと地面が遠かった。体験したことのない高さだった。一瞬ひるんだが,一階ごとに露台(ベランダ)があることを見とると,ルトは覚悟を決めた。

 窓かけの布をはずし,細く巻いて紐状にして窓枠に結びつけた。昔バルに習った,特殊な引っ張り方をするとすぐにほどける縛り方だった。

 ルトは紐をしっかりと持って,窓に怪我をしていない方の足をかける。とたんに背中と骨折した足に鋭い痛みが走った。

「う・・・」

 ここから逃げなくては。

 ルトは渾身の力をこめて紐を頼りに壁づたいに下におり,すぐ下の階の露台に降り立つ。紐をバルから習った通りに引っ張ると,はずれて落ちてきた。それを露台の手すりに結びつけ,また下の階の露台におりる。それをくり返した。

 五回ほどくり返し,ようやく地面に辿り着いたときには汗びっしょりだった。手足が震え身体中が痛い。とても久々の外の空気に浸る余裕はなかった。

(う・・・)

 ルトは壁にもたれかかり座り込む。動悸がはやかった。

(ルシカは家にはいなかった・・・バル兄さんのところにも・・・)

 ルシカのことだ。きっとルトを心配して,街へ捜しにいったに違いない。

 あの危ないチャレ道をわたり,なんの知識もないまま街へ繰り出すなんて・・・

 一瞬頭に最悪の予感が浮かんだ。だがすぐにルトはかぶりをふる。

(ルシカが死ぬはずない。絶対に)

 きっと今も,このシンシア王国のどこかにいる。

 ルシカを見つけて,兄さんと会って,逃げるんだ。ラウガ王子の手の届かないところまで。


――そんなことできるわけがない


 心の中の自分がささやく。

(そうかもしれない・・・でも)

 諦めてはだめだ。諦めてラウガの言いなりになってはだめなのだ。

(ルシカを見つけなくては)

 ルトはなんとか立ち上がり,片足をひきずりながらふらふらと歩き出した。

 月が綺麗な夜だった。空が遠い。王宮の庭園は兵の姿が見当たらなかった。王宮の外は警備が万全なのだろうが,ここまでくると警備は手薄なのかもしれない。

(夜のうちに,できるだけ遠くへ)

 ここがどこかもわからない。それでも,ルトは歩き続けた。




 暗い森がほんの少し明るくなった。朝が来たのだ。

 ルシカは目を覚ました。すぐ隣にナターラが木によりかかって眠っている。いつの間にか寝てしまっていたらしい。

 本格的に頭が覚醒してきて,はじめてルシカは自分が紙綴り(クロッサ)を抱きしめているのに気づいた。背嚢は置いてきてしまったが,これだけは持ってきていたのだ。懐にはお金が入った袋もある。

 冷たい風が吹いた。ルシカは身震いする。旅に出たのは夏のはじめだったのに,今はもう秋だった。

「ん・・・」

 隣でナターラが身じろぎし,目を覚ました。

「ルシカ・・・」

 ルシカは大きくのびをする一国の王女を見つめる。

「・・・ナターラさん,俺は街に戻ります」

 ナターラは虚をつかれたように目をみはったが,そう,とうなずいた。

「これからどうすればいいかわからないけど・・・まずは街に戻ってみます」

 ルシカの心は不思議と落ち着いていた。心のどこかにぽっかりと穴があいているような空しさがあったが,凪いだような静けさに包まれている。

 ナターラは立ち上がった。

「・・・お別れね,ルシカ」

「はい」

 ルシカも立ち上がる。一瞬全身が痛んで顔をしかめた。

「身体は大丈夫?」

「大丈夫です。・・・ナターラさんこそ大丈夫ですか?国境まで遠そうですけど・・・」

 そう言うと,ナターラは無邪気に肩をすくめた。

「大丈夫よ。これがあるから」

 そう言って懐から発煙筒を取り出した。シンシアのそれよりこぶりな大きさだった。ルシカは「あっ」と声をあげる。

「私が戻るときにこれをうちあげるって従者たちに伝えておいたの」

 彼女はひもをひき,発煙筒をうちあげた。木々の上でぱんっと音がする。

「帰りはこの道を通っていくって言ってあるから迎えに来てくれる。どこかではちあえるわ」

 たおやかに微笑む王女にルシカは思わず感心してしまう。やはりこの人は何かが違うと思った。

「ルシカ,ありがとう。どうか元気で」

 ナターラは優雅に礼をする。ルシカも返そうとしたがふっと下げかけていた頭をあげた。

「あの・・・最後に一つだけ,いいですか」

「なに?」

「・・・いつか,“戦争”が起きるんですか?」

 ルシカの問いに,ナターラがぴたりと動きをとめた。ルシカはぐっと拳に力を入れる。

 ソノマの話,ラニの話,そしてナターラの話。

 森の奥にある人知れぬ施設で行われている人体実験。父がルシカにも秘密で綴っていた物語。

 暗くよどんだ不安が胸の中にあった。“戦争”がどんなものかもよく知らないのに。

 ナターラはしばしルシカを見つめたあと,ゆっくりと口を開く。

「・・・もう,戦争を体験した人はこの国のどこにもいないわ」

 何の感情もない,淡々とした口調だった。

「もちろんラージニアにもね。ラージニアは発展を目指す国だから過去をふり返ろうとしないのよ。――人は,忘れればくり返す。戦争の記録がほとんど無くなった今,また同じ事が起こるかもしれないわね」

 息をのむルシカに,ナターラは少し声を和らげる。

「・・・でも,戦争なんて起こさせないわ。絶対に」

 ナターラの目に,国を担う者としての覚悟が宿る。

「もう,ソノマさんたちのような人を出さないためにも・・・」

 現ラージニア国王が亡くなれば,次にラージニアの王として君臨するのは彼女なのだ。それは一筋の光のようにルシカには思えた。

「・・・でもね,ルシカ。戦は,国の上に立つ者だけで止められるものではないのよ。あなたのような国民一人一人の想いが,国を動かすと私は思ってる。国民全員が王家にはむかえば,王なんてあっさり滅んでしまうもの」

 目を瞬かせるルシカに,ナターラは微笑む。

「あんなに過酷な状況にいたソノマさんたちが,あなたの絵を見て心を和ませていたでしょう。人はただ呼吸をして何かを食べて生きていく生物ではない。そういう絵や物語に耳をかたむけ心を豊かにしていける生き物よ。――あなたはきっと人の心を優しく,温かくするようなそんな絵が描ける人なのね」

 ナターラがルシカの手をとる。

「いつか・・・戦がおき,人々の心がすさぶような時代が来たら,あなたの絵でみんなを助けてあげて。戦がおきそうなほど人々の心が憎しみに歪んでしまっていたときは,あなたの絵でみんなを救って」

 ナターラの言葉が,切実な色をおびて響く。ルシカはうつむいた。

――そんなことができるだろうか。

(・・・でも)

 つらいとき,父の書いた物語に,母の描いた絵に心をなぐさめられてきた。自分もそんなものを生み出したい。誰かの心に響くような。想いを動かすような――

「・・・はい」

 ルシカはうなずく。自分は絵を描き続ける。どんなことがあっても。

 二人はかたく手を握り合った。

「さようなら,ルシカ。・・・ありがとう」

「ありがとうございました。ナターラさん」

 二人は別々の方向へと歩き出す。

 きっともう,彼女に会うことはないだろう。彼女は王女として生きていくのだ。そして,ソノマたちにももう二度と会うことはできない。彼らはもうどこにもいない。

(忘れない)

 彼らと過ごした時間を,彼らの死を自分は決して忘れない。

――あんたのその腕は,あんたのためだけのものじゃないんだな

――もっと絵を見せて

 彼らのことを,彼らが残したものを忘れずに絵を描いていこう。


 


 ずっと,国のことだけを考えてきた。

 自分が治める国の繁栄,そこで暮らす民の幸せだけを考え,尽力をつくしてきた。

 その一生が今,ゆっくりと閉じていく。

 ザハラは最期にうっすらと目を開けた。

 そこには,亡き王妃・・・最愛の妻と,心許した親友が立っていた。

――アルセナ,コリア・・・迎えに来てくれたのか

 二人は穏やかに微笑んでいる。

 ザハラの目に涙が浮かぶ。

 取り返しのつかない過ちを犯してしまったというのに。それらを全てのこる者におしつけて,自分は去ろうとしている。


――もう,いいんですよ


 妻が優しい声で,手をのばしてくれる。


――僕の息子が,必ず貴方の跡を継ぐ


 友が微笑みながらそう言った。


 冷酷で,そして誰よりも哀れなラウガ,突然大役を担わせてしまったハミル,愛すべき我が国の民・・・全てをのこして,自分は逝く。

 ザハラはゆっくりと手をのばした。 

後悔と不安と,それでも自分の一生に確かな誇りを持って。


シンシア王国に,永遠の平和と幸福を。


「ザハラ国王・・・」

 静かな早朝。医師と数人の臣下が見守る中,シンシア国王ザハラ・ローバルトはその生涯を終えた。


 後世に語り継がれる,国と民を立派に守った国王の最期。


 そして,ザハラの唯一の後継ぎであるラウガ・ローバルト王子がシンシア国王となった瞬間であった。

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