第7話 サニー・サイド・アップ/ターン・オーバー(4)

   *


『鏡』

 目を覚ました。

 いつものブラックアウト。

 いたのは、自分の部屋だった。知らない場所で意識を取り戻すよりずっとマシだと思うことにする。

 眼鏡をしたまま眠ってしまっていたようだ。鼻の付け根が痛む。

 慣れと諦めの隙間を縫うようにして、いつものように時計に目をやると──

「8月!?」

 最後にある記憶は、5月の頭に新城と話したこと。

 三ヶ月以上も意識を失っていたことになる。

 意識を失っていたと言うと、正確ではない。鏡にとって意識がないが、他の人に聞く限りではその間も活動しているらしい。つまりは記憶がなくなるのだ。

 それにしても、ここまでの膨大な空白は初めてだが。

「っ、そうだ!」

 鏡は手帳を手繰り寄せた。

 新城には捨てろと言われたが、今頼りになるのはこの黒い革の手帳だけだった。

「何、何で? 何なの、これ?」

 ページをめくる手が、どんどん早くなっていく。

 出てくるのは、知らない記憶ばかり。

 手帳に記された自分は、日を追うごとに琴音との絆を深めている。

 鏡はそれをどうしても思い出せない。手帳の中の自分と、今手帳を呼んでいる自分とが乖離しているような気がした。どうしようもない断絶があるように感じた。

 手帳の終盤に書かれた、灰川に捨てられた由良の気持ちに共感できるような気がした。

 読めば読むほど、手帳の中の『鏡』に自分の居場所を奪われているような気持ちになった。

 ふと、鏡の手が止まった。

 震える手で、書かれた文字をなぞる。

 文末に記された署名。

「シーモア・グラース……」

 鏡は雑誌に記事を載せてもらえることはあったが、署名記事を任せられたことはなかった。派遣社員やアルバイトよりも、ずっとドライな扱いを受けてきた。それを正当なものとは思っていなかったが、同時に、いずれのし上がるために耐えてきた。

 シーモアが誰なのか、何の意図を持ってこれを書いたのかはわからない。個人の手帳に勝手な落書きをしただけである。しかし、鏡はこの男が自分の気持ちをすべて詳細に把握した上で、それを嘲笑うためだけに署名をしたのがわかった。

 由良のような感性の飛躍、共感と直感の導きが、一瞬でシーモアという人間を鏡の敵であると認めた。

「殺す」

 端々が尖り、やや右肩上がりの文字の書き方。これを書いていたのは由良ではなく、シーモアだったのだ。

 鏡の中では、琴音を奪った手帳の中の自分すらも、シーモアの手先に思えた。暴走した感性は、思い込みと狂気を織り交ぜ始めていた。

 何者かはわからない。

 恐らくは、手帳のことについて『捨てろ』以外のアドバイスを出せなかった由良よりも、上手うわてだろう。超常の力を持つことは言うまでもない。

 それでも、殺意の完成を阻む理由にはならなかった。

 鏡にとって、初めての気持ちだった。

 ──電話が鳴るよ。

 声が、聞こえた気がした。

 周りには誰もいなかったが、それをしっかり確かめる前に、声の言う通り電話が鳴った。

「鏡さんかい」

「誰ですか?」

 番号は非通知だったが、電話の向こうの声は、聞き覚えのあるものだった。

「誰だっていいだろう。灰川の使いさ」

「……もしかして、八幡修一郎さんですか?」

 かすかに舌打ちが聞こえた。当たっていたらしい。

 瞬時に脳をフル回転させる。

 琴音を回収したあの日、灰川を手引きした人間が八幡家の中にいるはずだった。鏡は最初、それは家長の修平だと思っていた。しかし実際には、彼が最も琴音の存在を隠蔽したがっていた。他の家族の裏を取ろうとしたが、あの日以降連絡が取れず、確認出来なかったのだ。

 この電話によって、謎が解けたことになる。灰川と繋がりがあると自分から言ったということは、元々彼女の下で動いていた可能性が高い。

 裏切り者は八幡修一郎だ。

「何故このタイミングで電話を? 取材を受ける気になってくれたんですか」

「相変わらずふざけたガキだな。琴音がさらわれたって言うのに」

「何ですって!?」

 背中の肉にびっしりと蟲の卵を産み付けられたような、おぞましい悪寒が走った。

 手帳には何が書かれていて、何が書かれていない?

 シーモアのことを憎んではいても、無意識に嘘はつかれないだろうと思っていた。しかし、琴音がさらわれたという情報が事実なら、それを真っ先に手帳に書き込むべきではないだろうか?

 そもそも、修一郎の言うことだって鵜呑みには出来ない。

 本当の意味で信頼出来る相手なんて、どこにもいないような気がした。

 今、隣に由良がいてほしかった。由良は嫌な男だったが、琴音を保護するという点において利害が一致しているのは確かだった。彼に、目の前の嘘を暴いてほしかった。由良の眼はの眼だ。彼に人の心の真贋を見抜いてほしかった。

 鏡は酷く心細くなっていた。

 寄る辺なく暗い森に放り出された、孤独な狩人のような気持ちだった。かがり火が必要だった。

「何が起こっているのか、詳しく教えてください」

 現状の情報を引き出すためには、電話を切るわけにはいかない。力を入れればふっつりと途切れてしまいそうな糸を、慎重に巻き取る。

「そんな時間はない」

 外と電話の向こうで、同時にでクラクションの音がした。

 身だしなみを整える間もなく、由良に電話をかける──不通。

 思い出すのは由良の言葉──『僕は電話には出ない』。知らず、舌打ちが漏れる。何も、こんな時にまで。

 仕方なくメールを送信する──『琴音ちゃんがさらわれたって本当? 修一郎さんに同行するので、折り返し連絡を』。返信はあまり期待出来ない。

 最低限の荷物と手帳を持って、慌ただしく靴を履いた。

 外に出ると、寮の入り口に生えているビワの木が見えた。8月の半ばにもなると、実はとっくに落ちている。甘いにおいを嗅げなかったのが、妙に寂しく思えた。

 去年は大家さんにビワのおすそ分けをもらった。果肉が分厚く、甘かったのを覚えている。今年はビワを食べたのだろうか。鏡は覚えていない。ビワの実も、手帳の中の自分に盗み食いされたような気がした。

 寮の前に一台の車が停まっていた。細面に伊達なスーツの男、修一郎が鏡を待っている。

「乗りな」

 言われるがままに、後部座席に乗り込む。意外なことに、修一郎もそれに続いた。

 運転席にいるのは知らない男だった。

 目や口元に、ネコ科の動物じみた獰猛さが見える。異相である。鏡がルームミラー越しに男の顔をうかがうと、嫌な感じの笑みがその顔に浮かんだ。夏祭りの日に津田たちが浮かべていたものを思い出して、鏡の背に冷たい汗が伝った。

「気にするな。ただの運転手だ」

 運転手はアロハシャツで、車の内装は白い革張りだった。それらと並ぶと、修一郎の伊達さ加減も、堅気には見えなくなってくる。

 鏡は声を出そうとした。

 想像力が足りなかったのだ。自分だけは大丈夫だと思っていたのだ。由良と行動する内に、自分も出来るような気分になっていたのだ。危機意識が足りていなかったのだ。

 そんな言葉が、グルグルと頭を回っていた。しかし、

「気に、するな」

 修一郎が言うと、鏡は喉を抑え込まれたかのようになって、黙り込んでしまう。

 運転手が後部座席の扉をロックする音が、鏡の愚かさを嘲笑っていた。


 普通の街の中にある、普通の建物。

 鏡が連れ込まれたのは一見、何でもない場所だった。

 しかし、車から降ろされて半ば無理やり奥に進むごとに、辺りの雰囲気が異様になってくる。

 言ってしまえば、暴力のにおいである。

 血のにおい。

 性のにおい。

 鉄や、薬のにおい。

 消しても消せない、すっかり染み込んでしまったものがある。

 それだけでは何の意味も持たないのに、悪意によって運用されたせいで、反射的な嫌悪を感じてしまうようになったもののにおいがする。

 自分の卑しさに疑問を抱かなくなった人間が発する、魂の腐臭である。

 修一郎は、いやらしいにおいの中を、慣れた様子で歩いて行く。すれ違う男たちは皆、目礼をした。修一郎は、それに鷹揚に応える。

 鏡の警戒心は、とっくに限界を超えている。これからただひたすらに悪いことが起きるという予感だけがある。いっそ、それは確信と言ってもおかしくないものだった。

 歯の根が鳴り止まない。歯茎から歯が全部とうもろこしみたいに取れてしまって、口の中で転がり回っているようだ。

 ネコ科の眼をした男──修一郎は獅子村ししむらと呼んだ──に鏡の腕はがっしりと抑えられている。この力は、以前にも感じたことがある。琴音を犯そうとしていた男たちと同じ具合の力の入れようだ。心の中に残っていたわずかな希望も打ち砕かんとする暴力だ。自分はこれから犯されるのだ。肉体も、心も。

 この男たちが琴音をさらったのだろうか。だとしたら、琴音はもう、どんな酷い目に遭ったのだろうか。

 怖い。

 怖くてたまらないのだ。

 携帯電話は奪われていない。修一郎や、獅子村の目を盗んで警察や由良に電話をすることは出来るかもしれない。しかし、それがバレた時、自分がどんな暴力にさらされるのかを考えると、恐ろしくて出来なかった。渡すように彼らが言ってこないのも、その余裕の表れのように思えた。

 想像力が恐怖を生むのだとわかった。暴力に慣れた人間は、想像力のフックとなるものを作る術にも長けていることも。

 いくつもの扉を、修一郎とそれに続く鏡たちは素通りした。その奥には、想像するのもおぞましいものがあるように思えて仕方がなかった。

 一つの扉を修一郎が開いた。

 そして、鏡は見た。

 この世の醜悪を。

 薄桃色の煙がただよう部屋だった。とっさに頭の中で『煙を吸わないようにしろ』と声が聞こえた気がした。鏡はそれに従った。鼻と口を覆い、妙に甘ったるいにおいを嗅がないようにした。焚かれた香が、何らかの薬物であることは明らかだった。

 音がした。生肉をぶつけるような、粘り気のある液体を練るような音だった。

 男がいた。

 女がいた。

 男たちは言わずもがな、好んで暴力に淫する野卑な風貌である。

 女たちのほとんどは、手足がなかった。

 ある者には肘と膝の辺りから切断された手足の断面に、ひづめのような金属が埋め込まれていた。彼女はまるでそれ以外の言葉を禁じられたように『ぶう、ぶう』と言いながら、四つん這いになって男の股座またぐらに頭を突っ込んでいる。

 ある者は、喉の辺りに手術痕があった。彼女は無茶な体位で腰から手羽先を解体するような音がしても、悲鳴を上げなかった。ひゅうひゅうと、息が漏れるだけだった。

 ある者は、眼球がなかった。男が彼女の眼孔に目がけて腰を突き込むと、部屋に充満した薬物の影響か、それとも脳をかき回された肉体の反射運動か、彼女は表情をだらりと弛緩させた。それは破滅的な官能の表れにも見えた。

 鏡はあまりの恐ろしさに、ありとあらゆる反応を取れずにいた。

 泣き出しそうだったし、吐きそうだった。しかし、そのどれもが鏡の表面に浮上する直前で、ことごとく死んでいった。

 遠く離れた場所からぼんやりと思考を弄んでいた。そうしなければ、鏡の心が壊されてしまいそうだった。目の前の女たちのように。

 この部屋にあるのは、人の想像力の臨界点だ。人は欲望のために、どこまで残虐になれるのか。何を思いつくことが出来、何を実行することが出来るのか。その答えだ。

 自然発生するものではない、誰に強制されたものでもない、人が己の意思で作り出したカルマだ。

 見るだけでも目が潰れてしまいそうだった。

 ここにいるだけでも罪深い気持ちで、いっそ死んでしまいたかった。殺されることで、赦されるような気がした。

 自分がしたことでなくても、理屈を超えた共感があった。犯される女たちも、そして犯している男たちでさえも、自分と同じ人間で、同じ言葉を使って同じものを食べ同じ空気を吸って同じ社会の中で生きているからだ。自分と彼らを隔てているものが、ただのちょっとした偶然のめぐり合わせでしかないことを、鏡は直感的に悟っていた。彼女たちの苦痛は鏡の苦痛であり、彼らの卑しさは鏡の卑しさであった。時間も場所も、隔てるものすべてを貫いた業が、鏡の細い肩に一気にのしかかってきたのだった。

「ひっ、ひっ」

 鏡の喉が、意味のない痙攣を起こしていた。しゃっくりのような声が、両手の隙間から漏れる。

 修一郎が醜悪な交わりを続ける男たちの一人に、声をかけた。

「お楽しみいただけましたかね」

 声をかけられた男が女の口から性器を抜くと、彼女は気を失ったのかだらりと床に倒れ込んだ。鼻から逆流した白いものがこぼれ、頬にはちぢれた陰毛が貼りついている。

「まあまあだな」

 そう言うと、男は耳の裏からあごの下にまで繋がる長い傷跡を弄った。

「それでは」

「ああ、これでお互い手打ちだ」

 彼らの間で何らかの取り引きがあったようだった。セックスは取り引きのための土産ということだった。二つの組織があって、彼らはその中でも重要なポストについているのかもしれない。しかし、それらはあくまで推測にすぎない。

 確かなのは、目の前の汚辱の光景が彼らにとってはビジネスの延長線上でしかなく、また、日常であるということだった。この性犯罪は組織的なものであり、個人ではどうにもならない、この建物が当たり前のように街の中にあることを考えれば、社会レベルの根深い悪なのだと思えた。

 傷のある男は、ちらりと鏡を一瞥した。

 鏡は自分がこの部屋の群れに加わることを想像して、わなないた。傷の男は、鏡のこともとして見ていた。

「その女は?」

「奴隷じゃありませんよ。まだ、ね」

 明らかに鏡に聞かせるための言葉であった。

 暴力や恐怖は彼らの商売道具である。つまり、怯えさせているということは、鏡から何らかの譲歩を引き出そうとしていることに他ならない。

 鏡は怯えきっていたが、同時に光明を見出してもいた。

 二言三言かわすと、修一郎は更に奥の扉へ向かった。この部屋は通路としての役割も持つらしい。二の腕に再び抵抗の意思をくじく力が加わり、鏡はそれに従った。

 あまり煙を吸わないようにしていたとはいえ、まったく影響を受けずにいられたわけでもない。鏡は眩暈を振り払うように軽く頭を振ったつもりだったが、自分で思っていた以上に重たくなった頭が落っこちるように、ぐるりと回った。

「あ、れ?」

 苛立ったように、ネコ科の男が鏡を無理やり立たせる。

 交渉の場に立ったら、窓を破ってでも逃げ出すつもりでいた鏡だが、それすら難しいことを知った。

 あの部屋は、接待の場であり、敵に恐怖を与え、同時に判断/運動能力を奪うための場であることがわかった。機能的かつ組織的、一個の社会の歯車として完全に作動している暴力だった。

 ならば、その先にあるものは何なのか。知りたくない。知らずに帰りたい。

 鏡の望みを踏みにじるような無慈悲さで、扉は開かれた。


 酸鼻を極めた光景が、そこにあった。

 ヤクザ、マフィア、暴力団、何と言ってもいいが、組織的な暴力を振るう者たちにとって、暴力のための暴力というものは意外に少ない。あくまで、暴力は彼らの扱う商品である。示威行為のためにひけらかすことはあっても、誰も見ていない場所や、脅しても旨みのない相手に対して暴力が用いられることは稀だ。

 しかし、そんな定石を完全に無視した残酷さが、奥の部屋では展開されていた。

 トイレかシャワールームを改造したようなタイル張りの床には、血の水滴が散りばめられている。

 金属製の器具が壁にびっしりと配置されていた。それらはいずれも、使い込まれた実績を誇るように血の錆が浮いている。壁には他にも革のベルトや、部屋の中央に吊り下げられた鎖を巻き取るためのハンドルなどがある。それらは、人間に苦痛を与えるというただ一点のために、ひたすら機能的であった。

 ゴムのエプロンに長靴を履いた男がいる。マグロを解体するような格好である。鏡たちには背を向けていて、顔は見えない。空調などなく、よどんだ臭気も相まって物凄い暑さなのだが、男は上機嫌で鼻歌まで歌っている。熱中のあまり、こちらに気付いた風もない。

 くちゅ、くちゅ、という柔らかい物を弄る音が聞こえる。

 歯医者にあるような椅子を悪意で歪めたようなものに、人がくくりつけられている。ゴムエプロンの男の陰になってほとんど姿見えないが、全裸のようだ。くちゅ、くちゅという音が鳴る度に、生っ白い毛脛が革ベルトの下で痙攣する。

「レオ兄ちゃん、連れて来たよ」

 鏡の腕をつかんだまま、ネコ科の男が言うと、ゴムエプロンの男は振り向いた。

「早かったな、アストラ。もう少しゆっくりでもよかったのに」

 ゴムエプロンの男の顔は、鏡の隣の男と寸分違わぬ、ネコ科の猛獣めいたものだった。区別の材料としては、ゴムエプロンをした方の頬には真新しい血と、白っぽい何かがこびりついていることくらいか。恐らく双子だろう、と鏡は見当をつけた。そして、だから何だ、とも思う。

「では、この件はお前ら獅子村兄弟に、引き続き任せる」

「あ~い」

 修一郎の言葉に、兄の方がおちゃらけた風に勢いよく敬礼をした。ゴム手袋に付いたやけに明るい色の血が飛び散って、鏡の眼鏡と弟のアロハシャツを汚した。

「ちょっと~」

「わ~りぃ」

 血の付いたシャツを指して弟が文句を言うと、兄はまるで悪びれた風もなく舌を出す。ふざけた調子でゲラゲラと兄弟は笑い合った。その顔は虎やライオンが牙を剥く様子にも似ていたが、同時に人間以外の生き物では絶対に真似出来ない悪意に満ち溢れていた。

 不思議なことに、修一郎の白いスーツには、血が一滴も付いていない。鏡がさっき見た時よりも、立っている場所が半歩下がっているようだった。

「では」

 あっさりと、修一郎は元来た扉を開けて出て行った。鏡はすがるようにそれを見送ったが、腕にかかった力が緩むことはなかった。

 今いる拷問部屋には窓はなく、扉も元来た一つしかなかった。

 息が詰まるようだった。

「んじゃ、少しお話しよっか」

 獅子村兄はそう言うと、使器具が乗った台の下からパイプ椅子を取り出して、鏡に勧めた。

 少し獅子村兄が動いたせいで、拷問を受けていた人間の全身があらわになった。

 そして、鏡はそれを見てしまった。

「ひ」

 手足の爪はすべて剥がされ、その上からで指を潰されている。

 太ももは鞭打ちと焼きごての跡が半々である。

 露出した性器には、針山のように虫ピンが大量に刺され、萎縮しきっている。陰嚢の皮が悪趣味なオブジェのように椅子に縫い付けられ、展翅されていた。

 細い手足と比べて不自然に膨らんだ腹は、餓鬼のようだ。水責めの跡である。

 乳首は何らかの薬品で溶かされ、筋肉どころか、薄い胸板の下にある真珠のような胸骨が露出していた。

 顔は頬肉が切り取られ、綺麗に並んだ歯が剥き出しになっている。右目は焼き魚のように白濁して、もう何も映さない。

 そして極め付きには、額に開いた穴である。それほど大きな穴ではないが、どろりとこぼれ出した液体が、穴が脳にまで達していることを物語っていた。その穴には蟹の身をほじるようなスプーンが、無造作に突っ込まれている。

 ありとあらゆる、陵辱があった。

「そいつね、ウケるでしょ。どんなに拷問してもなーんにも言わないから、ちょっとはしゃぎすぎちゃったよね」

 恐ろしいことに、彼はまだ生きていた。

 そして、

「ゆ、由良、さん」

「ああ、そういう名前らしいね」

 拷問を受けている男は由良だった。

「最初の方に、図書館とか何とか言ってからは、何にも反応しなくなっちゃったんだよね。んで、痛覚を切る手段でも持ってるのかなーって思って。神経じゃなくて脳の方から弄ってみたら何か変わるかな、って考えたわけよ。でもねー、ほじった脳みそ食べさせてみてもノーリアクション。全然駄目だね」

 獅子村レオの言葉が素通りしていく。

 鏡は琴音のためになら、どんな恐怖にでも立ち向かうつもりでいた。しかし、それは全部嘘っぱちだった。本当に試されたことのない人間が、吹いているだけのことだった。

 愛も、決意も、ただの吹き荒れる暴力の前では無意味であることを悟った。

 鏡は不思議だった。

 

 自分にとって大切なものでも、彼らにはいともたやすく壊せてしまうのだ。

 誰かにとって意味のあるものでも、他の人間の手に渡れば簡単にその価値を失う。

 まったく理解の及ばない他人がこの世にいることを、鏡は知った。

 共感の無意味さ/共同体の脆さ/言葉の有限性。全部ひっくるめて、鏡は自分が原始の時代に立っていることを感じた。生まれてから今日この今まで、孤独の真空の中で生きていたのに、そんな当たり前のことを忘れていたのだった。

 そして、鏡は自分が由良のことを想像以上に大切に思っていたことに、ショックを受けていた。

 いけ好かない奴だった。灰川や事件が絡まないと、ずぼらで忘れっぽく、ドジでのろまで、不細工な男だった。卑屈なのに傲慢で、何もしないで誰かから許されることを待っている、意地汚い奴だった。

 でも、こんな目に遭っても良いような奴じゃあなかった。そう思う気持ちが、目の前の彼らにとっては無意味なものなのだ。

 鏡にはそれがどうしようもなく、悲しい。自分の価値観が通用しないのが、悔しくて仕方ない。

「……ちくしょう」

 声は、歯が軋る音に巻き込まれて消えた。奥歯が砕けるほどに、鏡は力を込めていた。

 獅子村兄弟は、鏡の心象をまったく汲むことはなく、続けた。相変わらず鏡の腕をつかんだままの弟と、対面に座った兄が交互に話しかけてくる。

「でね、俺たちが知りたいのは、八幡琴音のことなんだよね」

「そーそー。ウチの下っ端からタレコミがあってね。あいつらがボコられた仕返しなんかどうでもいいんだけど、何でもヤろうとした女がやたら美人なんだって?」

 この兄弟は琴音を知らない?

 騙されたとは思っていたが、最初っから最後まで嘘だったということになる。

 由良がここにいるということは、今、琴音は誰にも守られていないのか?

 拷問への恐怖とは違う理由から、鏡は酷く狼狽した。

「ちょっとカワイイくらいじゃあ、別にいくらでもいるんだけどさ、何かスゴいらしいじゃん?」

「眉唾だけどねー」

「でもー、大将が裏ァ取ってさらえって言うからにはマジっぽいし、さらうべえってことになったわけよ」

 大将、とは八幡修一郎のことだろう。確かに、彼なら琴音の情報を持っている。その身体の味も。

「おいおいアストラぁ、そりゃ秘密だったんじゃねえの?」

「やっべえ、レオ兄ちゃんどうしよう?」

 あからさまな茶番だった。彼らの身内では定番のジョークなのだろう、堂に入った下らなさだった。もちろん、鏡にとっては笑えない。

「そりゃあお前、口封じするしかねえじゃないの」

「そっかあ、やっぱ兄ちゃんは頭良いなあ~」

「ったり前よォ」

「つーわけで、ドンマイお嬢ちゃん」

「どーせ死ぬけど、情報くれたら楽に死ねるよ~ん」

「あっ、そんなのわかってたら絶対言うわけないって思ったッショ?」

「大丈夫、俺ちゃんの拷問は『何でもするから死なせてくれ』って言いたくなるから」

「そーだぞ。レオ兄ちゃんは天才なんだ。カニ味噌君みたいなのは例外だからなあ」

「黙っとけ!」

「ごめん、兄ちゃん」

 あまりのことに、鏡は反射的に舌を噛み切ろうとした。

 歯が舌に触れる前に、弟の方がすごい速さで口に手を突っ込んできた。指ごと噛み切ってしまいたかったが、喉奥を突かれてむせてしまう。

「かっ、かっ!」

「駄目駄目、死ねないよ。自分の命を自分のものだと思っている内は、拷問の何たるかをわかってないね~」

 アストラはそのまま鏡の口に猿轡を噛ませた。それは由良の血と脳漿を適当に拭った布だった。酷く生臭いにおいで吐きそうになったが、それすら出来なかった。

 拷問の本質とは、生き物が当たり前に持つ己への尊厳すら奪うことにある。鏡は、それを理解しつつあった。

「ま、知らないことはこれからゆっくり学んでいけばいいよね」

「そうそう。人間は常により良くなるチャンスを持っているんだから」

 頭の中で、血の気が引いていく音が聞こえる。

 鏡がこの世の全てを呪った時、カチ、カチと硬質な音がした。

 最初、鏡は自分が震えているせいで鳴った音だと思った。しかし、獅子村兄弟は鏡の方を向いていない。

 音の発生源は由良であった。

 頬の肉が切り取られているせいで、呼気が漏れている。彼が口を開けると、舌にびっしりと金属製のピアスが着けられているのが見えた。適当な処置であるために、ピアス穴からは血が滴り、口を動かすたびに白い歯をぬめる赤が汚した。由良は何かを言おうとしていたのだが、重すぎる拷問がその力を奪っていた。

「なになに~? ボソボソ言ってないでハキハキ喋れよ、なあ?」

 自分の仕事が天職であると信じて疑わない様子で、獅子村兄は由良に顔を近づけた。口調とは裏腹に、由良が必死の力を振り絞って噛みつこうとしても避けられる距離を保っていた。自分の能力を知り、それを用いることの喜びを知り、才能と鍛錬の結果が今を作っている人間特有の自信に満ちた振る舞いだった。彼は、ある意味でプロフェッショナルだった。

 由良の前歯とピアスが当たり、風鈴のような音が鳴る。

 ちりちり、ちり。

「……話……ぅ……、らから……ぁ、そい、つぃは、手を……出ぁらいでくぇ……」

 由良の必死の懇願を、獅子村兄弟は嘲笑った。拷問を施す相手のお涙ちょうだいは、彼らにとって何の意味も持たない、見慣れたものである。

「ははは、それ無理」

「だろうなあ」

 由良の声の調子が、がらりと変わった。

 それに驚くよりも早く、由良の首の骨がごきゅり、と嫌な音を立てて伸び、獅子村レオの鼻を噛み千切っていた。

 当たらないはずの位置にいたのに受けた攻撃、顔の一部を欠損するというダメージにもかかわらず、レオに動揺は見られなかった。台からメスを引き寄せ、抜き打ちに放った。

 三本のメスは、一本が由良の喉に当たり、一本が由良の鎖骨に弾かれ、一本が空を切って後ろの壁にぶつかった。

 外れたメスが床のタイルに落ちるよりも早く、由良は拘束を解いていた。全身から骨が変形した刃が飛び出している。

 アストラも兄と同様に、暴力の信望者である証を立てた。目の前の異形に対し、考えることをしなかったのだ。思考で動きを鈍らせる代わりに、鏡の身体を盾にするように由良に投げつけた。

 由良が鏡を抱きとめた時には、既にアストラはパイプ椅子を武器として振りかぶっている。

「ぜやっ」

 鏡の頭ごと叩き潰す勢いで、鈍器が振り下ろされた。

「ポウッ」

 由良の口から破裂するような音がしたかと思うと、アストラのパイプ椅子は軌道を逸れてタイルを打った。

 鏡が見ると、アストラの眼窩には黒い穴が開き、それは後頭部にまで達している。彼の後ろの壁には、光るものがあった。血にまみれたピアスである。由良が自身の舌から噛み千切り、吹いたものがアストラの眼球から脳を貫通、コンクリートの壁にまでめり込んだのだ。

 弟が死んでも、レオは視線を逸らさなかった。隙はなかったが、人ではないものに対しては無意味であった。レオ自身もそれを理解しているために、垂れた冷や汗をぬぐうことも出来なかった。これまで彼を生かしてきた暴力が、彼に牙を剥く瞬間が迫っていた。

「おたくらみたいなの、本当に好きさ。世界中みんな、おたくらみたいになればいいと思う時もあるよ」

 時折ピアスと歯が当たる硬い音を立てながらも、それでもしっかりとした口調で由良は言う。それは、頑強な顎を鳴らす蟲にも似ていた。

 レオは無言である。逃げる機を狙っているのだろうが、拷問部屋として出入り口を絞ったのが裏目に出ているのだった。

「おたくらみたいな人間は、ほら、殺すのに罪悪感がなくて良い。中々いないんだよ、本当のゲス野郎って」

「ばふー、ばふー」

 鼻が削がれたせいで、獅子村の呼吸音はおかしなものになっていた。口に血泡が逆流して、息を吸うだけで苦しそうである。しかし、由良はそれを見ても、何とも思わないようだった。

「獅子村ってのは偽名だ。おおかた、喰う側のつもりでいたんだろうが、結局はただのししむらだったな」

 ネコ科の表情が焦りと憤怒、それらが混ざった苦悶に歪んだ。

「言っでろ゛っ!」

 レオは拷問器具がたくさん載った台をひっくり返して視界をふさぎ、その隙にエプロンの裏に隠した銃に手をかけた。兄弟らしく、追い詰められた時に取る行動は似ていた。結果が無駄に終わることまでも。

「ぎっ」

 ねじれた手首があらぬ方向を向き、銃弾は天井に当たった。由良の肘が獅子村レオの頭部を粉砕し、血霧に変えた。

 鏡は腰が抜けて立てない。ズボンの尻が獅子村兄弟の体液で汚れているのが、酷く不快だった。

 そんな鏡の目の前で、由良はズタズタだった身体を修復させていった。内側から盛り上がった肉で針が抜け落ち、スイカの種のようにピアスを吐き捨てた。

「琴音はどうしたの?」

 由良は心配する前に、事務的に聞いた。何故、お前はこんな場所にいるのか、と。混乱しきった鏡には、それがかえってありがたかった。自分の為すべき指標を思い出すことが出来たのだ。

 鏡は修一郎に騙されて拉致されたことを、由良に話した。

 そして、三ヶ月分の記憶がないこと、琴音の居場所を知らないこと、拷問部屋に来るまでに見たおぞましい所業。話し出すと止まらなかった。今すべきことではないのかもしれなかったが、そのどれもが、何らかの意味を持っているような気がした。

「まず最初に、僕がここにいたのは琴音のためじゃない。別件だ。そしてお前が傍にいなかったせいで、琴音は今、さらわれてる可能性が高い」

 それはあなたが電話に出てくれなかったから、そんな言い訳を鏡は言いかけたが、口をつぐんだ。働いていたのは由良だし、あんな拷問を受けている間に電話に出ろなんて言えるはずがなかった。鏡は己の愚かさをひたすらに呪った。

 由良は裸のまま、拷問室を出た。鏡はそれについていく。

「服は調達しないんですか」

「今着ても、すぐ駄目になる」

 その言葉の意味を、鏡はすぐに知ることになる。

 扉を開けると、煙の中でまぐわい続ける男女たちが、こちらを見た。男たちの眼には、たかぶりに水をかけられた不快感があった。女たちの眼には、何も映っていない。薬物の効果で濁りきった頭では何も考えられず、ただ音に反応しただけだった。

 由良は、男たちを殺した。圧倒的な暴力で女を屈服させたように見えていた彼らは、あっという間にただのぶよぶよした肉の塊になった。彼らは死の瞬間に至るまで、自分を征服者だと信じて疑わなかったのだろう。その証拠に、首から上がなくなっても射精している者もいた。

「うわっ。初めて見たけど、女の人ってこうなってるのか。内臓感がエッグいな」

 由良が口にするのは、すべての無意味を知っている人間の言葉だった。

 上に乗った男が倒れても、女は動かなかった。これからも死ぬまで続いていくと思っていた陵辱が終わったことに対して、思考が追いつかないのだった。

「この人たちは、どうするんですか?」

「警察に任せよう」

「どうにか、どうにか助けられないんですか……」

「切られた手は生えてこないし、薬が抜けるかも五分五分だろう。僕にはどうにも出来ないから、警察や医者に任せる」

「……仕方ないことなんですよね?」

「そう思った方が楽なら、そうすべきだ」

 警察を呼ぼうとする鏡を、由良は『まだ、することがある』と止めた。

 そして、由良はすべての命に平等に理不尽な、死の権化と化した。

 建物の隅から隅まで駆け回り、人を殺していった。鏡はそれに付き従った。人が死ぬのは見たくなかったが、眼を逸らすことも出来なかった。

「レオとアストラってのもわかりやすい偽名だ。それを聞けば、二人兄弟だって勝手に思い込むしな」

「何ですか、それ?」

「昔の特撮だよ。だが実際には奴らは三人兄弟だ。わかりやすい顔にわかりやすい偽名で、三人目を隠したんだ。最近、僕らが今いるヤクザの伊勢組と、新興アジアンマフィアの香清会がある。さっきヤリ部屋で殺したのは、香清会の下っ端だ。拷問室に来る時に、耳の裏とかあごの辺りに傷がある奴がいなかったか?」

「いました」

「雑な手術だ。壊すのは上手くても、整えるのは下手なんだな。それが獅子村兄弟の三人目だ。奴は香清会に潜入したスパイだ。あるいは二重スパイか。どっちにしろ、あの兄弟は自分たちのためだけに動いていて、組なんてどうでもいいのかもな。表向きには抗争などないことになっているが、二つの暴力団は水面下で縄張り争いをしている。人身売買や売春の強要による売り上げは、それの役に立つだろう。琴音は良い稼ぎ頭になるはずだ」

 さっきの部屋には、既に傷のある男はいなかった。

「三人目が、香清会に琴音の情報を持ち帰ったということですか」

「うん」

 ──琴音に値段なんて付けさせやしない。

 義務感が鏡を焦らせた。

「急がないと」

「急いでも、さらわれるのはもう防げない。それに、僕はここに別件でいると言っただろう」

 ある者は逃げ、ある者は由良に立ちふさがった。由良はそれら一切を、意に介した風もなかった。

 由良が腕を振ると鞭のような何かが伸びて、目の前の男の頭の上半分を切り飛ばした。髪が付いたままの頭蓋骨は、フリスビーのように壁にぶつかって落ちた。よく見ると、由良の前腕が縦に割れて、カマキリの前脚のように変形した橈骨とうこつ尺骨しゃっこつがのぞいていた。

 足元に飛び散るゆでたうどん玉のような脳髄を見ながら、鏡は考える。

 由良が人間ではないのはわかっていたが、獅子村兄弟が振るう暴力と、由良が振るう暴力にどれほどの違いがあるのか、鏡にはわからなくなっていた。鏡には、目の前で人を殺す由良のことが、不思議と嫌いになれない。違いがないのに、区別をしている。馬鹿馬鹿しいことだ。意味のないことだ。血のにおいに、ただ麻痺しているだけじゃないのか、とも思う。

 ほんの些細なきっかけで、今殺す側にも殺される側にも回ることがあるんじゃないかと思う。それは例えば、生まれた環境だったり、顔が良く生まれついただとか、運が良かっただとか、勉強が出来るとか、運動が得意だとか、その逆だとか、風が吹いたとか、ネットにかかったテニスのボールがどちらのコートに落ちたとか、本当にいろいろな要素が組み合わさって『今』が形成されていて、どれが欠けても成らないものなのだ。そして、『今』が存在するからには、もう『もしも』はないのだ。

 鏡は偶然、今、由良の隣にいる。それがすべてなのだ。もしも、はない。

 唯物の世界は一方向に流れる時間に規定されているが、人の思考は時に因果律を無視することがある。

 息を吸うと、鉄棒を鼻にねじ込まれたような、濃い血のにおいがした。それこそが、鏡が今ここにいることの結果であり、そして逆転した理由であった。

 あらかた殺し尽くした由良は、皮膚を盛り上げて服を形成した。返り血は急速に乾燥して、パリパリと剥がれ落ちた。散り散りになって逃げていく戮殺を免れた人間たちを、由良は追わなかった。

 そして、一度も触れなかった扉に手をかけた。

 部屋の中には、女が数人いた。年齢はバラバラだったが、一様に表情は暗く、怯えた様子である。その中に、鏡は見知った顔がいることに気付いた。

「中禅寺さん? どうしてこんなところに」

 中禅寺久美子、地味子とあだ名される由良と鏡に共通のクラスメイトである。

「かっ、鏡さん……わた、私っ……っ……ふええぇ……」

 気が緩んだのか、中禅寺は顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまった。

 それが感染したように、周りの女性たちも泣き始める。適当に泣かせたまま、由良は建物の外に彼女たちを誘導した。殺戮の中でも彼は血や肉が散乱していないルートを残しておいたため、無用の混乱は避けられたのである。

「今から警察を呼びますが、自分で帰れる人は帰った方が良いと思います。ヤクザの事務所で抗争に巻き込まれたなんて知ったら、家族が悲しむでしょう」

 由良が言うと、一人を除いて全員が納得したような顔になった。皆、騙されて連れて来られたのだ。なかったことに出来るのなら、そうしたいのだろう。

「私、帰る場所、ない」

 唯一泣かなかった女の子が言った。暗い表情を変えない少女は、他の女性たちよりも一回り幼い。鏡は反射的に、琴音を思い出した。

「じゃあ、孤児院を紹介しよう」

「嫌。行かない」

「信頼できる人が経営してる。おたくが元いた場所みたいな虐待はないよ」

 少女は目を見開いた。きっと由良の言ったことが当たっていたのだろう。

「どう、して」

 暴力は受けた側からしか、その本質は語ることが出来ない。ならば、由良も彼女たちと同じ痛みを受けたことがあるのだろうか。由良はその類稀なる感受性で、少女の表に出ない傷跡を見抜いた。

 優れた自己投影能力による共感と、共感の無意味さを体現する暴力。矛盾した両極を内包する由良は、多くを語らなかった。

「僕は、なんだ」

 少女はその言葉を、かえって胡散臭いものと取ったようだった。

「……ほっといて」

「わかった」

 それきりだった。由良は興味を失くしたように、少女に背を向けた。

「携帯貸してよ。警察に通報するから」

「それより、あの子は良いんですか?」

「良くはないけど、僕がどうこう出来るもんでもないだろ」

「子供を導くのは大人の役割です」

「大人って歳でもないし、その大人があの子を傷つけたんだ。他人の人生を安請け合いすることが偉いわけじゃない」

 有限性が鏡たちのすべてを規定していた。何が出来るかではなく、何が出来ないかが重要なのだ。

 何も言うことが出来なかった。それどころか、鏡は振り返ることも出来なかった。少女がどんな目で自分たちを見ているのかと思うと、恐ろしかった。

 じきにここには通報を受けた警察が来る。達磨にされた女たちは保護されるだろう。死に損ねた暴力団員も、その内に捕まるだろう。少女も、運が良ければ帰るべき場所を見つけられるだろう。そう思うことでしか、自分を許せなかった。

 大丈夫大丈夫。きっとこれからもっとずっと、良くなっていく。私たちの業は、清められていくんだ。

 虚ろなおまじないモージョー。自分自身に何もないことを否定するための行為が、かえって虚無を加速させていることを、鏡はわざと無視した。

 帰る道すがら、中禅寺が暴力団の事務所にいた理由を聞いた。

 最近、中禅寺は恋人の熊谷とすれ違っている感覚がぬぐえずにいた。実際、会う時間も減っていたらしい。浮気のことも考えたが、確証はなかった。

 何にせよ、再び上手くやっていくために、中禅寺は熊谷に何かプレゼントをしようと思い、アルバイトを探していた。

「それで騙されて、あんな場所にまで来ちゃったんですか」

「接客は苦手だから、掃除のお仕事なら出来ると思ってたんだけど、受かってから説明された話だと全然違う内容で、嫌ですって言ったんだけど、履歴書に住所も電話番号も書いてあるから、脅されて、それで、熊谷君のこともあの人たち知ってて、私どうしていいかわからなくって……」

 所々飛び飛びになる話を聞きながら、鏡は『確かにこの子は騙されやすそうだなあ』と思った。由良が助けに来たのは、本当にギリギリの場面だったらしい。

 今回飛び回った由良はというと、

「賢者の贈り物だねえ」

 と言った。

「熊谷が最近そっけなく見えたのは、おたくとデートする資金を貯めるためにバイトしてたからだよ。二人してもうちょい思慮が足りていれば、面倒も起きなかったのに」

「賢者の贈り物って、そういうヒネた教訓話じゃなかったと思いますけど」

 鏡は呆れたような調子で口を挟んだ。

「じゃ、じゃあ、由良君が助けに来てくれたのって……?」

「熊谷に頼まれたんだ。地味子が心配だから、見てきてくれって」

「……ありがとう」

 由良はヒラヒラと手を振るばかりだった。やっぱりひねくれている、と鏡は思った。

 運良く無傷だった女性たちと別れ、中禅寺も見送ると、由良は再びぼーっとした表情になった。それを見た鏡は、由良がまた人を殺すことを悟った。

「琴音ちゃんをさらった組織に行くんですか」

「うん」

「人を、殺すんですか」

「うん」

「もっと、上手い方法はないんですか」

「善も悪も、ただの言葉だ。僕たちは原始の時代に生きている。もっと賢ければ抜け道を探すことも出来るんだろうけど、さらう奴らと同じくらいには僕も愚かだ。だから、踊り続けるスクランブルしかないんだ」

 鏡はまだ何かを言おうとしたが、まばたきをしている間に、由良は既に消えていた。

 しばらく鏡はその場にじっと立ち尽くしていた。

 熱気を孕んだ夏の風が、何故か酷く寒々しく感じた。

 ただの言葉が、そして鏡自身の有限性が、そうすることしか許さなかったのだ。


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