第15話 見知らぬ森の中で

 ニーナ・レセムはその日の夕時,クリスタイン家を訪れた。夕刻の鐘が鳴り響き,あたりは橙色に染まっている。

 美しい庭園を歩きながら,ニーナはハミルのことを思った。レセム家の屋敷とクリスタイン城は近い。この二つの家は代々交流が深いが,婚姻の話が出たのはこれが初めてであった。御三家であるクリスタイン家の子息との結婚はレセム家にとっても大変喜ばしいことであり,来月にでも正式な婚礼を行おうという話になっていた。

(でも,最近のハミルはどこか元気がないわ)

 幼い頃からお互いの悩みは隠さず打ち明けてきた。よくニーナは屋敷を抜け出して,ハミルのもとへ行ったものだ。そのたびにハミルは,ニーナの話を聞き,またハミル自身の話も聞かせてくれた。

 物心ついた頃から,ずっと一緒にいる気がする。

 そんな彼が,自分にも話せぬほどの何かを抱えているのだろうか。

「ニーナ様」

 門兵に許可をもらい城に入ると,ニックが迎えてくれた。

「ニックさん,ハミル様は今どちらに?」

 微笑みながら尋ねると,ニックの表情がかげる。

「それが・・・お部屋から出ていらっしゃらないのです。昨日からずっと・・・食事もとらずに」

 ニックは形のよい眉を寄せた。

「誰とも会いたくない,と。具合が悪いとおっしゃっていましたが,どうもそれだけではないようで・・・。――こんなことは初めてです」

 ニーナは驚き,目を見はる。ハミルはいつも周りを気にしていて,絶対に周囲の人々に迷惑をかけないよう立ち回る人だ。それゆえ,今までたくさんの悩みを抱えてきたのをニーナは知っている。その彼が周りに何も告げず,部屋に閉じこもるなど考えられないことだった。

「ですから,申し訳ないのですが,本日はお引き取りいただいてもよろしいでしょうか」

 ニーナは迷ったが,うなずく。今は無理に声をかけるべきではない気がした。

「ハミル様に,どうかお大事にとお伝え下さい」

「かしこまりました」

 やるせない思いを抱えたまま,ニーナはクリスタイン家をあとにした。

(ハミル・・・)

 一体彼に何があったのだろう。

 彼の優しい笑顔と温かいぬくもりを思い出して,ニーナはそっと目を閉じた。




 ふっと目を覚ますと,辺りはオレンジに染まっていた。

ルシカはゆっくりと身を起こす。ぽっかり開いた入り口から,夕陽がさしこんでいた。

「起きたか」

その光を遮りながら,ソノマが入ってくる。

「夕食の用意ができたから,呼びに来たんだ」

「あ,ありがとうございます」

 ルシカはソノマに助けてもらいながら立ち上がった。まだ少しふらつくし,身体もところどころ痛いが,もう十分歩ける。

「あの,リャオは・・・?」

「アルネが捜してくれたが,どこにもいなかったようだ」

 うなずきながら,ルシカは唇をかみしめた。そんなルシカの方をソノマが優しくたたく。

「そんな顔するな。・・・外に出たらびっくりするぞ」

「え?」

 かがまなくては通れないほど小さな入り口を出,ふり返ったルシカは息をのんだ。

 そこには大木があった。こんな巨大な木は見たことがない。

 壁かと思うほど太い幹に,ぽかりと穴が空いている。それが今通ってきた入り口だった。

 自分が今いた簡素な部屋は木の中にあったのだ。

「信じられない・・・」

 思わずつぶやくと,ソノマは微笑する。

「そうだろ。本物の自然の家だ」

 周りを見渡すと,同じような木が何本もあった。目を疑う光景だった。

「さ,こっちだ」

 ソノマが先立って近くの大木の中へ入っていく。ルシカは慌ててあとを追った。身をかがめて入り口をくぐり,ルシカははっとする。

 木の中とは思えないほど広い空間には真ん中に小さな薪があり,ちらちらと火が燃えている。その薪を四人の人間が囲んでいた。そのうちの一人はアルネで,あとは男だ。一人は十歳前後の少年,残り二人は中年だった。

「その子がさっき話していた子か」

 男のうちの一人が言う。アルネやソノマと同じ紫の瞳に褐色の髪だった。

 ルシカはかたまっていた。生来の人見知りのせいではない。この場をとりまく雰囲気が,あまりにも異常だったのだ。男たちの目には全く生気がなかった。特に,少年と黒髪の男は顔色が悪く,衣服もぼろぼろだった。皆,暗闇の底から這い上がってきたかのようなどす黒い執念のようなものを身に纏っていた。ルシカはなんとか頭を下げる。

「食べましょう。座って」

 アルネに促され,ルシカは地べたに直接座った。彼女はかたわらに置いてあった使い古された鍋を薪の上に置く。鍋の中には水と黄や緑の葉が入っている。ルシカはそれを見て目を見はった。隣でソノマが苦笑する。

「水に葉を入れて火にかけるだけの簡単なスープだ。だが,ちゃんと味が出るし栄養もある。これしかないんだが,我慢してくれ」

 ルシカは戸惑いながらもうなずく。食事に不満があるわけではない。

(この人達は,いつもこれだけのものしか食べてないのか・・・?)

 男達はもちろん,少年やアルネだって足りないだろう。

「そんな変な目で見るなら食うなよ」

 黒髪の男が低い声でつぶやいた。ルシカがびっくりしてそちらを見ると,彼はそっぽを向いてしまう。褐色髪の男も少年も,ソノマも誰も何も言わない。アルネだけが「そろそろいいかしら」と薄汚れた椀にスープを取り分けている。

 アルネから受け取ったスープは温かくて味が濃く,美味しかった。思わず「美味しい」とつぶやくと、男たちは不思議そうな顔をした。スープを飲んでいる間、誰一人としてしゃべらなかった。皆勢いよくスープを口に流しこみ、すぐ椀をアルネに渡す。ルシカが一杯飲み終える間に、少年など五杯以上おかわりしていた。一瞬で鍋は空になった。食べ終わると、皆次々に部屋を出ていく。最後に残ったのはルシカとソノマ、アルネだけだった。ルシカは呆然とその様子を見ていた。


「日が暮れないうちに水浴びに行こう」

 ソノマに誘われ、ルシカは彼とともに小川まで来た。水は澄みわたっていて浅く、夕日をうけてきらきらと輝いている。

「きれいだ」

 ルシカがつぶやくと、ソノマもうなずいた。彼はあたりをみまわすと、近くの木の葉をむしった。柔葉(トノ)だった。

「こいつは万能だ。床に敷けば寝床になるし、身体を洗う布としてだって使える。――ほらよ」

 ソノマに渡された柔らかい葉をルシカはそっと撫でる。

「本物を見たのって初めでです」

 すると、ソノマがふきだした。

「ははっ!シンシア人よりも、おれの方が詳しいとわな」

 ルシカは顔をあげる。

「やっぱり、ソノマさんはシンシアの人じゃないんですか?」

 ソノマは屈託なくうなずいた。

「ああ。この髪と目でわかっちまうだろ。おれとアルネ、そしてもう一人いた茶髪の男――ラニっていうんだが、みんなラージニア人さ」

 ソノマが衣服を脱ぎはじめたので、慌ててルシカもそれにならった。もう夏の終わりであり、川の水はひやりとするほど冷たかった。

「しみるだろうが、なるべく清潔にしてた方がいい。しっかり洗っとけ」

 ルシカはうなずいて、身体にまかれている包帯をはずしていく。傷跡は生々しく残っているが、ちゃんとふさがっていた。

「あんたの連れの処置がよかったんだろうな」

 ソノマが何気ない言葉を聞き、ルシカは胸がしめつけられるような思いがした。リャオは無事だろうか。


 最初は裸でいることに抵抗があったが、少しずつ慣れてきた。柔葉で身体をふきながら、ルシカはふっとあたりをみまわす。そびえたつ木々。流れる川。ここには人工的なものは何一つない。自分たち人間が異質なものに思えてくる。ルシカも森で暮らし、自然に囲まれて生きてきたが、それとはわけが違った。

「…どうして、ソノマさんたちはこういう暮らしをしているんですか?」

 ふとそんなことを思い、ルシカは尋ねた。その瞬間、ソノマが弾かれてようにこちらを見た。彼の温和な空気がぴしりとこわばり、ルシカも思わずかたまってしまう。彼はしばらくルシカを見つめたあと、ふっと目元をゆるめた。

「今は答えたくないな」

 そして困ったように眉を下げて笑った。

「その質問は、ほかの人にはしないでくれ」

 それだけ言うと、ソノマは服を着終え、ルシカも慌てて上着をはおった。

 もう日は沈みかけ、ただでさえ薄暗い森は闇に飲まれはじめている。どこかから聞こえる虫のなき声と、二人が草を踏みしめる音しかしなかった。

「…ルシカはいつまでここにいるつもりだい?」

 ソノマに尋ねられ、ルシカは顔をあげる。ソノマは慌てて首をふった。

「もちろん、さっさと出て行けって言ってるんじゃないぞ。むしろ、傷が完治するまでは安静にしているべきだ」

 ルシカは思考を巡らせる。この人たちに迷惑をかけたくなかったが、リャオが見つかるまではここを離れたくなかった。

「…リャオが見つかるまでは、もうしばらくだけここに置いてほしいです」

 ルシカが小さい声で言うと、ソノマは笑ってうなずいてくれた。

「もちろんだ」

 屈託のない返事に、ルシカは温かい気持ちになり頭を下げる。

「ありがとうございます。…なんでも手伝います」

「お、そりゃありがたい」

 そう言ってソノマが笑った時だった。


「わああっ!」


 耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。まだ幼い声だった。ルシカとソノマははっと身体をこわばらせる。

「この声っ…」

 ソノマが声のした方に駆け出し、ルシカも彼について走った。大木の陰に、先の少年がうずくまっている。駆け寄ろうとして二人は足をとめた。少年の身体に蜘蛛が四、五匹へばりついている。ルシカの手のひらより大きい、巨大な蜘蛛だった。真っ黒な肢体をがさがさ動かしている。

「う…」

 ローニャの森でもこんな大きな蜘蛛は見たことがない。少年はおびえ、震えている。

「ドニヤだ…。野生の毒蜘蛛だ」

 ソノマが震える声でつぶやく。毒蜘蛛――それを聞いたとたん身体がこわばり、次の瞬間ルシカは駆け出していた。

「ルシカっ!」

 ルシカは落ちていた木の棒を拾い、少年の身体にへばりついている蜘蛛を払い落とした。すると、最後の一匹が思いもよらぬ俊敏な動きでルシカの腹によじのぼってくる。

「ひっ…」

 黒いそれはもぞもぞとルシカのむき出しの腕に這い上がる。気持ちの悪い感触に鳥肌がたち、動けない。

(まずい、噛まれたら――)

 その時、どんっと腕に衝撃があり、気が付くと蜘蛛は地べたにひっくりかえっていた。

「大丈夫か」

 ソノマだった。手に木の枝を持っている。

「さあ、早くここから離れよう」

 ソノマに押され、少年とルシカは震える身体をなんとか動かし、その場を離れた。




 ラウガは一人,自室で夜のとばりがおりたシンシアの風景を眺めていた。

 先程,シャンズルから計画は順調だという報告を受けた。

(あと本当に,少しだ)

 ルトを言いなりにすることができた。あとは念のためその息子を捕らえればいい。それがすめばザハラが死に,自分が王となって全てが動き出す。

 そう思ったとき,一瞬胸のあたりが重くなった。

(リャオ)

 冷静に考えれば,わざわざダルタンに捜しにいかせる必要はないのだ。戻って来ない奴は放っておけばいい。代わりをたてればすむ話だった。――だが,どうしてもそうする気になれなかった。

 この,腹の底からにじみ出すような落ち着かない気持ちは何なのか。

 わけのわからない苛立ちに舌打ちしたとき,扉がノックされた。返事をすると,扉の向こうからためらうようなか細い声がした。

「リャオです。ただいま戻りました」

 澄んだ声音に,ラウガは弾かれたように振り向いた。 

 ラウガの前で扉がゆっくりと開く。現れたのはまぎれもない,十年近く自分に仕える少年だった。

「リャオ・・・」

 名を呼ぶのがやっとだった。かたまっているラウガの前で,リャオは膝をつき最敬礼する。

「このような汚らしい格好で申し訳ありません。早くお目通りをした方がよいと思いまして・・・」

 言い終わる前に,ラウガは彼の肩を強くつかんでいた。それは怒りではなく,彼が本当にここにいるのか確かめるためのものだった。だが,リャオはびくっと身をすくませる。

「一ヶ月間,どこで何をしていたのだ」

 低い声で尋ねると,リャオが彼らしくもなくうつむきながら口を開いた。

「…覚えて、いないのです。一ヶ月前・・・ここを旅立ってから数日後、チャレ道で人売りに襲われているトレラを見つけました。彼を捕えるため人売りと闘ったことまでは覚えているのですが、そこから先は全く覚えておりません。気が付くとピルトの森にいて、そこでダルタンに発見されました」

 リャオの声が徐々に震え、彼はその場にひれ伏した。

「申し訳ありません…ラウガ様」

 リャオは言い訳ひとつせず、頭を下げ続ける。それがあまりにも哀れに見え、ラウガは無意識のうちに目をそらした。

「顔をあげろ、リャオ」

 二、三度そう言って彼はようやく顔を上げる。ラウガは少年の方を見ずに、早口で告げる。

「お前は少し休め。事はすべて順調に進んでいる。ルトは言いなりにできたし、シャンズルに任せていたものも順調だ。あとは王が死に、私があとを継ぐだけだ。そうすれば戦を始められる。あと少しなのだ」

 それを聞き、悲愴にかげっていたリャオの表情にかすかに喜びの色がうかんだ。

「ついに、ラウガ様の望みが叶うのですね」

 ラウガはうなずく。

「今後もお前には色々と手伝ってもらわなくてはならない。そのためにも今は休め」

 そう言うと、ほころんでいたリャオの表情がすっとひきしまった。彼はかたい声で言う。

「いいえ、ラウガ様。私はトレラを捜しにいきます」

 ラウガは眉をひそめる。リャオはまっすぐな瞳で主君を見つめた。

「一週間ください。トレラを連れてまいります。たとえ見つからなかったとしても、必ず戻ってきます」

 ラウガは険しい表情をしたままだったが、リャオはゆずるつもりはなかった。

 ラウガ王子に仕えて十年近く、リャオは彼に命じられた任務は全て遂行してきた。失敗したことなど一度もない。それはリャオにとって大きな誇りだった。それをこんなところで汚したくない。

 リャオの思いをくみ取ってくれたのか、ラウガは諦めたようにうなずく。

「必ず、一週間で帰ってこい」

 リャオはぱっと微笑んで、頭を下げた。

「ありがとうございます」

 ようやく立ち上がるリャオを見つめながらラウガはつぶやいた。

「ルトの息子…もう一人のトレラは“ルシカ”というらしい」

「…“ルシカ”」

 リャオはその名を繰り返した。すうっと心が冴えていく。脳裏に男たちに襲われていた弱々しい少年の姿がよみがえる。

(あいつが“ルシカ”)

 リャオはぐっとこぶしをにぎりしめた。

 ルシカ。ルシカ・アーレベルク。お前は必ず俺が捕まえる。




 ルシカは葉の寝台に横たわりながら、暗闇をじっと見つめていた。

 先ほど蜘蛛を払うときに右腕を無理に動かしたせいか、少し痛みを感じる。恐いが、隣でぐっすりと眠っているソノマを起こすのは忍びなかった。その隣ではアルネも眠っていた。

(多分、大丈夫だ)

 そう言い聞かせ、目を閉じる。

 あの後、毒蜘蛛に刺されていないかソノマに診てもらったが、幸いルシカも少年も刺されたあとはなかった。少年はずっと黙ったままで、さっさと自分の寝床に戻ってしまった。

(あんな恐ろしい蜘蛛は初めて見た)

 ローニャの森にはあんな生物はいない。この人たちはあのような危険なものに囲まれながら、自然の家で自然のもので生活している。

 これからどのように過ごすのだろう。今はまだ涼しいくらいですむが、これから冬がくる。雪が降らないとはいえ、植物は枯れるし寒くて水浴びだってできない。そうつきつめて考えていくと、こうして自然の中で生活しているこの人たちが幻のように思えてくる。

(いったい、何者なんだろう)

 やせさらばえ、疲れ切った人たち。黙ったままの少年。異国の人々。なぜここでこんな暮らしをしているのか。

 そんなことを考えていると、眠気がしっとりと身体にしみこんできた。

(…父さん。リャオ)

 そういえば、夕刻の鐘の音を聞いていない。ここは鐘の音が届かぬほど深い森の中なのだ。空を確認することはできなかったが、煙は上がっていないだろうとルシカは思った。父は帰っていないという確信があった。それは幾度も空を見上げては期待を裏切られ、希望がすりへってしまったからかもしれない。

――君は絶対に、お父さんを見つけ出すんだ

 リャオの声が心に響く。茜色の空の下、ルシカを励ましてくれた声が。

(絶対、諦めない)

 父さんとリャオを、必ず見つけ出す。




 まだ陽が登らぬ薄暗いうちに、アルネは目を覚ました。隣を見ると、ソノマとルシカはまだ眠っている。薄暗闇の中で、アルネは慎重に身をおこした。ここに灯りはない。たいしてとどきもしない陽の光だけが頼りだ。

(こんな暮らしは初めてだわ)

 木の中に暮らし、粗末なスープを飲み、小川で身体を洗い、葉の寝床で眠る――最初のうちは今までの生活との違いに戸惑った。ソノマに何度も「自分の暮らしに戻れ」と言われた。それでもここに残っているのは、ここにはアルネの望むものがあると確信しているからだ。

 疲れ切り、暗い瞳をし、亡霊のように生きる人々。シンシア人のコルトも少年も、ラージニア人のラニもソノマも、国も年齢も違う他人同士なのに、なぜともに暮らしているのか。

 きっとここに自分の探しているものがある。

 アルネはそっと自然の家を抜け出し、朝餉のための葉を拾いにいった。




 朝目覚めると、腕の痛みがひいていた。ルシカはほっとして身体をおこす。隣でソノマもごそごそと身を動かした。

「おはよう」

「おはようございます」

「腕の調子はどうだい?」

 ルシカは昨日の夜に少し痛みがあったことを話した。ソノマは身をおこしてルシカの腕を診る。

「…特に異常はなさそうだ。昨日急に強く力を入れたからだろうな。右腕はもちろん全身がまだ万全の状態じゃないからな。無理しないようにしないと」

「はい」

 ルシカがうなずくと、ソノマもうなずき、それからうーん、とのびをした。

「しっかし、昨日のお前さんはすごかったなあ。毒蜘蛛と聞いたとたん、ばっと駆け出すもんだから。普通は尻込みすんのに」

 突然褒められてルシカはぶんぶん首をふり、うつむいた。

「あの子は、なんていう名前なんですか?」

 ルシカが尋ねると、今度はソノマが困ったように首をふる。

「おれも知らないんだ。あの子は全然しゃべらないからな」

 ソノマが苦笑した時、ちょうどアルネが朝食ができたと呼びにきた。

 



 渡された木筆(ロッタ)は今まで見たこともないような高級な品だった。

 だが、ルトはそれを握る気にもなれずぼんやりと窓の外を見ていた。凝った作りの机の上には白紙の高級紙(コラット)とびっしりと文字が書かれた紙の束が置かれている。

(『シンシア・ラージニア戦争の真実』か…)

 紙に書かれているのは、ラウガから書けと命じられた筋書きだった。


 百年前におきた両国が壊滅するほどの大戦。その原因は全てラージニアにある。

 当時のラージニア国王セバはシンシアを手に入れるため、シンシアが毒入りの雑穀を輸出したのだとでっちあげた。そして潔白を主張するシンシアを無視し、無理やり開戦し攻め込んできた。

 無抵抗の一般市民も惨たらしく虐殺し、苦しみもだえる人々を嘲り笑ったラージニア兵。そこにはラージニアの人外非道な行為と,それに苦しめられたシンシアの構図がこんこんと並べられていた。

(こんなものを・・・)

 それを読んだとき,ルトは紙を破り捨てそうになるのを必死でこらえた。

 確かに,こんなものを読まされれば,人々はラージニアに対し激しい怒りと憎しみを抱くであろう。

 だが,ここにはラージニアの残虐行為しか記されていない。何年もかけてこの戦争について調べてきたルトにはこれが大きく脚色され,嘘までも織り交ぜられていることにすぐ気がついた。

 戦の勃発については,百年経った今,真相は定かではない。本当にシンシア側に非があったのかもしれないし,ラージニアがでっちあげたのかもしれない。そんな曖昧なものを「ラージニアが悪い」と一方的に決めつけるべきではない。それに,一般人の犠牲者はラージニアの方が多いだろう。終戦間際,一時的に優位にたったシンシア軍は,我先にと敵地へのり込み,兵だけではなく一般市民も容赦なく殺戮した。一方でシンシアは,国民を避難させる余裕があったため,一般市民の犠牲は最小限ですんだのだ。

(戦は,どちらが良い,悪いなどというものではないはずだ)

 ルトは頭を抱えた。人と人との無限の殺し合いに,正義も悪もあったものではない。ラウガは言った。「お前の望み通り,戦争の物語を書かせてやる」と。だが,こんなのは違う。

 自分はただ,あるがままの事実を伝えたかった。切られて死に,嬲られて死に,飢えて死に,焼けて死に,もだえ苦しみながら死ぬ・・・その事実を事実のままに伝えたかったのだ。

 こんな,過去の戦争を利用し,誤った歴史を伝え,人々の憎しみを煽り立てるなど・・・

(これでは,繰り返しだ)

 歴史を忘れれば,人はまたくり返す。

 脳裏に,兄やナリィ・・・ルシカの姿がよぎった。皆,ルトを見て微笑んでくれる。

(・・・だめだ)

 心の中で揺れ続けるふりこは,やがて小さく震えながら止まった。そこには,愛する者との間に生まれた,たった一人の子どもが立っていた。

(書かなくては)

 書かなくては,殺される。俺も,ルシカも。

(戦が起きても,ルシカや兄さんは守ってもらえる)

 愛する者との約束よりも,自分の信念よりも,大切な人達がこれからも生きていくことの方がルトの心を突き動かした。

 ルトは木筆を握りしめると,空っぽの頭を必死に動かして,文字を綴りはじめる。

 彼が苦しみながら手を動かす様子を,少し離れたところからサマンナがじっと見つめていた。




「この葉は,煮込むと甘くなるの。今日の昼餉にいいと思うわ」

 アルネが見せてくれた紅い小さな葉を,ルシカはまじまじと見つめる。

「ローニャの森では見たことない」

 そう言うと,アルネはふふっと笑った。

「同じ国でも,場所によって生えている植物が違うのね」

 その言葉にルシカははっと彼女を見る。茶髪に紫色の瞳。異国ラージニアの者だという証。――どうして彼女はここで暮らしているのだろう。訊いてみたかったが,なんとなく尋ねづらくて,ルシカはただうなずいた。

「これと同じ葉を探してみます」

「ありがとう,ルシカ」

 昼前,ルシカはアルネに誘われて,“昼飯探し”に出かけた。めずらしい植物や風景にルシカはことあるごとに魅せられた。ただ,特に不満でもなんでもなかったのだが,アルネと自分以外は皆外に出ようとしないことが不思議だった。あのソノマでさえ「頼んだ」と言って部屋を出ようとしなかった。食事や水浴び以外,極力外に出ないようにしている風に見える。

(どうしてなんだろう・・・)

 色々な疑問を浮かべながら葉を探していると,ふと見慣れたものが目についた。

「あっ・・・」

 草むらに投げ捨てられているのはルシカの背嚢だった。ルシカはそれを拾う。こんなところで見つかるなんて思いもしなかった。

(馬から落ちたのか)

――もしかしたら,この近くにリャオがいるかもしれない

 ルシカはばっと顔をあげる。

「リャオっ!」

 ルシカは叫び,あたりを見渡した。

「リャオ!いたら返事をしてくれ!」

 大声を出すのは得意ではないが,それでも必死に声をはる。

 しばらく叫びながら歩きまわったが,ついにリャオは見つからなかった。

(リャオ・・・)

 身体の力が抜け,ルシカはしゃがみこむ。抱きかかえていた背嚢をおろし,開いてみた。懐かしい匂いがした。中には紙綴り(クロッサ),絵本,獣よけの薬・・・全てそのままだった。

 紙綴りを取り出し開いてみると,懐かしさが胸にこみあげる。チャレ道,三の区,二の区・・・そこの風景,人々,ライラ,父さん,リャオの絵・・・全てが遠い日々に思われた。

 ずっと息をひそめていた衝動が,突然溢れ出しルシカを押し流す。


 絵を描きたい。


 ルシカは背嚢から木筆を取り出し,新しいページを開く。考えるよりも先に身体が動いた。今まで知らなかった森の新しい一面。自然に生み出された木の家,寝床,美しくせせらぐ小川・・・

(ちゃんと,手が動く)

 身体と心が震えた。絵が描ける。ちゃんと――



「ルシカ!」

 どれくらい絵を描き続けていたのか。ルシカはアルネに名を呼ばれ,はっと我に返った。

「アルネさん・・・」

 アルネは葉がいっぱいに入った籠を片手に歩み寄ってくる。

「もう,すごい遠くまで・・・。――何をしているの?」

「あっ・・・」

 ルシカがばっと紙綴りを閉じようとした時には,アルネはすでにしっかりとルシカの絵を目にとめていた。彼女は目を輝かせる。

「絵,うまいのね!」

 ルシカは真っ赤になってぶんぶん首を振った。アルネに何度もせがまれ,ルシカはしぶしぶ紙綴りを渡す。

「すごい・・・」

 アルネはぱらぱらとページをめくり感嘆した。ルシカは例によって恥ずかしそうにうつむく。

「これ,みんなにも見せましょう。きっと喜ぶわ」

「えっ!」

 仰天するルシカをよそにアルネは立ち上がり歩き出した。

「葉っぱを全然拾ってくれなかったんだもの。いいでしょう?」

 歌うようにそう言って,軽やかに前を歩いていく彼女はなんだか美しく,清らかに見える。まるでこの森にすむ妖精みたいだ,とルシカはしばし見とれてしまった。



 アルネが昼食の準備をし,皆集まったが,相変わらず誰もが無言だった。今回も葉を煮込んだスープだけ。アルネの言った通り甘く優しい味がしたが,さすがにこれだけでは腹が減る。皆が痩せているのも納得できた。ルシカがちびちびとスープを飲んでいると,隣に座っていたラージニア人の・・・確かラニという名の男が立ち上がった。

「あら,ラニさん,一杯でいいの?おかわりは?」

 アルネが尋ねると,ラニは鼻を鳴らす。

「そんなもん,いくら飲んだって同じさ。毎日毎日水っぽいスープ・・・。――最初に飢え死にすんのは誰だろうな」

「・・・まあ,あそこよりはずっとましだろう」

 シンシア人のコルトが言う。ラニは彼を憎々しげににらんだ。

「あんな所と比べた時点でおしまいだ」

 低い声で吐き捨て,ラニは出て行った。

 突然やってきたルシカですら,場の空気が昨日よりぴりぴりしているのがわかる。

(みんな,好きでこんな暮らしをしているわけじゃないんだ・・・)

 結局,この時皆の前で紙綴り(クロッサ)が開かれることはなかった。



「絵を描いているのか?」

 突然話しかけられ,ルシカはばっと顔をあげた。

 ソノマだった。木の幹によりかかり絵を描いていたルシカの隣に,ソノマはどかっと座る。昼食後,片付けを手伝ってからずっと絵を描いていたが,気づけばもう夕時だった。

 寝ていたのだろうか,ソノマはふわあ,と大きな欠伸をした。

「腕の調子は?」

「大丈夫です。・・・ありがとうございます」

 ソノマは良かったと笑って,ひょいっと紙綴りをのぞきこむ。

「この森の絵か?うまいな」

 首をふるルシカの手から,ソノマは紙綴りを奪った。あっと戸惑うルシカにかまわず,ソノマはページをめくる。

「うまい・・・なんてもんじゃないな。ルシカ,絵描きかなんかか?」

「絵描きっていうか,父さんと絵本を作ってます。父さんが物語を書いて,俺が絵を描くんです」

「へえ」

 ソノマはうなずいた。そして再び絵に目をおとす。

「あんたのその腕は,あんたのためだけのものじゃないんだな。・・・治ってよかった」

 屈託のないその言葉に,ルシカは素直に嬉しくなってうなずいた。

「ありがとうございます」

 ソノマはしばらく絵を眺め,顔をあげて真剣なまなざしをルシカに向ける。

「・・・ルシカ,やっぱりお前はここにいない方がいいかもしれない」

「え?」

「ここは安全じゃない。食うもんも全然ない。二日いれば十分わかっただろ。本来,人が暮らしていけるようなところじゃねえんだ」

 ソノマの言葉に,ルシカは息をのんだ。

「でも,あなた方は,ここで暮らしてるじゃないですか」

「だが,誰も幸せそうじゃないだろ?ラニも言ってた。いつ飢え死ぬかわからない。このまま冬になったら,どうなってしまうかわからない。おれたちは仕方なくここにいるんだ」

 ソノマの顔が歪み,語気が荒くなる。ルシカは思わず身をかたくした。

「だが,お前は違うだろ。連れを待ちたいと言っていたが,ここにいたって現れるもんじゃない。一度街に戻った方がいい」

 ソノマの瞳はあまりにも切実だった。ルシカを追い出そうとしているのではない。本気でルシカの身を案じてくれているのだ。

(だとしたら,なぜ・・・)

「どうして,あなたたちはここに住んでいるんですか?」

 ルシカの問いに,ソノマは息をのむ。

「そんな危険で粗末な場所に,どうして」

 それは以前にも問いかけ,かわされた質問だった。

 それでも知りたかった。

(不思議だな・・・,昔は,他人のことなんて全然気にならなかったのに)

 今は,この人達のことが知りたくて仕方がない。

 しばしはりつめた空気が二人の間に流れたが,やがてソノマが諦めたように眉を下げ,苦笑した。

「どうしてもか?」

「はい」

「聞いたら,ここを離れてくれるか?」

「・・・それは・・・」

 ルシカが口ごもりうつむくと,ソノマは小さく肩をすくめる。

「まあ,話を聞けば出ていきたくなるさ」

 そしてソノマはちょっと座り直して,話を始めた。

 さあ,と夏の終わりらしい肌寒い風が吹いた。

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