第16話 秘密
アルネは森の中を歩いていた。夕食用の葉を探していたのもあるが,単純にこの森を歩きまわっているのが好きだった。草を刈り木々を切り倒し,緑を失ったラージニア王国では絶対に見ることのできない光景だ。薬をつくるためにわざわざ施設をつくって育てている植物が,シンシア王国では自然に花を咲かせているのだ。
(でも,その花が薬になることを,シンシアの人は知らないのだわ)
そう考えると,やるせないような悔しいような複雑な気持ちになる。
(私にできることはなんなのだろう・・・)
そんなことを考えながら歩いていると,少年の細い声がした。
「どうして,あなたたちはここに住んでいるんですか?」
ルシカの声だ。はっとして顔をあげると,近くの木の根元に,ルシカとソノマが座って話している。アルネはさっと身をかくした。
「まあ,話を聞けば出て行きたくなるさ」
アルネは二人の声がなんとか聞こえるところまで移動し,気づかれぬよう木の陰に隠れる。
(ソノマさんたちがここに来た理由を話そうとしているんだ)
それは,アルネがいくら尋ねても話してもらえないことだった。アルネはじっと身をひそめて,二人の話に耳をかたむけた。
「どこから話したらいいんだろうか」
ソノマは口に手をあて、しばし目をつむった後ゆっくりと口を開く。
「おれはラージニアで医術師をしてるっていうことはもう言ったよな。ラージニアってのは医学、建築学、食学、機械学…そのほかあらゆる分野についての研究に力を入れていてね。国の金をたらふくつぎこんで、大きな研究所をつくり、才あるものはほとんど無償で研究させてくれた。技術の発展って面では四か国のどこにも負けてないだろうな。最先端の技術力を誇っている」
「あの、食学、機械学って…?」
おずおずとルシカが尋ねると、ソノマは微笑んだ。
「食学っていうのは、食料についての研究さ。生野菜を長期間保存するにはどうしたらいいか。果物をそのまま食べるだけではなく、他にも調理できないか、ってね。缶詰(ルズル)もここで生み出された。機械学っていうのも、機械に関する研究。たとえば、印刷機。シンシアでは三か所にある印刷場にしか置かれていないけど、ラージニアでは大きな店には大抵置いてある。こっちではほとんど手動だけど、あっちでは人が極力手を加えず大量に刷る機械が導入されている」
「ええ…」
三の区印刷場を思い出す。ルシカにとってはとても非日常的な経験だったのに、ラージニアではあれが当たり前のことなのだ。
「すごいですね」
ルシカが思わずつぶやくと、彼は「確かにな」とうなずきながらも、眉を下げた。
「でもな、こんな自然の森はラージニアにはどこにもない。ほとんど切り倒し、建物を建ててしまったから」
彼は顔をあげ、一面の緑を見渡した。
「最近の自然学の研究で、人間が生きるには植物が必要だってわかってきてな。急いで木を植えはじめたが、人が急ごしらえで育てたってうまくいくはずもねえ。木や鉱石が失われ、野生生物がどんどんいなくなり…、資源は失われつつある。ラージニアは今、自然破壊の問題が深刻なんだ」
ソノマはため息をつく。
「ラージニア国王…いや、国民も皆忘れていたんだ。人間は自然なしじゃ生きられない。それを壊しすぎたら痛い目に遭うってことをさ」
ルシカはうなずいた。絵を描くための筆や紙は木からつくられている。肉は生き物を殺し得るもので、水は小川から汲んでくる。直接であれ間接であれ、自分たちの生活と自然はつながっている。
「シンシアは良い。自然に生かされてるってことをちゃんと忘れずに国が成り立っている。今はもうすたれちまってるんだろうが、おれは“大地の神(アルゼスラ)”を崇めるっていうシンシアの宗教が好きだった」
一つ息をついて、ソノマは苦笑した。
「話がそれちまったな。…まあ、そんなラージニアでおれは診療場を開き、働いていた。妻と、十歳になる息子がいてな。なんの不自由もない、幸せな日々だった。――だが、それはある日崩れさったんだ。二か月半前、突然、二人の男が訪ねてきた。黒髪と赤褐色の瞳…一目でシンシア人だとわかった。奴らは言った。“共に来てほしい。あなたの力が必要だ”と。もちろん最初は断った。だが奴らは続けていった。“奥さんと息子さんは、私たちが保護しています”と。言うことを聞かねば、殺す――そう言っているのと同じだった」
ぞくり、と背筋が冷たくなるのをルシカは感じた。ソノマは淡々と続ける。
「妻と息子の命がかかっているとなれば、おれも言うことを聞くしかなかった。満足そうに男たちは、家族は我々が責任を持って守る。なに不自由なく暮らせるよう支援すると言っていた。おれは最低限の荷物をまとめ、馬に乗せられた。宿で休息しながら、何日も何日も馬を走らせた。そしてたどり着いたのは…」
そこでソノマはいったん言葉をきった。何かを呑み込むように喉を鳴らし、彼は続ける。
「このピルトの森だ。ピルトの森の中にある巨大な…施設だった」
「しせつ…?」
耳慣れぬ言葉に、ルシカは目を瞬かせた。
「ああ。とにかく広かった。どう言ったら伝わるかな…。シンシアの学舎くらいの大きな建物が六つ七つ建てられていた。その二倍以上の大きさの建物が二か所くらいあったな。おれが知らないだけで、本当はもっと広いのかもしれない。ともかくでかかった。…もっとも、おれがその施設に着いたのは真夜中で、その時はそんなの全然わからなかったがな」
森の中につくられた広大な施設。その異質さに、ルシカは身震いする。何も言えず、ただじっとソノマを見つめていた。ソノマは続ける。
「おれは男たちに誘導され、ある建物に連れていかれ、その中の一室に案内された。男たちは恭しく,ここが当分おれの部屋になるから自由に使ってくれと言った。だが出際、彼らは今までにない低い声でささやいた。“建物内は自由に動き回ってもいいが、絶対にこの建物から出ないように。もしこの約束を破れば、あなたも家族もただではすまない”とな。ぞっとした。とんでもないことになったと改めて思ったよ。でも寝台はふかふかで、部屋は清潔で心地よかった。おれは寝台に倒れこみ、何かから逃げるように眠った。こんなことは夢であってほしいと願いながらな」
だが、夢ではなかったのだ。
「…次の日から、おれの奇妙な生活が始まった。男たちに頼まれたのは、一言でいうなら毒薬の開発だった。少量でも飲めば死に至る薬。身体に触れれば、吸い込めば死ぬ薬。男たちは次々にそれらを要求してきた。おれはな,ラージニアでは薬草の研究もやってたんだ。自分でいうのもあれだが,それなりに名が通っていた。奴等はそれを知っていてここに連れてきたのか,と思った。怖かった。なぜ毒薬をつくらされるのか,一体どうするつもりなのか。奴等はいっさい教えてくれなかった。毎日ちゃんとした飯を食わせてくれ,研究に必要なものは全てそろえてくれたが,奴等はいつもおれを見はっている風だった。少しでもヘンなことをしたら妻や息子が殺されるかもしれない――その思いだけでおれは与えられた研究をこなしたんだ。建物からは一切出られなかったが,広い建物内には膨大な書物があったし,調べ物には何一つ困らなかった。――恐ろしいことだが,おれは研究の楽しさと喜びを思い出し,毒薬をつくっていることも忘れ,研究に没頭してしまったんだ。・・・そうして,二ヶ月近く過ぎた」
ルシカは目をみはる。あまりにも信じがたい話だった。この森のどこかに巨大な施設があり,この人はそこで毒薬をつくっていたのだ。
青ざめているルシカを見て,ソノマは今までに見せたことのないような冷たい笑みを浮かべる。
「これくらいで驚くな」
ソノマはふっと真顔に戻り,話を続けた。
「ある日,おれは建物内で,一人の男と遭遇した。ラージニア人だ。ある部屋で書物を読んでいたときのことだった。驚いたな。今まで建物内で誰かに会ったことはなかった。だが,不思議とそれを気にしたことはなかったんだ。あの怪しい男ども以外の他人と話すのは本当に久しぶりだった。向こうも同じだったらしく,おれたちは研究の合間によく話すようになった。彼の名はグランゼ。おれより一つ二つ年上だった。グランゼも家族をつかって脅され,ここに連れてこられたと言っていた。おれと同じラージニアの医術師で,グランゼは人間の生態について研究させられていると言っていた。人は飲食をせずにどれくらい生きながらえるのか,さらに人間はどこを刺せば死にやすいか,どうすれば最も苦しんで死ぬかまで調べていたらしい。書物を読み,豊富な知識と照らし合わせて,彼は計算し,考察し,仮説をたてていた」
「・・・そんなことを」
「恐ろしいだろ?でもな,グランゼは気さくで優しい良い奴だった。おれたちは互いの研究の助言をしあい,さらに発展させていったんだ。――おれたちは,おかしくなってたんだよ。日常から隔離され,家族の命を握られ,目の前に研究対象だけがさしだされている。それにくらいつくしかなかった。おれたちは自分が何をしているのかも忘れて,書物をむさぼり,考えることに明け暮れた」
ソノマの瞳に,一瞬狂気じみた色を見て,ルシカは息をのむ。
屈託なく自分に親切にしてくれたソノマ。その彼と意気投合したグランゼという男。その二人が人間の死についてのおぞましい話を日常的にかわしていたのだ。
――人間は胸のあたりに呼吸を促す臓物があるようなんだ。そこを刺せば,人は呼吸ができなくなる。つまり死ぬんだ。しかも,呼吸ができなくなっただけで人はすぐ死なない。生きながら呼吸ができない状態で,苦しみながら死ぬことができるんじゃないかと,僕は考えている
――へえ,そいつは面白いな。おれが今研究している毒薬にそれに役立ちそうな性質があってな・・・
(ソノマさんが,そんな・・・)
ルシカは震えた。なんだが,人ではないものを,人間の持つ見てはいけないものを見てしまった気がする。
ソノマは淡々と話を続けた。まるで熱にうかされたように,しゃべらずにはいられないというように。
「ある晩のことだ。おれの部屋でともに夕食を食べているとき、グランゼは言った。“一階の東階段の近くに抜け道を見つけた”と。“あの男たちも気づいていないだろう”と言って、声をひそめた。“一緒に建物の外に出てみないか?”グランゼはそう言った。おれは驚いた。そんなこと、考えてもみなかったんだ。確かに“外”のことは気になった。何不自由ないとはいえ、三ヶ月以上外に出ていないんだ。単純に外の空気が吸いたかったし、自分たちがどんな場所に連れてこられたのか知りたくなかったわけじゃない。…だが、おれは躊躇した。あの怪しい男たちの不気味な目が頭から離れなかったんだ。外に出て、見つかれば、家族を殺されてしまうかもしれない。おれは断ったよ。そして、“お前のためにも家族のためにも、馬鹿なことはするな”と諭した。グランゼはしぶしぶうなずいた。――そのときはな」
ソノマの瞳に暗い色が宿る。
「だが、グランゼは実に研究者らしい…好奇心の強い男だった。その夜、おれは寝台に横たわりながらずっと嫌な予感がしていた。――そして、それはあたった」
ソノマがこぶしを握りしめたのがわかった。ルシカは思わず身をすくめる。
「次の日、グランゼを見ておれは愕然とした。グランゼの顔には表情ってものが全くなかったんだ。目は虚ろだった。本当に、一目見ただけでぞっとするような虚無の顔だった。おれは困惑しながら彼を呼びとめた。だが、おれに肩をつかまれた瞬間、グランゼは顔を歪めて嘔吐した。臓物を吐き出すんじゃないかと思うほど、すさまじい量だった。おれはグランゼの背をさすりながら“昨日、外に出たのか”と訊いた。自然とそんな言葉が出たんだ。グランゼは答えずおれを見た。そして口元を歪めた。こんな気持ち悪い笑い方があるのかと思うくらいいびつな笑顔で、彼は一言言った。“僕の研究は正しかった”と」
僕の研究は正しかった。
「意味が分からず立ちすくんでいる間に、グランゼはふらふらとどこかへ行ってしまった。もうとても、声をかけられるような状態じゃなかった。――彼が落ち着いたら、話を聞こうと思った。…だけどなルシカ、それは叶わなかったんだ。それ以来グランゼはぱったりと姿を消したからだ」
「えっ…」
ルシカは息を飲んだ。
「それは、どういう…」
「そのままの意味さ。どこを捜してもいなかった。建物中をまわって、はじめてここにはおれとグランゼしかいなかったのだと実感した。そしてグランゼもいなくなったんだ。…おれは怖くなった。たまらなく怖かった。とても研究なんか手につかなかった。グランゼの虚無の表情が頭から離れなかったんだ。…やがて、定期的に研究成果を受け取りに来る男たちが訪れてきた。おれが何も進んでいないことを伝えると、男たちは何も言わなかったが、いぶかしんでいるのは確かだった。今まで、研究が全く進んでいなかったことなんてなかったんだからな。――その日の夜、奴らはずっとおれを見張っていた。奴らはこっそりやっているつもりだったんだろうが、おれは気づいていた。だから研究に没頭しているふりをした。変なことをしたら、妻と息子が殺される…その一心でな」
そこでソノマは話すのをやめた。いや、ここからは口に出せないというように、唇を細かく震わせる。
「…だがな・・・ルシカ、おれは聞いてしまったんだ。おれを見張っていた男たちの話を。――おれが用足しに行ったとき、無人のはずのグランゼの部屋から声がした。おれはそっと聞き入った。話しているのはいつも研究成果を受け取りに来るあいつらだった。…その時の奴らの会話は、あの下卑た声は忘れられない」
――やはり、ソノマ・フォルトは、グランゼの野郎に何かふきこまれたんだろうか。
――別に気にすることはない。それがはっきりした時はグランゼのように殺せばいい。それに、あの男は肝が小さいからな。家族が殺されるってびびって何もできやしないさ。
――そうだな。
――はっ、馬鹿だよな。あいつの妻も子どもも、三か月前のラージニア大災害でとっくに死んじまってるのによ
ルシカは目を見開いた。ソノマは何かに憑りつかれたように震えている。
「一瞬、言葉の意味が分からなかった。大災害?そんなものは知らない。何も知らない。何も聞かされていなかった!――奴らの言葉を完全に呑みこんだとき、おれは頭の芯がじんじん熱くなるのを感じた。頭がぐらぐらした。あれを殺意っていうんだろうな。…妻と息子の…クリナとプロセの顔が心に浮かんでは消えていった。胸が焼けるようだった。なぜだ、研究を続けていれば、家族を守ってくれるのではなかったか。…おれが満ち足りた環境で研究を続けている間に、クリナとプロセは死んでいったのだ…」
ソノマは両手で顔を覆った。ルシカはたまらず目をふせる。もし自分が今、ルトの死を告げられたらどうなるか…突然家族の死をつきつけられる恐ろしさは痛いほどわかった。もうこれ以上聞くのはつらかった。
だが、こののちソノマから語られる言葉は、ルシカが予想もしていなかったものだった。
「おれは衝動のまま、部屋にとびこんで男どもに殴りかかった。…その時のことはよく覚えていない。気が付いたらおれは、外にとびだしていた。もうあたりは真っ暗だった。ここから一刻もはやく離れたい――その思いだけでおれはがむしゃらに走った。時折見はりの兵がうろついていたから隠れながらな。走って、走って…おれはある建物を見つけたんだ」
ソノマはぐっと目を閉じる。
「さっき話した学舎くらいの大きさの建物が六、七棟並んで建っていた。暗闇の中でもそれがわかったのは、おれの目が闇に慣れてきたのと…その建物から灯りが漏れていたからだ。おれはグランゼの痛々しい姿を思い出した。彼は何を見たのか。…気づいたらおれは、小さな窓のそばによって中をのぞいていた。…そしたら…」
ソノマは目を開け、ルシカを見つめた。
「そこには大勢のシンシア人がいた。何もないだだっ広い空間に何百人も。遠目から見てもわかるほど、皆痩せこけていた。ふらふらと歩いている人もいれば、しゃがみこんでいる人もいた。その異様な光景を見ていると、扉が開き、兵が三人と、白衣を着た男が入ってきたんだ。奴らは何かを打ち合わせると、三人の兵は剣を抜き、手当たり次第にシンシア人達に切りかかった。血しぶきがとんだ。人々の悲鳴が窓越しにも聞こえてきた。人々は逃げまどったが、何の意味もない。三人の兵にずたずたに切り裂かれていった。…その様子を、白衣の男が涼しい顔で眺めていた。本当に、異様な光景だった」
ソノマは口元を歪めた。狂気的な笑みだった。
「身体が動かず、目をそらすこともできなかった。…そしておれは気づいたんだ。兵たちはやみくもに人々を切りつけているのではなく、首筋だけを狙っていることに。――その時、おれの頭の中に、いつかのグランゼの言葉が浮かんできた」
――首筋は人の血が多く流れている部分だ。そこを切れば失血で即、死亡する。…まあ、実際に実験できるわけじゃないから断定はできないがな。人の命をつかって実験なんて、できないだろ…
「ぞっとした。そんなことあるはずがない。おれはその場を離れて、隣の建物に向かい、窓から中をうかがった。何百人ものシンシア人がつめこまれ、兵と白衣の男がいる…全く同じ光景だった。違ったのは、兵が籠いっぱいに葉をつめこみ、痩せさらばえた人々に無理矢理食わせているところだった。葉を食べた人々は目を見開き、のたうちまわり苦しんでいた。そして、糸が切れたように死んでいった。間違いなかった。おれの研究した“人が簡単に苦しんで死ぬ方法”だった。ヨモザの葉をじかで食えば、呼吸ができなくなり、死に至る…おれの立てた仮説が、目の前で証明されていた。何百人という人の命とひきかえにな」
僕の研究は正しかった。
「あの時のグランゼの言葉の意味がわかったよ。グランゼもおれと同じように見てしまったんだ。自分の研究成果が、多くの人々を犠牲にして確かめられているところを」
不気味な笑みはソノマの顔にはりついたままだった。ルシカは震えていた。建物に閉じ込められ、何もわからぬまま殺される人々の姿が嫌でもまぶたに浮かぶ。
「三か月間、命じられるままにたくさん研究した。少量でも飲めば死に至る薬、身体に触れれば、吸い込めば死ぬ薬…――想像もしていなかった。それらがすべて、生身の人間を使って確かめられていたなんて。…その時、おれの中の何かが弾けとんだ。クリナ、プロセ、今までおれが救ってきた人たち…そのすべてが砕け散った。窓越しに人々のうめき声が聞こえた。苦しみのあまり爪が割れるまで床をひっかく人の、恐怖にゆがんだ顔で這いずりまわっている人々の姿が目に焼き付いた。――あの人たちを殺したのは、おれなんだ」
ソノマの表情からはもう激情も悲しみもなく、ただ諦めたように笑っていた。
ルシカはソノマをゆれる瞳で見つめる。本当に絶望した人は、きっとこうなんだと思った。表面からでは見とることのできない、真っ暗な洞のようなもの闇をかかえているのだ。
「できることなら、狂乱して死んでしまいたかった。だけど、おれの頭は冴えわたっていた。身体だけが重かった。腹の中に重い鉛を埋め込まれたみたいだった。…一歩も動けず、どれくらいそうしていたか。突然、男の怒声が響きわたった。おれはのろのろと顔をあげ、息をのんだ。まるで骨と皮だけしかないような痩せこけた人々が、五、六十人、すごい形相で走っていた。男も女も、老人も子どももいた。すぐに剣と灯りを持った兵が二、三人怒鳴り散らしながら追いかけていった。…逃げようとしているんだ、と直感した。あんな無残に殺される前に逃げようとしているのだと。おれの心の中には“助けなくては”という思いが浮かんだ。身勝手な良心か、罪滅ぼしか…とにかくおれは立ち上がり、あとを追った。だが、遅かったんだ。もうほとんど走る力も残っていない人々は、すぐに追いつかれ兵に襲われた。…今度は窓越しじゃない。怒声、肉を切る音、悲鳴、絶叫、血の臭い…全部しっかり届いた。おれは医術師だ。血なんて見慣れているはずなのに、震えたよ。――立ちすくんでいたおれの耳に、女の声が聞こえた。かん高い必死の叫びだった。“子どもだけは助けて”…その言葉にはじかれるように、おれは近くの薪の山から木の棒を一本とって、兵たちに襲いかかった。相手は三人…剣術には自信があった。おれは男たちを気絶させ、人々を促し、自分も逃げた。きっと周到に計画を立てていたんだろうな。人々は迷うことなく走っていた。施設一帯、頑丈な木の柵で囲われていたが彼らはあらかじめ見つけていたのだろう抜け道を目指していた。…だが、また兵に見つかったんだ。――あとはもう必死に走った。逃げて逃げて・・・気がついたときには,残っていたのはシンシア人二人とおれとラニの四人だけだった」
ルシカは口元を手で覆った。六十人近くで逃げ,生き残ったのはたったの四人。
「逃げ出したはいいが,皆ぼろぼろだった。特にシンシア人のコルトと少年は,弱りきっていた。これからどうするか・・・。見知らぬ森をさまよい歩いているうちに,あの大木を見つけたんだ。おれたちは身体をひきずりながら迷わずそこに入り,ぎゅうぎゅうになりながらも,冷たい土に横たわって眠った。・・・そして,目を覚ましたとき,そこにはアルネがいた」
「えっ・・・」
ルシカは目を瞬かせる。
「アルネはシンシアを旅している最中,偶然おれたちを見つけたと言って,一晩看病してくれていたらしい。少年は熱を出していたしな」
ルシカは驚きながらも納得する。言われてみれば,アルネと他の男達とでは何か身にまとっている雰囲気が違っていた。
ソノマは息をついた。そして,疲れたように目を閉じる。気がつけば,あたりはもう真っ暗だった。夕食も食べていないし,水浴びもいていない。
だが,動く気にはなれなかった。
ソノマの話が,重い鎖のようにルシカを縛りつけていた。
「・・・おれたちがここに辿り着いたのはそういうわけさ。ここで暮らしはじめて一週間くらいかな・・・。もう日の感覚なんてあてにならんがな」
ソノマはそう言ってルシカの方を見る。ルシカは視線を感じながらも,ソノマを見ることができなかった。
痩せこけたシンシア人のコルトと少年。暗い目をしているラージニア人のラニとソノマ。
皆,抜け殻のようでただ生きているだけのように見えた。
( “死ぬ”って・・・)
母の姿が,ライラの笑顔が浮かび,それを塗りつぶすように,部屋に閉じ込められ殺された何百人という人々の姿がよぎる。
(死ぬって,なんだ・・・?)
「ルシカ」
ソノマに呼ばれ,ルシカは思わず顔をあげた。
「ルシカ,おれたちはそうやって逃げてきたんだ。――あの施設はな,規模からして,王族が絡んでいるとしか思えない。あんな殺戮を王族が行っているということは絶対に隠し通さなくてはならないことだ。・・・そうだろう?」
ルシカは戸惑いながらもうなずいた。
「つまりおれたちは,このシンシア王国の知ってはいけないことを知ってしまったんだ。最悪の場合,あの施設の奴等は,おれたちを捜して殺しにくる可能性があるんだ」
ソノマの言葉に,ルシカはぞわっと身の毛がよだつのを感じる。それが正しいことだというように,ソノマはうなずいた。
「ここにいるのは危険なことなんだよ。・・・それにな,・・・それに,さっきも言ったが,ここでいつまで暮らしていけると思う?冬が来れば,植物は枯れ,食い物はなくなる。こんな環境で寒さをしのぐことなんてできない」
たたみかけるような言葉に,ルシカは何も言えない。
「金がないから,街へ行くこともできない。今の状態で険しい山をこえてラージニアへ行くこともできない。――おれたちはな」
ソノマの顔が一瞬,激情で歪むのをルシカは見た。
「おれたちはもう,死ぬしかないんだよ」
幸せだと,笑ったライラの顔が浮かんだ。
死ぬとわかっていても,幸せだと笑っていた。
(違う・・・。――これは,違う)
四人の男たち。彼らはもう,あきらめていたのだ。
誰の目にも希望はない。
「でも,お前はそうじゃないだろ。父さんを捜しているって言ったけど,ちゃんと帰る家があるだろ?あの背嚢の中には金も入ってるんだろ?――だったら,はやくここを離れて,街に戻るんだ」
ソノマの目にも,最初から希望なんてなかった。
「アルネも連れて行ってやってくれ。あの子も,ここを離れないってきかないから・・・」
ソノマのその言葉は,もうルシカの耳には届いていなかった。
こんなのは,違う。ルシカの頭の中には,その言葉がくり返しくり返し流れていた。
あの人達とここにいれば,わかると思っていた。
アルネは立ち上がる。一瞬まぶたの裏が熱くなったが,泣いてはいけないと思った。
(やっとわかった)
想像もしていなかった現実に胸がえぐられるような思いがしたが,それでも知ることができてよかった。
あとは考え,行動するだけだ。
もうあたりは真っ暗だった。・・・それでも,歩いていかなくてはならなかった。
母の部屋にある本棚の一番上に,そのぶ厚い本は置かれていた。ひっそりと,だがとても大切そうに。
――お母さん,あれは何?
少年がそう尋ねると,母は優しく微笑んだ。
――あれはおまえにはまだ早いね。・・・あの本には,百年以上前におきた“戦争”のことが書かれているのよ。
――せんそう?それなら僕,知ってるよ。隣の国と戦ったんでしょ?たくさんの兵隊さんが。もう百年も昔のことだからって先生全然教えてくれなかったけど。
そう言うと,母はとても悲しそうな目をした。
――そう・・・。学舎ではもうそれくらいしか教えてくれないのね。
そして,膝をついて,少年と同じ目線になるようにしゃがんだ。
――ホルソム,私たちの村はね,その百年前の戦争での激戦区だったの。激戦区って言ってわかるかしら・・・。シンシア兵と隣の国の兵が・・・何百,何千という人々が戦い,死んでいった場所なのよ。
――お母さん,どうしてそんなに悲しそうなの?せんそうだから,たくさん人が死ぬのは当たり前じゃないの?
母は首をふった。
――違うのよ,ホルソム。・・・この村にはね,何年,何百年たっても,あの戦争のことを忘れないようにするために,戦争に関するたくさんの本や資料があるの。それを見れば,そんなことは言えなくなるわ。
母はそう言って頭を撫でてくれた。ちょっと恥ずかしいけれど,少年はそれが好きだった。
――じゃあ,いつかあの本を読ませてね。お母さん。
――ええ,必ず。
だが,その日はおとずれなかった。
逃げて,ホルソム!
そこで少年は目を覚ました。
葉でつくられた固い寝床の感触を全身に感じる。夢の中の母のぬくもりが遠ざかっていく。
(あさ,かな・・・)
薄暗い森の中では,朝も夜もたいして変わらない。
(どうして,村で暮らしていた頃はちゃんと朝と夜があったんだろう・・・)
身体が重い。腹がへりすぎて力が入らない。
昨日の夜は夕食がなかった。あの女性が作り忘れたのか。薄いスープだけでも,少年にとっては貴重な食料だった。
(・・・ああ,そっか)
このピルトの森にある,小さな村で暮らしていた頃は,村のみんなが起きる時間が,朝だったのだ。お父さんが弓矢をかついで,猟師仲間と狩りに行き,お母さんが野菜畑に水をやる。早く起きなさいと布団をひっぺがしにくる・・・
そんな光景が“朝”だったのだ。
(じゃあ,もう朝なんて一生来ないだろうな)
お父さんもお母さんも友達も近所のおじさんも,誰もいない。
(僕も,死ぬのかな)
どうして,自分だけ助かったのだろう。
どうして――
「おはよう!」
頭の上から声がし目をやると,確かアルネといった女性がいた。
「昨日は用意できなくてごめんね。朝食はちゃんと準備したのよ。さ,食べにいきましょう」
少年は何も応えず,ただじっと明るく微笑む彼女を見つめる。
何日前だろう・・・はじめて会った時からずいぶん痩せてしまった気がする。綺麗だった薄茶の髪もぼさぼさだ。
(どうしてこの人は,ここにいるんだろう・・・)
「早く来て。見せたいものがあるの」
半ばアルネにひっぱられるようにして,少年はいつもの食事をするところに行った。もう全員揃っている。あのルシカとかいう奴もまだいた。
ふらつく足で歩き,いつものはじっこに座る。
誰ともしゃべりたくなくて,ただ黙ってアルネから粗末なスープを渡されるのを待っていた。
――お母さん,朝ご飯はまだ?
――はいはい,ちょっと待ってね
この食事が出されるのを待っている間だけ,遠い幸せだった日々を思い出させてくれるのだ。だから,誰とも話さず,ただそっと目を閉じようとする。
その時だった。少年は足元に,紙切れが落ちているのに気がついた。
(・・・?)
紙にさわるなんていつぶりだろう。少年はそっと紙を手に取った。
そこには,一輪の花が描かれていた。
すっと,少年の心に母の笑顔が浮かんだ。
――これは何の花?
――それはね,ホルソムっていう花よ
――えっ,僕と同じだ・・・
――そう。おまえの名前はこの花からもらったの。花の名前を男の子につけるなんてって周りからは言われたけれど,お母さんとお父さんは絶対この名前にしようって決めてたのよ。
「ああ・・・」
少年の口から自然に声が漏れる。無意識のうちに紙を掴む手に力がこもった。
――ホルソムは,冬に咲く花なの。寒さに負けず,まわりの花が枯れても,たった一輪,真っ赤な花を咲かせる・・・おまえにもそんな子になってほしくて
「うまいだろう?その絵はルシカが描いたんだ」
ソノマの言葉に驚いて顔をあげると,ルシカと目が合う。彼ははにかんだ。
「もう少しで,この花が咲く時期だから」
ルシカの小さな言葉を,少年は呆然と聞いていた。母も,この時期になると言っていた。そろそろ花が咲き始める,と。
「・・・ぼくの」
涙が頬を伝った。最期の母の言葉が耳に響いた。
――逃げて,ホルソム!
「僕の名前もホルソムっていうんだ」
――あなただけでも,生きて
少年の言葉に,ルシカは少し目を細めて微笑んだ。
「ホルソム」
「・・・うん」
名前を呼ばれたのはいつぶりだろう。最後に,母に名を呼ばれてから・・・
そう思ったとたん,胸にどうしようもない激情がこみあげてきた。
ホルソムは胸に絵をかき抱く。
「・・・ふつうに」
ある日突然壊れた日のことを思った。
「ふつうに暮らしてただけなのにっ・・・」
ある日突然,数十人もの兵が村を襲った。抵抗するものは容赦なく殺され,三日以上歩かされて辿り着いたのがあの施設だった。
小さな部屋に,何十人もの人々がぎゅうぎゅうに押し込まれ,寝ころがるとはおろか,座るのさえ困難だった。食事もろくに与えられず用足しにもいけず,耐え難い飢えと悪臭に頭がおかしくなりそうだった。
大丈夫,大丈夫と母が壊れたように何度もホルソムにそう言った。
一日に十数人の人々が部屋から引っ張り出された。連れて行かれた人は二度と戻って来なかった。
そしてある時,ついに父が連れて行かれた。どんなに叫んでも,どうにもならなかった。
悪臭の漂う狭い部屋で,引っ張り出されるのが早いか,飢え死ぬのが早いか・・・。
時折酔った兵がやってきて,手当たり次第に人を蹴ったり殴ったりした。弱っている人はそれで死んだ。
時には,労働にかりだされた。
久しぶりに出た外で見たものは,死体の山だった。ホルソムの背より高く,人間の死体が積み上げられていた。仕事はその死体を焼き,土に埋めること。朦朧とする意識の中,朝から晩まで死体を焼いて,埋め続けた。この中に父さんがいるのかとぼんやり思った。
何百という死体を見ながら,いつかのお母さんとの会話を思い出していた。“せんそう”はこれに似ているのだろうか。
あばら骨が浮き出てきたころ,誰かが言った。逃げ道を見つけた,と。逃走計画に賛同する人もいれば賛成する人もいた。ホルソムと母は逃げる道を選んだ。
帰りたい,と思った。帰る場所はもうないなんて,考えなかった。
でもだめだった。
逃げている途中に兵に見つかり,みんな殺されていった。赤かった。あちこちで叫び声と肉を斬る音がした。
――おかあさん!
ホルソムは必死に母の手をとって逃げた。
だが次の瞬間,ふり返るとそこには自分が握っている母の手首しかなかった。母は腕をばっさりと切り落とされたのだ。
――おかあさんっ!
母は腕からどばどばと血を流し,真っ青になりながらも叫んだ。
――お願い,子どもだけは助けて!
兵は容赦なく,ホルソムの目の前で母の首をはねた。
――逃げて,ホルソム・・・あなただけでも,生きて
「っ・・・どうして・・・」
ホルソムの瞳から大粒の涙がこぼれる。
「なんでだよ・・・」
うずくまってむせび泣く少年を,皆ただ見つめることしかできなかった。
「・・・絵なんて,久しぶりに見た」
そうつぶやいたのはコルトだった。遠くを見つめるまなざしだった。
彼のそばにも,紙綴り(クロッサ)を破ってルシカの描いた絵が置かれている。色はついていなくても青空だとわかる絵だった。
「空なんて,いつから見ていないんだろうな・・・」
ラニのそばには,森の絵が置いてあった。彼はそれを食い入るように見つめている。
「オレの家の近くにも,そういやこんな森があった。ラージニアではめずらしい,立派な森だった・・・」
皆,今までにない和んだ瞳で絵を見ている。ずっと遠くの幸せを見るようなまなざしで。
「腹がふくれるわけじゃないのに,なんでこんな気持ちになるんだろうな・・・」
コルトがつぶやく。
その光景をルシカは少し安堵した面持ちで見つめていた。
昨日の晩,ソノマの話を聞き終わった後,ただ絵を描きたくなった。この場所で火をおこして,一晩中絵を描いていた。
花,森,空・・・ただ馴染んだささやかな風景を描きたかった。そして次第に,その絵をあの人達に見せたいと思ったのだ。
自分の絵ごときが人の心に癒しをもたらせるはずがない。それでも,今までルシカの絵を見て笑ってくれた人々のことを思い出して,ルシカは手を動かした。
父さんの物語がなくても,自分の絵が少しでも人の役にたてたなら――
「・・・もっと絵を,見せて」
そう言ったのはホルソムだった。ルシカが顔をあげると彼は濡れた瞳をまっすぐにルシカに向けている。
「花でも人でも,なんでもいいからもっと描いて,ルシカ」
ルシカはうなずいた。なぜだがわからないけど泣きたくなった。自分では想像しきれないほどの過酷な日々を送り,心に傷を負った人々が,自分の絵を求めてくれている。
ルシカは一晩手にしていた紙綴り(クロッサ)を再び持ち,絵を描きはじめた。
ただ食べ,息をして生きていただけの人たちが,こうして何かを求めている・・・。
その様子を,アルネは優しく見守っていた。
――私も動き出さなくては。
一人の絵描きの少年を見つめながら,アルネはそっと決意をかためた。
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