第12話 月の子ら

   *


『いつか/どこか/誰か』

 少年は走っていた。

 追われているのだ。

 胸の奥の小さな心臓が、はじけてしまいそうなほどに脈打っている。

 体格は小柄で、顔にはそばかすが浮いていた。活発な雰囲気とは少しちぐはぐな、丸い眼鏡をかけている。

 本当は、今にも休んでしまいたかった。しかし、背後に迫る気配がそれを許さない。

 走り続けた先に、ふと分岐が見えた。

 時間帯のために人通りはないが、大きな道。

 元々薄暗いが、それでも更に暗く、不穏な細い路地。

 迷っている暇はない。

 少年は細い路地の方に飛び込んだ。

 しばらくすると、追跡の音が止んだ。少年には感じ取れなくなっただけかもしれないが、それを正確に知るすべはない。

 いずれにせよ、少年は一息つくことにしたようだった。

「はあーっ、はあーっ」

 そんな少年に、横合いから声がかけられる。

「ずいぶんと、困った様子だね」

「ひィッ?!」

 飛び上がる少年。

「誰? 誰かいるの?」

 辺りは暗闇、何も見えない。

 声は近い場所から聞こえるが、姿を想像も出来ない。

 やけに涼やかな声だという印象があったが、この不穏な路地においては、かえって恐怖をあおる材料になった。

「驚かせてすまないね、少年。眼鏡を落としてしまうとは」

 確かに今、驚いたせいで眼鏡は落としてしまった。

 少年の指に眼鏡のつるが触れた。

 しかし、この暗がりの中で、この相手はどうやって眼鏡を見つけたのか?

「ああ、また驚かせてしまった。本当にすまない」

 冷や汗をかく少年を安心させるように、その相手はペンライトを点けた。

 明かりによって、相手の姿が見えるようになる。

 少年の話し相手は、どうやら女性だった。

 黒いタキシードに黒いシルクハット、全身を覆うマントまでが黒い。

 まるで夜を切り抜いたような立ち姿だった。

 しかし、最も眼を引くのは、その顔だ。

 彼女の顔の上半分は、仮装用のドミノマスクで覆われている。奇妙なことに、本来なら開いているはずの目元の穴は、縫いふさがれている。

 眼は見えないはず。

 それなのに彼女は、あまりにも堂々とした足取りで少年に歩み寄った。手にはステッキがあったが、それも持っているだけで地面には突かない。

 下半分しか露出していない女性の顔は、たったそれだけで少年の眼を惹き付けてやまなかった。少年は、初めて自分の性を自覚した。

 恐ろしいまでの美貌。

 マントの上からでも、その肢体が豊満な美しさに満ちていることはわかった。

「少年、度々驚かせるが、許してくれよ」

 急にそう言うと、女性は少年を抱え上げて走った。

 見とれるばかりだった少年は、わけもわからず、抵抗もしなかった。

 ただ、『良いにおいがする』とだけ思った。


 辿り着いたのは、ちょっとした広場だった。

 少年を追っていた気配が、再び辺りに満ちていた。

 さすがにここまで来ると、少年もぼんやりしてはいられなかった。

 しかし、抗議する前に女性が口を開いていた。

「事情を聞かせてはもらえないかい? いたいけな少年の命を狙う理由に、納得出来るものがあるのなら」

 そこで初めて、少年は自分を追っていた者たちの手に銃の光があることを知った。

 急に、麻痺しつつあった恐怖が少年を襲った。

 震えが止まらない彼の頭を、黒衣の女性は優しくなでた。

「心配しなくてもいい。これでも私はね、少しばかり強いんだ」

 そう言うと、女性は杖を掲げ、持ち手を引き抜いた。

 仕込み杖だった。

 刃物を見た男たちは、銃を使うことのためらいを捨てたようだったが、女性にはそもそも恐れもためらいもなかった。

 女性は夜を引きずるような黒衣をはためかせ、男たちの群れに斬り込んだ。




   忘れるな

   うっそりと霧 荘厳と夢

   気高く在れよ

   泥中に咲く 蓮花のように


   盲目の夜が 君を隠しても

   月下の騎士は 現れる

   おお 蓮花よロータス

   聞こえるか 君を呼ぶ声が

   おお 蓮花よロータス

   日輪に咲く 君を迎えに




 女性は歌っていた。

 少年は聞いたことのない歌詞だったが、それでも歌の美しさだけはわかった。

 まるで神々が彼女の美声に酔いしれ、報酬として加護を与えたかのように、銃弾は黒衣の女性を避けて通った。

 やがて、静寂が訪れた。

 それは立っている追手が、一人もいなくなったことを意味していた。

 どういう原理にてか、少年の視線を察知した女性は、こちらに顔を向けて言った。

「みね打ちだよ。大丈夫大丈夫」

「そうするんだったら、最初から杖のまんまで殴れば良かったんじゃ……」

「ロマンだよ。君にもいつかわかる」

 真面目くさった口元で言う女性に、横から怒声が投げかけられた。

「こらーっ、琴音ちゃん! 何を勝手に待ち合わせ場所を動いてるんですか!」

 怒声の主は、金髪の女性。

 やや地味かつ機能性重視のファッションだが、見事の髪の色と赤縁眼鏡のアクセントがそれをよくまとめている。

 見た目は三十代だが、十代の旺盛な活力もうかがわせる。

 年相応の落ち着きと、若さの爆発力を使い分ける、機知に富んだ人の持つ一種の魅力があった。

「『ちゃん』はやめてよ、鏡お姉ちゃん」

「いつまで経っても、私にとってはあなたは『琴音ちゃん』ですよ。それで、その子は?」

『琴音』と呼ばれた黒衣の女性の文句も、金髪の『鏡』は意に介さない。

 急に話を振られた少年は、縮こまってしまう。

「困っていたから、助けた」

 琴音の言い分は、いたってシンプルだった。

 鏡も、それを一切疑わなかった。

 二人の間の、尋常ではない強度の絆がうかがい知れるやり取りだった。

「ぼく、どうして追われていたんですか? ゆっくり話してごらん」

「……怒らない?」

 馬鹿げた理屈かもしれないが、十歳にもならない子供にとって、大人に怒られることは死ぬより怖い。

 鏡はそのことを知っているのか、ゆっくりと話し続けた。

「怒るわけないでしょう。私が怒るのは、子供を撃とうとする馬鹿共を相手にする時だけです」

 少年は引っかかりながらも、ぽつりぽつりと話し始めた。

 彼が巻き込まれることになった、事件のきっかけを。

 しかし、それはまた別の物語。今ここでは、語られるべきではないだろう。

 荒事や事件の類には慣れっこという風だった彼女らの表情が変わったのは、少年が自分の名前を言ったくだりである。

「ちょ、ちょっと待って。君の名前は?」

「熊谷麻人あさと

「……お母さんは?」

「久美子」

 鏡は眼を丸くして、言葉を失ったようだった。

 そして少しの間を置いて、

だ……」

 と言った。

「どういう意味?」

「いえ、こっちの話です。しいて言うなら、最後には愛が勝利するということで……。それで、琴音ちゃん。この子はどうするんですか?」

「助けない選択肢などないことは、知っているでしょう?」

「ええ、もちろん。だから、どうやって助けるのか、ということですよ」

「助けてくれるの?」

 少年の両親は、子供をやや上品にしつけすぎたきらいがある。

 このくらいの年の子なら当たり前の、『困った時には周りの大人が助けてくれる』という発想がとっさに出てこなかったのだ。

 自分はこのまま見捨てられるとすら思っていた節がある。

 十年もすれば、さぞかしタフな男になるだろう。

 それが琴線に触れたのか、琴音は少年に嬉しげな声を向けた。

「私が来たからには、もう大丈夫。これからはどんな悪党も、君に一切の手出しは出来ないだろう」

「ありがとう──お姉さんの名前は?」

 そして黒衣の彼女は、改めて名乗りを上げた。

「八幡琴音。子供助け専門の探偵だよ」

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