第11話 Call of Dirty(4)

   *


『由良』

 変化へんげをするのはそんなに嫌いでもないが、ずっとそのままの姿でいるのは窮屈で仕方がない。

 僕は猫の姿を捨てられたことに、少しほっとしていた。

 とはいえ、のんびりとしてもいられない。

「灰川」

「うん」

 この一年、僕と灰川はずっと一緒にいた時間を、無駄に過ごしていたわけではない。

 ほとんど言葉さえ用いず、意思疎通が出来るまでになっていた。

 僕は灰川に、自分が悪魔であることを伝えたことはない。しかし、灰川はいつでも『何だってお見通し』という風な笑みを浮かべる。僕はそれに甘えて、勝手に動く。

「事件を終わらせるのに、僕の力が必要なんだろう? やってやるさ」

 灰川なら、この解かなくてもいい謎を解くことが出来る。というより、真実を自分の望むように捻じ曲げる才能がある。

 それこそが、探偵というものなのだ。

「頼んでおいて言うのも何だけど、お前は僕を甘やかしすぎてるんじゃないか?」

 人を試したがるのは僕の悪癖だ。

 本来なら、僕の方が試されるべきなのに、あんまりにも灰川に吊り合わないせいで、いやらしいことを言ってしまう。

 そんな僕の性根を見透かした上で、灰川は笑う。

「真の美しさは、叡智にこそ宿る。僕は君の前では、いつだって美しくあろうとしてきた。それでは不満かい?」

「……ありがとう」

 僕はこの人に一生敵わない。

 みっともない顔を見られないように、僕は駆け足気味に部屋を出た。


 扉は現実と非現実を隔てるものだ。

 僕は曲芸を披露するサーカスの虎のように、扉からするりと虫々院のずらした先の世界へと侵入した。

 そこでは、蟲が形成する奇妙な人形ひとがたたちがゆるゆると蠕動し、踊るような仕草をしていた。

「『IQの差が20以上あると、会話が成り立たない』とイウ話があル。これをキミはどう思ウ?」

「多くの人ハ、会話ガ通じなカッたのハ自分ノせいではなカッタのだと思い、安心するのだヨ。『差があると』とシか言っていないのに、自分より相手が馬鹿ダッたのだと考エタがる」

「驚異的な無自覚サだろう?」

「人ヨりちょっトだけ出来る人間ハ、自分の失敗はスベテ他人に足を引ッ張られたからダと考エル」

「キミは本当は、琴音ヲ助けられなくてモどうっテコとはないんだろう。鏡亜矢の力不足だッたというこトニすればイイ」

「キミの罪悪感のルールには抵触しないはずだと思うがネ」

 蟲たちの群れは有機的な波にも似て、押し寄せては引き、代わる代わる神経を逆なでするトーンで僕に話しかけた。

 しかし、口ではそうは言っているが奴の思惑は別だ。

 灰川が八角館に来たことで、事件解決のめどは立ったがその一方で、僕の命の核が危険にさらされるというデメリットも生じる。

 虫々院は、僕を最後までこの事件から降りられないように仕向けているのだ。

 とことんまで試し合った先で、手に入れられるものこそ美しいと信じて。

 奴が見誤っていることがあるとするなら、僕が最初から降りることなど考えていないということだ。

 僕はもう、本気にならないことがカッコいいだなんて思えるお年頃でもない。

 やってやるさ。

 いらえは真っ直ぐなものだった。

「三尸の虫は人が生まれたその瞬間から体内に潜み、六十日に一度の庚申の日に人間の身体を抜け出し、天帝に悪行を報告することでその寿命を減らす。人の生まれた時より寄り添い、命の価値を計るもの。それは人の持つ愚かさや、原罪だ。人間がいる限り涸れることのない、黒い泉。三尸の正体は、だ」

 虫々院は僕の言葉に、少し驚いたように蟲たちの表面にさざ波を立てて応えた。

「その通り。吾輩はどこからでも来て、どこにも行かない者。人という種が滅びても、きっと他の生き物の心から業を見つけ出す。移り住むいなごの王であり、民である」

「庚申の日の夜に三尸が抜け出さないように見張り、寿命を減らされるのを防ぐ庚申待ちという風習がある」

 ──長かった。

 灰川の眼を盗み、一晩中ツバメの姿で飛び続けて、琴音の元へと向かうのは。

 琴音の苦痛が癒えきらぬのを見て、止まない雨を思うのは。

「長い──長い夜だったぞ、虫々院」

 両の手首を支点に、カマキリのように変形した前腕の骨を展開し、蟲たちの群れを斬り飛ばす。

 敵がそうすることを要請し、僕は僕にそうあることを許可していた。

 黒い群体レギオーが発散し、収束する。彼奴らはうねり、叫び、僕の行く手を阻もうとするが、いずれもそれは果たせない。

 高密度に練られた僕の魔力が、逃げ散ろうとする個々の蟲を巻き込み、マッシュした。

 暴力のメイルシュトロウムであることを、僕は自分自身に望んでいた。

 黒い災いを切り裂き、走り抜けた先に、銃口を真っ直ぐにこちらへと向ける八幡修二の姿が見えた。

 戦闘のために拡大された僕の知覚領域は、銃口の奥に見える弾頭の表面に銀がコーティングされ、呪印が刻まれていることを感覚した。そしてこの弾丸なら、僕を殺しうるということをも理解した。

「皇め、余計なものを」

 そして、引き鉄が絞られた。


   *


『津田』

「馬鹿で無教養なお前にもわかりそうな話をしてやると、八幡家の中の裏切者は俺だよ。琴音をお前らの眼につくようにし、灰川を家の中に手引きしたのは俺。虫々院の指示でね。本当はあのはもっと使っていたかったが、仕方ないよな」

 確かにあの事件の際、津田も居合わせた。だが、それはいただけだ。何も為してはいないし、その気もなかった。

 自然、津田の興味は別の方向に向かう。

「何で、家族を裏切ろうなんて思うんだ」

 津田の言葉を、修一郎は鼻で笑った。

「何故って? 理由なんかないよ、ただそういうことが得意で、好きなんだ。俺は俺の魂が求めるように生きているだけさ」

 己の本分に忠実であること、あるいはそれこそが彼の持つ業なのだった。

 津田にはわからない。

 例えそれが悪だとしても、信念と呼べるまでに強固なものを持つ修一郎のことが、津田には遠く思えたからだった。

 理解も共感も置き去りにした場所に、彼らは立っていた。

 賢しらぶって取り繕った薄っぺらな文明の皮を剥ぎ、原始の世界が露出していた。

 数度ののち、銃声は止んでいた。

 津田の乏しい想像力では、由良が素直に撃たれたのか、それとも、何らかの方法でかわしたのかはわからなかった。

 代わりに、ドアの向こうに響く足音に、身を固くした。扉が開けられた時に、誰が生き残ったのかがわかるのだ。

 しかし、次に起きたことは津田の予想を上回っていた。

 銃声=BLAME/BLAME/BLAME!

 弾道が読めない扉越しの銃撃をしかし、修一郎は回避/回避/回避!

 驚異のバネ仕掛けめいた修一郎の運動性能は、初撃の王手を難なくかわした。

 弾痕でもろくなった扉を蹴り破り入室する由良は、まさに幽鬼の形相である。生乾きの返り血が、彼が一歩進むごとに不吉な音を立てる。

「やっぱり、銃は苦手だ。当たったためしがない」

「テメッ、当たったらどうするんだよ!!?」

 縛られているせいで動けず、顔のすぐそばを弾がかすめた津田の抗議。

 相手は津田の知っている由良より、ずっと長く髪が伸びているが、それに言及するほど頭は回らない。

 対して、由良の声はそっけない。

「何だ。お前、まだいたのか。早く帰れよ」

「帰れねえんだよ。いや、ここまで来て、黙って帰れるもんかよ」

「そうか」

 撃った。

 銃弾は津田の手首と足首をかすめ、拘束する結束バンドを溶かした。

 この間、由良は津田に一度も眼を向けていない。視線は常に修一郎に向けて固定されている。

 あまりのことに、津田は声も出ない。

 けぶる銃口をちらちらと弄ぶ由良に、修一郎は言った。

「あと何発残っている? そろそろ弾切れじゃないか? だが、わかるだろう。この距離なら、もう当たらないぜ」

 事実だった。

 月並みだが、視線や銃口の角度で弾をかわすことが出来るのだった。それほどまでの使い手なのである。

「特に理由があって、するわけじゃないんだ。ただ、好きなんだ。そういうのが。女を殴りながら犯したり、子供の死骸を犬に喰わせたり、他人を陥れて人生丸ごと台無しにしたり、さ。だから、やめないよ。理由がないんだから、代替手段もないし、欠けた部分を満たしてやることも出来ない。俺を止めたいのなら、殺すしかないぜ」

 返答は、床に投げ捨てられた銃の重い音であった。

 修一郎は軽く足を開いて、自然体のまま手を前に差し出した。右手が前で、左手は肘の辺りに添えられている。ゆるく開いた手の平は殺意に満ち満ちて、打撃にも組み合いにも変化出来る構えである。

 対して由良は、左手と左足を前に出し、正中線をかばうような半身の構え。やや腰を深く落としている。奥にある右足が蹴りを放つ瞬間を待って、力を溜めている。

「る゛あッ」

 先に打ったのは由良だった。

 前に置いた左拳が真っ直ぐに飛び、次いで奥の右拳が弧を描く。

 修一郎はそれを受け流し、打ち落とす。それだけでなく、一連の動作の中にカウンターの肘を織り交ぜる。

 かろうじてかわす由良の側頭部の髪が、数本引き抜かれた。当たりこそしなかったものの、無理な体勢を取ったために一手遅れることになった。

「が、あ」

 脇腹に太い回し蹴りを受けた由良が、吹き飛んだ。

 津田に見られているとはいえ、由良が悪魔の力をまったく使っていないわけではない。最大の武器である変化の術式や爆撃、業火などのわかりやすい術式こそ控えてはいるが、そもそも人間と悪魔では基本的なスペックから異なる。尋常の人なら受けた腕が折れるほどの膂力を込めて、由良は修一郎を殴っている。

 何故それが効かないのかと言うと、修一郎の技の冴えの結果だ。

 格闘技とは、人体を用いた科学である。由良が人体の構造を無視できない以上、いかなる動きも定石の範疇であり、対応策が存在するのだ。

 もっとも本来なら、力が強い方が、そして技が上手い方が勝つ。だがいかなる偶然か、この二人の闘いはそれらの要素が高い次元で拮抗しているのだった。

 そのことがわかるため、一歩先んじたはずの修一郎も追撃はしない。追い詰めすぎて術式を解禁されてしまっては勝ち目がないからだ。

 代わりに挑発をする。自分が油断していると、悪魔の力を使わずとも勝てる相手だと思わせるために。

「どうした、その程度か!」

「──完全情報ゲームだ」

 修一郎の言葉に、由良は反応しない。虚ろな眼は、彼だけにしか見えない台本を追っている。

「技術は蓋然性が入り込む要素を埋めていく。優れたプレイヤー同士によって条件が拮抗した闘いは、人体という一点の情報集合から展開するゲームになる」

 ゾクリ、とした。

 それは由良に相対する修一郎だけではなく、傍で見ている津田にも波及した。

「へ、へ」

 修一郎の顔が、喜悦に歪む。顔の筋肉が吊りそうなほどに。抑えられないと。

「来いよ。俺を、お前を試してみせろ」

 試されないことには、人の本当の価値はわからない。

 ならば、芯の芯まで比べ合い、試してみるしかないだろう。

 返事はせずに、再び由良が構えた。それが言葉よりも雄弁な由良の答えだった。

 対する修一郎は、先程の右構えを反転させて応じる。


 津田は、息をひそめてそのやり取りを見守っていた。

 自分を拘束するものは何もないのに、逃げようとも由良に加勢しようとも思えなかった。いっそ荘厳ですらある、闘いの空気に呑まれていたのだった。

 じりじりと両者の距離が近づいていく。

 一歩、二歩──。

 本来なら、既に打ち合っているはずの間合いになっても、二人は手を出さない。

 ついに互いの手の甲が触れた。

 しかし、まだ打たない。

っ」

 不意に由良が脱力したように触れ合った左手を落とすと、修一郎の左手もそれに付き従う。

 修一郎が由良の手首を取ろうとすると、空いた手でそれを抑える。

 その間、お互いの手の甲から手首にかけての部位が離れることはない。

 一連の動作は、どれもゆったりとしている。

 横から見る津田には、急に二人が馴れ合いの踊りを始めたようにも思える。

 だが、向かい合った二人にはわかっている。

 ──推手。

 太極拳などに見られる、練習の一つである。

 触れ合った部分から、相手の力のかけ方や重心を感じ取り、套路とうろ(一種の型)の正しさを確かめ、技を鍛えるものである。

 しかし由良も修一郎も練習ではなく、本気で相手を殺すつもりで技をかけている。

 互いの力がせめぎ合っているがために、そういう風に見えてしまうのである。

 速度を上げないのは、急いで粗を見せるのが危険なことだからだ。

 手の甲を手の甲で押すと、力の流れを嗅ぎ取った相手が、受け/流し/逆に関節を極めようとしてくる。

 それを極められる前に、さばき/引き/逃れる。

 そして、また極めにかかる。

 腕だけではない。

 身体丸ごとで闘う。

 半身になって力を逸らした拍子に踏み込んできた相手の爪先を、踏みにかかる。

 すり足で避ける相手に、今度はこちらが踏み込むと、喉元に右手がかがちのように迫る。

 攻防の繰り返しは、舞の域に達しようとしていた。

 津田はその中に、あるものを見た。

 それは意識の交感であり、共感を拒絶した果てにある、何かだった。

 修一郎が由良から感じ取るものを感じた。

 由良から修一郎が感じ取るものを感じた。

【何て愉しいんだろう/こいつ、ただの高校生のくせに、ずいぶん鍛えたんだな/肉も骨も、太くなりにくい体質に見えるのに/きっと、ガキの頃は体育の授業が苦手だったんだろうな/殺す/あの灰川とかいう奴じゃあ、こうはいかなかったんだろうな/良いぞ、その手は/俺がちゃんと、殺してやるからな】

【何で僕はこんなことをやってるんだろうな/琴音を助けることが最優先だから、意味なんてないのに/でも、人間、意味のために頑張るばっかりじゃないもんな/無駄だとか理不尽が、意外と今を形作るもんだ/いいさ/殺してやる/やることは何も変わらないんだからな】

 ゆっくりだった二人の動きが、徐々に揺らいでいく。

 お互いの追跡をかわすために、速度が上がっているのだ。

 均衡を破ったのは修一郎。

「ップ!」

 蛙のように頬が膨れたかと思うと、彼の口から何かが射出された。

 津田が見逃したものは、含み針である。

 闘いの中で、仕込む余裕はなかった。ならば、普段から針を呑んでいたということであろう。何たる闘いへの執念か。

 由良は可動域ギリギリまで首を振ってかわした。無理な姿勢のまま手を伸ばし、修一郎の紐ネクタイをつかんだ。そのまま、背負い投げの姿勢に入る。

 しかし、突如として紐は切れ、由良は無防備に背中を晒すこととなった。ネクタイには切れ目が入れられていた。

「ぃキィッ!」

 猿叫えんきょう

 守るもののない背骨に、修一郎の肘鉄が振り下ろされた。

 通常なら半身不随は免れない一撃を、由良は人ならざる者の耐久力で耐える。両手を床につき、馬のような後ろ蹴りを繰り出す。

「げっ、ぇ」

 由良の蹴りは、修一郎の金的に刺さった。

 必殺を意識したからこその、彼らしからぬ油断である。

 満身創痍となりながらも、二人はすぐに姿勢を立て直した。

 修一郎の股からは、血汁が染みだし、垂れている。

 由良は背骨の損傷のためか、足が不規則に痙攣している。

 彼が立ち上がる途中、一瞬だけ津田と眼が合った。その一瞬で、由良は何かを訴えかけていた。津田はそれを誤解しなかった。

「いくぜ」

 今にも口笛を吹きだしそうなほど楽しげな修一郎に対し、由良は無言。

 それでもかまわないのか。修一郎は潰れた局部の一撃を無視して、あまりにも真っ直ぐな前蹴りを打ち出す。

 由良は交叉した両腕でブロックするも、勢いを殺しきれない。流し、脇腹で抱え込もうとするも、失敗。

 続いて、修一郎は間合いの内に入り込もうとする由良の打撃を、ことごとく迎撃。

 極限の緊湊きんそうに至った超超接近距離での暴力の応酬は、早回しで見る天体の回転にも似ていた。

 肘、膝、頭突きを互いに打ち、勢いに乗る前に抑えきる。

 回転、

 回転、

 回転!

「こォッ」

 由良の縦拳を、修一郎は手首を内に折り曲げた孤拳で打ち上げた。

 守りが空いた顔に、掌底を繰り出す。

 背を逸らし、かわそうとする由良。しかし、修一郎の手はそこから更に変化し、眼窩に指を引っかけようと伸びた。

 だが、それすら読んでいたのか。

 由良は背骨の損傷が悪化するのもいとわず、何とブリッジで修一郎の執拗な攻撃を逃れた。

 馬鹿め。

 修一郎の眼がそう言っていた。

 そんな姿勢では、次に繋がるものが何もない。敵は自分から袋小路に入ったのだ。

 修一郎は復讐と言わんばかりに、由良の金的を蹴り上げようとした。それが罠とも気付かぬままに。


 ──撃った。


 津田は手首から肩に伝わる振動に驚いたが、それでも続けて引き金を引いた。

 撃って、撃って、撃っていた。

 由良がどいたせいで、修一郎は身体の全面を津田に晒していた。良い的だった。

 そう、津田は自分の銃を取り返し、修一郎を撃っていたのだ。

 由良が捨てた銃は、弾切れなんかではなかったのだ。

 由良が正々堂々と闘う理由など、どこにもない。

 津田は、そのことに気付くのが遅れた。だが、もうためらう理由などどこにもなかった。

 修一郎は、自分の身に何が起きたのかも気付かぬままに、穴だらけになって死んだ。


「あはぁ、はぁはぁ、あはぁ、はぁはぁ」

 荒い息をつく。

 むしろ、闘っていた由良よりも緊張していた。

 津田の指は震えていた。

 指だけではない、全身が、身体中の細胞一つ一つが、わけのわからない気持ちに支配されて、てんでんばらばらな方向に走り出しそうな具合だった。

「よくやった」

 そう言うと、由良はもう次の部屋に行こうとしていた。

 いつもの、眼中にないという態度。

 それが気に食わなくて、津田は銃を由良の背中に向けた。

 震えるばかりだった津田の全細胞が、一つの意思にまとめ上げられたのだった。

「何の真似だよ」

「助けたなんて思ってるんじゃないんだろうな」

「思ってないよ」

「この銃は、お前を殺すために取り寄せたんだぜ」

「知ってる。でも、お前は撃たないだろうな」

「うるせえっ! 俺を見ろ! この俺を見るんだよっ畜生!」

 由良は歩みを止めなかった。

 その背に向かって、津田は引き金を引いた。

 引いた。

 引いた。

 しかし、弾は発射されなかった。

 今度こそ、弾切れだった。

 虚しい金属音を背に、由良はそのまま部屋を出て行った。

 津田は本当は知っていた。

 手の中の銃はあまりにも軽く、弾倉の中が空になっていたことを。

 しかし、引き鉄に指をかけずにはいられなかったのだ。

 同時に、由良が口にした『よくやった』という言葉が、自分にとってどういう意味を持つのかは、気付かないふりをしていた。

「ちっ」

 津田は舌打ちをした。

 それこそが、彼が今ここに立つ理由だった。


   *


『鏡』

 鏡は闇を駆けていた。

 何度もつまずきそうになったが、鏡の足を止めるに至らない。

 走る、走る、走る!

 終わりのないトンネルなどないと、鏡は知っている。

 止まない雨などないと、明けぬ夜などないと、鏡は知っている。

 だが、琴音は知らない。

 あの子の人生は、生まれた時からずっと暗闇の中。

 そして、それは今この瞬間も。

 私が、私だけがそんなことはないと言ってやれる。

 うぬぼれかもしれない。

 でもそんなこと、どうだっていい。

 己の意味を、価値を証明してみせる。

「私は振り上げられた拳だ! あの子の無明を打ち払う、怒りの使者だ!」

 愚かさや悲しみは、人の眼を曇らせてしまう。

 業に取り憑かれた人間は、当たり前のことに気付くことが出来ない。

 正しい知の力こそが、その壁を打ち破る。

 だから私は、記者になろうとしたんだ。

 そう望み、そう在ろう。

 暗闇を切り裂き、走り抜けた先に、扉が見えた。


 地下室の中は明るく漂白され、まるで一切の汚辱が立ち入れないように見えた。

 その中心に、琴音はいた。

 無機質な台座の上に一人、ぽつんと寝かされている。

 仮面はない。

 意識はないようだった。規則的な呼吸音が聞こえ、眠っていることがわかる。

 安心し、一拍の後、すぐに鏡は気を引き締めた。

 虫々院がどこにいるかもわからない。

 今も鏡の視界の外で、琴音を狙っているのかもしれない。

 鏡は手帳を取り出した。無力な彼女が悪魔のルールに立ち向うための、唯一頼れるものだった。

「シーモア……お願い、シーモア。琴音ちゃんを助けたいの。お願いよ、どうしたら良いのか、教えて」

 白紙のページをめくる。

 めくる。

 めくる。

 何も書かれていないページを過ぎ、手帳の最後にまで辿り着いた。

 そこには一言だけ、

『撃て』

 と書かれていた。

 鏡は唐突に理解した。

 シーモアの目的は虫々院の支配から抜け出すこと。そして、自分を勝手に生み出して捨てた、虫々院への復讐。

 それらを果たすのに、虫々院が欲する『器』を破壊する以上のことがあるだろうか。

 止めようと思った。

 無駄だった。

 手遅れだとわかっていた。

 自分の愚かさを痛罵しようとしても、口を開くことすら出来なかった。シーモアが急速に表に出てきていたためだ。

 クーデターは速やかに行われた。

 ずっと、彼は雌伏の時間を過ごしてきたのだ。

 今、この時のために。

 ぶるぶると、自分のものではないかのように鏡の手が震えた。

 否、既にその手は鏡のものではない。シーモアの手だ。主導権を奪い返そうとする鏡の抵抗は、ただの震えに留まった。

 鏡のバッグが開けられた。そこに入っているのは、銀色のリボルバー。

 今まで一度も撃つべきものを見つけられなかった銃が、ようやく獲物を見定めたのだ。皮肉なことだった。

 鏡/シーモアが琴音の頭に銃を向けると、震えは収まった。

 乱雑だったものたちが、正しい位置を得たかのように、静謐な瞬間だった。

 しかし、撃鉄が雷管を打つ動作に割り込むように、琴音が眼を見開いた。

 彼女が目覚めたのは、ただの偶然だろう。

 その理由を問う段階はもう、とうに過ぎている。

 だが、鏡は見た。

 琴音の絶望の表情を。

 その眼は、裏切りへの痛烈な憎しみをたたえていた。

 鏡が崇高な義務であると信じていたものは、すべて汚辱へと成り果てた。


 無音があった。


 誰も、声すら上げなかった。

 琴音も、鏡も、シーモアも。

 一瞬、すべては一瞬のことだった。絶望すら突き抜けた先にあるものが、鏡を動かした。

 シーモアも予想すら出来ないことだったのだろう。

 鏡は銃口を琴音から、自分のこめかみへと向けた。

「さよなら」

 そして、銃声が響いた。


   *


『由良』

 遠くから、銃声が聞こえた。

 しかし、僕はそれを聞いたからといって、そんなに急ぐこともなかった。あまりにも地下室への道が入り組んでいたためである。

 ここに入ってから体感では数km、数時間も歩いている。明らかに時空が歪められていた。

 どこもかしこも血と悪意のにおいでべとべとしており、僕の鼻はとっくに使い物にならなくなっていた。

 だがそれでも、僕の眼はフクロウの眼。

 暗闇など、僕の歩みを阻む理由にはならない。

 道中には虫々院の破片と見られる、蟲の死骸が散乱していた。

 いずれも、断面に顔が映り込みそうなほどの鋭利な切断痕が見られ、殺した相手の手練れをうかがわせる。

 かろうじてまだ息のある蟲が、僕を呼んだ。

「やァ、由良クン。みットもない姿を見セてしまったネ」

「琴音にやられたのか」

「マサか吾輩トしたことがネ……イつ、琴音と契約シた?」

「最初だよ」

「契約内容ハ?」

「助けてほしいって言われたからな」

「キミは酷い男ダな」

「そうかも」

「おかゲで、次ノ器を探しにいかなければナラない。手足モずいぶんキミと灰川に殺さレてしまった」

「ざまあないな」

「笑い事じャあないよ、キミ。あノ子は世界を滅ボす気だよ」

「それも、止めてみせるよ。そんなことをしたら、一番傷つくのはあの子だからな」

「ソれも契約の内トいうことカイ?」

「うん」

 もう話すことはなかった。

 僕は蟲を踏み潰し、進んだ。

 それきりだった。虫々院蟲々居士という稀代の大キチガイとも、しばらくは会うこともないだろう。

 歩きながら、僕は考える。

 成し遂げたこと、持っている性能の差が魂の格を底上げする。

 ならば、見た者の眼も潰さんばかりの美貌に宿る魂は、どれほどまでの力を持つのか。

 美しいということは、それだけで途方もない力なのだ。

 器からあふれ、時空すら侵食した魔力が、その証明だった。

「責任を取らないとな」

 口にした言葉は、やけに嘘っぽく響いた。


「あーああー、うーあうあーあー♪」

 歌が聞こえる。

 アップテンポだが、伝わってくるのは荒廃しきった虚無のイメージのみ。

 扉の向こうには、琴音が立っていた。

 完全に露出した顔からは、表情が抜け落ちている。それがかえって人形めいて、ただならぬ造形美を見せつけることとなっていた。

 僕ですらも魂を奪われかねない輝き。

 その足元には、鏡の身体が無惨にも横たえられている。

 こめかみには赤いものが散っている。

「私ね、悪魔なんだ」

「知ってるよ」

 そうしたのは僕だ。

 蜘蛛は、コーヒーを飲むと酔っぱらうのだ。

 琴音は蜘蛛だ。

 悪意で紡がれた糸の中心で、死を手繰り寄せている。

 それがきっと、本人の望んだことでなくとも。そう、子が親に似てしまうのも、誰が望んだことでもない場合があるのだ。

「私ね、これでも世界を愛そうとしたのよ。お父さんや、家族のこととか。私を置いて、勝手に逝ってしまったお母さんのこととか」

「知ってるよ」

 琴音が手を振ると、室内にもかかわらず、空気が動く感覚がした。

 直後、石臼を回すような低い音が聞こえたかと思うと、部屋全体が崩壊を始めた。

 崩落する天井。

 防御の姿勢を取るよりも早く、崩れ落ちてくる天井、そして八角館は砂より細かな粒子にまで分解され、外側にはじけ飛んだ。

「ううう歌っ、うたっ、歌えるわけねえええだろおおおおがよおおおおおおおおっ!!! クソ共のためにぃっ、歌ってなんかやるもんかっ!!!!!」

 血を媒介にした、魔力の糸。

 純粋な魔力をより合わせるよりも、伝導率の高いものを間に噛ませることにより強度を増し、更に悪魔にすら認識できないまでの細さに仕立てることも出来る。

 リストカットはこのためか。

 急に頭上が開けたために見える空は、真っ黒だった。

 いつの間にか、夜になっていた。

「ぶっ壊してやる」

 琴音が指揮者のように手を振り上げると、分厚い雲が裂かれ、星が見えた。

 0.01ナノにも満たない細さの血糸けっしが、凄まじい速度で成層圏を越え、ついには衛星へと到達した。

 そして、僕は見た。

 ゆで卵のようにたやすく切断される、月を。

 馬鹿げてる。

 何もかも。

「全部、全部ゥ。この星で、私の糸が首にかかっていない生き物なんていないのよ? あはははっはっははっはははっはは」

 一転して、琴音はタガが外れたように笑った。

 僕はちっとも笑えない。

 だから言った。

 本当に琴音が望んでいる言葉を。

「狂ったふりなんかするな。ちゃんとしろ、ハキハキ喋れ」

「──♪」

 それを聞いて、琴音は笑った。

 佯狂ようきょうの皮を捨て去った琴音は糸を編み上げ、スロープを作った。僕はそれに従い、ついて行く。

 眼が見えないとは思えないほどの、しっかりした足取りだった。

 事実、彼女は見ることよりも確かな視界を得ている。糸は琴音の最強の武器であり、同時にセンサーだった。彼女の糸に届かない場所はなく、それによって色にすらことが出来るのだ。

 瓦礫と粒子が作る八角館だったものの山に、僕と琴音は腰かけた。

 琴音が裂いた雲は急速に閉じ、ぽつぽつとまばらな雨が降り始めていた。それにともない、僕の嗅覚も急速に正常な状態を取り戻す。

 ドーム状に編んだ糸で、琴音は自分と僕を囲った。異常に細いため糸自体は見えないが、糸を伝った水が膜のようになって、幻想的だった。

 コケティッシュな仕草で琴音は首をかしげた。

「それじゃあ、お話しよっか。由良お兄ちゃん♪」

「その話し方もやめろよ。キモオタがみんなお兄ちゃんって呼ばれたがってると思うなんて、ニーズの研究がなってないぞ」

「でも、他にどうすればいいのかわからない」

「どもりも嘘、何も出来ないってのも嘘。赤ん坊は庇護してもらうために可愛いと感じるように見せるもんだが、君はもう大丈夫だろう。自分の力でやっていけよ」

「やっていって、どうなるの? 社会の中で何かを為して、それに価値があると勘違い出来るほど、私は幸せだったことなんかないよ」

「難儀だなあ……」

 僕はため息をついた。

 ある側面において、それは事実だからだ。

 社会とは多くの人と共有する、共同の幻想だ。認識が人の在り様を定める。

 琴音の荒んだ価値観はついに、この世界に愛しいと思える何かを見出すことはなかったのだ。

「由良お兄ちゃんも、私のやることを間違っていると思う?」

「も、って他の誰かに聞いたのかよ」

「お姉ちゃんが私を撃とうとして、でも、撃てなくて、結局は自分を撃っちゃった。本当なら、みんな幸せになれたはずなのに。撃っちゃったってことは、間違ってたってことでしょう?」

「かもな」

 鏡は正しい。

 だが、正しさが必ず人を救うとは限らない。

 長期的な視点で見れば正しい方が勝つのかもしれないけれど、本当に傷ついてしまった人間に必要なのは目先の癒しだ。止まない雨はないのかもしれないが、往々にして多くの人の問題点は濡れていること一点である。

 僕は安っぽい銀メッキを施された銃を、くるくると手の中でいらった。

 鏡の銃だった。

 親指で弾倉を回す。見えたのは空になった薬莢が一つと、未使用のものが一つきりだった。

 撃てるのは、あと一発。何ともわざとらしい演出だった。最後に踏みつぶした虫々院の顔を思い出し、苦い気持ちになる。

 鏡の死に顔は見ていない。プライドが高くてお洒落な人だったから、醜い顔を見られるのは嫌いだろうと思ったのだった。自分でも珍しいと思うほどの感傷だった。

「鏡の死に顔はどんなだった?」

ない。撃ってからはもう、お姉ちゃんには触れてない」

「そうか……。僕は君のことを、正しいとも間違ってるとも思わない。ただ、僕にも大事なものがあるから。それを壊されると困るってだけで」

「それじゃあ、由良お兄ちゃん。私のことを愛してるって言って。あのオトコ女よりも、誰よりも愛してるって。抱きしめて、キスしてよ。そしたら誰も殺さないでいてあげる。地球も、丸いままでいられるよ。ねっ、いいでしょ?」

「僕は君のこと、そうでもないぜ。僕は灰川が一番だ。慰み者にはなれない」

「あっそう」

 琴音の表情が、再び抜け落ちた。これが本来の、そして今の彼女の顔なのだろう。

「ずるいよ。お兄ちゃんは、私が本当に助けてほしい時、いつも傍にいてくれない」

「僕に余分な責任まで押し付けようとするなよ」

 糸で編まれたドームがほどけて、水がかかった。

 雨が降っている。

 殴りつけるような音と水滴だ。

 僕と琴音は少し歩いて、どちらが言うともなく向かい合った。

 そう、これくらいが良い。

 人と人の間には、距離が要る。

 誰にだって自分の都合があり、他人の都合ばかり聞いているわけにはいかないからだ。

 琴音は、少しばかりその距離を誤魔化してしまう。

 だから、ここら辺がお互いの臨界点だ。

「僕には僕の、君には君の理由がある。それこそが、僕たちを今ここに立たせているんだ」

「うん」

「なら、もうやることはひとつっきりだ」

「うん」

「僕は〈夢想家/ムーン・パレス〉。月の見えぬ夜にも口笛を吹く男、君の悪夢に終わりを告げる者」

「私の名前は〈絡新婦の理/アリアドネー〉。とりわけてきよらかにきよい娘、世界の終わりを紡ぐ者」

「今宵、月下の騎士となる!」

「ぶっ千切れておっ死ねよ!」


 僕は悪魔の心臓を灰川に預けているが、それでも手持ちの魂を使い切ってしまえば、肉体を構成出来なくなってしまう。そうすれば、死んだも同然である。

 正確な数値というものが存在しないために、曖昧な表現になるが、僕はいくつか予備の命になるほどの魂のストックがある。

 琴音はどうだろうか?

 注意深く感覚してみると、何本か琴音を中心に魔力の糸が伸びているのがわかった。もっと細いものがあるのだろうが、僕にはそれ以上のことは知覚出来ない。とにかく、琴音の糸はおそらく本当に地球全土に伸びているのだろう。

 神話に語られるほどの美しさによって補強された魂でも、これだけ膨大な量の糸に回せば、残りは限られてくる。 

 僕は右手の銃を握り直した。

 鏡は自覚こそ薄かったが、虫々院の端末であるシーモアがいるということは、半人半魔である。そのことは、ずらした世界に指定されてもいないのに侵入してきたことからも、明らかだ。

 悪魔は銃で撃たれた程度では死なない。ならば鏡は何故、死んだのか。

 津田の持ち込んだ悪魔殺しの銃弾を思い浮かべる。銀のコーティングに呪いの刻印。人ならざるものを殺すための技術。

 元々、この銃は琴音に使われるべきものだったのだ。

 ならば、やれる。

 僕の術式はどれも、攻撃力に乏しい。

 ──近寄って頭に直接、悪魔殺しの弾丸を撃ち込む。

 作戦とも呼べないものだが、これしかない。

 同時に、向こうも方針を定めたようだった。

「由良お兄ちゃんは、七人の子供を助けて、七つの命の予備があるんだよね。なら、八回殺せばいいや」

「どうだろう。数えたことなんてなかったな」

「嘘つき」

 琴音が手を、つい、と掲げた。

 血の糸が周囲に発散される。

「いひぃいいいいいいいいいいいやああああああああああああああああ!!!」

 それは悲鳴だった。

 歌を忘れた少女の絶唱は振動となり、糸を伝わり、増幅され、無数の形なきギロチンと化して、僕を襲った。


 僕は跳ねた。

 僕は赤ら顔の猿だった。

 機敏で賢く、ユーモラスな見た目の猿。

 しかし、前の視界が黒いものでいっぱいになり、僕は全身の骨が折れる音を聞きながら圧死した。

 琴音が地面をごっそりえぐり出し、土石流を目一杯にぶちまけたのだった。

 不意に、禍月姫香のことを思い出した。

 あの子はあまりにも世界に傷つけられたせいで、何も信じられずにいるのだ。

 いつかきっと、頑なな心を溶かしてくれる人に会えるといいな、と思う。


 僕は土を掘りだして、走った。

 僕は黒い犬だった。

 大きく、艶やかな毛を持ち、めったなことでは吠えない、タフな猟犬。

 しかし、ひゅんひゅんと不吉な音を聞いたかと思うと、僕は全身を微塵に刻まれて死んだ。

 琴音の糸が幾本もまとわりつき、てんでんばらばらに切り裂いたのだった。

 不意に、如月真尋のことを思い出した。

 自分の有用性を証明し続けないと、殺されるのではないかと思い込んだ男の子。

 あの子が少しばかりみっともない格好を見せても、誰も笑わないでいてやってほしい。それが出来るまでに、ずいぶん時間がかかったのだろうから。


 僕は雨の隙間をすり抜けて舞った。

 僕は毒々しい模様を持つ蛾だった。

 まるで仮面のように鮮やかで、目も眩むような鱗粉をまく毒蛾。

 しかし、目の前に見えない壁が表れたかと思った瞬間、僕は翅をむしられて死んだ。

 琴音の編んだ網が、僕を捕らえたのだった。

 不意に、岬ヒロトのことを思い出した。

 今のあの子に必要なのは、きっと何もかもを笑い飛ばすだけのユーモアだ。

 総入れ歯だって、笑顔が似合わないってことにはならないのだから。


 僕は地面をするすると這った。

 僕はまだらの鱗の蛇だった。

 温度を見つけ出し、牙の毒で必ず獲物を仕留める大蛇。

 しかし、尾の先を地面に縫い付けられ、やがて全身を穴だらけにされて僕は死んだ。

 円錐状に形成された糸の槍が、僕をめった刺しにしたのだ。

 不意に、僕は須久那白澤のことを思い出した。

 きっと、いつか、なんてのは無責任な言葉に聞こえるけれど、あの子にはそれが良く似合う。

 僕はあの子が幸せになる、いつかを待ち続ける。


 僕は草を掘り起こさんばかりの勢いで突進した。

 僕は雄々しい角を振りかざすさいだった。

 何もかもを打ち壊すほどの勢いで駆ける、力強い白犀。

 しかし、身体を正中線から真っ二つにされて、左右に分かれる視界の中で僕は死んだ。

 琴音が張った罠に、自分から飛び込んでしまったのだ。

 不意に、僕は舞城公彦のことを思い出した。

 理解も共感も突き抜けて、踊り続けた先に、あの子だけの幸せがあるように思う。

 それでもいい、と認めてくれる人がきっとどこかにいるはずだ。


 僕は天蓋てんがいを目指して飛んだ。

 僕は飛び、そして急降下するツバメだった。

 世界を縦も横もなくして移動する、渡り鳥。

 しかし、ちくりと痛みを感じたかと思うと、僕の身体は別々の方向に引っ張られて、千切れ死んだ。

 針と糸が僕を吊り上げ、満身の力を込めて引いたのだった。

 不意に、僕は風間優のことを思い出した。

 あの子はたまたま運が悪かっただけだ。本当は僕の助けなんて必要ない。

 彼女は僕のことが好きだと言っていたが、悪い冗談だ。忘れて、気の利いた男と一緒になってくれ。


 僕は爪を構えて蹴った。

 僕は凶暴なヴェロキラプトルだった。

 小柄だが、親指の爪で獲物を切り裂く獰猛な恐竜。

 しかし、爪が届く前にこれまでの例に漏れず、僕は斬殺された。

 琴音の糸に、届かない場所はないのだった。

 不意に、僕は津田穂波のことを思い出した。

 助野の事件を探る時に、僕はあの子の部屋に一度、勝手に入ってしまったことがある。

 助けたというより、借りを返したという気持ちの方が大きくて、何だか申し訳ない気持ちになる。


 八回目の変化。

 僕はオスの三毛猫だった。

 琴音がミケランジェロと呼んだ、三万匹に一匹の、本来ならあり得ない確率の申し子。

 痛みに耐えるように、琴音の表情が歪んだ。

 一瞬遅れて首が落とされる。

 たかが一瞬、しかし、悪魔の闘いにおいてそれは致命的だ。今に見ていろ。すぐに逆転してやるからな。

 不意に、中禅寺久美子のことを思い出した。

 周囲から何かと馬鹿にされやすい人だけれど、どうにも嫌いになれない相手だった。むしろその部分が、僕には美徳に思えた。

 正直あんまり信じていないけれど、熊谷とになれるよう頑張ってほしい。


 たった2秒の時間、たった10mほどの距離を詰めるためだけに、僕は八回も死んだ。

 無駄死にだったとは思わないが、どうだろう。魂の糧となった人たちに知られたら、怒られるような気もする。

 魂の格は、何を為したかによって決まる。

 ならば彼らには、今から僕がすることで納得してもらおう。

 そう、僕は八回の死を越えても、消滅していなかった。

 猫は九つの命を持っているものだ。

 プレーンな人間の姿で、僕は飛び出した。

 琴音の眼が、何も映さない眼が、驚愕に見開かれた。無意味な反応の動作。

 不意に、僕は熊谷将成のことを思い出した。

 僕は彼のことを直接助けたことはない。

 だが、彼は僕のしたことに恩を感じていたのだろう。

 トイレに行ってる間に、勝手に代金を払われたような気分だ。今度ご飯でもおごってやらないことには、気が済まない。

 まあ、いいさ。

 僕はここまで自分の性能が許す限り、最善手を選び続けてきた。

 そして、ついに琴音を捕らえた。

 琴音を抱え込むと、やや骨ばった未発達な身体が、腕の中で抵抗をした。あまり良い気分ではない。

 桃のにおいがする。

 くだらない。

「お、げ」

 僕は身体の中に取り込んでいた拳銃を吐き出した。

 安っぽい銀色のメッキ。

 何だか急にふざけたい気分になって、琴音の糸が身体にまとわりつくのを感じながらも、弾倉を親指ではじいて回した。

 その隙で死んだとしても、それはそれだ。

 琴音が大きく口を開けた。

 彼女の悲鳴は、もう届かない。

「運を、試してみるか?」

 僕は引き鉄を絞る。

 琴音は月の光になってしまうには、まだ早いと思った。

 神の法が、すべてを公正に裁いてくれないかと、無駄だと知っていても望んでしまう。

 馬鹿め、まだ許されたがっているのか。

 罪悪感。


 ──そして、銃声が響いた。



   *


 僕は二人の女性を抱えて歩いていた。

 重い。

 本人たちに言ったら、そりゃあ絶対怒るだろうが、重いものは重いのだ。

 魂のストックはすっからかんで、今の僕はほとんどただの人間と変わりない。

 月はまだ壊されていない、ずらされる前の基底現実。

 当然、倒壊などしていない八角館の廊下を、僕はふうふう言いながら歩いていた。

 おぼつかない足取りの先、灰川が壁に寄り掛かっているのが見えた。

「やあ、由良君。ずいぶんと、お疲れのご様子じゃあないか」

「お前か、灰川」

「何がだい?」

 脈絡のない難癖を付けられて、心底傷ついたという風に振る舞う灰川。

 白々しすぎて、乗ってやる気にもなれない。

「銃弾をすり替えたのがだ」

 涼しげな笑みを浮かべる灰川。これ以上ないほどの肯定だった。

 おかしいと思ってはいた。虫々院がすり替えていたら、自分が欲しがっている器を壊す可能性を、自分で高めたことになるからだ。

「いつ、すり替えた」

「いつだって良いだろう。彼女はよく僕の部屋に入り浸っていた。自分の部屋くらい、いつでも入れる」

「クソ、本当に聞きたいのは、そうじゃない。何で撃てなくなるように細工しなかったんだ! 何で、なんか仕込んだ!?」

 灰川の笑みがより深まった。

 今日一番の、会心のしたり顔。

 そう、琴音も鏡も実は死んでいない。

 僕が何故、この二人を抱えて重たがっているのかというと、彼女たちが気絶しているからだ。

 ──擬死反応。

 外敵に強いショックを与えられた際に虫などが行う、一種の防衛反応である。

 早い話が、死んだふり。

 鏡も琴音も、蟲の性質を持つ悪魔をその身に宿している。

 コーヒーを飲んで酔っ払うことから、その習性までが反映されることも証明されていた。

 死体を確認されなかった鏡は死んだふりを続け、琴音は最後に撃たれて気絶し、そのままでいる。

「ちゃんと確かめなかった僕もアホだけど、何でこんなことを……」

「その方が面白いからに決まってるじゃないか」

 邪悪の権化め。

「もしも鏡や僕が銃を無駄撃ちしていたら、すぐにペイント弾が仕込まれているとバレてしまったはずだ」

「リボルバーというのは弾倉が見えている分、弾切れを強く意識させられるから、それはないよ。鏡は今まで一度も撃たなかったから、いざという時が来ても中々撃たない。君は眼が悪くて銃の扱いが下手だったから、絶対当たる状況じゃないと撃たないとわかっていた」

「僕の眼が悪い?」

「車を運転するのが苦手な時点で疑っていたし、その後で一度銃を撃った時に確信した。君はドの付くほどの近視だ。近くはよく見えるが、遠くはぼやけて見えない。君は異様に視野が狭く、手の届かない範囲にはまるで興味を示さないから、自覚すら出来なかったんだろう。そんな君が銃を扱って上手くなるわけがないし、この一年で銃が下手なことくらいは自覚していると踏んだ。だから、心置きなくペイント弾を仕込ませてもらったのだよ。弾の数を絞れば、それだけバレる可能性も減るしね」

 ぬうう。

 僕は頭をかきむしりたい思いに駆られるが、両手がふさがっていて果たせない。

「畜生。理由、理由だ! 面白いからなんてのは理由の全部じゃないはずだ!」

「君は実に馬鹿だな。一番大事なものが無事だったからといって、二番目以降を失った心の痛みがなくなるわけじゃないんだ。理由があるとするならそれは、僕がこじれた関係は殴りあって決着をつけるべきだ、と思うからだよ」

 僕はあまりのことに、ぽかんとしてしまう。

「馬鹿げた理由だと思うかい? だが、理由なんて往々にしてそんなものだし、シンプルさに勝るものなどないのだよ。悩みや喧嘩は、早めに解決した方が良い。ジャンケンでも早食いでもいいが、お互い本気なら、暴力が一番手っ取り早い。それで死ぬのがもったいない相手なら、剣の刃は潰しておけばいい」

 まったくシンプルで、どこまでも真っ直ぐな理屈だった。

 そのシンプルさを押し通せる灰川に、僕は空恐ろしい気持ちになる。

「灰川、お前、琴音や僕のことを、どこまで知ってる?」

 悪魔のことを、とは恐ろしくて聞けなかった。

 それを自分から言ってしまったら、致命的な敗北を喫することになりそうな気がした。

「さあ、どこまでだろう?」

 これはきっと、灰川の方が譲ってくれたのだろう。

 灰川が譲ってくれる間は、僕はしばらく甘えていようと思う。

「どうとでも取れる答えだ」

「女は秘密が多い方が美しいのさ」

「都合の悪い時だけ、女ぶりやがって」

「女はずるいものだよ」

「ちぇっ」

 灰川は、二人を抱えて困っている僕を助けるような真似はしなかった。しかし、別にそれを不満に思うことはない。

 ここに至るまでに充分に助けてもらったし、彼女たちの重みはきっと、僕だけが背負うべきものだったからだ。

 正直言って、問題は山積みだ。

 何も解決していないと言ってもいい。

 虫々院が手を引いたとはいえ、琴音の馬鹿げた魅了の力は健在だし、そもそも戸籍もない。明日からどこで暮らすのかすら、決まっていない。

 だけど、何とかなるような気がした。

 無責任で楽観的に過ぎるかもしれないが、希望とはそういうものなのだ。


   *

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