第6話 ルシカとリャオ

「ん・・・」

 ルシカはゆっくりと目を覚ました。とたん,つんと鼻につく臭いがして顔をしかめる。

 手足を縛られ,床に転がされていた。下りの階段があるところをみると,どこかの二階のようだ。

 隣を見ると,先の少年はまだ気を失っていてぐったりとしている。

 ルシカはただ,混乱していた。

 突然男達に襲われ,見知らぬ少年が現れ,連れ去られ――

 一体ここはどこなのか。これからどうなってしまうのか。

(父さん・・・)

 あまりにも不安で心細くなり,ルシカは泣きそうになる。

 バルとルトに見守られ,絵を描いていたときに戻りたい。父さんと絵本を作る日々に。

 泣くまいと必死に目に力を入れていると,隣の少年が小さく身をよじった。ルシカははっとして少年の顔をのぞきこむ。瞼の向こうに赤い眼が見えた。

「う・・・」

 リャオは重い瞼を開けた。頭がひどく痛む。ふっと身をおこすと,右腕に焼け付くような痛みが走り,思わずリャオはうめいた。ここはどこだ?どうして縛られている?

「大丈夫・・・?」

 顔を上げると,隣りに同い年くらいの少年の顔がある。リャオはずきずきと痛む頭で,純粋に思ったことを訊いた。

「君は,誰?」

 そう尋ねたリャオの目は純粋そのものだった。

 ルシカが口を開こうとすると,突然荒々しく階段を上る音がした。二人はびくっとそちらを見る。

「目を覚ましたか」

 上がってきたのは先の大男だった。憎々しげにルシカ達を睨みつけている。リャオに切られたのであろう,身体の何カ所かに白布を巻き,うっすらと血が滲んでいた。

「ほら,食え」

 大男は手に持っていた薄汚れたパン切れを二人の前に放る。

「夕の刻にはお前らの買い手が来る。買われたら最後,死ぬよりも辛い地獄が待っているからな。覚悟しておけ」

 男はそれだけ言って下におりていった。ルシカとリャオはぞっとして黙り込む。

「・・・な,なんなんだここは・・・」

 リャオは震える声でつぶやき,ルシカを見た。

「どうして僕はこんなところにいるんだ?君は誰?あいつらは何?」

 彼の不安そうな様子を見て,ルシカは少し違和感を感じる。その姿は先に見た冷酷な戦士のような雰囲気は全くうかがえなかった。

「君はチャレ道で今の奴とその仲間に襲われた俺を助けようとしてくれたんだ。・・・覚えてないの?」

 リャオは少し眉を寄せた後,首を横にふった。ルシカがその時の事をさらに詳しく話しても,少年は難しそうな顔をして首を振るだけだった。そして,頼りなさげに眉を下げる。

「それどころか,自分が誰なのかもわからない」

「えっ・・・」

 ルシカは息をのむ。だが,すぐに思い当たることがあった。昔ルトに,頭に強い衝撃を受けたり,あまりにも悲しいことがあると記憶をなくしてしまうと聞いたことがあるのを思い出した。

(男に地面に叩きつけられた時,その衝撃で,記憶をなくしてしまったのかな・・・)

 二人の間にしばしの沈黙が流れる。

 時間が経つにつれ,ルシカは少しずつ落ち着いてきた。

 落ち着いてくると,はやくここから逃げなくてはという思いが強くなっていく。父さんを見つけるまでは,売り飛ばされるわけにも,死ぬわけにもいかないのだ。

 でも,どうやって逃げればよいか,ルシカには全くわからなかった。

 一方リャオは,目を閉じて必死に記憶を探っていた。だが,どんなに手を伸ばしても,どこにも触れない。頭の片隅で何かがうごめいているのに,その正体がわからないのがもどかしかった。必死にもがいていると,ひとつ,心に浮かんでくるものがあった。

「・・・リャオ」

 リャオは顔を上げ,少年を見る。

「僕の名前は,リャオだ」

「リャオ・・・」

 ルシカもくり返した。

「他に何か思い出せた?」

 リャオは少しの間目を閉じたが,これ以上何か思い出そうとしても鋭い頭痛が襲ってくるだけだった。簡単な手当しか施されていない腕もじくりと痛み,とても集中できなかった。

「・・・わからない」

 リャオはうつむいてしまい,ルシカも小さくため息をつく。

 どうしてこの少年は自分を助けようとしてくれたんだろう。それがとても気になったが,そこまできてルシカははっとする。彼に言うべきことを言っていなかった。

「あの・・・,助けてくれてありがとう」

 自分と同い年くらいの人と話すことに慣れていないルシカの声は少し硬いものになってしまう。リャオも戸惑うように応えた。

「僕は全然覚えてないし,結局助けられていないけどね」

 そこで二人は初めてちゃんと目があった気がして,互いに少しだけ頬をゆるめた。とんでもない状況にいるが,一人ではないということが二人を小さく勇気づけていた。

「俺はルシカっていうんだ。ルシカ・アーレベルク」

「ルシカ・・・」

 リャオは一瞬いぶかしげな表情を見せたが,すぐにうなずく。ルシカはぐっと息をのんでから言った。

「ここから逃げ出したいんだ。・・・このまま売り飛ばされるわけにはいかない」

 リャオも苦笑する。

「僕だってそうだよ。わけもわからず酷い目に遭うのは嫌だ」

 二人は目で気持ちが同じことを確かめ合うと,ここから逃げ出す術を話し始めた。


 話し合いを始めてルシカが驚いたのは,リャオの知識の豊富さだった。

「人売りは主に,子ども達を捕まえて色々なところに売る。売られた子どもは人をいたぶるのが好きな変態の玩具にされたり,王家に非公認で堅土岩(ゴットラ)や高級黒石(ファンロットラ)を掘り出してる奴等の道具にされるんだ。あと,売買は酒場で行われることが多い。一見普通の酒場に見えても,売買用の酒場っていうのがある。多分ここもそうだろう」

 冴えた瞳,滑らかな口調でそう話す。だが,ルシカが目を丸くして「どうしてそんなに知っているの?」と訊くと「わからない」と途端に困った顔になる。

 馬を駆り,武術にも長け,知識豊富な少年・・・本当に不思議な人だとルシカは思った。

「とにかく,買い手のもとへ行ったら,もう逃げ出すチャンスはないと思った方がいい。逃げるなら今か,売り渡されるときだと思う」

「売り渡されるとき?」

「うん。その時必ず一瞬すきができるはずだ。そこを狙って逃げる」

 ルシカはごくりと息をのむ。逃げ切れなければ,間違いなく酷い目に遭うだろう。最悪殺されてしまうかもしれない。・・・だが,売られたってそれは同じだ。

(だったら,やった方がいい)

 それに,買い手は夕の刻に来ると言っていた。夕の刻には外に出なければ,煙があがっているかどうか,父さんが帰ってきているかどうか確かめることができない。

「売り渡されるときに逃げよう」

 ルシカが緊張の面持ちで言い,リャオもうなずいた。


 やがて,国中に夕の刻を報せるシンシア城の大鐘の音が鳴り響いた。

「夕の刻だ・・・」

 しばらくすると,階段を上る音が複数聞こえ,ルシカとリャオは身構える。

 あの大男ヘムラと頬骨の尖った男リュッサルがにやにやしながら上がってきた。その後ろに二人の男がいる。一人はでっぷりと太っていて,もう一人はひどく目つきが悪かった。

「へえ,今回はなかなかだな」

 太った男がルシカとリャオに近づき,リャオの髪をひっぱって顔をあげさせた。リャオは苦しそうに顔をゆがめる。

「こりゃ,ずいぶんキレイな顔をしている。・・・気に入った。こいつをもらおう」

 男が言うと,もう一人の男が来てルシカを値踏みするようにじろじろと見る。ルシカは居心地が悪くなって目をそらした。

「ひょろひょろだが,家畜くらいの役には立つだろう。こいつをいただく」

 目つきの悪い男が言うと,リュッサルが飄々とした足取りで前に出る。

「んじゃ,これが契約書だ」

 リュッサルから紙きれを渡され,その値段を見た二人の男は目をむいた。

「なんだこれは!ふざけてんのか!」

「ガキ一人にこんなにかけてられるか!」

 ルシカとリャオが縮み上がるほどの剣幕で買い手の二人はリュッサルに詰め寄る。リュッサルはそれをものともせず不敵に笑っていた。後ろにいたヘムラがドスのきいた声で言う。

「人買わなきゃ生活できねえ生き方を選んだのはあんたらだろう。オレ達は別にあんたらに売る必要はねえんだ。断るなら別の奴等に売るだけさ」

 その言葉に,二人の男は苦い表情で押し黙り,舌打ちして渡された紙に記名し,懐から財布を取り出す。一瞬中が見えたが,そこには金を扱ったことがないルシカでさえ大金と分かるほどの札束がつまっていた。

 二人の男は金を払うため,ルシカとリャオに背を向けた。一瞬四人とも自分達から目をはなしたこの瞬間をリャオは見逃さなかった。

(今だ!)

 リャオはあらかじめ緩めておいた縄を素早くほどく。男の一人が気づき声をあげたのとリャオが男達にとびかかったのはほぼ同時だった。殴り,蹴り飛ばし,リャオはあっという間に四人を気絶させた。

「ルシカ,急ごう!」

「うん!」

 リャオは急いでルシカの縄もとき,二人はしびれる手足を必死に動かして,階段を駆け下りる。


 一階は丸い机が五,六つ置かれていた。一番奥にカウンターのような長方形の机があり,その奥の棚に酒瓶らしきものがつまっている。いつかルトの物語で読んだ「酒場」にそっくりだった。実物を見るのは初めてで,走りながらルシカは目をとめてしまう。

(想像していた酒場と同じだ)

 ふと,机のひとつに目が向いた。ルシカの背嚢が無造作に置かれている。きっと金目のものがないか確認したのだろう。ルシカはそれをひっつかみ,二人は外に飛び出した。


 一方,倒れていたヘムラは蹴られた腹をおさえ,むっくりと起き上がった。その瞳は凶暴な怒りに燃えている。

「おい,リュッサル,起きろ!」

 鼻血を流して白目をむいているリュッサルをヘムラはたたき起こし,立ち上がる。

(あのガキども・・・,もう許さねえ・・・)

 ヘムラははらわたが煮えくりかえるような屈辱にかられ,二人のあとを追った。


 酒場を飛び出すと,そこは人通りの少ない裏路地だった。だいだい色の光に薄汚い煉瓦造りの家や営業しているか分からないような店がところせましと並んでいる。

「わ・・・」

 木造の家しか見た事のないルシカは,感嘆の息をついた。

「なるべく遠くへ行こう!」

 リャオがルシカの手を引っ張って走り出した。

 再び扉が勢いよく開き,ヘムラとリュッサルが出てきたのはそのすぐあとだった。

 人気の全くない細い石だたみの道をルシカとリャオは走った。どこか大きな通りに出たかったが,その気配は全くない。

「どこ行ったガキども・・・」

 近いところで大男の声が聞こえ,二人は必死に走る。だが,ある角を曲がると,そこは行き止まりだった。

「しまった!」

 リャオが信じられないというようにぱんっと壁をたたく。二人分の足音が近づいてきて,ルシカとリャオは身をこわばらせた。

「ガキどもはこの辺にいるはずだ」

「ああ」

 声はすぐそこまで迫ってきている。ルシカとリャオは無意識のうちに身をよせあっていた。

 男の影が見えた,その時――

「こっち!」

 突然横から声がした。驚いてそちらを見ると,すぐ隣の家の戸が少し開き,女性が顔を出している。

「追われているんでしょう?急いで!」

 二人は一瞬ためらったが,すぐその家に入った。

 ヘムラとリュッサルが見たとき,もうそこには石造りの壁しかなかった。



「大丈夫?」

 女性が戸を背にして尋ねた。胸の辺りまで黒髪をたなびかせた女の人だった。ルシカとリャオは立っているのもやっとで,なんとかうなずく。全身汗でびっしょりだった。

「こっちに座りなさいな」

 女性がリャオとルシカを机と椅子のある方へうながす。外装は薄汚かったが,家の中は整頓されていて清潔だった。石造りの家は,木の家よりも滑らかで小綺麗な感じがする。

 女性は冷たい茶を用意してくれ,それを飲みしばらくすると二人は落ち着いてきた。それを見計らって,口を開く。

「人売りに追われていたの?」

 尋ねられ,ルシカとリャオは時折顔を見合わせながら説明した。ローニャの森で襲われたこと。連れ去られ,そこから逃げ出してきたこと。ローニャの森,と聞くと,女性は一瞬ひどく悲しそうな顔になったが,すぐに首をかしげる。

「二人は兄弟なの?」

「あ,いや・・・」

 二人は困ったように視線を合わせた。

「偶然一緒につかまったんだ」

「そう・・・」

 女性は気の毒そうに眉を下げる。

「その酒場は,人売り達の取引場所だと噂されているのよ。確かな証拠があるわけじゃないから治安兵も動けないのだけれど・・・」

 女性は立ち上がって,二人の湯飲み茶碗をお盆にのせた。

「一週間くらいはここから出ない方がいいわ。きっと男達が探している」

 それを聞いて,ルシカとリャオはぞっと身をすくめる。女性は安心させるように微笑した。

「二階に使っていない部屋があるの。疲れているでしょう。休んでいくといいわ」

「えっ」 

 女性のあまりに親切な提案に,二人はかえって困惑してしまった。

 それに・・・ルシカはためらいながらも口を開く。

「あの,外に出て,どうしても確かめたいことがあるんです」

「なあに?」

「えっと・・・ローニャの森から,その,煙があがっているのを見たくて・・・」

 父を捜しているところから話さねばならず,上手く説明がまとまらない。しどろもどろになっているルシカをリャオと女性は不思議そうな顔で見た。

「もう少ししたら夫が大市場通りから帰ってくるの。あそこならローニャの森の方が見えるから,夫に訊いてみるといいわ」

 女性はそう言い,二人を二階へ案内しようとする。ルシカとリャオは少しいぶかしみ顔を見合わせたが,今は心も身体も疲れ切っていた。お言葉に甘え,二人は彼女について二階へ上がった。

 二階には三つ部屋があり,一番奥の部屋に案内された。部屋の中には書き物をするための机と椅子,そして寝台が置かれている。寝台はなかなか大きいもので,ルシカとリャオが並んで寝てもゆとりのありそうなものだった。

「夕飯の用意ができたら呼びに来るわ。それまでゆっくり休んでいて」

 女性はそう言い,二人は礼を言っておずおずと中に入った。彼女は去り際に

「あ,言い忘れていたわね。私はロナ。いきなり泊まるようにすすめて怪しんでいるかもしれないけど,とって食おうとしているわけじゃないから安心してね」

 心を見透かされたような気がして,二人は少しきまりが悪くなった。小さい声でありがとうございますと言うと,ロナはにっこりと笑って出て行った。


 二人きりになり,しばしの沈黙の後,口を開いたのはリャオの方だった。

「・・・逃げ切れたね」

 ほっとしたような声音に,ルシカもうなずいた。

「うん」

 二人はどちらからともなく寝台の上に寝転ぶ。柔らかな布団の上に身をしずめるのが,とても気持ちよかった。身体の力が抜け,今まで無意識のうちに心身ともにはりつめていたのだとわかる。本当に怖かった。

 バルやコロノ村の人々が忠告してくれたが,とんでもなく危険な道だった。ルトやバルは普段あんな道を通って街を行き来していたのだ。そう思うと,なんだか自分がちっぽけな気持ちになってくる。

 黙っていると心がもやもやしてきて,ルシカは口を開いた。

「あの,さっきもリャオに救われたよ。ありがとう」

「ああ,うん。僕もルシカがいなかったら,心細くて,逃げようなんてできなかったと思う」

 二人とも天井を見ながら話していた。

 どうしてあんなに強いの・・・と訊こうとして,ルシカは思いとどまった。彼は記憶がないのだ。そう訊けばまた困ってしまうだろう。

 だからルシカはかわりにこんな質問をする。

「記憶がないってどんな感じなの?」

 それでもリャオはちょっと困ったような声で応えた。

「うーん・・・,空っぽ,って感じ。足元が覚束ないっていうか・・・。生きてきた感じがしない。今の自分しかないっていうか・・・」

 うーん,ともう一度唸り,リャオは言葉を探している。ルシカはもう少し突っ込んで質問した。

「苦しいの?」 

 その問いにはリャオはすぐ応える。

「全然苦しくないよ。目覚めたばっかりの時は気持ち悪かったけど・・・。逃げたりなんだりしてたら,今までの自分がわからないっていう状態に慣れちゃったのかも」

 そう言ってリャオはちょっとおどけたように笑んでルシカを見た。ルシカも苦笑する。

「リャオは明るい性格なんだ」

「そうなのかなあ」

 武術とか知識は忘れてないんだね,と言うと,それは忘れるとかじゃなくて,身体に染みついてる感じ,とまた説明しにくそうに応えてくれた。

「今度は僕から質問。さっき言ってたローニャの森の煙とかいう話はなんなの?」

「ああ,あれは・・・」

 ルシカはどこからどういうように話せばいいのかわからず,必要な言葉をまとめながら説明する。コロノ村の人々はルトやルシカのことを知っていてくれたから話しやすかったが,自分を全く知らない者に説明するのはとても難しかった。

 自分がローニャの森で暮らし,父とともに絵本作家であるということ。ある日父が帰らなくなってしまったこと。探すために街に向かってきたということ。父が帰ってきたときは発煙筒をうちあげてもらうこと等をルシカはゆっくりと話した。

 話がうまくまとまらず,リャオが途中で退屈してしまうのではと気になったが,彼はとても真剣に聞いてくれた。

「ルシカとお父さんの絵本を見てみたいな」

 ある?と訊かれ,ルシカはうなずく。

「売るために何冊か持ってきたんだ」

 ルシカは背嚢を探り,薄紙をまいた絵本を一冊取り出した。紙をはがすと『花畑』という絵本だった。一人の男があてもなく花畑を歩くという大人向けの本だ。一面に広がる色とりどりの花々の描写が素晴らしく,ルシカは自分が花畑の中にいるような心地よい気持ちで絵を描いたのを覚えている。

 リャオは感嘆の声を上げてそれを読んでくれた。自分の描いた絵を目の前で見られるのが恥ずかしくて,ルシカは目を背けていた。

「すごいな・・・」

 やがてリャオは読み終えると,本を閉じて微笑んだ。

「本当に花畑にいるみたいだ!」

 ルシカはうなずいた。

「父さんの描く物語は,いつもそうやって新しい世界に惹きこんでくれるんだ」

 すると,リャオはちょっとびっくりしたような顔をする。

「文章も素敵だけど,絵だって素晴らしいよ,ルシカ。僕は何かを想像するのが苦手みたいだ。この絵にけっこう助けられたよ」

「えっ・・・」

 呆気にとられているルシカに,リャオはぱらぱらと本をめくった。

「特にこの,秋の花畑の絵が好きだ。紅葉花(サンローナ)と黄実花(フロンナ),秋葉(セラン)が咲き乱れてて,すごくきれいだ」

 自分の絵を指しながら明るい笑顔で褒めてくれるリャオの姿を見て,はじめてルシカは恥ずかしさよりも嬉しさを感じる。

「ありがとう」

 ルシカがはにかみながらつぶやくと,リャオは,なぜ礼を言われているのかわからないというように首をかしげた。

 しばらく二人で絵本を見ていると,扉がノックされ,ロナが入ってくる。

「ルシカさん,リャオさん,夕食の支度ができたんだけど,食べに来る?」

 二人は申し訳なくて躊躇したが,ロナにすすめられ一階に下りた。

 食卓には背が高く眼の細い優しそうな男性が座っていた。

「はじめまして,ロナの夫のインバです」

 ルシカ達を見て,立ち上がり微笑む。よく見るとその額には古い傷跡がうっすらと走っていた。ロナから事情を聞いていたらしく,「大変だったね」とねぎらってくれる。

 食卓には,見たことのない肉や,ほかほかの白米などが並べられていた。

「あの・・・これなんの肉ですか?」

 席に着き,思わずルシカが尋ねると,ロナはくすっと笑って説明してくれた。

「ジュッサという鳥の肉よ。塩をふりかけて食べると美味しいわ。ザシャ帝国からの輸入品なの」

「三の区はザシャとの交易場が近いから,他の区と比べてザシャのものが多いんだ。まあ,食べてみてくれ」

 インバも説明を加え,ルシカは一口大の肉を頬張った。鹿肉よりも柔らかく,旨い肉汁が口に広がった。

「おいしい」

 ルシカの言葉に,ロナ達は満足そうにうなずいた。

 

 あたたかい料理を食べながら,ルシカはインバに,夕の刻にローニャの森から煙があがっていなかったか尋ねる。男達に襲われ気を失っていた時間がどれくらいかわからないので,ここ数日そういうことがなかったかも尋ねた。

 だが,インバは首を横にふる。

「わたしが働いているところからはちょうどローニャの森の方が見えるけど,そんなものはなかったなあ・・・。どうかしたのか?」

 ルシカは父のことを説明した。先にリャオに一度話したので,少しすらすらと話せた。自分から言うのは恥ずかしくて,絵本作家であることは言わないでおく。

 ロナもインバも気の毒そうな表情で励ましてくれた。リャオも自身のことを尋ねられ,記憶を失ったことは言わずに,国を旅しているのだと説明した。

 インバのすすめもあって,やはり二人はしばらくこの家にお世話になることになった。彼も,

「奴等はこういう街に長くとどまるようなことはしないだろうから,一週間くらいここにいれば大丈夫だ。それからまた旅を続けるといい」

と,ロナと同じ事を言っていた。



 その日の夜。風呂をかしてもらい,交代で入った後,二人は並んで寝台に座っていた。

 ロナが二人の服を洗濯すると言ってくれ,二人はインバの服を借りていた。

「森の人の服と街の人の服は違うんだね」

 自分の着ている服を見下ろしながらルシカはつぶやいた。

「確かに」

 リャオもうなずく。森に住む者は虫などに刺されるのをふせぐため,首まですっぽりと覆われた服を着る。街に住む人々は,前あきの襟付きの服を正面で紐を使ってとじるような服だった。着慣れなくてむずむずする。

 その日の夜は,疲れているはずなのに,二人は眠ることができず,遅くまで話していた。

「ローニャの森ではどんな暮らしをしていたの?」

「絵本ってどうやって作るの?」

 リャオが色々と質問し,ルシカはそれに応えた。ルトとバル以外の人と話したことが少ないルシカは,最初はうまく説明できなかったり,しゃべっていると落ち着かない気がしたが,たくさん話しているうちに次第に慣れ,滑らかに話せるようになっていった。

「ルシカ,今まで緊張してた?」

 ふとリャオに訊かれ,ルシカは「え?」と聞き返す。リャオは片目だけ細めてからかうように笑った。

「声のトーンがさっきまでと全然違う。これが本当のルシカの声なのかーって感じ」

 リャオの言葉にルシカは少し顔を赤くして「うるさいな」とそっぽを向いた。

 しばらくして,リャオは眠りについたが,ルシカは眠れなかった。隣でリャオは寝台に座ったままで寝ている。ルシカはふっと窓の外を見た。暗闇の中にすぐ隣の家の壁が見えるだけだった。窓の向こうが緑で溢れていたローニャの森とは違う。

(・・・遠くまで来たんだな)

 ここは王都を囲む街(セル・ラグリンス)の三の区だという。今まで興味すら持たなかった森の向こうに,今自分はいるのだ。

「父さん・・・」

 ルシカは小さくつぶやいた。父さんと一緒に森へ帰りたい。絵本を作りたい。

 ルシカは背嚢から紙綴り(クロッサ)を取り出して,羊を祈る塔の絵の横のページに,木筆(ロッタ)を走らせた。チャレ道,恐ろしい酒場,石造りの家・・・

 父さんはどこにいるんだろう。これからどうやって探せばいいのだろう。

 答えのない問いから逃れるように,ルシカは夢中で絵を描き続けた。



 

 それから,ルシカとリャオはとても穏やかな日々を過ごした。家から出ることはできないので,ロナの家事を手伝ったりした。インバは大市場通りという,大通り沿いに様々な店が建ち並ぶ市場の店の一つで売り子の仕事をしているという。日が落ちる頃に帰ってきて,四人で夕食をとる。インバは毎日夕の刻にローニャの森に煙があがっていないか確かめてくれたが,一度もそんなことはなかった。

 二人はぐっすり眠ることもあれば,遅くまで話していることもあった。

「絵本は何冊持ってきているの?」

「えっと,何冊だっけ・・・,一冊あげたから・・・」

 ルシカは背嚢から値段と売る場所が書かれた紙を取り出す。


 『祈り』      コロノ村へ

 

 『花畑』      大通り市場へ  三九〇ロン


 『森の歌い手』   大通り市場へ  三九〇ロン


 『むかしの話』   大通り市場へ  三九〇ロン


 『空と風』     大通り市場へ  三九〇ロン


 『狼と少女』    大通り市場へ  三九〇ロン


 『つぼみ』     大通り市場へ  三九〇ロン


 『春と冬の話』   大通り市場へ  三九〇ロン


 『七つ目の丘』   大通り市場へ  三九〇ロン


 『雪の降らない国』 大通り市場へ  三九〇ロン


 『白と赤』     大通り市場へ  三九〇ロン


 『狩人の話』    三の区 クランバーノさんへ        二三〇ロン

 

 『森の向こう』   二の区 コノンさんへ           二三〇ロン


 『遠い国へ』    二の区 フィザさんへ           二三〇ロン


 『星空』      サブランの森トラス村 スタンファンさんへ 二三〇ロン



「ほとんど大市場通りで売るみたいなんだ・・・」

 ルシカが言うと,リャオが少し目をみはる。

「それにしても安いんだな。普通絵本っていったら,五〇〇ロンくらいするものなのに」

「え,そうなの?」

「うん。昔はもう少し安かったんだけどね」

 ルシカは曖昧にうなずいた。五〇〇ロンがどんなものなのかまずわからない。そう訊くと,リャオはちょっと考えて,五〇〇ロンあれば四人家族の一食分まかなえると教えてくれた。

「大市場通りで本を売るだけで,けっこうお金になるんじゃないか」

 ルシカはうなずいた。今,一銭たりとも持っていない。お金はある程度必要なはずだ。

「この家を出たら,まずは大市場通りに行って,絵本を売る。父さんのことを知っている人がいるかもしれないし・・・」

 そこまで言って,ルシカははたと気づきリャオを見た。

「リャオはどうするの?」

「僕?」

「うん」

 この家にお世話になってもう八日目だ。そろそろ旅立たなければならない。リャオは少し考えてから言った。

「僕も国を旅でもしようかなと思う。どこかに僕のことを知っている人や記憶をとりもどす手がかりがあるかもしれないから」

 リャオが言い終わると,ちょうど扉がたたかれ,ロナが顔を出す。

「夕食の準備ができたわ」

 二人はうなずいて立ち上がり,部屋を出た。

 階段をおりながら,リャオは続ける。

「僕は別に困ってないけど,僕の両親とか,僕のことを知っている人が,心配してるかもしれないしね」 

 それを聞いてルシカは,リャオの両親はどんな人なのだろうと思った。


 その日の夕食の席で,二人はロナとインバに,明日ここを発つことを話した。

 二人とも「ゆっくりしていけばいいのに」と言ったが,最終的にはルシカとリャオの意思を尊重してくれた。ここへ来て八日目の夕食。初日よりもうちとけ,インバの働き先の話や,街の話など,ルシカは新鮮な気持ちで聞いていた。この家で過ごした時間は,人売り達にさらわれた悪夢から解き放ってくれるような優しい時間だった。




 まっくらな世界にいる。目を閉じているか,開いているかもわからない。まわりを見回していると,突然目の前に光がさしこんできた。やがてあたり一面輝き始め,まぶしくて思わず目をつむる。うっすらと瞼をあけると,光の中に男の人が立っているのが見える。

長い黒髪が揺れていて,とても綺麗だ。その人は何かを言いながらこちらに手をさしだす。思わず自分も手を伸ばしかけた。


 そこで目が覚めた。


(夢,か・・・)

 リャオはゆっくりと身を起こす。隣ではルシカが眠っている。大きな寝台だから,二人で寝ることができるのだ。

(不思議な夢だな・・)

 あの人は誰なのだろう。頭がずきずきと痛む。何かが沸き上がってきそうなのに,水面下でうごめくだけで,もどかしい。

 窓の外を見ると,早朝特有の柔らかな朝日がさしこんでいた。もう一度眠る気にならず,リャオはルシカを起こさぬよう寝台からぬけだし,そっと部屋を出た。



 部屋を出ると,ちょうどロナが通りかかった。

「おはようございます」

「あら,おはよう。早いのね」

 ロナは微笑み,はっとしたように両手に持っている丁寧にたたまれた服を差し出す。

「これ,夏用の上着を作ってみたの。二人の服はもうぼろぼろだし,これから本格的に夏が始まるから・・・」

 リャオはびっくりしながらも礼を言ってそれを受け取った。一着は薄い青,もう一着は薄い緑の涼しげな薄手の服だった。

 リャオはそれを眺めて,思い切ってずっと気になっていたことを訊いてみる。

「・・・どうしてこんなに親切にしてくれるんですか?一週間以上ただでおいてくれて,ここまでしてくれるなんて・・・」

 リャオの言葉に,ロナは虚を突かれたような顔になったあと,眉を下げて苦笑した。悲しい微笑みだった。

「そうよね。普通は変に思うわね」

 ロナはうつむいてちょっと考えた後,リャオに向きなおる。

「償いのつもりなのかもしれないわ」

「つぐない?」

 リャオが首をかしげるのを見て,ロナは以前にも見せた,どこか悲しそうな表情になる。 

「私とインバには,娘が一人いたの」

「・・・“いた”?」

 そのもの言いに,リャオの胸に嫌な予感が走った。

「私たちは,昔ローニャの森に住んでいたわ。私とインバと娘のリーシャ,三人でとても幸せだった。・・・だけど,六歳になった時,リーシャは原因不明の病にかかってしまったの。私たちは街へ引っ越すことにした。街にはちゃんとした医術師がいるし,衛生的にも街の方がいいと判断したから・・・」

 ロナはそっと目を閉じる。

「でも,街へ行く途中のチャレ道で,私たちは一人の男に襲われた。多分強奪屋か人売りだったのでしょう。もみあっているうちに,リーシャは男に突き飛ばされ,頭を強く打って死んでしまったの」

 リャオはただ黙ってそれを聞いていた。

「私もインバも何が起きたのか分からなかった。・・・だけど,その男が一番動揺していたわ。きっと人を殺すつもりなんてなかったんでしょうね。それまでの獰猛さをすっかり失ってがたがたと震えていた。インバは怒り狂って,男の持っていた刃物を奪って,男の顔を切りつけた。“なんで娘を”“まだ六歳だったのに”って,恨みと悲しみの言葉を怒鳴りつけて。何度も何度も。男はうめきながら森の中へ逃げていった。私たちは動けなかった。リーシャを抱きしめたまま,ずっとうずくまっていた。そこに街へ向かう集団が通りかかって,彼らに助けられてここまで来たの」

 あの優しいインバが怒り相手を傷つけているところなんて,想像できなかった。

 どんな二年間だったんだろう,とリャオは思った。どれくらい悲しくて苦しかったんだろうか。家を持ち,働き稼いで,食べていく・・・そんな平凡な暮らしに戻るのに,どんな道を辿ったのだろうか。

 そして今,その胸にどれくらいの痛みを抱いているのだろうか。

「・・・あの寝台は,親子三人で眠るためのものだったんだね」

 ルシカと八日間使った大きすぎる寝台。あれは,家族の安らぎのものとなるはずだったのだ。

「森で暮らしていた頃,リーシャは言っていたのよ。三人で一緒に寝られる寝台がほしいって。この街に来たとき,お金も全然無いのに,思わず買ってしまったの」

 さしこむ日の光が,先よりも強くなっている。

「たくさん後悔した。街へ向かう集団にまぜてもらっていれば,もう一日出発が早ければって・・・リーシャが死なずにすんだ可能性が,次から次へと浮かんできて・・・」

 リャオは身動き一つできなかった。

「困っているあなた達を助けることで,そういう悔いから逃れたかったのかもしれないわ。ごめんなさいね」

 そう言ってようやくロナはリャオの方を見る。その瞳は潤んでいた。リャオは首をふる。

「僕たちはあなた方に助けられたんです。・・・ありがとう」

 ロナはいつもの笑みを見せ,ふと思い立ったように言った。

「・・・この話,ルシカさんには言わないでね。あの子は森に住んでいる子だから・・・。あまりいい気分にはならないでしょう」

 リャオはうなずいた。この話を聞いたら,ルシカはどんなことを考えるのだろう。

「あなたにも・・・変な話をしてごめんなさい」

「とんでもないです。話してくれてありがとうございます」

 言いながら,リャオはふと自分の空っぽの記憶を思った。

 この人達の中にある,たとえようもない悲しみと,そして家族で過ごした幸せな日々が積み重なって,今のこの人達をつくりあげているのだ。

 自分の今までの人生は,どんなものなのだろう。どんな悲しみがあり,喜びがあったのだろう。

 この時,リャオははじめてはっきりと,記憶を取り戻したいと思った。

 どんなものを積み重ね,今の自分ができたのか知りたいと思った。

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