第13話 狂気

「右腹の刺し傷から菌が入ったのでしょう。・・・高熱は続いています」

 サマンナの声を聞きながら、ラウガは豪奢な寝台に横たわるルトを見つめていた。王宮に戻ってからも、ルトの意識は混濁したままだ。

 苦しげにあえぐ彼を見下ろし、ラウガの中にある何かが冷めていく。

(こいつはもう、殺してもいいかもしれないな・・・)

 民を戦へ扇動するよい道具になると思っていたが、あまりにも手がかかるようなら殺した方が早いかもしれない。

 そこまで考えて、ふと、ラウガの脳裏に茶髪の少年が浮かんだ。

(リャオ)

 彼が戻らなくなって、もうどれくらい経つだろうか。

(そろそろ、別の者に“ルシカ”を捜させるべきだな)

 頭ではわかっていても、ラウガはなかなかそれを実行に移せなかった。




 リャオは診療場の待合室でぼんやりと床の一点を見つめていた。

「リャオ」

 名を呼ばれ、顔をあげるとグリムスが立っていた。

「帰りが遅いから、捜しにいったんだ。そしたら、大通りで騒ぎになっていた」

 リャオはグリムスの顔をまともに見ることができず、うつむく。

「少年が子どもを庇って窓硝子の下敷きになったと聞いて、まさかと思ったが・・・」

 グリムスの声がかすかに震えた。

「やはり、ルシカか?」

 リャオはうなずいた。たまらなくなって、その場にしゃがみこむ。

「奥の治療室で手術するって・・・身体中に破片が刺さってて・・・」

 あの騒ぎの中、誰かが近くの診療場まで医術師を呼びに行ってくれ、ルシカはそこに運ばれた。血まみれで、血は止まらなくて、ぐったりとしていた。その姿を思い出すだけで、震えがとまらない。

「・・・僕が、外に出たいなんて言ったから」

 もしルシカが死んでしまったら――そんな恐怖に苛まれているリャオの肩を、グリムスはそっとさすった。

(ルシカ・・・)

 きっと、大丈夫だ。アルレドが執刀しているのだから。

 グリムスは祈るような想いで治療室のほうを見つめていた。



 治療室の扉が開いたのは,完全に日が沈みきってからだった。

 手術用の白衣を身につけたアルレドの顔は疲弊しきっていた。

「ルシカはっ?」

 つめよるリャオに,アルレドは低い声でつぶやいた。

「一命はとりとめたよ。本当に危ないところだった」

 その言葉に,リャオ,そしてグリムスは安堵の息をつく。だが,続けられた言葉に二人は愕然とした。

「だけど,まだ意識が戻らない。・・・それに,右肩の傷が深い。すでに化膿して,壊死しかけている」

 右肩――その響きに,リャオの背筋がぞくりと震える。

「このままだと,炎症が全身に広がりかねない。最悪の場合,死に至る。・・・右腕を,切り落とすしかないだろう」

 淡々と説明するアルレドの声に,リャオは震える手で口元を覆った。

 右腕を切断する・・・それがいったいどういうことか,ぎゅうぎゅうと胸に迫ってくる。

――誰かのために,絵を描きたいって思うんだ

 そう微笑んだルシカの顔が瞼に浮かんだ。リャオはたまらなくなってかぶりをふる。

「だめだ!腕がなくなったら,絵が・・・描けなくなっちゃうよ!」

 アルレドが怪訝そうに顔を歪める。

「絵?」

「ルシカは絵を描いて生きていくんだ!」

 リャオの叫びに,アルレドは眉をひそめた。

「趣味なんて,生きてさえいればいくらでも見つかる。そんなことより,彼の命を救うことが先決だよ。・・・そうだろう?」

「でもっ・・・」

 なおもくいさがろうとするリャオの肩を,グリムスがつかんだ。はっとするほど強い力だった。

「・・・本当に,もう切るしか手段はないのか?」

「ええ」

 師の問いに,アルレドは即答した。グリムスの顔が歪む。

「今,切るのか?」

「・・・いいえ。とてもじゃないですが,彼の身体が持ちません。ですが早いほうがいいので,とりあえず一日安静にして,明後日には行いたいと思います」

 肩におかれた手に力がこもったのを,リャオは感じた。

「そうか」

 リャオは強く拳を握りしめた。

 ルシカが助かってくれたのは確かに嬉しい。だが,腕を失ったとき・・・ルシカはどうなってしまうのだろう。




 母の膝の上に座って,絵本を読んでもらうのが大好きだった。ぬくもり,優しい声,母の髪から漂う清潔な香りがルシカの心を和ませた。

「かあさん,どうしてかりゅうどは熊と一緒に死んでしまったの?」

 それは,とある森で,大熊を仕留めることだけを生き甲斐にしてきた老狩人が,その熊を撃ち取った後,自らに銃を向けて死んでしまう話だった。

 幼いルシカの問いに,母は微笑んだ。

「狩人にとって,熊を倒すことが生きることだったからよ」

「どうして?熊を倒しても,おじいさんは生きているよ?」

 母はちょっと目を見開いたあと,うーん,と唸った。

「人は長く生きていくと,“どうして自分は生まれてきたんだろう,生きているんだろう?”って考えるものなの。そして,自分の生きがいを見つけ出していく。おじいさんは熊を倒したことで,“ああ,もう役目を果たした”って思ったんでしょうね。残酷な言い方をすると,おじいさんは生きる理由をなくしてしまったのね」

 ルシカはうー,と眉を寄せた。母の話は時折難しい。

「でも,自分で自分を殺しちゃいけないって,前に父さんが言ってた」

 そう言うと,母は少し嬉しそうに笑んだ。

「そうね。そういう考え方もあるわね。“生きる”ことが大切。どんなことがあっても命を失わず,生きてさえいればそこに理由はいらない・・・」

「どっちが正しいの?」

 母は優しく息子の髪を撫でた。

「どっちも正しいのよ。自分で決めていいの。・・・でもね,ルシカ。あなたの人生はあなたのものだけど,あなたの命はあなただけのものではないのよ」

「そうなの?」

「ええ。例えば,おじいさんが死んでしまったら,おじいさんの帰りを待っている家族が悲しむでしょう?人はつながって,影響し合って生きているの。だから,ちゃんと周りにいてくれる人達のことを考えて,自分の道を決めるのよ」

 うん,と曖昧にうなずくと,母は苦笑した。

「ごめんね。ルシカにはまだ難しいね。違う絵本を読みましょう」

 そう言った母の声が,どんどん小さくなっていく。

 ぬくもりが,優しい香りが遠のいていき,ルシカは慌てて叫んだ。

「母さんっ!」

 いつの間にか,あたりが真っ暗になり,ルシカはおびえながら母を呼び続けた。




 はっとして目を覚ますと,全身が焼けるように痛かった。身体中に白布が巻かれている。

「気がついたかい?」

 まだうつろな瞳に,優しげな青年が映る。この人は・・・

「アルレドさん・・・?」

 どうしてここにいるのだろう。なぜこんなに全身が痛いのだろう。それを思い出す前に,ルシカは身体をこわばらせた。

(・・・右腕が,痛くない)

 焼け付くような苦痛の中,右腕だけが全く感覚がない。

 愕然としてアレルドを見ると,彼は眉をよせ,うなずいた。

「女の子をかばって,窓硝子の下敷きになった。覚えているかい?」

 ルシカは震えながら顎をかすかに下げた。痛みと恐怖に,全身が支配されている。

「君の右腕は,壊死し始めている。このままじゃ炎症が全身に広がって,君は死んでしまう」

 アルレドは諭すようにゆっくりと言った。

「君の右腕を,明日切り落とす」

 その言葉に,ルシカの顔がぐっと歪んだ。傷だらけの青白い顔に,目だけがらんらんと光っていた。

「・・・いやだ」

 ルシカはうまく動かない首を必死に振る。

「いやだあ・・・」

 それは小さく,あまりにも悲痛な懇願だった。

 ルシカは首を振り続けた。その瞳から涙がこぼれる。

 アルレドはそんな少年をただじっと見つめていた。

 やがて,肉体の苦痛に耐えられなくなった精神がルシカを眠りへ誘い,彼は再び意識を失った。



 ルシカは二階の一番奥の病室に運ばれた。包帯まみれの彼を見て,リャオは顔を背ける。

「ルシカ・・・」

 リャオのつぶやきに応えることなく,ルシカは眠り続けた。

 その日の晩,リャオはずっとルシカのそばにいた。次の日になっても,朝食をとることもなく,ずっとルシカの寝顔を見つめ続けていた。




 一階の奥にある医務室には,陽の光は入らない。

 昼時も薄暗い部屋で,アルレドとグリムスは向き合って座っていた。

「明日,ルシカの腕を切るのをやめてくれないか」

 そうきりだすと,アルレドは驚いたように目をみはる。

「・・・何を言っているんですか,先生。このままだと,彼は死んでしまいます」

「それはわかっているが・・・」

 昨晩,グリムスもルシカの容態を診た。確かに,もう腕を切り落とす以外方法はないように思える状態だった。

 だが,わかっていても,グリムスの胸には暗いよどみがあった。

 グリムスはおもむろに,布で包まれている家から持ってきた板を持ち上げ,布をまくる。

 現れたのは,森の中にある草原の絵だった。

「これは・・・?」

 思わず身を乗り出しながら,アルレドは尋ねる。

「あの子が描いた絵だ」

 アルレドはわずかに目を見開いた。グリムスは淡々と続ける。

「あの子にとって,絵を描くことはただの趣味で済ませていいものじゃない。・・・この絵を見て,そう思わないか?」

 アルレドの顔が苦しげに歪んだ。だが,すぐにかぶりをふる。

「・・・それでも,放っておけば死んでしまう彼を,そのままにしておくことはできません」

 アルレドの心中の葛藤が,その声音ににじみ出ていた。

「僕だって,できることなら腕を切断するなんてしたくない!・・・でも,例え何を失っても,人は生きていける生物だ。命さえあれば。――僕は医術師なんだ。あの子の命を救うことを,一番に考えなくちゃいけないんだ」

 吐き出すように言う弟子を,グリムスはじっと見つめる。

「ルシカは,それでいいと言ったのか?」

 アルレドの表情がぴしりとこわばった。脳裏に,昨晩のルシカの姿が浮かぶ。苦痛に苛まれながら,それでも腕を失うことを拒んだその姿を。

 アルレドは諦めたように首をふり,うつむいた。

「・・・それでも」

 ややあって彼は,ぐっと顔をあげる。そこにはゆるぎない決意があった。

「救える命を救う。それは,僕があなたから教わったことです」

 彼の言葉に,グリムスは何も言えず,ただ彼を見つめていることしかできなかった。




 ずっと動かなかった身体がぴくりと震え,リャオははっとしてルシカを見つめた。

「ルシカっ!?」

 ルシカはうめきながら,ゆっくりと目を開けた。瞳はうつろで,全く焦点が合わない。

「僕だよ,わかるか?」

 呼びかけると,ルシカは少しだけ目を見開いた。

「・・・リャ,オ・・・?」

 リャオはうなずく.ルシカは苦しげにあえぎながら,必死に口を動かした。その声はまりに小さくかすれていて,リャオは必死に耳をすます。

 みぎうで,みたい,どうなっている?

 ひゅうひゅうとくぐもった息づかいの間からなんとか聞き出し,リャオはためらいながらも,おそるおそる右肩に巻かれている包帯をといた。

「っ・・・」

 リャオは思わず顔を歪め,口を手で覆った。

 首の付け根の辺りから,右肩全体が青黒く変色し,二の腕まで侵食していた。それはもう,人肌とは呼べない代物になっていた。

 ルシカはわずかに首を動かし,横目で自らの腐りかけた腕を見つめた。何の感情もない,ぞっとするほど虚無の表情だった。

「る,ルシカ・・・」

 リャオは震える声でささやいた。

「明日,君の右腕を切断するんだ」

 もう聞いていたのだろうか,ルシカはさして驚いた風もなく,視線をリャオに戻す。

 そして,次の瞬間,信じられないことが起こった。

 ルシカが左腕になけなしの力をこめ,寝返りをうつように身体を回転させた。そのまま彼は寝台からどんっと床にたたきつけられる。人間のものとは思えない悲鳴を発した。

「ルシカっ・・・」

 リャオは慌ててしゃがみこみ,彼に触れようとした。だが,ルシカはリャオのことなど意に介さないで,ず,ずと這いつくばりながら進んでいく。傷口が開き,包帯が紅く染まっていく。それでも彼は進むのをやめなかった。

 リャオはルシカをとめることが出来ずにいた。そのあまりの光景に,動くことができなかった。極度の痛みにルシカは汗びっしょりで,口からは呼吸ともとれない乾いた音がもれている。

「・・・な・・・」

 ルシカが,うめきながら何かつぶやく。

「・・・うでは,きらせない」

 やっとその言葉を聞き取ると,リャオは凍りついた。

「かく,えを・・・」

 それはもはや狂気だった。他者は近づくことのできない,触れることもできない希求だった。

 薄暗い部屋で,地べたに這う彼の姿を,リャオは呆然と見つめていた。脳裏に,ルシカの笑顔が,空を見つめる横顔が,絵を描く姿が次々と浮かんでは消えていく。

 恐怖が熱い思いに変わり,リャオはルシカの側により,目を合わせようとした。

「ルシカ,腕を切らなきゃ君は死んでしまう」

 ルシカは動きをとめ,なんとか顔をあげてリャオを見つめる。

「死んだら,お父さんに会えなくなるだろ!?・・・ルシカ,絵を描くことだけが全てじゃないだろ!それに,頑張れば左手でだって絵を描けるかもしれないじゃないか!――ここで無理したら,全部なくしちゃうよ!」

 ルシカは汗でべっとりと額にはりついた髪の隙間かららんらんと光る瞳でリャオを見ていた。だが,すっと視線をそらすと,また必死に腕を動かして前に進もうとする。

「ルシカっ!」

 彼の耳に,もはやリャオの声は届いていなかった。

「・・・にげる,ぜったいに・・・」

 赤褐色の瞳から涙がこぼれ,一瞬で汗と同化した。


「えがかけないなら,しんでやる」


 その言葉だけ,なぜかはっきり聞こえた。

 リャオはもうその場から動けなかった。身体に力が入らない。

 無様に地を這い続ける姿をぼんやりと見つめながら,リャオはかつて三の区で出会った,クレンの言葉を思い出していた。

――ルトとルシカには,本人達も気づいていない危うさがある

 異常に気づいたアルレドが病室に駆けつけ,ルシカにかけよる。

「何してるんだ!」

 アルレドに取り押さえられたルシカは,目を見開き,絶叫した。何と言ったのかわからない,ただ耳をつんざくような,心を押しつぶすような叫びだった。

――あの二人は,物語,そして絵を生み出すことに自分の全てをかけている。特に,ルシカはあの歳で完全に自分の生きる道を見いだしちまった。・・・確かにそれは素晴らしいことだが,強すぎる意志っていうのは,時に厄介なもんだ。ヘタしたらそれで命を落とすことだってある

 ルシカは口元に薬品を染みこませた布をあてられ,ゆっくりと意識を失った。

――あの子が,自分の才能に,そして意志に押しつぶされないよう,気をつけてやってくれ

 ルシカを守りたいと思った。ルシカとこれからもともに過ごしたくて,一緒にいたくて,だから守りたいと思った。

(でも,守るってなんだろう)

 騒ぎの中,リャオは一人座り込んでぼんやりと行き交う人々を見ていた。




「あんな身体で動き出そうとするなんて・・・」

 医務室に戻るなり,アルレドは長椅子に身を沈める。あの少年を沈静薬で眠らせ,出来る限りの処置をした。だが,異常な衰弱のうえ,傷口が開いてしまい,正直いつ死が訪れてもおかしくない状態だった。

「明日は予定通り,腕を切断しますか?」

 医務室にいた医術師の一人に問われ,アルレドはうなずく。

「ああ。もう一刻の猶予もない。明日の午前中には始めよう」

 アルレドはぐっと眉を寄せた。

 難しい手術になるだろう。

 だが、なんとしても,救える命を・・・あの少年の命を救わなくては。




 ルシカの荒い息づかいだけが,部屋の冷たい空気をかすかに揺らしていた。

 もうすっかり日が落ち,灯りをつけていない部屋は真っ暗だった。夏の暑さも絶頂を過ぎ,病室はひんやりとしている。

 リャオは壁にもたれかかり,じっとルシカを見つめていた。

――もし,君の記憶が戻らないときは俺の家に来なよ

 そう笑ってくれたルシカを思い出す。

 腕を切っても,切らなくても,もうあんな風に笑ってくれないかもしれない。

――森での暮らしは楽しいんだ

 その時だった。

 ぱちん,と頭のすみで何かが弾けて,ずっと見えなかったものが見えた気がした。

 鬱蒼と茂る木々の中。誰かが自分の前を歩いている。あの黒髪の男だった。

――これは,このあたりにしか生えない植物だ

 大木の根元に咲くうす黄色の花を見つめ,彼は言う。

――花粉をすりつぶして,水とともに飲むと,壊れた細胞を再生させる力がある。壊死などで腐りかけた身体を治すことのできる,貴重な花だ

 男は淡々とした調子で語っている。

――希少価値が高く,高価なもので一般では普及されていないが・・・。いずれこういうものも増やしていければいいのだがな

(これは,どこのことだろう・・・?)

 リャオは必死に記憶をかきまわした。特徴的な木々,風の匂い・・・。

 はっとした。

(ピルトの森だ)

 身体が熱くなるのを感じた。

 ピルトの森にあるあの黄色い花・・・あれさえ見つければ,ルシカを救うことができるかもしれない。

 だが,すぐにすっと冷えた思いがさした。

 ルシカは今,瀕死の状態だ。ここからピルトの森まで,速馬でも五日はかかる。そして,花を見つけるまでどのくらいかかるか見当もつかない。・・・それまで,ルシカの身体がもつかどうか分からなかった。

 やはり,このまま腕を切り落とし,生きながらえるのが最良の選択なのだろうか。

 だが,そう思うと,ざらりと嫌なものが胸を撫でた。腕を失うことをあんなにも拒み,這いつくばってでも逃げようとした彼の姿を思い出す。

(・・・違う)

 生きるってことは,心臓が動いて呼吸をするだけのことじゃないはずだ。

 ルシカは見つけてしまった。決めてしまったのだ。生きることが何なのかを。

 それは,誰にも否定できない,ルシカだけのものだ。

 自分は守る。彼の生きる道を。ルシカ自身が決めたものを。

 リャオは身体に力を入れ,すぐに病室をとびだした。

 やらなきゃいけないことがある。




 その日の夜。寝台に入ってもグリムスは眠れなかった。

(明日、ルシカの腕は切断される)

 あまりにもやりきれなくて、グリムスは自身を呪った。

 自分も医術師だったというのに、苦しんでいるあの子の力になることができないなんて。

 あの薄暗い部屋で幸せそうに絵を描いていたルシカを思い出す。

 努力では決して手に入らない才能を持っていた少年。彼に、自分の叶えられなかった夢を託したかった。

(あの子は、この先どうやって生きていくのだろう)

 全く想像できず、グリムスの気持ちはふさぐばかりだった。

 かたく瞳を閉ざした、そのとき――

 がたん、と物音がし、人の気配を感じた。

「!?」

 グリムスははね起きた。恐怖ではない、淡い期待が胸を貫いたのだ。

(・・・前にもあった)

 あの時は、壁絵を汚してしまったことに責任を感じたルシカがこっそり夜中に修復していた。

 まさか、と思う。重体で診療場で生死をさまよっているルシカが、ここにいるはずがない――

 わかっていても、グリムスは起きだし、部屋を出た。すっかり暗闇に目が慣れてしまっている。

 まっさきに向かったのが、あの絵を描く部屋だった。だが、扉を開けても、そこには誰もいない。グリムスは無意識のうちに落胆した。扉を閉めようとした時、後ろでかたん、と足音がして、グリムスははっと振り返った。

 階段のところに少年が立っている。一瞬ルシカかと思ったが、違った。

「リャオ?」

 暗闇の中で、リャオの「しまった」というような表情がうっすらと見える。絵を直しているところを見つかったときのルシカそっくりだった。

「グリムスさん・・・」

 グリムスはしばし呆気にとられていた。ルシカに付き添って診療場で寝泊りしているはずの彼がなぜここにいるのか。

 だが、リャオがルシカの背嚢を背負っているのに気づいたとき、全てがわかった。

「・・・逃げるのか?」

 静かに問いかけると、リャオは警戒した表情のまま、こくりとうなずく。止められる、と身構えているようだった。

「どこに行くつもりだ?」

 ピルトの森――そう答えようとしてリャオはおしとどまる。追ってこられたらまずいし、あまり花の存在を知られたくなかった。

 憮然と黙り込んでいるリャオを見つめ、グリムスはあきらめたようにため息をつく。

「歩いていくつもりか?」

「馬を買いました。お金は殆どなくなっちゃったけど・・・」

 グリムスはわずかに目をみはった。彼の行動のはやさに驚いたのだ。

 窓からさしこむ月明かりにリャオの瞳はぎらぎらと輝いている。

「今無理に動かせば、死んでしまうかもしれないんだぞ」

 少し語気を強めたが、リャオは全く動じない。

「ルシカは“絵が描けないなら死ぬ”って言っていました。腕を失って生き延びたって、ルシカは生きていけないんです」

「・・・お前のその行動が、ルシカを殺すことになるかもしれない」

「覚悟してる」

 リャオは言い切った。

「ルシカが望むようにしてやりたい。そうなる可能性にかけてみたいんだ」

 グリムスはじっとリャオを見据えた。おそらく、腕を切らずにルシカを救う方法の検討がついているのだろう。だが、それはどれほどの危険性を孕んでいるのだろうか。

 グリムスの中に、このまま行かせてやりたいという思いと、止めなくてはならないという思いが同時に溢れ出し、せめぎあった。その濁流のはざまで、一つの疑問が浮かぶ。

「・・・どうしてお前は、ルシカのためにそこまでするんだ?重症の者をかかえて旅をするなんて、簡単なことじゃない。・・・それはわかっているんだろう?」

 リャオはうなずいた。そして、少しだけ悲しげに笑む。

「ルシカと離れたくないんだ。一緒に生きていきたい」

 言いながら、リャオ自身も納得した。

 今の自分を突き動かしているものは、それなのだ。

 脳裏に、人売りから逃げ出した酒場の二階の風景から、三の区、大市場通り、印刷場、二の区・・・ルシカとともに過ごしてきた日々がよぎった。

 これからも、あんな風にともに歩いていきたい。

 グリムスはちょっと驚いたように目を見開くと、呆れたような、焦がれるような表情をして、微笑んだ。

「・・・ルシカと同じことを言うんだな」

「え?」

 リャオが不思議そうな顔をしていることも気にせず、グリムスは「ちょっと待っていろ」と言い残し、自室に戻った。

 すぐ戻ってきたグリムスの手には、玉薬の入った瓶が二つ握られている。

 呆然としているリャオに、グリムスは瓶を差し出した。

「痛み止めの薬だ。ルシカが苦しみだしたら飲ませてやってくれ。こっちは栄養薬。ものを食える状態じゃないから、朝、昼、晩と一粒ずつ飲ませてやれ」

 絶対止められると思っていたリャオはただ唖然としていた。

「ルシカを馬に乗せるのを手伝う。・・・診療場へ行こう」

「ま、待ってください」

 歩き出したグリムスをリャオは思わずひきとめた。

「なんだ?」

「どうして・・・?」

 リャオがうまく言葉にできずにいると、グリムスは少し自虐的に笑む。

「もし私が今も医術師だったら、どんなことがあってもお前たちを止めていただろう。だが、私は退職し、命あること、生きることについての考え方が変わってきてしまったのかもしれない」

 人の命を救うことに、人生のほぼ全てをかけてきた。だが、職を離れた今、ふと考えてしまうのだ。命とはなんなのか、生きるとはなんなのか、ということを。そして何より、自分と同じ、絵を描くことが大好きな少年の姿が頭から離れないのだ。

「本当に命を賭けられるものならば、賭けたっていいんじゃないか、と今は思ってしまうんだ」

 そう言って歩き出したグリムスに慌ててついていきながら、リャオは小さく微笑む。

「・・・ありがとうございます」




 夜の診療場は一時間に一度、夜番が見まわりにくる。そのことを知っていたグリムスは、ちょうど見まわりがこない時間帯を見計らって、ルシカを抱え、連れ出した。その際,ルシカに巻かれている包帯をかえ,動かしてもなるべく傷に影響を及ぼさないような巻き方をしてくれた。慣れた手つきを見ながら,リャオはグリムスがいてくれてよかったと心から思った。

 診療場の近くにとめた馬に乗せている間も,ルシカは一度も目を覚まさない。ただ浅い呼吸をくり返しているだけだ。グリムスがルシカにとって一番負担の少ない姿勢を考えてくれ,ルシカが前に座り彼を支えるようにしてリャオが後ろに乗る。すぐ近くにルシカの息づかいを感じながら,リャオはぐっと手綱を握りしめた。

(必ず,ルシカを助ける)

「アルレドには俺から話をしておく。・・・こまめに休憩をとって,身体を休ませるんだぞ」

 静かな声で言うグリムスの顔をリャオは見つめた。

「はい」

 自分達がどこへ行くかも訊かずに,ただ力を貸し見送ってくれる。それがとてもありがたかった。

「グリムスさん,色々,ありがとうございました」

 そう言うと,グリムスの目元が和らいだ。

「元気になったら,また来てくれ」

 リャオはうなずいた。必ず,ルシカと二人で戻ってくる。

 夜はまだ深い。リャオは慣れた手つきで馬を走らせた。ピルトの森へ急がなくては。



 暗闇の中、駆けていく影を見つめながら、グリムスは思い出していた。リャオがなかなか目を覚まさず、ルシカが彼のために絵を描いていたときのことを。


 あまりにも熱心に、悩みながら描いていたので、グリムスは苦笑しながら声をかけたのだ。リャオと仲がいいんだな、と。

 ルシカは手をとめて、照れくさそうにうなずいた。

「リャオははじめての友達だから」

 このままリャオが目を覚まさないのではないか、という不安もあったのだろう。このころ、ルシカはいつも怯えたような目をしていた。

「早く目が覚めてほしい。リャオと話したいな」

 切望するような声音に、グリムスは思わず「まるで恋人だな」と言うと、ルシカも苦笑した。

「まさか。――でも、これからも一緒にいたいっていうのはあります。色んなものを見て、一緒に生きていけたらって」


 とても遠い日のことに思えた。まだ数日しか経っていないはずなのに。

 やがて馬は見えなくなったが、グリムスはそこから動けずにいた。

 あの二人はこれからどんな軌跡を辿るのだろう。ルシカは腕を失わずに生き延びられるのか?父とは再会できるのだろうか?そして、リャオは?

 グリムス自身は持つことができなかった強い意志を持った二人の少年の行く末を、グリムスは暗闇の中に見出していた。

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