第11話 初恋

 王都には,王家ローバルト家とゆかりのある三つの貴族の城がある。

 兵をつかさどるクリスタイン家。財政をつかさどるアーラトン家。教育をつかさどるロンカレラ家だ。王家はこの三つの一族と協力しながら国を治めている。

 ルシカ達が情報屋だと思っていた二人・・・ハミルとニックは,クリスタイン家の当主と側近だった。

 ハミルはまだ二十五歳だったが,父が亡くなったため,一人息子であるハミルがクリスタイン家の当主となったのだ。

 クリスタイン家の城は,位置としてはシンシア城の西側にある。


 城に戻ったハミル達を,鎧姿の兵達が頭をたれて迎えてくれた。

「お帰りなさいませ,ハミル様」

 強靱な武人達が華奢でまだ若いハミルに頭を下げている光景は,何度見ても慣れない・・・ハミルの後ろを歩きながらニックは思う。

 だが,ハミルはこの中で誰よりも強い。体力や力で劣る分,彼は戦略で優れていた。頭をつかって敵の弱点を素早く見つけ出し倒す,頭脳派なのだ。

 皆それを知っているから,心からハミルに忠誠を誓っている。


 自室に戻ったハミルは,柔らかな長椅子に身をあずけた。一週間の旅で疲れるなんて,武人として失格だな,とハミルは自嘲気味に思う。

「どう思った,ニック?」

 ハミルは扉の近くに折り目正しく立っている側近に声をかけた。彼はきびきびと応える。

「やはり,何か変ですね。三の区印刷場やチャレ道の駐屯兵がいなくなっていること。一の区の不可解な爆破事件。そして,森のいくつかの村が壊滅状態であり,住民が消えているということ・・・あちこちで異常な出来事が起きすぎています」

「うん・・・それが全く議題にあがらないっていうのが,一番問題だよな。ラウガ王子は定期的に巡遊されているのに,この事態に気づいていらっしゃらないなんて・・・」

「――やはり,ラウガ王子には・・・」

「ああ。何かある」

 ハミルの優しげな瞳が憂いに翳った。

 ラウガはよく国をまわり,民の様子を見て動く方だ。巡遊中に,川でおぼれている子どもを自らの手で助ける等,国民の心を掴むエピソードも数々ある。厳粛だが心優しく,国民から慕われていて,「さすがザハラ国王の血を引くお方だ」「ラウガ王子も国王と同じく,この国を平和に治めてくれるだろう」と噂されている。

 だが,ハミルにはそれはラウガの表の顔に見えて仕方がなかった。


 そう思ったきっかけは,五年前の父の死だった。

 父はある日,朝食を食べている最中に突然苦しみだして亡くなった。どれだけ調べても原因は全くわからなかった。

 だが,ハミルは父が死ぬ前日の夜,厨房で男が一人,朝食の材料の側に立っているところを偶然見ていた。記憶力の良いハミルは,その男が以前ラウガ王子が城を訪ねたときにいた護衛兵の一人だとすぐにわかった。

(どうしてラウガ王子の護衛兵がこんなところにいるんだろう・・・?)

 疑問に思ったが,この頃はハミルもラウガを信じきっていたので,特に深く考えず通り過ぎてしまった。

 父が死んで初めて,あの兵に疑念を抱いた。

(あの男が入れたのが毒薬で,ラウガ王子がそれを命じたのだとしたら・・・父はラウガ王子に殺されたことになる)

 しかし,理由はまったくわからなかった。だが,注意深くラウガの動向を見ていると,疑念はさらに深まっていった。ラウガが国政に関わり始めた頃から,突然国の遺跡が焼失したり,教書の内容が変わったりした。

 それが全て「戦争」に関するものだと気づいたのは,クリスタイン家にある戦争の記録が保管されている倉庫が何者かによって放火された時だった。

 倉庫は全焼し,何も残らなかった。

(ラウガ様の仕業だ・・・)

 彼は戦争に関わるものを全て抹消しようとしている――そう確信した。

 そしてついに,二ヶ月前,ハミルも何者かに襲われた。

 夜,眠ろうと寝台に入ったときに突然誰かが窓から侵入し,小型の刃物を振り上げてきたのだ。ハミルは寝台の下に常に隠してある剣で応戦した。

 ちょうど扉の外で見張りをしていたニックも部屋に入ってきてくれ,不利を感じたのか刺客は再び窓から逃げていった。

 一瞬月明かりに見えたその姿はまだ幼い少年に見えた。



 父を殺し,戦争に関する記録を抹消し,ハミルをも殺そうとした・・・ラウガは一体何をしようとしているのだろうか。それを少しでもつかむために,ハミルはニックとともにこの一週間国をまわる旅をしていたのだ。

「ニック・・・僕は思うんだ。ラウガ王子は戦争を起こそうとしているんじゃないだろうか」

「・・・戦争?」

 あまりに突拍子もない話に,ニックは眉をよせる。ハミルは慌てて首をふった。

「いや,急にごめん・・・。ちゃんとそう思った理由を話すよ。まず,父上が殺され,僕も殺されそうになっただろう?もし僕が死ねば,クリスタイン家は当主を失う。そうするとクリスタイン家は実質的にラウガが掌握することになるんだ。国の兵の大半はクリスタイン家所属だ。ラウガはその兵力がほしかったんじゃないだろうか?」

「莫大な兵力を手に入れるために貴方を殺そうとしたと・・・?」

「ああ。・・・そして行方不明になっている兵や国民・・・彼らは戦争になった時のために,どこかで密かに軍事訓練をうけているんじゃないだろうか?戦争に関する記録が失われているのは,百年前の戦争のおぞましさを国民から遠ざけるため。一の区の爆発事件も,何かの意味を持っているのかもしれない・・・」

「戦争なんて・・・一体どこと?なんのために?」

 ニックの問いに,ハミルは首を振った。

「わからない。・・・僕のただの想像かもしれないけどさ。というかそうであってほしい。――戦争なんて,とんでもない」

 シンシアの兵は「力は敵を倒すためのものではなく,自分達を護るためのもの」という教えを受ける。また,クリスタイン家も莫大な兵力を持つ一族として,平和の尊さを骨の髄まで染みこむように教え込まれてきた。

 戦なき平和なシンシア王国は,我々クリスタイン家にかかっていると言っても過言ではない――それが父の口癖だった。

ハミルは瞳を閉じる。

(今,その平和がラウガ様の手によって壊されようとしているのか?)

「それで,どうするおつもりですか?」

 硬い声でニックに訊かれ,ハミルは「え?」と顔をあげた。

「仮にラウガ王子が戦争を起こそうなど画策されているのなら・・・大変なことです。ラウガ様に直接かけあうなり,行動をおこさねば・・・」

 ニックの言葉を,リャオはやんわりと手で制した。

「落ち着いてくれ。まだ確かなわけではないし,へたに動いて目をつけられても困る」

「しかし・・・!」

「戦争を起こすなんて不確かなことより,僕には大切にしなきゃいけないものがあるんだ。今回の旅でラウガ様が何かを企んでいることは濃厚になったから,もう少し様子を見て考えてみるよ」

 ハミルの逃げ腰な態度に,ニックは密かに歯がみした。

 ハミルは武術にたけ,頭もいいが,どこか憶病なところがある。慎重といえば聞こえはいいが,自分から率先して動こうとしないのだ。今回の旅だって,「ラウガ王子が気になる」と言いながら全く行動を起こそうとしない彼をニックが半ば強引に引っ張るかたちで決行したのだ。

 ハミルに仕えて十五年。ニックは彼を心から尊敬しているが,こういうところは気にくわなかった。というか,クリスタイン家当主として改善してほしい部分だった。

(・・・手遅れ,なんてことにならなければいいが・・・)

 ニックは暗澹たる心持ちで空を見上げた。




 三の区と二の区は“境界の五本木”という五本の大木で隔てられている。そこを通り抜け,ルシカとリャオは二の区に足を踏み入れた。しばらくは稲田が広がる田舎道が続いたが,歩いていくと徐々に民家や出店があらわれ,三の区の大市場通りのような大通りにでた。あちこちに屋台が出ており,人が行き来している。

 三の区と違うのはちらほらと魚をあつかっている出店があることだ。

「これが“サカナ”・・・」

 店先に並べられている様々な種類の魚を見て,ルシカは感嘆の声をもらした。隣のリャオがおかしそうに笑う。

「魚を見たのは初めて?」

「ああ・・・」

 父の物語で読んだことはあるが,実物を見るのは初めてだ。だが想像していた魚とほぼ同じである。

(思えば,実物を見たことがないのに絵を描いていたんだな・・・)

 きらきらと輝くうろこを見つめ,この魚たちが広大な海を行き来している様を思い浮かべた。

「兄ちゃん,魚を見るのは初めてかい。こいつは脂がのってて美味いよ」

 若くたくましい店主にすすめられ,丁度昼時だったこともあって,ルシカは赤身の魚を二匹買った。店主はその場で焼いてくれた。

 近くにあった芝生の広場で,ルシカとリャオは腰をおろした。季節はもう真夏で,じっとしていても汗がしたたってくる。

 串にささった魚にかぶりつくと,じゅわっと旨みが口の中に広がった。

「おいしい!」

「だろ?僕は肉より魚の方が好きだなあ」

 二の区は漁業の盛んなサン王国との交易場が近く,海鮮物が多く売られているらしい。

 二人は魚を食べ終わると,立ち上がった。

「じゃあ,さっき話した通りに」

「うん」

 二人は二の区に向かう間に,二手に分かれてみるのはどうかという話をした。その方が効率がいい。

「僕は向こうの方に行くから,ルシカはあっちの方を。夕の刻にもう一度ここで会おう」

「うん」

 ルシカはルトの似顔絵をもう一枚描いてリャオに渡し,二人は別々の方向に歩き出した。


 にぎわう大市場通りで店主や客,通り過ぎる人々に尋ねまわったが,誰もルトを見た者はいない。

(そもそも,二の区に来たのかもわからないんだよな・・・)

 途方に暮れかけた時,ふと思い出してルシカは背嚢から紙切れを取り出した。絵本の値段と売る場所を記した紙だ。

(『遠い国へ』・・・二の区コノンさんへ・・・)

 個人あてに売っているということは,コノンという人は父の知り合いのはずだ。父が二の区で行きそうな場所など知っているかもしれない。

 ルシカは父のことだけでなく,コノンについても訊くことにした。

 すると,薬草売りのおばさんがコノンという名前を知っていた。

「コノンさんはうちのお得意様さ。その路地をまっすぐ行って,左に曲がると家があるよ。この辺では一軒だけ煉瓦造りだからすぐわかるさ」

 ルシカは礼を言って,おばさんに言われたとおり住宅の並ぶ路地の方へ歩きだした。

 コノンの家はすぐに見つかった。白い石造りの住宅が建ち並ぶ中,その家だけは赤茶色の煉瓦造りだった。

「すいません」

 扉を叩くと,中から中年の女性が顔を出す。背が低く,ほっそりした人だ。

「何かご用ですか?」

 体格にぴったりのか細い声で尋ねられ,ルシカは答える。

「トレラ・アーレベルク・・・ルトの息子のルシカっていいます。コノンさんのお宅ですよね?」

 女性がうなずき,ルシカはあらかじめ手に持っていた絵本を見せた。

「これを頼まれませんでしたか?」

 女性はああ,と明るい表情になる。

「この前頼んだものだわ」

 絵本を差し出そうとすると,「さあ,入って」とうながされ,ルシカは家の中に通された。


 居間に通され,お茶まで出してもらい,ルシカは恐縮した。

「すいません,気をつかわせてしまって・・・」

 女性は笑って首をふる。

「いいのよ。いつも素敵な絵本をありがとう。今日はルトさんは一緒じゃないの?」

 その言葉に,ルシカは今まで何度も話してきたいきさつを話した。今までの人々と同じように,彼女も驚きと悲しみの表情を浮かべ,だが何も知らないと首をふった。

「父が二の区でよくここに行く・・・とかっていう話も知りませんか?」

「ごめんなさい,わからないわ・・・」

 毎度のこととはいえ,ルシカは落胆する。女性は申し訳なさそうにうつむいたあと,何かを決意したように顔をあげた。

「あなたが絵を描いていらっしゃるんですよね?」

 気持ちが沈んでいたルシカははっとしてうなずく。

「はい」

 彼女は何か逡巡したあと,思いきったように口を開いた。

「二階に娘がいるの。絵本を読んでいるのはあの子なのよ。会ってやってくれる?」

 ルシカは女性の真剣なまなざしをうけて,もう一度うなずいた。彼女はほっとしたように息をつく。

「ありがとう。・・・一緒に来て」

 ルシカは彼女に連れられ二階にあがった。階段をのぼりながら,女性は言う。

「あ,言い忘れていたけれど,私はレイ。娘はライラって言って,十五歳よ」

「俺と同じ年だ」

 思わず呟くと,あら,そうなの,とレイは微笑んだ。だが,その笑みが一瞬かげる。

「ただ,ライラは身体が弱くて・・・。外に出ることもできなくて,友達もいないの。あなたたちの絵本が大好きだから,きっと喜ぶわ。話し相手になってやって」

 ルシカは困惑しながらもうなずいた。

 二階の一番階段に近い部屋の扉をレイは優しくノックした。

「ライラ,入るわよ」

 すると中から「どうぞ」と可愛らしい声が聞こえる。緊張するルシカの前で,レイが扉を開けた。

 部屋の中には,女の子らしい花の装飾がなされた机と棚,淡い水色の寝台が置かれている。そして,寝台には一人の少女が横になっていた。

 ルシカの存在に気づき,ゆっくりと上体を起こす。

「その人は?」

 そう言ってこちらに視線をむける少女を見て,ルシカの心臓の鼓動は高鳴った。

 さらさらとした黒髪が胸のあたりまで揺れ,瞳は吸い込まれそうなほど深い赤褐色だった。

(か,可愛い・・・)

 今まで考えたこともない単語がぽんと頭に浮かんできて,ルシカはひっそりと顔を赤らめた。

「ルシカさんよ。いつもの絵本の,絵を描いていらっしゃる人」

「えっ・・・!」

 レイの言葉に,ライラはぱっと瞳を輝かせて身を乗り出した。だが,目があった瞬間,彼女は口に手をあてて咳き込んだ。

「ライラ!」

 レイが寝台にかけより,彼女の小さな背中をさすった。ライラは咳が落ち着くと,胸をさすりながら顔をあげる。

「はじめまして。私はライラ。会えて嬉しいわ」

 彼女が手を差しだし,その場に立ち尽くしていたルシカはどきまぎしながら寝台に近づき,その手を握った。彼女の手は燃えるように熱く,ルシカはぎょっとした。


 それからルシカとライラは,寝台に腰掛けて話をした。彼女の部屋の棚には,ルトとルシカの絵本がたくさん並べられている。

「こんなにたくさん読んでくれたんだね」

「うん。五年前にお母さんが三の区に行ったときに見つけて買ってきてくれたのがきっかけ。それからはずっと。今はもう直接届けてもらうようになっちゃった」

 ライラは無邪気に笑い,『森の向こう』をぎゅっと抱きしめる。五年前というと,ルシカが絵本作りを始めた頃だ。その頃からずっと読んでくれているのだと思うと,ルシカはくすぐったいような気持ちになった。

「私,家からあまり出たことがないんだけど,この絵本のおかげで外に出た気分になれるの。街も森も空も・・・全てをこの目で見た気がする」

 彼女の言葉にルシカはうなずいた。

「父さんの物語にはそういう力があるから」

 そう言うと,ライラはちょっとびっくりしたように顔をあげる。ルシカが首をかしげると,彼女は「なんでもない」とつぶやき,ルシカを見つめた。

 ルシカは緊張していた。思えば同じ年くらいの異性と話したことは殆どない。隣からふんわりと頬を撫でるような香りが漂うたび,身体がこわばった。

 おかげで,こちらから話題をあげることもできず,彼女が何か話しかけてくれても生返事しかできなかった。


 やがて,夕の刻を告げる鐘が鳴り響く。ルシカははっとして腰をあげた。

「どうしたの?」

「もう行かなきゃ」

 ルシカが急いでいる様子を察したのか,ライラはそこで会話をきりあげた。

「今日はありがとう,ルシカ」

 名を呼ばれ,どきりとしながらもルシカはうなずく。

「俺の方こそ。――また来るよ」

 思わずそんな言葉が出て,ルシカは慌ててつけたした。

「絵本を持って,父さんと一緒に!」

 ライラはきょとんとしたあと,にっこりと笑う。

「待ってる」


 レイにも挨拶をして,ルシカはコノン家を出た。 

 茜色の空に煙はあがらない。ルシカはリャオと待ち合わせをしている広場へ走った。




 時間の経過とともに,身体の傷が癒えていくのをルトは感じていた。

 一人で用足しにもいけるようになったし,白布もとれてきた。だが,足の骨折は治らないし,背中一面の大火傷の痕は生々しく残っている。

「この火傷の痕は多分消えません」

 サマンナに言われ,ルトは苦笑した。

「熱湯をかけられたんだ」

 普段は無口なルトだが,部屋から一歩も出られず,話す相手はサマンナくらいしかいないので,ついしゃべってしまう。

 だが,何日経ってもサマンナは心中を微塵も覗かせない。氷のはった湖面のような冷たい態度だった。そんな幼い少女らしからぬ様をくずしたいという気持ちもルトの中にはあった。

「ずっと思っていたのですが」

 ルトの足の具合をみながら,サマンナは言った。

「え?」

「こんな酷い目にあってまで,自分の子どもを守ろうとしたのに」

 サマンナはルトの方を見ない。

「どうしてラウガ王子の仰るとおりになさらないのですか?」

 ルトははっと顔をこわばらせた。彼女は手をとめず続ける。

「ラウガ王子の仰るとおりにすれば,貴方も子どもも助かるのに」

 サマンナは手当を終え,道具類をまとめて立ち上がった。

「親なら,最後まで子どもを守るべきだと思います。たとえその結果何がおきたとしても」

 それはあまりに切実な響きだった。ルトは何も言えず,彼女が出て行くのを黙って見ていた。

 ぱたん,と扉を閉められ,ルトはため息をついた。

 父親として,ルシカを守ることを一番に考えなくてはならない。

 では,守るとはどういうことなのだろうか。




 広場の近くの宿に泊まったルシカとリャオは夕食後,部屋で話をしていた。

 リャオも特に父に関する情報は得られなかったらしい。ルシカはコノン家のことを説明した。ルシカから話を聞き終わるなり,リャオはにやっと笑う。

「ルシカ,そのライラって子に恋したんじゃないか?」

「はあ!?」

 ルシカはぎょっとした。リャオはにやついたままだ。

「なんかその子の話をする時いつもと違うし」

「ば・・・そんなわけないだろ。会ったばっかりだし。そんなことより父さんを捜さなきゃ」

「その父さん捜しをすっぽかして可愛い女の子と二人で話し込んでたのは誰だよ?」

「うっ・・・」

 ルシカは言葉につまり,そっぽを向く。リャオは先より少し柔らかく笑った。

「でもいいと思うよ,そういうの。ずっと気を張ってお父さんを捜してたら参っちゃうだろ。あ,どうせなら明日も会いにいけば?」

「行かないよっ」

 ルシカはふくれっ面をしたが,確かに心の中には彼女の笑顔やともに過ごした時間が甘い幻のように残っていた。



 そして次の日。ルシカは再びライラと遭遇することになる。

 リャオとともに大市場通りを歩いているとき,小物屋をのぞいている少女をルシカは見つけたのだ。

 考えるよりも先に,身体が動いた。

「ライラ!」

 人波に逆らい,彼女のもとに来ると,ライラも驚いたように目を見はる。

「ルシカ」

 にぎわう通りの中で,彼女だけが不思議な静けさを身にまとっていた。

「また会えたね」

 彼女の笑顔に,無意識に頬を赤らめながらも,ルシカは眉をよせた。

「外に出て大丈夫なの?身体は?」

「今日は調子がいいから大丈夫」

 そう言って,ルシカの後ろにいるリャオを見とめる。

「ルシカのお友達?」

 後ろから見守るようにして立っていたリャオは一歩前に出る。

「リャオっていうんだ。よろしく」

「ライラ・コノンです」

 二人は握手する。一瞬,リャオの目元が歪んだ。だが,すぐにリャオは明るい笑顔を見せる。

「んじゃ,僕は昨日と違う場所を捜してくる。ルシカ,夕の刻に昨日の広場で会おう」

 そう言ってそそくさと去っていくリャオをルシカはうらめしく思った。

(リャオ!)

 気を遣っているつもりなのだろうが,二人きりにされたって困るのだ。

「お父さんを捜しているのでしょう?」

 ライラに話かけられ,ルシカは少し肩をはねあげる。

「う,うん・・・」

 彼女は気遣わしげにこちらを見つめる。悲しそうに眉を下げる彼女を見て,そんな顔にさせてしまうのがすごく申し訳なく思えてくる。

「でも,今日はいいんだ」

「え?」

「人がいっぱいいて危ないから,一緒に行こう」

 するりとそんな言葉が出てきて,自分でびっくりした。

 ライラは目をぱちくりとさせたあと,花が咲いたように笑ってくれた。

「うん」


 にぎわう大通りを二人は歩く。

 外出が久しぶりな彼女は,目に入るひとつひとつのものに驚き,喜んでいた。

 ルシカとライラはあまり話さなかった。だが,何か発見するたび,嬉しそうな笑顔でルシカを見るので,ルシカも自然と微笑みを返した。


 ライラの様子がおかしくなったのは,昼時だった。

 歩くペースが遅くなり,顔色も悪い。

「大丈夫?ちょっと休もうか」

 ルシカが尋ねても,彼女は大丈夫と笑った。だが,心配だったので,近くの路地裏に入った。

 やはり無理をしていたらしく,壁にもたれかかったとたんライラはその場に座り込んだ。

「家に帰った方がいいんじゃないか?」

 ルシカが声をかけても,彼女は穏やかに首をふるだけだった。

 しばらく黙って座っていたが,やがてライラは冷や汗をかいた顔をあげ,潤んだ瞳でルシカを見つめた。

「ねえ,どうしてルシカは絵を描いているの?」

 真っ直ぐな瞳で見つめられ,ルシカは一瞬言葉につまる。

 ただでさえ話すのが苦手なのに,彼女を前にするとよけいに言葉が出てこなくてもどかしい。

「えと・・・,母さんが絵を描いてたんだ。俺はそれを真似して描きはじめたのがきっかけかな。母さんは父さんの物語に絵をつけてたんだけど,死んじゃって・・・」

 そこでルシカははっとした。

 母が死んで,どうして自分は母の代わりに父の物語に絵をつけたいと思ったのだろう。今はもう当たり前のことになっていて,五年前にそう決意したときの記憶が薄れていた。

「・・・死んじゃって,俺が父さんの物語に絵をつけるようになったんだ」

 ルシカの話を聞くと,ライラは「そうだったんだ」と静かにつぶやいた。ルシカは彼女の顔をまともに見ることができなくて,どんな表情をしているのかわからなかった。

「・・・ライラのお母さんは,優しそうな人だったね」

 ルシカが話題を変えると,ライラは夢みるような声音で応える。

「優しいよ」

 あまりにも甘い声音で,思わずルシカは彼女の顔を見た。ライラは微笑んでいる。ルシカがその先の言葉を待つように黙っていると,彼女はぽつぽつと話をしてくれた。

 五歳の時,心臓の重い病気にかかったこと。それがもう一生治らないものだと知り,重荷に感じた父は家を出て行ったこと。それからはずっと母が女手一つで育ててくれたこと。

 ライラの話を聞きながら,ルシカは胸がしめつけられるような思いがした。彼女の,そして彼女の母の穏やかな笑顔の裏には,どれほどの苦労があったのだろう。

「お母さんがいてくれたから,私は今ここにいられるの」

 優しく儚げに微笑むライラを,ルシカはふいに抱きしめたくなった。初めての衝動に,ルシカは戸惑い,「そっか」と相づちをうつことしかできなかった。

「・・・あのね,ルシカ」

「ん?」

 ライラは真剣なまなざしをルシカに向ける。それは「娘に会ってほしい」と頼んできたレイにそっくりだった。

「お願いがあるの」

 ライラはためらうようにうつむいて,口を開く。

「絵を描いてほしいの」

「絵?」

 どんなお願いをされるのかどきどきしていたルシカは予想外の言葉に声が裏返った。

「うん・・・。でも,私お金持ってないから・・・」 

 そんなことを言われ,ルシカは慌てて首を振った。

「そんな,別にお金なんていいよ。・・・どんな絵がいいの?」

 ライラは申し訳なさそうに眉を下げながら「ありがとう」と言った。そして顔をあげる。

「あのね,幸せになれる絵。・・・見ていて,幸せな気持ちになれる絵」

 ルシカは目を瞬かせた。

「それ・・・,ライラは幸せじゃないの?」

 ライラはふるふると首を横に振る。

「私はすごく幸せ。・・・だから,描いてほしいの」

 彼女の真意は読み取れなかったが,そのあまりに真っ直ぐな表情を見て,ルシカはうなずいた。

「わかった」

 彼女はほっとしたように息をついて,もう一度「ありがとう」と言った。




 机に向かってわき目もふらずに紙綴り(クロッサ)に絵を描いているルシカをリャオはただ眺めていた。

 近くの宿に泊まりたいとルシカが言って,結局昨日と同じ宿に泊まった。そして部屋に入るなり,ルシカはすぐさま絵を描きだした。なんでもあのライラという少女に頼まれたらしい。

「幸せってことは・・・,多分明るい雰囲気の方がいいんだよな・・・――ああ,でもこうじゃない!」

 ルシカはぐりぐりと絵を塗りつぶして,次のページに描きはじめる。もう三回目だ。

 その様子を見て,リャオは苦笑した。

「ルシカってわかりやすいよな」

 そうつぶやいても,ルシカは「え?」と聞き返すだけだった。リャオは「なんでもない」と言って立ち上がる。

「僕は夕飯食べに行くけど,ルシカは?」

「今いいや。先行ってて」

「わかった」

 リャオは肩をすくめて部屋を出た。

 いつもなんの迷いもなく絵を描いているルシカがあんな風に悩む姿は初めて見た。

(きっとあの子のためなんだろうな)

 俺,多分誰かのために絵を描いているわけじゃない――三の区でルシカが言っていたことを思いだして,リャオは感慨にふける。

(・・・でも,多分あの子は・・・)

 ライラと握手したときのことを思い出して,リャオの表情は曇った。だが,頭に浮かぶ悪い考えはすぐに打ち消して,リャオは一階に下りた。


「あー,難しい・・・」

 ルシカは途中まで描いた花の絵を上から容赦なく塗りつぶす。

 こんなに絵を描くことにつまったのは初めてだ。今まではただ自分の思うままに木筆(ロッタ)を動かせばいいだけだったが,今回はそうはいかない。見る者・・・ライラのことを考えながら描かなくてはならない。・・・だが,それは不思議と苦ではなかった。

 ルシカはひとつ大きく伸びをして,再び机に向かう。

 

 それから二日間のことを,ルシカはよく覚えていない。ただ,絵のことだけを考えていた。食事や入浴や睡眠をどうしていたのかも全く思い出せない。後から聞いたリャオの話によると,「ずっと上の空で何を話しかけても反応しない」状態だったらしい。リャオは食事を持ってきてくれたり宿泊を延長してくれたり,父の捜索を続けたりしていてくれた。

 そんな生活も三日目を迎えた。

「これも違う・・・」

 再び手が止まったルシカは,立ち上がりごろりと寝台に横になる。

(見ていて幸せになれる絵ってなんだろう・・・。ライラの幸せって・・・)

 外に出たことが少ない彼女は“外”の世界を見るのが幸せだろうと思い,花や森や街や空を描いたが,どうもぴんと来ない。

 ルシカはライラを思い出した。ずっと優しく微笑んでいた少女。胸に甘く染みわたるような切なさが溢れた。

 きっと身体も苦しくて,つらい思いだってたくさんしてきただろうに,どうして彼女はあんなにも笑顔でいたのだろう。

「・・・あ」

 その時,ルシカの心に一筋の光がよぎった。

「そうか」

 ルシカは起き上がり,広げっぱなしの紙綴り(クロッサ)に向かう。これで良いという確信と熱い衝動のままにルシカは木筆(ロッタ)を走らせた。一度心に描ければ,紙に写すのは速かった。

「・・・できた!」

 ルシカは木筆を置いた。完成した絵をまじまじと眺める。気持ちが昂ぶっていて,鼓動が高鳴っていた。

(きっと喜んでくれる)

 ルシカはその絵を丁寧に紙綴りから切り取る。

 そして一刻も早くライラに届けたいと,部屋をとびだして走り出した。



 二人で街を歩いたあの日。

 ルシカは彼女を家まで送っていった。

「たくさん話せて,すごく嬉しかった」

 彼女はそう言ってくれた。ルシカも嬉しくて,でもそれをうまく表現できなくて,ただはにかんでうなずいた。

「絵,できたら持ってくるよ」

 彼女は少し申し訳なさそうに,でも嬉しそうに笑んだ。

「ありがとう。――待ってるね」

 夕陽の淡い光に包まれた笑顔は,とても綺麗だった。



 水色の寝台は,あの日と同じ夕焼けの光がさしていた。

 そこで穏やかに眠る彼女の寝顔はやっぱり綺麗だった。

「ライラ」

 寝台の傍らに立ち,彼女を見つめていたルシカは,そっと彼女の頬に触れた。ずっとこうしたかったんだと気づいた。

――ごめんね。

 脳裏に母が死んだ日の記憶が甦った。亡くなった母の側で声を押し殺して泣いている父の姿を。

「ライラ」

 ぽん,と肩をたたかれる。ふりかえると,レイが立っていた。諦めたような,なぐさめるような悲しげな笑みをうかべている。

 いつの間にか床に絵を落としていたことに気がついた。

 

 コノン家を訪れたルシカを迎えたレイは言った。

 ――ごめんね,ルシカさん。せっかく来てくれたのに。ライラは今朝,息をひきとったの。とても静かで穏やかな最期だった。



 レイが出してくれたお茶に手を伸ばす力も入らなかった。

「ライラ,あなたと話せてとても楽しそうだった。これまで絵本もたくさん・・・本当にありがとう」

 レイはとても落ち着いていた。穏やかに頭を下げる彼女を,ルシカはぼんやりと見つめていた。

 ライラがもういないという事実がうまく実感できない。

「私もライラも,これが最期の夏になるってわかってたのよ。私もライラも覚悟していた。・・・あの子は頑張ったわ。身体が苦しくても,一人で寂しくても,ずっと笑って頑張ってきた。――だから,もういいのよ」

 私はすごく幸せ。

 そう言って微笑んだあの時,彼女はもう全てわかっていたのだ。

(ああ・・・,そうか)

「私はあの子に何もしてあげられなかったけれど,あの子は最期まで“ありがとう”って,言ってくれた・・・」

「ライラは」

 ルシカはレイの言葉をさえぎる。

「“お母さんがいてくれたから,今ここにいる”って言ってた」

 ずっと持っていた紙を,ルシカはレイに見せた。

「見たら幸せになれる絵を描いてほしいって言われたんだ。自分は幸せだから,だから,幸せになれる絵を描いてほしいって」

 それは,ライラとレイが大木の木陰で穏やかに微笑みあっている絵だった。

 ライラの幸せを考えたとき・・・それは母であるレイとともにあると思った。

「きっと,ライラはそれをあなたにあげるつもりだったんだ。自分がいなくなっても,あなたに幸せでいてほしくて」

 レイの瞳に涙がうかんだ。そっと手をのばし,絵の中で微笑むライラを撫でる。

「馬鹿ね」

 彼女の頬を雫が伝う。

「ライラがいなくなって,幸せになんてなれるはずないのに」

 レイは涙を流しながら,その絵を抱きしめた。

 そしてルシカを見つめる。

「あのね,ルシカさん。・・・実はライラも私も,字が読めないのよ」

「え?」

「私の子ども時代は就学義務なんてなかったし,ライラは身体のせいで学舎に通えなかったから・・・」

 ルシカは目を見はった。

「でも,ずっと絵本を買ってくれて・・・」

「ライラはずっと絵だけを見て楽しんでたのよ」

 その言葉に,とんっと胸の真ん中を押されたような気がした。

 ただ横になっていることしかできない娘を何とかしてあげたいと思って,レイが見つけたのがルトとルシカの絵本だった。絵だけでも十分楽しめると判断したレイは,それをライラに買ったのだ。彼女はそれをとても喜んだ。文字が読めなくても,毎日のようにその絵本を眺めていた。

「この絵を描いた人に・・・あなたに会いたいって言ってた」

 ――こんな素敵な絵を描く人はどんな人なんだろう?きっとどこか寂しくて,でも優しい人だと思うの。

「そして,あなたと初めて話した日,今までで一番幸せそうだった」

 ――お母さん,私,外に出たい。一人で外を歩いてみたい。

   もう,最期の夏だから,あの人が見せてくれた外の世界を自分の目で見てみたい。

「身体だって苦しかっただろうに・・・,それでも外に出たあの子は,偶然もう一度あなたに会えて,どれほど嬉しかったことでしょう」

 ルシカと街で過ごした日の夜,ライラはいつもよりおしゃべりになったという。

――ルシカのおかげで,私はたくさん救われたのに,それをちゃんと伝えることができなかった。

「あなたのことが,好きだって言ってたわ」

 ――お母さん,不思議だね。私,恋がどんなものかも知らないのに,ちゃんとわかるのね。この人を好きになった,って。


 涙があふれた。ルシカは片手で顔を覆った。

 もっと楽しい話をしてあげられればよかった。自分もちゃんと好きだと伝えるべきだった。

 涙とともに,後悔と悲しみがあふれ,どうすることもできなかった。




 夕の刻の鐘が鳴り響いた。ルシカは空を見上げる。煙なんてどこにもあがらない。

(父さん,俺,思い出したよ)

 夕焼けに染まる人通りの少なくなった大市場通りをルシカは一人歩いていた。

「ルシカ」

 名を呼ばれ,ルシカは顔をあげる。そこにはリャオが立っていた。

 彼のいたわるような優しい笑顔に,ルシカがなんとか胸におしこめていたものが爆発する。

「リャオ・・・」

 ルシカはふらふらと彼のもとまで歩み寄り,彼の肩にもたれかかるように額をつけた。涙が頬を伝い,ルシカはむせび泣いた。

 リャオは黙ってそれを受けとめた。何が起きたのかは察しがついていた。ライラの手を握ったとき,その手はあまりにも熱く,薬指と小指は麻痺していた。もう彼女は長くはないと感じていた。

 ルシカは息が苦しくなるくらい泣いた。


 父さん,俺,思い出したよ。

 母さんが死んでしまったとき,どうして母さんの代わりに父さんの物語に絵をつけたいと思ったのか。

 俺の絵を見た人に,幸せになってほしかったからだ。

 母さんの絵で,父さんの物語で,俺が幸せになれたように。

 父さんの物語に絵をつけたかっただけじゃない。誰かを幸せにできる絵を描きたいと,俺は思ったんだ。


 それは,五年越しに思い出した,ルシカの最初の願いだった。

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