悪魔のグルメ第三部 予告編
「馬鹿なことをした……馬鹿なことをしたもんだ……」
恐れに打ちのめされたような虚ろな声が、薄暗がりに響いた。
豪華客船アデライード。
その外側の絢爛さからはかけ離れたようでいて同じくらいに複雑で入り組み、そして繊細な機械類が押し込められているのは、船の心臓部となる機関室である。
男は、血管のように張り巡らされた配管の陰に隠れるようにしてうずくまっていた。
楽な仕事だと聞いていた。
そう言われて本当に楽な仕事だったことなんてなかったことを、男は忘れていた。
──もうすぐ、船は止まる。
360度周りを見渡しても陸地の影も知れない、海上のど真ん中で。
──そうしたら、船内の至る所で殺し合いが始まる。
詳しい理由を男は知らない。
同じ境遇で居合わせた同輩たちは、マフィアの代理戦争だとも、金持ちどもの悪趣味な娯楽だとも噂した。実際のところ、確かめる術はないのだった。
デス・ゲームだ。
ルールがあり、それに逆らえば殺される。その手の娯楽作品を読んだことはあったが、実際にあるとは思わなかった。
しかし、男をここに送り込んだ人間は、狙撃手の配置を通達した。今はもうそれを疑う気にはなれない。
「馬鹿なことをした」
知らず、男の口からまた声が漏れた。続けて、歯の根が鳴る。
一定時間が過ぎればゲームは終わる。その時まで生きていられれば、男の借金はチャラになる。そういう条件だった。
しかし、どれくらいの時間でゲームが終わるのか、男は知らなかった。聞けなかったのだ。彼の借金の原因も、そういう弱気にあったのだろう。
つまりはそういう積もり積もった弱さや愚かさが、ついに彼の足を捕まえたということである。
ただ時間いっぱい逃げ回るために男は派遣されたのではない。
彼は殺すべき対象の指示を受けていた。しかし、もう生き延びるだけで精いっぱいだった。
無駄死にを避けるため、注意すべき対象を事前に男は知らされていた。
曰く──彼らは人にして人にあらず。
曰く──人知を超えた怪力乱神の類。
曰く──銃で死ぬのなら、運が良い。
聞いた時は与太話だと思った。
ビビらせて、尻を叩くための冗談だと。
そう思っていたのは船に乗るまでだった。
男は酷く怯えている。
機関室に隠れていれば、流れ弾の危険性を考えて発砲してくるやつはいないだろう。
しかし、やつらにそんな人間の理屈は通用しないのだ。
七人の魔人たちには。
*
──
ビジネスライクで、几帳面な殺し屋。
変装の天才で、どんな体格の人間にもなりすますことが出来る。
とあるアメリカの実業家は、抱き上げた自分の息子に“正面から額を撃ち抜かれた”。
本物の息子は後日、湖の底から発見された。
彼の本当の顔を知るものは誰もいない。
──
二人で一人の兄弟殺人鬼。
ちびの兄と、
元々人殺しが好きだった弟の趣味を実益につなげた、やり手の兄貴。
両手に持った肉厚のククリナイフと、返り血を防ぐための黄色い雨合羽が、彼らのトレードマークである。
合計四本の凶器によって解体された死体は、常に凄惨なものとなる。
──
素手のみで三桁に届くほどの人間を殺傷せしめた名うての暗殺者、八幡修一郎。
彼を打ち斃したのは、それまで無名の男、しかもその時点では学生だった。
探偵・灰川真澄の助手、由良俊公。
組みやすしと見て襲った他の暗殺者を、由良はことごとく返り討ちにした。
生まれが日本であるためか、八幡修一郎同様、武器はほとんど携帯しない。
──廃世のテロリスト・朽縄まどか。
ゴシックロリータのファッションに身を包んだ少女。
しかし彼女の存在は古く、さかのぼれる限りでは中世のフレスコ画にその肖像が見られる。
“朽縄”とは蛇の謂いであり、その性質は不死である。
現在では複数の宗教過激派やテロリスト集団に籍を置き、彼らの思想を語り/煽動し/活動しているが、彼女自身はそれらを一切信じていない。
イラクで文化遺産を爆破した一週間後には、中国の雑踏で毒ガスをばら撒いている。それが朽縄まどかだ。
彼女にとっては世界を燃やして落とすのが娯楽であり、生き甲斐なのである。
最悪のテロリストであった。
──
呪術とは祈祷や占いを包括的に指すこともあるが、彼は多くの人が想像する呪術の邪悪な側面を一手に引き受け、体現したような男だ。
彼、と称したが実際の性別はわからない。アバラッドというのも本名ではない。
“本物”は力を持つ。同時に、丑の刻参りに代表されるように、奪われれば呪いの起点にもなってしまう。
呪術師にとって自分の“本物”を他人に握られるのは、この上ない弱みなのだ。
アバラッドはブードゥーの秘術を使い、街を丸ごとゾンビにして操ったと言われているが、それも定かではない。
呪術師の口から生じる言葉は、すべて呪いの性質を帯びているからである。
──
一見しただけでは、ただの成金の華僑としか思えない老婆。
彼女は必ず一度は暗殺対象の前にその姿を現し、品定めをする。
二度目に彼女が姿を現す時、それは対象の死ぬ瞬間である。
常に笑みを絶やさぬ穏やかな風貌を装うも、その手口は残忍。
得物の太い釘を人間離れした膂力で打ち込み、蜂の巣にするというものである。
彼女が持つ釘は、ペンキじみて派手な赤色に塗装されているが、その理由を知る者はない。
──片桐忌名
殺し屋たちが『彼女』と言う時、そのほとんどは片桐忌名のことを指している。
彼女はただ、ひたすらに強い。
特別な血統を継いでいるだとか、悪魔と契約しただとか、宇宙の意思に選ばれたのだとかそんなことは一切関係なく、ただ強い。
誰かが、彼女は突然変異個体なのだと言った。
それで納得するものもいるのかもしれないが、彼女はそもそも納得など求めていなかった。
片桐忌名は自分自身にただ強くあることを望み、生まれ持った資質と狂ったような量の鍛錬により、それを実現し続けた。
誰も彼女を打ち倒すことは出来なかった。
魔人たちはそれぞれの思惑を胸に、豪華客船アデライードに降り立つ。
*
豪華客船内の一フロア。
広いスペースその全部が丸ごとカジノになっている。
その中の一角、ブラックジャックのテーブルの周囲には、他のゲームを忘れたかのように多くの人が集まっている。
ディーラーの表情は涼しげで、カードさばきは機械よりもスムーズ。
しかし、この場に人の心を感じ取れるものがいたならば、彼から焦りと恐怖のにおいを嗅いだだろう。
ディーラーを心胆寒からしめている原因は、たった一人のプレイヤー。
声や顔は女性だったが振る舞いは男性という、何とも言えないアンバランスさを持つ魔少年である。
不自然なまでに黒々とした髪をおかっぱに切り揃え、黒曜石の瞳は炯々と好奇心の光を照射している。
品の良い男物の三つ揃えのスーツに身を包み、カードを繰る左の指は奇妙なことに六本あった。
遠目には『金持ちの家の子供だろう』と思うほど小柄だったが、近づいた者は誰もが、彼女が彼女自身の主人であることを理解した。
彼女が座る椅子の背後に立つのは、この上なく場違いな男だった。
病んだような顔色に、ここではないどこかを見つめてぼんやりとした表情。髪は完全な黒ではなくこげ茶で、全体的に色素が薄い。
彼の持っている中では一等マシなのであろうどこかの学校の制服は、豪華客船の中では非常にみすぼらしく見えた。
鶴の中の一欠片の掃き溜めのような悪目立ちをしていたけれども、彼が本来いるような場所に戻ってもそこでまた浮いてしまうような、そんなばつの悪い雰囲気があった。
男が、ゲーム中の魔少年に声をかける。
「なあ、灰川よう」
「何だい、由良君」
「有名な殺し屋ってどう思う?」
「身元が割れてる時点で仕事が出来ん。論外だ」
「だよねえ」
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