第6話 サニー・サイド・アップ/ターン・オーバー(3)

   *


『????』

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 琴音ちゃんが風邪を引いた。

 看病のために学校を休む。

 由良がお粥を作った。余ったのを大根の葉っぱをゴマ油で炒めたやつで食べた。貧乏くさいが、美味い。


 寝付くまで、絵本を読んであげた。

 琴音ちゃんは、昔話の類が好きらしい。楽しい話ばかりではなく、妖怪が出てくるような民話も好んだ。

 今日読んだのは、の話だった。

 さとりは山の中に現れる毛むくじゃらの妖怪で、人の心を読むことが出来る。

 その話は、さとりは出会った狩人の心を言い当ててみせるが、偶然跳ねた焚き木が目に入ってほうほうの体で逃げ帰る──という結末だった。狩人も予想出来なかったことであるため、さとりは焚き木が跳ねることを読めなかったのだ。

「可哀想」

 最後まで話を聞くと、琴音はそう言った。

「誰が?」

「さとりが」

 少し意外な感想だった。

「でも、妖怪よ?」

「何にも悪いことしてないのに。それに、さとりって由良お兄ちゃんに似てるから」

「確かに、由良さんはたまに人の心を見透かしたことを言うからね」

 灰川や由良は、感情を人という道具に付与された機能の一つだと考えている節がある。理解は出来ても、納得は出来ない類のことだった。傲慢だった。あるいは、そう考える自分たちが安全な愚かさの中から出たがらないだけかもしれなかったが、認めたくはなかった。

「ご飯食べてる時とかね、私が取ろうとしているものを、スッて出してくれるの」

 へえ、と思う。

 その手の気遣いが出来る人間だとは、知らなかった。

 少し、彼を見直した。

「じゃあ、琴音ちゃんはさとりに会ったら優しくしてあげようね」

「うん!」

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 琴音ちゃんがリコーダーを吹くと、近所の猫や小鳥たちが寄ってくるせいで、餌付けをしていると思われ、苦情を受けた。

 時間や人の目を気にしてやる必要がある。

 由良が寝ていたせいで、私が応対することになった。彼は一日八時間以上寝ないと駄目らしく、リコーダーの練習をしても目を覚まさなかった。体質とは言え、とことん社会性がない。

 そういえば、集まった生き物の中にあのツバメも来ていた。

 鳥の表情などわからないが、ツバメは琴音を保護者のように見守っているように思えた。

 普段なら一笑に付す考えだが、この時は何故か頼もしく思えた。

 琴音の味方になるものは、少しでも多い方が良い。

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 僕には理屈っぽいオタクがそうするように、自分の好きなものを見ると、徹底的にバラバラにして中身を除きたがる癖があった。

 魅力的な物語の主人公は何故魅力的なのか。僕は僕なりに答えらしきものを持っている。

 ──例えば、滅びに瀕している世界がある。それを止めるには美少女を生け贄に捧げる必要がある。何だかんだあって美少女と親しくなった主人公は、美少女を助けてその上で世界を救うために尽力し、悪と戦うことになる。

 よくあるストーリーの類型。僕はこれを良いとも悪いとも思わないし、陳腐だと腐すつもりもない。

 問題になるのは、主人公の行動原理が(巧妙に隠蔽されてはいるけれども)まったくのエゴから生じるものであり、彼の興味の対象以外への恐るべき空っぽさだ。

 ストーリーの展開上仕方のないこととは言え、この場合は美少女を生け贄に捧げることで世界を救おうとしている悪役の気持ちや都合を、清々しいまでに無視している。そればかりか、主人公が失敗して世界が滅んだとしても、彼は何の責任も取れないし、取らないだろう。何故なら、それらは彼のエゴの対象外だから。

 しかし、これらの傲慢さが断罪されることはない。読者もそれを受け入れる。読者は物語を読み進めるうちに主人公に感情移入し、目的意識を共有しているためだ。つまり、ここに一種の共犯関係が生まれるのだ。

 この関係性の構築に失敗すると、『主人公に感情移入出来ない』『キャラクターの練り込みが甘い』という風に批判され、作中で主人公が目的を達成しても、メタ的な視点で見ると売れない(商業的な失敗)、誰にも読まれずに人の心に残らない(作品としての価値の喪失)といった敗北を抱えることになる。

 この図式を現実に当てはめてみると、主人公とは僕、つまりは社会の最小単位である個人だ。そして、読者とはもっと大きな意味での社会だ。メタ的な観点で関わってはいるものの改変するまでの干渉は出来ず、よしんば影響を与えたと思えるようなことがあってもそれすら飲み込んで成長していくような、大きな流れである。

 つまり、社会と広範な価値観の共有が出来ない個人は、多くのものを敵に回してしまうということになる。

 僕や虫々院は他と共有するものが極端に少ない。だから、社会からしてみれば僕らの行動が『悪』として受け取られることがある。

 一番不味いのは、と思えてしまうことだ。

 孤独に耐えられてしまうというのは、危険なことだ。

 わかっている。

 理解はしていても、納得してやる気にはなれない。

 僕と虫々院は似ている。

 だから、わかる。

 僕も奴も、とことんまでやらないことにはいられないのだ。そうすることが、自分であるということなのだから。

 己の全存在を懸けて、欲するものを奪い合うことでしか、自己の存在を満たせないのだ。

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 夏になった。

 灰川は帰ってこない。

 琴音の歌には一向に歌詞が付かない。

 アニマルセラピーの一種として機能はしているのだろうけれど、琴音が歌を聞かせているあのツバメは僕を嫌な目でにらむ。動物にもスケベ心を抱かせているのなら、やはり末恐ろしいことだ。そして、彼女自身にとってはきっと不幸なことだ。

 つまりは僕らを取り巻く環境のすべては、悪い意味での現状維持でしかなかった。

 変われない人の愚かさと変わってしまう無常の悲しさを天秤にかけて、まだ早いとは思いながらも琴音を外に連れ出すことにした。

 ちょうど、夏祭りがやっていた。

 レンタルの浴衣を着せ、女児向けアニメのお面を着けさせた。

 少し歩いた先の、河川敷である。

 琴音は約八年ぶりの人混みに酷く怯えていたので、鏡の手をしっかりと握るように言った。

 お面の奥で僕と手を繋ぎたがっているのがわかった。が、

「こういうのは、おたくの仕事だ」

 と言って、鏡のほうに押しやった。依存の対象が変わっただけでは意味がないのだ。一連の流れを見ていた鏡はとても怒っていた。他人のために怒ることが出来るのは、人として正しいのだろうか。やはり僕にはわからない。

 しばらく一緒に暮らすうちにわかったことだが、琴音は小食である。祭りの出店で売っているような、脂っこいものはあまり好まない。そのことを伝えると、鏡はわたあめを買ってやっていた。こういう気遣いは、やはり女性の方が向いているように思う。

 わたあめを食べるために琴音が半分だけお面をずらすと、周囲が急に静かになった。

 目が見えないために距離感を間違え、小ぶりな鼻の頭が白い飴に埋もれる様子。

 よだれの玉が銀色になって、口を付けた場所にくっつく様子。

 ほどけた飴糸の一片が唇の端に付いて、それを追って小さな手でぬぐおうとする様子。

 何でもないはずのそれらの動作が、狂おしいほどに妖艶だった。

 琴音が汗をかいているのがわかった。

 人の情欲をかきたてる、狂おしい桃のような甘いにおいが発散された。

 そこにいた全員が、琴音を凝視していた。

 鏡の顔が羞恥に染まった。琴音が視線で犯されているのがわかったのだった。琴音に惹かれた彼らに悪気はなかったのだろうが、それでもその視線は暴力だった。改めて、琴音が盲目であることが幸運にも作用することを感じた。彼女が自分に向けられる目のすべてに反応していたら、今以上に酷く傷ついただろうから。

「向こうでゆっくり座って食べよう」

 そう言うと、鏡は意図を汲んでくれた。琴音を引っ張って早歩きを始める。

 遠くの祭囃子がやけに鮮明に聞こえた。それほどまでに、この場の多くの人たちが息を呑んでいたのだった。

 祭りの喧騒が周囲に戻ってくるまでの間、僕は考えていた。

 彼らの視線は確かに琴音を傷つけるものだった。だが、本当に彼らが悪い人間なのかというと、そんなことはないと思う。彼らは彼らの身内では、そこそこの善人なのだろう。ただ、たまたまこの場での行為が裏目に出たというだけで。

 あまりにも加害者が多すぎて、被害者の方が後ろめたいのなら、その罪を問うことに意味はあるのか。そして、勝ち目はあるのだろうかと。


 地域の祭りであるからには、同級生とも会う。そのほとんどが鏡の知り合いで、僕にはついで程度の挨拶ばかりだったが、珍しく僕に用がある相手もいた。

 風間と、その妹だった。

 正直、あまり会って嬉しいという相手ではなかった。

「由良か。13日と7時間42分30秒ぶりだな」

「……おう」

「冗談だ」

「あー、うん、まあ、人には、向き不向きがあるよな」

 僕は未だに風間こうという男のキャラクターがつかめないでいる。

 風間は、自分と自分の行為に独自の法則性を求めている男だった。そういう部分は僕にもある。ルールを持つ人種と付き合う上で重要なのは、お互いの大事なものには適度な距離を置いて、下手に触れようとしないこと。つまり、最低限の経緯を忘れなければいい。その点に関しては問題なかった。

 問題とは、彼が珍しく僕を侮りも嫌いもしていない人間だということである。むしろ、僕に好感を抱いているようだった。津田が灰川に弱みを握られて働かされているのに対し、風間は命令を嫌がる風もない。しかも、灰川ではなく僕個人に恩義を感じているのだった。

「久しぶりです」

「やあ、どうも」

 風間の妹の風間ゆうは、兄に輪をかけて僕を慕っている。

 彼女のクラスで、自分の商品価値を見誤った馬鹿な女が、売春(僕は援助交際という言葉を、品のない冗談だととらえている)をしていたことがあった。

 子供のやることだ。当然、相手の大人に出し抜かれることになる。住所や通う学校を知られ、女は無料でセックスを要求された。

 ここまでなら価格相場の変動でしかないのだが、強請った側の男の性欲は満たされなかった。女に同級生を売るように命令し、女は従った。無知と想像力のなさが、彼女から従う以外の選択肢を根こそぎ奪い尽くしたのだった。

 そして売られたのが風間優だった。風間優は女より少しだけ顔が良かった。女にも男にも、その『少し』が充分な理由になった。

 すべては簡単な話だった。

 同級生の女が風間優を街の人気がない場所におびき出し、男が大人の腕力に物を言わせて車に引きずり込む。その時、通りかかった僕が男を持っていた金属バットで滅多打ちにして、風間優を助けた。本当に簡単な話だ。

 それ以来、風間兄妹は過分に僕を評価している。チヤホヤされるのが気持ちよくて最初は受け入れていたが、次第に騙しているような気分になって否定するようになった。しかし言い聞かせようとした時にはもう手遅れで、そのために僕はこの二人には苦手意識を持っている。

「最近は中々会えませんでしたから」

 風間優は嬉しそうだった。

 その笑顔が、僕には荷が重い。

 僕は、おたくに見合うような男じゃないんだぜ──そう言いたかった。

「琴音を一人にはしておけないからな」

 体の良い言い訳も、見抜いているのか見抜いていないのか。どちらにせよ、風間優はニコニコとしたままである。

 会話の邪魔をしないように、鏡は琴音を連れてとっくにいる。鏡が風間巧のことを少なからず不気味に感じていたのを知っているので、当然だと思った。

「少し、歩きましょう」

「うん」

 この間、風間巧は無言である。彼は妹の影のように付き従った。

 人によっては威圧的に感じるだろうが、僕も特別お喋りな方ではないから、適度な沈黙を共通の話題にするのは嫌いではなかった。

 ごった返す人混みは色んなにおいが混ざり合っていて、ともすれば気持ち悪くなりそうでもあったが、雰囲気は総じて明るく、酒に酔っぱらうというのはこんな気分なのかな、と思った。

「穂波ちゃんも会いたがっていましたよ」

 津田穂波とは、僕を嫌う津田の妹である。風間優と彼女は、お互い同じクラスで親しくしている。そして、妹は灰川が握っている彼の弱みの一つだ。

 僕は灰川に、穂波と仲良くなるように命令されている。彼女が兄に僕と会った話をすれば、それだけで脅しになるのだった。その程度には津田は妹を大事にしていたし、僕は彼に何をしでかすかわからない男だと思われているのである。人間の相互理解の難しさを証明するエピソードだ。

「あー、そういや、らくがきせんべいって地域限定らしいぜ」

「聞いたことがあります。静岡と群馬くらいだとか」

 露骨な話題逸らしにも、嫌な顔一つしない。かえって僕の方が気まずくなる。

「……罪悪感ですか?」

「何?」

 あまりにも的確に僕の内心を見透かした風なことを言うから、驚いた。

「由良さんは、いつも点数稼ぎに追われていると。そうしなければ、自分に生きている価値がないみたいに思い込んでいる。そんなことを聞きました」

「誰に聞いたのかな」

「言えません」

「皇か」

「……」

 当たりだった。

 やはり、女は僕の人生と相性が悪い。寄って集って僕を見透かそうとしやがる。関わらずに済むのならそうしたい、なんて幼稚な考えを浮かべてしまうくらいには苦手だった。

「僕はね、時々『神の法』ってやつがあってくれたらなー、って思うんだ」

「法、ですか?」

「法律ってのはどうしても絶対じゃない。人の作ったものだからどうしようもなく穴が出来るし、そもそも倫理や善悪の基準なんてものは時代や地域の文化風習によって容易く変わってしまう。そんなものに自分を委ねるのは不安だ。だから、僕は神の法にあってほしいんだ。それに従えば絶対に幸せになれるという、揺るぎない基準がほしい」

「夢のような話ですね」

「無理なのはわかっているさ。自分こそは神の法に従っていると信じている人間は多い。そいつらのほとんどが自分にしか見えない夢にすがって、底なしの穴に身を投げているだけだってことも知っている。でも、理想がないなら生きている意味もないんだ。わかるだろう」

「ええ」

「だったら引き返せ。僕には正しさなんてものがどこにあるのかわからん。それでも、僕のやってることが決して正しくないことはわかる。僕は自分の罪悪感に耐えられないだけの小心者だ。助けられる時に助けられる相手を助けて、少し良い気分になりたかっただけだ。おたくに似た境遇の女の子が犯されて死ぬのを、黙って見過ごしたことだってある。ただの気分の問題なんだ。それに付き合う必要はない」

 僕が内心を人に話す時、それはフェアでないことへの罪悪感を抱いた時である。同時に、露悪的な人間が最初に自分の許容できる範囲での『底』を相手に提示することで、相手が自分について来られるかを試す習性があることを、僕は知っている。

 卑屈さと傲慢さが入り混じった、僕という人間の臨界点がそこにあった。

「由良さんは、私が思い上がっていると言いたいんでしょう。私が私だから、私という人間が助けるに値する特別な人間だから助けられたと、そんな風に思ってると誤解していますね?」

「誤解、ねえ」

「誤解ですよ。思い上がってるのは由良さん、あなたの方です」

 ほう、と思わず息が漏れた。

 思っていたよりも、この子はずっと、じゃないか。

「人と人との間には距離が要ります。相手の言い分ばかり聞くわけにはいかないから。誰にだって自分の都合があり、それを最も優先させるのが当然です。あなたは私が『偶然助けられたことを過大にありがたがってる』と思ってるようですが、それこそ思い上がりですよ。あなたが勝手に自分の都合で私を助けたように、私は私の都合で由良さんのことが好きなんです。あなたにとって私が偶然助けた中のどうでもいい一人だとしても、そんなことを斟酌してあげる気にはなりませんね」

「へえ、おたくは僕のことが好きなのか」

「そうですよ」

「……僕は君のこと、そうでもないぜ」

「知ってます」

 罪悪感が『いますぐ謝れ! 謝れ!』とうるさかったが、僕はこの強い女性を侮辱したくなかった。

「僕には灰川のことが、どうしたって一番大事なんだ。今も昔もずっと、何をするにも一等賞なんだよ」

「ええ、知ってます。皇さんとはそのことについての悪口で盛り上がりましたから」

 何て言うか、女ってのは、どうも……。僕はやっぱり好きになれそうもない。

「モテるんですね」

「馬鹿言え、悪い冗談だ」

「あなたのことを好きな人って、一筋縄じゃいかない人ばかりですよ」

「自分のこともそう思ってる?」

「さあ? でも、皇さんから聞きましたよ。由良さんは、どうでもいい相手のことを『おたく』って呼ぶって。そうじゃなくなったってことは、私にも脈があるみたいですね」

「言ってろよ」

 ようやく風間巧が口を開いた。

「俺は妹を大事に思ってる」

「知ってるよ」

 妹は兄の発言に対し、半分恥ずかしがり、半分誇らしげにした。

「だから、妹を助けてくれたことを恩に着る」

「ふん」

 真っ直ぐな、青竹のような声音だった。

「俺が勝手にすることだ。お前にどんな理由があろうと、妹が助けられたのは事実だからな」

「お前ら兄妹にはもう、何を言っても無駄な気がしてきたよ」

「俺はお前の味方をする。何があっても」

「そうか」

「そうだ」

 シンプルな応えだった。

 結局のところ、誰も彼もが物事を複雑にとらえすぎるせいで、問題がどんどん拡散していくのだ。

 この世に多くを求めない風間の姿勢を、僕は好ましく思った。

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「はっ、はっ、はっ」

 息も荒く、街の暗い裏路地を一人の男が走っていた。

 何かから逃げているような様子。しかし、怯えた風でもなければ、緊迫感も今一つ足りない。まるで他人事のような表情なのだ。全速力で走ったせいで背広が乱れに乱れているが、それにもどこか演技のような滑稽さが漂っている。

 捕まっても死ぬわけではないとわかっている、鬼ごっこような……。

 男が向かうT字路の先に、のっそりと黒い犬が現れた。清潔感という言葉とは縁遠い、浮浪者の趣き。

 犬はぼうぼうに伸びた毛の下から、奇妙に澄んだ目で探るような視線を男に投げかけた。

「やハり、逃げられなイカ」

 これまた他人事のようなトーンで、男は呟いた。所々、声が裏返った調子っ外れホンキートンクな喋り方。

 その言葉に応じるように、黒犬の身体が裏返った。まるで、神にこの世から形を奪われたような、急激な変化だった。

 形を失った黒犬が再び像を結ぶと、少年と青年の合間にいるような男がそこに立っていた。由良だった。

 変化を見た男は、興味深そうに目を見開いた。差し込んだ月の光が一瞬だけ、細かなレンズが寄り集まったような彼の眼球を照らし出した。それは蟲の眼だった。

「うん」

 由良はそれ以上、自分から言うことは何もないようで、静かに右手の先を硬質化させ始めた。雛が卵の殻を内側から割ろうとするような、「パキ、パキ」という硬い音がする。

「ナあ、待チたまえよ。我々が争ウ意味はないだろウ。考エ直さないか」

 命乞いすらどこか遠くにある男、つまり虫々院蟲々居士は由良に言った。

「意味ならあるだろう。八幡琴音だ」

「ソれだよ。彼女が死んダトコろで、別に君ニ特別損がアルわけでもないだろう。何故、こダわる?」

「一つは、信用の問題だ。探偵がせっかく助けた人間をあっさり殺されたら、沽券にかかわる」

「死ぬワけじゃアないと言ってルだろう。彼女は、作品に生まれ変わるのだヨ」

「あの娘にとっては同じだよ」

「見解の相違ダな。ヨリ良くなることは、幸せデハナイかね?」

 無視して、由良は続ける。

「もう一つは、まあ、僕の気持ちの問題だな。別に、闘ったり殺したりなんて、やらないで済むならやりたくないんだけど、結局はそういうことをするって生き方を選んじゃったわけだし、選んだってことは嫌だ嫌だって言っておきながら心のどっかでそれ以上に好きでやってる部分もあるってことだし、そこら辺を納得するためにも、こういうことを時々やっておきたいんだよね。だから、僕としてはおたくが狙う相手を変えてくれないかな、って感じだったりするよ」

「そレハ、無理だナ」

「助けられれば、誰でも良かった。でも、一度助けたからには、もう変えられないんだ」

「やレやレ。オ互い、後にハ退けないト言ウことか?」

「そうなるね。もしかしたら僕らはお互いに、理解しあえない他人がいることに自覚的すぎるのかも」

「ナまじ、形が似てイるせいデ、勘違いスるのさ。人ノ持つものは互換性がナイものバかりなノに」

 それはもしかしたら、互いに最初から分かっていたことを確認し合っただけなのかもしれなかった。

 二人の間で徐々に高まりつつあった圧力が、いよいよ弾ける瞬間を待って、夜気をピリピリと弦のように震わせた。

「たダ殺さレルわけにもいかないので、少しは抵抗サセテもらウよ」

「それもお互い様だよ。余計なことを話しすぎたし、早くやろう」

 虫々院の口から、無数の蟲が這い出た。

 由良の全身を、黒い甲殻が覆った。

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 由良たちと別れてから、鏡と琴音は土手から少し離れた公園にいた。

「あーうあー、あーあーあー♪」

 周囲が樹に囲まれているせいで、祭りの喧騒が遮られている。少し疲れた様子の琴音には、ちょうど良いように思えた。鼻歌を歌っている。

 人混みの中よりずっと風通しが良く、汗と湿気で肌にまとわりつくようだった浴衣が、冷えていくのが心地よい。

 たまらないほどの、夏だった。

 もう何度も経験したはずの四季が、めぐる度に新鮮な驚きをもって自分を喜ばすことを、鏡は嬉しく思った。そして、この当たり前の世界の移り変わりのほとんどを、琴音が地下の牢獄で過ごしたことを思い、悲しくなった。

 まだ取り戻せるはず。

 あるいは、もう取り戻せないものがある。

 いつかと同じ、思考の堂々巡りだった。

 琴音の身体は相変わらず子供のままである。来年も、今の浴衣が着られるのだろうか。そんなことがあってほしくはないと鏡は思う。琴音にはちゃんと成長して失われた時間を、ぽっかりと開いてしまった青春の空隙を埋めていってほしいと思う。思うだけで、鏡には正しく彼女を導く方法がわからない。無力だった。

 何度も何度も、琴音に与えてやりたい気持ちが増すほどに襲い来る焦燥感だった。

 自分は何かをやればやった分だけ、人より秀でることが出来た。才能があるとわかっていた。しかし、それは比べる対象が限定されていただけなのだと、鏡は薄々気付き始めていた。

 由良に尋ねたことがある。灰川と皇は本当に賢いのか、と。あれだけ自身の知性に自信を持ち、常日頃から優秀さを喧伝しているのに、田舎の中堅どころの高校に通っているなんて、おかしい。ただトンチが利いてるだけで、学力は大したものじゃないんじゃないか。そんなことを言った。

 答えは簡素なものだった。

「灰川と皇は僕と同じ学校に通うために、わざと数段学力の落ちる高校を受験したんだよ」と。それが由良と彼女たちの間の最大公約数であり、妥協点だった。

 由良は続けて、こうも言った。

「強いやつは、勝つのも負けるのも引き分けるのだって、自由に選べる。それが学力でもコネの力でもただの腕力でも、強さってのは単純に選択肢を増やすのに役立つんだ。弱いと、負け方すら選べないこともあるからね」

 鏡が田舎の中堅どころの高校に通っているのは、学費の問題だということになっている。しかし、自分だけは本当の理由を知っている。

 自分より賢い人間がいる場所で、比べられることから逃げたのだ。賢い自分が好きなんじゃない。賢いと思われてることが気持ちよかったのだ。それを暴かれることに耐えられなかった。今の鏡には、その冷たい現実を受け止めることが出来た。

 鏡は考える。自分は本当に何かを選ぶことが出来るのだろうか。

 いや、自分は何も選べなくても構わない。ただ、琴音にどれほどの選択肢を用意してあげられるのだろうか。それだけが気がかりだった。

「ふふ」

 まるで、長い間仕事でほったらかしていた娘に、高いプレゼントを贈ろうとする母親みたいだ。そう思うと、何だかおかしくて笑ってしまった。

 蚊が飛んでいる。

 鏡よりも、子供の身体のせいで体温が高い琴音ばかりが刺されていた。

「何? 何? お姉ちゃん、どこにいるの?」

 琴音は虫を怖がった。

 特に蜘蛛を恐れた。父を、虫々院蟲々居士の影を想起させるからだった。音やにおいで感じ取れないため、小さなものが肌に触れることに過敏になった。

「大丈夫。これはただの蚊だから」

 恐怖というものが理屈から来るものばかりではないことはわかっていた。それを止めることが出来るのも、理屈とは限らない。鏡は混乱する琴音をあやすように抱きしめた。

 蚊の羽音が、止んだ。

 それはきっと錯覚だったが、鏡の耳に聞こえるのは、胸の中にいる琴音の熱い息遣いと鼓動の音だけだった。

「か、痒いよ」

「蚊に刺されてるね」

「かいて」

「駄目です」

「お願い」

 琴音は浴衣の襟をはだけて、首筋を露出させた。

 桃のにおいがする。

「かいてほしいの。お姉ちゃんに」

 透き通るような肌に一点だけ、赤い突起が出来ていた。乳首のようだった。

 鏡はそれから眼を離せず、口をゆっくりと近づけ──

「そいつが、由良の飼ってる奴か」

 野卑な声によって、鏡は現実に引き戻された。

 酷い貧血を起こしたように、頭の血がさーっと引いていくのがわかる。

 見られた? 私が今、しようとしていたことを?

 私は、何を、何をしようとしていた?

「ひぃっ」

 怯えた琴音を庇うように声の主と対峙した。津田と、数人の男がいた。いずれも、性を暴力として扱おうとする、嫌な目つきをしていた。

「何の用ですか」

 精一杯の気丈さを振り絞った鏡の声は、震えていた。自分でも答えはわかりきったことだった。

 津田たちは自分と琴音を尾行していたのだ。由良に復讐するために。あるいは、琴音の性のにおいに惹かれて。

 津田は、由良が独自のルールで動いていることを知りつつある。由良自身を攻撃しても、そこに正体はないから痛くも痒くもならない。ならば、身近にいる人はどうだろうか? 津田の卑しさは、それを試すことを許した。

「カップルがイチャついてるかと思って見に来たら、知った顔だったから声をかけたんだよ。なあ?」

 津田が同意を求めると、男たちは笑った。他人を踏みつけにすることを喜びとする人間の、自分の卑しさに気付けなくなった人間の、いやらしい嘲笑だった。

 彼らの根底には憎悪があった。それは世界への憎悪であり、思い通りにならない社会への憎悪であり、何も持たない自分自身への憎悪である。彼らには知恵も想像力もなく、世界を変える力もなかった。この世に悪というものがあるのなら、それは愚かさだった。愚かさは必ず人の内側から湧いて出るものだった。涸れることのない黒い泉だった。故に彼らは自分を殺し、他人を殺す。

 人の世のが、最も暴力的な形で噴出しようとしていた。

「いいじゃん、女同士よりも楽しいことを教えてやろうぜ」

 彼らは笑っていた。

 実の所、男たちは本当は楽しくも何ともなかった。ただ、心の隙間に琴音の強制的な魅了が入り込んだだけだった。あるいは、琴音のことがなくても同じだった。無意味な自分自身への渇望に突き動かされて、生まれたから仕方なく生きているだけの毎日を誤魔化すために、彼らはよく笑った。それ以外の方法を知らないのも、ひとえに愚かさによるものだった。

「やめて、やめて!」

 鏡は羽交い絞めにされて、琴音と引き剥がされた。

「ははは」「やめて!」「何だこのお面」「誰か来て!」「誰も来ねえよ」「ははは」「俺が最初だ」「もう勃っちゃったよ」「お前、見張ってろ」「殺してやる!」「お姉ちゃああん」「ガムテープ寄越せ」

 ありとあらゆる断絶があった。鏡も琴音も津田も男たちも同じ言葉を使っていたが、そこに一切の意思疎通や共感はなかった。彼らは同じタイミングで音の連なりを発しているだけだった。すべてが無意味だった。

 地獄が、あった。

「助けて、お父さん、お母さん」

「うるせえ!」

 津田が琴音のお面を無理やり引き剥がすと、そこにいた誰もが息を呑んだ。男たちはもちろん、鏡さえも、琴音の剥き出しになった美貌に心臓を鷲づかみにされていた。

 そして、琴音はその一瞬を逃さず、叫んだ。

「助けて、由良お兄ちゃん!」

「うん」

 どこかずれたトーンの声がした。

 ふいに、鏡は自分の肩に加わる力が急に緩んだのを感じた。

 見れば、津田以外の男たちは皆、白目をむいて倒れている。

 涙や鼻水で汚れた琴音の顔が、喜色で塗り替えられた。嘘みたいに綺麗な義眼が、声の方に向けられる。

「何て言うか、ウケるな。津田よう」

 言ったのは由良だった。彼は樹のうろから這い出た幽霊のように、のっそりと立っていた。鎖骨を少しも見せないように濃紺の作務衣を着て、スコップをだらりと構えている。暗がりに病的に白い顔が浮き上がり、ひどく非現実的な光景だった。

 言葉とは裏腹に、その表情には一片の笑みもなかった。ただ白けたような虚無が貼りついている。

「お祭りがあると、客だけじゃなくて屋台の方にもマナーが悪い奴が出てくるんだ。出たゴミをそこら辺に埋めてバックれちまおうなんて、ちょっとした不法投棄さ。このスコップはそんな馬鹿から勝手に借りて来たんだ。まあ、それに限った話でもないけど、人の愚かさには際限なんかなくって、相手も僕と同じ人間だし、想像力があるだろうからこのラインは越えてこないだろうな~、ってところをバンバン越えてくるやつがたくさんいるんだ。嫌になるよ、本当マジで。僕は探偵助手だから他人のクソさが商売の種なんだけど、それでも無限に続くドブさらいの仕事を押し付けられてるような気分になっても仕方ないだろう?」

 悪魔の存在を知らない津田には、何故仲間が倒れているのかわからない。由良が蚊に変化へんげして、麻痺毒を注入していたことなど、想像も出来ない。それでも、由良が自分の良い気分を壊したのは、わかりすぎるほどにわかっていた。

「由良ァ……お前はいっつもいっつも俺が何かしようとするたびに、余計なことをしやがるな」

 それを聞いて、由良は唇の端を持ち上げるようにして笑った。琴音を強姦しようとしていた男たちのものが霞んでしまうほどの悪意に裏打ちされた嘲笑だった。灰川の笑みにも似ていた。

「ウケるって言ったのは、お前のそういうところだよ。絵に描いたみたいな三下の振る舞いを繰り返しやがって。恥ずかしくないのか」

「うるせえ! 邪魔するなら、お」

 喋ってる途中の津田の横っ面を、スコップの平らな面が襲った。

 倒れ込んだ津田の襟をつかみ、由良は続ける。

「お前は本当に想像力がないな。考えろ。何で僕がスコップを持ってきたかを。ここは誰も来ないんだぞ。死んで埋められても、誰にも気付いてもらえないんだぞ」

「クソが……」

「お前を残したのは、こいつらを運ばせるためだった。でも、他の奴を代わりに起こしても良いんだぜ」

 流れる鼻血も拭わずに、津田は由良の手を払った。殴られた眩暈が引かずに足がふらついていたが、それ以上の怒りが彼を立たせた。

「ざっけんな! 俺はお前のママじゃねえ、お前の言うことばっかり聞いてられるか! 俺は俺の好きなようにするぞ」

「彼女がいるんだろ? レイプはやめておけよ」

「知ったことか」

「本当はわかってるくせに。家族や友達恋人に優しくしろ。嘘をつくな。善行を為せ。他人や社会のためじゃないぞ、そうすれば自分自身の心が救われるんだ」

 由良の言葉はビックリするほどに空虚だった。言葉の有限性が露呈した瞬間だった。

「……お前、お前がそんなことを」

「お兄ちゃん、何をしているの」

 三度目の乱入者。

 その声は意外にも、か細く儚かった。痛みに耐えるような響きがあった。

「ほ、穂波」

 津田の妹の、津田穂波だった。

「レイプって何。お兄ちゃんはそこの人たちに、何をしようとしていたの」

「そうか、由良! てめえ、俺をハメるためにわざと穂波を連れてきやがったな!」

 由良は応えず、気だるげに穂波の方を向いた。

「何だ。おたく、まだいたのか。早く帰れよ」

「由良さんとはさっき別れたけど、私が勝手に後を尾けたの。それより、応えてよお兄ちゃん」

「……」

 津田は由良を睨んだままだった。妹の視線に試されることに、耐えられなかったのだ。

 穂波は、その沈黙をまったく誤解しなかった。

「応えられないようなことをしたんだね」

 鏡はどんどん拡散していく目の前の事象を、ぼんやりと見ているだけだった。琴音は付け直した面のせいで、表情が見えない。

「何でもないよ。津田はこいつらを連れて帰れ。妹とも仲直りしとけよ」

 当然のような顔をして、由良は命令した。一瞬その姿に、灰川の姿が重なった。

 結局、みんな由良の言う通りにした。津田も怒りを持続させられるほどの力はなく、ここにいた全員が疲れ切っていたのだ。逆らう理由がなかった。

「帰ろう」


 再び祭りを楽しむ気にもなれなかった。

 怯えきった琴音が腰に抱きつくと、由良は戸惑った風に鏡を見た。頭をなでてやればいいだけの話なのだが、由良にはそれが出来ないらしい。手を繋ぐのを求められた時と同じように、琴音を鏡の方に押しやった。

 帰り道では、鏡も琴音も無言だった。

 遠くで低い地鳴りのような音が聞こえる。

 花火が始まったのだ。しかし、誰も振り返らなかった。少し立ち止まって、後ろを向くだけで綺麗な光の渦を楽しめるのに、そうしなかった。見えない琴音に対する配慮と言うには、重苦しすぎる空気だった。

「あの時、本当に津田を殺すつもりだったんですか」

 ぽつりと鏡が言った。

「まさか。そんなポンポン人を殺せるもんか、法治国家だぞ。あの時は向こうに非があるから、多少無茶苦茶しても警察沙汰にはならないってわかってただけだよ」

「本気に見えましたけど」

「本気に見えなきゃ脅しの意味がないだろ。最近、僕にもああいう奴らが言う『舐められなくない』って言葉の意味がわかるようになってきたんだ」

 泡のように、ぽつぽつと言葉が続く。

「何をされても怒らない奴だと思われたくないんだ。この世にはどうしようもなく愚かだったり酷いことをする奴がいて、一歩許すと無限に踏み込まれてしまうから」

 ただ聞くだけだった琴音が、口を挟んだ。

「……踏み込まれないためには、どうすればいいの?」

 琴音が能動的に何かを求めるのは、珍しいことだった。それだけ今回のことが辛かったと見える。父親に犯されることと同じくらいに。

「強くなれ」

「強いって、何?」

「負けないことだ」

 琴音はそれから何も言わなかった。

 しかし鏡は繋いだ手から、琴音が何らかの覚悟を決めたことを感じ取った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 夏祭り以降、琴音ちゃんは時々外出するようになった。

 もちろん、保護者を連れて顔を隠した状態で、近場に限ったことである。

 私も由良も良い顔はしなかったが、琴音ちゃん自身が望んだことだ。私たちが彼女を縛るものになってしまっては意味がない。

 一度、由良と琴音ちゃんの二人でデパートに行ったが、由良の方が迷子になった。

 異常事態には強いが、普段の生活はからきしだ。彼の能力には偏りがありすぎる。

 琴音ちゃんの服を買いに行ったはずなのに、手ぶらで帰ってきた。曰くファッションセンスもないらしい。

 ポンコツめ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 すっかり主人の不在が馴染んでしまった灰川の部屋で、由良と琴音が将棋を指している。

 盲目の琴音にとっては盤面の全体像がつかめないため、目隠し将棋ということになる。

 太陽にじりじりと炙られるような、暑い日だった。

 琴音は明るい水色のワンピースで、夏から遠ざけられたような美しい白い肌が映えた。しっとりとかかれた汗が、空気に甘いにおいを付けていた。

 由良はゆったりしていることだけが取り柄の薄いシャツと半ズボン、生っ白い毛脛を剥き出しにしている。年齢以上に老けたしぐさだった。

「……7六歩」

 指したいマスを口にしながら、琴音は指す。

「そりゃあ、二歩だ」

 琴音はたまにルールを間違えるが、駒の表面を指でなぞって把握しながら、由良とそれなりに良い勝負をしている。

 横で見ていた鏡は感心して、口を挟んだ。

「すごいですねえ。いっそのこと棋士になるのはどうです? 身体的特徴をあげつらうようで悪いですが、盲目の棋士ってのはそれだけで話題になりそうじゃないですか」

 鏡の本質はあくまで記者だった。そのため、どんな方法であれ話題性を重視する。それが金になることを知っているのだ。彼女なりに琴音が一人で生きていくための方法を模索しているのだった。この頃になると、鏡は母親のような心持ちになっており、琴音が正しく自立することを援助しようとしていた。

「無理だな。琴音は記憶力がそんなに良いわけじゃないから、毎回新しい盤面に向き合っているようなもんだ。時間制限がないから出来ることだし、先の読みも甘い。それよりも重要なのは、駒を正確な位置に置くことの出来る、空間把握能力だ」

 言われた通り、琴音の手元を注視する。

 盲人用のボードゲームは大抵、盤に溝や突起があるものだが、二人が使っているのは健常者用の普通の将棋盤だった。盤に引かれたマス目を示す線は、注意深く触れば微妙に感触が違うのはわかるが、琴音はそれにあまり触れない。目明めあきの人間が見た場所に物を置くように、堂々と指している。

「琴音は食事する時、いつも正確に口に食べ物を持っていくし、迷い箸も全然しないから、そうだろうと思ってた」

「お祭りの時、わたあめを食べるのに失敗していたようでしたが」

「あれはわざとだ。子供は親の気を引くためにそういうこともする」

 琴音の駒を持つ手が震えた。「それも二歩」──鏡は可哀想な気がして、それ以上の言及を避けた。

「へえ……。そんな空間把握能力があるなら、何かに活かせませんかねえ」

 鏡の言葉に対し、由良は若干軽蔑したような表情をした。

「お前はまたそうやって、自分がちょっとのを鼻にかけて適当なことを言う」

 ぞろり、と由良は無精髭を撫ぜた。

「どういう意味です、それ?」

 反射的に語尾が吊り上がる。

「そいつに聞けよ」

 由良が盤に駒を打ち込むのと同時に、鏡の携帯が鳴った。

「将棋は完全情報ゲームだ。もっと言うなら、二人零和有限確定完全情報ゲーム」

 灰川だった。

 彼女は、電話越しにこちらのしていることを言い当てて喜ぶ癖がある。子供じみた悪戯心が垣間見えるが、やっていることはほとんど神がかりに等しい。

「運の要素が入らず、理論上は完全な先読みが可能であり、最善手を打ち続けることで先手必勝・後手必勝・引き分けが決まるゲームだ。実際はすべての手を読み切ることがほとんど不可能であるため、ゲームとして成立しているのだがね」

「灰川さん、どうして今まで連絡を寄越さなかったんですか!」

 鏡はとっさに由良にも聞こえるように、通話をスピーカーモードに変えた。どちらが言い始めたのでもなく、勝手に始まった鏡と由良の間での決め事だった。

 灰川は鏡の言い分を聞くことなく、朗々と言葉を繋いだ。

「本当の意味での最善手、つまり完全解が見つかってしまってはそのゲームは終わる。プレイする意味がなくなるからだ。そして現実の世界も異なるようでいて、実際は完全情報ゲームと同じだ。例えば、ゴミ箱にペットボトルを投げ入れようとする。自分の力加減を正確に把握していれば、的から外れることはない。だが、風が吹くかもしれないし、横からボールが飛んできて弾かれるかもしれないし、極端なことを言えば隕石や雷が落ちてきて投げられないかもしれない。これらが運の要素であり、参加人数が決められ、勝ち・負け・引き分けの定義が曖昧かつ利得の合計も膨れ上がり、採れる手段が有限でない現実と、そうでないゲームの差だ。しかし、考えてもみてほしい。チェッカーは既に完全解が出され、ゲームとしては死んでいる。将棋やチェスもいずれ同じ道を辿るだろう。何故チェッカーと将棋に差が付いたのか。それは選択肢の幅の差と直結している。盤面が広く、駒が多い。駒の動き方にも特徴がある。これらが採れる手を増やしているのさ。つまり、現実世界は盤面が広く、駒が多くなっただけで、実際はゲームと何も変わらない。先程の例えで言えば、風が吹くことやボールが飛んでくることは予測しようと思えば出来ることだ。ただ、それを演算する能力がないだけで。円周率を割り切れず、将棋の最適解を未だ出せないコンピュータのようにね」

「現実をゲームに例えるのって、幼稚じゃありませんか。みっともないですよ」

「おや、すまない。誤解を招くような言い方をしてしまったみたいだね。僕は時々、自分以外の人間が愚か者ばかりだという、当たり前のことを忘れてしまうんだ。正確に言えば、ゲームは世界に内在している以上、現実を超えることが出来ない。つまりゲームは社会の縮図なのだ」

 鏡は考える。灰川は何らかの意図を持ってこの会話をしている。それを正しく読み取らなければならない。

 由良と琴音は、依然として将棋を指し続けている。

「……あなたはいつも事件の後からやってきて、必要以上に物事を引っ掻き回す。灰川さんなら、完全解がわかるんじゃないですか? 事件を始まる前に終わらせることだって出来るはず。言ってしまえば、あなたは将棋のプログラムと勝負し続けるプロ棋士だ。負けないこと、それ以上に完全解を出されてしまうことに怯えている。そうしないと、することがなくなって退屈してしまう。違いますか?」

「くっ、くっ、くっくっく……」

 喉の奥で鳴る、灰川の笑い声が聞こえた。しかしそれは常のものと比べて、いくらかの寂寥感じみたものが含まれていた。

「そう思ってくれるとは光栄だね。だが、それは過大評価というものだ。僕も全知全能と思われて悪い気はしないし、僕のことをほとんど崇拝している由良君の期待に応えて、そのように振る舞うのも好きさ。しかし僕はあくまで個人だ。限界はある。だからこそ手駒を増やしてあちこちで動かしていたわけだし、それが今の状況を招いた。もっとも、由良君の前ではこんなことは言わないがね」

 ふと、引っかかるものがあった。由良は今ここにいて、灰川との会話を聞いている。もしかして、そのことに気付いていないのか? あるいは、それこそが灰川の持つ有限性なのだろうか?

「言っただろう、自分のことを賢いと思っている馬鹿ほど、始末に負えないものはない、と。自分の有限性を見誤り、それを他人に投影して押し付けるからだ。君は自分が人よりちょっとばかり優れていると思っているだろう?」

「そんなことっ」

「僕の前で嘘は無意味だ。君は自分より優れている僕相手だからそう言ったが、それでも大抵の人間より演算能力が優れているのは事実だろう。人は『才能』という言葉を口に出す時、往々にして冷静ではいられなくなるから『性能』とでも言おうか。鏡、君は八幡琴音の性能を見誤っているよ」

「どういうことですか」

 この期に及んでは、鏡は灰川がこちらの状況の詳細をつかんでいることに疑問を抱かなかった。悪魔の事象と同様に、としてとらえている。なのでその問いかけは、単に答えを求めるものだった。

「君の精神状態は、障害児を特別学級に入れることを拒む母親と同じ状態だ。このまま面白おかしく日々を過ごしていれば、琴音の目が見えるようになって、処女膜が戻って、辛かったことをなかったことに出来ると思っている。実に愚かだ」

「──っ」

「人をゲームだと思ってるのは君の方だ。ゲームの利得合計が0になるためには、初期条件が同じという前提があってこそだ。初めからマイナスを抱えて生まれた人間は、引き分けに持ち込むことですら苦難の連続。勝てると思うのは見通しが甘いね。飛車角落ちで勝負するようなものさ」

「そ、それは障害者差別ですよ」

「ならば、障害者が社会の庇護なしにまったく同条件で健常者に勝てると? 特化した一点で勝つことは出来ても、勝てない部分の方が多いだろう。更に言うなら、特化した一点すらない人間だって山ほどいるんだぜ。また例え話をしようか。勉強も運動も出来ず、不細工で口も回らず親類縁者もいない男がいたとしよう。彼は何をやっても人より劣っていたが、絵を描くことだけは得意だった。彼は成長し、就職を視野に入れることになる。その時、彼は『イラストレーターになりたい』と言い出した。しかし、彼は他のことよりはなだけで、イラストレーターとして食べていけるほどの才能がないのは明らかだった。ねえ、鏡。君はこの男がどうするべきだったと思う?」

 ──わからない。

 鏡にはわからない。何を言ってもおためごかしになるような気がした。

 生きることは選択肢の連続。正解すれば、助かることが出来る。

 でも、思いもしなかった──生まれた時から、正解を持たない人間がいることなんて。

 サヴァン症候群、というものがある。

 知的障害や発達障害を持つ者のうち、凄まじい記憶力や芸術的才能などの、優れた能力を発揮する者の症状である。

 この言葉を知る人の中には、『知的障害を抱える人間は、ただ一点において素晴らしい才能を持つ』と勘違いしている者がいる。

「マスコミは、大衆は苦労して幸せになる人間が好きだ。そうすれば安全圏にいるような気分になれるからだ。本当はこの世のどこにも、安全圏なんてないのにな。だから君も忘れていたんじゃないか? 感動物語に使えるのは、酷い目に遭った奴らの中でもそこそこ形が良い、上澄みの部分だってことを。苦労を乗り越えて幸せをつかんだ奴なんて一握り、乗り越えようとして挫折した者、現在進行形で世界を憎む者、そもそも何のチャンスも与えられずに死んだ者。そいつらから眼を逸らして適当なことを言うのは感心しないな」

「なら、どうしたらいいんですかっ!」

 鏡は絶叫していた。

 当の琴音は無表情だった。彼女の中では当たり前のことだったのだ。

 琴音は何も言わなかった。

 その横顔が、不意に酷く老けて見えた。それは、生きることに傷つけられて、今もなお血を流し続けている者の表情だった。

 彼女の痛みに気付けなかったことも、鏡を苛んでいた。

「人は社会的な動物だ。社会的な承認を通貨のように循環させ、自己を肯定しなければ生きてはいけない。これは高度に発達した社会では、金や食べ物よりも重要になる。だから自分自身に何もなく、何もない自分自身に耐えられない貧乏人どもの間で恋愛なんてものが流行る。その中でも琴音は承認されうる力として、最上級のものを既に持っている」

「だめ、それはだめ」

 鏡には続く言葉がわかっていた。だから、子供じみた言葉遣いになっても、それを止めようとした。ほとんど電話にすがるようだった。

 しかし、灰川は無慈悲だった。

「琴音は美しい。身体を売るまでいかずとも、信頼と金のある人間に一生養ってもらえばいい」

「馬鹿にするなっ! この子には、人間には尊厳があるんですよ!」

「馬鹿にしてるのは君だ。職業に貴賤はないし、娼婦だって立派な仕事だ。それに、愛されることよりも重大な承認があるかね?」

「それでも、琴音に近づくのは身体目当ての奴ばかり、どこに信頼があるんですか」

「心と身体を別のものとして考えたがるのは、人間を高尚なものだと考えたがる者の思い上がりだ。表れ方が異なるだけで、心も身体も同じものだというのに。それが不満なら、搾取する側に回ればいい。一部の本物を除いて、社会的な恋愛というものは、好みの自転車を買うのと何も変わらん。予算の範囲で選び、選ばれるだけのことだ。琴音には近寄ってきた奴らを一方的に利用するだけの価値があるはずだ。僕が普段から好き勝手やっても許されるのは、僕が強くて美しくて賢いからだ。いや、本当に許されていないとしても、僕に勝てないから許しているのと同じ状態にならざるを得ない。琴音も、そうすればいい」

「琴音ちゃんは、一人で立つ術を覚えるべきです」

「ふむ、君は自立した女性とやらが望みか。だが、君自身はどうだ? 君の書いた新聞は学校の外で読んでいる者はいないばかりか、校内でも読んでいる者は百人もいないだろう。雑誌に記事を掲載することもあるが、雑誌自体それほど売れてはいない。そればかりか、君は署名記事を書くことすら許されていない。わかるかい、すべての価値観は身内ウケでしかなく、身内の範囲が狭いか広いかの違いでしかないのだ。美しさや強さや賢さというものは、どこに行っても換金率が高い貴金属のようなものだ。それ以外のものは、今いる共同体を出てしまえば簡単にゴミになる。君はどこまで自分の価値を認められるかな?」

 認められるはずがなかった。

 自分は琴音を本当の意味で助けることが出来ないことなんて、わかりきったことだった。だが、それに甘んじることも許せなかった。

 いつかの誓いが甦った。

 空っぽの自分でも、空っぽのままでいなければいけない理由はなかった。

 自分だけではなかった。空っぽに琴音にも、価値を吹き込んでやりたかった。

「価値がなければ、作るだけです。それが通用しない社会なら、自分で新しい場所を切り拓けばいい」

「なるほどね。少しは良い声になったじゃないか。一つ聞かせてもらうよ。君は、何故自分が優れた人間だと思う?」

「私は、そんなこと」

「正直に言いたまえよ」

「……少し前まで、私は自分のことを選ばれた人間だと思っていました」

「くっくっく。ならば、選んだのは誰だ?」

「誰って……」

「選ばれるのではなく、君自身が選ぶ側になれ。君は探偵が事件の後からやってくると言ったが、記者はそれ以上だ。対応者にしかなれないのなら、この事件には勝てないぜ」

 珍しく、とても真っ直ぐな激励の言葉だった。

 鏡は急に3cmばかり宙に浮いたような気持ちになった。

「灰川さん、私からも質問があります」

「何だい」

「強いって、何ですか?」

「勝つことだ」

 それは、由良の答えとは違った。

 どちらが正しいのかもわからなかったが、選ぶことを求められているのは確かだった。

 あるいは、その選択肢以外のものを自分で決めることを。

「それと」

 まだ電話は切れていなかった。

「そっちにいる彼に用があるんだが、聞こえているかね?」

 返事の代わりに由良は、駒音高く飛車を突いた。

「君は……『いかわ──灰川ってば』……ああ、今行くよ。何?『何で服着てないんだよ!』……ふふん、今更、裸ごときでゴチャゴチャ言う仲かよ。電話中だから待っていたまえよ……」

 どうやら、向こうで灰川は誰か、男と話しているようだった。

 それも、聞く限りですらただならぬ関係に思える。

 漏れ聞こえる声に、由良の顔は見る見る血の気が引いていく。元々白かった肌が紙のようになり、次第に真っ青になっていった。

「すまないね。とりあえず言いたいこととしては、今後は鏡が保護者としてちゃんとやっていけそうだから、君はもういいよ。金は好きに使ってもいいから」

 いつもの灰川と何も変わらない、一方的な都合を押し付ける傲岸不遜な声だった。

 由良は何も言わなかった。

 盤面をただじっと見ている。

 いたたまれなくなって、鏡の方が声を上げた。

「ちょっと待ってください! それじゃあ、用済みって言ってるみたいじゃないですか!」

「そうさ。用済みさ」

「それは電話の向こうにいる人と関係があるんですか」

「あるよ。恋人だからね」

「こ、こぃ、びと?」

 言葉が上手く出てこない。

「今までずっと良くしてくれた由良さんを、す、捨てるんですか? そんな仲だったんですか?」

 鏡は知らず知らずの内に、灰川と由良の絆を絶対のものだと信じていた。

 想い合う二人が永久に幸せならば、自分と琴音も同じように幸せになれるはずだと、心のどこかで望んでいたのだった。

 それが今、打ち砕かれた。

「用済みは用済み。それだけだ。じゃあね」

 電話は切れた。

 こうして、空恐ろしいまでのあっけなさで、由良は灰川に捨てられた。

 ばちり、と雷鳴のような音が響いた。

 由良の指した香車が、真っ二つに割れていた。

 凄まじい凶相であった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 琴音は僕に隠れてリストカットをしてる。

 手首以外にも、内腿やふくらはぎも切っている。

 僕には理由がわかる。

 リストカットをする女の中には、痛みで自分の形を確かめたいなんて言う奴がいる。馬鹿げた話だが、琴音の場合はそれが顕著になる。あの子は自分の輪郭を目で見て確かめることが出来ない。彼女の主観は今、皮膚感覚が大きな部分を担っている。その感覚を鈍らせないための儀式なのだ。

 そして、琴音は自分の身体すら自分の好きなように出来ない生活が長引きすぎた。琴音が言うには、些細な擦り傷でも負おうものなら、物凄い剣幕で怒鳴られたという。

 子供にとっての親は神だ。逆らうことなど許されない。

 しかし今、神は死んだ。

 ようやく自由意思を取り戻してすることが、自分を傷つけることだった彼女の未来には、どんな幸せがあるというのか。

 僕は家中の刃物を隠した。

 包丁やナイフの類も、食事の度に鍵を開けて取り出すようにしている。

 カミソリもしまったせいで、毎日髭を剃るのが面倒になってしまった。


 琴音は深夜、僕の枕元に立ち、僕の寝顔をずっと見ている。

 それからしばらくすると、僕の頭を抱え込んで寝息を吸う。

 僕には理由がわかる。

 支配されて生きてきた琴音にとって、支配出来ると思える対象がいることは、救いであり、代償なのだ。

 琴音は寝入っているはずの僕の首を絞める。

 力を込めると起きてしまうから、小さな手で喉の辺りにゆっくりと手を添える。

 そうして僕の脈を計り、いつでもそれを止められることを確認してから眠る。

 その行為が、正しさを見つけられない人間の愚かさの表れだとしても、生きることを実感できるのなら、許してしまいそうだと思うし、そんな僕はきっと馬鹿だ。

 だが、僕だって正解がわからないのだ。


 子供は何故、可愛いのか。

 僕には理由がわかる。

 親は子供にとっての神で、何も持たない子供にとって、神に捧げる供物が己の媚態しかないのだ。

 愛を対価にすることでしか、生きることを許されないという残酷さを、知っているのだ。

 人と人とがいれば、そこに関係が生まれ、社会が築かれる。

 愛は通貨だ。人の心の中でも、最も価値があるものだ。

 琴音はなるべく自分に良い値段を付けようと、必死になっているだけなのだ。


 琴音は何も変わってない。

 マシになんて、なってやしない。

 人は変われる。

 良い方向にも、悪い方向にも。

 でも、変わることが出来ないものだってあるのだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

          文責:シーモア・グラース





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