第9話 女主人の宿

 ラウガは自室で大きな窓の外を見ていた。だが,見飽きたシンシアの風景など目に映っていなかった。

(リャオ・・・なぜ戻って来ない・・・)

 彼がもう一人のトレラを捜しに行ってから二週間近く経つ。国中から一人の人間を捜し出すのだから時間がかかるのは当たり前だった。だが,あまりに長引く場合は必ず何かしらの方法で連絡をしてくるはずだ。

(まさか何かあったのか?あのリャオに限って・・・)

 もし彼に何かあったのなら,トレラを捜す人物を別の者にわりあてなくては。

 リャオ自身の安否は全く気にせず,ラウガは自分の計画のことだけを淡々と考えていた。

 扉がノックされる。一瞬彼かと思ったが,入っていたのは大臣の一人だった。

「ラウガ様,そろそろお時間です」

「ああ,わかっている」

 明後日,サン王国の国王との会談があり,セバ山脈の国境近くにある会談の間まで行かなくてはならない。

 ルトはサマンナに頼んでいるから大丈夫だろう。他の者達にばれぬようにうまく軟禁してくれるはずだ。

 冷静に頭を働かせながらも,ラウガの心はどこか落ち着かなかった。部屋を出るとき,一瞬リャオの笑顔が脳裏に浮かぶ。

 リャオはラウガ以外に本当の笑顔は見せない。

(・・・だからなんだというのだ)

 ラウガはすぐに思考をきりかえ,広い廊下を歩き出した。




「布団だー!」

 部屋に入るなり,リャオは部屋の奥にある寝台にとびこんだ。ぼすんっとリャオの体重分寝台はきしむ。

「うるさいよリャオ・・・」

 あきれながらルシカも部屋に入る。決して広くないし,質素だが清潔でしっかりした部屋だった。

「では,夕飯の支度がととのったらお呼びしますね」

 ここまで案内してくれた女性がくすくす笑ってそう言う。二人が礼を言うと「ごゆっくり」と頭を下げて部屋を出て行った。

「いい宿がとれて良かったな,ルシカ」

 布団の上をごろごろしながらリャオが言い,ルシカも部屋の隅に背嚢を置きながら相づちをうった。宿泊料は前払いだったが,安かったのでまだ十分に懐はあたたかい。

 ここは三の区にある宿の一つだ。日が完全に暮れるまで印刷場に向かって歩き続け,どこかの宿に泊まろうという話をして,ここを見つけたのだ。

 先の女性はここの女主人で,ルトと同じ三十代半ばくらいの肩で髪を切りそろえた綺麗な人だった。

「地べたで寝るよりこっちのほうが断然いいよね。安全だし」

 なおも寝台に身を沈めるリャオに言いながら,ルシカは背嚢を開け,一冊の絵本を取り出した。

「何見てんの?」

 リャオがむくりと起き上がる。

「『狩人の話』。これ,三の区のクランバーノさんに届けるものなんだ」

「へえ・・・,どこの誰だか知ってるの?」

「・・・わかんない」

 ルシカの言葉にリャオは「じゃあ届けられないじゃん」と肩をすくめた。ルシカは床に座って絵本を開く。

「でも,父さんの絵本を待ってる人がいるなら,届けるべきなのかなって・・・」

 今までは絵本を読んでくれる人に興味がなかったが,コロノ村の村人や,クレン・・・本を読んでくれている人々に実際会ってみると,それも少しずつ変わってきた。

「まあ,それも大切だけど,ルシカの父さんを見つけるのが先だろ?」

「うん・・・」

 リャオの言葉に,ルシカは曖昧にうなずく。二人は道を行く途中,通りすがりの人々にルトのことを訊いていった。ルシカはルトの似顔絵を描き,それを見せて尋ね歩いたのだ。

 だが,誰一人としてルトのことを見かけた者はいなかった。

「お父さんが出かけてからもう何日も経ったんだし,あれだけ人通りが多いんだから,仕方ないよ」

 リャオはそう言ってくれたが,ルシカの胸にはある不安が芽生え始めていた。それを考えたくなくて,絵本で気を紛らわそうとしているのかもしれない。

「それはどんな話なの?」

 リャオが寝台から起き上がり,ルシカの隣に来る。ルシカはリャオにも見えるように絵本を開く。

「森に住む狩人が,獣を狩っていく話だよ」

 一人の男が手に弓矢を持ち,森を歩いている絵が載っている。相変わらず森の絵は息をのむほど深く美しく,今にも吸い込まれてしまいそうだった。

「最後の方の,自分よりもずっと大きな熊と闘う場面は,本当にはらはらするんだ」

 そう言って楽しそうにページをめくるルシカの横顔をリャオは見つめる。

(ほんとにすごいな,ルシカは・・・)

 他の人とは違う,天性の絵の才能を持ちながら,全くその自覚がない。

「なに?」

 見られていることに気づいたルシカは首をかしげたが,リャオは「なんでもない」と言って絵本に視線を戻す。

「でもさ,この話を最初に読んだとき,不思議な感じがしたんだ」

 ルシカがつぶやき,今度はリャオが首をかしげた。

「不思議?」

「うん。この狩人をね,知っている気がするんだ。どこかで会ったことがあるような・・・」

「本の中の人なのに?」

「うん・・・」

 ルシカは本の中にいる,大熊と対峙する狩人を指で撫でた。父さんに訊いてみようと思って忘れていた。

 と,その時,薄い木の扉が叩かれる。扉が開き,先の女主人が顔を出した。

「夕飯の準備ができましたよ」

 おっとりと声をかけられ,ルシカとリャオは返事をして一階に下りた。


 一階の食堂には割と人がおり,がやがやとにぎわっていた。家族連れで楽しそうに談笑している人達もいれば,一人で酒を飲んでいる人もいる。

 四人がけの卓が三,四つ,二人がけの卓が五,六つ殆どうまっていた。夕食時を過ぎたためか,食事をしている人はほとんどいない。二人は端の方にある二人がけの席に案内された。

「今,料理をお持ちしますね」

 おっとりと小さな・・・それでも喧騒の中でもはっきりと聞こえる声で女主人は言い,厨房とおぼしき方へ歩いていく。他に働いている人は見当たらない。あの女性一人できりもりしているのだろうか。

「あの人一人でやってるのかな。すごいな・・・」

 ルシカがつぶやくと,リャオが女性の歩いていった方を見ながら言った。

「でも見た感じ,一階と二階合わせて十部屋くらいだし,一人で十分だと思うよ」

「ええ・・・」

 一人で十部屋掃除したり,何人もの食事を用意するなんて考えられない。あんなに穏やかそうな人がそんなに働いているところは想像がつかなかった。

 やがて,女性が大きなお盆に二人分の料理をのせて運んできてくれる。

「これは鹿肉と野菜の炒め物。これは鶏肉と卵のスープで,こっちは季節の野菜の盛り合わせ。あと御飯ね」

 流れるように説明し,二人分の食事を丁寧に並べてくれた。並べ終えると,彼女は顔や腕に白布をあてている二人を心配そうに見つめる。

「さっきから思っていたけれど,二人とも怪我をしているのね。白布も薬もあるから,とりかえたいときはいつでも声をかけて」

「あ・・・ありがとうございます」

 二人がどきまぎしながら礼を言うと,女性はにっこりと笑んでその場を離れた。

「癒し系だな」

 リャオの言い方に,ルシカは吹き出しながらうなずいた。

「うん。なんか母親っぽいよね」

ルシカの相づちに,リャオはさっそく鹿肉にかぶりつきながら尋ねる。

「そういえば,ルシカの母さんはどうしているの?家?」

「ううん。死んじゃったんだ。病気で。俺が十歳の時に」

 ルシカが野菜を頬張りながらさらりと言うと,リャオはしまった,というようなきまりの悪そうな顔をする。ルシカは苦笑した。

「そんな顔しないでくれよ」

 リャオはそこから何を言っていいのかわからないという様子だったので,ルシカが話題を広げる。

「もともと,父さんの物語に絵をつけていたのは母さんだったんだ」

「・・・へえ」

 ルシカがあまり傷ついていないことに安心したのか,リャオは顔をあげ,目を瞬かせた。

「どんな人だったの?」

「優しくて穏やかだったけど,けっこうなんでもすぱすぱ言う人だった気がする。さっぱりしてるっていうか・・・強い人だったな」

 いつの間にか,こんなにも母の面影が薄れている。そのことにルシカは内心驚いた。

「いつも絵を描いてた。父さんと絵本のこと話し合ったり。母さんの膝の上で,たくさん絵本を読んでもらったな」

「そうなんだ・・・」

 リャオの優しげな,どこか羨望の滲む視線に気づいて,今度はルシカが慌てて話をやめた。リャオは記憶がないのに,こんな自分の思い出話をして不謹慎だっただろうか。うつむくルシカに,リャオはあはは,と短く笑い声をあげた。

「今度はこっちの台詞だな・・・,“そんな顔しないでくれよ”」

 ルシカは顔をあげてちょっとはにかんで肩をすくめた。二人は食事を再開する。鹿肉の少し固めの歯ごたえがとても懐かしかった。二人とも食事に集中し無言になると,自然と周りの声が聞こえてくる。

「ここの宿は初めて来たが,なかなかいいところじゃないか」

 声のする方をちらりと見ると,隣の卓に座っている中年の男二人が,酒を飲みながら話していた。

「宿代も安いし,料理は美味いし」

 男の一人が自分の酒皿に酒を注ぎながら言うと,もう一人が少し声を低めて言う。

「だけどな,この宿にはある噂があるんだ」

「うわさ?」

 男がさして興味もないようにくり返す。ルシカとリャオは二人の会話に耳をかたむけた。

「この宿には幽霊がでるんだとよ」

「はあ?」

「夜中になると,どこからともなく女のうめき声が聞こえるらしい」

「本当かよ・・・,あの女主人が泣いてるんじゃないのか?」

「まさか。あの脳天気そうなクランバーノさんが,そんな夜な夜な泣くわけないだろ」

 幽霊話を気味悪く聞いていたルシカとリャオは互いに顔を見合わせた。

「今,クランバーノさんって言ったよね?」

 ルシカの言葉にリャオはうなずく。二人は別の卓で客から注文をとっている女主人を見た。彼女はやはりおっとりとした物腰だった。



 真夜中近くなると,食堂もすき,ルシカとリャオを含め五,六人しか残っていない。彼女の手があいたのを見計らって,ルシカは近くを通り過ぎる彼女に思いきって声をかけた。

「あの」

「はい?」

 彼女は長時間働いているにもかかわらず,全く疲れを見せない明るい笑顔をむける。

「どうされましたか?」

 ルシカは食堂がすくのを待っている間に部屋からとってきた『狩人の話』を差し出した。深い森に男の後ろ姿が小さく描かれた表紙だ。

「この絵本を頼まれませんでしたか?」

 その絵本を見,彼女は「まあ」とおっとりと口元に手をあてた。まじまじとルシカを見つめる。

「あなた,誰かに似ていると思ったら,ルトに似ているんだわ」

 彼女は周りを見渡し,特に注文がないのを見とると,近くの椅子をひっぱってきて,ルシカたちの近くに座った。

「まだ名乗っていなかったわね。私はシャナ・クランバーノ。絵本を一冊欲しいとルトに頼んだのよ。どうもありがとう」

 シャナはそう言って微笑んだ。

「あなたたちのお名前は?」

 尋ねられ,ルシカとリャオは名前を名乗った。ルシカがルトの息子だとわかると,「じゃあ,あなたが絵を描いているのね」と目を輝かせた。

「ルトは?一緒に来なかったの?」

 シャナに無邪気に訊かれ,ルシカは顔を曇らせた。父が行方不明であること,彼を捜し旅をしていることを伝えると,さすがの彼女も眉をよせる。見ているこちらがいたたまれないほど悲しげな表情だった。ルトと同じ年くらいなのに,まるで少女のような女性だった。

「ここ最近,父さんを見かけたりしていませんか?」

「・・・いいえ。半年前に絵本を届けてくれてからは,一度も見ていないわ」

 シャナは本当に申し訳なさそうにかぶりをふると,何かを考えるようにうつむき,やがて顔をあげる。

「バルは,大丈夫?」

「伯父さん?」

 遠慮がちな質問に,ルシカは虚をつかれた。ここで伯父の名前が出てくるとは思わなかった。リャオは,誰?というような表情をしている。

「伯父さんを知ってるの?」

 その問いにシャナは懐かしむように目を細めて微笑んだ。

「ルトとバルと私は,二十年以上のつきあいなのよ」

 その言葉にルシカが驚いたとき,客の一人が「酒をくれ!」と叫んだ。シャナは返事をして立ち上がる。

「ちょっと待っててね」

 シャナが席をたった隙に,リャオはルシカに耳打ちする。

「バルって誰?」

「父さんのお兄さんなんだ。二十年来のつきあいって・・・どういうことなんだろう」

 父は三十五,伯父は四十なので,十五~二十歳の頃からの知り合いということになる。どうやって知り合ったのだろうか。

(そういえば俺,父さんや伯父さんの若い頃の話って聞いたことないな・・・)

 ルトやバルの方から話したこともないし,ルシカも尋ねたことはない。ずっと一緒にいたのに,それは少し淋しいことだった。

 やがてシャナが戻ってきて,ルシカに硬貨を何枚かさしだした。

「これ,絵本の代金ね」

「あ,ありがとうございます・・・」

 ルシカは遠慮がちにそれを受け取り,ためらいながらも口を開いた。

「あの,父さんと伯父さんと二十年くらいのつきあいって言ってましたよね?昔の父さんやおじさんってどんな感じだったんですか?」

 その問いに,シャナはちょっとびっくりしたように目を見開いた。

「バルやルトから聞いたことない?」

 ルシカはうなずいた。

「何も?」

「・・・はい」

 シャナは話してもいいのかどうか逡巡しているようだったが,話すと決めたらしくもう一度あたりを見渡してから席についた。

「・・・バルトルトは捨て子なのよ。幼い頃にローニャの森に置き去りにされたんですって」

 シャナのためらいがちな言葉に,ルシカは驚きのあまりかたまった。

(捨て子・・・父さんと伯父さんが・・・)

 確かに,祖父母というものにルシカは会ったことがないし,話すら聞いたことがなかった。

「突然両親に見放され,森に着の身着のまま放り出されて,二人とももう死ぬんだと思ったそうよ。でも,二人は生きた。・・・この頃のことを,二人ともあまり話そうとしないわ。本当に・・・想像もできないほど過酷なものだったのでしょうね・・・」

 シャナの表情が憂いに翳る。ルシカもリャオも何も言えず,彼女の話を聞いていた。

「私とバルとルトが出会った場所はここなのよ。二十年前・・・私はこの宿で父と母とともに働いていた。そこに,バルとルトが泊まりに来たのよ。たしか,バルは獣の肉や薬草を,ルトは物語本を売るために街まで来たと言っていた気がする」

 シャナが懐かしそうに目を細める。

「ルトは今よりも無口で無表情だった。バルは相変わらず明るかったけどね。でも・・・二人とも生きることに疲れているようだった。今でも覚えているわ。二人の,独特の雰囲気を」

(父さん,伯父さん・・・)

 自分が生まれる前・・・二人の人生にそんなことがあったのだ。シャナの声が少し明るくなる。

「私が悪酔いしたお客さんにからまれたところを,ルトとバルに助けてもらったのよ。二人と知り合ったのはそれがきっかけ。年が近かったこともあって,親しくなったの。それからも,街に来たときはよく寄ってくれるようになったのよ」

 ルシカが暗く,戸惑った表情をしていたので,シャナは励ますように笑んだ。

「ルトはナリィさん・・・あなたのお母さんに出会ってから変わったわ。穏やかで優しく笑うようになった。あなたが生まれてからはもっとね。・・・バルも,彼は弟の幸せを何よりも願っていたから,ルトの幸せを心から喜んでいたわ」

 だから大丈夫,というように彼女はルシカを見つめる。ルシカはそのまっすぐな視線を受け止めた。

「教えてくれて,ありがとうございます」

 いつも一緒にいてくれた人達の知らなかった一面を知って,ルシカの心は熱くなった。無性に父と伯父に会いたかった。


 やがて二人は部屋に戻ることにした。明日の朝早くには発ちたいので,眠っておかなくてはならない。

「おやすみなさい」

 シャナが柔らかく微笑んで挨拶してくれた。二人も挨拶して,部屋へ向かった。


階段の方へ歩いていく二人・・・ルシカを,シャナはじっと見つめていた。その後ろ姿はかつてのルトに似ていた。

 消息のわからないルト。森で一人で待っているバル。

 シャナはぎゅっと絵本を抱きしめた。

「ルト・・・バル・・・」




「あの人,何か隠してるな」

 部屋に戻り,寝台に二人並んで横になった時,リャオがつぶやいた。先の話を聞き,物思いにふけっていたルシカは,リャオの方を向く。

「隠してる?シャナさんが?」

「うん」

「何を?」

 そう訊くと,リャオはんー,とうなり,うつぶせになる。

「わかんないけど,何かを黙っている感じがした」

 そんな感じはしなかったけど・・・,ルシカは曖昧に相づちをうった。

「まあ,大人なんてみんな何かを隠してる感じするけどね」

 そうまとめてリャオは瞳を閉じる。互いにおやすみと言い合って,二人の会話は途切れた。


 だが,ルシカは眠ることができなかった。 

 隣から聞こえてくるリャオの寝息をルシカはぼんやりと聞いていた。シャナから聞いた,自分が知らない父と伯父の話を思い浮かべる。

(頭の中ごちゃごちゃだ・・・)

 旅に出てからこんなことばっかりだ。ルシカはそっと身をおこし,背嚢から紙綴り(クロッサ)と木筆(ロッタ)を取り出した。紙綴りをぱらぱらとめくる。羊を祈る塔,村の情景,チャレ道,酒場,リャオの笑顔,大市場通り・・・新しいページに何かを描こうとしたが,手が動かなかった。

(まただ・・・)

 旅に出てからこういうことも起こる。今まで紙と木筆を目の前にして絵が描けないなんてことなかったのに。

 ルシカはぱたんと紙綴りを閉じて立ち上がり,そっと部屋を出た。外に出て夜風にあたろうと思ったのだ。

 廊下は等間隔で灯りがともっているが,薄暗い。ルシカは内心少しおびえながら階段を下り,一階へ行った。

 暗い食堂を抜け,玄関へと向かっていくときだった。

「うう・・・」

「!?」

 突然どこからともなくうめき声が聞こえてきて,ルシカは縮み上がった。

(ど,どこから・・・!?)

 あたりを見渡す間にか細いうめき声は続く。女の人の声だ。だが明らかにシャナのものではない。先の男たちの幽霊話を思い出して,ルシカはぞっとした。

(へ,部屋に戻ろう・・・)

 そう思っても身体がうまく動かない。ルシカはその場に立ちつくした。だが,しばらくそうしていると,声の出所がなんとなくわかってくる。

(あの部屋か・・・?)

 客室の一番奥の部屋だ。なんとなく他の客室と雰囲気が違う。ルシカはおそるおそるその部屋に近づいた。恐怖よりも好奇心が勝ってきた。

 案の定,声はその部屋から聞こえてくるようだった。

 ルシカは一瞬ためらったが,思いきってその扉を開けた。



 リャオは夢を見ていた。

 深い森の中に,古びた祠がある。その中に小さな男の子が一人,うずくまっている。

 君は,誰・・・?

 そう声をかけようとしたとき,突然あたりが暗くなり,次に浮かんできたのは幾重にも折り重なった人間の死体だった。

 リャオはぎょっとして一歩あとずさる。そして,自分の手が血で真っ赤に染まっているのを見て,悲鳴をあげた。

 これ全部,僕がやったのか・・・!?

 恐怖におののきながらも,目は覚めない。リャオは悪夢にうなされ続けた。



 部屋には寝台と,その近くに丸椅子があるだけだった。寝台には,六十歳くらいの女性がぐったりと横たわっている。白髪交じりの髪はぼさぼさで,頬はこけ,顔色が悪い。彼女のかすかに開いた口から,先のうめき声がもれていた。

(病人・・・?)

 とりあえず幽霊ではなかったことにほっとしつつ,ルシカはその女性に近づいた。客人なのだろうか?シャナを呼んでくるべきだろうか・・・?ルシカが逡巡していると,人気を感じたのか,女性はゆっくりと目を開けた。

 目と目が合い,ルシカはどきりとする。

「あ,あの・・・」

「・・・ルト?」

 女性はルシカの姿をみとめると,かすれた声でそうつぶやいた。ルシカは気が動転して何も言えない。

(お,俺と父さんを間違えているんだ・・・)

 女性はルシカの方に細い手をのばした。

「バルは・・・来ている・・・?」

 弱々しい声に,ルシカは無言でかぶりをふる。ここで,自分はルトじゃないとは言えなかった。

「ルト・・・,バルを連れてきて・・・あの子が・・・本当は・・・」

 ルシカは思わず差し出された手をとった。あまりにも細く,今にも折れてしまいそうだった。

「本当は・・・ずっと・・・でも,わたしがいるから・・・」

 彼女が何を伝えようとしているのかわからず,ルシカはただ戸惑っていた。

 その時,かたん,と扉が開いた。

「ルシカ?」

 ふりかえると,そこにいたのはシャナだった。

「シャナさん・・・」

 シャナはびっくりしたようにルシカを見ていたが,すぐにこちらに歩み寄る。

「お母さん・・・」

 シャナは女性に優しく話し掛ける。

「起こしてしまってごめんね。まだ夜だから,ゆっくり寝ていて大丈夫よ」

 女性はシャナの声に安心したのか,そっと瞳を閉じて,かすかな寝息をたてはじめた。

 それを見とると,一つため息をついてルシカの方を見る。

 とがめられるかとルシカは身をすくませたが,シャナは優しく微笑んで小声で言った。

「来て」

 シャナに連れられ,ルシカは部屋の外に出た。廊下は真っ暗だが,目が慣れてきたため,うっすら周りの様子やシャナの表情がうかがえる。二人はゆっくりと廊下を歩いていった。

「ごめんなさい,うめき声が聞こえてきたから・・・」

 ルシカが謝ると,シャナが小声で首をふった。

「全然いいのよ。怖がらせてしまってごめんなさいね」

 シャナはあいかわらずおっとりとした調子で話す。

「今のは私のお母さんよ。病気で,今は寝たきりになってしまったけれど・・・」

 ルシカはうなずきながらも立ち止まった。シャナも立ち止まる。

「どうしたの?」

「あの人・・・」

 ルシカは口を開いた。

「あの人,俺のことを父さんだったと思ったみたいで,何かを言おうとしたんです。バル・・・伯父さんを連れてきてって」

 シャナは少し驚いたように目を見張った。

「シャナさんと伯父さんの間には,その,何かあるんですか?」

 ルシカが遠慮がちに尋ねると,シャナが困ったように眉をさげて笑った。お母さん,そんなことを言ってたのね・・・そうつぶやいて,彼女は少しうつむいた。

「バルと私は恋人よ。両思いって言った方が近いかな。もう十年近くになるわね・・・」

 その言葉に,ルシカは衝撃を受けた。恋人・・・バルにそんな人がいたことは全く聞いたことがなかった。

 ルシカの驚きを見て,シャナは苦笑する。

「バルはきっと,あなたに何も話していないでしょうね」

「で,でも,よくわかんないんですけど,お互いが好きなら,一緒に暮らしたりするんじゃないんですか?父さんと母さんみたいに・・・」

 暗くて,彼女の表情の細部までは読み取れない。彼女はやはり穏やかな声音で言った。

「私にはお母さんがいるから,ここを離れるわけにはいかないわ。この宿も守らなくちゃいけない」

「じゃあ,伯父さんがこっちに・・・」

 そこまで言って,ルシカははっとした。バルが森を出て行かない理由。それはもしかして・・・

「さっきも話したとおり,バルとルトはずっと二人で生きてきた。バルは何よりもルトの幸せを願っていた。バルは森から・・・ルトの近くから離れたくないのよ。彼の,そして彼の息子であるあなたの幸せを見守り,何かあったら助ける・・・バルはそういう生き方を選んだ」

 ルトが絵本を売りに家を空けるときは,いつもバルが面倒を見てくれた。父がいない時も,バルのおかげでルシカは寂しくなかった。

 いつも当たり前のように隣の家にいた伯父は,自分と父のために,愛する女性との暮らしを捨てたのだ。

 自分と父のせいで・・・

 ルシカの思い詰めた表情を読み取り,シャナは優しい声音で言った。

「ルシカ,自分達のせいでバルが自分の幸せを手放したんだって思っているのなら,それは間違いよ」

「え・・・?」

 ルシカはうつむいていた顔をあげた。

「幸せになる道は一つじゃない。バルは私と暮らす幸せよりも,あなたたちを見守る幸せを選んだ。私はバルと暮らす幸せよりも,母の側で宿をきりもりする幸せを選んだ」

 ――シャナ,君を愛している。だが,オレはルトやルシカの側を離れることができないんだ。

 シャナを抱きしめながら,彼は苦しげにそう言った。彼は選び,自分も選んだ。それだけのことだ。

 ルシカは目頭が熱くなるのを感じた。ルトとバルのことは誰よりも知っているつもりでいた。だがまたしても・・・自分の知らない一面を突きつけられてしまった。

 バルは自分の知らない間に悩み,決断していたのだ。

(・・・父さんは,どうだったんだろう)

 自分に嘘をつき,印刷場へ向かった父。彼もルシカの知らない何かに悩み,何かを決断したのだろうか。

「だから,どうかルトを見つけ出して,二人でバルのもとへ帰って。バルのためにも・・・」

 シャナの声は今までのおっとりとしたものではない,どこにも余裕のない切実としたものだった。

「必ず」

 自分の幸せが誰かの幸せにつながっている。その重みを感じながら,ルシカはうなずいた。



 やがて朝をむかえ,早めに朝食を終えたルシカとリャオは三の区印刷場へ向かって出発した。

「昨日,あんまり眠れなかったんだよなあ」

 リャオが欠伸をしながら言い,ルシカは首をかしげる。

「へえ,なんで?」

「なんか悪い夢を見てた気がする・・・。けど,よく覚えてないや」

 リャオがおどけて笑い,ルシカもつられて笑った。

 宿を出るとき,シャナは二人の身を案じて,白布をとりかえてくれた。

「二人とも気をつけてね」

 そう言って見送ってくれたのだった。

「結局,幽霊の話とか何だったんだろうね」

 リャオに訊かれ,ルシカは首をすくめた。

「さあ」

 


 二人を見送ったあと,シャナは食堂の客が少ないことを見とり,自分の部屋に戻った。机の上に置いてある,『狩人の話』をそっとめくる。この絵本に出てくる狩人はバルに似ている。今までの絵本も,出てくる人物はどこかバルに似ているのだ。ルトは無意識なのだろうか,それとも故意にやっているのだろうか。シャナはそっと瞳を閉じる。

――シャナ,ルトに子どもが生まれたんだ。前話したナリィさんとの子どもさ。ルシカっていうんだ。あいつが・・・昔はオレとすらろくにしゃべんなかったあいつが,ちゃんと人を愛して父親にまでなっちまうんだもんなあ・・・。すげえよな。

 バルが嬉しそうに話す姿を思い出す。

 あの子が“ルシカ”――会うことができてよかった。


 どうか,ルシカとルトが,無事にあの人のもとへ帰れますように。


 シャナはそっと絵本を閉じ,部屋を出て厨房へと向かった。

 

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