第5話 サニー・サイド・アップ/ターン・オーバー(2)

   *


『津田』

 相も変わらず、津田はその日も不機嫌だった。

 というのも、由良がクラスメイトの中で一目置かれるようになってきたからである。

 ぼんやりとして人から馬鹿にされがちな男ではあったが、積極的に彼を嫌う人は助野の連続食人事件ので黙らされ、灰川の助手というポジションを得たことで、周囲の由良を見る目が変わってきたのだった。

 クラスに一人はいる、誰からも相手にされない男は、いつのまにかクラスの相談役になっていた。

 由良は灰川を除けば、ほとんど自分から人へ働きかけなかった。彼をよく知らない人間は、その寡黙さを信頼に値すると考えたようだった。

 誰でも何かしら悩みを抱えており、それを解決するのではなく、ただ吐き出す場所を必要としている。由良はそういったことに関してはうってつけの相手だった。彼はまったく分をわきまえていた。灰川が相手の言葉を盗むようにして話すのに対し、由良は差し出された言葉をただそっくりそのまま残さずたいらげるのだった。

 悩みを打ち明ける人間は大抵、心のどこかでその内容のどうでも良さに気が付いている。だから、下手なアドバイスなんかされたくはないのだ。その点、由良の清潔な無関心は彼らにとって、とても居心地のいいものだったのである。

 ついには、津田の恋人が由良によく話しかけるようになり、それからは毎日が苦痛の連続だった。

 彼女と由良の話題に、自分が引き合いに出されることを想像すると、尾てい骨が引き抜かれるような気持ち悪さを覚えた。

 津田にとってはもはや、由良のやることなすことが気に食わなかった。

 放っておけばくすぶるだけだった嫉妬が、他の火種と合流し、大きな炎となりつつあった。


 放課後の校舎の影を、西日がやわやわと引き伸ばしている。

 残っている生徒は、部活動をしている物を除けばわずかである。

「でね、熊谷君のことを疑ってるわけじゃないんだけど、でも、私、でぶだし、でっかくて可愛くないし、捨てられちゃったらどうしようかと思って……」

 今、由良に相談をしているのは中禅寺久美子。

 細い名前に反して、身体のつくりが何から何まで大きい。名前に見合っているのは内向的な性格くらいで、それをもじって『地味子』と呼ばれている。

「大丈夫だよ。あいつから告白してきたんでしょ? だったらちょっとやそっとで嫌いにはならないだろうし、おたくが気にしてる所も全部、かえってツボなんだと思うよ」

「そうかなあ」

「好みの問題だよ」

 蓼食う虫も好き好き、とは言わなかった。

 津田に言わせればデカ女のブスだったが、野暮ったい眼鏡もそばかすも、彼女の丸っこい顔と合わさると愛嬌があるように見えたし、むやみに人の悪口を言わない人種にとってはそれが多数派だった。

「……やっぱり、もう一度話し合ってみるべきだよね」

「うん。頑張れ」

 何やら、自分の中で納得がいったようだった。

 中禅寺が席を立ってからしばらくすると、小柄な男が由良の前に座った。

 先ほど話題に出た、中禅寺の恋人である熊谷だった。

「その、地味子のことなんだけど、最近何だかよそよそしい気がするんだ……何か聞いてないか?」

「おたく、熊谷っていうんだな」

「話を聞けよ!? ってか、名前も知らなかったのか!」

「うっさい」

「はい」

「あと、知ってたけど忘れてた」

「……酷くない?」

「それと、彼氏なら自分で聞け」

「正論過ぎる」

「冗談はさておき、まあ大丈夫だよ。僕をダシにしてイチャつかれるのは正直困るけど、ちゃんと話し合えばすぐに解決するさ」

 ちゃんと話し合う、なんてのはそれこそ何も言ってないに等しい無責任な言葉なのだが、本当に彼らが求めていたのはただそれだけのことだった。

「……そうか。いつもサンキューな」

「僕は何にもしてないよ」

 実際その通りだったが、熊谷は違うように受け取った。

「それでもさ。お前が良いやつってのには変わりないだろ」

 由良は自分に都合の良い誤解を放置することにし、熊谷は彼の態度に含羞がんしゅうを見た。


「ちっ」

 遠目にやり取りを観察していた津田は、舌打ちをした。

 津田は自分だけが灰川すら知らない、本当の由良の姿を知っているとすら思っていた。

 ──あいつは、誰に対してもマジじゃない。

 それが彼の出した結論であった。

 誰を相手にしている時も、適当にで済ませているから、あんな曖昧な態度で、悪びれる風がない。

 気に食わないし、みんな奴に騙されている。

 鬱屈しているが故の過敏さで、津田は由良の本質に触れつつあったが、クラスのほとんどが彼の潜在的な味方になりつつある今、そんなことを声高に叫んでも自分の立場が悪くなる一方だともわかっているのだった。

 だが、たまたま今回は自制が緩んでいた。

「よう」

 由良と別れたばかりの熊谷に、津田は声をかけた。

 彼らがいる廊下は、たくさんの生徒がいた昼間と比べると、つくりは何も変わらないのにぞっとするほど薄暗く、冷たい空気が支配する場所になる。

 柄の悪い声に、どちらかというと大人しいグループに属する熊谷が、びくりと身構えた。

「お前さ、あいつの友達なワケ?」

「あいつって?」

「とぼけんなよ。由良だ」

「違うよ」

 白々しい態度に、思わず手が出そうになる。

「だから、とぼけんな」

「とぼけてない。あいつの友達は灰川だろ。それと、皇さんくらいか」

 すごんでみせるも、思ったよりしっかりとした表情で熊谷は応えた。

 返事の内容も津田の予想していたものとは違った。

「へっ、そうだよ。あいつは話してる相手のことをはなっから馬鹿にしてかかってんのさ。お前みたいな人生相談野郎のことも、適当に『相手してやってる』くらいのつもりでいるんだろうよ」

「かもな。でも、別にそれでいいよ。そういう奴だと知ってて付き合ってるんだ」

 騙されてるんだ──痛切に、そう言いたかった。声に出してしまえば、懇願するような響きすら帯びていただろう。

 津田は見ていたのだった。

 熊谷が相談を終えて背を向けた瞬間、それまでの表情をコマ落としめいた速度で捨て去り、無表情になる由良の姿を。

 それまでも充分に無関心ではあったが、病的なものさえ感じさせる蟲の眼を見た後では、相談に応じていた彼の態度が朗らかにすら思えた。そしてその落差が一層、由良に内在する狂気を、それを隠すためにしている演技に対する警戒心を津田に思わせたのである。

 つまり見ようによっては、本人の自覚すらない内に、津田は熊谷を危険なものから遠ざけ、助けようとしていたとも言えた。

 だから、もどかしい。

「俺は、由良に足を引っ張られてる。お前もそうなりたいのかよ」

 津田のプライドが、由良に喧嘩で負けたことを口にさせなかった。彼の弱みを握って脅迫しているのも実際は灰川だったが、意図的に捻じ曲げて考えていた。人は嘘をつく生き物であり、同時に自分の嘘を信じたがる癖がある。

「お前にとっては、嫌な奴なのかも。でも、俺にとってはそうじゃない。少なくとも、今は。それ以上に理由が必要かな?」

「ちっ」

 特に理由らしい理由はない。ただ、会話が面倒になったので、津田は熊谷の胸を小突いた。

「う」

「お前さ、生意気」

 熊谷は体型や喋り方など、何から何まで由良とは違うが、どこか雰囲気に似ている部分があった。

 ようするに、津田のような人種にとって、自身の卑しさを癒すためのちょうどいい的であった。

 制服の肩の部分をつかんで熊谷を壁に押し付けると、ちょうどおあつらえ向きの怯えた顔を見せた。暴力を暴力のために用いる人間には、この手の表情は本人の意図に反して「殴ってください」と言っているように思えるのである。

「言えよ。『僕は由良のことが嫌いです』ってよォ」

 目を逸らそうとする熊谷の頬を、空いた手でペチペチとなぶりながら、津田は言った。

 卑しさは人の心に入ったひび割れであり、正しく痛みを消さない限りは、永久に満たされることがない。津田はそのことを知らない、わからない。だから、熊谷をいじめてもちっとも良い気分になれないのに、手には力をこめ続けるしかなかった。

「言っちまえよ、そうすればすぐに離してやるから。『あんな奴とは頼まれたって友達にはなりません』って。なあ。言えよ!」

 津田の恫喝は手慣れたものであり、大抵の相手にはこれで自分の意思を通せたのだろうが、熊谷の眼にはまだ意志の光があった。

 熊谷は言った。

「……由良は、あいつはどんな時でも人を試している、嫌な奴だよ」

「わかってんじゃん」

「でも、採点は公平だ。俺はあいつと友達になりたい。今、お前に謝ったら、俺はもう由良と友達にはなれない」

「はァ?」

 それは津田の望んでいた答えではなかった。

 彼には想像力があまりにも足りず、望んだもの以外はありえないものとしか考えられていなかったのだ。

「お前は、あいつに試されるのが怖いんだ。自分の価値を知るのに耐えられない、臆病者だ」

 意外にも強い力で津田の手が振りほどかれた。

 虚を突かれて手を宙ぶらりんに突きだしたままの津田を見た熊谷は、そのまま走って逃げていった。

「何だよ……」

 津田は追いかけようと思ったが、何故だか出来なかった。

「……好きに、好きにしろよ! 勝手にしやがれ!」

 誰もいない廊下に、彼の声だけがやけに大きく響いた。

 本当は、わかっている。

 熊谷は彼の好きなようにしていた。だから、津田の恫喝にも負けずに、自分の価値観を曲げなかった。

 自分の好きなように出来ていないのは、他ならぬ津田自身だった。

 彼は自分勝手に振る舞うことすら出来なくなっていた。

 途方もない無限の虚無に落下していく、惨めったらしい負け犬だった。

「ちっ」

 彼は月に吠える術も知らぬ犬だった。

 舌打ちは聞く者とてなく、冷たい床に落ちて、消えた。


   *


『鏡』

 鏡の生活は、琴音と由良によって大半が占められるようになっていた。

 元々彼女には友達らしい友達はいなかった。

 鏡を友達と思っている人間はいたが、彼女自身がそれを認めていなかった。

 孤児である負い目を消すために、鏡は自分の能力を磨いた。勉強をした。運動をした。コネを作ろうと、目上の者に媚びた。自分が持つものすべてを有用性に繋げる術を学び、存分に行使した。

 その結果、鏡は人より秀で、周囲を劣る者として見下すようになった。そうすることでしか、傷ついたまま立ち続けることが出来なかった。

 並び立つ者こそおらずとも、社会から独立して生きられるほど鏡は強くも弱くもなかった。

 だから、社会正義を自分の価値観の中心に据えるようになった。求められているという実感が、今ここに他でもない自分自身が立っていられることの肯定が、どうしても必要だった。普通の人が当たり前のように獲得するもの、あるいは愛と呼ばれるものを鏡は欲していた。そのための代替品だった。社会とは彼女にとって、一時の苦しみを忘れるための安っぽい麻薬であり、薬の幻覚が見せる快楽だった。

 記者である他の誰もが信じていないおためごかしの正義感を過剰に探し出そうとする鏡は、ゆるやかに狂っていた。それは極々わずかなであり、一般的な良識を持つ人からは無視できる範疇だったので、積極的に無視された。

 鏡の奥底に根付いた狂気は、社会が彼女に課した義務であり、ニーズだった。彼女が狂気を、その性能を発揮し続ける限り、すべての歯車ががっちりと噛み合わさって作動する手はずになっていた。

 彼女が自身の孤独を孤独と気付くこともなくなった頃には、今の鏡亜矢がいた。

 しかし現在、鏡の心の欠落を補うように、琴音と(不本意だが)由良が寄り添っていた。

 そして、

「ねえ、アヤ。聞いてるの?」

「聞いてないですよ、ええ、まったくもって」

 鏡には新しく友人と呼べそうな相手が出来つつあった。

 その友人候補は休日にもかかわらず、朝も早くに学生寮の鏡の部屋に来ていた。

 学生寮であるため、当然学校には近い。普段から彼女は朝食をそこでゆっくり取っていた。約束をしていたわけでもないのに、いつの間にかそうなっていた。

 今日は、鏡にとって完全な休日だった。

 鏡は学校でたった一人の新聞部だった。生徒会に許可をもらって、生徒会室前の掲示板に自分の記事を載せていた。また、カストリめいてはいるが一応きちんとした出版社の週刊誌の、穴埋め記事を書くこともあった。

 そんな風に記事を書いたり資料を集めたり、琴音や由良と会ったりすることも、すべてお休みの日。のはずだったが、彼女は学校もないのに押しかけて来た。

 細身で、髪型は内に丸まったボブカット。少し前までブレザーの着崩し方も知らなかったのに、今ではすっかり様になっている。まるで、一夜の内にものすごい修羅場を潜り抜けたような、急な成長の跡が見られた。

 新城真由──助野透が起こした、連続食人事件の唯一の生き残りである。

 そっと手元の手帳をると、自分が記した新城の情報に、せっかちな字で付け足しがあった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 新城は実際に半身を助野に殺されたから、しばらくは身を隠すと思っていた。

 まさか、自分の死体を隠蔽して、次の日から学校に来るとは。

 のを手伝ってやれば良かったかな?

 最近よく話しかけてくる。僕のことが嫌いなのに、何故だろうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「彼氏がね、最近相手してくれないって由良の奴に相談しても、『うん、うん』って言うばっかりで何にもアドバイスしてくれないのよ? あいつ本当マジで女心がわかってない」

「相談に失敗した話を相談されても……」

 初めは、事件の話を聞くためだけに近づいた。由良のメモを見なくても、あの事件に『何か』があるのは明白だった。灰川がこれ見よがしに語るドラマティックな探偵奇譚に胸躍らせるほど鏡は子供ではなかったし、謎解きの場にいたクラスメイト達が怯えたように口をつぐむのを見れば、記者でなくても疑いを持つというものだ。

 しかし、新城は軽薄な表情からはうかがい知れぬ老獪さで、のらりくらりと追及をかわした。同時に、鏡に親しげに接するようになった。それらの態度は新城の中で矛盾せずにあるようだった。

 元々所属していたグループがなくなったから、鏡の有能さを利用したかったから、理由はいくらでもつけられるようだったが、どれも充分ではないような気がした。

 むしろ、友情とはそういうものなのかもしれない。鏡は薄々、そう思い始めていた。

 蓋をしたフライパンから、プツプツと油の跳ねる音がする。

 背後でトースターが焼き上がりを告げるのを合図に、鏡は火を止めた。先に焼いたベーコンの油を使った目玉焼きが二つ。それを切り分け、トーストと一緒に皿に盛る。

「お待たせ」

「待ったよ」

「図々しいですね」

 しかし、不快ではなかった。口にはしない。言うと、途端に安っぽくなる気がしていた。

「目玉焼きのこだわり、ある?」

「うるさい人はうるさい話題ですよね。私は醤油派で、黄身は半熟が好きです。まあ、言ってしまえばそれだけですけど」

「わかる~。彼氏がすごいうるさくって。だったら自分で作れっての!」

「高校生なのに、料理まで作ってあげるんですか?」

「時々、泊まるからね」

 この歳で泊まる、とはつまりそういうことなのだろう。

 鏡は性の話題に淡白なつもりではあったが、琴音と接する内に敏感にならざるを得なかった。ただそこにあるだけの営みを、の中学生みたいに意識してしまうことが、酷く恥ずかしかった。鏡はほのかに赤面した。

 鏡が自責している間にも新城は益体もない話を続けた。その益体もなさが心地よかった。

 目玉焼きは片面焼きで、表側にコショウが振ってあった。それもこだわりと言えばこだわりだった。

 ──これが私の人生。

 不意にそう思った。

 サニー・サイド・アップ=右肩上がりの生活。

 新城が友達になってから?

 琴音と出会って、彼女と家族みたいに暮らすようになってから?

 記者を目指すようになってから?

 それとも、施設を出てたった一人で生きていくと決めた時から?

 鏡にはわからない。

 ただ、彼女は這い上がりこそしても、落ちたことはないように思っていた。

 鏡は無邪気な人間ではなかったが、自分の努力は正当なものであると信じていたし、自身にはその素質があることを知っていたので、努力が成し遂げる結果を疑わなかった。

 自分には完全な客観性が備わっていると思っていた。鏡の中の神の声は、正しく努力した自分は認められてしかるべきだと言っていたし、それに逆らう理由もないのだ。

 晴れ晴れとした気持ちサニー・サイド・アップだ。

 両面焼きターン・オーバーなんて冗談じゃない。卵は半熟に限る。


 事件の始まりというものを厳密に規定するのは難しい。そもそもの原因か、監禁されていた期間も含むのか。しかし、鏡にとっては琴音を助け出したあの日が事件の始まりだった。

 三ヶ月が経っていた。

 灰川は一向に帰ってこない。こちらから連絡を取ろうとしても無視されるので、ただ待つしかない。かかってくる電話番号は、毎回違うものだった。世界各地を飛び回り、足が付かないように策を張り巡らせている。鏡は何だかんだ言ったところで、自分がただの高校生でしかないことを思い出さされた。自分の知識とそれを基にした想像力では、灰川が何をしているのか、十分の一も理解出来る気がしない。由良が言うには、生活費は振り込まれているらしい。生きてはいるようである。

 琴音は空白の時間を埋めようとするかのように、急速に人間らしさを身につけていった。彼女の心は子供のまま止まっており、そのために子供の脳の柔軟さを失っていなかったのだ。少し前まではたとえ目が見えても文字を書くことが出来なかったはずなのに、この短期間で琴音は四則演算が出来るようになっていた。まるで水を吸うスポンジだった。

 しかしそれでも、琴音の身体は未だ子供のままで、鳥たちに聞かせる歌には歌詞がなかった。

 欠けたものが大きすぎて、いつになれば埋まるのかさえわからないのだった。

 鏡は焦る必要はないと考えていた。

 これから一緒に過ごす時間が、月が満ちていくようにゆっくりと傷を癒していくだろうと思っていた。

 それは同時に、琴音が助けを必要とする間は傍にいられるという、打算でもあった。鏡は自分の卑しさを恥じ、それでも必要とされる快感に抗えなかった。社会正義を果たすという義務のためではなく、ただ琴音という個人のためだけに目的がすり替わっていたが、それでもいいような気がした。

 義務があるならば権利もあるはずだ。

 今までは自分が社会に捨てられないように必死に媚びを売って、おこぼれのような権利として生存を許されていると感じていた。他人を見下して生きなければ、自分を保てないほどの屈辱だった。自覚がないだけで、あるいはそう考えるだけの力すら奪われていたせいで。

 今は違う。

 琴音を助けるということが義務ならば、琴音の傍にいることが鏡の権利だった。自分が自分であるための正当な報酬として、鏡はそれを求めた。そう考えることで、鏡が生まれてからずっとのしかかっていた負い目が消えた。

 思えば、琴音が生きるために自身の身体を饗するしかなかったように、鏡は記者としての有用性を示すしかなかったのだ。それが彼女たちに求められた媚態ニーズだった。彼女ら自身が気付かないほど心の奥深い場所で、二人は通じ合っていた。

 ──魂の相似形。

 それこそが鏡が琴音に向ける気持ちを、ただの安っぽい同情と隔てているものだった。

 皆が家族や親しい人に当たり前のように与え合う、愛情の循環を忘れていたせいで複雑に絡まってしまった糸が、ようやくほぐれつつあったのだった。

 簡単な話だった。

 そして、これからようやく複雑になっていく話だった。

 鏡の、『どこから来て、どこに行くのか』に『何故』が加わった。意味や理由が必要だった。混沌のまま偶然を頼りに生きる灰川のようには、恐ろしくてなれなかった。

 友人の新城に聞きたかった。あるいは、由良に。そして、出来ることなら琴音をこんな目に遭わせた元凶の虫々院蟲々居士にだって、確かめてみたかった。

 漠然とした問いだった。

 言葉には出来ないものかもしれなかった。

 だからこそ、試してみたい。

 彼らには『何』があるのか。

 そのために、『何』が出来るのかを。


 鏡と新城の付き合いには、べた付いたものが極端に少ない。一緒にいても会話が弾むわけではないが、それが悪い意味を持つこともない。

 その日も同じ部屋にいるのにお互い話すこともなく、新城は携帯端末をいじり、鏡は見るとはなしに手帳をパラパラとめくっていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 僕は、『何か抜けてる』って言われる。手を抜いてるとも。

 誰に対してもマジじゃないって言われる。

 それはある意味当たってて、ある意味間違っているように思う。

 誰だって自分の興味あるものには本気になるし、嫌々仕方なくやっているものに情熱を持てないのは当たり前で、僕は変だから人と興味の対象がずれているのだ。だから、みんなと同じことに同じように本気になることが出来ない。

 どこを刺しても僕からは血が流れない。悪魔の心臓は、別の場所にあるのだ。

 クラスメイトから相談を受けていると、灰川が以前『恋愛は貧乏人の娯楽だ』と言っていたことを思い出す。

 大抵の人は、に耐えられないのだ。

 わかりやすいテンプレートをなぞって他から承認を得ることで、自分が今ここに立つ理由にしようとする。

 僕はそれを良いとも悪いとも思わない。ただ、自分ではそういう風に出来ないし、やる気もないだけなのだ。

 相談はやはり恋愛ごとが多い。僕にはどうしようもないし、どうする気もないのだけれど、それがかえって良いらしい。

 やっぱり、他人の考えることはよくわからない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 由良のメモも、かなりの量が蓄積してきた。

 一方で、鏡の書いたメモを由良が読んでいる様子はない。対面しているとこちらの心を読んだような発言をすることがあるが、それだけである。

 次第に鏡は自身の手帳に書かれている文字が、由良の無意識を覗いているのではないか、と思うようになっていた。

 理由はわからない。そもそも、悪魔などという存在が鏡にとっては非常識なのだから、どんな説明をされても理由になり得るような気がした。

 理性的であることを自らに望む鏡にとって、合理性とは一つのルールに万象を押し込めていくことではなかった。新しいルールブックが出される度に、読まずに捨てていたのではやっていけない。

 親が使う言語を習得する幼児の素直さで、鏡は琴音の身に降りかかったことや、その原因となった虫々院蟲々居士、そして由良や皇のような魔界の住人たちの法則を受け入れつつあった。

 何にしても、由良の内心を一方的に覗き見ることが出来るのなら、それは有用なアドバンテージだ。逃す手はない。

 手帳を読むことで、由良についていくつかわかったことがある。

 例えば、彼は興味の対象に関しては驚くほど機敏に動き、それ以外にはまったく食指を伸ばさないこと。

 鏡は由良が事件の際にその有能さを発揮していたことを、今は知っている。彼の能力に長い間気付けなかったのは、普段の由良があまりにもボンクラだからである。

 灰川がいなくなってから、由良は一週間に一度しか髭を剃らなくなった。細面で色が白い彼が無精髭をほったらかしにすると、酷くみすぼらしく見えたが、由良はそれを気にした風ではない。灰川の部屋に行くと彼の私服を見ることもあったが、スウェットやジャージなどのだらしないものばかりだった。それでようやく、由良は自分自身に対してすら無関心なのだと、鏡は気付いた。

 灰川に甲斐甲斐しく世話を焼く姿が散見されたせいで、几帳面な人間だと思っていたが、そんなことはないらしい。最低限の身だしなみも、外に出ず自分を見ることもない相手のためには不要だと考えたのか。

 自分のことには酷く無頓着な由良だったが、琴音に対してまったくの無関心ではないらしく、身の回りの手伝いをする様子は、お互いが初対面の時から一貫していた。

 また、彼の洞察力が灰川のように明晰な頭脳によるものではなく、ほとんど制御の怪しい感受性によるものであることや、灰川の部屋に琴音をかくまうようになってから一度も彼の家に帰っていないこと、スヌーピーの絵が描かれた食器を集めるのが趣味だが、それを恥ずかしがっていて鏡が来た時にはあまり見せないようにしていることも知った。

 そういった様々な情報が、どれも無駄なように思え、同時に由良という人物を知るためには欠かせないもののようにも思えた。

 鏡としては、灰川の情報が手に入れば儲けものだと思っていたが、ビックリするほど流れてこなかった。由良の家族についても同様である。

 この手帳に書かれていることが本当に由良の内心を正確に写し取ったものであるなら、そこに書かれないものはまったく記憶にないか、心理的防壁によって盗み見られないようにされているということであろう。

 ──義理堅いことだ。

 鏡はそう思う。これも興味の対象への偏執と、それ以外への無関心の表れではある。しかし、想われる側としては嬉しいことだろう。

 琴音は、彼の興味の対象なのだろうか? 微妙なラインだと鏡は考える。由良が彼女を助けるのは、打算や下心が多分に含まれている。しかし、それだけではない『何か』が時折垣間見えるのだ。そして、それが自分には向いていないのがわかる。

 とりとめのない考えばかりが、鏡を支配していた。

「私ね、悪魔なんだ」

 不意に、新城が言った。

「トール……助野透も悪魔で、私は一度殺された。だから、由良と一緒にあいつを殺した」

「は? え? きゅ、急に何の話ですか?」

 机を挟んだ向こうにいる新城は、いつもの態度のままである。しかし、内容が尋常ではない。

「聞きたかったんでしょ? 連続食人事件の真実が。灰川のトリックじゃなくて、その裏側にあったことだよ」

 戸惑いがある。

 好奇心がある。

 しかし、

「聞きたくないと言えば、嘘になります。でも何故、今その話を?」

 と言った。

 あなたが言わなければ、私はきっと一生聞くことはなかっただろうに──そういう意味を言外に込めて。

「だからよ」

 その意図は正しく新城に伝わった。

「あなたは友達として、私にフェアであろうとしてくれた。だから私も、そうあろうと思うのよ。私は灰川に指示されて、由良とあなたを見張ってるの」

 理由はわからない。きっと新城も伝えられていないだろうし、灰川の行動を推し量ろうとするのはかえって危険なように思えた。

 だから、質問の方向をずらす。

「琴音ちゃんは、監視の対象ではないのですか」

「灰川は、あの子を由良が助けようとしたこと自体には意味があると考えているようだけど、彼女本人はあくまでついでね。メインは由良よ」

 じゃなきゃ、あんな奴と話すもんか。──新城は言った。

「あの人は、極端に人と会話をしませんからね」

 灰川の言った『偶然』のイメージがフラッシュバックした。

 一部の例外を除き、由良は意味があるようにも取れる言葉を相手と同じタイミングで言っているだけだ。それは会話ではない。偶然の音の連なりが、人の心の翻訳によって意味を持っているかのように解釈されている。彼の前では、意味も理由もあぶくのようなものに過ぎない。

「由良に相談したがる人の気持ちも、わからないわけじゃないんだ。助野がいなくなってから、私も自分がどれだけ馬鹿で、ちっぽけだったか思い知らされたよ。でも、自分が馬鹿でちっぽけだってことを思い続けながら生きるのって、苦しいでしょう? 誰が悪いわけでもなく、自分の能力が足りないせいで自分が駄目なままでいることなんて、出来るなら忘れてしまいたいよ。由良と話してると、一瞬だけそれが出来るんだ。人って自分の卑しさに本当は気付いてて、それに振り回されることに疲れてる。由良は人の卑しさに一々構わない。自分の愚かさを見逃してもらえるのは、一種の赦しでもあるんだ。その場しのぎだけどね」

 寝っ転がったままだった新城が座り直して、いよいよ勢いを増して言葉を繋いだ。

「ただ、自分自身への負い目が強すぎると、かえってそれが馬鹿にされてるように思えちゃうんだよね。津田みたいにさ。人の卑しさは常にずっと、もっとで、当り散らす相手を探してる。由良には人を見下すようなところがあるし、実際に人の心をまさぐるような癖があって、負い目があるとそれに耐えられないんだわ」

 鏡には思い当たる節がある。

 鏡は、自分が人より『出来る』のがわかっていた。同時に、一番ではないことも。

 幼児的万能感が抜けきらない歳でもない。自分の能力の限界には納得していたつもりだった。あるいは諦めか──どちらにせよ、折り合いは付いていた。そのつもりだった。

 しかし、それが由良の前に立つと揺るがされる。自分の諦念を、無力を責められているような気持ちになるのだ。ある人種にとって、由良は見えすぎる鏡面のように作用した。内にある卑しさを無意識に投影してしまい、自分自身が放つ黒い光によって、その身を焼き尽くしてしまうのだった。

「それで、その私を悪魔にしたクソ野郎から忠告されてたことなんだけどね……。アヤ、あんたその手帳、捨てなさい」

 射抜くような眼で見られ、問題の手帳の上にあった鏡の手が思わず強張る。

「……それは、何故ですか?」

 問いかけの形を取った拒絶だった。どんな理屈を持ってこられても迎撃し、却下する構えだった。幼い頃から人生を共にしてきた半身を手放すくらいなら、芽生えかけた友情を無に帰すことすら考えていた。

「随分大事に使ってるのね、その手帳。革が手に馴染んでるのがわかるよ」

「ええ、物心ついた頃からずっと大切に使ってきましたから」

 だから捨てられない、と続けるつもりだったが、続く新城の言葉に鏡は心臓を止められた。

「ずっと使ってるのにページがなくならないなんて、おかしいでしょう」

 酷い貧血か、酸欠を起こしたような気分だった。

 指や身体の末端が痺れたようになって、力が入らない。

 活力がことごとく抜け出して無防備になったところに、新城の声が突き刺さる。

「あんたがそれに書き込みをするところを見てたけど、絶対おかしい。記憶が時々飛ぶって言ってたけど、飛んでた間のあんたは普段と何も変わらなかった。なくなった記憶を手帳に書き込んでるんじゃなくて、まるでみたい」

「……帰って、くれ、ませんか」

 言えたのはそれだけだった。

 友情の意味をはき違えなかった新城は、彼女が持てる礼節を総動員して、言われた通りにした。

 誰もいなくなった部屋で、鏡は嗚咽を漏らした。

 自分でもよくわからない、眩暈にも似た感情の奔流だった。

 それを聞くのは己と、その半身である手帳のみ。


   *

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