第17話 悪夢
もともと、武術はあまり得意ではなかった。
稽古の時、うまくできなくて父に叱られ落ち込んでいたとき、よくニーナが現れた。
こんこん、と自室の窓がたたかれ、そちらを見るとニーナが木の枝に立ってこちらを見つめていた。部屋の前にはちょうど枝がしっかりとした大木が生えていて、彼女はそこをつたってきたのだ。
――ハミル、入れて
彼女の両親はあまり仲が良くなく、母と父がまた喧嘩した、と言って瞳をぬらしながらこの部屋にやってきた。彼女の話を聞き、自分もまた彼女に話をした。ニーナにはなんでも話せた。
――これからもずっと、こうやってたくさんお話したいね
ニーナのたどたどしい言葉にハミルもうなずいた。
――ずっと一緒にいよう、ニーナ
(でも、今は…)
ニーナとともに生きる道が閉ざされようとしている。自分の選択しだいで。
本当にラウガは戦争を起こそうとしているのだろうか?もしかしたら、自分とザハラ国王の誤解かもしれない…そんな甘い考えが胸をよぎる。
(ニーナと離れたくない。王には…なりたくない)
自分にそんなことはできない。
ほとんど食事もとらず、誰とも会わず、ハミルは自室にこもり続けた。時々ニックがニーナの来訪を伝えてくれたが、とても会えなかった。
ハミルは燦然と輝く王の証を握りしめる。
彼女には話せない。こんなことは初めてだった。
いつもは食事が終われば、皆すぐ立ち去っていくが、今日は違った。鍋が空になってからも、誰も立ち上がらなかった。
ルシカは絵を描き、みんなに見せていた。街や自然の風景…それらを見るたび、男たちの表情はわずかに明るくなる。
「二の区には一度だけ行ったことがある…。初めて食った魚は美味かった」
「これは野原か?綺麗だな」
やがて男たちはぽつぽつと自分の身の上話を始めた。
シンシア人のコルトは、サブランの森の小さな集落で暮らしていたという。村では国の歴史を大切にしており、百年以上前のシンシア・ラージニア戦争に関する本や資料がたくさんあった。
「戦争…」
ルシカは無意識のうちにつぶやく。父が自分にも秘密で書いていた物語の内容。
「ある時,突然何十人もの兵が現れて村を襲った。火をつけられ,建物は全部燃えて・・・」
その時のことを思い出したのか,コルトは震えていた。
「焼け死んだ奴もたくさんいた。・・・だけど,生き残ったオレ達も何日も歩かされて,でっかい施設みたいなとこに連れて行かれた。殆ど食いもんもなく,狭い部屋に押し込められて,一日中働かされて・・・。逃げても,見つかって,また何人も殺された」
コルトが口をつむぐと,ラニが続ける。
「おれはラージニアで機械設計士をしていたが,ある日シンシア人がやってきて無理矢理あそこに連れて行かれた。爆薬や鉄砲の設計をずっとさせられてた。成果を出せなかったり,設計が進まない仲間は殺されていった。・・・必死にやったよ。――だが,おれの一番の親友が殺されたとき,おれは逃げ出した。そこでちょうど逃げるシンシア人達に出くわしたんだ」
ラニの顔が苦しそうに歪んだ。
「・・・なあ,シンシアは今,どうなっているんだ?シンシア人への扱いは・・・ラージニア人であるおれたちに対する扱いよりもひどいことが一目でわかった」
ラニはルシカを見つめている。
「どうして,同胞に対してあんなことができるんだ?何のために,誰が・・・」
皆黙っていた。それは全員が感じていることだった。
「・・・ラウガ王子の仕業なのか?」
ラニの言葉に,ルシカは驚いて顔をあげる。彼の表情は動かない。
「ある時,兵達の会話を聞いてしまったことがある」
――今度,施設(ここ)にラウガ様がいらっしゃる。どれほど研究が進んでいるかを確かめるためにな。
――では,実験体が足りないことを伝えねば・・・
「ラウガっていったら,シンシアの王子だろう・・・?」
「ラウガ様は,ザハラ国王の意を継ぐ心優しいお方だ。あんなことに関わっているはずがない」
コルトが言う。ラニは納得できないというように眉をよせた。不穏な空気を壊すように,ずっと二人の話を聞いていたソノマが口を開く。
「・・・おれが一番気になるのは,これからどうするかってことだ」
皆,ソノマの方を見た。彼が沈鬱な表情で話し続ける。
「このままだとどうなるか・・・。みんなわかっているだろう?」
このままここにいても,待っているのは死だけだ。そんなことはこの場の誰もがわかっていた。だから,誰も何も言えない。
生きていく道はあまりに細すぎる。
静寂の中,口を開いたのはホルソムだった。
「・・・ぼくは」
その手にはしっかりと,ルシカが描いたホルソムの花の絵が握られている。
「ぼくは生きたい」
ずっと暗くよどんでいた彼の目には,子どもらしい鮮やかな光があった。
「お母さんが,生きてって言ってくれたから」
再び瞳がうるみはじめたホルソムの背を,アルネが優しくさする。少年の言葉が,沈みきったせまい空間にしみわたっていく。
「おれだって生きたいさ」
「こんな目にあって,わけもわからず死にたくない」
ラニとコルトが続けた。二人の目にも今までにない強い光が宿る。
生きたい。
彼らの言葉をうけて,ソノマは微笑んだ。
「おれもだ」
ルシカはその様子を見ていた。はじめてここに来たときに感じた,暗くうつろな空気が少しずつ払拭されていくのを感じながら。
それから六人は,生き延びるためのすべを話し合った。
ラージニアへ行く方法はないか。シンシアの街で暮らすことはできないか。皆必死で考え,思いを口にした。
「ルシカが街へ行って,誰かを呼んでくるのは・・・?」
ホルソムの案に,ソノマは首をふる。
「来てくれるとしたら,街の治安兵くらいだと思うが,その兵が,もしあの施設の奴等と関わりがあったら終わりだ」
「そっか・・・」
ルシカも考え,意見を出した。
「俺は少しだけお金を持っています。みんなで街へ行きましょう。宿に泊まって,なんとか・・・」
「これだけの人数だ。すぐに金が尽きちまう」
コルトの言葉にルシカは一瞬戸惑ったが,すぐに言い返す。
「それでも,ここにいるよりはいいと思います。なんとか働き口を探して・・・」
二の区まで行ければ,シャナやレイがきっと力になってくれる。だが,今の持ち金でそこまで行くのは困難だった。
その時,ふっとルシカの頭にある考えが浮かんだ。
「絵を売れれば,少しでもお金が稼げる・・・」
それは,今までにない考えだった。父と創った絵本を売っていたように,今度は自分の絵を売る――。絵を商売道具にすることに対する嫌悪感と,自分の絵が売れるだろうかという不安が胸をよぎったとき,ホルソムが明るい声をあげた。
「ルシカの絵なら,きっと売れるよ!」
驚くルシカに,コルトやラニもうなずく。
「この絵ならきっと良い値で売れるだろう」
「ああ」
ソノマも少し逡巡した表情を見せた後うなずいた。
「ルシカには迷惑かけちまうが,街まで行って,ルシカの絵を売ってもらって金を稼ぎながら,おれたちは働き口を探すっていうのが一番いいかもしれないな」
皆賛同する。生きのびる道がある――その思いは誰の心にも明るい光を宿した。もう明日には出発しようという話になり,街までの道についても話し合った。
父を捜すために森を旅立ったあの日の気持ちに似た気持ちを抱きながら,ルシカはそっと紙綴り(クロッサ)を撫でる。
アルネは一言も話さなかった。皆の話をじっと聞き,何かを考えているようだった。
その日の夕方。夕食を終えた後,ルシカはソノマと水浴びに行った。ホルソムも一緒だった。
「街へ行くのって初めてだ」
木々が茂る獣道を歩きながらホルソムが言った。ルシカは微笑む。
「人がいっぱいいて,いろんな物を売ってるよ」
「へえ!どんなの?」
「んーと・・・」
三の区,二の区・・・今まで見てきた街の風景を頭の中に思い浮かべるが,うまく言葉にできない。目に映るもの,感じるものを言葉にするのは苦手だった。
「あとで絵で描くよ」
「ほんとう?ありがとう」
ホルソムが笑う。年相応の屈託のない笑み。だがきっと脳裏には母の首がはね飛ばされた残酷な光景が焼き付いているのだろう。
笑えるなんてすごいと思った。どんな目にあっても生きたいと望めることはどれほど困難なことか。
(父さん)
ルシカは心の中で父に語りかける。この人達が普通で,幸せな日常に戻れるよう自分にできることをしたい。俺は絵を描くくらいしかできないけれど・・・それでも。
そして父さんを見つけ出す。
生きる希望を手放さなかった人々の姿は静かな絶望に浸っていたルシカの心をひっぱりあげてくれた。
俺が生きて捜し続けていれば,きっとまた会える。父さんにも,リャオにも。
「不思議だな」
ソノマがぽつりとつぶやく。
「おれはもう,死ぬべき人間だと思っていたし,死んでもいいと思っていた。でも今は,どうしても生きたいと願ってしまうんだ」
穏やかで優しい瞳。きっとこれが,本当のソノマの姿なのだろう。
「はい」
うなずくルシカに,ソノマは少し眉を下げて笑う。
「でも多分,ルシカはそうじゃないんだろうな」
「えっ?」
「お前は自分の大切なもののために,死ぬことをいとわない人間だろう」
ルシカは目を瞬かせた。そんな彼の反応を見て,ソノマは「なんでもないよ」と首をふる。
「ありがとう,ルシカ」
ソノマが言い,半歩先を歩いていたホルソムが「あった」とせせらぐ小川を指さした。
ルシカは昨晩と同じように,食事をする部屋で一人,火をおこして絵を描いていた。明日はもうここを出発するから,早く寝なくてはならないことはわかっていたが,どうしても眠れなかった。
(前にもこんなことがあったな)
その時は,確か宿に泊まっていて,すぐ近くにリャオがいてくれた。
ルシカは木筆(ロッタ)を動かし,ソノマやホルソム・・・皆の姿を形作っていく。自然と頭には彼らの話が浮かんだ。突然襲われ,施設に連れて行かれ,死を待つ日々――
( “ラウガ王子”・・・)
なにがどうなっているのか,さっぱりわからなかった。こんなにも苦しみ,傷ついている人がいるなんて知らなかった。施設では一体,何百人が人知れず殺されていったのか。
(俺は・・・)
「ルシカ?」
名を呼ばれ,ルシカはびくっと肩をすくませる。顔を上げると,そこにいたのはアルネだった。
「アルネ・・・さん?」
ルシカが思わずばたんっと紙綴り(クロッサ)を閉じると,アルネがくすくすと笑う。
「癖なのね,それ。隠す必要なんかないのに」
ルシカは少し赤くなってうつむいた。どうもこの人と話すときは彼女のペースにのまれてしまう。アルネは部屋に入ってきて,ルシカの隣に座った。どうしたのだろう?彼女も眠れなかったのだろうか・・・そんなことを考えていると,アルネは紫色の瞳でルシカを見つめてきた。
「ルシカにお願いがあるの」
「お願い?」
「ええ。――私,明日の朝にはここを離れようと思うの。・・・だからみんなに伝えておいて。“お世話になりました”って。・・・そして」
ぱちん,と薪が音を立てる。
「そして“あなたたちを必ず助けます”って」
「え・・・?」
目を見開くルシカに,アルネは微笑む。
「ありがとうね,ルシカ。あなたのおかげで,私は心を決めることができた。・・・あなたがお父さんに会えることを心から祈っている」
ルシカは思わずまじまじと凛とした彼女の顔を見つめる。何日もここで暮らしたせいで髪は汚れ,顔色もくすんでいるのに,彼女には人を優しく包み込むような気高さ,美しさがあった。
「あなたは,誰・・・?」
自然とそんな言葉が出た。ルシカが尋ねると,アルネは浮かしかけていた腰を再び下ろし,苦笑する。
「私はアルネよ。ただの旅人」
「違う」
ルシカは即答した。確信があった。
「それは違う」
今度はアルネがじっとルシカを見つめる。紫の瞳がかすかに揺れていた。
「知りたい?」
ルシカはうなずく。アルネはしばし口をつぐんだあと,覚悟を決めたように決然と微笑んだ。
「・・・アルネは私の本当の名前ではないの。私の本当の名はナターラ。ナターラ・シャングラン」
「ナターラ・・・?」
ルシカはわずかに眉をよせる。どこかで聞いたことがある名前だった。
(・・・あ)
「私は」
ルシカが思い出したのと,彼女が口を開いたのは同時だった。
「私は,ラージニア王国を治めるクロア・シャングラン国王の一人娘。ラージニアの王女よ」
ルシカは目を見開く。そうだ・・・学舎で学んだ。ラージニア王国の王女・・・息子のいないクロア国王にとって唯一の王位継承者であるという。
(まさか,この人が・・・)
「信じられないでしょう?」
アルネ・・・ナターラはいたずらっぽく笑った。ルシカより二つ三つ年上くらいの普通の女性に見える。
「で,でもソノマさんやラニさんは気づいてないですよね?」
「・・・ルシカはザハラ国王やラウガ王子の姿を見たことがある?」
「あ・・・ないです」
「そうでしょう?そんなものよ。特に父も私も・・・ラージニア王家の者はあまり外に出ないのよ。王宮にこもりっぱなし」
ナターラはそう言ってため息をつく。
今隣で話している女性が一国の王女なのだということがルシカには信じられなかった。どういう態度をとってよいのかわからない。戸惑いながらも,ルシカはおずおずと問いかけた。
「それなら,どうしてこんな所に・・・?」
ナターラは少し面食らった表情を見せた後,くすくすと笑う。
「おとなしい子だと思っていたけれど,意外と好奇心が強いのね」
彼女はしばし目を閉じ,ゆっくりと話し始めた。
「ラージニアは,技術と発展の国。セバト四大陸の中で最先端の技術をもつ国として確立している・・・ってことはもう知っているわよね。でも,その成果と引き替えに,私たちは簡単に取り戻せないものを失ってしまった」
「それって・・・自然?」
「そう。切り倒した木々は機械のように簡単にはなおせない。ラージニアは深刻な資源不足に見舞われた。・・・父は焦っていたわ。どんなに素晴らしい技術を持っていても,材料がなくては意味がない。けれど,資源を全て他国からの輸入に頼るのは危険すぎた。他国に弱みを見せすぎてしまうから」
ナターラはじっと燃える薪を見つめている。
「父は国や国民をとても大切にしていた。でも自国さえよければ他国はどうでもいいという考えの持ち主でもあった。父はシンシアを手に入れることを切望していた。シンシアの豊かな自然・・・それを手に入れたいと。だからずっと,何かシンシアへ攻め込むきっかけがないかうかがっていたわ。一方的に侵略を行えば完全にこちらが悪者になり,四カ国の中で立場が悪くなるから,侵略を正当化する理由がほしかったのね」
」
ルシカは背筋がぞくりとするのを感じた。国と国との関係・・・あまりにも大きな問題に,得体の知れない不気味さを抱く。
「けれど,父は三ヶ月前のラージニア大災害で落ちてきた灯りの下敷きになり,頭を強く打ってから体調がよくないの。もう長くは生きられないと悟った父は,王位継承者である私にシンシアは邪な国だとふきこむようになった。滅ぼすべき国なのだと。・・・でも,私は」
ナターラの目に強い光が宿る。
「自分の目で見たものしか信じたくなかった。父の言葉一つでシンシア王国に向き合いたくなかった。だから,父に無断で旅に出ることにしたの。自分の目で,シンシア王国が本当に“邪な国”なのか見たかった」
ルシカは目をむいた。なんという行動力なのか。
「すごいな・・・。一人で?」
「いいえ。国境まで従者が送ってくれたわ。そこからは一人で歩いてきたけれど。街へ向かって森を歩いているうちに,偶然あの人達を見つけたの。・・・最初,亡くなっているのかと思った。それくらいぼろぼろで,疲れ切っていて――何かあると思った。この人達と一緒にいれば,シンシア王国の何かがわかる気がしたの。・・・でも,誰にも何も教えてもらえなかった。・・・だけど昨日,ルシカとソノマさんの話を聞いて,ようやく知ることができたわ」
「昨日の話を・・・?」
「ええ。ごめんなさい。偶然耳に入って聞き入ってしまったの」
ナターラは穏やかな仕草で頭を下げる。
ルシカは身体がこわばるのを感じた。ラージニアの人々を誘拐し利用し,国民を大量虐殺したシンシア王国の事実――まさに邪な国と呼ぶにふさわしい。これがナターラ王女の口からラージニア国王の耳に入れば,それを理由に戦をしかけてくるかもしれない。
今まで気にもとめなかった“戦争”という言葉がひしひしと迫ってくる。
「・・・正直,怒りで震えたわ。悔しくて涙が出そうになった。私は,父に何て言われても,シンシア王国は自然を愛する優しい国なんだと信じていた。それを証明したかった。・・・でも,本当にシンシアはおぞましい行為をしていた。連れ去られ,理不尽な目に合わされたラージニアの人々・・・そしてシンシアの民のことを思うと,胸がはちきれそうだった」
ナターラの高貴な顔が歪んだ。
「国に戻って,全てを父に話そうと思った。たとえ戦になってでも,シンシアを止めなくてはならないって。・・・だけど・・・」
はりつめていたナターラの空気が,ふっとゆるむ。
「ルシカの絵を見て,一緒に昼餉を探したときに見せてくれた,シンシア王国の街や森の絵を思い出して・・・考え直したの。お父様に話したところでどうにもならないって。父はシンシア王国との戦争のきっかけをほしがっているだけ。父は施設に連れこまれた人々のためではなく,自国の利益のためだけに戦を始めるでしょう。そうしたらシンシア王国の美しい景色や頑張って生きる人々までも巻き込まれる。欲のための戦争は悲しみしか生まないわ。私たちは,百年前の戦争でそれを学んだはずよ」
ナターラはまっすぐなまなざしをルシカに向けた。その目にはなんの迷いもない。
「どうするつもりなんですか・・・?」
「ラージニアへ戻る。私欲に目がくらんでいる父には,何も話さないわ。でも,あの施設にとらわれた人々は必ず救い出す」
ルシカは目を見開いた。
「そんなことが・・・」
そんなことができるのだろうか。ルシカの危惧を感じ取ったのか,ナターラは苦笑した。
「まあ,まず国に無事帰れるかってことが問題なんだけどね。無断で出てきたから,そもそも城に入れてもらえるか・・・」
困ったように眉を下げながらも,彼女の表情は曇らない。
「それでも,やり遂げなくてはならない。私はラージニア王国とそこで生きる人々を守る・・・王女だから」
澄んだ声を聞きながら,ルシカは彼女の姿をとても眩しく感じた。何て強いのだろう。現実を受け止め,前を見つめている。
(これが・・・国の頂点に立つ人なんだ・・・)
シンシアの王族・・・ザハラ国王やラウガ王子も,このような強さと気高さを持っている方なのだろうか。
「すごい・・・」
思わずつぶやくと,ナターラが驚いたように目を瞬かせる。そして,どこか悲しげに笑んだ。
「何もすごくないわ。至らないことばっかりよ」
「そうなんですか?」
「ええ」
気丈だった彼女の瞳が,かすかに震える。
「自然破壊に外交問題,災害からの復興や,差別だって・・・」
「差別?」
ルシカは三の区にいた絵本作家アルドのことを思い出した。森に住んでいるという理由だけでルシカは嫌われていた。それと似たものだろうか。
「ええ。・・・ユルト民族と呼ばれる少数民族を,ラージニアでは長年迫害してきたわ。ラージニア人でありながら,黒い髪と瞳を持ち,自然を壊してまで技術を進歩させることに反対した人々・・・」
「シンシア人みたいだ・・・」
「そうね。ラージニア人とはあまりに異なる外見,思想が人々の反感をかったんでしょうね。王家も進歩を望まぬユルト民族に対して救いの手をさしのべるようなことはしなかった。・・・そして数年前,とうとうユルト民族は全滅した」
「そんな・・・」
一つの民族を消滅させるなど,どれほどのことをしたのだろう。施設で何百人もの人が実験台として殺されるのと変わらないのではないか。
(・・・世界は)
世界は,なんて残酷なんだろう。自分が知らなかった“森の外”の世界は。
ナターラはやるせないというように歪めていた表情をふっとゆるめた。
「ごめんなさい,こんなことまで・・・。今話したこと、部外者には知られてはいけないようなことばっかりなのに・・・」
「あ・・・,俺,誰かに話したりしませんよ」
ルシカが慌ててそう言うと,ナターラは一瞬虚をつかれたような顔になり、ふっと微笑んだ。
「ありがとう。・・・あなたがそういう人だと思ったから,こんなにぺらぺら話してしまったのかもしれないわね・・・」
そして優しい瞳でルシカを見つめる。
「ルシカは,自分の思いを絵に表す人だものね」
ソノマはふっと目を覚ました。横を見ると,暗闇の中でもルシカとアルネがいないことがわかった。
(また絵を描いているのかもしれない・・・)
ソノマは再び瞳を閉じる。まぶたに紙に木筆(ロッタ)をはしらせるルシカの姿が浮かんだ。とても生き生きしていた。生命力にあふれた顔。あの表情を見たとき,腕が治ってよかったと心から思った。腕の,全身の傷は,もう殆ど完治している。傷跡は残ってしまうだろうが,もうちゃんと動かすことができる。
――ソノマさん,本当にありがとうございます
そう微笑んでくれたルシカ。
あの時,はっきりと思い出したのだ。医術師としての喜びを。怪我人,病人を助け,元気になった彼らが見せてくれる笑顔。
(もう一度医術師として生きたい)
シンシアでもラージニアでもいい。傷ついた人々を救いたい。
(やり直したい。もう一度,生き)
その時だった。
「見つけたぞ!」
どすのきいた声とともに,目の前がばっと明るくなった。
「明日も早いから,そろそろ寝ましょうか」
しばらくナターラと話していたルシカは,彼女の言葉にうなずいて立ちあがる。その瞬間
「うわああ!」
耳をつんざくような悲鳴があがった。
「!?」
「なに?」
二人は驚いて外に出ようとした。だが,入り口から外に出かけたとたん,とびこんできた鋭い光に目がくらみ立ちすくむ。目をこすり,もう一度見ると,ここから少し離れた大木の前に,二人のシンシア兵が立っていた。一人は松明を,一人は太い刃の剣を持っている。ルシカは息をのんだ。あの大木の部屋には――
剣を持っている男が,大木の穴に入り,中からソノマをひっぱりだす。薄茶の髪をわしづかみにして,笑いながら。
ルシカとナターラは恐怖のあまり一歩も動けず,ただ見ていることしかできなかった。
「手間取らせやがって・・・こんなところに隠れてたのか」
遠目から見てもわかるほど,がくがくと震え、ものも言えないソノマを兵達は獲物をいたぶる獣のような目で見つめている。剣を持った兵が無造作にソノマの背中を切りつけた。
「ぎゃああ!」
ソノマの叫び声を聞いて,ルシカははっと我にかえる。
「ソノマさんっ」
助けなくては――だが,走り出そうとしたルシカの手をナターラが強くひっぱった。
「だめ!」
ナターラが小声で,だが厳しい響きでルシカをいさめる。
「どうして!?助けに・・・」
「静かにしなさい!」
ルシカの口をナターラが手でふさいだ。彼女は足で薪の火を消す。
(どうしてっ・・・)
痙攣しながらうずくまるソノマの背中を兵が踏みつける。
「仲間がいるだろう?言え!」
あえぎながらも,ソノマは首をふった。
「・・・いない・・・」
「そんなわけあるか!」
ソノマのか細い返事に兵が怒鳴って彼の右肩に剣を突き刺す。
「ぐあぁっ」
(ソノマさんっ!)
目から涙があふれ,自分の口をふさいでいるナターラの手に落ちる。彼女が今、どんな表情をしているのかわからない。
「おい、よく見りゃ穴が空いてる木がいっぱいあるぜ」
「よし」
兵たちは苦しみもだえるソノマを放り出し、別の大木にまわる。
ナターラはルシカの口をふさいだまま彼を無理やり部屋の中へ押し戻す。ルシカは必死に抵抗した。
(みんなが…!)
「いたいた」
「なんだ、ガキじゃねえか」
兵の下卑た声。しゅっと剣を振りかざす音。
「うわああ!」
(ホルソム!)
「死んだか」
「ああ」
ルシカはぴたりと動きをとめた。
――もっと絵を見せて
そう言ってくれた少年の声が耳に響く。
「まだいる」
「ほらあ、出て来い!」
ルシカはぐっと拳を握りしめた。ラニさんだろうか、コルトさんだろうか。剣を肉に突き刺す鈍い音と、かすかなうめき声が聞こえる。
(ああっ…)
ルシカは震えた。とめどなく涙が溢れる。
――おれだって生きたいさ
――こんな目にあって、わけもわからず死にたくない
「ここにもいたぞ!」
「ああ、機械設計士の…」
剣を振り下ろす音。二回響いた。漂う生臭い臭い。
――なあ、シンシアは今、どうなっているんだ?
「あっちの方も見てみよう」
「ああ」
ざ、ざと足音が近づいてくる。ルシカの口をふさいでいるナターラの手に力がこもった。ルシカも身体をこわばらせる。
(こっちに来る…)
見つかれば殺される。歯がかちかちと鳴った。ナターラの息を飲む音が聞こえる。
足音がすぐ近くに聞こえた、その時――
「あっちに仲間がいる!五人だ!」
ソノマのかすれた叫び声が響いた。
(!?)
「ああ?なんだって?」
兵たちの足音が遠ざかる。無意識のうちに身体の力が抜ける。
「もっとむこうだ。そこに五人いる。…さあ、言ったんだから、助けてくれえっ」
ソノマが震える声で懇願した。
「はっ、ありがとうよ」
兵は血まみれでうずくまるソノマをあざ笑い、剣を振りあげる。
「楽にしてやる」
剣が風を切る音。うめき声。
――ありがとう、ルシカ
(ソノマさん…!)
「むこうって言ってたな。…ちっ、まだ五人もいんのか」
「ああ、行くぞ」
足音はどんどん遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。
ナターラがようやく手を離してくれる。ルシカはその場にへなへなと座りこんだ。
「…どうして…」
這うようにして部屋を出た。
「ああ…」
真っ暗でほとんど何も見えない。それでも血の臭いが濃厚にただよい、あちこち倒れている人影が見えた。誰も、まったく動かない。
「ああ…」
生きたいと、みんなそう言っていたのに。
(いや、まだだ…、まだもしかしたら息がある人が…)
ルシカはもつれる足でなんとか立ちあがり、彼らに駆けよろうとした。だが、再び腕をつかまれる。
「ナターラさん…?」
彼女は強くルシカの腕をつかみ、ひっぱった。
「逃げるわよ」
「えっ?」
「ここから逃げるの。早く!」
「でもみんなが…」
「――たとえ生きていたとしても、今の私たちにできることはないわ」
ルシカは愕然とした。
「でもっ…!」
なにを言っているんだ、この人は。なおもその場にとどまり続けるルシカの肩を、ナターラが強くつかむ。顔と顔が近づいて初めて、彼女も泣いていることに気がついた。
「ソノマさんがどうして嘘をついたかわかる!?兵を遠ざけて私たちを逃がそうとしてくれたのよ!ソノマさんは私たちを守ろうとしてくれたの」
ルシカは目をみはる。頬を打たれた心地だった。
――でも今は、どうしても生きたいと願ってしまうんだ
「だから逃げなくちゃ。嘘がばれたら、兵たちは戻ってくる」
ナターラはルシカの手をつかんで走り出す。ルシカの足も勝手に動いた。動いてしまった。
たった数日…それでもともに過ごした場所がどんどん遠ざかる。
ソノマさん、ホルソム、ラニさん、コルトさん――
彼らの言葉が、どんな目にあっても生きようとした人々の姿が脳裏によみがえった。
「ああっ…」
あと一日、あと一日で、あの場所から離れられたのに。
あと一日兵が来るのが遅ければ、あと一日、ここを出発するのが早ければ、彼らは死なずにすんだのに!
薪を囲み、無言で食事をし、また、皆で生きるすべを話しあった。
「ああっ…!!」
どうして、どうして、どうして――
抱えきれぬ悔しさと疑問、悲しみで、心をぐちゃぐちゃにしながら、それでもルシカは暗闇の中を走り続けた。
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