第2話 動き出した者たち

“王都を囲む街(セル・ラグリンス)”のはずれ,サブランの森の小さな村。

 トッコロの目の前で,その少年はうまそうに飯をたいらげことんと食器を机に置いた。

「いやあ,うまかった!!ごちそうさん!――本当にありがとうな,おっさん!」

 先まで行き倒れていたとは思えない勢いにトッコロは気圧されながらもうなずく。見た目は十四~十五歳くらいだろうか。若いとは素晴らしい。

 トッコロが出先から帰る途中,道ばたにこの少年が倒れていた。トッコロはそのお人好しな性格のままに彼を家に連れ,介抱したのだ。

(それにしても,変わった外見だな・・・)

 普通のシンシア国民のそれよりずっと薄く明るい茶色の髪。赤褐色を通り越した赤い瞳。美しく整った顔立ち。男のトッコロでも思わず見とれてしまうほどだ。

「あ,オレの名前はリャオ!王国中をふらふら旅してんだ。ここんとこなんも食ってなくて・・・ほんとありがと!」

 まじまじと彼に見入っていたトッコロに彼・・・リャオは屈託なく明るい笑顔を見せる。それから二人はしばし談笑した。リャオの明るく素直な様子にトッコロも心を許していった。

「でも,この近くには慰霊碑っつうの?たくさんあるんだな」

 リャオの言葉にトッコロはうなずく。

「ああ。この辺は百年以上前の“シンシア・ラージニア戦争”の激戦区の一つだからな。今はもう戦なんて忘れられちまってるが,この村ではあの悲惨な戦争の話が事細かに受け継がれている」

「へえ!」

 リャオの瞳がふいに光った。

「その話,詳しく聞かせてくれよ」

 トッコロは乞われるままに語った。食料がなく飢え死んだ兵士。子を捨てねば生きられなかった母親。人々の絶叫,絶望――。

 この近くに,その戦の資料や記録がある倉があること。


「ふうん・・・」

 何かをかみ砕くようにうなずくリャオにトッコロは小さく笑んだ。

「なに?」

「いや,以前にもあんたと同じように戦争について色々訊いてきた人がいたんだ。その人は倉に何時間もこもって,何か書いていたよ」

「へえ,なんでまた?」

「詳しくは聞いとらんが,なんでもその戦争についての物語本を出すらしい。・・・トレラ・アーレベルクさんといってな。絵本作家なんだ。子どもだけでなく,大人も惹きこむような素晴らしい本を書かれていて,オレは大ファンでな。この人は親子で・・・」

 そこまで言ってトッコロは,はっと口をつぐんだ。先まで人なつっこい笑顔を見せていたリャオの表情が一瞬冷たくゆがんだように見えたからだ。だが,次の瞬間には先までの無邪気な少年に戻っていた。

「絵本作家かあ!なあ,その本,オレにも見せてくれよ!」




 美味しい料理で満たされた腹をかかえて,ルトとルシカがバルの家を出たとき,もう辺りは真っ暗だった。とりとめのない話をしながら家に戻り,ルシカが先に風呂へ行った。ルトは二階の奥の自室に入ると,小さく息をつく。

(動き出すとき,か・・・)

 ルトは机の一番下の引出しを引く。薄紙の間に大切にはさまれた一枚の古い絵。そこには無表情の,若い頃の自分の姿があった。


――ほら見て,ルト!貴方はいつもこんな顔をしてる。もっと笑って・・・


 物語本を売り歩く旅の途中で寄った小さな村。そこで自分とナリィは出会った。その時にナリィはこの絵を自分に突き出してきてそう言ったのだ。戸惑いながらも,ルトはナリィの絵,そして彼女に惹かれ,何度もその村に通った。


――ルトの書く物語が好き。ねえ,この場面はきっとこんな感じでしょう?主人公はこんな顔だと思うの。


 ナリィはルトの物語を読み,いつも想像で絵を描いてくれた。いつしか二人で一つの作品を作るようになっていた。


――フォーザンの娘さんは多分ロマザと結婚するわね!まあ,ルト,貴方もそう思う?


 ルトは昔から,他者の気づかない物事にいち早く気づく鋭い何かを持っていた。それは誰にも理解されなかったが,ナリィはルトのその感性を理解し,共感してくれた。

 孤独を抱えていたルトにとってナリィは初めて心の底から愛した女性だった。



 最期の日。まだ十歳だったルシカが眠ったあと,ルトは寝台に横たわるナリィの手をずっと握っていた。二人ともこれが最期の夜だと心のどこかでわかっていた。だから二人は絶対に手を放さなかった。

「ルト,私,ずっと迷っていたけれど,貴方に伝えておきたいことがあるの」

 ルトはうなずいた。ナリィは儚げに笑む。

「私ね,自分が長くは生きられないことは,わかってた。それは私が生まれたときから決まってたことだから・・・」

「・・・どういうことだ?」

「・・・百年以上前のシンシア・ラージニア戦争で私のひいおばあちゃんは毒煙弾(ダシス)に被爆した。でも,ひいおばあちゃんは,生き延びて結婚して,私のおばあちゃんが生まれたの。でも,ひいおばあちゃんもおばあちゃんも長くは生きられなかった。ちょうど,今の私と同じくらいの時に,同じ病気で亡くなった。お母さんも・・・」

 ナリィの病気は原因不明でどんな医者に診せてもだめだった。ルトは一言も声を出せず,彼女の小さな声を聞いていた。

「ねえ,信じられる?百年も昔の悲劇が・・・今もこうして受け継がれているのよ。人と人が全てを犠牲にして殺し合った結果・・・百年以上たった今も悲しみを生み続けている」

 彼女はそっと瞳を閉じる。

「・・・私,別に早く死んでもかまわないと思ってた。――だけどルトに出会って,ルシカが生まれて,変わったのよ。・・・生きたい,って」

 閉じた瞼から雫が一つ伝う。ルトは目頭が熱くなるのをこらえて,さらに強く彼女の手を握る。

「ルシカは男の子だから,きっと私のようにはならないわ。男の子が生まれてくれたとき,本当に安心した。・・・だけど・・・」

 ナリィは潤んだ目を開け,自分を見つめている夫に視線を向けた。

「ルト,よく話していたわね。もうすぐ,この国は変わっていくって・・・長年続いた平和な日々が壊れる日がくるって・・・」

 誰も気づかない,それでも確かな国の変化に,二人とも気づいていた。

「ルシカをお願いね。あの子が,平和で穏やかな世界で生きていけるように・・・」

「――ルシカは,必ず俺が守るよ」

 固く結んでいた口を開いた瞬間,頬を涙が伝っていく。平和を守るなんて,国のはずれに住む一国民にできるはずがない。それでも,ルトはうなずいた。

「約束,する」

 ナリィは「ありがとう」と小さくつぶやいた。一息つき夢みるように空を見つめる。

「ねえ,ルト」

 彼女の息が少しずつ乱れていく。

「ルトの・・・物語を聞きたい」

 ルトは目をみはった。彼女は虚ろな瞳でルトを見つめる。

「昔,みたいに,ルトの物語を聞きたい」

 彼女を抱きしめながら,ルトはよく物語を語った。ナリィはいつも嬉しそうにそれを聞いてくれた。幸せだった日々が,とても遠く感じる。

 ルトは涙を流しながら,それでもしっかりした声で,物語を紡いだ。

 優しく温かい物語を。

 ナリィは最期の瞬間まで,満ち足りた微笑みを浮かべて,それを聞いていた。彼女は震える手を伸ばし,ルトの頬に触れる。その唇がかすかに動いた。

――あいしている

 ナリィの手が,糸が切れたようにとん,と落ちる。頬を伝う涙をぬぐうこともせず,ルトはただ彼女を送るように物語を語り続けた。

 



 ルトは引出しの奥にしまってある紙の束を取り出した。五百枚近くある羊皮紙はずっしりと重い。

『知るべきこと』

 ナリィが死んでから五年間,ルトは絵本を売りながら“戦争”について調べ続けた。ラウガの陰謀によって戦を記すものが少なくなっていく中,地道に悲劇の軌跡を追い,書き続けた。

 “それ”は目を背けたくなるような,むごい事実ばかりだった。

 足手まといならば仲間も平気で殺す兵。敵に殺されるならと家族共々自ら命を絶った民。全身焼けただれたまま戦場を彷徨い続けた者。助けてくれと,殺してくれと,叫ぶ声。

 その全貌が心にはっきりと描き出されたとき,ルトは吐き気すらおぼえた。

(伝えなくてはならない)

 国の辺境の森に住む自分が,王族に直接まみえるなどあり得ないことだ。戦を起こそうとしているラウガ王子に直接働きかけることはできない。ならば,せめて国民に・・・悲劇を忘れた者達にこの事実を届けなくては。王族の決めたことに国民は逆らえない。だからこんなことをしても無意味かもしれない。

 それでも,この惨劇を今を平和に生きる人々に伝えたかった。そして,それしか今の自分にできることはないのだ。

(ナリィ・・・)

 君を死に追いやった戦争を,俺は止めたい。

 己の無力さに苛まれながらも,ルトは心を決めた。




風呂からあがったルシカは自室の本棚を眺めていた。ルシカが生まれたときにバルが作ってくれた木製の棚だ。ルシカの背丈ほどあるそれはルトとナリィの絵本が殆どを占めている。

一番上の端にひっそりと置かれている,一番薄く古い絵本をルシカは手にとった。

薄汚れた表紙には『さわ さわ』というタイトルと,森の絵が描かれている。右下にはルト・アーレベルク/ナリィ・アーレベルクと控えめに書かれていた。ルシカが生まれてすぐ,二人が描いてくれた絵本だ。

――きがさわさわとゆれています。どうしてゆれているのでしょう?

――それは,かぜのせいでした

――きがさわさわとゆれています。どうしてゆれているのでしょう?

――それは,ことりのせいでした

ずっとそんなことが繰り返される本だ。ナリィやルトにこの本を読んでもらうたび,幼いルシカはきゃっきゃと喜んで,外に散歩に行ったときには言葉になっていない言葉で「さわ,さわ」と言ったものだ。

 懐かしい気持ちで読み終え,ルシカはまた適当に本を引っ張り出す。

 『白花(サシャ)』――小高い丘の上にたったひとつ出てきた芽。ひとりぼっちで悲しくて,それでもまっすぐに伸び,雨にも嵐にも耐え,やがて立派な花を咲かせた。そこに一人の少女が通りかかり,一輪のサシャを見て「きれいだね」と微笑むところで物語は終わる。

 学舎に入ったばかりの頃,友達ができなくて落ち込んでいたとき,よくこの本に助けられていた。たった一人でもがんばり続けよう,と。

 ルシカは目を細める。――父さんの物語は優しい。母さんの絵は温かい。

 今の自分の絵は母さんの絵のように,父さんの物語を支えることができているだろうか。懐かしさとともに本のページをめくっていると,扉がノックされルトが入ってきた。

「父さん,もう上がったの?」

「ああ。――今,いいか?」

「うん」

 ルシカは絵本を棚に戻し,寝台に腰掛けた。その隣にルトも座る。

「明日から,街の方へ行ってくる」

「絵本を売りに?」

 ルシカが尋ねると,ルトは組んでいた手を一瞬ふるわせた。

「・・・いや,ちょっと街で買いたい物があるんだ。王都を囲む街(セル・ラグリンス)まで片道五日くらいかかるから,二週間くらいで帰って来るよ」

 ルシカはいぶかしげに眉をよせながらもうなずく。何を買いに行くのだろう。父は絵本を売りに行くとき必要なものは殆ど買って帰ってくる。買い物のためにわざわざ街へ出て行くのはめずらしいことだ。

 ルトはルシカの疑問を打ち消すように言葉を継いだ。

「帰ってきたら,一緒に絵本を売りにいかないか?お前もそろそろ外のことを知っておいた方がいい」

 その言葉に今度は違う意味でルシカは眉をよせる。

「俺は,別に・・・」

 森の向こうの世界なんて知らなくていい,と言おうとしてルシカは口をつぐんだ。もう学舎を卒業したんだし,いつまでも森の中だけにいるわけにもいかないと思い直す。ルシカはしぶしぶうなずいた。

 しばらく次に描く絵本の話をし,ルトは腰をあげる。

「じゃあ,もう寝るよ。――学舎卒業おめでとう,ルシカ」

「ありがとう」

 ルトが部屋をでていったあとも,ルシカはしばし本棚の懐かしい絵本を読んでいた。




 シンシア城にある会議の間でラウガと重臣達十名は大きな円卓の机に顔をつきあわせ話し合っていた。議題は今期の税の徴収についてだ。一年に三回,税管理の者達が国中におもむき,各地から作物や物資などの税を徴収する。

「今期は例年より気温が低く,各地収穫高がよくありません。税は全体的に例年の一割ほど下げるべきかと」

 重臣の一人が言う。会議のメンバーは長年この城に仕え,国王ザハラに心から臣従する者達ばかりだ。平穏を守ることしか知らぬ臆病者達が・・・ラウガは内心毒づいた。

「税を下げる必要はない。国の財源は常に一定にしておくべきだ」

 ラウガの言葉に,皆苦虫をかみつぶしたような顔になる。

「・・・承知致しました。とりあえず,議事内容をまとめ,国王陛下にご報告して参ります」

 ラウガはうなずきながらも心の中で舌打ちする。父に報告すれば,父は必ず税を下げろと言うだろう。

 どうせ王が全てを決めるのだ。何故こんな無意味な話し合いをするのだろうか。

 ふつふつと煮えたぎる苛立ちをラウガはなだめる。国が自分のものになれば,父を慕う重臣どもはお払い箱だ。若い者を中心にラウガは,自分を信じ何でも言うことをきくような臣官や兵を着々と増やしていた。

「では,本日の議会は終了する。私はここに残るが,皆さがってよい」

 ラウガの許しで皆立ち上がり,ラウガに深く礼をし部屋を出て行った。

 ラウガはしばらく,広い間で一人今後のことを考えていた。と,ぶ厚い扉がノックされる。

「ラウガ様」

 扉の向こうの声を聞いただけで,それが誰かわかった。ラウガが「入れ」と言うとゆっくりと重厚な扉が開く。そこにいたのは,予想通り茶髪に赤眼の少年だった。

「ラウガ様,ただいま戻りました」

 少年は恭しく片膝をつき,頭を下げる。

「遅かったな,リャオ」

 美しい顔立ちの少年――リャオは名を呼ばれ小さく笑んだ。だが,すぐにしゃんと背筋を伸ばす。

「ご報告いたします。今回はサブランの森の辺りに行って参りました。シンシア・ラージニア戦争の激戦地の一つであるだけあり,戦争に関する史跡や資料も多かったです。特にターロン村には戦時の様を詳しく記した資料が大量にあり,村人も戦についての継承を重視しているようです」

 ラウガはうなずき,「それで?」と続きをうながす。

「ターロン村の戦争の資料が収められている倉には去り際に火をつけました。おそらく全て灰になっているでしょう。史跡も兵が全て壊したはずです。・・・次にあの施設に送り込むのはターロンの村人達がよいと思います」

 きびきびしたリャオの報告にラウガは満足げにうなずいた。リャオは十五歳だが,ラウガにとっては一番の腹心の部下だった。まだ少年であること,また人目を惹く美しい風貌は他人に警戒心を抱かせず偵察に最も向いていた。武術や剣術にも長けており,そこらの兵に比べ格段に強い。

 そして何よりラウガが買っているのは彼の性質だった。リャオはその特殊な生い立ち上,感情を殆ど持たない少年である。それゆえに性格というものがなく,その場に応じて一番都合のよい人格を形成することができるのだ。

 リャオの中にある唯一の感情―意志はラウガへの忠誠心だけだった。

 決して自分を裏切らぬ忠実で優秀な部下。彼は自分が道を拓いていく上で必要不可欠な駒だった。

「・・・それで,一つだけ気にかかることがありました」

「なんだ?」

「これを見てください」

 リャオは床に置いていた肩掛け袋から四,五冊の大型の本を出し,ラウガに差し出す。

「絵本,か?」

 なぜこのようなものを,と言いたげな主君の視線を受け,リャオは説明する。

「この絵本は,先のターロン村や王都を囲む街(セル・ラグリンス)に住む者達の家から盗んできました。調べてみたところ,細々とですが割合全土に広まっているようです」

 ラウガは表紙を見やる。『空を舞う白花(サシャ)』『月の夜の話』『雪の国』――作者は全て「トレラ・アーレベルク」だ。

(トレラ・・・どこかで聞いた言葉だ・・・)

「ターロンの村人の話によると,この男は一~二ヶ月に一度,絵本を売りに現れるそうです。本は一冊一冊手書きで,値段も通常売られている絵本や物語本よりも比較的安い値で売っていたようです」

 ラージニアからの技術により,印刷技術の発展した現在,王都(ランザバード)や王都を囲む街(セル・ラグリンス)の市で売られている本は殆ど刷られ大量生産されたものばかりだ。一冊ずつ自分で作り,しかもそれを自ら売り歩いているというのは相当まれである。

「それで,これがなんだというんだ?」

「村人が言っていました。以前“トレラ・アーレベルク”は村を訪れ,シンシア・ラージニア戦争について色々と調べていたそうです。どうやらこの戦争に関する物語本を出すのだと」

 ラウガの瞳の光が鋭くなった。

「どのような?」

「戦に関する,としか聞いておりません。“トレラ・アーレベルク”がどのような意図をもって本を書こうとしているのかもわかりません」

 ラウガはうなった。シンシア・ラージニア戦争について詳しく記述された本が出るのは,あまりよろしくない。

(だが,たかが一絵本作家の作る程度のものだ・・・)

 ラウガはそう思いながら絵本を一冊開いてみる。『雪の国』と表紙にあり,小さな丘に雪が降り積もっている絵が描かれていた。

 ラウガは一瞬いぶかしむ。セバト大陸四カ国の中で積もるほど雪が降るのはザシャ帝国だけだ。シンシア王国では一年通して雪は殆ど降らない。なのでシンシア王国では雪を知る者の方が少ないのだ。それを題材に選ぶなど,トレラはザシャに住んでいたことがあるのだろうか。

 だが,ページの始めに入っているはしがきのような文章にラウガは目を見張った。


  これは,隣国ザシャ帝国を舞台とした物語である。

  だが,私はザシャ帝国に訪れたことがない。

  この物語は,様々な資料からこの国に興味を持ち,その資料を参考にして

  私の想像で生み出したものだ。

  本来のザシャ帝国とは違う点があることを前提としてお読み頂きたい。


(見知らぬ国を題材にしたのか・・・)

 その事に驚きながらもラウガはぱらぱらとそれを読み進めていく。そして,みるみるうちに自分の顔がこわばっていくのを感じた。あらすじはザシャ帝国で生きる人々の雪国ならではの喜びや苦難を描いたものだった。しかし,そこが問題なのではない。

 ラウガは父に連れられセバト大陸四カ国は全てその目で見てきた。当然,雪降り積もるザシャの白の世界もしっかりと心に収めている。

 この本に描かれている「ザシャ帝国」はラウガの知っている実際のそれとほぼ同じものだった。

(この男・・・想像だけでここまで・・・)

 その物語もさることながら,場面場面に挿入されている絵にも目をひくものがあった。自分の知るザシャと違わぬ風景。またその絵には,言葉にできない人の心を動かす何かがあった。

「ラウガ様・・・?」

 気遣わしげなリャオの声もラウガの耳には入らなかった。

(これは・・・まずいかもしれない)

 見ず知らずの国を,資料だけでここまで描ききった男。とんでもない想像力を持ち,またそれを表現しきる力を持っている。そして何か不思議な力を感じさせる絵。この物語と見事な調和を見せていた。

 この絵本作家がシンシア・ラージニア戦争についての物語を描き,世に送り出せば,人々は戦争の悲惨さ,恐ろしさを我が身のように思い知るだろう。どんな資料にも勝る,戦の犠牲者が直接訴えかけるようなものが出来上がるに違いない。

(それでは・・・今まで時間をかけてこの国から戦の跡を消してきた意味が無くなってしまう・・・)

 理屈ではなく,ラウガの直感が彼に告げる。

 トレラ・アーレベルク・・・この男は放っておくべきではない。

「リャオ」

 ラウガは冷え切った声を傍らの少年に向ける。

「この男・・・“トレラ・アーレベルク”を探せ。一冊一冊絵本を売り歩いているような輩だ。痕跡はつかめるだろう」

 リャオはうなずいた。

「見つけ次第,殺しますか?それとも施設に送り込みますか?」

「・・・いや,ここに連れてこい。五体満足であれば,多少手荒でも構わない」

「わかりました」

 リャオがきびきびと一礼し,部屋を出て行った跡,ラウガは天を仰いだ。

 父が亡くなり次第,憎しみの種を蒔き人々の憎しみを煽り,ラージニアと戦争を起こす。

 はっきり見えていた道が,初めて霧でかすかに曇ったようにラウガは感じた。

(だが,大丈夫だ)

 この作家は確かに脅威だが,まだ何が目的で戦争の物語を書いているのかはわかっていない。うまく「こちら側」にとりこめば,大きな力になる。

 自分を落ち着かせながらも,ラウガの心は突然現れた見知らぬ絵本作家に乱されていた。




 まだ日が昇りきっていない早朝,ルトは身じたくを整え,そっとルシカの部屋に入った。ルシカは寝台で小さな寝息を立てて眠っていた。傍らには昔の絵本が二~三冊積み重なっている。きっと寝る前に読んでいたのだろう。

「・・・行ってきます」

 ルトは小さくつぶやいて,部屋をあとにした。



バルの家に向かうと,予想通り,彼は家の前の庭で草花に水をやっていた。

「兄さん」

 呼びかけると,バルは驚いたように振り向く。

「ああ・・・ルトか。――お前,こんな朝早くから出かけるのか?」

 ルトはうなずく。バルは,絵本を売りに行くのかと訊こうとしたがとどまった。おそらく金銭と食料が入っているのであろう背嚢と組み立て式の荷車しか持っていないようだったからだ。

「何しに行くんだ?」

 その問いに,ルトはややためらったあと口を開く。

「王都を囲む街(セル・ラグリンス)の印刷場に行ってくる。刷ってほしいものがあるんだ。二週間くらいで帰って来るから。――ルシカに何かあったらよろしく頼むよ」

 いつも穏やかなルトの気配が落ち着かないのを見抜いたバルは彼が何をしようとしているのかなんとなく感じ取った。

「・・・それは全然いいけどよ。・・・ルト,国のことを憂うのはいいが,お前はルシカの父親だ。何を一番大切にすべきか忘れるなよ」

 ルトは一瞬虚を突かれたような表情を見せたあと,しっかりとうなずいた。

「ありがとう,兄さん。――行ってきます」

 森の中を去っていく弟をバルは複雑な思いで見送った。

 彼がルシカを置いて街へ行くなんていつものことなのに,バルの心のうちには黒いもやのような,言葉にできぬ不安が渦巻いていた。



 朝のひんやりと静閑な緑の中を歩きながら,ルトは何かを確かめるように,背負っている背嚢に軽く触れた。

 この中には,ルトが五年かけて書き上げた物語が入っている。

 ルトは本を金をかけて大量に刷るよりも,一冊一冊自分の手で創り上げるのが好きだった。だが,今回は違う。一刻も早く多くの人々にこの物語を読んでもらう必要がある。

 五年前から少しずつ金を貯め,四百部ほど刷る分の金はあるはずだ。二十年以上物語本や絵本を売り歩いてきたおかげで各地につてがある。要所要所に配れば,必ず本は広まるだろう。

(何を一番大切にすべきか・・・)

 先の兄の言葉がよみがえる。

 大切にすべきもの,大切にしたいのはルシカだけだ。だからこそ自分は,行かなくてはならない。理解してもらえなくてもこれがルシカを守ることに繋がるのだと,今の自分は信じている。

(だが・・・)

 ナリィの死の原因,この五年間の自分の行動をルシカには話していない。母親の死に触れさせたくなかったこと――また,自分の行いはきっとラウガ王子にとっては邪魔な行為でしかない。万が一目をつけられたとき,ルシカを巻き込んでは元も子もない――そんな思いからルトはルシカに何も言わなかった。

 だが,戦争についてはルシカにも話しておくべきかもしれない。ナリィの死,そして自分の行動についてはふせておけばいい。この国でおきた残酷な歴史を,ルシカも知っておくべきだろう。

(帰ってきたら,ルシカにもちゃんと話をしよう)

 ルトは一度立ち止まって天を仰ぎ,先よりもしっかりした足取りで歩き始めた。

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