第7話 大市場通り

 額にひんやりとした冷たさを感じて,ルトは目を覚ました。

 目の前に柔らかな黒髪の少女が映る。額に当てていた小さな手をひっこめた。

「う・・・」

 身をおこそうとして,ルトは身をよじった。途端,体中に激痛が走り,ルトはうめき声をあげる。

「無理に起きないで下さい」

 少女が外見にそぐわぬとても落ち着いた声で言った。少女に手を貸してもらいながら,ルトはもう一度横になる。

「ここは・・・?」

 寝台はルトの家のものとは比べものにならないほど寝心地が良かった。あたりを見回すと,広い部屋で,美しい絵や剣が飾られ,凝ったデザインの机や長椅子が置かれている。それらを見て,ルトは自分が牢からここへ移されたことを思い出した。

(担架で運ばれているときに気を失ったんだ・・・)

 牢での苦痛の記憶,ルシカのことを知られた絶望を思い出して,ルトは歯を食いしばった。

「ひどい怪我でした。体中にぶたれた跡,切り傷,火傷があり,左手と右足の爪が全て剥がされ,左足の骨が折れています。栄養不足と不衛生もあいまって,この八日間熱が下がらず,ずっと意識が戻らなかったのです」

「八日間も・・・」

 少女の説明にルトは目を見開く。八日間も眠っていたのか。ルシカはもう見つかったのだろうか。動揺しながらもルトは目の前の少女に話しかけた。

「八日間,ずっと面倒を見てくれていたの?」

 少女はなんてことのないようにうなずく。ルトは小さく笑んだ。

「ありがとう。・・・君は誰なの?名前は?」

 少女は肩まである髪を揺らして,感情のない声で言う。

「私はサマンナ。王家専属の医術師見習いです。貴方の怪我の治療を担当します」

 ルトは再び驚いた。ルシカよりも一つ,二つ年下に見えるのに,見習いとはいえ医術師として働いているのか。

 ルトの驚きは意に介さず,サマンナは「怪我の具合を診ますね」と言って,ルトをゆっくり起き上がらせ,身体に巻いている白布を外そうとする。傷の具合を診て,時には薬を塗り,また新しい白布を巻き付ける。その手つきは大人顔負けだった。

 ルトさえも顔をしかめるような傷口を見ても,彼女は眉一つ動かさない。

「たいしたものだな・・・。ありがとう」

「いいえ。これが私の仕事ですから」

 ルトの礼に対して冷めた口調で応え,彼女は部屋を出て行った。扉が閉められるまで,ルトはその後ろ姿を呆気にとられて見ていた。

(あんなに小さな子どもが,大人のように働いているなんて・・・)

 その事実に愕然としたが,すぐに脳裏にルシカのことが浮かんだ。ルシカは今どうしているだろう。もう見つけられてしまっただろうか。

(もしそうなら,すぐにラウガが現れるはずだ)

 ルトは,ルシカがラウガ達に見つかってほしいようなほしくないような複雑な思いを抱いていた。ラウガは自分達を利用しようとしている。彼は自分に都合の良いものは生かし,邪魔なものは即排除する男だ。ルトにもう一度利用価値を見いだしたからこそ牢からこのような部屋に移し,傷の手当てまでしているのだ。ラウガに従えば,間違いなくルシカと自分の平穏は約束される。だがそれはあくまで自分達だけだ。

 ラウガはラージニア王国を手に入れるため,全てを犠牲にして戦争をするだろう。そして自分達はそれを助長する仕事をさせられるのだ。

(ナリィ・・・)

 ルトは百年以上前の戦を,長い時を経てその犠牲となった妻の事を思った。

 焼け野原。転がる無数の死体。血と肉の臭い。終戦してなお,終わらぬ悲劇。

 ルトは拷問の苦痛を思い出し震えた。これ以上の苦しみを国中が味わうのだ。

 

 ルシカをお願いね。あの子が,平和で穏やかな世界で生きていけるように。


 俺は戦争をとめたい。そして,戦のない幸せな世界でルシカに生きてほしい。

 だが,どうすればいいのだ。ラウガに協力すれば,自分とルシカは生きられても,戦を止めようとする者はいなくなる。だが,協力しなければただ殺されるだけだ。

 自分は一体どうすればいいのか。

 広い部屋で一人,ルトは迷い続けた。




 ルシカとリャオは身仕度をととのえ,ロナとインバに頭を下げた。

「本当にお世話になりました」

「ありがとうございました」

 ルシカはロナに縫ってもらった薄い青の,リャオは薄い緑の服を着ていた。

「二人とも元気でね」

 ロナは笑顔で手を差しだし,二人と握手する。彼女の温かい手に触れながら,ルシカはこの人達に助けてもらわなかったらどうなっていただろう,と思い,改めて礼を言った。

「行こうか」

 インバに連れられ,ルシカとリャオは八日ぶりに外へ出る。

 インバが大市場通りまで案内すると言ってくれたのだ。インバの後ろについて,建物に挟まれた狭く薄暗い路地裏を歩いていく。右に曲がり左に曲がり,複雑な道のりだった。

 二人はあの人売り達に出くわさないか小さく不安に思っていたが,しばらく歩いてもなんともないのでほっと胸をなで下ろす。

 やがて,どこからか人々の喧騒が小さく聞こえた。歩いてゆくにつれ,それは大きくなっていく。左の角を曲がったとき,二人は声をあげた。

「わあ・・・」

 広い道を,大勢の人々が行き来している。チャレ道なんて比べものにならないほど大きい通りだった。道の両端には隙間無く屋台が並び,売り子の声があちらこちらから響く。

「今日の肉は安いよ!」「とれたての野菜があるよ!」

 こんなにたくさんの人を見たのは初めてだった。あまりのうるささにルシカは頭がぐらぐらした。

「大丈夫?」

 リャオに心配され,ルシカは大丈夫とうなずいた。リャオもものめずらしそうにきょろきょろしている。こういうところに来た記憶はないのだろうか。

「すごいな,たくさん店がある・・・!」

 驚く二人を見て,インバは微笑んだ。

「まだ仕事までには時間があるんだ。ちょっと見てくるといい。何か好きなものを買ってあげるよ」

 そう言われ,ルシカとリャオは遠慮したが,市場への興味もあって二人はともに駆けだす。行き交う人々の合間をぬい,二人は次々に屋台を見てまわった。

 野菜売場では,ルシカは見慣れぬ,掌くらいの大きさの赤い玉のような野菜を手に取った。

「すごい,こんな野菜見たことない」

「それは朱実(ハロン)といって,野菜だけど甘いんだ」

 リャオが説明すると,店主の男が「よく知ってんな」と笑い,「そいつはこの時期しか穫れない貴重なヤツさ」と教えてくれた。

 果物屋,肉屋,家具屋,服屋・・・ありとあらゆる店が並んでいる。なかでもルシカが気になったのは,飲み物を売っている店だった。赤,黄,オレンジ・・・色とりどりの液体が,透明な容器に入っている。

「これ・・・飲めるの?」

 水しか飲んだことのないルシカが店主の前でそんなことを言うものだから,店主のおばさんはちょっとひきつった顔をした。

「飲める。美味しいよ」

 それを見ていたインバが,二人にオレンジ色の飲み物を買ってくれる。飲むとひんやりと冷たくて,いつの間にか火照っていた身体にしみわたった。果物独特の濃厚な甘みが口に広がる。

「美味しい!」

 ルシカの純粋な反応に,おばさんもにっこりとした。

「果物をすりつぶして,ある特別な水に浸けておくとこういうものができるのさ」

 飲みほされた容器を受け取りながら,そう説明してくれた。



 やがて,先を歩くルシカとリャオを,インバは呼び止める。

「私はそろそろ仕事に行かなくちゃならない。・・・ここでお別れだ,二人とも」

 インバの明るい笑顔を見て,ルシカとリャオは寂しい気持ちになる。

「本当に,ありがとうございました」

 頭をさげる二人の肩に,インバはぽん,手を置いた。ロナのそれと同じく,温かい。

「どうか元気で。人売りや強奪屋には気をつけるんだよ」

 ルシカとリャオはうなずいた。インバは微笑んで,踵をかえし歩いていく。その姿が人混みにまぎれ完全に見えなくなってしまうまで,二人はそこを動かなかった。


 インバを見送ったあとも,二人は並んで歩いていた。なんとなくしんみりとしていて,周囲のうるささが余計に耳に響く。

――絵本売りの店は,この先を真っ直ぐに行けば,二日くらいで着くよ

 ルシカはインバに教えてもらったことを思いだしていた。と,ふとリャオが足をとめる。

「どうしたの,リャオ?」

 リャオは一瞬迷ったようにうつむいたあと,困ったように笑った。

「僕もこのあたりでお別れだ」

「え?」

 ルシカも後ろから引っ張られるように立ち止まる。

「色々考えたんだけど,チャレ道のあたりまで戻ってみようと思う。僕はあのあたりを馬で走ってたんだろ?あの辺に僕についての手がかりがあるかもしれない」

 人売りの奴等が少し怖いけどね,とリャオは少し早口で言った。ルシカはそれをどこか遠くで聞いているような気がした。子ども連れの母親が立ち止まっているルシカにぶつかり,迷惑そうにこちらを見る。

「・・・そっか」

 ルシカは微笑んだ。心が不思議なくらい静かだった。

「リャオ,たくさんありがとう。君にいっぱい助けられた」

 リャオも目を細めて笑った。この十日近く,何度も見てきた温かい笑みだ。

「僕の方こそ。ルシカと話せて楽しかった」

 リャオはそう言って手を差し出した。

「君のお父さんが見つかることを祈っているよ」

 ルシカもその手を握り返す。周囲の喧騒が遠のいていく。

「ありがとう。リャオも早く記憶を取り戻してね」

 リャオはうなずいて,ルシカの手をはなした。

「じゃあ,きっとまた,どこかで会おう」

「うん」

 リャオはくるりと身をかえし,走っていった。彼の薄い茶の髪,薄緑の服は人波にのまれ,すぐに見えなくなった。

「さよなら,リャオ・・・」

 ルシカは小さくつぶやき歩き出す。

 まずは絵本を売る店へ行かなくては。お金を稼いで・・・もしかしたら父さんのことについて何か知っている人がいるかもしれない。

 そう考えながらも,ルシカは心の一部がひどく空っぽになっているのを感じていた。なるべくそのことを意識しないようにする。

 あんなにも興味をそそられていた屋台にも目を向ける気にならず,ただもくもくと歩き続けた。

(・・・絵を描きたい)

 ルシカはそう思ってあたりを見回した。

 屋台と屋台の間に裏路地があり,ルシカはそこへ行って,蓋付きのごみ箱の上に腰をおろした。活気溢れる市場通りから少し離れ,ルシカはほっと息をつく。

 背嚢から紙綴り(クロッサ)と木筆(ロッタ)を取り出した。この大市場通りで見た様々なものが頭に浮かんだが,ルシカは手を動かすことができなかった。

(どうして何も描けないんだろう)

 気持ちが重くて,何かをする気になれなくなった。わきあがってきそうな感情があるけれど,無意識のうちに自分はそれに蓋をしようとしている。

 無理にでも手を動かそうとしたとき,遠くから笑い声が聞こえ,ルシカはびくっと身をすくませてそちらを見た。裏路地の奥の少し道が開けたところで,ルシカと同じ年くらいの少年達が三,四人たむろして何か談笑している。一人が何かを言い,全員が爆笑した。その笑い声が鋭い刃物となって心に突き刺さるような気がして,ルシカは胸を押さえる。そんなことあるはずないのに,自分が笑われているような気がして息が苦しくなった。

(ああ・・・この感じ・・・)

 ルシカは学舎にいた頃のことを思い出す。大勢の人々,皆の目が怖かった。何を考えているのか,発される言葉は本当のことなのか。まわりと違う自分が嫌だった。


 ルシカ。


「あ・・・」

 そんな時はいつも父の物語を,母の絵を思い出していた。だが,今頭に浮かんだのは,物語でも絵でもなかった。

 文章も素敵だけど,絵だってすばらしいよ,ルシカ。

 思い浮かんだのはリャオの笑顔だった。心をまっすぐにうつした瞳と言葉だった。

 ルシカははっと目を見開いて木筆を握りしめ,絵を描きはじめる。その繊細な線は記憶を失ってもなお,明るく笑うことのできる少年の顔を形作っていった。

 リャオとは何も気にせず話すことができていた。透明な壁も感じず,同じ目線で話すことができていた。そんなのはリャオが初めてだった。

 突然絵を描きはじめたルシカを,少年達が奇異な目で見ているのを感じたが,そんなことはもう気にならない。筆を進めていくにつれ,気づかないふりをしていた思いがあふれてくる。

(リャオ)

 絵を書き終えると,ルシカは立ち上がり,歩いてきたのとは逆の方向に走り出した。


 一緒に旅をしたい。


 心の空っぽだった部分が,不思議な高揚に満ちていく。今まで他人との関わりを避け,一人でいる方が楽だと思っていたルシカにとってそれは初めての感情だった。

 息が切れ,汗が頬を伝う。それでもルシカは走った。やがて人混みの中に見慣れた顔を見つける。その人物もこちらに向かって走ってきていた。

「リャオ!」

「ルシカっ?」

 リャオがびっくりしたように立ち止まる。ルシカは彼の前まで走り,肩で息をしながら膝に手をついた。

「どうしたんだ,ルシカ?」

 首をかしげるリャオに,ルシカは小さく笑う。

「リャオの方こそ・・・」

 そして意を決して,ルシカは顔をあげた。

「・・・リャオ,旅をするなら,俺と一緒に行かないか?」

 それ以上何も言うことが思い浮かばなかった。そういえば,父と伯父以外の人を何かに誘うのは,これが初めてだ・・・そんなことを思いながらルシカはリャオの言葉を待った。

 リャオは目を丸くしていたが,やがて照れたように眉を下げて笑う。

「・・・僕も,同じ事を言おうと思って戻ってきたんだ」

「ええ?」

 拍子抜けした声をあげるルシカに向かってリャオは続けた。

「ルシカ一人だけじゃ不安だし,僕お金持ってないから,持ってる人の近くにいると安心だし」

 おどけたように言う彼に,ルシカは思わずふきだす。

「なんだよそれ」

 人々が行き交う中,二人は肩を揺すって笑い合った。

 やがて,どちらからともなく歩き出す。

「行こう」

「うん」

 二人は並んで,時折屋台をのぞきながら,目的地を目指し歩いていった。

 

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