間章

第13話 外伝~暗黒ラブコメ神話~

「ぬう……」

 目が覚めてから思わず漏れた声だったが、少し遅れてひりつくような痛みが喉を刺した。

 戸惑いながら意識を巡らすと、身体中の至る所に色んな種類の痛みを感じる。

 全身がだるく、吐き気もする。中でも頭痛は一際だ。

 どうやら僕は風邪を引いたらしい。


   *


 由良が風邪を引いて、学校を休んだ。

 金曜日のことである。

 次の日、鏡はお見舞いに行くことにした。

 記者志望の思いは変わらないが、書く内容を選ぶようになった女子高生。

 ともすれば地味になってしまいそうな服を、センスの良さと優れた体型で着こなしている。『自分がイケてないかもしれない、なんて考えたこともありません』とでも言うような顔つきである。

「ちょうど休みですし……」

「別に言い訳なんてしなくていいのに」

 手を繋いだ琴音が、訳知り顔で言う。

 盲目の少女。神にすら嫉妬を買いかねない美貌を、仮面と喪服めいたファッションに押し込めている。

 今日のお面はひょっとこである。これは彼女が機嫌が良い時の証拠なのだが、隣を歩く鏡としては若干、繋いだ手を離したい気持ちがないでもない。

「いいいいいいいいいいい言い訳じゃないし!?」

「落ち着いてよ、お姉ちゃん。友達のお見舞いに行くのに、変に気負う必要なんてないんだから」

「友達……うーん、由良さんと友達ですか……まあ、それくらいならなってやってもいいですかね」

「うわっ、無意味なプライド高っ。そんなんだから友達いないんだよ」

「いますよ。新城さんとか」

「他には?」

「えっと、その、中禅寺さんとか……」

「何で自信なさげなの。風間さんは?」

「え~? あの人はまだ知り合いっていうか……」

「うっわ」

「やめてください。言うならはっきり言いなさい」

「じゃあ言うけど、相手に友達って思ってもらえるかわからなくて不安になるくらい卑屈なのに、中途半端に人間関係でマウント取ろうとするの良くないと思う」

「グワーッ!」

 八角館の事件が解決してから、琴音は憑きものが落ちたようにしっかり話すようになった。

 時々このような歯に衣着せぬ物言いもするため、鏡は年上の威厳を保つために苦心している。というのはここだけの話である。

 以前と異なるのは他にもある。琴音の軽いの足取りはその一つだ。

 仮面の奥の両目が共に義眼であることをまったくうかがわせない、確かな歩調である。

 由良の説明では、悪魔である由良と契約した結果らしい。元々目明き以上にいたのだが、あえて見えないように振る舞っていたとも聞いた。

 鏡にはわからない領分のことだ。

 鏡にわかるのは、今の琴音が鏡もいたことのある孤児院で、そこそこ普通に暮らしているということ。

 そして、琴音にとって自分の助けが絶対に必要なものではなくなってしまった、ということである。

 彼女の幸せを祈るなら、手放しに喜ぶべきことだ。

 しかし、それでも少し寂しいと思ってしまう。

 そんな鏡の内心が伝わったのか、琴音は繋いだ手に軽く力を込めた。

「行こう、お姉ちゃん」

「そう、ね」


 由良の家は、大きくも小さくもない二階建ての家だった。

 学校とその寮からあまり遠くなく、以前言われた通りに川沿いに歩いていたらすぐに着いた。

 主婦らしいタフさがありとあらゆる仕草ににじみ出る由良の母に挨拶をし、二階にある彼の部屋へ向かった。

「む」

 和室の中心を避けるように敷かれた布団に、やけに寂しく由良は寝ていた。

 部屋には時計がなかった。自分の価値観にのみ忠実であり、興味のないことにはぼんやりした態度を崩さない偏屈、あるいは夢想家。

 枕元には乱雑に本と飲み物が置かれており、濡れてしまいやしないかと鏡ははらはらした。

 鏡と琴音を認めると、大儀そうにそちらを向き、うなった。

 身を起こそうとするのを、鏡は止めた。実際、辛かったのだろう。由良はわずかに安堵の表情を浮かべた。

「お見舞いに来ました」

「ん」

「具合はどうですか?」

「んん」

「熱があるみたいですね」

「ん」

 由良は声も出すのも億劫なようだった。

 普段から青白く疲れたような色をたたえていた由良の顔は、今は真っ赤になっている。

 鏡は由良のおでこに、自分のおでこを重ねた。琴音が体調を崩した時と同じように。

 焼いた石のような熱が伝わってくる。

「かなり高いみたいですね」

 心なしか、由良の頬の赤みが増したような気がした。

「よせ」

 苦しそうに言う由良。

 そこでようやく、鏡は自分の眼鏡に由良のまつ毛が当たっていることに気付いた。

「わっ、私は熱を測ってるだけですからね!?」

「お姉ちゃん、普通逆だよ」

 琴音のツッコミは無視した。

「そ、そういえば、悪魔も風邪を引くんですね」

「魂を使い果たしたから、今の僕の肉体の組成は人間と変わらん……」

 露骨な誤魔化しだったが、由良は気にした風もなかった。あるいは、気にする余裕がないのかもしれない。

 鏡が以前に調べた由良の情報では、元々彼は身体が弱かったらしい。

 悪魔の力に目覚める前は、こんなものだったのかな、と思う。

 弱り切った由良は、ひどく小さな子供のように見えた。

「悪魔も場合によっては病気にかかるということですか。じゃあ、毒や薬物の類も効くんですか?」

 鏡は由良(正確には、由良のコピーが)が拷問を受けた時のことを思い出していた。

 プロの拷問吏が、情報を引き出すために薬物を使用しないはずがない。にもかかわらず、由良にはこたえた様子がなかった。

 悪魔には薬物が効かないのだろうか、と鏡が疑問を抱くのも、無理からぬことである。

「薬も過ぎれば毒になるし、逆もまた然りだ……。何が人の身体に良いのかなんて、結構曖昧なもんなんだよ……」

「じゃあ、全部無効化してしまうんですか。病気になっても薬が効かないんですか?」

「魂の力は、担い手の認識によって発揮される……。まず、生まれつきの悪魔や皇みたいに力の強いやつらは存在級位が高いから、人間が使うような毒のほとんどは必然レベルで恒常的に無効化している……。病気も同じだ……。でも、僕のような弱小悪魔は、意識して無効化しないといけないんだ……」

「つまり、食事に毒を盛られた場合、これは毒だと見抜けなければ毒の影響を受けてしまうということですね」

「そう……。気付いた後から無効化することも出来るけど、即効性だったり、意識に影響が出るようなものだったりすると、命を一つ失う可能性が高い……」

 やけに実感のこもった口ぶりだった。

 鏡の知る由良は、疑り深いが騙されやすい。性格が悪いが、たまにこちらが心配になるほどのお人好しさを見せることもある。

 つまり、そういうことなのだろう。

「はへー。面白い生き物なんですね」

「他人事じゃないぞ……琴音やお前も覚えておく必要があることだ……」

「私ですか?」

 鏡は驚いたように自分を指さした。

「シーモアがいるだろう……」

「ああ、なるほど」

 鏡は鞄からテープでグルグル巻きになった手帳を取り出した。

 それは鏡にとって、子供の頃からずっと寄り添った相棒だったが、取り扱い方は粗雑だった。

 キョトンとした顔の由良に、鏡は説明した。

「これは、お仕置きをしているんです。琴音ちゃんを撃とうとしましたからね」

「……まあ、お前らのことだから何にも言わんけどさ」

 銃に込められていたのがペイント弾だったというのは、鏡も知っている。だから、この程度で済ませているのだ。

 鏡の髪の毛は、根元から金色のものがのぞいている。もう一度染める気にはならなかった。面倒だったし、鏡なりにシーモアを受け入れようとしているのだった。

 そんな鏡の内心を知ってか知らずか、由良は疲れたように吐息すると、より深く枕に頭を預けた。

 やはり、喉が痛むのに無理をして長く喋ったせいで、疲れたようだった。

「まだいるつもりなら、一階からマスクを取ってきてほしいんだ……。誰かがお見舞いに来るなんて考えてなかったから……うつしても悪いし」

「灰川さんは、お見舞いに来てないんですか?」

「今日はまだ来てない……。どうせ、あいつは風邪なんか引かないだろうし……」

 今日は、というのが気にかかった。

 鏡の疑問を読み取ったのか、琴音は仮面を半分ずらすと、周囲のにおいを嗅いだ。

「この部屋、灰川さんのにおいがする」

「そう……? 気付かなかった……」

「気付かないほど一緒にいる時間が長いっていうのも、それはそれで……」

 由良は照れ隠しが苦手なようだった。

 見れば、琴音が住むことになった際に、灰川の部屋で見た雑多な小物のいくつかが散らばっている。

「勝手に色々持ち込むんだよ、あいつ……」

 語るに落ちている。

 つまり、お互いの部屋に高い頻度で行き来しているということである。

 彼の顔が赤いのは、熱のためだけではないだろう。

「その枕も、見たことがありますよ」

「へ? それ本当……?」

 鏡には由良が今頭を乗せている枕に見覚えがあったのだが、由良はそのことを知らなかったらしい。一年間過ごした灰川の部屋にあったものと同じ柄の枕カバーだ、見間違えようもない。

 この調子だと、部屋に置かれている灰川の私物も、ほとんど把握していないのかもしれない。

 髪の毛が不揃いに伸びたゴスロリ調の人形を弄りながら、琴音が言った。

「その枕、この部屋の中で一番、灰川さんのにおいが強い」

 空気が凍った。

 鏡が視線を向けると、由良は酷く気まずそうな顔をして、枕を頭から遠ざけた。

 本当に知らなかったのか。

「気付かなかったの?」

 琴音の言葉がやけに虚しく響く。

「気付くかよ……。ってか、この枕も灰川の私物なのか……? なにゆえ……?」

「さあ……それはあなたたちのことだから、私からは何も言いませんけど」

「わからん……何もわからん……」

 由良は途方に暮れたような声を出した。

 鼻声なのも合わさって、やけに哀れっぽく聞こえる。

「さとりでしょ。女心くらい察せないんですか」

「人の心なんてわかるわけないだろう……。灰川は僕より賢いし……」

「自分より賢い相手のことはわからないんですか」

「想像力の、ゴホッ、臨界点だよ……」

 そういうものか、と鏡は思った。

 確かに灰川は常に想像を超えた振る舞いをする。

 しかし、それが自分より頭が良いからだとは、鏡は認めたくなかった。灰川の人格がある種ひどく破壊的であるためである。

 灰川には下僕はたくさんいるだろうが、友人は鏡の知る限りにおいて、由良一人だった。自分もその列に加わりたいとは決して思わない。つまりはそういうことだった。

 由良は灰川が自分より性能が高いことを、やけにあっさり受け入れているように見える。

 鏡にはそれが不思議だった。

「由良さんは、灰川さんの下にいることが辛くないんですか?」

 学校でよく見る由良は、いつも灰川の世話をしているように思う。

 灰川はわがままだ。元々傲慢で神をも恐れぬ不遜な人間だが、由良の前では明らかにただのわがままばかり言っている。

 由良もそれに文句を言いこそするが、結局は従っている。

「喉が渇いた」と言われれば、ジュースを買ってくる。

「肩が凝った」と言われれば、肩を揉む。

「背中がかゆい」と言われて孫の手を渡したが、理不尽にもへし折られ、結局素手でかかされていた(由良はほとんど泣き笑いのような複雑な表情で、服の上からかくように頼み込んでいた)。

 不満は見せるものの、最後まで逆らいきっているのを見たことがない。

 結構な頻度で、由良が灰川の部屋に朝ご飯を作りに行ってることを、鏡は知っている。

「灰川の悪口なら聞きたくないぜ。あいつは僕の友達なんだ」

 由良の声は先ほどまでとは違い、ひどく硬かった。

「悪口のつもりじゃありません。ただ、友達だというならなおさら、対等であるべきじゃあないんですか」

 鏡がそう言うと、由良は再び元通りに語調を緩めた。

「あの人が僕より性能が良いのは事実だよ……。それに、僕が好きでしてることだ」

「健気なんですね」

「そうでもないよ……僕にはきっと、推してるアイドルが結婚したらグッズを捨てるオタクみたいに利己的な部分もあって、灰川が喜ぶと僕が嬉しいからやってるだけなんだ……。本当の意味では、灰川の気持ちなんてどうでもいいのかも……」

 由良はロマンチストだ。自分のそうしたささいな気持ちが汚点に感じられて、露悪的に振る舞ってしまう。鏡に言わせれば、彼はやはり健気な男だった。

 そんな由良の言い分を聞いて、隣の琴音が頬を膨らませた。

 不機嫌そうに手に持った人形を握りしめている。

「このお人形、どこも動かないし声も出ないのに、何で電池が入ってるの?」

 意地悪気な表情。

 琴音は八角館の事件以降、こういった顔も見せるようになった。

 そんな彼女から不穏さを感じる鏡だったが、琴音の言う通り人形には何のギミックもなく、露出した人形の背中から見える肌色の電池ボックスは奇妙に浮いていた。

「さあ……? 灰川がくれたやつだから、灰川に聞いてみたら……?」

 琴音は可愛らしい小鼻にしわを寄せて、ふん! と息を吐いた。

 由良の返事が気に召さなかったらしい。


 普通なら、病人に気を遣わせて悪いのでお見舞いは短く切り上げるものだが、何となく鏡も琴音もずるずると居座ってしまっていた。

 一年間彼女らが過ごした灰川の部屋は、同時に由良の部屋でもあったのだ。居心地が良くないはずがない。

 あまり深くは考えたくないが、確かに由良と灰川のにおいは似ているように思えた。鏡ですらそう思うのだ、敏感な琴音には殊更だろう。それがどうにも、安心する。

 だべっている鏡たちの他にも、何人かお見舞いに来た人たちがいた。

「お──じゃ、ま────し──ま──す──」

 一階からその言葉が聞こえて十分後。

「き──ちゃ──った──」

 肌も髪も白く、瞳は紅色。間延びした声は、他人とは違う時間の流れの中にいるよう。

 須久那白澤である。

「階段上るのに十分もかかったんですか……」

 喉を傷めた由良の代わりに、鏡が話をする。

「う──ん──」

「他の孤児院の子たちは?」

「六畳間にそんなにたくさん押しかけても迷惑だから、って」

「そ──う」

 白澤に任せると日が暮れると判断したのか、同じ孤児院で生活をしている琴音が通訳のように間に入った。

 慣れているのか、白澤もそれに不満を感じた様子はない。

「……人選ミスでは?」

「でも、姫香ちゃんは車椅子だから普通の家だと入れないし、ヒロト君は来ても喋らないし、公彦君はそもそも会話が通じないし、一番マシな真尋君は多分、弱った由良お兄ちゃんを見たらレイプしようとすると思う」

「わ──か──る──」

「……男同士では強姦罪は適応されなかったように記憶していますが」

「現実逃避しちゃ駄目だよ、お姉ちゃん」

 由良と特に仲がいい孤児院の子供たちは、社会の中にある当たり前の線から、一歩も二歩も踏み外している。

 話題に上がった如月真尋は男だが、非合法な男娼としての経験から、肉体関係を結ぶことで由良に捨てられないようにしたいと思っている。そういう接し方しか知らないのだ。

「消去法だよ……その内、もっとまともな大人と会えば、僕にも飽きるだろ……」

 由良の反応はドライだった。あるいは、自分の有限性に自覚的なのかもしれない。

「私が──来たのも────消去法──」

「いや、君が来たのにも意味はある……。実際、来てくれて僕は嬉しい……ゴホッゴホッ」

 咳は明らかに照れ隠しだったが、鏡は何も言わなかった。

 実際のところ、由良は子供にはやたらと甘いのだった。

「これ──お見舞い品──」

 渡された紙袋には、カロリーメイトの箱がみっしり詰まってた。

「確かにこれなら、持ってくる途中で冷めたりぬるくなったりしませんね。偉い偉い」

「判断基準ガバガバになってないか、お前……。風邪引いてる時に口の中パッサパサになるの、地味にしんどいぞ……」

「栄養──満点──」

 無表情で得意げにするという、離れ業を見せる白澤。

「そりゃあな」

 由良の声はやはり、疲れていた。


 白澤が由良の部屋を後にして二十分後、灰川がやって来た。

 おかっぱに切り揃えた髪は夜を切り抜いたように黒い。同じく黒いコートに、真紅のマフラーがやけに映える。マニッシュなスタイルの探偵。

「やあ、由良君。酷い顔だな。普段から大した顔じゃないが、今日は輪をかけて不細工だ」

「昨日よりマシだろ……」

「かもね」

 昨日も来てたのか、と思ったが鏡は言わなかった。

 明らかに、二人だけの世界の領分に立ち入ることだったからである。

「君がいない間、大変だったよ。僕一人で『しょうゆ顔ロシア人連続誘拐事件』を解決する羽目になった」

 ロシア人にもしょうゆ顔の人がいるのか。

 気になる。

 しかし何だかツッコんだら負けな気がして、鏡は別の以前から気になっていたことを口にした。

「由良さんって、そんなに不細工ですかね? 嫌な表情をする時もありますけど」

「気になるかい」

 灰川はちらりと由良の方を見た。

「由良さんが自分で言うのは、安直な自虐で予防線を張ってるだけです。何の意味もありません」

「実際のところ、由良君程度の不細工は全体で言うなら、どこにでもいるさ。むしろ不細工でない人間の方が少ない」

「自分はその例外だと?」

「当たり前じゃないか。付け加えて言うなら、僕は不細工が嫌いなわけじゃない」

 今度は明らかに由良の方を向いていた。

「そういうのは僕がいないところで言えよ……」

「ふふん、嬉しいくせに」

「グワーッ」

 急激に上昇したラブコメ濃度に、鏡は中毒を起こした。

 奇声を上げる鏡を、奇妙な生き物であるかのような目で灰川は見た。

 一連の会話を傍で聞いていた琴音は、人形の話の時と同じように、不機嫌な表情になった。

「この充電器、正規のメーカーのじゃなさそうだけど、どうして?」

 琴音が持っているのは、三つ又の拡張コンセントに刺しっぱなしだった携帯の充電器である。

 急な脈絡のない話に、きょとんとしながらも由良は応えた。

「ああ、前のやつの端子がガバガバになった時に、余ってるからってもらったんだ」

「誰から?」

「灰川から」

「へえ……。関係ないけど、盗聴器ってコンセント周りに設置されることが多いらしいよ。そうすればバッテリー供給の手間が省けて、半永久的に使えるから」

「ふーん。初めて知った」

「……鈍感」

「ん? 何か言った?」

 お約束の台詞のはずなのに、何故か鏡は背中に冷たいものを感じていた。

 人の悪意に敏感な由良だが幸か不幸か、彼は友人を疑う習慣を持たないために、この時は訳もわからずぽかんとしていた。

 疑り深いが、騙されやすい男である。

 付け加えるなら、灰川の行為がが悪意によるものではないことも大きかった。

 奇しくも灰川自身がいつか口にした通り、愛は憎悪よりも危険な動機となり得る。それを身を以て証明したのである。

「そういえば、さっき玄関で須久那君とすれ違ったよ。あの子もお見舞いに来ていたんだね」

「まだいたのかよ……二十分も何してたんだ……」

「……話題の切り替えが強引すぎない、灰川さん?」

「おや、君の話題もずいぶん有意義だったと思うがね? まだ喋り足りないのかい」

 琴音と灰川の間で、見えない火花が散った。

 間に座る鏡は、ただオロオロとしている。

「ふんっ!」

 かけ声と共に、琴音が充電器のコードを思いっきり左右に引っ張った。

「ごめん、お兄ちゃん。断線したかも」

「何か怖いよ君……」と由良も怯えている。彼の震えは、風邪の寒気だけではないだろう。

「おやおや、物騒だね」と灰川は余裕の表情。

「その反応……まだ他にも設置していますね」

 悔しげな琴音。

「君の想像力の程度に興味はないな。この話は終わりだ」

 灰川の口調は険しいが、その一方で由良の耳たぶをふにふにと弄んでいるので、どうにも迫力がない。

「それよりも由良君、ずいぶん汗をかいているね。喉が渇いたろう」

 そう言うと、灰川は由良をゆっくりと抱え起こして水を飲ませた。ほっそりとした腕だが、重機めいた力強さを感じさせる動作だった。由良はぐったりとして、されるがままである。

『よく気が付く甲斐甲斐しさのアピール、頼りになるところを見せることにも成功し、好感度が上がった!』鏡の脳内に謎のテキストが表示されたが、頭を振って見なかったことにした。

 その間ずっと、灰川の指は抱え込んだ由良の頭、その耳の山と谷をなぞっていた。

 灰川と由良は異性同士のはずなのに、何故かひどく倒錯的で、お耽美な光景だった。

 ぼんやりと見ている鏡たちに、灰川はしっしっと手を振った。

「まだいたのか。ほら、君たちは早く帰りたまえ。ここからは大人の時間だ」

「いや、お見舞いに来てくれたのは嬉しいけど、マジでしんどいからお前も帰ってくれ……」

 由良がうめくようにして言った。

 灰川の腕の中で。

「何だと!? 君と僕との仲じゃないか!」

「たまにすごい怖いんだよお前! 僕の知らない間に枕取り替えたりしてるし!」

「とととととと取り替えてないし!」

 取り乱しながらも否定する灰川。

 しかし、鏡は見ている。由良を抱き起した時の灰川の目は、野獣ケダモノのそれであった。

「琴音が灰川のにおいがするって……」

「でも君は気付かなかったんだろう? じゃあ証拠になりませんー! 偶然同じ枕を買っただけですー!」

「子供かよ……」

 荒ぶる灰川はさておき、由良の具合が悪そうなのは事実だったので、鏡と琴音はそろそろ帰ろうかと腰を上げようとした。

 だがしかし、新たな見舞客によって中断された。

「あら、ずいぶんと人が多いですわね」

 ゆるく巻いた髪を肩まで垂らした女性──皇四時である。

 由良に友愛以上のものを抱いているが、それ故に愛しさ余って憎さ百倍、由良を殺そうとしたり助けようとしたりまた殺そうとしたり、情緒不安定気味な行動が最近目立つ女であった。

 鏡の服装が地味だが上品なものだとすれば、こちらは派手になりかねない色遣いのものをあっさりと着こなしている。白をベースに金色のアクセントが端々に散らされていた。

「六畳間にこんなに押しかけるなんて、非常識でなくて? 病気のお見舞いは、手短に済ませて早めに帰るのが礼儀でしょう。さっさとお帰りになったら? 特に灰川さん」

「うっさい! お前が帰れ!」

「ぐぬぬ」

「うぎぎ」

 灰川はライバルの登場に自制心を失い、幼児退行している。

 だが、争いは同レベル帯のものでしか起こりえない。つまりはそういうことである。

 にらみ合う二人、その間をくぐり抜けようとする琴音。そして緊張のあまり、蟹のように泡を吹く鏡。

 混沌とした状況をさえぎったのは、苦しげな由良の咳だった。

「眠れないから、もう帰って……」

「だってさ! ほら、帰れ帰れ!」

 薄い胸を反らして威張る灰川。

 そうしている姿は本当に男だか女だか、区別がつきかねる。

「いや、お前が一番うるさいよ……」

「ムムム!」

「何がムムムだよ……ゴホッ」

 皇はと言うと、由良のそっけない対応に傷ついたのか、顔を真っ赤にしてぷるぷると震えている。

「い、言われなくても帰りますわ! これはお見舞いの品!」

 覚えてなさい! と言うと、皇は灰川の腕を無理やり引っ張り、一緒に部屋を出て行った。

 鏡も帰ろうとすると、皇の渡した土産の横にもう一つ箱があるのに気が付いた。

 灰川の土産だろう。やりたい放題やっているように見えて、意外とまともな面もある。

 そんな風に内心見直していると、琴音が急に灰川が置いて行った方の包装をバリバリと剥ぎ、中身をあさり始めた。

「ちょ、ちょっと、何してるんですか?!」

 琴音は応えない。

 箱の中身は、高級そうなフルーツゼリーだった。色とりどりの透き通ったカップは宝石にも似ている。

「あった」

 琴音が取り出したのは、箱の端に付属していたスプーンだった。

 この手のお菓子には付いてきても珍しくはないが、普通はプラスチックの薄いものであるところを、持ち手がしっかりしたつくりになっている。

 鏡はそれだけ高いのだろうと思ったが、琴音はそう思わなかったらしい。

「ふんっ!」

 一切の躊躇なく、琴音はスプーンをへし折った。

 もう鏡は何も聞こうとはしなかった。

 折れたスプーンの断面から、何やら機械の部品のようなものがのぞいていたのだが、鏡は何も知りたくなかった。

 代わりに言った。

「琴音ちゃん、帰らないの?」

「こうなったら最後まで見届けるよ」

 ニィ──と獣の笑みを見せる琴音。しかし、その表情のほとんどは愉快なひょっとこのお面に覆い隠されている。

 彼女はどこに向かっているのか。

 そして、普通に迷惑なのでは。

「静かにしてるならいいよ……僕は少し寝るから……」

 そう言うと、由良は鏡たちの反対を向いてうつ伏せになった。その姿勢でないと眠れないのだった。

 じきに、かすかな寝息が聞こえてきた。

 発熱で体力を酷く消耗していたのだろう。そう思った鏡は、なるべく音を立てないように、コップに水を注ぎ足しに行った。


 それからしばらく由良は寝たままだったが、また別の見舞い客が来た。

「よう、って寝てるのか」

「鏡と八幡もいたのか。由良の家に来るのは初めてだったが、ここの階段は良いな。段数が十三段ピッタリだ」

 珍しく興奮気味に語りかけてくるのは、風間巧。

 周囲の何かを数えることに執着する癖のある、浅黒い肌の男である。

 隣でコンビニの袋をぶら下げているのは、熊谷将成。

 普段は大柄な恋人と一緒にいるせいでやたらと小柄に見えるが、今日は彼女はいない。

「十三段はピッタリとは言わないと思いますけど」

「何を言う。素数だぞ」

「あっ、はい」

 鏡は理解を諦めた。

「まいったな。寝てるなら起こすのも悪い。……ってか何で君らいるの?」

 熊谷の言ってることはあまりにも真っ当すぎて、鏡は返事に窮した。

「琴音ちゃんが帰りたくないって……」

「あー、なるほどね。じゃあ、僕らはこれだけ渡して帰ろうかな」

 熊谷が鏡に渡したコンビニの袋は結構大きく、重かった。

「色々買って来たみたいですね」

「地味子と風間の妹の分も入ってるからな。大勢で押しかけると悪いからって、二人は来なかったけど」

 見れば、プリンやスポーツドリンクやヨーグルトや葛湯が雑多に放り込まれている。

「さすがに津田には声をかけなかった」

「当たり前でしょう」

 新城真由にも同じである。

 彼女は鏡にとっては友人であっても、熊谷からしてみれば津田の恋人でしかない。

 付け加えるならば、新城を悪魔にしたのは由良であり、恨んでいるとまでは言わずとも、慣れ合う仲でもない。

「そうかな。あいつはあいつで複雑なものがあると思うんだけど」

「だとしても、今来られたんじゃあ気まずいでしょう」

「うん、確かに」

「話は終わりか?」

 ちょうど話が区切れた辺りで、風間が声をかけてきた。

「この部屋では何か数えないんですか?」と鏡。

「本ばかりだろう。本を数えるのは、図書館司書かエセ読書家がやればいい」

 何故か風間は怒ったような口調で言った。彼の中には謎の美意識があるらしい。

「しかし、由良が寝てるの初めて見たな」

「そうですか?」

「由良は絶対に授業中に居眠りをしない。宿泊研修で僕と風間は由良と同室だったけど、あいつは最後に寝て最初に起きてたよ。小動物みたいに警戒心が強くて、人に自分の無防備なところを見せたがらないんだ」

「何度か見たことありますけどね。さっきも、私たちがいるのにすぐ寝ちゃいましたよ」

「信用されてるんだろ。話しすぎたかな。そろそろ帰るよ」

 お大事にって伝えておいて、と言うと、熊谷と風間は帰って行った。

「行きましたわね!」

 反対側のベランダから急に声が聞こえたかと思うと、皇が窓を開けて勝手に入ってきていた。

 生垣の中を無理やり走り抜けたかのように、頭や豊かな胸の辺りに葉っぱが付いている。

「ジャングル、強イ者、勝ツ。コレ、掟」

 少し目を離したすきに、皇は野生化している。

「何してるんですか」

「ウホッウホッ、ウーン……はっ! 私は何を!?」

 こっちが聞きたい。

「そうでしたわ、やっと真澄さんをまいたんですから、当然お見舞いの続きに決まってるでしょう?」

「由良さんは寝てるんですけど」

「寝てる間しか出来ないこともありますわ」

「あっ、はい」

 色んなことが一周して、鏡は完全に真顔だった。

「さあ、ここからは大人の時間ですわ。あなたたちは帰りなさい」

「あれ~? さっき聞いたような台詞」

「こんなに寝苦しそうで、あ、汗を拭かないといけませんわね……フヒ」

 鏡は上品に、不穏な語尾を意識から排除した。

「させるかーっ!」

 ああもうメチャクチャだよ。

 再度の乱入者はもちろん灰川。

 ベランダとは別側の採光窓から身体を無理やりねじ込んで入ってきたのだ。屋根瓦の上を這ったせいで、コートが埃にまみれている。

「ふふん、僕をまいたつもりだったようだが残念だったな。由良君の部屋は常に監視しているのさ」

 それを聞いた琴音は、ハッとした表情になる。

 “見られること”の暴力を知る彼女の類稀な感受性が、何かに気付いたのだ。

 こんなに無意味な覚醒シーンが有史以来あっただろうか。

 そんな鏡の思いをよそに、琴音は寝ている由良を揺すって声をかけた。

「お兄ちゃん、最近読んでない本とかある?」

「……本棚……右上……ムニャムニャ……」

 寝ぼけた由良の言う通りに本棚を探ると、琴音は埃をかぶった本が連なる一角を見つけ、手をやった。

 その中の一冊、他より埃が薄い本を琴音は取り出す。

 見た目にはハードカバーの本だったが、開くと中のページはくり抜かれ、小さなカメラが仕込まれていた。背表紙の文字に当たる部分には穴が開き、レンズが見えている(もちろん、注意しなければそれとわからない)。

 しかし、それを見ても灰川と皇は小揺るぎもしない。彼女ら探偵には、見慣れたものなのだ。

「ちっ、これでもまだ氷山の一角だというの?」

 琴音の言葉を肯定するように、灰川は余裕の笑みを崩さない。埃まみれで夜這いに来たくせに。

 皇はクシャクシャになった髪に巻き込まれた葉っぱと胸を揺らし、周囲を威嚇している。自分の身体を大きく見せるための、ジャングル仕込みの知恵である。

 琴音は灰川と皇に割って入るのを諦め、悪行の証拠をつかむのに熱中し始めた。彼女が探る端々から、不穏な機械が発掘され、破壊された。鬼気迫るものがあったが、その迫力はほとんどひょっとこの面白さで中和されていた。

 鏡は夕方だったので、肉眼で金星が見えないか探すのに夢中だった。何も考えたくないのだった。

「由良君の汗のにおいでわからないのか。彼は酷い苦痛を今この瞬間にも感じている。君みたいな人間が側にいると身も心も休まる暇がないのだよ」

「においフェチのド変態が何を言ってますの。監視カメラと盗聴器を至る所に仕掛けてるストーカーこそ帰るべきでなくって?」

「君だって仕掛けてるくせに、何をしらばっくれようとしてるんだ」

「くっ……完璧なはずでしたのに、何故バレましたの!?」

 お前もか。

「ふふふ……盗聴器と監視カメラ、あわせて64個……すべて見つけたよ……。充電器から盗聴器を見つければ、普通は近くにある拡張コンセントは意識から外れてしまう。巧妙なトリックだったけど、私は騙されないよ!」

 序盤のデスノートかよ。

 やり遂げた感を出している琴音だが、由良は何だかんだでこの二人を(自分を助けたり殺そうとしたりと情緒不安定気味な皇さえも)心から信用しているため、彼女らは何度でもカメラや盗聴器を仕掛ける機会に恵まれるだろうということに、気付いているのだろうか。

 鏡は背後に吹き荒れる怒号混じりのやり取りを無視しながら、考える。

 由良は確かにおかしなやつで、一緒に話していると楽しい時よりもイライラさせられる時の方が多いけれど、彼が今回のように困った時には助けてやりたいと思っている自分がいることを。

 そして、鏡だけではなく他のいくらかの人たちもきっと、似たようなことを感じているはずで、今日のお見舞いラッシュにはそんな意味が込められていたのだろう。

 由良は自分のことを不細工だと思っているようだが、周りの人は別にそんなことは思っていないのだ。彼が思ってるよりも世の中はずっとまともで、意外と上手く回っている。

 そんな鏡の視線の先に、流れ星が見えた。

 夜になりきらない薄暗がりの中なのに、こうもはっきり見えるとは、ずっと近くなのかもしれない。

 気付けば喧嘩は中断されたのか、灰川も皇も琴音も、鏡の隣で流れ星を見ていた。

 灰川──「由良君が僕専用の抱き枕になりますように、由良君が僕専用の抱き枕になりますように、由良君が僕専用の抱き枕になりますように!」

 皇──「俊公さんを犬にして散歩出来ますように、俊公さんを犬にして散歩出来ますように、俊公さんを犬にして散歩出来ますように!!」

 琴音──「この人たちの願いが叶いませんように、この人たちの願いが叶いませんように、この人たちの願いが叶いませんように!!!」

 鏡──「グワーッ」

 由良は何も知らずに眠ったままである。

 彼が起きていたら、何を願ったのだろうか。

 そんな感傷とはまったく関係なく、鏡は暗黒ラブコメの高まりに錯乱し、ベランダから落っこちた。




 ~おわり~

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