ルシカ―絵を描く旅人―
@harumasiki
第1話 森に住む親子 トレラ・アーレベルク
顔を上げると,窓から淡いオレンジの光がのぞき込んでいた。空から見下ろせば,広大なローニャの森は,優しい夕陽に照らされているだろう。
シンシア王国特有の漆黒の髪と赤褐色の瞳を持つ少年,ルシカ・アーレベルクは我に返ったようにそっと絵筆を置いた。
どれくらい描いていたのだろう。肩を回しながら辺りを見まわすと,木製の机の上は羊皮紙やら筆やらでぐちゃぐちゃだった。
「これで最後だ」
小さく息をついて,ルシカは手を布で念入りに拭き,たった今描き終えた深い空の絵を部屋の隅に敷いてある薄紙の上に慎重に置いた。薄紙の上には,既に十枚近くの完成した絵が乾かされていた。ルシカが満足げにそれらを見下ろしていると,部屋の外から足音が聞こえ,ドアをノックされた。返事をすると,ゆっくりとドアが開く。
「ルシカ,そろそろ夕飯にしよう」
ぼさぼさの髪に無精ひげ。まだ現実に戻りきっていない瞳を見ると,先まで物語を書いていたのだろう。
ルシカはうなずく。
「今日は鹿肉の煮物(ゾノラマーニ)を作ろうよ。父さん」
三つの山脈に囲まれた自然豊かなシンシア王国。そのはずれにある広大なローニャの森に家を持つ親子,ルト・アーレベルクとルシカ・アーレベルク。
二人は絵本作家だった。
ルトが物語を書き,ルシカが絵を描く。それを街に売りに行って生計を立てていた。絵本を作るための材料費などがかかり贅沢な暮らしはできないが,貧しくもない平穏な日々を送っている。
「『空の国のはなし』の絵,完成したよ」
隣の家に住む伯父のバルからもらった鹿肉を肉切り包丁で切りながら,ルシカは湯を沸かすルトに話し掛けた。彼は長い前髪の向こうで目を丸くした。
「もうできたのか。じゃあ,あとは文字を入れて,形にするだけだな」
「うん。明日学舎から帰ってきたら,終わらせちゃうよ」
色とりどりの野菜を茹でながら,ルトはうなずく。
「・・・明日には,もうお前も学舎を卒業するんだな」
シンシア王国では十~十五歳まで学舎での就学義務がある。明日は卒舎式だった。
ルシカは肉を鍋に入れながら微笑んだ。
「今までは学舎であんまり時間がとれなかったけど,これからは思いっきり絵が描ける」
手を止めて,ルシカは傍らの父に顔を向ける。
「これからはもっとたくさんの本を作ろうね,父さん」
瞳を輝かせる息子に,ルトも笑みを深くした。
次の日。ルシカが学舎に行った後,ルトは昨日の残りの鹿肉の煮物を箱に詰めて隣の家に住む兄バルのもとへ向かった。
隣と言っても,歩いて十リト(十分)くらいかかる。おまけに道が整備されているわけではなく,木々や草木が鬱蒼と茂っていて,慣れてない者にとっては歩きにくいだろう。
だが,ルト達森に住む者にとっては,もうこんなのはなんともないことだった。
ルトは木の根元に咲く白花(サシャ)を見とめて,夏の訪れを感じていた。
このローニャの森には点々と家があり,皆自由に暮らしている。
ここら一帯に住む人々は,この森にしかない木や植物を育て木の実や薬草を街へ売りに行ったり,森の奥に住むめずらしい獣を狩り,毛皮や肉をやはり街に持っていって生活していた。
木々の中を歩いていくと少し景色が開け,二階建ての木造の家が見えてくる。その家の前にある小さな庭で,大柄な男がのっそりとしゃがみこんで,薬草を刈り取っていた。
「兄さん」
ルトの呼びかけに,大男バルは顔を上げ,弟の顔を見ると夏の日差しのようにくしゃりと笑った。
「よう,ルト!どうした?」
「この前くれた肉で煮物を作ったから,余ったのを持っていたんだ」
バルはおお!と嬉しそうに声を上げ,家に入るようルトをうながした。
バルは薬草づくりや狩りをやっていて,家の壁中に肉や草が干されていた。
部屋の真ん中にでんと置いてあるぶ厚い木の机に二人は向かい合った。バルが特製の茶を出してくれた。
「今日でとうとうルシカも卒業だな」
「ああ」
香ばしいにおいの茶をすすりながらルトはうなずく。
「卒舎式を見に行ってやらなくてよかったのか?」
「いいんだ。お祝いは家に帰ってきてからやるよ」
ルシカは学舎で友達がいないようだった。言葉にはしないが,あまり学舎で独りでいるところを見られたくないのだろう。ルトもその気持ちは身をもって理解できるので,見に行くとは言わなかった。
「じゃあ,オレの家でお祝いしよう!!腕によりをかけてうまいもんを作っておくぜ」
兄の明るい声にルトも笑みを返した。
「ありがとう,兄さん。――ルシカが帰ってきたら,ナリィのところへ行ってから来させてもらうよ」
ナリィ,と聞いて,バルが少したじろいだのがわかった。もう五年も経つというのに,まだ気遣ってくれているらしい。
一瞬の沈黙を破るように,ルトは壁に貼ってある絵を指さした。家の前の庭で薬草を刈り取るバルの後ろ姿が描かれていた。かすかにさしこまれた日射しで明るい印象の絵だ。
「その絵はルシカが?」
「ああ,この前うちに遊びに来たときに描いたヤツだ」
それを聞き,ルトは優しく目を細める。バルの後ろ姿を見ながら厚紙にさらさらと木筆(ロッタ)を動かす息子の姿が心に浮かんだ。
「まったく,絵を描いてる暇があったら,兄さんを手伝えばいいのに」
「ははッ!ルシカはいつも絵のことしか考えてないからなあ!」
バルは豪快に笑い,しかし畏敬の念を細い眼にたたえて絵を見つめる。
「だが,本当にあいつは絵がうまいな。今にも動き出しそうだぜ」
バルの言葉に,ルトは小さく笑んでうなずいた。
「これから,もっと楽しみだろう?父親として,仕事のパートナーとして」
これからはもっとたくさんの本をつくろうね,父さん。
バルの言葉に,昨日のルシカの姿を思い出して,ルトは笑みをこわばらせた。
ルシカの未来。それを考える度,ナリィの最期の姿がよみがえる。
「・・・兄さん,この前,王都(ランザバード)の近くまで行ったって言ってたよな?」
突然のルトの問いに,バルは虚を突かれたような顔をしたが,ああとうなずいた。
「何か,変わったことはなかった?」
バルはうなる。
「変わったことか・・・,特になかったと思うぞ。ただ,王都を囲む街(セル・ラグリンス)では,ひっそりと噂されていたよ。ザハラ国王はやっぱりもう長くないんじゃないか,不治の病(ゴルトラ)にかかってるんじゃないかってさ。第一皇子のラウガ様が王位を継ぐのも,時間の問題だろうと」
バルの話を聞きながら,ルトは眉を寄せた。
現国王のザハラが亡くなれば,遂にラウガが統治する国が始まる。
弟の険しい表情を見て,バルが苦笑した。
「おいおい,そんな顔するなや。たしかにザハラ国王は今までにない名君だったが・・・」
ザハラ国王は誰よりもこのシンシア王国を愛し,民のために力を尽くしている統治者だ。害虫の被害で十分な作物が穫れず飢えていたピルトの森の人々に積極的に物資の配給を施し,教育は全ての人々に平等にあるべきものだと就学義務を制定するなど,様々な方面で国を守り,豊かにしようと尽力した。
彼が国王として国を導いてきたここ五十年近く,シンシア王国は穏やかで平和な日々が続いている。
ルトはそんな中――ここ数年ある不安を抱いていた。
「ラウガ様が王となれば,この国は大きく変わる」
「あ?」
ルトが低い声でつぶやき,バルがすすっていた茶から口を離す。
「ここ数年,少しずつ国が変わってきてる気がするんだ。ラウガ様が国王の補佐として,国政に関わり始めた頃から」
バルはそうか?と太い首をすくめる。ルトはもどかしくなり,思い切って話の核心を告げる。
「兄さん,俺は,そう遠くないうちにシンシアとラージニアで戦争が起きるんじゃないかと思うんだ」
その言葉に,バルは目を丸くした。だがすぐに,呆れたように口元をゆるめる。
「お前・・・何言ってんだ。戦争なんてもう百年以上昔の話だろう。この平和な時代にそんなもん起こらねえよ」
今から一〇七年前,このシンシア王国と東の隣国ラージニア王国で戦争が起きた。
事の発端はラージニア王国で起きたある事件だった。シンシア王国から輸入した雑穀を食べたラージニア国民が体調を崩し,二百人近くが死亡し,何千人という人に体調不良などの被害が出たのだ。これに対し,ラージニアはシンシアに賠償金を要求。シンシアは自国に責任はないと主張した。さらに被害を受けたラージニア国民の一部がシンシアに侵入し,ピルトの森にすむ罪なき村人を二人殺した。
両国の緊張は最高潮となった。
そして,サルダ暦六八二年,ラージニアがシンシアに宣戦布告。
「賠償金の支払いと国政をラージニアに委託しなければ,自然を利用し尊き生命を奪った悪の国シンシアを滅ぼす」と。それに対し,シンシアは「大地の神(アルゼスラ)が与えてくださったシンシアの緑を,生命を,汚れた手には触れさせぬ」と要求を拒否した。そして,宣戦布告の二ヶ月後,ラージニア王国軍によるシンシア王国への侵攻を皮切りに「シンシア・ラージニア戦争」が始まった。
セバト大陸の四カ国――国土面積・人口・権力ともに最大のザシャ帝国。漁業の盛んなサン王国。自然豊かなシンシア王国。小国だが,最先端の技術を誇るラージニア王国。
この頃,ザシャは内乱で他国に関与する余裕がなく,サン王国は密かに高度な技術を持つラージニア王国を手にすることをもくろんでおり,二国がぶつかり弱ったところでラージニアに攻め込もうと考えていたため,あえて手を出さなかった。
四カ国で結んでいた〈セバト四カ国独立平和条約〉は完全に崩れ去った。
それから一年・・・その一年はまさに言葉にできないほど血と泥にまみれていた。戦機械車(ドン・パレドゥラ),毒煙弾(ダシス)・・・次々と恐ろしい兵器を開発し攻め込むラージニア。シンシアはラージニア国軍を森へ誘い込み,地の利を生かして反撃し,ラージニアのおぞましい兵器を奪って対抗した。
兵だけでなく,一般市民をも虐殺し,土地を焼き尽くし,もうシンシアもラージニアも比喩でなく滅びる寸前だった。
内乱の落ち着いたザシャ帝国が両国に和解を持ちかけ,両国は互いに国力,人民半数以上を失いながら,勝敗なく和解条約を結んだ。
そして,二度と過ちを繰り返さぬよう,セバト大陸の四カ国で〈セバト四カ国永久平和条約〉を締結した。
互いの国を尊重し合い,助け合う――その理念のもとでここ百年近く,平和は守られている。
もう,血みどろの戦争を知る者は,誰もいない。
「今年の紅花の月(ターナ・ラン)に,ラージニア国王はおいでにならなかった」
ルトはいつになく思い詰めたように顔をゆがめる。
終戦日の紅花の月の五日には,毎年,シンシア国王とラージニア国王が一年交代で互いの国を訪れる。だが,今年シンシア城に訪れるはずだったラージニア国王は現れなかったのだ。
「ここ最近,シンシアとラージニアとの関係が,あまりうまくいっていないように思うんだ。・・・それに,歴史教書のシンシア・ラージニア戦争についての記述が数年の間で,どんどん減ってきている。各地にあった戦死者を悼む碑もいつの間にかなくなってきているし,人々から戦争の記憶が忘れ去られている気がするんだ」
バルは話を聞きながら,ひっそりと驚いていた。話の内容ではない。国の辺境の森に住みながら,こんなにも国の動きを知っているルトに対してだ。バルをはじめとする森の者は他国との関係どころか,ラウガ王子がどのような人物なのかすらよく知らない。きっとルトは街へ絵本を売りに行ったときに,色々と調べてきたのだろう。
「うまく言えないけど,国全体が悪い方向に向かっている気がする」
バルはうなった。ルトは昔からこういう所がある。バル達とは違う感覚器官を持っているかのように,人々には見えない事柄にいち早く気づくことがよくあった。
「だが,そんなことを言ったところで,どうにもできんだろう。へんぴな森に住む一国民が,国をどうとか言ったって仕方がないさ。全てをお決めになるのは国王様方だ。」
今度はルトが口をつぐんだ。
そうだ。きっとみんなそう思っている。国の動き,外交・・・自分には関係ないと思っているのだ。
平和な時代。皆,自分の日々の生活のことを考えるだけでよい時代。明日は今日と同じようにやってくるのだと誰もが信じて疑わない時代。
「だいたい,どうしてお前はそんなに気を張っているんだ,ルト?」
ルトはうなだれる。少し開いた窓から,冷たくも暖かくもない風がさわ,と入ってくる。
夏の匂いを孕んだ風だ。
もうすぐ夏が来る。ナリィの死んだ季節が。
「待ってよー!」
学舎からの帰り道。後ろから声が聞こえ,ルシカは思わず振り返った。だが,声の主である男子――確か同じ学年だった――はルシカに目もくれず,前方を歩いていた男子の横に並んだ。肺がきゅっと締まった心地がして,ルシカは目をそらす。上を見上げると,いっぱいに広がる緑が,昼下がりの日を浴びて,明るく輝いていた。
大丈夫だよ,と包んでくれているようだ。
この景色を描きたい。
ルシカは辺りを見回し,誰もいないことを確かめると,樹の根元に座り込んで,背嚢から厚紙と木筆(ロッタ)を取り出した。顔をあげ,空をさえぎる木々と対峙する。
木筆を走らせていると,森に馴染まない,煉瓦造りの無駄に大きい学舎で過ごした五年間が頭に浮かんだ。卒舎式で,学舎長から長々と話をされ,国歌を斉唱したときは何の感情も思い出も浮かんでこなかったのに。
とはいっても,学舎での日々に良い思い出なんてひとつもない。
ルシカは昔から,他人と接するのが苦手だった。
周囲の人々と自分の間に,いつも透明な壁があるように感じていた。嫌われているわけでも,いじめられているわけでも,無視されるわけでもない。それでもいつもルシカと彼らの間には越えられない線があった。
なんでみんなあんなに笑っているんだろう。なにが面白いんだろう。どうして何時間も途切れず話していられるんだろう。ルシカには全部わからなかった。天上からみんなを見下ろしている気がしたし,逆に地上からみんながいる天を見上げているような気持ちになった。
他人と話すとき,相手の目の奥の色が気になって,ルシカは人との関わりを純粋に楽しむことができなかった。独りで絵を描いている方がずっと楽で楽しかった。
(友達なんていらない。これからはずっと絵を描いていくんだ。父さんの物語に絵をつけていくんだ)
ルシカは父の紡ぐ物語が大好きだった。子供向けの童話から,大人が読むような複雑な物語まで,彼はなんだって生み出すことができた。父の物語を読むと,頭の中に豊かな情景が,生き生きと動く生命が浮かんできて心が熱くなる。このイメージを描きたいと自分を突き動かすのだ。
きっと母さんもこんな気持ちだったのだろう。
もともと,父の物語に絵を沿えていたのは母のナリィだった。父と母の作った絵本に囲まれてルシカは育った。
だから,母が病気で死んだとき,悲しみの中でルシカは決めたのだ。
今度は,俺が父さんの物語に絵をつける。
父は最初渋っていたが,ルシカは頼み続け,絵を描き続けた。そしてついに,父は首を縦に振った。
――トレラ・アーレベルク?なにそれ?
――“作家としての名(グロー・セア)”だよ。俺とルシカ,合わせてトレラ・アーレベルクだ
――トレラってどういう意味?
そう訊くと,父は恥ずかしそうに笑った。
――ちょっとかっこつけすぎたかな
父と自分の作った絵本にはその名が刻まれた。それを見るだけでルシカは誇らしかった。父が絵本を街へ売りに行くとき,何故かルシカを連れて行ってくれないから,どういう人が絵本を買って,読んでくれているのか,ルシカは全く知らない。でも,別にどうでもよかった。
父の紡ぐ,心をふるわす物語に,絵を添えられるだけで,ルシカは満足だった。
シンシア王国は国土の中心にシンシア城と王都ランザバードがあり,その周りに王都を囲む街(セル・ラグリンス)がある。さらにその周りを,森が囲んでいる。
自然の国とうたわれているだけあり,囲む森は広大なものだったが,セル・ラグリンスやランザバードは煉瓦や石造りの建造物がびっしりと並んでいる。シンシアの大地,生命は“大地の神(アルゼスラ)”によってもたらされているもの,という教えが一般的だが,今はもうそれは薄れ,心から信仰している者は少ない。
シンシア王国の中心に厳かにそびえ立つシンシア城は堅土岩(ゴットラ)というシンシア特有の堅い岩で,見た目は土色で質素だが,実に堅牢に建てられている。国内のどこからでもその城の姿は見えるほど巨大で,まるで地面から巨大な岩が飛び出しているような力強く圧倒的な存在感を持つ城だった。
城内の一室――現国王ザハラの寝所に第一王子のラウガはいた。三十代半ばとは思えぬ美しく流れる黒髪に深い黒の瞳。そのまなざしは寝台に横になっている父に向けられていた。
天蓋付きの豪華な寝台に横たわる父は七十・・・その年齢より上に見える,老いた老人そのものだった。病気により頬はこけ,王座に就き,下々の者に指示を与えていた頃とは別人のようだ。
だが,父の哀れな姿を見ても,ラウガの心にはなんの感情も湧かなかった。
「父上」
冴えきった鋭い声で呼びかけると,父,ザハラはうっすらと目を開けた。
「ラウガ・・・」
まるで吐息のような声。ラウガは自然と寝台に一歩近づく。
「父上,ラージニア交易部から報告がありました。ラージニアから,ラージニア鉱石一ゾラン(1グラム)に対する堅土岩の量を一・五ゾラン増やせとの要求があったそうです」
ラウガは手に持っていた詳細報告書を寝台の近くの彫りの凝った机の上に置いた。ザハラは小さくうなずいた。
「・・・交易部に伝えてくれ。要求は飲む。が,増やすのは〇・七ゾランだ。それ以上は厳しいと」
「父上!」
ラウガは思わず声に非難の色を滲ませる。
「先月もラージニアから不当な要求を受けたばかりではありませんか!いつまでおめおめと奴等の言うことを聞くつもりですか!」
声を荒げたラウガに,ザハラは目を向けた。その奥に冷たく冴えた光が垣間見えて,ラウガは口をつぐんだ。
「ラウガ。今のラージニアの状況を知っているだろう。二ヶ月前にラージニアを襲った大嵐・・・ラージニアはまだ,その苦境から脱していないのだ」
「ですが!救援措置はもう十分にとったではないですか!これ以上は我が国にも悪影響を及ぼします!――だいたい,半年前の終戦月だって,何かと理由をつけて,ラージニア国王はいらっしゃらなかった!近年,ラージニアがシンシアに対する態度を変えてきているのは明白です!このままでは・・・」
そこまで言って,ラウガは我に返り,口をつぐんだ。鋭さを失わない瞳で自分を見つめている父としっかり目を合わせる。
「父上。私は父上にお願いがあって,わざわざここまで参りました」
ラウガはすっと息を吸う。
「王の力を・・・王の権力を私に譲ってください」
ラウガは思い詰めた瞳で父に詰め寄る。
王位継承権を持つ第一王子は二十五歳になると,国王の補佐として国を動かす重要な地位に就く。そして,国王の死去,または国王が認めたとき,王として全ての権力を受け継ぐことができるのだ。
はりつめた空気の中で,ザハラは静かに首を振った。
「・・・お前はまだ,国のことを何も考えていない・・・」
ラウガは顔をゆがめる。老い先長くない老人が,何を偉そうなことを・・・!
息子の冷たい視線の中,ザハラはゆっくりと瞳を閉じた。眠りについたようだ。
(まあよい)
ラウガは鼻を鳴らす。あと少しで,どうせ国は自分のものになる。
部屋を出ると,王専属の医術師や重臣が今か今かと待ち受けていた。ラウガが出てきたことに気づくと,急いで膝をつき,頭をたれた。
「王はお眠りになられた。私の無理を聞き,王と二人きりにしてくれたことを感謝する」
「はっ・・・」
父はもう片時も医術師が離れるべきではない状態だ。彼らはそそくさと中へ入っていった。
ラウガは滑らかな高級黒石(ファンロットラ)でできた渡り廊下を歩いていく。
一人部屋にしては大きく,豪華すぎる自室に入り,窓際にある長いすにもたれかかる。
ラージニアとの外交は日に日に悪くなっている。ラージニアが少しずつシンシアより有利に立とうとしていることは明白だった。ザハラはいつまで腰を低くしているつもりなのか。
ラージニアは技術の国だ。国土面積はセバト大陸の中で最小でも,どの国よりも進歩しているだろう。移動は馬ではなく機械車で,灯りだって炎ではなく洋灯だった。
シンシアでも,ラージニアの技術を多く取り入れている。印刷技術や農薬,運搬技術だって,今やラージニアの力なしにはシンシアは成り立たない。そんなところまできてしまった。そして今,それに気づいたのかラージニアは明らかにシンシアを下に見,無理な要求を増やしてきている。このままどこまでエスカレートするかわからない。早めに手を打たなくてはならないのだ。
ラウガの頭に浮かんで離れないのは,ラージニアに攻め入ることだった。
ラージニアの国政を・・・ラージニアを自分のものにしてしまえば,全て解決する。豊かな自然と最新の技術,この両方を手にすれば,自分ならばセバト最大の大国ザシャ帝国に匹敵,または超すほどの大国を築けるだろう。そしてラージニアと戦争を始めれば,自分の「本当の望み」も叶えられる。
ラージニアと戦を起こす。
その考えは,シンシア・ラージニア戦争の歴史を知ったあの日から,ずっとラウガの中でくすぶっていた。
そして二ヶ月前・・・ラージニアを大嵐が襲い,国土の半分に甚大な被害が出た。それを聞いたラウガは自身の興奮を抑えることができなかった。
今が,ラージニアに攻め入るチャンスだ。
早くしなくては。全ての方面において優れた技術を持つラージニアは迅速に復興を進めている。
(父上・・・,早く死んでくれ)
母・・・王の妃はすでに病死した。父が死ねば,一人息子である自分がこの国を継ぐ。その時,すぐに行動をおこせるよう,ラウガは何年もかけ少しずつ準備してきた。
シンシア・ラージニア戦争から百年以上経ち,馬鹿な国民どもは平和に染まりきっている。そのままでいてくれ。私にとって使いやすい駒のままでいてくれ。変に反戦意識を持たれたら,「いざという時」に扱いにくくなる。反戦の意識を持つ者に戦をしろというのは難しいが,戦争に対して無関心な者どもには憎しみの種さえ蒔いてしまえば,どんどん争いへ伸びていってくれるからだ。
だからラウガは,シンシア国一律の歴史教書の戦争に関する記述を少しずつ減らし,争いの跡を残す遺跡や慰霊碑を壊していった。そして人々を血みどろの戦いへ導く「憎しみの種」ももうすぐ完成する。
国民どもには私の夢のために存分に働いてもらおう。
戦争を起こすのは簡単だ――ラウガは密かに笑んだ。
もう少しで,自分の長年の願いが遂げられるのだ。
ルシカとルトは家から少し離れたところにある開けた墓地にいた。何百もの土の山があり,その上に木の板が立てられている。花の輪がかけられているものもある。
昔は各々で墓地を作っていたが,森の獣達に荒らされるため,三カ所ほどにまとめられたのだ。墓地の周りは,獣よけの薬を染みこませた縄で囲んである。
このローニャの第一墓地の隅の方にひっそりとナリィの墓はある。
「母さん,俺,学舎を卒業したよ」
ルシカは来る途中で摘んできた白花(サシャ)の花輪を母の墓にかけた。
こんな絵を描いた,こんな絵本を作ったと母に語りかける息子の傍らに立ち,ルトも妻の眠る地を見つめていた。そして,ナリィの最期を思い出していた。
(今こそ,動くときかもしれない)
準備は既にできている。あとは,動き出すだけだ。
「どうしたの?父さん」
はっとして目を向けると,ルシカがきょとんとした瞳でこちらを見上げていた。
「なんでもないよ。――さあ,バル伯父さんのところへ行こう。お祝いしてくれるってさ」
そう言うと,ルシカは嬉しそうに笑みを見せたが,すぐに思い出したように口を開く。
「その前に,寄りたいところがあるんだ」
ルシカがルトを連れてきたのは,森の中にある草原だった。この場所だけ何故か木が生えておらず,足首くらいまで伸びた草が生い茂っていた。
「わあ・・・,こんなところが・・・」
木々溢れる森の中にひっそりと存在していた原っぱ。
ルトが感嘆の声を上げたのを見て,ルシカは少し得意げになった。
「この前,たまたま見つけたんだ!ここだけ木が生えてないなんて不思議だよなあ・・・」
そう言って辺りを見渡す。優しい風に草が揺れて,緑の海が波打っているようだ。
ふと,緑の中に一輪の黄色の花を見つけて,ルシカはその元に歩み寄る。
(きれいだ・・・)
気がつくと,ルシカはポケットから薄紙と短い木筆(ロッタ)を取り出し,その小さな花を紙に描いていた。風にゆらゆらと揺れる小さな生命が自分に何かを訴えかけてくるような気がした。
「・・・お前は本当に絵がうまいな」
はっと顔を上げると,近くに父が座っていた。ルシカはなんとなく恥ずかしくなって,さっと絵を隠した。
「ごめん。急に描きだして」
そして,ずっと心の隅でひっかかっていたことを口に出す。
「・・・父さん,俺ってどっか変なのかな?」
ルトが小さく首をかしげてルシカを見つめた。
「自然の綺麗なものとか,父さんの作った話とか・・・そういうものを見ると,何かに動かされるみたいに,手が動いちゃうんだ。――学舎でも,全然友達ができなかった。嫌われてるわけでも,いじめられてるわけでもない,けど,誰も俺に近づいてこないんだ」
そこまで言って父の視線が気になり,ルシカは慌てて首を振る。
「で,でも,全然気にしてないよ!俺だって一人でいる方が楽だし・・・」
そんなルシカをルトは優しく目を細めて見つめた。
「わかるよ,その気持ち。――俺もそうだった」
「え?」
「俺も子どもの頃,全然友達ができなかった。周りと何かが違う,いつもそんな気がしていた」
ルシカの姿を見ていて,いつもルトは感じていた。自分に似ていると。
「だけど俺は,誰かの,人の役に立ちたかった。だから物語を書きはじめた」
その言葉にルシカはびっくりしたように目を見開く。
「人と話すのが苦手で・・・,だけど自分の中に物語は溢れていた。自分の書いた世界が,物語が誰かの心を支えられたら良いと,そう思って俺は物語を書き続けたんだ」
父がそんなことを思っていたなんて知らなかった。自分の絵が他者をどうこうするなど考えたこともなかったルシカは急に自分が恥ずかしくなった。
「俺は,自分の思うままに絵を描くことしかできないや。誰かのため,とか考えたことなかった」
「お前はそれでいいんだよ」
肩を落とすルシカの頭をルトはぽんぽんと叩いた。息子の手元にある小さな花の絵を見つめる。
「・・・ルシカ。お前は本当に絵が上手い。その目にうつったもの,心に浮かんだものを忠実に正確に描ける。俺の物語にもうお前の絵はかかせない」
ルシカは小さく口元をほころばせた。対してルトの声は少し低くなる。
「でもな,厳しい言い方をすれば,お前の絵はただ“上手い”だけだ。人に“すごい”という感動を与えることしかできない」
ルシカは虚を突かれたように目を瞬かせた。ルトの手がルシカの肩におかれる。
「お前の絵はまだまだ進化していく。これからも」
そう言った父の瞳がなんとなく悲しく,淋しく見えて,ルシカは目を見張った。何も言えずにいると,ルトは片膝を付いて立ち上がる。
「兄さんの・・・バル伯父さんの家に行こう。きっと待ちくたびれている」
うなずいて,ルシカも立ち上がった。
優しい風に吹かれながら,二人は並んで広大な草原を歩き出した。
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