第4話 羊とともに生きる村
どれくらい歩いただろう。ルシカは顔をあげる。木々の隙間からのぞく陽光は明らかに位置を変えていた。もう昼時なのだろうか。疲れはそれほど出ていないが,想像以上の暑さに体力を奪われていた。
ルシカは立ち止まって背嚢から水筒を取り出す。だが,振ってみても何の音もしなかった。驚いてふたを開けると中は空っぽだった。
(嘘だろ・・・)
こまめに飲んでいたが,もうなくなってしまったのか。ルシカは仕方なく水筒をしまって歩き出した。しかしどこまでも変わらぬ風景の中,いつ辿り着くともしれない不安と水がない心細さで,その足取りはどんどん覚束ないものになっていく。
(コロノ村・・・本当にこの方向であってるのかな・・・)
ふらふらと歩いていると,突然瞼の裏がチカッと光り,頭が真っ白になった。ルシカは糸が切れたようにばったりと倒れこむ。
しばらくして,うつぶせに気を失っているルシカの上に一つの影が落ちた。
その頃,バルは森中をかけまわっていた。
(ルシカの馬鹿野郎・・・!)
朝起きて居間の机に置いてあった手紙を読み,バルはすぐ家を飛び出してルシカを探した。だが,コロノ村へ繋がる道にルシカの姿はなかった。バルが本気で追いかければ,ルシカに追いつけないはずがない。つまり,ルシカは道を間違ったのだ。
ローニャの森は広く,深い。三十年以上住んでいるバルすら把握しきることはできないほどに。迷ったとしたら,最悪の場合――
「ルシカー!」
脳裏に浮かぶ“最悪の場合”を打ち消すように,バルは叫び甥を捜し続けた。
「ラウガ様,もう一人のトレラは,私が探して参ります」
シンシア城のラウガの自室で,リャオは主にそう言った。ラウガは先の爆発事件の詳細書から顔を上げる。
「お前はこの前,あの男を捜しに行ったばかりだろう。万全の状態ではない者が行動しても効率が悪いだけだ。おとなしく休んでいろ」
「しかし・・・!」
リャオは苦しげに眉を寄せる。以前ターロン村で,村人からトレラの話をもっと詳しく聞いていれば,初めからトレラが親子であることはわかったはずだ。二度手間になってしまったのは自分の責任なのだ。
「私は大丈夫です。行かせてください」
ラウガはしばしリャオを見つめ考えていたが,やがてうなずいた。
「・・・わかった。行ってこい」
沈んでいた水底から浮かび上がるように,ルシカは意識を取り戻しゆっくりと目を開けた。粗い木目の天上が映る。覚醒しきっていない頭のまま,ルシカはのろのろと身体をおこした。自分の家のものより若干かたい寝台に寝かされていたことに気づき,辺りを見回す。
(ここはどこだろう・・・?)
部屋の中には,寝台の他に木の丸いテーブルが一つ置いてあるだけだ。寝台のそばにはルシカの荷物が置かれている。
(確か俺は,森の中で倒れたんだ・・・)
どうしてこんなところにいるのだろう。まだ身体がだるく,いぶかしげにきょろきょろしていると,正面の扉がかた,と開き,恰幅のいい中年の女性が入ってきた。
「ああ,よかった。目が覚めたかい」
野太い大きな声にびっくりしていると,女性は今閉めた扉を開けて,さらに大きな声で叫ぶ。
「ねえお父さん,目が覚めたみたいだよ!」
すると,女性よりも身長の低い,静かな威厳を放つ老人が顔を出し,しわしわの顔に笑みを浮かべた。
「やあ,ルシカ。身体の具合はどうかね?」
名を呼ばれ,ルシカはますます目を丸くした。
冷たいお茶をルシカにすすめながら,老人は話をしてくれた。
ここがコロノ村であるということ,老人はこの村の村長ハロバで,女性が娘のララであるということ。ルシカが村と森の境で倒れていたところを見つけ,介抱してくれたということ。
自分が倒れていたのは森の中だったはず・・・と疑問に思いながらも,ルシカはおずおずと礼を述べた。
「でも,どうして俺がルシカだってわかったんですか?」
すると,ハロバとララは顔を見合わせ微笑んだ。
「そりゃ,あんたが昔のルトにそっくりだったからさ」
「え?」
「ルトからお前さんの話を聞いている。この村の者は皆,ルトのことを知っているよ。わしとララなんか,ルトが十五で本売りの旅を始めた頃からの付き合いだ」
「なつかしいね。もう十五年以上前か・・・。ルトも村の前でぶっ倒れてたところを私らが見つけたんだよ。あんたを見つけたとき,時間が戻ったのかと思ったよ。すぐにルトの息子だとわかったさ」
ルシカはほう,と息をついた。自分と同じ年に父も旅に出てここに辿り着いたのだ。子どもの頃の父,というものをルシカは全く想像できなかった。
「それでお前さんはなんでここに来たんだ?ルトの使いかい?」
ハロバの質問に,ルシカははっとしてここに来た理由を説明した。ルトが戻ってこないことを告げると,二人は顔を曇らせる。
「そういえば,何日も前に街の方へ行ったきり,戻ってくるのは見ていないね」
「こんなことは初めてだな」
二人の表情を見ていると,ルシカもますます不安になった。
「だから,街へ探しに行こうと思って。チャレ道がどこにあるか教えて欲しいんです」
すると,ハロバが静かに首を振った。
「今からチャレ道を通ると,街に着くのはもう夜だ。あまり日が暮れる頃にあの道を通らない方がいい。強奪屋や人売りに・・・特にチャレ道をねじろにしている奴等を“道落とし”というのだが,奴等に狙われてしまう。出るなら明日の朝が良いだろう」
普通チャレ道は,街へ向かう人々が集団になって通っていくものらしい。単独でこの道を通るのは,ルトやバルくらいだという。
「だいいち,まだ身体が万全じゃないでしょ。今日はたらふく食べてゆっくり休みなさい」
ハロバとララに押され,ルシカはしぶしぶうなずいた。
特にすることがなく,じっとしていても気が焦るだけなので,ルシカは荷物の整理をしていた。すると,絵本の値段と売る場所が書いてある紙が目にとまった。
『祈り』 コロノ村へ
『花畑』 大通り市場へ 三九〇ロン
:
「あ・・・」
ルシカははっとする。コロノ村に売る本もあるようだ。
(でもこの本だけ,なんで値段が書いてないんだ?)
いぶかしく思いながらも,持ってきた絵本を取り出し薄紙を丁寧にはがして『祈り』の絵本を探した。
(この本は,村にいる誰かに渡さなくちゃ)
ルシカは部屋を出て,台所で忙しそうに動き回っているララにおそるおそる声をかけた。
「あの,この本・・・,父さんに,絵本の注文をした人がいると思うんですけど・・・」
ララはふりむいて首をかしげた。
「んん,・・・この村の人はみんなトレラのファンだからね・・・。うちはこの前届けてもらってからは頼んでないし,誰だろう?」
「せっかくだから,捜しにいくといい」
そう言ったのは,居間の机で何か書き物をしているハロバだった。
「この村は人口が少ないから,多分すぐ見つかるさ。じっとしているのもつらいだろう」
身体に障る,とララは不満そうに眉を寄せたが,ルシカは喜んでうなずく。今はじっとしていたくなかった。
出際に「外に出たら驚くぞ」とハロバがにやりと笑った。
「わあ・・・」
はたして,ハロバの予想通り,一歩外に出たルシカは感嘆の声をもらした。
一面緑の海だった。森の中の草原とは比べものにならない。そして,緑の上をたくさんの羊たちが歩いている。何頭いるのだろう。数えられなかった。五~十頭の群れがいくつもあり,おっとりと草をはんでいる。顔を上げれば,今まで見た事がないほど空が広かった。
圧倒され立ちすくむルシカの前を羊が平然と通りすぎていく。目をこらすとずっと遠くに家が何軒か見えた。ふっと視線をずらすと,一つの塔が建っている。森の木々と同じくらいの高さだった。白い筒に先端の方だけが赤い。
羊を避け,ところどころに落ちている糞を避けつつその塔に近づき,見上げてみる。そんなに高くないはずなのに,それはどこまでも空へのびているように感じた。
(不思議だ・・・)
いつもの癖でポケットから紙と木筆(ロッタ)を取り出し,座り込んでその塔を描き出す。森の中はあんなに暑かったのに,ここは何故か涼しく感じた。
こうなるともう何も目に入らない。無心で木筆を動かしていると,とんとん,と肩を叩かれルシカはふりかえる。
すると,同じ顔が二つ並んでいて,ルシカは「うわあ!」とのけぞった。
「誰?」
同じ顔は同じように首をかしげる。二人の肩までの黒髪が柔らかく揺れた。
双子の女の子だ,と早鐘の心臓を抑えながらルシカは思う。十歳前後だろうか。涼しげな格好で二人とも裸足だった。
ルシカが何も言えずにいると,片方の女の子がルシカの手にある紙を見た。
「絵,上手だね」
「どこかで見たことある・・・」
二人は顔を見合わせ,はっとしたようにルシカを見る。
「トレラ!『羊と少年』の!」
「『夏と冬の月』の!」
とたん二人の目が輝き,呆然としているルシカの腕をとって走り出した。
「うちに来て!」「絵を描いて!」
「うわっ!」
されるがままにルシカは走る。少女達は草に散らばる糞を踏むことも気にせず,上手に羊をよけながら先に見えた家を目指して進んでいく。
その家に着いてからもルシカはめまぐるしさに目を白黒させていた。
双子の女の子はルナ・ヤーガとレーシャン・ヤーガ。家にいた両親・・・ハリとクリセナは,ルシカがトレラの一人,ルトの息子だとわかるとお茶を出してもてなしてくれた。ルナとレーシャンはルシカと話したそうにしていたが,ハリに連れられ,しぶしぶ外に出て行った。こぢんまりとした机を挟み,クリセナと向かい合う。ララとは対称的な,細身でおっとりとした女性だった。
「うちはみんな,トレラさんの絵本が大好きなの。ルトさんから,絵を担当しているあなたのことは聞いていたけれど,お会いできて嬉しいわ」
はあ,とルシカは曖昧にうなずく。先のハロバ達もそうだったが,自分達の描いた絵本を読んでくれた人と会うのは,とても不思議な感じがした。隅に置いてある棚を見ると,絵本が置いてあって,気恥ずかしくなったルシカは目をそむける。
クリセナは,この村について話してくれた。コロノ村は“羊の村”であるということ,家は全部で六軒しかなく村人は十九人しかいない。羊は百頭以上いて,村人で協力して放し飼いにしているという。それぞれの家に屠殺,羊乳作り等役割があるらしい。この家では,毛刈りを担当しているとのことだった。
「ルナとレーシャンもお父さんにしごかれながら,毛刈りをしているわね」
おっとりと微笑むクリセナに,ルシカも少し気を楽にして話すことができた。
「・・・あの,あそこにある塔はなんですか?」
「あれは“羊を祈る塔”よ。死んでしまった羊たちが,無事大地の神(アルゼスラ)の元へ還れるようにつくられた,羊たちのお墓なの」
うなずくルシカに彼女は優しく目を細める。
「この村は,羊の恩恵を受けて成り立っている。毛皮,乳,さらには命までも頂いて,私たちは生きているの」
「恩恵・・・」
今までルシカにとって獣は敵であり,食料だった。先のルナとレーシャン,そして人におびえぬ羊たちを思い出すと,自分の中の当たり前だったものが揺さぶられる気がした。
今度はルシカがここに来たいきさつを話すと,クリセナも心配そうに眉を寄せた。最後に絵本を見せると,彼女は首を横に振る。
「うちで頼んだものではないわね。子ども向けの本のようだから・・・ロッカさんかもしれない。この先を少し歩けば着くから,行ってみるといいわ」
ルシカは礼を言い立ち上がった。最後にルナたちのために夏を題材にした絵本を描いてほしいと頼まれ,「父に伝えておきます」とうなずいた。少し遅れて,初めて仕事を請け負ったのだと自覚し,なんとなく落ち着かなくなる。
「ルトさん,早く見つかるといいわね。・・・来てくれてありがとう,ルシカさん。またいつでも寄ってね」
クリセナの笑顔に見送られ,ルシカはヤーガ家をあとにした。家の裏から,男の声と,ルナとレーシャンのはしゃぐ声が聞こえて,少し迷ったが,結局何も告げずにロッカ家を目指した。
緑を堪能し,ゆうゆうと過ごす羊たちの中を歩いていくと,クリセナの言った通り,一軒の家が見えてくる。
木の扉を叩こうとすると,突然扉が勢いよく開き,ルシカは慌てて身をひいた。
「父ちゃんも母ちゃんも大嫌いだ!」
六歳くらいの少年が涙声で叫んで家をとびだしていく。
「スロザ!」
続いて父親らしき男が出てきたが,戸口で立ち止まり,やるせなさを滲ませた表情で唇を噛んでいた。ルシカが何も言えずそのいきさつを見守っていると男はようやくルシカに気がついた。
「ルトが帰ってこない,か・・・」
自分がルトの息子であること,これまでのことを話すと,先の男・・・メラゾ・ロッカは息をついて太い腕を組んだ。がっしりとしたその体型はバルを思い出させる。その隣に座る小柄な夫人・ティラも不安そうに眉を下げた。
「ルトさん・・・,大丈夫かしら」
本について尋ねても,二人は頼んでいないという。
「でも子ども向けの本よね」
この村にはあと羊皮紙職人のカンヤ家と羊乳作りのサーバラ家があるというが,どちらの家にも子どもはいないという。
では,誰がこの本を頼んだのだろう・・・,そんな疑問が頭をもたげたが,ルシカにはそれよりも気になることがあった。
「あの,さっき出て行った子は息子さんですか?」
ルシカが尋ねると,二人は顔を見合わせ苦笑した。
「ええ,スロザっていうの。変なところを見せてしまってごめんなさい」
ルシカが腑に落ちない表情をしていたので,ティラはメラゾの方を一瞬見てから続ける。
「うちは羊の屠殺場なのよ。村全体で決められた時期に決められた数だけ羊を解体しなくてはいけない。そして明日,羊を一頭解体することになってるの」
ティラの説明をメラゾは苦い顔で聞いている。彼女の話によると,明日殺す羊はスロザが初めて出産に立ち会い,とりあげた羊だという。それ以来,スロザはその羊にクロッカという名前をつけ,とても可愛がっていた。
今日,メラゾとティラからクロッカを解体すると聞いて,スロザは泣いて反抗し,とびだしていってしまったらしい。
「六歳の子どもには,酷なことだとは分かっている。だが,オレたちはこうして生きていかなくてはならない。羊の肉はこの村の大きな財源なんだ」
メラゾが言い,ティラもうつむいた。ルシカはなんと言っていいか分からず,ただうなずくことしかできなかった。
帰り際,二人は先までの暗い雰囲気を払うように明るく見送ってくれた。
「いつも本をありがとう。お金が貯まったらまた注文させてもらうわ」
「早くルトが見つかるよう祈っている。会えて良かったよ,ルシカ」
ルシカは小さく礼をして,ロッカ家を出た。
羊のたわむれる草原を歩いていると,羊を祈る塔の近くで先の少年――スロザが小さな子羊を撫でながら泣いていた。クロッカであろうその羊はスロザにぴったりと寄り添っている。ルシカは何か声をかけようかと思い立ち止まったが,結局話し掛けられずその場を去った。
その後は,ルシカは塔や草原,羊たちを描きながら,夕の刻が来るのを待っていた。辺りが少しずつ橙に色づいていく。
途中ルナとレーシャンがやってきて,ルシカのところにとんでくる。絵を描いて,と交互にせがまれ,きゃっきゃとはしゃぐ二人に圧倒されながら,ルシカは二人に一枚ずつ塔の絵を描いてあげた。
「ありがとう!」
「嬉しい!」
満面の笑顔で喜ぶ二人にルシカはさらに目を白黒させた。
「・・・あのさ,あそこの家は何?」
ルシカはずっと向こうの,森と村の境あたりに建っているぼろぼろの小屋を見つけて,少女達に訊いてみる。とたん,二人は眉根を寄せた。
「あれはサハルの家」
レーシャンが近くに寄ってきた羊を撫でながら応える。
「サハルは二年前くらいにふらっと村に来て,勝手に住みついている人」
「村の集まりにも来ないし,何やってるのか全然分からない人」
ルナも言った。ルシカが困惑していると,二人は好き勝手に話し出す。
「もともと“道落とし”で逃げてきたらしいよ!」
「顔中に白い布を巻いてて気持ち悪いよね!」
二人は顔を見合わせ,「こわーい!」と言うと,ルシカに向き直って
「サハルの家には近づかない方がいいよ!」
と,声を合わせる。ルシカはただただうなずいた。
やがて夕の刻を報せるシンシア城の大鐘が鳴り響き,ルシカは空を見上げた。だが,うっすらとオレンジがかった空のどこからも煙はあがらず,ルシカは肩を落とす。
(父さん・・・)
父はやはりまだ帰っていないのだ。
この村の人々はみんな父さんのことを知っていて,自分と二人で作った本が置かれていて,父さんの気配がいたるところにあるのに,本人はどこにもいない。
胸がすくような空しさを感じながら,ルシカはハロバとララの家に戻った。
ハロバの家では,ララが夕食の支度を終え,食卓に美味しそうな料理が並べられていた。ふっくらと炊かれた米,羊の肉と野菜の盛り合わせに卵のスープが三人分きれいに置かれている。ルシカは感嘆の声を上げ,三人は夕食の席に着いた。
「絵本の買い手は見つかったかい?」
「羊がたくさんいて驚いただろう」
ハロバとララの質問に,ルシカはたどたどしく応える。二人とも温かく明るく接してくれ,ルシカは父のいない不安を一瞬だけ忘れられるような楽しい時を過ごした。
やがて,ルシカがロッカ家のスロザのことを話すと,二人とも苦笑しながらもやりきれない表情を見せる。それは息子を追いかけようとして立ち止まった時のメラゾの表情に似ていた。
「クロッカを解体することは,スロザにとってはつらいことさね」
「だが,あやつも受け止めなくてはならないことだな」
ハロバが静かにうなずく。
「羊に,名前なんぞつけてはいかんのだ。そんなことをする権利は人間(わし)らにはない。生きるために命を頂いている。そのことから感傷をもって逃げてはいけないのだ」
日が沈みきる頃,スロザはまだ塔の側でクロッカと共にいた。
クロッカは他の羊たちに比べてまだ小さい。一年前にスロザが初めてとりあげた羊だ。それ以来,兄弟のように共に過ごしてきた。
だが,明日クロッカは死んでしまう・・・,いや殺されるのだ。
スロザは自分に寄り添う子羊を抱きしめた。スロザだって羊肉は大好きだし,肉が生活を支えていることだってわかっている。
だが,どうしてクロッカなのだ。顔をあげれば数え切れないほどの羊たちがいる。その中からなぜクロッカを選んだのか,スロザにはわからなかった。
「クロッカ・・・」
スロザは意を決して立ち上がる。
「村を出よう,クロッカ」
泣きはらした目を細め,スロザはクロッカをひと撫でし,歩き出した。クロッカもその後をついてくる。スロザはその姿を愛しく思った。
「クロッカはぼくが守る。いっしょに生きていこう」
夕食を終え後片付けを手伝った後,ルシカは部屋で父からもらった紙綴り(クロッサ)に絵を描いていた。草原,羊,塔・・・ルシカの頭の中には今日出逢った人々や出来事がうずまいていた。
父と話がしたい。でも,できない。
ルシカは父に話し掛けるように,木筆(ロッタ)を動かし続けた。
目が疲れてきて,ふと窓の外に目をやったルシカは心臓が止まるほど驚いた。
外に一人の男が立っていて,じっとこちらを見ているのだ。その男は顔中に白い布をぐるぐると巻き付けていて,目と口だけがのぞいている。その目は一度見れば忘れられないほど恐ろしい光を放っていた。ルシカは慌てて窓から離れた。心臓が飛び出さんばかりに脈打っている。
(もしかしてあの人が,“サハル”さん・・・?)
一目見ただけで普通の人ではないことがわかった。ルシカが恐怖のあまり固まっていると,今度は一階からどんどんと扉を叩く音がする。
「うわっ!」
ルシカはもう怖くなって部屋を出て一階に下りる。扉のところにハロバとララ,それにロッカ家のメラゾとティラがいた。
「スロザが帰ってこないんだ!探してもどこにもいない」
メラゾが真っ青な顔でそう言った。
村中でスロザを探したが,幼い少年の姿はどこにもない。
ルシカも村人達と一緒になって探した。もうとっくに日が落ち,うとうととまどろみ始めていた羊たちは突然の騒ぎにびっくりしたように身をおこしている。
「スロザー!!」
皆手にたいまつを持ち叫んでいた。しばらくして羊皮紙職人のカンヤがひときわ大きな声で叫んだ。
「おーい!こっち,ここの縄が緩んでるぞ!」
カンヤは森と村の境に立っていた。皆そこへ向かう。森の村の境には獣よけの薬を染みこませた縄で囲ってあり,その一部が緩んでいるようだった。
「まさか森に入ったのか・・・!?」
皆がざわめく中,メラゾとティラが「探してきます」と森へ入っていこうとする。ルシカはそれを見て慌てて前に出た。
「ま,待ってください」
「・・・なんだ?」
いらだたしげに振り向くメラゾに,ルシカはできるだけ声をはった。
「夜の森は危険です。うかつに入らない方がいいと思います」
長年森で暮らしているルシカは夜の森がどれだけ危険か知っている。凶暴な獣がうろうろしているし,木々にぶつかったり足場が悪くて転ぶことだってある。森に不慣れな村の人々ならなおさら危ない。
「でも,中にはっ・・・」
涙声で訴えるティラに,ルシカはぐっとつまってしまう。脳裏に,先見たスロザの後ろ姿がよぎる。
「・・・お,俺が探してきます」
ルシカはしぼりだすようにそう言って,ポケットに入れっぱなしにしていた獣よけの薬(ゾナ・アレッサム)を取り出し,慣れた手つきでうすく身体にぬる。たいまつを持ってルシカは縄をくぐった。
「だが,ルシカ・・・」
「大丈夫です。俺,森に慣れてるから」
村人達の戸惑いの声をあとに,ルシカは暗闇の中に吸い込まれていった。
炎の灯りをかかげ,ルシカは来た道を意識しつつ歩き,辺りを見回す。たいてい獣は火を怖がるし,薬をぬっているから襲われる心配はさほどしていなかった。しばらく進んでいくと,ふたつの影が見えてルシカは走り出した。
「スロザっ?」
近づき目をこらすと,やはりスロザと・・・クロッカだった。ぴったりと寄り添って震えている。ルシカはほっとして微笑んだ。
「よかった,君を捜していたんだ。・・・戻ろう」
だがスロザはクロッカを抱きしめたままぶるぶると首をふった。
「スロザ,気持ちはわかるけど・・・」
彼を説得しようとしたルシカに,スロザは震えたまままっすぐ前を指さした。何かと思い,その方向を見たルシカは驚きのあまり目を見開く。
ふたつの青い眼が光っている。――狼だった。
それも一匹ではない。ざっと見ただけでも十匹近くいる。ぎらぎらと眼を光らせ,浅く息をしながらじっとこちらを見つめていた。全身から敵意と欲望をみなぎらせている。変な動きをすれば,確実にとびかかって来るだろう。
「ああ・・・」
狼は見たことがあったが,ここまでの数と対峙したのは初めてだった。ルシカは全身から冷や汗がふきだすのを感じる。
「・・・クロッカぁ・・・」
すぐ後ろでスロザの涙声が聞こえ,ルシカははっと気を引き締めた。
(だめだ,なんとかしなくちゃ・・・)
ルシカは必死に頭を回転させる。なるべく相手を刺激しないように逃げる方法を考えた。
(・・・そうだ)
思いつくやいなや,ルシカはたいまつを前にさしだし狼たちを牽制しながら,片手で上着を脱いだ。それを後ろで震えているスロザに差し出し,ささやいた。
「ポケットに薬が入ってる。それを身体にぬって,上着はクロッカにかぶせて。ゆっくり,静かに」
スロザはうなずいて,震えながらも上着を受け取り言われたとおりにした。クロッカは火や薬に慣れているのだろう,ずっとおとなしくしている。
低くうなる狼たちにルシカはおそるおそる一歩近づいた。火を恐れてか,群れも,じり,と後ろに下がった。
(よかった,火だけでも十分恐がっている・・・)
今,ルシカは身体に薬をぬっていない状態だが,このたいまつがあれば襲われる心配はなさそうだ。
「俺が狼をとめているから,クロッカと村へ戻るんだ。暗くて怖いかもしれないけど,ただまっすぐ進めば着くから」
その言葉にスロザは一瞬躊躇した。だが,もうそれしかこの窮地を脱する手立てはないと悟ったのであろう,こっくりうなずき,クロッカを抱くようにしてゆっくりと歩いていく。
スロザ達が完全に見えなくなるまで,ルシカはじっとしていた。いつ眼前の狼たちが襲ってくるとも知れず,足が震えている。
(ここから,どうしよう・・・)
スロザ達を逃がすことはできたが,自分が逃げる方法を考えていなかった。獲物の数が減ったせいで,狼たちが殺気立っているのがわかる。火への恐怖を乗り越えて,飛びかかってくるかもしれない――
その時,ざあ,とぬるい風がふいた。
正面から向かってきたそれは,たいまつの炎をふっと消し去っていった。
「しまった!」
一瞬であたりが闇に包まれ,間髪入れずに狼たちが凶暴なうなり声をあげて襲いかかってくる。
(殺される!)
「ふせろ!」
目を閉じたルシカの後ろから低い怒鳴り声が聞こえた。反射的に身をかがめると,突然人影が現れ,狼の群れに飛び込んだ。
「あ・・・」
人影は両手に大きな刃物を持ち,襲い来る獣たちを目にも止まらぬ速さで斬り殺していく。目が暗闇に慣れてくる頃には,その者は最後の一匹の首を切り落としていた。
むっとするほどの血と肉の臭いの中,人影の正体が見えた。狼の血でところどころ赤く染まった白い布が巻かれた顔。のぞく恐ろしい瞳。
「さ・・・,サハルさん・・・?」
「・・・何故オレの名前を知っている?」
その問いにルシカが答えられずにいると,サハルは「まあいい」と吐き捨てる。
「他の獣たちが血の臭いに集まってくる前にさっさと戻れ」
「で,でも・・・」
「いいから,早く行け!」
怒鳴りつけられ,ルシカはびくっと身をすくませて,よろよろと立ち上がり逃げるようにその場を立ち去った。
村に戻ると,皆安堵と喜び,感謝をもってルシカを迎えてくれた。スロザは無事戻ってきていて,クロッカを抱きしめたままじっとうつむいていた。メラゾが「みんな心配したんだぞ!」と一喝したあと,すぐに弱々しく眉を下げて息子を抱きしめる。
ひと段落つき,皆がそれぞれの家に戻りはじめた。スロザたちを気に掛けながらもルシカもハロバとララとともに家に戻った。
村のこと,スロザのこと,サハルのこと,父さんのこと――色々なものがうずまいて,床についても,ルシカはなかなか眠れなかった。
次の日の早朝。誰よりも早く目を覚ましたルシカは,少し迷ったが,出かけることにした。まだハロバとララが眠っている家をひっそりと出て,まだ羊たちさえ眠っている草原を歩く。
目指したのは,昨日は怖くて近づくことのできなかったあばら屋だった。一瞬足がすくんだが,ルシカは思い切って戸を叩いた。
しばらく何の物音もなく,やはり眠っているのだとルシカはきびすを返そうとする。すると,ぎい,と用心深く戸が開き,白い頭がのぞいた。
「おはようございます,サハルさん」
ルシカが膝に力を入れて挨拶すると,サハルは「何のようだ?」とそっけなく訊く。
「昨日,狼から助けてもらったお礼をまだ言っていなかったから・・・」
「そんなものはどうでもいい」
早々と戸を閉めようとする彼を,ルシカは慌てて戸をつかんでひきとめた。
「ま,待って下さい!」
ルシカは片手に持っていた絵本を差し出す。
「これを頼んだのはあなたじゃないですか?」
目の前につきだされた淡い夕焼け空が表紙の絵本を見て,サハルはぴたっと動きを止めた。あたりを見渡し,誰もいないことを確かめると,「入れ」とルシカをうながした。
サハルの家は今にも崩れそうな程ぼろぼろで,何もなかった。調理するためのかまどすらない,ただのがらんとした薄汚い空間だった。
(普段,どうやって生活しているんだろう・・・)
部屋を見回すと,隅に細長い木の板がたてられている。その前に,きれいな花や木の実が丁寧に並べられていた。『ことりのうた』という,ルシカがだいぶ前に描いた絵本も立てかけられている。サハルはその上にルシカから受け取った『祈り』をそっと置いた。
「誰かの・・・お墓?」
ルシカが遠慮がちに尋ねると,サハルはしゃがんだまま静かにうなずいた。
「女の子のな。・・・まだ六歳だった」
そうなんだ,と小さくうなずいて,ルシカもサハルの隣に座ってその木の板の前で目を閉じた。
目を開けると,サハルが驚きの色を帯びた瞳でこちらを見ていた。不思議と昨日会った時ほど怖くなかった。
「子ども向けの絵本を頼んでたのは,お供えするためだったんだ・・・」
ルシカが一人で納得していると,サハルが小さく息をついた。
「変なガキだ」
ルシカはびっくりして首をかしげた。サハルは立ち上がる。
「ルトの使いか?」
「・・・ううん,そういうわけじゃない」
ルシカが父を捜している旨を伝えると,サハルは少し眉をひそめた。
「よくこの本が俺宛だとわかったな」
「昨日の夜,外で俺のこと見てたから・・・なんとなくだよ」
ルシカは立ち上がり,自分を見下ろしている男を見つめた。
「昨日,狼から助けてくれてありがとう。それに,森の中に倒れていた俺を,村の近くまで運んでくれたのもサハルさん・・・だよね?」
サハルの目が驚きに見開かれる。
「どうしてわかった?」
「えと・・・なんとなく,だけど・・・」
昨日の夜,サハルのことを考えていたらそんな考えが浮かんだのだ。ルシカは困りながらも礼を述べた。そんなルシカを見て,サハルは口元を不器用にゆがめた。
「やはり変なガキだ。・・・ルトに似ているな」
「えっ・・・」
目を瞬かせるルシカにかまわず,サハルは木の板に視線をうつす。
「・・・二年前,ここに来た頃は,外に墓を置いていた。たまたまそれを見つけたルトが,供え用の本を持ってくるようになったんだ。オレは金無しだから,代金を払えないって言ったら,これは女の子にあげるものだからって,村に来る度に本を渡してくれた」
こちらに視線を戻したサハルの目がふっと優しくなった。
「あんたも訊かないんだな。この女の子は誰かとか,オレの怪我とか,どうしてこんな家に住んでるのかとか・・・」
「あッ・・・」
言われて初めて,ルシカははっとする。別にそんなことは気にならなかった。ただひっそりと村に住み,死んだ子どもを悼む男――その事実を受けとめただけだ。
「普通は訊きますよね・・・」
頭をかくルシカに,サハルは今度ははっきりと笑みを浮かべた。
「ルトもあんたと同じように何も訊かなかった。何も訊かず,本を届けてくれたんだ」
サハルの家を出るとき,彼は最後に
「チャレ道には気をつけろよ」
と言った。ルシカはうなずく。
「父さんと一緒に,また来ます」
サハルは虚を突かれたような表情をしたが,小さくうなずいてくれた。
朝食をとったあと,ハロバとララがチャレ道の前まで案内すると言い,ルシカは彼らについていった。
「今日はやっぱり予定通りクロッカを殺してしまうんですか?」
ルシカが尋ねると,少し前を歩いていたハロバがふりむかずにうなずいた。
「ああ。クロッカの命も他の羊たちの命も平等だ。クロッカだけ特別扱いすることはできん」
クロッカにぴったりと寄り添うスロザを思い出して,ルシカは胸が痛んだ。ルシカの悲しみを読み取ったのか,ハロバが続ける。
「メラゾも子どもの頃は羊を殺すのは可哀想だと泣いていた。命をいただいている我々には必要な苦しみなんだ。それと向き合いながらみんな生きていく。スロザだってそうさ」
ハロバの気負いのない,それでも意志のこもった言葉を聞き,ルシカもうなずいた。
チャレ道は,森をまっぷたつに切るような道だった。大人十人ほど並んで歩けるだろう。道のはじに獣よけの薬を染みこませた縄がつながれ,地面の土はならされ,しっかりと整備されている。だが,朝だというのに薄暗く,どことなく気味の悪い雰囲気を漂わせていた。
「昔はちゃんと駐在兵がいて治安も良かったが,ある時から兵がつかなくなり,荒れ放題。今は道落としの巣窟だ」
「気をつけていくんだよ」
ルシカは内心恐ろしかったが,父も伯父もいつもここを通っているのだと自分を励ましてうなずいた。
「お世話になりました」
「そんなかしこまらないで。アーレベルクの人達はもう私らと家族みたいなもんさ」
「ルトと一緒に帰っておいで」
温かい言葉に,ルシカは心細さが少し薄れたような気がした。
「ありがとう。――行ってきます」
ルシカは薄暗い道を歩き出す。
ここには父さんの面影がたくさんあった。
今度は,この村に父さんと一緒に来るんだ。たくさんの絵本を持って。
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