第14話 ピルトの森

 ずっと,国のことだけを考えてきた。

 自分が治める国の繁栄,そこで暮らす民の幸福だけを考え,力をつくした。

 シンシア王国現国王,ザハラ・ローバルトは虚ろな瞳で精巧な紋が彫られた高い天井を見つめていた。

 心臓の発作が起きる間隔が少しずつ短くなってきている。壊れかけた時計のように,身体のあちこちがいつ止まってもおかしくない状態まで来てしまっている。ここ数日,もう最期は近いのだという認識がじわりと胸に迫っていた。

 ザハラは瞳を閉じる。もう目を開けているのもつらかった。

(出来る限りのことをした)

 王家ローバルトの名に恥じることのない生涯だった。――そう思った瞬間,心の隅に押し込めてきた黒いものが溢れ出す。

(シンシアは,この先どうなっていくのだろう・・・)

 我が国の行く末。それだけが心配だった。ザハラの脳裏に,黒髪の男がよぎる。冷たく冴えた瞳が。

(いつから,あんな目をするようになったのか)

 昔は違った。澄んだ瞳で,真っ直ぐな声音で,あの子は平和と幸せを望んでいることを話してくれた。だから,信じたのだ。

 まさか,あれすらも演技だったのか?

 ザハラの胸に深い悔恨の波紋が広がっていく。

 たった一度の自分の過ちが,国を破滅の道へ誘ってしまうかもしれないのだ。

(このまま,死ぬわけにはいかぬ)

 ラウガは自分が死ぬのを今か今かと待っているだろう。自分が死ねば,ラウガがこの国の王となり,もう誰も彼を止めることはできない。自分が放ってしまった獣は,自分の手で檻に戻さねば。

 たとえ,代々受け継がれてきたローバルト王家を根絶やしにしてでも。

(・・・そんなものにこだわったから,こんなことになったのだ)

 そんなもの,とうに滅んでいたというのに。

 ザハラはうっすらと自嘲の笑みを浮かべ,そして,覚悟を決めた。傍らに控えている医術師に合図を送る。

「クロラン」

「はっ」

 長年自分を診てくれている王家専属である中年の医術師は,あらたまって最敬礼した。ザハラはかすれた声で言う。

「呼んできてほしい者がいる」

  この先の,シンシアの未来を託す者を。




 二の区を旅立ってもう一週間が過ぎた。

 グリムスに言われた通り、時折休息を入れながら、リャオはひたすらピルトの森を目指した。馬用の道は森と街の間にある。宿に行くにはいちいち街へ入らなくてはならなかったが、ルシカの傷にさわると思ったので、泊まるようにしていた。ルシカはほとんど目を覚まさなかった。時折苦しそうに呻くので、痛み止めの薬を飲ませた。なんとか水を口に流し込み、栄養薬も欠かさず飲ませた。それでも、日に日にルシカは衰弱していく。

 その日はもう殆ど金も底をつき、今までで一番安い宿に泊まった。薄汚い寝台に横たえたルシカをリャオは疲弊しきった表情で見つめる。部屋の明かりをつけるのも億劫で、真っ暗な部屋の中、リャオはルシカの息づかいをぼんやりと聞いていた。

「ルシカ」

 リャオは無意識のうちに彼に語りかける。

「多分明日にはピルトの森につける。あの花が見つかればきっと、腕が動かせるようになる」

 宿に泊まるたび、リャオはルシカの傷の具合を確認した。全身の傷は少しずつ癒えてきているが、右腕の壊死している部分はどす黒く染まり、肘のあたりまで侵食していた。この傷が、今もルシカを苦しめているのだ。

(切ったほうが、やっぱりよかったんだろうか)

 苦しむルシカを見るたび、リャオはその思いにとらわれる。

「…リャオ?」

 その時、ルシカがうっすらと目を開けた。リャオは驚いて身を乗り出す。

「ルシカっ?」

 旅立ってから、ルシカが意識を取り戻したのは初めてだった。

「ここは?俺は…」

 ルシカは目だけを動かしてあたりを見わたし、不思議そうな顔をする。

「逃げてきたんだ,診療場から。・・・ルシカ,君の腕が治るかもしれない。ピルトの森に,そういう傷によく効く花があるんだ。それを捜しにいくんだよ」

 リャオがまくし立てるように言うと,ルシカの目にわずかな光が戻った。

「ほんとに・・・?」

 リャオはうなずく。ずっと青白かった顔色が,徐々に色を取り戻していく。明るくなった表情に,リャオは自分が間違ってなかったのだと感じた。

「だから,もう少し頑張って」

 ルシカは小さくうなずいた。そして,安心したようにゆっくりと目を閉じる。

「リャオ」

「なに?」

 ルシカは口元に小さく笑みを浮かべた。安堵の微笑みだった。

「ありがとう」

 リャオは虚をつかれたように目を見はった。ルシカは再び眠りに落ちる。先よりも安らかになった寝息を聞きながら,リャオはなぜか泣きたくなった。

「・・・うん」

 記憶を失くしてから,ずっとルシカと一緒にいた。記憶の一つ一つ・・・全てにルシカがいる。

「必ず,君を助ける」

 ルシカを失いたくない。ただ,それだけなのだ。




 ハミルは緊張と困惑の面持ちで広すぎる廊下を歩いていた。クリスタイン城に比べても二倍近くある。

(王城に来るのは久しぶりだな)

 月に一度,王家と御三家で行われていた会議が開かれなくなって,もう半年近く経つ。最後に会議に出てから,一度もここを訪ねていない。だが,緊張しているのは,久しぶりに王城に訪れたからだけではない。

(ザハラ国王陛下は,僕に何のご用だろう)

 ハミルがここに来たのはザハラ国王に呼ばれたためだった。昼過ぎに王からの使者が訪れ,国王から話があるので,至急来て頂きたいと頼まれたのだ。一瞬何かの罠かと思ったが,国王陛下の命となれば赴かないわけにはいかない。また,内密とのこともあり,ニックにも何も告げず,ハミルは使者に従い,ひっそりと城を訪ねたのだ。

 ラウガに会うのではないかと内心恐れていたが,人目につかない特別な道を通ってきたのか,誰にも会わなかった。何事もなく歩を進めるうちに,過度の緊張はほぐれていった。

(ザハラ国王・・・)

 気持ちが落ち着くと,胸中に懐かしさがこみあげてきた。ハミルの父とザハラ国王はクリスタイン家当主と国王という関係以上に深い絆で結ばれ,よく会食を開いていた。まだ幼かったハミルも父に連れられ,何度もザハラ国王のお目にかかった。

「ハミル,大きくなったな」

「お前は頭がいい。父に継ぐ立派な当主となるだろう」

 国王はそう言ってよくハミルの頭を撫でてくれた。一国の王に触れられるという事の重みをこれっぽちも理解していなかった幼いハミルは,喜び,無邪気に笑っていた。

(お優しい方だった)

 国王が病に伏してから一度もお会いしていないが,今でも昔の温かな記憶を容易に呼びおこせる。

 しばらく歩くと,先導していた使者が立ち止まり,ハミルははっとする。

「こちらでございます」

 顔をあげると,目の前に一際精巧な装飾が施された扉があった。扉の前には兵が三人配置されており,使者を見るとさっと道を開けた。使者が扉を開け,ハミルは促されるままに「失礼いたします」と中に足を踏み入れた。

 部屋は当然のごとく広い。薄暗く,中央に豪奢な寝台が置かれていた。月明かりに,そこに一人の老人が上半身を起こし,こちらを見つめている。

 老いてなお,消えることのない統治者の威厳がそこにあった。ハミルは片膝をつき,最敬礼をする。

「クリスタイン家当主,ハミルでございます」

 ザハラ国王はゆっくりとうなずき,近くに控えている医師らしき男や側近に目をやった。彼らは礼をし,部屋を出て行く。たん,と扉が閉ざされると,二人の間に完全な静寂がおとずれた。国王は汗をかいていた。具合がよくないだろうに,自分が招いた客人を前に堂々としようと努めているのがわかる。その姿にハミルの胸が熱くなった。

「久しぶりだな,ハミル」

 ハミルは顔をあげ,うなずいた。

「私が床に伏してからだと,もう三年あまり会っていないのだな。毎月,かかさず見舞いの品を届けてくれているだろう。感謝している」

 ハミルは「滅相もございません」と首をふった。

「国王も,毎年父の命日に贈り物をくださるでしょう。心から感謝しております」

 そう言うと,ザハラ国王は寂しそうに笑んだ。

「コリアは,私の大切な友人だった。逝ってしまうのが早すぎた」

 ハミルは再びうなずいた。父の死は,あまりにも突然だった。

 国王はどう思うだろう。父を殺したのが国王の子息であるラウガ王子だと自分が疑っていると知ったら――

 一瞬そんなことを考えたとき,ザハラが激しく咳きこんだ。

「陛下っ!」

 かけよろうとしたハミルを,王は手で制した。やがて咳がおさまると,息をついた。

「すまない,横になってもいいか?」

「もちろんです。どうぞ,ご無理をなさらず・・・」

 王は「ありがとう」と言い,横になった。ハミルは寝台に歩み寄る。ザハラは深く強い光を放つ瞳でハミルを見つめた。

「ハミル,今日,お前に来てもらったのはな・・・ラウガの話をしたかったのだ」

 ハミルは驚きに目を見はった。だが,一拍遅れて,やはり,という思いがこみあげてきた。心の中で無意識に,そうではないかと思っていたのだと気づく。

 ハミルの表情を見て,ザハラはふっと笑んだ。

「その顔・・・やはり気づいていたか。・・・ラウガが,何かよからぬことを企てていることに」

 ハミルはためらいながらもうなずいた。胸に,嫌な予感が広がっていく。

「ハミル。私は,とんでもない過ちを犯してしまったのだ。ずっと,この国のために生きてきた私が・・・」

 ザハラのゆるぎない瞳が,かすかに揺れた。

「たった一度,ローバルト家と己の欲望のために・・・私はとんでもない獣をこの国に放ってしまったのだ」

 王の様子を見,ハミルは恐れた。聞いてはいけない,と直感した。一度開けば,決して閉じることのできない扉が開かれようとしている気がした。

「どうか,聞いてほしい。二十年前に犯した,私の過ち,ラウガの正体・・・」

 聞いてはいけない。なのに,足は動かない。

「そして,私がお前に何を頼みたいかということを」

 老人のしわがれた声は,ハミルの全てをからめとり,逃がさなかった。




 早朝に,リャオは宿を発った。

 ルシカはあれ以来目を覚まさない。一刻も早くピルトの森に辿り着き,花を見つけたかった。

 人通りのない道をひたすら駆けていく。森が近いのだろう。あたりはすっかり田に囲まれた田舎道だった。ずっと遠くに見えていた木々が大きく見えてきた。

 その時,つきん,と頭が痛み,リャオは顔をしかめる。

(・・・寝不足かな)

 胸のあたりがざわざわした。頬を晩夏の風が撫でていく。行くな,と言っているように感じた。リャオは波打つ感情を抑えつけ,さらに馬を速めた。

 やがて,巨大な森が眼前に広がった。リャオは馬をとめる。

 整備された道を行くにはもっと一の区の方まで走らなくてはならない。森を目の前にしてそんなことはしたくなかった。だが,ピルトの森はローニャ,サブランの森と比べて原生林が多い。獣,害虫どんな危険な生物がいるかわからないし,一度無造作に足を踏み入れれば,二度と出て来られないかもしれない。

 リャオは馬にもたれかかるようにして眠っているルシカを見つめる。何日か風呂に入っていないこともあるが,右腕の壊死している部分からの異臭が気になった。

(早いほうがいい)

 リャオは覚悟を決め,ルシカの背嚢から獣よけの薬を取り出し,自分とルシカの身体,そして馬にも塗った。家畜用の馬は薬に慣れており,全く暴れない。

 リャオは再び馬にまたがり,ぐっと表情をひきしめると,昼時でもなお薄暗い森々へと消えていった。




 突然ハミルの姿が消え,クリスタイン城のあちこちを捜しまわっていたニックは,自室に入ろうとしているハミルを見とめ,慌ててかけよった。

「ハミル様!」

 どこに行っていらしたのですか――そう訊こうとしたニックは思わず息をのむ。ハミルの顔が今までにないほど青ざめていたのだ。唇がかすかに震え,目に全く光がなかった。何かを守るように左手で胸のあたりを押さえている。

「ああ,ニックか」

 全く抑揚のない声にニックはたじろいだ。

「どうかされたのですか」

 その問いに,ハミルは力なく首をふった。

「なんでもないよ。・・・ちょっと疲れたんだ。休ませてほしい」

「具合が悪いのですか?それなら医術師を・・・」

「いいんだ。一人にしてくれ」

 ハミルは吐き捨て,ばたん,と乱暴に戸を閉める。ニックはわけもわからず,ただ当惑していた。


 真っ暗な部屋の中で,ハミルは力なくその場にしゃがみこんだ。震える手で胸元に忍ばせていた首飾りを引っ張り出す。

 大粒の高級黒石(ファンロットラ)と宝石で造られた,これ以上ないほどの美しい首飾り・・・その輝きが今のハミルにはたまらなく恐ろしかった。

 耳の奥に,先に聞いたザハラ国王の言葉がまざまざと甦る。

 ラウガは,本当に戦争を起こそうとしていた。

 国に残る百年前の戦争の軌跡を全て抹消し,長い年月をかけて人々を戦へと駆り立てようとしていたのだ。そして,そのおそるべき執念・・・ラウガの正体も全てザハラは話した。

 それはあまりにも衝撃的で,にわかには信じられない話だった。だが,本当にハミルの心を打ち砕いたのは,そのあとだ。


 ザハラは皺だらけの手で己の首にかかっている美しい首飾りを外した。そして,ラウガの過去と恐るべき企てを聞き呆然としているハミルに,それを差し出す。

「ハミル。我が親友の息子よ。私はシンシア国王としての全権を,お前に明け渡す」

 一瞬,何を言われているのかわからなかった。

「王家ローバルトは私を最後に途絶える。これからはクリスタイン家が,このシンシア王国の王家となり,お前が初代の国王となるのだ」

 ハミルは微動だに出来ず,その言葉を聞いていた。何の実感もわかなかった。

 御三家とはいえ,たかだか一貴族の自分に,国の最高位につけというのか?

 ハミルの脳裏に,かかえきれないほどの思案が駆け抜けていく。

 そんなことをしたら,ラウガ王子はどうなる?御三家であるアーラトン家とロンカレラ家との関係は?残されたローバルト派の人々は?国民は?身内は?兵達は?国の未来は?

――そして,ニーナは?

 かたまっているハミルを見,ザハラはなんとか身を起こし,ハミルの首に国王の証である名誉の首飾りをかけた。

「私はもう,ながくない。頼む,ハミル・クリスタイン。この国を任せられるのはお前だけなのだ」

 普通の貴族であれば,あまりの幸運に狂喜するであろう。だが,ハミルにはその煌めく首飾りが重くおぞましい首枷に思えてならなった。


 暗闇の中でハミルは震えていた。くしくも聡明な彼には,自分が王となればどうなるか,残酷なほどはっきりと見えていた。

 ザハラ国王がひっそりと自分に王権を託したのは,公にすれば必ずラウガがハミルを殺しにくるからだ。ラウガに狙われるのを防ぐには,ザハラの死後,すぐにハミルが王となり,ラウガが近づくことすらできぬよう体制を整えるしかない。だが,ラウガの過去を知ってしまった今,彼が簡単に諦めるとは思えなかった。ラウガを出し抜いて王となれば,ハミルはあの恐ろしく頭のきれるラウガにずっと脅かされなくてはならないのだ。

 それだけではない。今まで御三家として同列の立場にいた二つの名家との関係だってある。アーラトン家とロンカレラ家,どちらの当主も野心の強い気性の持ち主だ。クリスタイン家が王家となることを決して喜ばないだろう。へたをすれば内部分裂になる。

 それに,ローバルト家に長年仕えてきた者達はどうすればいい?国民は,突然の王権交代を受け入れてくれるのか?ラージニアをはじめとする各国には,どう対応すればいいのだ?

 あまりにも問題が多すぎる。それらを全て一身に背負わなくてはならないのだ。

(できない,僕には・・・)

 何よりも心にのしかかっているのはニーナのことだった。王となれば,個人的な恋愛での結婚は決して許されない。王家と御三家で会議を重ねた上,最もふさわしいと思われる女性を選ぶのだ。貴族とはいえ,ニーナが選ばれることはまずないだろう。それどころか,簡単に会うことすらできなくなる。

 ニーナを失うことは,ハミルにとって身を裂かれるよりもつらいことだった。

(僕には,無理だ)

 ハミルは両腕で自分の肩を抱いた。

 脳裏に,幼い頃から嫌というほど学んできた,シンシア・ラージニア戦争の全貌がよぎっていく,「こんなことをくり返してはならない」という父の言葉とともに。


 ごめんなさい,父上,ザハラ国王。

 

 ラウガの狂気を止める方法は,自分が王となることしかないだろう。ラウガが王となれば,百年以上続いた戦争のない時代は終わる。

 ハミルは王の証を強く握りしめる。

 それがわかっていても・・・動き出すことはできなかった。




 木々が生い茂り,上を見上げても緑で覆われ,空は全く見えなかった。細々とした木漏れ日が,薄暗い森にかすかな光を与えていた。

 道がないため,リャオは馬を走らせることもできず,木々の合間を縫うように歩かせていた。慣れない獣道におびえているようで,リャオは少し申し訳ない気持ちになった。あたりを注意深く見まわし,あの黄色い花を探した。

(ピルトの森には,綺麗な水の流れる小川があったはずだ・・・。花が見つかれば,そこで治療できる)

 花を探している間も,リャオはルシカを助ける方法をずっと考えていた。

 ルシカは目を覚まさない。やがて日はかたむきかけ,あたりは夕闇につつまれはじめた。リャオは徐々に焦りを感じ始める。

(どこか,休める場所を探さなきゃ)

 少なくとも,水を飲める場所を見つけなくては。

 そう思った時だった。

 がたっと突然馬がバランスを崩し,前のめりになった。

「!?」

 一拍遅れて,すぐ前方が絶壁であることに気づく。

「まずいっ!」

 リャオは慌てて手綱をひいた。だが,馬はパニック状態になり,まったく言うことをきかない。激しく暴れ,木々に体をぶつけながらも勢いよく旋回する。

(振り落とされる!)

 焦りと恐怖の中,防衛本能よりもルシカを守りたいという思いが勝った。リャオは馬の脇腹を思い切り蹴り上げ,方向転換させる。その瞬間,身体が宙に浮いた。


 最後に見えたのは,ルシカを乗せた馬がすさまじい速度で木々の間を走り去っていく光景だった。

「ルシカっ・・・」

 リャオは悲鳴をあげる間もなく,落ちていった。



 

 ルトの高熱が下がって三日。特に異変もなく、ルトは穏やかに眠り続けている。あとは意識を取り戻せば大丈夫だろう。

 サマンナは一つ息をつき、寝台の傍の椅子に腰かけた。横たわる男をじっと見つめる。初めて傷だらけでサマンナの目の前に現れたときよりもやつれてしまったように見えた。

(この人は、自分の子どもを守る道を選んでくれた)

「ルシカ」

 サマンナは小さくつぶやく。ルトがうなされながら何度か口にした言葉だ。きっと子どもの名前なのだろう。

(会えたらいい。この人とルシカが)

 サマンナはただじっとルトを見つめていた。

 その時,扉が開き,サマンナははっとそちらを見る。そこにはラウガが立っていた。サマンナは急いで最敬礼をする。

「まだ目を覚まさないか」

 そう尋ねられ,サマンナはうなずいた。

「熱は下がりましたが,意識は戻りません」

 するとラウガは,部屋に入り,ルトの横たわっている寝台の前に立つ。

「今すぐ起こせ」

 その言葉に,サマンナは信じられないというように顔をあげた。対してラウガは平然と続ける。

「外に出すのは,こいつの身体に障るのだろう?ならば,息子が見つかるまで,こいつには物語を書かせればいい」

 今までのルトの様子を見ると,彼はいつ死んでもおかしくないほど弱っている。ただ死なせるくらいなら,利用できるだけ利用しておいた方がいい。

「しかし・・・」

 サマンナは反論しようとしたが,口をつぐんだ。この人には逆らわない方がいいことをサマンナはなんとなく感じ取っていた。

(本当は,このまま眠らせておきたいのだけれど・・・)

 サマンナはためらいながらも,ルトの身体をゆすった。




 ――ルシカ

 耳もとで誰かに呼ばれた気がした。水底に沈んでいた身体が少しずつ浮き上がっていく。

 目覚めたくない。このまま眠っていたい。

 そう心の中で叫ぶと、優しい手がそっとルシカの頬を撫でた。

 ――大丈夫だよ

 誰の声だろう。懐かしくて温かい。その声に導かれるように、ルシカはゆっくりと目を覚ました。


「気が付きましたか」


 薄暗い闇の中で、褐色の髪の若い女性が、大きな紫色の瞳でこちらを見つめていた。

「ちょっと待っていて」

 女性はそうささやくと、ルシカの視界から消える。一人残されたルシカはゆっくりと深呼吸した。頭がまださえきっていない。だが、身体は嘘のように楽だった。今までルシカを責め苛んでいたものが消えてなくなっている。

(あ、腕…!)

 慌てて右肩を見ると、腕はちゃんとついていた。包帯がはずされ、まだうすく青白いが、しっかりと感覚があった。おそるおそる指を一本一本動かしてみる。軽く肘をあげてみる。ちゃんと自分の思い通り動いた。

(ちゃんと動かせる)

 ルシカの瞳に、みるみるうちに涙があふれる。まったく感覚がなかった腕が、ちゃんとつながっている。

 絵を描くことができるのだ。それはたとえようもない喜びだった。

――必ず,君を助ける

ルシカははっとした。

「リャオ?」

 苦痛の中で,何度もリャオに励まされた気がする。彼はどこに行ったのだ?

 ルシカがあたりを見わたしたその時だった。

「まだあんまり動かしちゃだめだよ」

 男性の低い声がして,ルシカははっとそちらを見る。そこには先の女性と,中年の男が立っていた。


 頭がさえてくると,ルシカは自分がどこにいるのか,この人達は誰なのか気になった。ルシカは寝台ではなく,柔葉(トノ)―大きな葉―をしきつめたものの上に寝かされていた。部屋はドーム状で,天井の一番高い部分でも,男が立った状態で頭がつきそうなほど低い。入り口は扉がなく,森の風景が見え,陽の光がさしこんでいた。床は直に地面で,二人とも土足のままだ。灯りも台所も机も椅子も,人工的なものは一切置かれていない。

男はルシカの身体の状態を見てくれた。

「熱もひいてるし,腕も治ってきた。具合はどうだい?」

「だ,大丈夫です」

 ルシカが小さい声で言うと,男は「よかった」とうなずく。近くで見ると,目はくぼみ,頬はこけ,とても疲れた表情をしていた。だが一番気になったのは髪と瞳だ。隣の女性もそうだが,深い紫色の瞳に,褐色の髪。話し方にも独特の訛りがある。

(この国の人じゃないのかな・・・)

 ルシカがぼんやりと彼らを見つめていると,女性が苦笑した。

「何が起きたのかわからないって顔してるわね」


 それから,二人はルシカに事細かに事情を説明してくれた。男性はソノマ,女性はアルネというらしい。

 アルネが森を歩いていると,草陰に少年が倒れているのを見つけたという。それがルシカだった。傷だらけのルシカをアルネはここまで連れてきた。医術師であるソノマはルシカを見て,すぐに適切な処置をしてくれたのだ。

「アルレドさんには切り落とすしかないって言われたのに・・・」

 ルシカがつぶやくと,ソノマは苦笑する。

「まだシンシアでは壊死の治療法が普及していないんだろうな」

 ソノマは部屋の隅に置いてある,木の皮で編んだ籠を持ってきた。その中から黄色い花を一輪取り出す。

「これはシキーラという花でね。シンシアだとこのあたりにしか生えないんだが・・・。この花の花粉を水に浸して飲むと,壊死状態の肉体をある程度回復させることができるんだ」

 ソノマはルシカの右腕を見る。

「でも,完治するなんて希なことだ。君は運が良かったんだな。――全身の傷も,順調に回復してる。君を苦しめていたのは主にその右腕の傷だったんだ。もうそんなに苦しくないだろう?」

 ルシカはうなずいた。体内を清水で洗い流されたかのようにすっきりとしている。

――ピルトの森に,そういう傷に効く薬があるんだ

 耳に馴染んだ声が甦り,ルシカはおそるおそる尋ねた。

「あの,俺の倒れていた側に,俺と同じ歳くらいの男はいませんでしたか?茶髪で赤い眼の・・・」

 二人は顔を見合わせた後,アルネが首をふる。

「あなた以外,誰もいなかったわ」

 ルシカは眉をよせる。リャオはどこに行ったんだ?

「連れがいたのかい?」

 ソノマに訊かれ,ルシカはうなずいた。

 二人も,なぜルシカがあんな場所に倒れていたのか気になっているような表情だった。ルシカはぽつぽつと,父を捜してリャオと旅をしていること,大けがを負ったこと,腕を切られそうになって,リャオが連れ出してくれたこと――今までのことを簡単に説明した。

「そうだったのか」

 ソノマはうなずいた。

「このあたりは崖や沼も多い。何らかの事故を起こして,馬が暴れ,振り落とされたのかもしれない」

 それを聞いて,ルシカはぞっとする。では,リャオはどうなったのだ?

 青ざめたルシカを見,ソノマは腕を組んだ。

「近くにいないか捜してこよう」

「だめよ。ソノマさんはここにいて。私が見てくる」

 アルネがすかさずそう言って,部屋を出て行く。その後ろ姿をルシカはぼんやりと見つめていた。

「君はもう少し休んでいた方がいい。横になっていなさい」

 ソノマの言葉にルシカはうなずき,そしてはっとする。

「あの・・・助けてくれて,ありがとうございます」

 ソノマは虚をつかれた表情になったあと,微笑んだ。

「いいんだ。久しぶりに自分の仕事ができた」

 そして踵を返そうとする。

「夕食になったら起こすから,寝ていなさい」

 ルシカはうなずき,再び葉の山の上に横になった。とろん,と意識がとけていく。

 結局,あの人達は誰なのだろう。リャオはどうしてしまったんだろう。

(父さん)

 父さんは今,どこにいるのだろう。

 見知らぬ場所でたった一人――その事実が重くルシカにのしかかった。




 リャオはふらふらと薄暗い森をさまよっていた。

 幸い,リャオは崖のすぐ下に突き出した岩棚にたたきつけられただけですんだ。死にものぐるいで崖をよじのぼり,なんとか這い上がったが,深い森の中にルシカをのせた馬の姿はどこにもなかった。

「ルシカ」

 どこをどう進めばいいのか全くわからない。だが,立ち止まれば二度と歩けなくなりそうで,がむしゃらに足を動かした。

 どのくらい時間が経っただろう。どのくらい歩いたのだろう。

 早く,ルシカを見つけなければ。

 無我夢中で歩き続けていくと,突然視界が開けた。

「・・・?」

 そこは,廃村だった。

 点々と建っている家は半壊し,人の気配が全くない。疫病か何かあったのだろうか。人がいなくなり放置されてから,十数年経っているように見えた。


 その時,頭の中で何かが弾けた。


――リャオ

 とくとくと,ずっとせき止められていた記憶の水が頭の中に流れ出す。優しい声,ぬくもり,賑わい・・・

(なんだ?)

 自分はここを知っている。

 リャオはかぶりをふった。気持ちが悪い。リャオは廃村をなるべく見ないようにして歩みを速めた。

 それでも,水の流れは止まらない。

 こいつのせいだ。

 災いを招いた。

 冷たい目や,罵倒する声,無理矢理引っ張られた手・・・

 違う。そんなのは知らない。まとわりつくものを払いのけるように,リャオは必死に歩き続ける。

――僕は何もしてないのに

 ごめんね,リャオ。

 辿り着いたのは,古びた祠だった。長い間手入れされていなかったらしく,苔が生え,ぼろぼろだった。まるで生け贄を待つかのように扉は開かれている。

「ああ・・・」

 記憶の水かさは増し,濁流に変わっていく。

 お前のせいで,村は滅びそうになってるんだ。

――痛い。放して

 暗闇。飢えと渇き,悪臭・・・

 濁流が,全てを押し流していく。

「う・・・」

 リャオはうめいた。

――もし,君の記憶が戻らないときは俺の家に来なよ

 絵を描くのが大好きな少年の声が,かき消される。

 光とともに現れた男。のばされた手・・・

「うああっ!」

 リャオはその場にしゃがみこんだ。頭が割れるように痛む。


――お前は人を殺せるか?

――誰かのために絵を描きたいって思うんだ

――連れてこい。多少手荒でもかまわない

――父さんはもう,死んでいるんじゃないかって

――リャオ

――リャオ


 温かな日々,笑い合った時間,共にみた風景・・・全てが流されていく。一瞬頭が真っ白になった。

――ルシカは,僕が守る。


ルシカって,誰だ?


 頭痛がおさまり,リャオはゆっくりと顔をあげる。

 その瞳には暗くよどんだ光が宿っていた。

「・・・ラウガ様?」

 リャオはあたりを見まわす。

(どうして俺は,こんなところにいるんだ?)

 ラウガに命じられ,自分はルトの子ども,もう一人のトレラ・アーレベルクを捜していたはずだ。

(そうだ,チャレ道で見つけたじゃないか)

 人売りに襲われている少年を見つけ,彼を捕らえるために,人売りと闘って・・・

 その後の記憶が全くない。

 どうしてこんなところにいるのだろう。

(いったい何が・・・)

 その時,人の気配がして,リャオは振り返った。そこには,見知った男が立っていた。

「ダルタン」

 彼は怒りを滲ませた足取りでこちらに向かってくる。

「お前,連絡もせず一ヶ月何をしていたんだ!」

 リャオは目を見開いた。

「は・・・?」

 ダルタンはいらつきながら,呆然としているリャオの腕をつかむ。

「城に戻るぞ。ラウガ様にお前を見つけるよう命じられたんだ」

 リャオはわけもわからず,ひっぱられるままに歩き出す。いつのまにかピルトの森にいて,いつのまにか一ヶ月の時が過ぎている。

(どういうことだ・・・?)

 混乱しながらも,しだいにリャオの足取りは確かなものになっていく。

(何が起きたのかわからない・・・けど,まずはラウガ様のもとへ戻らなくては) 

 そして,もう一度トレラ・アーレベルクを捜しにいかなくては。


 ラウガ王子のために,自分は全てをかけて働くのだ。

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