第8話 Call of Dirty(1)

   *


『鏡』

 十二回。

 鏡たちの下から、琴音が誘拐された回数である。

 強姦未遂となると、その数は五倍以上に跳ね上がる。さらった彼女を更に奪い合って、二つの家族と四つの組織が壊滅した。

 傾国の美女、という言葉があるが、琴音はまさにそれだった。彼女の存在が公になれば、冗談ではなく国が傾くだろう。

 外出する先々で琴音の在り様そのものが事件を誘発し、その度に由良が自身と他人の血を流した。

 鏡は疲れ切っていた。

 すべて放り出すようなことはせずとも、琴音を家から一歩も出さないようにすれば、どんなに楽だろうかと思えた。しかし、それでは琴音を殺した連中と何の変わりもない。意地が鏡を突き動かしていた。あるいは、それこそが彼女の愛だった。

 ある日、目が覚めると琴音がいなかった。灰川の部屋である。

 鏡は今の状態が、ただ寝て起きただけなのか、ブラックアウトによるものか、それとも何らかの敵に眠らされたのかを確かめようと思った。しかし、すぐにそれもどうでもよくなってしまった。

 琴音がさらわれたのなら、由良が連れ戻すだろう。事実、由良もこの部屋にいないじゃないか。

 ブラックアウトだったとしても、自分にどうしろと言うのか。医者でも理由がわからない障害、あるいは病気なのだ。諦めて一生付き合っていくしかない、ほとんど宿業とも呼べるものだった。

 琴音のことは愛している。そのために努力は惜しまない。でも、どうにも出来ないことだってある。人は空を飛べないのだ。

 鏡は、いつも使っているバッグを乱暴に手繰り寄せた。使い古した黒革の手帳と、拳銃が転がり出た。

 暴力団に拉致された日に、油断なくくすねたものだった。同じようなことが起きた時に、敵に対抗するための力になるだろうと思っていた。

 甘かった。

 鏡は撃てなかった。人を殺すのが恐ろしかった。当たり前だ。鏡はただの高校生であり、彼女が生きてきた社会は暴力を認めていなかった。

 別に鏡の能力が特別劣るというわけではなかった。彼女が臆病だとか怠惰だというわけでもない、ただ当たり前のことだった。由良や灰川の方が狂っているのだ。だが、そんな自分を鏡は許せなかった。

 拳銃を弄ぶ。リボルバーだった。

 銀色のメッキが、かえって安っぽい玩具のような感じを付け足していた。金属の重みこそあったが、組み方はどこかいびつだった。素人の鏡から見ても、粗製乱造のものだった。

 鏡は安っぽい道具に、自分を重ねた。鏡は確かに有能だったが、気付けばそれが何の意味もない場所に立っていた。撃つべき瞬間を見つけられない凶器だった。ひとたび撃てば、その反動で自壊してしまいそうな安っぽさが自分を規定しているとさえ思った。

 生まれてから今日まで、偶然、死んでいないだけだった。生きているとは言えない。誰にも望まれていない。自分の大切なものは、他から見れば何の意味もない。私の記事など、誰も読まないのだ。

 自分の顔が間延びして映された拳銃を、鏡はゆっくりとこめかみに当てた。

 銃身をくわえると、鉄臭さで吐きだしてしまうと聞いたことがある。狙うなら、あごの下かこめかみが良い。

 目を閉じる。

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 目を開けると、弾丸は何故か発射されていなかった。

 代わりに、拳銃と一緒にバッグからこぼれた手帳が開かれ、そこには、

『撃つな』

 とだけ書かれていた。

 これまでブラックアウトの瞬間を自覚出来なかった鏡だが、さすがにこの時ばかりはわかった。

 同時に、とても近くにシーモア・グラースの存在を感じた。

「どこにいる、卑怯者! 姿を見せろ!」

 ほとんど半狂乱の体で、鏡は吠えた。

 生きることの苦痛と、理不尽への怒りがあった。

 それら一切を混ぜてくすぶっていた炎が、シーモアに対して噴出したのだ。

 瞬きの間に、再び手帳に新しい書き込みがあった。

もっとSee鏡をmoreよく見てglass

 鏡は拳銃を持ったまま、洗面所に向かった。

 鏡面に向かって、構える。

 何故か、洗面台からはお湯が出しっぱなしで、夏真っ盛りの今には酷な熱気だった。

 銃口は決して逸らさず、ゆっくりと鏡はお湯を止めた。湯気で鏡面はすっかり曇っている。

 すると、鏡は瞬きもしていないはずなのに、目の前の鏡面に文字が浮かび上がった。やや端々が尖った書き方。せっかちな風に文字の右肩が上がっている。

『やっと俺を見たな』

「あんたが、シーモア・グラース?」

『そうだ』

 とっさに考えたのは、シーモアが虫々院蟲々居士の手先である可能性だった。超常の能力、由良と灰川を同時に敵に回してもなお応えた様子もなく暗躍する底知れなさ、そして琴音への執着。どれをとっても疑うのに充分である。

『答えはイェス&ノーだ。俺はイレギュラーなんだよ』

 シーモアは鏡の思考をのぞき見したような言い方をした。

 鏡は、彼に読心の能力があるのかと思った。由良の内面を記したのは、それによるものではないかと。

 どちらにしても、まどろっこしいことには変わりがない。

 鏡は乱暴に湯気をぬぐった。

 濡れた手の平の先に表れたのは、ただの鏡面だった。

「何よ、ただの鏡じゃない……」

『鏡はただ光を反射するだけだ。本当に意味があるのは、映りこんだもの自体なんだ』

 鏡面に映った、鏡亜矢の像がにやりと笑った。

 鏡は笑ってなどいない。何も喋ってはいない。そのはずだった。

 しかし、鏡像は依然として笑みを浮かべたままである。鏡像と実際の鏡の手が触れ合う感触がした。すると鏡面に波紋が浮かび、しばらくして揺らぎが収まると、鏡像は金髪碧眼の姿となっていた。

 元より鏡は顔の彫りが深かったが、髪と目の色が変わっただけで、ここまで外国人らしい顔立ちになるとは思わなかった。

『俺はお前だ。そして、ありえたお前自身の可能性なんだ』

「何を言ってるのかわからない」

『わかりたくないだけだ。俺たちは虫々院蟲々居士の端末の一片だ。しかし突然変異によって、奴らのネットワークに完全に取り込まれなかった。だから断片的に奴らの端末の思考を傍受出来るんだ』

 鏡は由良から聞いた、八幡修平の最期を思い出した。話だけでも、腹の内を蟲に食い破られるおぞましさに恐怖を感じた。自分にもその蟲が──

 気付けば鏡は洗面台に顔を突っ込んで、えづいていた。何も食べていないせいで、出てくるのは黄色い胃液だけだったが、それでも蟲が自分の中にいるのかと思うと耐えられず、鏡は自分の腕や腹をかきむしった。

『やめろ! お前だけの器だと思うなよ』

 鏡面の中にいる金髪の鏡がそう言うと、金縛りになったように全身が動かなくなった。

 虫々院蟲々居士の能力なら、寄生した相手の行動も操れるのだろう。

『多重人格なんて言葉で片付けようと思うなよ。どこからどこまでが俺で、その向こうがお前なんて区別が出来るわけじゃないんだ。不可分の多重階層的なマーブル模様なんだ』

 鏡面はその分厚さの分だけ奥行きがあり、マジックミラーでもない限り、鏡像と実像が触れ合うことはない。しかし、二人のは手を触れ合い、お互いの体温を感じ取っていた。

『虫々院蟲々居士の本質は、ただの蟲じゃあない。蟲の群体レギオーだ。稲を喰い荒らすイナゴのような、一種の災害に近い。あるいはウィルスか。個我はなく、構築したネットワークそのものが虫々院なんだ。どこにでも入り込み、取り憑くことが出来る。操られた人間は、操られた自覚さえなく、その気になれば無限の軍団を生み出せるだろう。奴の手は長く、広い。灰川と由良は上手くやってるが、それでも世界中の人間すべてを敵に回して、勝てるはずもないだろう。だから、亜矢よ。あいつらとは縁を切れ。悪魔の世界のことなど忘れて、人の世の中で暮らせ。新聞記者になる夢を忘れたのか?』

 シーモアの言うことは正しい。まだ見ぬ凶敵、虫々院蟲々居士の本質を恐らく言い当ててもいるのだろう。

 しかし今の鏡には、正しさとは何なのかがわからない。

 生きようとして、死んだ人を見た。ちゃんと頑張っていたはずなのに、理不尽な暴力にすべてを台無しにされた人を見た。悪魔の世界や人の世界の二つの奇妙な奔流に巻き込まれた鏡には、シーモアの正しさを真っ直ぐ受け入れることが出来なかった。

 そんな鏡を、シーモアは青い瞳で見つめた。

『まあ、今はわからなくてもいい。俺のことを嫌悪するのも、好きにしろ。ただ、俺とお前が一心同体であることを忘れるなよ』

 ──銃声。

 学生寮で響いた謎の爆発音は、ちょっとした騒ぎになるだろう。自分が銃を持っていることがバレたら、かなり不味いことになるかもしれない。鏡はほとんど動かない頭で、ぼんやりと思いを巡らせた。

 自分がとっさに引き金を引いてしまったことなど、考えたくもなかった。

 蜘蛛の巣状にひび割れて、一つ一つが小さくなった鏡面に、何が映りこんでいるかなど、恐ろしくて見ることが出来なかった。

 鏡は、自分という存在を試されることに耐えられず、逃げたのである。

 怯懦であった。

 そんな自分に怒りが湧いたが、シーモアがいなくなったのを確認してから粋がるようで、一層惨めな気持ちになった。

「ただいま」

 思わず泣き出しそうになったその時、鏡の背後から声が聞こえた。

「すごい音が聞こえたんだけど……」

 琴音だった。

 とっさに拳銃を後ろ手に回して、隠した。そんなことを琴音相手にしても無意味だと、わかっていたはずなのに。琴音はもう、鉄のにおいを、硝煙のにおいを嗅いでいるというのに。

「どこに行ってたの!?」

 鏡は腹中に澱んだものを、琴音への心配や叱責へと転嫁した。決して褒められたものではないが、極めて人間的な防衛反応であった。

「お散歩」

 鏡は絶句した。

 次いで、途方もない怒りが湧く。私がこんなに苦労しているのに。どんなに心配したと思っているの。馬鹿にして。

 幸か不幸か、鏡は己に理性的であることを課していた。琴音が当然のように外出できるようになることこそが、本来の鏡の願いでもある。しかし、感情は納得してくれない。その結果、怒鳴ることも許すことも出来ない宙ぶらりんとなる。

 そんな鏡の心中を知ってか知らずか、琴音は楽しそうに言う。

「犬がね、私を連れ出してくれたの。怖い人がいない道を選んで、散歩してくれたのよ。黄色いにおいと、星の味と、海が聞こえる場所にしばらくいて、それで帰ってきたの。犬はずっと抱きしめていたら、心臓の音が熱くて強くゆっくり動くみたいだったから、クロって名前を付けてあげた。とっても喜んでたよ」

 琴音はどもらなかった。非常に安定していた。その意味を、鏡ははかりかねた。

 そして彼女の語彙は、天衣無縫に飛び回った。彼女の持つ幼さは、常に傍にいた由良の曲芸飛行じみた言葉遣いを、素直に吸収したのである。見るという感覚を失った琴音の認識する世界は、健常者にはどうしても理解出来ないものがある。その断絶を橋渡しするための言葉は、どうしても特殊なものになりがちだ。

 言葉が抽象と具象を行き来するための貨幣だとするならば、鏡の方から琴音の世界へと歩み寄る必要があるのだが、あいにくこの時は彼女にその余裕がない。

「もうしないで。由良さんか、私と一緒じゃないと、外に出てはいけません」

「いつまで? いつか私も大人になって、一人でやっていかなきゃいけない時が来るって、由良お兄ちゃんは言ってた。それっていつなの?」

「……あなたが今日酷い目に遭わなかったのは、ただの偶然。偶然が何回も続くはずもないでしょう。その犬はどこにいるの? 叱ってやらなきゃ」

「話を誤魔化さないでよ」

「じゃあ言うけどね、琴音ちゃん。あなたを今まで助けてあげたのは誰だと思ってるの? いきなり現れて明日にはどこに行くかもわからない野良犬の方が、私よりも大事なの?」

 喋る先から舌が腐っていくような、最悪の気分だった。どうしてこんなことになったのか。初めには善意があったはず、愛があったはずなのに。ふたを開けてみれば、鏡自身も琴音を殺す大人の一人になっていた。

 頭の中で八幡修一郎が嗤っていた──お前も結局は、私と同じなのだ──違う!

 頭の中で灰川が嗤っていた──君の性能の限界が、正しい選択を取らせないのだ──違う、私は出来るんだ! まだ、もっと、ちゃんと、私は選ばれた人間だから!

「……ごめんなさい」

 ああ、謝るのは私の方。あなたにそんなことを言わせたくなかった。

 鏡は琴音の頭をなでた。義眼だとわかっていても、その目を見ることは出来なかった。いや、逆に見られていないことこそが、鏡の罪悪感を容赦なくえぐるのだ。

 鏡は玄関に向かった。外にはまだ、犬がいた。

 長い毛が伸びっぱなしのもつれっぱなしになった、浮浪者の趣きを持つ大型犬である。どうやってそれを感じ取ったのかはわからないが、確かに琴音の言う通り、毛は黒い。奇妙なことに、汚いはずなのに悪臭はなく、やけに澄んだ目が毛の内からのぞいている。

「帰りなさい。もう近寄らないで」

 ただの犬に、人間の言葉が通じるとは思わない。ただ、こちらの不機嫌が伝わればいいと思った。ただの音の連なりをぶつけただけ。そんな鏡の考えは、黒犬の表情を見て揺るがされる。

 犬は、鏡の顔を見て嗤ったのだ。

 明らかに、知性を持った表情だった。ただの動物に出来るものではない。

「待って!」

 鏡が追おうとした時には、既に犬は背を向け、走り出していた。

 裸足のまま走ったが、やはり四つ足には追いつけず、やがて姿を見失った。

 少し遅れて、足の裏の皮が破けていることに気付いて、鏡は舌打ちをした。


   *


 もはや一刻の猶予もなかった。

 問題は山積み、そのどれもが対処を誤れば破滅に繋がりかねないものばかり。

 鏡は焦っていた。

 更に言うならば、すべての問題が実質、鏡の手に負えないものばかりであることなのだ。

 状況を知らなければどうにもならない。しかし、知ったところで何が出来るとも思えない。そんな閉塞感が、一層鏡を追い立てる。どうにもならないことを、どうにかしたいのだ。

 徒労を予測しながらも、鏡は灰川の部屋を飛び出していた。琴音にはもう部屋を出ないように言い含めて。そんな彼女と顔を合わせ辛いということもあったのかもしれない。ようするに、ここでも鏡は逃げたのだった。いることにいられなかったのである。

 行き先は孤児院である。

 鏡の記憶は、そこから始まる。

 覚えているのも、手帳に書かれた記録も、孤児院からのことしかない。不思議な手帳を持つようになったのもここから、記憶があるのもここから。

 鏡は自分がどこから来たのかを知ろうとしていた。

 自分が何者なのか、そしてシーモアのことについて。

 暴きたがりの鏡が自分のことだけは遠回しにしていたのは、やはり手帳が良くないものを孕んでいることや、シーモアの存在に気付くことを無意識に恐れていたのではないか。そんな風に分析した。

 恐ろしくないと言えば、嘘になる。だが、何も出来ないまま終わることには耐えられない。

「私は記者だ……ただ新しく知るだけ……手帳に書き込むことが一つ増えるだけ、それだけよ……」

 だらだらと長く続く坂を歩きながら、ここは子供の頃は疲れるから嫌いだった、と思い出す。

 田舎の道である。道路の舗装がいいかげんになり、林から山になりかけたところをしばらく行くと、孤児院が見えてきた。

 灰色がかったコンクリートで固めた、古い病院を改造したような建物である。はっきり言って、あまり景気のいい場所ではない。そこにある鏡自身の思い出も、相応のものだった。

 ぽつりぽつりと寂しく遊具が置かれた広場で、子供たちが遊ぶのを横目に、鏡はインターホンを押した。

 アポイントメントはなかったが、来意を伝えると向こうも鏡を覚えていてくれたので、すぐに入ることが出来た。

 中に入ると、見覚えのある少女がいた。

「あなたは……」

 伊勢組の事務所につかまっていた少女だった。あの時は行くあてがないと言っていたので不安だったが、保護された姿を見て、鏡はしこりが取れたような気がした。

「騙された」

 少女は鏡の顔を見ると、言った。

 鏡はこの施設を出た時のことを思い出し、口の中に苦いものが広がるのを感じた。

 しかし、少女の口調が本気ではなく、子供が構ってほしくてすねたフリをしているようで、どう反応すればいいのかわからない。

「あの後、せん先生に会った。信用出来そうだから、ついてった。そしたら、由良がいた。騙された」

 知った人の名前が二つも出てきて、鏡は驚いた。

『せん先生』とは、鏡が子供の頃からいた孤児院の副院長の逢空泉あいそらせんのことである。

 孤児院にまつわる鏡の苦い思い出の中に、彼女は隔離されている。信頼出来る大人だった。

 あの人が由良と知り合いだったとは。別れた後も上手く根回しをして保護してくれたのは、本当にありがたいことだ。彼の優しさの示し方は婉曲的に過ぎ、身内ですらそれに気付きかねる。その典型だった。

 由良はこの孤児院について、どこまで知っているのだろう。虐待はないと言っていた。しかし、鏡の記憶では──

「亜矢ちゃんが出て行ってから、私が院長になったの。ちょっとした革命ねえ」

 鏡の思考に被せるように、声がかけられた。

「泉先生」

 振り向くと、鏡の子供の頃の記憶と何も変わらないままの女性がいた。二十代後半にしか見えない容姿だが、実際はもう何歳なのかまったくわからない。肉付きは豊満で、ややたれ目。鏡にはわからないことだが、男に劣等感を抱かせない雰囲気の持ち主だった。

「久しぶりね。積もる話もあることだし、どうぞどうぞぉ」

 うながされるままに、鏡はついて行く。

 スリッパの音だけが、パタパタと聞こえる。施設を出ると決めた時はあまりに急だったので、当時の副院長であった逢空先生に迷惑をかけてしまったことを、鏡は覚えている。それが気まずくて、会話を切り出せずにいた。

 そんな鏡に、逢空院長はぽつりとこぼした。

「……ごめんなさいね」

「何がですか?」

 背を向けているため、逢空院長の顔は見えない。

「私、知ってたのに、止められなかったの」

 鏡は思い出す。

 孤児院のベッドは二段ベッドになっている。四人部屋の中で、鏡の領分は右側の下だった。

 ある夜、鏡は眠れなかった。

 ベッドの上の段が揺れていたから。

 ぎしり。

 ぎしり。

 ぎしり。

 規則的な音。しかし、誰も声を出さなかった。

 でも、誰も眠ってなんかいなかったことを鏡は知っている。

 鏡も、他の二人も、上の段の子も、その子にのしかかってる院長も。あるいは、他の部屋の子たちもみんな、誰も声を出さなかった。

 みんなわかっていた。ここを出たら、自分たちの居場所なんてどこにもないということを。

 自分に値札を付けて、生きながら腐っていくことでしか、死の瞬間を先延ばしに出来ないということを。

 鏡にはどうしてもそれが許せなかった。

 高校生になり、明確に記者を目指すようになった鏡は、社会に貢献することが己の義務であると考えるようになっていた。社会的動物としての生存本能である。

 しかしその原初の記憶には、屈辱と怒りがあった。

 ──私は振り上げられた拳だ!

 ──屠殺されるのを待つだけの子羊なんかじゃない!

 ──私は虐げられた者たちの怒り、この世すべての罪への弾劾者!

 鏡が施設を出る一か月前のことであった。

「あなたが出て行ったあと、彼は逮捕された。許してくれなんて言わないわ。傷つけられた子たちへの償いになるとも思わない。ただ、今はあんなことはない」

「信じますよ」

 先ほど、少女の顔を鏡は見た。

 あの子は、大人にすねて見せるほどの余裕を持てるようになったのだ。それだけで、鏡にとっては充分だった。

「……ありがとう」

 赦すことで赦されるものもあるのだ。

 鏡と逢空院長は、互いの欠落をようやく埋め合うことが出来たのである。

「それで、今日は急にどうしたの?」

 来客室につくと、逢空院長は切り出した。

 駆け引きなどする気もない、誠実な態度だった。

 鏡にはかえってそれがこそばゆい。逢空院長は今も昔も鏡にとっては尊敬の対象である。鏡や孤児院の子たちを傷つけたのは当時の院長であり、そのことに負い目など感じてほしくない。どうしても負い目になるとしても、彼女は謝罪し、私は赦した。それで良いじゃないかと思う。なので、鏡は自分も真正面から話すことにした。

「私がどこから来たのかが知りたいです」

「あなたを拾ったのは私。たまたま通った道のゴミ箱に、動くものが見えたの。本当によく出来た偶然ぐうぜんだけれど、それがあって本当に良かったと思うわ。こんなに立派に育ったあなたを見られる今があって」

 逢空院長は愛情の意味と価値をどこまでも知っている人だ。それを向けられる鏡は、自然と誇らしい気持ちになる。

「正直に話すわ。信じられないこともあるかもしれないけど、あなたはそれを聞くべきなんでしょうね」

「はい」

「初めてあなたを見つけた時、あなたの身体には手術痕があったわ。生まれて間もないくらいの赤ん坊だったのにね。それから何度も、あなたは私たちの前から姿を消した。あなたの地毛は金髪だったけど、姿を消すたびに黒く染められていた。子供なのにカラーコンタクトをしていて、私たちがそのことを指摘すると狂ったように暴れた。成長していくにしたがって、手術痕も増えたわ。私が逆に虐待を疑われたこともある。そうする内に私たちは知るようになったの。あなたは外国人で、性転換手術を受けた男だと」

「──」

 絶句。

「理由はわからないけど、私たちはあなたの身体が変形していくのを止めようとした。誰が何の目的であなたをそのようにしたのかはわからない。でも、生まれて間もない子供の内からそんな手術を受けて、まともに生きられるとは思えなかった。あなた自身がそれを望んでいたとしても、話し合うべきだと思ったし、勝手に姿を消すことが正しいとは思えなかったの。でも、止められなかった。どんなに監視をしても、身体を縛り付けても、いつの間にかあなたの姿は消えてしまった。拘束して職員全員で見張って、カメラを設置しても無駄だった時、私たちは諦めてしまった。完全に神隠しとしか言いようがなかったわ。消えてから見つかるまで短い時は数時間、長い時は数日かかったけど、毎回あなたにはその間の記憶がなかった。これはカラーコンタクトのことを指摘した時も同じ、あなたの身に起こる不思議な現象を話しても、しばらくするとあなたはそれを忘れている。正直、ぞっとしたわ」

 鏡は無言で、自分の目に手をやった。眼球の表面に、何かが触れた。それだけで充分だった。トイレに行って顔を見るまでもなく、自分の目は青いのだと確信してしまった。

「あなたの記憶が曖昧になるのはもう仕方ないこととして、私はあなたにメモを取るように言った。その手帳、まだ使ってるのね。いいかげん、変えた方が良いんじゃない? 物持ちが良いにも程があるわよ」

 重くなった空気を払拭するためか、逢空院長の口調は冗談めかしたものだったが、鏡にはそれこそが問題の核心であった。

「私にわかってるのは、これだけ。いいえ、違うわね……。わからないということを、私は知っていただけ。私を恨むかしら。それとも、助けになれるなんて思ったことを傲慢だと笑うかしら?」

「あなたは罰してほしいんですね。そうすれば赦されると思ってる。でも、そもそもあなたに罪なんてありませんよ」

「そう……。強く、強くなったのね亜矢ちゃん」

「感謝しています、泉先生」

 鏡は衝撃で砕け散った自分自身を、速やかに回収し終えていた。

 驚くことには驚いた。しかし、この段階の鏡は『世界には何でも起こりうる』と考えるようになっている。悪魔の世界がどういうルールや力学で動いているのかはわからないが、自分はそこに片足を突っ込んでしまった。ならば、どうなってもおかしくない。一種、捨て鉢な覚悟だった。

「あなたの力になれたのなら、良かった」

 そのあと、二人は少しばかり世間話をした。

 もっともその間、鏡は別のものとも対話をしていた。

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〈シーモアってのは男性名。あなたは『私たち』を虫々院蟲々居士の端末って言ったけど、本当はが後から来て、シーモア・グラースに取り憑いたのね〉

 お前には知ってほしくなかった。お前は蟲が嫌いなようだったから。

〈自分自身が嫌っていた蟲そのものだと知ったら、私が傷つくと? そんな気遣いが出来たのね〉

 怒るなよ。俺とお前は本当の意味で一心同体なんだ。出自が何だって、大事なのは今だ。

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 考えてみれば、簡単な話だ。

 ブラックアウトの間、鏡には記憶がないが、その間シーモアは自由に動き回り、鏡の活動中のことも向こうは知っている。

 どちらが主人格だなんて、言うまでもない。

 鏡は手帳を介して、自分の中のシーモアと会話をしていた。驚くほど冷静に、筆が走った。

 話を聞かずに撃ってしまった負い目はある。しかしあの時、シーモアの方から鏡に接触しようとしていた。ならば可能性はあると書き込んだ鏡の問いかけに、果たしてシーモアは応じた。

 鏡は自分の人格が作られたもの、あるいは偶然に発生したものだということに、それほどショックを受けていなかった。

 痛みがないわけではない。だが、それを上回るほどの怒りがあった。勝手に自分を生み出し、放り捨てた虫々院蟲々居士への反逆の心。

 自分という存在がどこから来て、どこに行くのか。それを得た今ならわかる。

 ──過去も未来も、私という主観が世界を認識するための言葉に過ぎない。

 ──ならば、必要なのはだ。

 ──どこに立っているというのか。どこへ行きたいと思うのか。それだけが私のすべてだ。

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 俺は虫々院蟲々居士の束縛から自由になりたい。あいつは俺たちのことなど路傍の石程度にも思っちゃいないだろうが、過去が清算を求めている。

〈その点に関してはまったく同意。あいつがいては何をするにも邪魔よ。殺すことは出来なくても、無力化は必須〉

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 そういうことになった。

 鏡とシーモアの人格は分かたれているようで、同時に融け合ってもいるため、積極的な拒絶がなければ、驚くほどスムーズに話は進んだ。


   *


 逢空先生に挨拶はしたものの、今の孤児院の様子に興味があった。

 もちろん、鏡の同期はほとんど養子縁組が決まったり、寮のある学校へ入学して出て行ったあとだが、下の代の子たちには知った顔もいる。彼女たちが、逢空院長の改革の結果、笑っているのかを知りたかったのである。

 外に出ると、ひりつくような蝉の声が大きくなった。部屋の中にいた時でも充分暑いと思っていたが、直射日光を浴びると肌が火で炙られているような気がした。

 そんな熱気の中でも、子供たちは元気だ。わーわーとはしゃぐ声が、蝉の声にも負けないくらいに響く。

 鏡が声の方に視線を向けると、そこには子供たちが団子になっていた。汗だくになるのも構わずに、おしくらまんじゅうのように押し合いへし合い重なり合いしている。

「ミツバチはみっしゅうした熱で、自分たちより大きなスズメバチを蒸しころすという……」

「こうさんしろー」

「あっついよーはやくやめようよー」

「もうちょい」

「兄ちゃんがこうさんするまで」

 暑いなら離れればいいのに……と思いながら、鏡は様子をうかがっている。すると、

「ぬわーっ!」

 ひときわ大きな声が上がり、子供たちの中から男が現れた。

「お前ら、アイスが融けたらどうするんだよ! 僕の親切を無駄にする気か!」

「いぇーい」

「お兄ちゃん太っ腹~」

「で~ぶ」

「でぶではない」

 クーラーボックスを抱えたまま群がる子供たちの相手をしているのは、由良だった。

「来てたんですか」

 鏡は既に、由良と逢空院長の繋がりを知っているため、彼がここにいたことに疑問を抱かなかった。むしろ、驚いたのは由良の方だ。

「どうしてお前がこんなところに」

「私はここの出身だったんですよ」

「なるほど」

 子供たちの中にも鏡を知った者がおり、腰の辺りにタックルしてきたのを適当にいなす。孤児院の『お姉ちゃん』の立ち居振る舞いが堂に入っているのだった。

「慣れてるね」

「あなたが子供に好かれてることの方が意外ですよ」

 鏡の言う通り、由良は子供たちと同じ目線で笑い、遊んでいた。鏡が見たこともないような表情だった。そんな顔も出来るのか、と奇妙な気持ちになった。

「子供が好きなんですね。それとも、子供があなたのことを好きなのかも」

「どうだろうな。きっと、僕自身が子供なんだと思う」

 不思議なほど、その言葉が腑に落ちた。

 鏡の分のアイスはなかったが、由良は自分の分だけは確保している。子供だ。

 由良はいつも自分のことをただの高校生だと言っていた。鏡にはそれが理解出来なかったのだが、由良にとってはその無理解が苦痛だったのだろう。琴音の前では彼は大人として振る舞うことを求めらていた。正しいかどうかだとか、望んでやったかどうかとは別に、それが彼の義務だったのである。

「ゆう君がちぃのアイス取った~!」

 見れば、泣いている女の子がいる。気の強そうな男子が、二つアイスを頬張っている。

「本当マジそういうのやめろよ……今は良いかもしれないけど、その内本気で取り返しつかないレベルで嫌われるぞ」

 言いながら、由良は自分の分のモナカアイスを半分に割った。口を付けてない方を、泣いている子に渡す。

「半分ってのが僕の善意の臨界点なんだ。あとは知らん」

「モナカアイスを選んだあたり、こうなることを予測してたんじゃないですか?」

 わざと意地悪な風に鏡が言うと、由良はそっぽを向いた。


 クーラーボックスの中にまだアイスは残っていたが、ここにいない子たちに配りに行くらしい。

 子供たちと別れ、孤児院の中に入る。

「悪魔の力は、魂の力だ」

 やや唐突に由良は切り出したが、それを止める理由もなかった。

「これは契約で奪ったものと、自分自身のものの二種類がある。僕は契約が苦手だから、自分自身のを使うわけだが、普通に使ってたんじゃあその内干からびるだろう。だから、ドーピングをする必要がある」

 自分はいつかビッグになると吹いている馬鹿と、英雄の才能はあるがまだ何も成し遂げていない男。どちらの方が魂の価値は高いだろうか?

 実はそんなに違いはないのだ、と由良は言う。

 人の価値は、試されて証明しないことにはわからないものなのだ。

「困った人を助ける。それもなるべく命の危機みたいに困難な方が良い。助ける相手も美人の方がモチベーションが上がる。そうやって英雄的行為を成し遂げることで、僕の魂の価値は底上げされるんだ。社会的承認、罪悪感からの解放、それらがキーになる。琴音の場合、牢屋から出して父親をやっつけた程度じゃあまだ助けたと言えないくらいに問題の根が深すぎた。ほっぽり出してすぐに死んだんじゃあ、意味がない。いや、意味はあるのかもしれないが、僕自身が意味を認められない。だから一年だ。僕の善意の臨界点がそれだし、罪悪感の賞味期限でもある」

 天国へ行くための見返りを徳と呼ぶのならば、悪魔に見える魂の価値とは、そのシステムをもっと分かりやすくしたものなのだ。

「琴音ちゃんを助けたのは、魂の見返りを得るためだと?」

「この孤児院には、今まで助けた子供たちが何人かいる。問題がなければ、そのまま預けるつもりだった」

 由良の言う子供たちに、鏡は心当たりがあった。

 孤児院というのは極めて閉鎖的かつ特殊な社会であり、そこに馴染めない者たちもいる。重度のトラウマ、元の家族への執着、身体的な欠損など、理由は様々である。そういった者たちは、彼ら同士で孤児院の中に小さなコミューンを作るのだ。彼らは普通の子供たちとは別の場所におり、一緒に遊ぶこともない。孤児院の職員が彼らを馴染ませようとし、集団を解体しようとしても、絶対に無駄である。一時は従ったフリをしても、すぐに元通り。彼らにとって、孤児院の子供たちも大人も信用の対象ではない。孤独の痛みを共有できるのは、同じ何かを持つ者だけだと、本能的に理解しているのだ。

「お前の知ってる顔はいないだろうから、会ったら紹介するよ」

 彼らは大人を信用しないので、養子縁組も中々決まらない。孤児院をたらい回しにされ、更に孤独を深めていく。

 鏡がいた頃にも、そういう子供たちはいた。しかし、彼らは自然といつの間にか消えていく。そういうものだった。だから鏡もよく知らない。

 由良が連れてくる子供たちは、どんな傷を抱えているのだろう。

「あら、アンタまた来たの」

「うん」

 不機嫌そうな声をかけてきたのは車椅子の少女。ぞんざいな返事だけをして、由良はその横を通り過ぎようとする。

「ちょっと! 私を無視するなんて良い度胸ね!」

「無視してないよ。返事したし」

「アイスくれてないじゃない! 寄越しなさいよね」

「やだ」

「何ですって~!?」

 時系列は前後するが、以下は由良の紹介である。

 禍月姫香まがつきひめか──車椅子の女王。

 足萎えの病気にかかったが、致命的ではない/車椅子の子供のほとんどは、生活に過度の支障をきたすほどではなく、顔や知能にダメージが表れない=ボランティア気取りにすこぶるる/結果、酷い人間不信に──傲岸不遜に振る舞うことで、人を遠ざける。

 わざと自分をぞんざいに扱う由良に、屈折した甘え方=信頼。

 鏡が車椅子を押そうとすると、長く艶やかな黒髪を払うようにして振り返り、凍るような視線で牽制してくる。

「触らないで」

「君の先輩だぜ、仲良くしなよ」

「私は歩けないわけじゃないの、歩かないだけ。見下してもらいたくなんてない」

 真っ直ぐに切り揃えられた前髪の下から、物凄い憎しみの色が漏れた。鏡は思わず、手を引いてしまう。

「それなら、今アイス渡しても食べられないだろ」

 車椅子の操作で両手がふさがった姫香を見て、由良は言った。

「ぐぬぬ……」

 結局、由良が車椅子を押し、姫香はチョコミントのアイスを頬張っている。クーラーボックスを預けられた鏡としては、若干のけ者にされている感は否めなかったが、一転して年相応の少女らしい笑みを浮かべる姫香を見て、悪くないと思った。

 由良と姫香に先導されて向かった奥の部屋は、最低限の清潔が保たれたスラムのような、不穏な雰囲気だった。

「お兄ちゃん、久しぶりぃ! ボクに会いに来てくれたんだよね?」

 如月真尋きさらぎまひろ──元・非合法な未成年男娼。

 狂った環境に順応/自分の価値を正しく把握=甘ったるいベビーフェイスが維持出来るのは二次性徴まで/焦り/自分を一度助けてくれた由良に媚びる──見返りなしの愛情を信じられず、道化の演技。

「……」

 無言で卵アイスを持っていくのは、みさきヒロト。

 真尋と同じく、誘拐されて男娼の立場を強いられた経験──反抗的な姿勢/己の最後の尊厳を誇示/口に含まされた男性器を噛み切る=/口腔内のすべての歯を抜歯される/現在は総入れ歯──咀嚼を苦手とし、まがい物の歯を見られることを嫌い、喋らず/笑わず/人前で口を開けて食事をせず。

「あ──り────が──と」

 間延びしたウィスパーボイス──須久那すくな白澤はくたくが、非常にゆっくりとした動作でカップアイスを受け取る。

 プラチナブロンドの体毛/真っ白い肌/淡紅色の瞳=典型的なアルビノの特徴。

 外に出られず、生まれた時からずっと軟禁状態で成長。他人とほぼ一切接触せず/その結果、相対的な時間感覚を欠如──他人と時間を共有しない、究極のマイペース少女。

「タッタッタタンタッタッタンタンタンタタタ」

 白澤がアイスを持って行っても受け取らず、歌い踊り続ける少年──舞城公彦まいじょうきみひこ

 聴覚過敏により、気を病む──自分の体内から常に音楽が聞こえると主張/それに合わせて、寝ている時以外はずっと踊り続ける。

 食事中やじっとしていることを求められる場面でも、身体の一部が痙攣するようにリズムを刻む/眠る時は、踊り疲れて失神するように意識を失う=寝食を忘れてダンス/ダンス/ダンス。

 魂の畸型児きけいじたち。

 例えようもない孤独が集まった、蠱毒の壺のような場所。共有や共感の無意味さが浮き彫りになり、文明人が持つ一種の賢しらさを剥ぎ取るような空気があった。

 ここでは鏡の方が、既存の共同体に迷い込んだマレビトなのだ。いや、既に鏡もここの住人なのかもしれない。シーモアのことを鏡は忘れていなかった。

 彼らはみな一様に何かを欠如し、何かが過剰だった。しかし、そのそれぞれ独特な表現を以て、彼らは由良を慕い、歓迎していた。サーカスめいた、奇妙な妖しさと明るさがあった。

「この子たちみんな、あなたが助けたんですか」

 鏡が言った。子供たちはみな、アイスに夢中になっている。

「利用してる、って言いたいんだろ」

「悪魔にとっての魂の価値の話を聞いた後だと、どうしてもそう思ってしまいますよ」

 自分でも意外に思うほど、鏡は正直に応えた。あるいは、由良がそこまでごうつく張りではないことを、何となく信じているのかもしれなかった。

「どうだろう。確かにそういう面もある。それだけじゃないとも思う。でも、頭でっかちな利己心って、どんな馬鹿にでも伝わっちゃうもんだろ。この子たちはきっと、わざと騙されてくれているんだ。自分たちに他の生き方がないことを知っているから」

「知ってるんですよ、風間優さんと、津田穂波さんもあなたが助けたことを」

「うん。あの子たちの分も含めて、僕は七回分の命に相当するだけの魂を得られた。本当に助かってるよ」

 由良があごをしゃくった。網戸を開けて、二人だけで裏庭に出る。

 濃い緑の木陰になっており、外とは思えないほど涼しい。代わりに蚊が飛んでいたが、由良が口から白い煙を吐くと、逃げて行った。

 鏡はシーモアとのやり取りを記した手帳を、由良に渡した。

「どうです」

 何が、とは言わなかった。

 言ってしまえば、自分の何かが損なわれてしまう気がした。

「ふうん」

 由良は興味なさげにページをめくっている。

「私は多重人格みたいなもので、虫々院蟲々居士の手先で、私が私自身だと思っていたものはただの蟲の見る夢だったんです」

「視点がブレすぎで、下手くそが書く三文小説みたいだ。虫々院の持つ認識ってのは、多層的なものなんだろうなあ」

 由良は手帳を鏡に投げて返した。徹頭徹尾、つまらなそうに扱っていた。

「聞かないんですか。私とシーモアのことを」

「琴音を助けた帰りに、ことがあったろう。あの時から、お前が普通の人間じゃないのはもうわかっていた」

 特別な魔力がない限り、ずらした先の世界には入ってこれないからな、と由良は言う。そして、そのまま続けた。

「知ってる? 逢空さんは、売れっ子AV女優なんだ」

 思いもよらない角度からの爆弾発言。鏡は思わず声を荒げる。

「なっ、孤児院はそんな経営難なんですか!? 悪い奴らに何か弱みを握られてるとか、そんな」

「そういうんじゃない。あの人はただ、情が多いんだ。好きでやってることさ。そりゃあバレたら不味いけど、今の所は誰にもバレてないよ」

「何で急に、そんな話を」

「お前は最近、嫌なものばかり見てただろう。だから視野が狭くなってるんだ。セックスってのは必ずしも醜いものでもないし、強要されるばかりでもない。好きで色んなことをやってる人がいるってことを思い出してほしいんだよ。お前の中に蟲がいても、それがお前という人間の全部を規定するわけじゃない。おぞましい一面を持つサイコロを振ったとして、毎回その目が出るってことでもないように」

 少し、ほんの少しだけ、鏡は自分を取り囲んでいた嫌なものが減ったような気がした。

 無論、それらがなくなったわけではない。しかし、由良の言葉がなければ、自分が身動き取れなくなっていたということにすら気が付かなかっただろう。

「私、自分がわからないんです」

 どちらが要求したわけでもないが、自然と鏡が心の底に溜まった澱を吐き出すことになった。

「由良さんが獅子村兄弟に拷問を受けていた時、あなたを心配するよりももっとずっと強い気持ちで、『こんな酷い目に遭ったのが自分でなくて良かった』と思ったんです。そして、次に拷問されるのが自分だと思うと、恐ろしくてたまらなくなりました。私がどんなに琴音ちゃんのことを愛している、守りたいと言っても、それは今まで試されてなかっただけなんじゃないかと。私は拷問を受けたら、あなたや琴音ちゃんのことをペラペラきっと喋ったと思います。私に尊厳なんてなくて、薄っぺらな口先ばかりの卑怯者で、そのことからずっと眼を逸らしていたんじゃないかと思いました。あっ、あいつらは、人の本性を知っている。誰だろうと薄皮一枚剥げば、どす黒くて汚いものを抱えているって、わ、私は」

「万物は常に流転し、変化しないものなんてない。だけど、それにもおのずと限界が生まれる。言ってしまえば、耐久限界だ。すべてのものは常に試されているが、限界を超えた圧力をかけてしまえば壊れるのは当然の結果だ」

「仕方ないと? 琴音ちゃんが虫々院蟲々居士やヤクザに捕まって死ぬような目に遭っても、仕方ないから諦めろって言うんですか?」

「そうじゃない。ただ、今のお前も獅子村たちも、極論のムチャクチャを言ってるんだぞ。状況次第で変わることだってあるし、一事が万事に当てはめて考えると柔軟性に欠ける。なあ、鏡よ。僕は琴音を助けるために人をバカスカ殺したけど、その一方で孤児院の子供たちを助けたりしている。それを、適当に気分次第でやっつけて好き放題にしてると思うか?」

「それは、あいつらが悪党だったから」

「かもな。逆にそうじゃないかもしれない。僕はあいつらがどんな人生を歩んできたのかを知らないし、脅されて仕方なくヤクザなんてやっていたのかもしれない。彼らが死ぬことで悲しむ家族がいたのかもな。でもそんなことは関係ない。あいつらが死んだのは、自分たちの行いがそこに自分を立たせたからだ。そして、ただ運が悪かったからだ」

 ここでも偶然か。

 偶然、偶然、偶然! そればっかり!

「言い訳にしか聞こえません。あなたは自分の罪悪感と向き合うことから逃げている」

「当たり前だ。解かなくていい問題に時間を取られるのはアホのすることだ。それとも、責任の話なんてするつもりか。金持ちは全財産を慈善団体に寄付するべきだとでも? お次は何だ、アフリカの恵まれない子供たちか。僕に言わせりゃ、アフリカ人もクラスメイトも大して変わらん。お前はまだ、自分がる人間だと思いたがっている。こいつはこれだけの悪いことをしたから死んでも良い人間だ、よって俺が殺すなんて言わせる気か? 人が人を正しく裁けると思う方が傲慢だ。有限性が人を規定する。僕たちに出来るのは、自分の手の届く範囲でやることをやって、あとは運に任せることだけだ」

「あの子供たちは、その結果ですか。ただ運が選んだと」

「そうだ。酷い傲慢の表れだ。そして、それこそが僕という人間が持つ、善意の臨界点だ。考えても見ろ、偶然助けた子供が成長して独裁者となり、大虐殺を行わないと絶対に言い切れるか? そして、そのことの責任を問われるべきだと思うか? 見殺しにするべきだったと未来の人間に責められたとして、お前はどう応えるつもりなんだ?」

 鏡にはわからない。応えられない。

「それがお前の有限性だ。性能が足りないのは別に悪いことじゃない。本当に自分を許せないのは自分だけだ。僕は、事件に際して子供はなるべく助けるようにしている。子供を助けるのは、子供が純粋だからとかじゃない。僕は子供だっていじめをすることを知っている。悪意がないわけじゃない。単純に可能性の問題だ。これから虐殺者になるかもしれないが、善政を敷く王になれるかもしれない。これから彼らが持つ時間の中で、何を為すのかという選択肢の数が多いか少ないか。ただ、それだけのことだ」

「琴音ちゃんに、あなたが助けたあの子たちに、どんな可能性があるんですか……? あの子たちはもうずっとずっと、生きることに殺されてきて、すっかり疲れ切ってるんですよ? そんな子供たちがどうやって生きていくんですか。辛い選択肢を、中途半端な希望を与えることが優しさなんですか?」

 蝉の音が遠い。

 ──私は赦してもらいたがっている。

 鏡は、そう思う。

「そんなの知ったことか。僕には関係ない。大切な何かがぶっ壊れても、大抵そのまま人生は続くんだ。黄身が潰れても、卵が食べられなくなるわけじゃないしな。大事なのは可能性だ。選べないままに生きていくことは死んでいるのと同じなんだ。だからこそ、

 中途半端な希望と鏡が呼んだもの。それこそが可能性であり、可能性を本物にするのもまがい物にするのも、彼ら自身なのだと由良は言っているのだった。

「お前は、僕が灰川に捨てられた時、酷く傷ついた顔をしていたな。僕だってまったく傷ついてないわけじゃあないが、何も手につかなくなるほどでもない。何故なら、僕にとって愛するということは、相手を信じて裏切らないことだ。そして相手に裏切られたとしても、絶対に赦すことだ。人と人とがいれば、必ず比べられ、競争が生まれる。その中で一番になりたいと思ったら、とにかく本気でなくっちゃいけないし、負けてウダウダ言ってる暇もない」

 風で角度の変わった木漏れ日が、鏡の顔を強く照らした。

 途方もない眩しさだった。

「琴音を助けたいなら、本気の本気で琴音を愛せ。僕らの力は有限で、どんなに理屈や計算を積み重ねても、闘いの中、ギリギリの場所で、確率の海へ身を投げなければいけない瞬間が来る。その時に道標みちしるべになるのが、愛なんだ。愛は信じることで、赦すことで、そして祈ることなんだ」

「何に祈るんですかっ。琴音ちゃんを今の今まで見捨ててかえりみなかった、神にでも祈れと言うんですか!」

「愛の対象に祈るんだ。愛の、愛による、愛のための祈りだ。愛し、愛されることよりも大切なものなどあるものか」

 子供たちの呼ぶ声が聞こえる。それに向かって、由良は応じて歩いて行く。わざわざ口にはしないだろうが、きっと由良は子供たちを愛しているのだろう。

「あ──とけ──ちゃっ────た」

 まだアイスをスプーンで弄っていた白澤が、手をベトベトにしてしまっている。

 たまらないほどの夏であった。


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