第3話 帰らぬ父,ルシカの旅立ち
“王都を囲む街(セル・ラグリンス)”は三つの区に分けられている。シンシア城大正門に繋がっており,ピルトの森に面している一番大きい一の区,サブランの森に面した二の区,そしてローニャの森に面した三の区だ。
リャオは馬を走らせながら考えていた。
「おいリャオ,その“トレラ・アーレベルク”だかを探すあてはあるのか?」
後ろを走る中年の男ダルタンが叫び,さらにその後ろに続くクッシュもうなずいた。
二人は今は平民の格好をしているが,本来はラウガの直属の兵だ。“トレラ・アーレベルク”の追跡にあたって,ラウガがリャオに二人の部下を与えてくれたのだ。だが,二人は息子ほどの年齢のリャオの下につくことが不満らしく,何かと見下した態度をとってくる。
しかし,別段リャオは気にならなかったし,興味もなかった。
「三の区の印刷場に行ってみようと思う」
リャオは淡々と今考えていたことを話す。
「トレラは戦争についての本を書いていたが,まだそれが出回っている様子はない。ターロンの村人の話だと,奴は百枚そこらじゃない膨大な枚数を書いていたようだ。また,その本を広めようとしていたらしい。いくら普段一冊一冊手作りで仕上げているような男でも,そんな膨大なものをいくつも書くことはしないだろう。必ず印刷場に行くはずだ」
「だが印刷場なら一の区にもあるじゃねえか。なんで三の区なんだ?」
こちらをなめきった口調にもリャオは平然と言い返す。
「トレラがターロン村に訪れるのは一~二ヶ月に一度だ。本の価格からしても,とても生活していけないだろう。彼があんまりターロン村に訪れなかったのは,家が遠いからじゃないだろうか。普段はもっと家から近いところで本を売り,時々遠出していたのだと思う」
ターロン村は一の区に限りなく近い二の区にあり,一の区の印刷場が近くにある。
「トレラは少なくともターロン村付近には住んでいない。もし印刷場に行くなら,一の区よりも三の区の方が可能性がある」
リャオの話にまだ納得していない表情でダルタンとクッシュは押し黙った。
まあ当然だろう。三の区印刷場を目指すのは苦肉の策だ。そもそもこの広大なシンシア王国の中でたった一人の人物を捜すこと自体不可能に近い。
(まあ,それが外れればまた違う場所を探せばいい)
苦労も困難もいとわない。
ラウガ様が望むのなら,何があっても自分はそれを叶えるのだ。
父が旅立ってからもう一週間近く経つ。
昼下がり,ルシカは薄く日が差す自室で,ルトの物語を読んでいた。ルトが出て行った朝,目を覚ますともう父の姿はなかった。代わりに,机の上に十枚ほどの物語と,手紙と,一冊の高価そうな紙綴り(クロッサ)―ノート―が置いてあった。
昨日渡し忘れていたんだが,卒舎祝いを置いておくよ。
たいした物じゃなくて申し訳ないが,使ってくれ。
あと,話していた新しい物語も読んでおいてほしい。
二週間で帰って来るから,留守を頼む。帰ってきたら,一緒に本を売りに行こう。
美しい紙綴り(クロッサ)を見て,ルシカの心は躍った。だが使うのがもったいなくて,机の中に大切にしまってある。
(『海底の城』・・・)
父の新作は“海”の世界の物語だ。シンシア王国は内陸国だから,ルトもルシカも海を見たことがなかった。だが,ルトは何作も海を題材にした物語を書いているし,ルシカも父の物語を読み,海がどんなものか見たもののように鮮明に浮かぶ。
毎日,この本の絵を描くときは,一読してから描き始めるが,何度読んでも飽きることはなかった。
ルシカは小さく笑みを浮かべて木筆(ロッタ)をとり,昨日の絵の続きを描き始めた。
ルトは三の区印刷場で本の印刷を終え,帰路についていた。
三の区印刷場辺りは栄え,市や家が密集しているが,ローニャの森へ続くチャレ道(人工的に整備された道)付近は稲の田や野菜,果樹の畑が広がる静かでのどかな景色が広がっている。
ルトは,引いている荷車を見やった。膨大な紙の束が積まれている。五百枚近い物語を四百部刷ってもらうのは,流石に丸二日かかってしまった。
畑の向こうにローニャの森に挟まれたチャレ道が見えてくる。大人十人並んだほどの幅の道は夕陽にオレンジに照らされていた。
この道を丸一日かけて歩けば,コロノ村に着き,さらにコロノ村から半日歩けばようやく家に着く。家を出てから今日で十日目だ。ルシカに伝えた二週間までには余裕で帰れるだろう。
チャレ道は人通りが少なく強奪屋や人売りも出没するあまり治安の良い場所ではない。
(今日はこの辺りの家の人に泊めてもらおう)
お金にはまだ少し余裕があるし,さっそくこの物語を読んでもらえるかもしれない。
そう思い,辺りを見回したとき,ふっと首筋を何か冷たいものに撫でられたような気がして,ルトは振り返った。
そこには,一人の少年が立っていた。
夕陽を受けて優しく目を細める茶髪赤眼の彼は,息をのむほど美しかった。
「こんばんは」
少年は人なつこい笑顔と声で言う。この辺の子どもかとルトは一瞬思ったが,すぐに違うと打ち消した。雰囲気が明らかに普通の子どものものではない。
「・・・君は・・・?」
かすれた声で呟くと,少年は無邪気な笑顔を浮かべ,こちらに歩み寄ってくる。
「なあ,おじさん。その荷車に積んであるもの,見せてよ」
その少年の不思議な雰囲気のせいか,ルトは一歩も動けなかった。
頭の隅で,早く逃げろと何かが叫ぶ。
少年は荷車にかかっている布をまくり,五百枚近い紙の束を手に取った。
「『知るべきこと』・・・」
少年はぱらぱらと紐で綴じられた紙をめくり,そしてゆっくりと顔をあげる。その目には先までとは打って変わって,冷たく冴えた光を宿していた。
悪寒を感じるルトに,少年は不気味なほど優しく微笑んだ。
「あんたが“トレラ・アーレベルク”か」
その瞬間,いつの間に潜んでいたのか,丈の長い稲田の影から,二人の男が飛び出してきて,ルトの腕を掴む。
「なッ・・・!」
ルトが身をよじろうとすると,少年が流れるように滑らかに懐から小刀を取り出し,ルトの鼻先につきつけた。言葉を失ったルトに対し,少年がその年に似合わぬひどく冴えた声音で言う。
「ラウガ王子があんたをお探しになっている。ともに城まで来てもらおう」
かちゃん,と音がして,ルシカは床に敷いた布の上に薬草を置いていく作業を中断し,振り向いた。バルが薬草を擂るための皿を落としてしまったようだ。
「伯父さん,大丈夫?」
「ああ,すまねえ」
バルは笑って頭をかき,砕けた破片を拾い集める。ルシカも立ち上がって手伝った。
ルトが旅立っている間はよくバルの家で夕飯をごちそうになる。その代わり,ルシカはバルの仕事を手伝っていた。
「そろそろ日が暮れる。夕食の支度をしよう」
「うん」
ルシカはうなずき,窓の外を見た。いつもと変わらぬ夕陽が,優しく木々を照らしていた。
三日三晩,馬は休む間もなく森の中を走り続けた。その間ろくに休まず,飯も水も満足に与えられないため,月明かりの下,ルトはぐったりと馬に揺られていた。後ろ手に縛られ,馬を操っている男に監視された状態だ。先頭の馬にはあの少年が,後ろにはもう一人の中年の男がいる。
(油断していた・・・)
ルトはもやがかかったような頭で考える。
まさかラウガに目をつけられているとは思わなかった。それも“トレラ・アーレベルク”が自分だとわかり,その居場所までつきとめられていたとは。
ラウガのもとへ連れて行かれ,自分がどんな目にあうかよりも,ルトはたった一人の息子のことが心配だった。
お前はルシカの父親だ。何を一番大切にするか,忘れるなよ。
兄の言葉が苦い思いと共によみがえる。
(ルシカ・・・)
一行は,森のある地点で止まった。一カ所だけ全く木が生えていない場所で,そこには大きな岩があった。
リャオは馬から下り,懐から鍵を取り出し,岩の底面に巧妙に隠されている鍵穴に差した。ガチャリという音を聞き,岩を軽く押すと,巨大なそれは簡単に転がった。
そして,大きな穴がぽっかりと口を開ける。穴の中は,馬が一頭半通れそうな幅のなだらかな下り坂になっていた。
この道はシンシア城の地下に繋がっている。大正門は王族の者が通る公の道であり,リャオ達のような下仕えの者は,各地にあるこのような隠し通路を使って城に出入りするのだ。
一行はゆっくりとその穴の中へ進んでいった。
ラウガは自室で部下から“例の件”について報告を受けていた。
「次の試作品は間もなく完成致します。ですが,やはり実験台が足りません」
実験衣を身にまとった部下の言葉に,ラウガはうなずいた。
「それについては考えておく。“もう一つの方”はどうなっている?」
「はっ。――もう準備は万端です。予定通り,明日実行に移せます」
「わかった。シャンズル,指揮は全てお前に任せていいか?」
「お任せください」
不敵に笑う彼の目に若干の疲労の色が見えるのを,ラウガは見逃さなかった。
「・・・父上側の重臣や兵に悟られぬよう,水面下でこれだけの作業をするのは大変であろう」
声を低くして呟くラウガに,シャンズルは慌てて身を乗り出した。
「いえ,そのようなことは・・・!」
「――だが,お前達の行動は,必ずシンシアの発展に繋がる。私についてきてくれるな,シャンズル?」
シャンズルの瞳がぱっと輝いた。
「当然であります!この身は全て,ラウガ様のものですから」
ラウガは「ありがとう」と言いながらも,その心には一片の感謝も温情もなかった。
人はどうしてここまで扱いやすいのか。
他者の手足となり,こいつらはなんの屈辱も不服もないというのか。
シャンズルが出て行き,ラウガは柔らかな椅子に深く腰掛けた。
統治する者,される者。支配する者,される者。奪う者と,奪われる者。
世界はなんと単純なことか。
そして自分は,統治し,支配し,奪う者として生きていくのだ。
人を動かす力,先を見通す力,支配する力,自分は全てを持っている。
(自分の望みは,自分の力で叶えてみせる)
――誰にも邪魔はさせない。絶対に。
「ラウガ様」
扉がノックされ,呼びかけられる。ラウガは思考を切り替えた。
「リャオか。入れ」
ゆっくりと扉が開き,自信ありげに笑みを浮かべたリャオが現れる。その表情を見,ラウガは彼が自らの責務を果たしたことを悟った。
「・・・“トレラ・アーレベルク”を捕らえました。地下牢に入れてあります。いらっしゃいますか?」
ラウガはうなずいた。
そう。誰にも邪魔は,させない。
自分をここまで連れてきた二人の男に見張られ,ルトは地下牢に倒れこんでいた。身体が重く,ようやく放たれた両腕がしびれ,震えている。
遠くから二つの足音が近づいてきて,二人の男が片膝をつき頭を垂れた。足音が止まり,なんとか上体を起こしてルトは顔をあげた。
そこには先の少年と,美しい黒髪の男が立っていた。
ルトと同い年くらいにみえるが,今まで見たこともないきらびやかな服と近寄りがたい厳粛な雰囲気を纏っていた。
「ラウガ王子・・・」
ルトが乾いた声で呟くと,彼は暗い笑みをかえした。
「そうだ。――トレラ・アーレベルク,私はお前に訊きたいことがある。・・・事情があってあまり表沙汰にしたくないことで,このような形でまみえることになってしまったのだ。謝ろう」
しかし彼は全く申し訳なさを感じさせない冷酷な態度のまま,男の一人が持っていた袋を受け取り,中身を取り出す。
それはルトの書いた物語―『知るべきこと』だった。
ルトは目をみはった。捕まったとき,あの少年が荷車ごと紙の束に火をつけるところを見て身を引きちぎられるような思いを抱いたが,一部だけ残していたのか。
ラウガがその束をぱらぱらとめくる。
一〇七年前のシンシア・ラージニア戦争。事の発端。ラージニア王国軍の侵攻。テーハルラ山脈戦。ピルトの森攻防戦。サブランの森の悲劇。王都を囲む街(セル・ラグリンス)死守大戦。ラージニア進攻戦。戦時の人々の暮らし,文化,兵器――ラウガが長い時間をかけて抹消してきた,今やどこにも記録されていない戦争の全貌が,そこには記されていた。
ラウガは冷ややかな目でルトを見下ろした。
「訊くまでもないかもしれないが,何のためにこれを書いたんだ?」
冷たく威圧するような響きに動じず,ルトは真っ直ぐにラウガを見つめた。
「・・・国民に,戦争について知ってもらうためだ。――どこかの誰かが,戦争に関する資料や遺跡を葬り,人々を争いの歴史から遠ざけようとしていたから。・・・万が一戦が起きそうになった時,人々に反戦の思いを抱いてもらうために」
「貴様ッ・・・!王子に何て口のききかたを・・・!!」
男の一人が立ち上がってルトを怒鳴りつける。それを片手で制しながら,ラウガは背筋がぞくりと震えるのを感じていた。
(そこまで勘づいていたのか・・・)
やはり自分は間違っていなかった。この男は摘んでおくべき芽だ。
(だが・・・)
「トレラ,そこまでわかっているなら,私に捕まったお前はどのような目にあうかも想像がついているのだろう?」
ラウガは腰に差していた長剣を抜き,ルトの目の前につきつけた。
ルトはぐっと顔をゆがめる。
一瞬,死への恐怖とナリィとの約束を遂げられぬ無念さがわきあがった。だが,すぐにその思いを打ち消す。
(ラウガは俺一人がトレラだと思っている。・・・俺がここで殺されれば,ラウガは安心するだろう。その方がルシカの身が安全かもしれない・・・)
だが,その先に待っているのは,ラウガによって導かれる争いの歴史だ。
今ここで殺されるわけにはいかない・・・!
ルトの心を読んだように,ラウガは冷徹な笑みをみせ,剣を引いた。
「だが,正直なところ,お前を殺すのは惜しい。お前の書く物語・・・そして絵は,私でも目をみはるような“何か”がある」
ラウガはしゃがみこみ,ルトと目線を合わせた。
「トレラ。もし私の言うとおりの物語,絵を書くのならお前を助けてやろう。それだけではない。金でも家でも道具でも,望むものを全て与えてやる。何が起きても,一生お前の平穏な暮らしを保障しよう」
ルトは予想外の言葉に目を見開いたが,すぐに彼をにらみ据える。
彼が自分に要求するもの・・・そんなものはわかりきっている。ルトに人の憎しみを煽り,ともすれば争いへ駆り立てるような物語を作らせるに違いない。
迷いはなかった。
「断る」
まっすぐなルトの返答に,ラウガは特に驚いた様子もなく「そうか」とだけ言って立ち上がった。
「リャオ,ゼアゾンを呼んでこい。この男に自分の家の所在地を吐かせろ。何か資料が置いてある可能性が高い」
リャオ――あの少年はリャオというのか。ルトは人ごとのようにぼんやりとそう思った。
少年は返事をして,速やかにこの場を去ろうとしたが,さらにラウガが呼び止める。
「ゼアゾンを呼んだら,お前は少し休め。ダルタンとクッシュも」
二人の男は深く礼をし,去っていった。
「それと,ゼアゾンに伝えてくれ。どうせ最後は殺すのだから,どんな手を使っても構わない。必ず吐かせろと」
少年はうなずき走っていく。ラウガもゆっくりと歩き出した。
誰一人,もうルトのことを見なかった。
一人しめきった牢に残され,隅に自分の物語が投げ捨てられているのを見,ルトははっきりと絶望を感じた。
自分はこれから拷問にかけられ,最後は殺されるのだろう。
ナリィとの約束を果たせず,ルシカをたった一人残して――
やがて大柄な男が牢に入ってきた。ルトの髪をわしづかみにし,耳元で大声で何かを叫ぶ。頭がくらくらした。
ルシカの居場所――自分の家の場所だけは絶対に教えてはならない。それが,最後に自分にできることだ。
男が腰にさしていた棒のようなものを振りかざし,渾身の力でルトの左肩を打ちつけた。
ほとばしる激痛に,ルトは声をあげてうずくまった。
ルシカはばっととび起きた。全身びっしょり冷や汗をかいている。窓の外を見ると,まだ真夜中のようでまっくらだった。
(なんだ・・・この感じ・・・)
黒い不快な何かが心をいっぱいに支配していた。胸のあたりが重くて,身体が動かない。
「とう・・・さん」
ふいにこぼれたのはそんな言葉だった。
何かが自分をせき立てている。このままじゃ,間に合わなくなるぞ,と。――だが,何に?
ルシカはゆっくりと寝台に横になった。
父のことが,なぜかずっと頭から離れない。
このままでは,間に合わなくなる――
(・・・大丈夫だ)
ルシカは心を落ち着けた。今日でルトが出て行って十三日目だ。ルトは二週間で帰って来ると言っていた。だが――ルトは街へ行くとき,本来十日で帰って来るなら十二日というように必ず日数を多く見積もってルシカに伝える。一人で待っている息子に心配をかけないようにするためだ。だから彼は言っていた日数よりも一日二日早く帰って来るのが殆どだった。
――では,なぜ今回は帰ってこないのだ?
一瞬脳裏によぎった不安を,ルシカは慌てて打ち消した。大丈夫。
父さんは,必ず明日帰って来る。
次の日。
ラウガは豪奢な食事場で朝食をとりながら,一人昨晩のことを考えていた。
“トレラ・アーレベルク”のことだった。静かだが,意志の強そうな瞳。彼が自分の案を断ることは,一目彼を見たときから予想していた。
プラスにはならなかったが,奴を捕らえた以上,もうこちらが気にかけるものは何もない。
そのはずなのに,ラウガの胸には何とも言えぬわだかまりがあった。初めてトレラの絵本を見た時,そして実際にトレラに会った時,何か正体の分からぬ違和感を抱いたのだ。
(私は何かを見落としているのだろうか・・・?)
その時,扉がノックされ,部下の一人が部屋に入ってくる。
父の・・・ザハラ国王の容態が悪化したとのことだった。部下が出て行った後,ラウガは残忍な笑みを浮かべた。
(父も,もう終わりだな)
何も心配することはない。今日また,誰にも気づかれぬ新たな一歩を踏み出すのだ。
クランクは,王都を囲む街(セル・ラグリンス)一の区と二の区の間に住む交易運搬屋だった。ラージニアからの輸入品をテーハルラ山脈のラージニア交易場から王都を囲む街(セル・ラグリンス)へ荷馬車で運ぶ仕事をしている。百人以上が荷馬車を引く中,クランクは今回は最後尾だった。
荷車の中身は缶詰(ルズル)といっただろうか。食物を腐らせず長く保存できるよう加工したものらしい。十五年近くこの仕事をしているが,毎回ラージニアの技術力の高さには驚かされる。
一ヶ月以上歩き,ようやく王都を囲む街(セル・ラグリンス)に入った。森を抜けると,家が近くなるせいか無意識にほっとする。
この荷を王都(ランザバード)の管理場へ届ければ,とりあえず仕事が一段落する。家で待つ妻と二人の娘に,何か土産を買っていってやろう・・・。
そこまで考えて,クランクはふと妙な臭いが漂ってくるのを感じて,振り返った。
そして,仰天して目を見開く。荷車から白い煙が上っているのだ。
声をあげる暇もなく,荷車はすさまじい音を立てて爆発した。
いつもと変わらぬ夕陽が今日も森を照らす。ルシカは森の中の草原で横になっていた。この草原を初めて来たときのルトのことを思い出す。
父さんは,今日も帰ってこなかった。
今日一日,ルシカは落ち着かなかった。家で絵を描いていても,バルの手伝いをしていても,胸の辺りがざわざわとして頭がぼんやりとしている。
二週間・・・十四日で帰ると,ルトは言っていた。今まで一度も,ルトは約束の期間を過ぎたことはない。むしろ必ずといっていいほど早く帰ってきた。
(父さん・・・)
昨夜からずっと,心の一部がルシカに警告を発している。
ここにいてはいけないと。
(・・・だめだ!)
ルシカは不安をぬぐうように立ち上がった。
家に帰ろう。もしかしたら,父さんが戻ってきているかもしれない。遅くなって悪かったと,笑ってくれるかもしれない・・・
だが,立ち上がったルシカの目に,とんでもないものがうつった。
黒煙だった。木々の向こう,巨大なシンシア城の先端が見え,その少し離れたところで黒く太い煙が真っ直ぐに赤い空へ上っていく。まるで空と地を支える柱のようだった。
ルシカは凍りついたようにその光景を見ていた。あの方向は見間違えようもない。王都を囲む街(セル・ラグリンス)だ。
明日から,街の方へ行ってくる。
二週間前の父の言葉が脳裏に鮮やかによみがえる。ルシカは打たれたように走り出した。
あの煙が,街のどのあたりで発生しているかはわからない。ルトとは全く関わりのないものかもしれない。――それでも,悪い予感は消えなかった。
ここにいては,いけない。
夢中で走りながら,ルシカは自分のやるべきことをひしひしと感じていた。
真っ直ぐにバルの家に向かう。彼は家の前で,今日捕らえてきたのであろう鹿の皮をはいでいた。
「伯父さん」
息を切らしたルシカにバルはぎょっとして皮剥ぎ包丁を動かしていた手をとめる。
「どうした,ルシカ?」
「伯父さん・・・,俺,父さんを探しに街に行ってくる」
ルシカの言葉に,バルはさらに目を丸くする。
「どうしたんだ,いきなり・・・」
「父さんが帰ってこないんだ。いつも必ず,俺に心配かけないように早く帰ってきてくれた。なのに,今回は・・・」
まくしたてるように話すルシカをバルは手で制した。
「ちょっと落ち着け」
バルは一つ息をつく。
「今日であいつが旅立ってから十四日目だろう?小さなトラブルがあって今日帰って来るかもしれない。そんなに焦るな」
「でも・・・!街の方で煙が上がってるんだ」
ルシカの言葉にさすがにバルは眉を寄せた。
「街全体がか?」
「・・・いや,一部だけだけど・・・」
「なら,何か火事でもあったんだろう。そんなに気にすることじゃない」
すぐに平然と応えるバルにルシカは憤りにも似たもどかしさを感じた。身をかたくしているルシカをバルは真っ直ぐに見つめた。
「いいか,ルシカ。街へ行くってのはな,オレ達森に住む者にとっては,お前が思っている以上に危険なことなんだ。街へ繋がるチャレ道には強奪屋や人売りが出やすいし,ちょうどお前くらいの年齢の奴が一番狙われやすい。街の奴等に,森に住む者は世間知らずだと見下されて,金や物をだまし盗られることだってある。森の者のことを根拠もなく毛嫌いしている奴等だっているんだ」
初めて聞く事実にルシカは息をのむ。そういえば,今まで父さんから詳しい街の話を聞いたことがなかった。そしてそのことに気づかないほど,自分は森の向こうに興味がなかったのだ。
「オレもルトも二十年近く街に通っているが,オレは今まで何度も襲われたり損な目にあったことがあるし,ルトは不思議な勘を持ってるから,うまく問題をやりすごしてきた」
「でも,父さんは今度一緒に街に行こうって言ったんだ」
「“一緒に”だろう。ローニャの森の父親は成人したばかりの子どもを一人で街へは行かせない。子どもと一緒に通い,慣れさせていくはずだ」
ルシカは押し黙った。バルは続ける。
「ルトを探しに行って入れ違いになったらどうする?今度はお前の身が危ないぞ。――頼むから,一人で街へ行こうとなんてしないでくれ」
ルシカは動けず,彼の瞳を見つめていた。こんなに険しく,また意志のこもった伯父の表情をルシカは見た事がなかった。ルシカの中にあった熱がゆっくりと冷めていく。
「・・・わかった」
うなだれるルシカに,バルは励ますように少し表情をくずした。
「もう何日か経って,それでも戻ってこなかったらオレと一緒に探しに行こう。それでいいだろう?ルシカ」
バルの気遣わしげな,それでも最後の一押しに,ルシカは拳を固く握りしめてうなずいた。
その日の夜。鹿の皮を天上から吊しながら,バルはふと上を見上げた。二階の一室にはルシカがいる。今日は自分の家に泊まるようルシカに声をかけたのだ。家に一人にしておくのがかわいそうだったこともあるが,何より一人で森を出て行ってしまうことが心配で近くにいてほしかったからだ。
(ルト・・・)
彼がなかなか帰ってこないことに,バルも大きな不安を感じている。繊細なルトに対しておおざっぱな気質のバルだが,今回は嫌な予感が胸いっぱいに広がっていた。
(とにかく,ルシカを一人で行かせては駄目だ)
自分は弟からルシカを任されているのだ。彼を危険な目に合わせることはできない。
「爆発したのはラージニア交易場から輸入品を運んでいた一二八台の荷馬車のうち,四十二台。運搬道のピルトの森と一の区の堺で起きました。死者は運搬屋十二名と,その付近にいた一般民九名。五十三人が重軽傷です。飛び散った火の粉が辺りの民家に燃え移り,五軒が全焼,七軒が半壊しました。火は既に消されています」
シンシア城のラウガの自室。偵察に行ったリャオの報告に,ラウガは何事もないようにうなずいた。
「ほぼ想定内だな。国民の反応はどうだった?」
「何が起こっているのかわからないようでした。情報屋(王都や街で起きた出来事を紙等にまとめ,各地に売り回る人)が動き出し,騒然としております。死者やけが人はひとまず一の区の広場に運び,ザハラ国王の命によって,医者達が向かいました。おそらくもう着いているころでしょう」
ラウガは小さく笑んだ。父はこの事態をどう思ったのだろう。父はもう被害の状況を見に行くことさえ叶わないのだ。
「国民どもにはまず“爆発”という概念自体ないだろう。そんな危険で――発展的な産物はシンシアにはない」
今回爆発したものは,ラウガが密かに製造させたものだ。
二,三年前,ラージニアから捕らえてきた頭の切れる学者,技術者をある場所に監禁し,この爆弾を完成させた。そして部下に,人々に気づかれぬようラージニアからの輸入品に忍ばせさせたのだ。
「騒動が落ち着けば必ず,あれは何だったのか,という話になる。爆発という未知の現象。そして爆発した荷車の中身はラージニアからの輸入品。人々の行き着く答えは一つだ」
平和に染まりきり,他国になど興味を示さなかった愚民どもは,ラージニアへの不信感を抱くだろう。それでいい。今日の出来事は,まだほんの下ごしらえだ。
父が死に,自分が王となった時,全てが動き出す。
リャオも笑んでうなずき,ふと思い出したように床に置いていた麻袋から,ところどころ焼け焦げた一冊の絵本を取り出した。ラウガの胸に嫌な予感が走った。
「民家の焼け跡から見つけました。別にお伝えする必要もないかと思ったのですが・・・」
ラウガはそれを受け取った。なぜか心が落ち着かない。
それは『春の風』という題の子ども向け絵本だった。表紙の隅をみると「ルト・アーレベルク/ナリィ・アーレベルク」と書かれていた。
「・・・!?」
ラウガは本のページをめくる。その文体,雰囲気。それはまさしくトレラ・アーレベルクの作品そのものだった。紙の質から十年以上前のものに思える。
(どういうことだ?)
「アーレベルクとあったので,念のためお持ち致しました」
リャオが遠慮がちに言ったが,ラウガは顔を上げなかった。
絵がトレラ・アーレベルクとは違う。似ているが,確かにそれはトレラの絵とは違うものだ。月日とともに絵は変わっていくものだが,これは根本的な・・・絵を描いている人物が違うように思えた。
だが,文体,物語はトレラのものだ。あの男の作品は簡単に似せられるようなものではない。
(では,これは・・・)
その時,ラウガの脳裏にある事実が浮かんできた。瞬間,ずっと胸に絡まっていた違和感や胸騒ぎがするするとほどけていく。
ラウガは顔をあげ,困惑したようにこちらを見つめている少年に問いかけた。
「・・・リャオ,“トレラ”がどういう意味か知っているか?」
「いえ,存じ上げません・・・」
「トレラ,とは,古代シンシア語で“父と子”という意味だ」
リャオが目を見開く。ラウガはうなずいた。
「トレラとはおそらく作家としての名(グロー・セア)だ。今牢にいる男はルト・アーレベルクだ」
ラウガは絵本に目を落とす。
「十年以上前はルトが物語を書き,ナリィが絵を描いていた。だが,ある時からルトは“父と子”を意味するトレラを作家としての名(グロー・セア)とし,しかもその頃から絵が変わっている。ナリィが死んだか何かで,ルトは子どもと絵本を作り始めたのだ」
「では,まさか・・・」
ラウガは確信のこもった暗い瞳で笑った。
「ああ。トレラ・アーレベルクはもう一人いる」
ルシカは眠れず,ぼんやりと寝台に横になっていた。
夕刻の伯父の話を思い出す。想像もできない森の向こうの世界。だが,伯父の話を聞く限り,とても恐ろしく思えた。そしてそんな危険なところに何十年も父や伯父が通っていたと思うと,胸が締め付けられるような思いがする。
自分は自分が思っている以上に何も知らなかったのだ。
(だから父さんは,今度一緒に行こうって言ってくれたんだ・・・)
ルシカに新しい世界を,いずれ関わっていかなくてはならない世界を見せるために。
だが,父は帰ってこない。そして,このままでは父は二度と戻らないのではないだろうか。それは時間が経つごとに予感から確信へと変わっていった。
父を探しにいかなくてはならない。
ルシカの心はもう決まっていた。
ゆっくりと身体を起こす。寝台の近くの机に置いてある掌におさまる大きさの入れ物を取り,中に入っているクリーム状の獣よけの薬を服の上から薄くぬった。森へ行くときはこれをぬらないと獣に襲われる危険があるのだ。
バルに絶対に気づかれぬようルシカは細心の注意を払ってバルの部屋の前を通った。中からバルの豪快ないびきが聞こえてきて,ほっとする。一階に下り,そっと家を出た。
目を開けていてもつむっていても変わらぬほどの闇だったが,木々の存在を感じながらルシカはそれらにぶつかることなく森の中を走った。家を遠く感じる。
ようやく家に辿り着き,中へ入った。昼間ルシカが出てきたときと変わらない,灯りのない家に寂しさがわきあがる。
(父さんのいない家なんて家じゃない)
入り口に置いてあるたいまつに火をつけ,机や棚にある燭台に火を移して,ようやく家が明るくなる。ルシカはたいまつを持ったまま,二階の自分の部屋に向かった。
部屋に灯りをつけ,寝台の横に置いてある背嚢を手に取る。頭は不思議なほど冴えきっていた。
何日旅に出るのか見当も付かない。とりあえず,詰めれるだけ食料を詰めよう。一階の貯蔵庫から日持ちしそうな干し肉や果実をかかえる。そして棚から学舎でもらったシンシア王国の地図を引っ張り出す。学舎にいた頃はこれを使う日が来るとは夢にも思っていなかった。
(王都を囲む街(セル・ラグリンス)に行くには,コロノ村に行ってチャレ道を通っていった方がよさそうだな・・・)
コロノ村,というのは父から聞いたことがある気がする。父と長い付き合いの村人がいたはずだ。父についての情報を聞けるかもしれない。
だが,コロノ村へ行くには森の中をだいぶ歩かなければならないようだ。獣よけの薬も多めに持っていかなくては。
旅に出るに当たって,ルシカは一つ一つ準備を進めていった。
その中でルシカがぶつかった問題はお金についてだった。街へ行くのならいくらか持っておいた方がいいと思うが,家のお金を持っていくのは憚られたし,そもそもルシカはお金で物を売り買いしたことがなく,どうすればいいのか全く分からなかった。
「そうだ」
ルシカは奥のルトの部屋へ向かう。
戸を開けると,その部屋はぶ厚い本や紙であふれていた。そういえば,父の部屋にはあまり来たことがないと思いながら,ルシカはたいまつを手に辺りを見回した。
雑然とした中,寝台の横の小さな机の上だけは整頓されており,絵本が十冊ほど置かれていた。上には埃よけのための薄紙がのせてある。
(あった!)
それらは全て,ルトとルシカが作った絵本だ。父が帰ってきたら,一緒に売りにいくはずだったものだ。近くには絵本の値段と売る場所が書かれた紙も置いてある。
ルシカはそれを手に取り,一冊一冊,薄紙で慎重に包んでいった。
お金がないなら,絵本を売りながら旅をすればいい。十冊くらいなら背嚢に入るだろう。
(だけど,俺に絵本売りなんてできるのかな・・・)
一瞬胸に浮かんだ不安をルシカは慌てて打ち消す。いつかは俺もできるようにならなくてはならないことだ。いつまでも逃げているわけにはいかない。
普段使っているものより一回り大きい背嚢に,ルシカは物をつめていく。おおかた終わると,ルシカはふと思い立って,机の引き出しからルトがくれた紙綴り(クロッサ)を取り出し,大切に背嚢に入れた。
(あとやることは・・・)
ルシカは紙と木筆(ロッタ)を用意し,二通の手紙を書いた。
父さんへ
おかえりなさい。
父さんの帰りが遅かったので,心配で街へ探しに行くことにしたんだ。
逆に心配かけることになってごめんね。
ここに発煙筒を置いておくので,帰ってきたら夕の刻に合図してほしい。
俺は毎日夕の刻にローニャの森の方を見る。
煙が見えたら,父さんが帰ってきたのだとわかるから,すぐ家に帰るよ
こんなことを書きながらも,ルシカは心のどこかでルトは帰ってこないだろうという悲しい確信を持っていた。
もう一通はバル宛だった。
伯父さんへ
やっぱり俺,父さんを捜しにいってくる。
とめてくれたのに,勝手なことしてごめんなさい。
でも必ず帰って来るから心配しないでね。
いってきます
ルトへの手紙は発煙筒とともに机の上に置き,バルへの手紙を持ってルシカは家を出る。
まだ暗い森の中を走り,ひっそりとバルの家に行き,居間の机の上に手紙を置いた。真剣なまなざしで自分を諭してくれたバルの顔を思い出して,ルシカは胸に苦しさを感じた。
自分がいなくなったとわかれば,バルはとても心配するだろう。剛胆で気前のいい伯父が,今の自分のように不安をかかえて一人で過ごすのだと思うと心が痛んだ。
(ごめんなさい,伯父さん)
ルシカはそっとバルの家をあとにし家に帰ると,たった一人家の前に腰掛け,暗い空を見つめながら日が昇るのを待った。
見知らぬコロノ村へいく唯一の手がかりは村が東の方にあるということだけだ。日が昇った方向へ歩いていくしかない。
ゆっくりと光が昇り,朝がうまれはじめる。
影を脱ぎ捨て,姿をあらわにし始めた木々を見つめながら,ふとルシカの胸に言い様のない心細さと恐怖が沸き上がった。
森の向こう――未知なる世界へ,自分はたった独りで行くのだ。
ルシカは大きく深呼吸して,傍らに置いておいた背嚢を背負い立ち上がった。
それでも,行かなくてはならない。
ずっと自分を駆り立てていた何かがルシカの決断に満足したかのように少しずつ丸くおさまっていく。それでいい,進むのだ・・・と。自分が動き出さなければ,二度と父に会えなくなるぞ,と。
それは絶対に,嫌だ。
父とともに生き,ともにこれからも絵本を生み出していく。それがルシカの生きる道なのだ。
どんなに怖くても,バルに心配をかけることになっても,父を見つけなくてはならない。
新しい朝,新しい光に向かって,ルシカは一歩踏み出した
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