第4話 サニー・サイド・アップ/ターン・オーバー(1)
*
『鏡』
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八幡琴音は本来なら十四歳のはずだったが、とてもそうは思えないほど小柄だった。
彼女の見た目は、父と初めて関係を持った六歳の時のままだった。心の傷が琴音の成長を止めてしまったのであろう 。
思考も外見の年齢に準じた。正しい教育を受けなかった彼女は、心も幼児のままだった。心と身体が同期されているのは不幸中の幸いだったが、彼女の人生に大きな空白が存在するのは事実である。
成長の機会を奪われたせいで、あの牢屋から出ても何をすればいいのかわからないのだった。心と身体の乖離の話を続けるならば、琴音の心はまだ牢屋の中にいるのだ。
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ブラックアウトから回復した鏡は手帳を確認すると、ため息をついた。
私情が入りすぎた文章。覚えていない時間の私は詩人気取りか? これでは記者失格だ。
しかし、先行きの膨大さに眩暈を覚えるのも事実。
手帳に書かれなかった先を続けて、考える。
琴音の空白の時間が埋められ、心が実年齢に沿うように正しく成長すれば、身体もそれに従うだろう。自分がされた仕打ちとも向き合い、乗り越えることも出来るはずだ。
──しかし、正しさとは何だ。
今までは当たり前のように自分の中にあったもの、それが鏡には見えなくなっている。
人の心の成長というものは、結局のところ答えの出ない問題である。絶対の正解というものが発見されていれば、既にこの世界の人類は皆一律に同じ心の形で以て暮らしているだろうから。
鏡は自分がそこそこの地頭の良さを持っていることを知っている。少し考えれば、大体の問題を解決ないし処理することが出来た。能力を過信していたわけではなく、単なる事実だ。しかし、それでも琴音を救うには足りない、足りな過ぎる。
心の中で、その事実が痛切な棘になって暴れまわる。
それが鏡のため息の理由だった。
学校を終えて、学生寮へと向かう。足取りは重い。
鏡の自宅は、寮の中の一部屋だったが、向かう場所は厳密には異なる。鏡の部屋がある二階の手前から二番目、灰川の部屋が目的地だった。
22号室の表札には、汚い字で付け足しがされている。「22(1B)」。
寮は全体的に古く、インターホンも壊れているものがほとんどであることを、鏡は身をもって知っていた。そのため、来意をノックで伝える。
「どうぞ」
由良の声だった。鍵はかかっていない。
不用心だな、という思いが湧いた。人間以上の力を持つ由良がいるのだからそんなことはないのだが、彼の声を聞く限りではどうにも不安になってしまう。
「ノックだけで簡単に人を入れるのは良くないですね。私じゃなかったらどうするんですか」
なので、自然と責めるような調子になる。
「連絡くれてたから、おたくだってわかってたよ」
加えて、灰川の部屋を中心に寮に張った魔力の細い糸が、一種の警報装置となっている。それによって由良は鏡を感知したのだが、わざわざそのことを言ったりはしない。ひけらかしていると思われるのが嫌なのだった。
それでも、何かを含むような部分があるのは自然と伝わる。多くの人は由良のそうした態度を、見下されていると受け取った。鏡も例外ではなかった。
とにかく誤解されやすい男だったが、誤解を誤解のまま放置する怠惰な姿勢を見る限り、由良にも責任がないわけではなかった。
鏡は腹中で舌打ちをする。記者として自身に求めるものが、それを表出させることを許さなかった。あくまで表情はにこやかに話を続ける。
「琴音ちゃんは元気ですか」
「今はお昼寝してるよ。おたくが来るまで起きてるつもりだったらしいけどね」
「昨日夜更かしさせすぎたんじゃないですか? 困りますよ」
由良はライトグレーのスウェットの上下を着ていた。外に出る格好ではない。髪は、あれから宣言通りに短く刈っていた。代わりに髭がうっすらと伸びている。灰川がいなくなってから、彼の自分自身に対するずぼらさは日に日に増していたが、鏡はそれに関して何も言うつもりはない。彼が必要な対象には必要な分だけ甲斐甲斐しく接していると思っていたからである。
琴音の世話はほとんど由良がしていた。
由良は出席日数を計算し、遅刻欠席早退を組み合わせてなるべく琴音の傍にいる時間を作っている。
本来なら鏡もそうしたかったが、学生としての本分を無視出来なかった。孤児である鏡は、金銭的な面においていささか弱みがある。琴音を軽んじるわけではないが、学業を疎かにして奨学生としての立場を失うわけにもいかないのだった。
海外に行ってしまったせいで空いた灰川の部屋を拠点にし、由良と鏡は琴音との奇妙な共同生活を営んでいた。
(これじゃあ、由良さんが主婦みたいですねえ……)
鏡は渋い顔をした。琴音と家族になるのは構わないが、この不気味な男と仲良くすることは出来そうにないと思った。
とは言え、実際のところ由良は琴音に良くしてくれている。頭ではそう思うが納得は出来ない。「生理的に無理」というやつである。
鏡の心中を知ってか知らずか、由良は台所に向かった。
「何か飲む?」
「コーヒーを」
部屋を見渡すと、初めてここに来た時のことを思い出す。
琴音を八幡邸から奪ったその足で向かったこの部屋は、まさしく足の踏み場がないほどに雑多な物であふれかえっていた。
ほったらかしの薬品が入ったビーカー、血の錆が浮いた鉈などの危険物から、本物らしき人の頭蓋骨やファイリングされていない資料の数々を由良が片付けたおかげで、ようやく生活感ある清潔さを保てるラインにまで達したのだった。
もっとも、その過程で灰川は酷く不満げだった(曰く「僕はすべての物の配置を覚えているから、凡愚共には散らかっているように見えても最適化された状態なのだ」)。妥協点として、片付けた物はどれも捨てずに箱に詰めただけであり、本質的な問題は先送りされた。
「砂糖はいる?」
「いりません。ミルクも」
由良は紅茶の入ったポットと、ペーパードリップのコーヒーを持ってきた。
居間にかぐわしい香りが満ちた。
「コーヒーはお嫌いでしたか? 最初ここに来た時は飲んでいたように記憶していますが」
鏡は自分がコーヒーを頼んだせいで二度手間になったことを、少し悪いと思っていた。それがそのまま口に出せないのが鏡という人間の欠点だったし、現在の由良との関係の結果であった。
そもそも、鏡は琴音を救出した日に由良を殴ったことを忘れていない。あれに関しては、自分には殴る理由があったし、根っこの部分での不信感を植え付けるのには充分だった。全部を許せないわけではないが、かといって全部許す気にもなれない。更に腹立たしいのは、由良がそのことをまったく覚えていないような態度を取ることだった。
「灰川との付き合いで飲んでるだけだよ。一人じゃあ、とてもそんな気になれない。それに、琴音はコーヒーを飲むと酔うんだ。だから最近はお茶ばっかり」
「酔う?」
「うん。酒みたいに酔っぱらう。妙な体質だよな」
由良がカップを並べている間に、鏡は琴音を起こしに行くことにした。鏡自身は寝ているのならそのまま寝かしておけばいいと思っていたが、由良が用意したカップは三つだった。
ちらと覗くと、隣の部屋はカーテンが閉められており、薄暗い。
しかし、それより先にすることがあった。
「──話があります」
「琴音を起こしてから、話そう」
「聞かせるべきではないことです」
「そんなことないと思うけどね」
言いながら、由良は自分の分のカップにだけ紅茶を注いだ。まるきり鏡の言い分を無視するつもりでもないらしい。
「あの子はまだ子供です。一人じゃあ何も出来ない。だから、」
「だから僕らの玩具になれって? あのね、自分の知らないところで人生を決めつけられるのは殺されてるのと同じなんだぜ」
ちょっと前までと同じようにね、と由良は言った。
注いだだけで口は付けず、ただカップを抱え込むだけだった。湯気を嗅いで、温度だけをすすっているようであった。
鏡はその態度に、頑なさよりも厄介なものを感じ取った。なので、自分の言い分だけを手っ取り早く押し付けることにする。
「あの子をこれからどうするつもりですか」
「特別支援学校なんかでもあの抗いがたい魅力がある内は無理だろう。ツテのある孤児院でもカバーしきれるかどうか……。僕としては上手く行って半年、イモを引いたら一年くらいが面倒を見られる限界だと思ってる」
「そんな無責任な!」
「やれもしないことを、やれると言う方が無責任だろ」
「本当はやれるのにですか?」
「何言ってんだ。人が死んだり死なせたりするのをちょっと見た程度で、一端の人間にでもなったつもりかよ。僕らはちょっと賢しらぶった、ただの高校生だぞ。一年も子供の世話するだけでどんだけ大変だと思ってるんだ。子育ての費用は約二千万円くらいとか聞くけどね、おたくはそれを払うあてでもあるのか?」
「でも」
わかっていたつもりだった。でも、知らない内に忘れようとしていた現実だった。
鏡は自分には何かが出来ると思っていたが、その何かに具体性がないことに気付きつつあった。
「それに、あの子が何も出来ないと言っても、その内に何かが出来るようになってもらわないと困る。詐欺師の言い分だけど、自分で選択肢をつかみ取らないことには、生きてると言えないんだ」
例えば、殴られるか金を払うかどっちが良いかと聞かれたとする。殴られるのが嫌で金を払う。あとで文句を言っても「お前が自分で払うと言ったのだろう」と言われ追い返される。
無論、まともなやり口ではない。しかし、そういう人生を歩んできた人間もいる。
そのことがわかるから、鏡は黙り込んでしまう。
「弱いからって、あの子を操り人形のようにしてしまったら、牢屋から引っ張り出した意味がない。自分で選んだという実感が、自身を生かす原動力になるんだ」
由良の言うことは一見正しいように思えた。しかし、喉元に反発の小骨がつっかえている。鏡はそれを言葉に出来ないのがもどかしい。
「それに実際的な話をすると、期限の一年が二年や三年になったところで同じだよ。僕が死んでしまうかもしれないし、そもそも金を出してくれてる灰川にはメリットがないんだからな。僕自身の善意も無尽蔵じゃない」
鏡は由良の言葉尻に利己心のにおいを感じた。反論のフックとしてそれに飛びつく。
「ほら、やっぱりあなたは自分のことしか考えていない! 大方、琴音ちゃんを助けたのは下心があったからでしょう。あの子が美人で、わかりやすく哀れだったから!」
「うん。そうだ。僕は下心なしには何にもしないよ」
ならば、と続けようとして鏡は気付いた。例え下心から発した行為でも、実際にそれが琴音のためになっている内は、打ち切られるのは損なのでは。
内心の葛藤を知ってか知らずか、由良は続ける。
「僕は自分のやれる範囲でやれることをやりたいようにやる。その結果で誰かが影響を受けても、責任を取りきることは出来ない。僕に責任があると言うのなら、影響を受けた相手にも自分の分の人生を扱う責任があるからだ。僕は琴音にもその責任を負う能力を身につけてほしいと思っている。その責任の所在を誤魔化すのは、相手の人格を認めていないのと同じだ」
この訳知り顔で放たれる言葉に、鏡はどうにも腹が立って仕方ない。一応その場は納得してしまうだけに、余計だ。
それはそうだ、と思う。
しかし同時に、だから何だとも思う。
責任なんてお前が言っていい言葉かと。
こう言うと、「誰が言うかで内容の正しさを推し量ろうとするのは、馬鹿なことだ」と返されるだろう。それも正しい。だが、反発は消えない。
鏡は無理に言葉を飲み込んだ。彼女は諦観との付き合い方を覚えつつあった。
「あーああー、ああーあー♪」
隣の部屋から、歌が聞こえた。
琴音の声だった。話している内に目を覚ましたらしい。
彼女は時々こうして歌を歌う。常に即興のオリジナルソング。歌詞はないが、不思議と心を惹き付ける何かがある。
窓をコツコツと叩く音がした。少し前からベランダに巣を作った、ツバメだった。
──琴音の歌を聞くために、彼は飛んで来たのだろう。
おとぎ話のような考えを、鏡は否定する気になれなかった。歌っている琴音も、ツバメが来ると喜んでいる。幸せな嘘をやっきになって否定する必要はない。棚上げにも似た現状維持が今の鏡のスタンスだった。
「それで、琴音にさっきの話を伝える?」
歌を遮るように由良は言った。
鏡はいささか気分を害して、
「今は言いません。言うにしても、タイミングを見計らって私から言います」と言った。
「不誠実だと思うけどね」
「フェアならば相手の気持ちを踏みにじっても良いなどという道理はありません。あなたが誠実なのは、自分に対してだけでしょう」
「うん。相手のことを思ってすることが必ずしも相手のためになるとは限らないから、自分のことにしか誠実にはなれないよ」
由良は自分の心の中に帳面を持っている。それに他人の価値を書き込んでいるのだ。
彼は卑しい男であった。
由良をそれだけの人間にしないのは、彼はその帳面を自分以外も付けていると思っていることだった。ねじくれた客観性が彼に恥というものを身につけさせ、分をわきまえた振る舞いをさせた。
知らず、鏡は長年連れ添った黒い手帳の入ったバッグを確認するかのように引き寄せた。他人の卑しさが自分に跳ね返ってくる瞬間に、まだ彼女は慣れていない。
「……他人に感情移入出来るだなんて聞いていたから、少しは期待していましたが、まったく期待はずれでしたよ」
「人の心なんてわかるわけないだろ。馬鹿の権化かよ」
思わず机を叩いた。
鏡の手元にあったマグカップが衝撃で倒れ、熱いコーヒーが跳ねた。
「あっつ!?」
服にこそかからなかったものの、手を少し火傷した。灰川に折られた指にそえられたギプスに、茶色い染みが出来た。
「病院に行って、取り替えてもらいなよ」
そう言って、由良は手早くこぼれたコーヒーを拭き取り、鏡に氷水の入ったビニール袋を渡してよこした。盲人と生活する内に馴染んだ動作だった。目が見えないというだけで、飲み物をこぼす確率はずっと高くなるのだ。
自分が火傷を負う原因を作った相手に良くしてもらうのは、何だか釈然としない。由良と話していると、いつもこんな風になる。
──やり場のない憤りと痛みの中で、ふと鏡は思う。
ポットは重くて倒れようがない。しかし、由良の紅茶は?
由良のカップは鏡のコーヒーと同じように倒れていた。由良は口を付けていなかったはずなのに、なぜ紅茶がこぼれていないのか?
不思議に思って、横に寄せられたカップに触れると、手元の氷嚢よりも冷たくて驚いた。
カップには霜が降っていて、中の紅茶は凍り付いていたのだった。
普段はそうは見えないが、自分が相手にしているものが異界の化け物であることを、鏡は改めて確認したのだった。
背骨を走る冷たいものは、冬の隙間風だけではないのだろう。
「おは、おはよう、お、お父さん、お姉ちゃん」
歌い終えた琴音が、こちらの部屋に来た。
どもりのある言葉とは裏腹に、流れるような仕草で鏡の頬にキスを、そして由良には天真爛漫にハグをした。可憐な妖精めいた表情だったが、それを仕込んだ男の欲望を知っている鏡には、いっそグロテスクにすら映った。
由良も同じ感想だったらしく、彼自身『抗いがたい魅力』を持つと称した魔性の少女に抱きつかれても、渋い顔をするばかりだった。
無条件に愛されたことのない人間が心に抱える、途方もない欠落だった。彼女が差し出せるものは自身の身体しかなく、それに値段をつけることに慣れ切っていた。
人生にぽっかりと開いた穴は、いつでも自信を飲み込んでしまおうと待ち構えている。そこには、極小の地獄があった。
「僕は君のお父さんじゃない。この世にはもう、誰も君の父親になれる奴なんかいない」
「う、うん。ごめんね。ごめんね」
琴音は由良を父と呼んだ。誰の幸せも生まないやり取りだった。
牢屋から結構な時間が経つのに、琴音は常に怯えた様子を崩さない。それには、保護者である由良の態度もあるのだろうと思った鏡は抗議しようとしたが、
「別に父親じゃなくてもちゃんと君を好きになってくれる人はいるし、その人は君を助けてくれるんだ。変に他人を誰かの代わりに仕立て上げようとするのは、その人に対して失礼な行為なんだぞ」
変に真面目な由良の言葉に毒気を抜かれてしまった。
「わわわ、わかった。気を、付ける。ごめんね?」
琴音の吃音症は悪化していた。マシになるのは鏡と二人きりの時だけだった。
「謝ってばっかりだな、って言ったらまた謝るだろうから、今度は謝り方のバリエーションを教えよう。それで誤魔化されてくれる人もたくさんいるから」
とりあえずは、由良のうがった社会観を琴音への教育からなるべく取り除くように努力しよう、と鏡は決心した。
「えっ、えっと、じゃあ、する?」
「しない」
する、とはセックスのことである。
琴音は性的な自制がまるきり壊れている。と言うよりも、その点に関しては積極的に間違った教育が為されており、彼女がそれ以外の生き方を知らないからだった。
素質にどれほどのものがあったのかはわからないが、教育が人を作り上げるということの、悪例の極みであった。
(……本当に手を出してないんですよね、『お父さん』?)
(女の人は苦手なんだよ。
琴音に聞こえないように声を潜めた会話の中に、聞き捨てならないものがあったが、確かめるのもはばかられた。
人を惹き付けずにはいられない性質は、実は琴音だけのものではない。色は異なるが、灰川にも同じものがある。由良はそれに慣れているのだ。
「あのね、琴音ちゃん。そういうのは軽々しくすることじゃないの」
鏡がたしなめても、琴音はきょとんとして首をかしげるばかりだった。何気ない仕草に過剰なコケティッシュさが含まれており、柄にもなくクラクラする。
琴音にはセックスを秘め事のように扱う社会的道徳が備わっていなかった。というより、その気がないのにセックスをすることを嫌がるという価値観を育めなかったのだ。
更に、同居人である由良の価値観が一般的なものとずれているのが不味かった。彼は潜在的な
由良は性を食事や睡眠と同列に扱うために、セックスの話題を公の場では表に出さないという価値観に、密かな反発を抱いていたのだ。そのため、琴音を抱かないのは単純に彼の好みということになる。
セックス以外に他者に干渉する方法を知らず、自分の価値を性的魅力しかないと考える琴音は、不安になり、より必死に彼に迫るようになる。悪循環だった。
しかし、いずれ彼女が乗り越えて身につけなければならない在り方でもあった。
それがわかるから、鏡はあまり強く出ることが出来ない。
琴音の頭をなでるに留める。琴音は、猫のように目を細めた。
ことり、と硬質な音がした。
由良が琴音の分の紅茶を入れたのだった。彼女のカップは落としても割れないように、陶器ではなくプラスチックのものである。
当然のように、鏡が手を取り、カップまで導いた。
ここひと月ほどで、極々自然にそうした態度が取れるようになっていた。
鏡は思う。
これが、今の在り方が正しいとは言えなくても、幸せの形の一つではないかと。
妥協かもしれないし、琴音から自立する力を奪うものかもしれない。それでも、この陽だまりの中でまどろむような時間を、無駄とは思いたくなかった。
しかし、優しい時間は万人のためにあるわけではない。
「電話、出た方が良いよ」
鏡の電話が鳴った。
着信音が鳴る前に由良は鏡の電話が入ったポケットを指さしていたが、もうその手のことを考えるのも面倒だった。
化け物どもは化け物同士で好きにやっている。ならば、私も好きにやるさ。
「やあ、僕だ。スピーカーモードをONにすると良い」
電話の声は、灰川のものだった。
言われた通りに操作すると、灰川の声が部屋にいる全員に聞こえるようになった。
「紅茶を入れているな、そうだろう? ミルクティーを入れるにあたって、ミルクを先に入れるか後に入れるかでイギリスなんかでは論争になるらしいが、君はどう思う? 僕は先入れ派だが、好みやその日の気分にもよるし、この手の物事に絶対の正解を求めようとするのは、多様性や進化の芽を潰すようであまり感心しないね」
「はぁ……」
軽快に踊るような口調の灰川。
知らず、警戒心がつのる。
指を折られるまで、鏡は灰川のことをはっきり言ってナメていた。
どんなに裏で暗躍していようと、彼女の広い手が自分に及びそうになっても、心のどこかで「まあ、何とかなるだろう」「さすがに殺されはしないだろう」といった、甘えがあった。無知から来る楽観である。
それらが何の支えにもならないことを、鏡は自らに振るわれ、目と鼻の先をかすめて行った暴力によって思い知らされたのだ。
今まで何を成し遂げてこようと、死んだらそこで終わり。
そんな身も蓋もない理不尽さをチラつかせる灰川を、鏡は恐れるようになっていた。
電話越しに話しているだけ。それなのに、灰川は自分をいつでも殺せるような気がしてならない。紅茶を飲んでいるなんて一言も喋っていないのに、灰川は一瞬で見抜いたことで、鏡の疑心暗鬼は加速していく。
「えっと、何の用事ですか。電話だったら由良さんにかければいいのでは?」
鏡は灰川に自分の電話番号を教えていなかった。結果から言えば、プライバシーの概念など灰川にはなかったのだが。
由良の方を見ると、口の動きだけで「僕は電話には出ない」と言っていた。聞こえてもいいだろうに、この二人の関係性はわからない。
「君が聞きたいことがあるだろうと思ってね」
ずるい言い方だった。
聞きたいことならいくらでもある。
何故、由良は琴音を助け、灰川がそれを支援するのか。
虫々院蟲々居士のことについて、また何かつかめたのか。
琴音の度し難いほどのフェロモンを抑える方法はあるのか。
本当の意味で、琴音の心を救うには、どうしたら良いのか。
それらを聞いても教えてはくれないことはわかっている。あるいは、絶対の正解がないことなのかも。
だから、違うことを聞いた。
「どうして、私なんですか」
口を挟む様子のなかった琴音の表情が、わずかに歪んだ。
琴音を助けることは良いことだと思っていた。しかし、それに伴う責任の意味を知るには、鏡はまだ若く、未熟だったのだ。人ひとりの人生を背負うのはとてつもない重圧であり、鏡がいかに琴音との関係を好ましく思っていても、重圧がまったく苦にならないわけがないのだった。
灰川の最も人の柔らかい部位を食い破るような言葉によって、その脆さが露呈してしまったのだ。
琴音は、そうした鏡の心を、自分を傷つける不安材料と受け取ったようだった。
鏡がどんなに親しく思っていても、琴音の方ではまだ心を開き切ってはいないのだ。そうすることでしか、自分を守れないのであった。
「おかしなことを言うなあ。君が自分でそうすることを選んだのではなかったのかね?」
──選択。
『どこから来て、どこへ行くのか』の連続。選ばないでいることも許されない。
みんな勝手なことばっかり言って、私に面倒を押し付ける。畜生、詐欺師共め。
「確かに私はそう望みました。しかし、あんな風に傷ついた女の子を助けないでいられるわけがありません。もし同じような目に遭っている人がいたら、その時も私は同じように助けるでしょう」
「それが君の言う、『義務』かい?」
粘つくような声音。
試されている、と鏡は思った。
それならそれでいい。
自分の正しさを示すだけだ。
「ええ、そうです。正しいことを為すことが、社会に携わる者としての義務ですし、己を人として生かすための責務です」
「義務だからやる、というのは思考停止に過ぎない。その奥に、『義務を立派に成し遂げたい』という自分の気持ちがあることを認めたまえ。理性的に振る舞おうとして、感情に蓋をするのは愚策さ。本当に賢い人間は、自分の感情と建前をどこまで上手くすり合わせられるか試し合うものだからね」
「あなたも、そうしているんですか?」
「僕は賢いだけじゃない。強く美しいから、建前の方から僕にすり寄ってくるんだ」
教科書に書かれた公式を読み上げるように、太陽が東から上ると言うように、自分を褒め称える言葉を世界の真理と疑わない調子で灰川は言った。
「私にはわかりません。そんな、いいかげんなものに自分を委ねるだなんて……」
「感情は素粒子に似る」
「はい?」
「僕はね、意外と思われるかもしれないが、因果律と言われるものをそこまで重要視しているわけじゃあない。理屈の隙間を理屈で詰めて、科学と技術で拮抗した蓋然性の入り込む余地のないギリギリの領域でこそ、何の脈絡もなく本物の偶然が生まれるように思う。これはそんじょそこらの自分を天才だと思ってる幸せな箱庭思考の人間が言ってるんじゃないぜ。天上天下唯我独尊であるこの僕が言っているんだから間違いない。わかるかな、どんなに僕が手を尽くしても、失敗することはあるし、予想出来ないことは起こり得る」
誰にとっても当たり前のことを、さも特別なように灰川は語った。他の人間が言えば不適切な例えだったかもしれないが、そこには誰にも口を挟ませない圧倒的な自負と、それを成し遂げてきたバックボーンがあった。
「感情は偶然に生まれるものだと?」
「よくフィクションなんかでも言うだろう、『理屈じゃない、感情だ』なんてさ。感情が何らかの原因から生じるものであって、それを解体して解体して解体しても最後には結局割り切れないものが残るということを、普遍的なものとしてみんな何となく理解しているんだろうさ。つまりは偶然、絶対の無から生まれる素粒子だ。しかし逆説的だが、割り切れないとわかっていても割れる所まで割ってみたくなるのが人情。余った分が理屈だ。原因が結果に先んずると言うのは因果律の基本的な法則だが、偶然から生じたものにそれ以上の理屈は本来付かないのだよ。だからこその偶然だ。それを翻訳しようとしたがために後から理屈が付いて行く。例え話をしようか。君が友達と喧嘩をしたとする。特に理由はない、何となくの話が偶然こじれて口論にまで発展してしまった。その場は別れて、仲直りも出来ないまま一日経ち、二日経ち……。さて、君ならこの場合どんな感情を抱いていると思う?」
「えーっと、本当に何でもないことで言い争ってしまったのなら、その場は怒ってても、一週間もしたら気にしてないと思います。でも、気まずくって仲直りを上手くする自身はないかも……」
「そうだろうね、実に自然だ。人の感情というものは実際そう長続きするものではない。理想に燃えている時なんかは迷惑な話だが、寝て起きれば良かれ悪かれほとんどの気持ちはニュートラルに戻るようになっている。睡眠は擬似的な死であり、思考に本当の意味での連続性があると考えるのは一種の傲慢だからね。話を戻そうか。つまり、喧嘩をしてその場では怒りが生じる。これは偶然発生したものだ。別れてから君は自分が何で怒っていたのか考え始める。すると『相手が言わなくても良い余計なことをわざわざ言ったから、こちらも引っ込みがつかなくなったのだ』だとか『悪気はなかったのかもしれないが、相手は自分のコンプレックスを刺激する地雷を踏んだ』だとかの理由が思いつく。それは後から思えばそうかもしれないが、本当にその場での理由だっただろうか? 後付けした自分を納得させるための理屈ではないか? 僕はそんな風に思う」
ふと、鏡の脳裏に恐ろしい考えがよぎった。
まず
目の前に存在する事象を、自分の納得出来る範囲の理屈に押し込めることで自我を保っている。押し込めるというと悪いことのように思えるが、ただ納得出来る認識の範囲が広いか狭いかという個人差に過ぎない。これがつまり、先程灰川が言った翻訳行為である。
しかし、灰川はその翻訳する前の原典を、偶然生じた事象を何ら分割することなく、混沌を混沌として受け入れているのではないか。そんなことを考えてしまったのだ。
無論、ありえない。大海をたった一人ですべて一滴残らず飲み干すに等しい行為だ。
無理に決まっている……のだが、それも灰川が言うところの、ただの理屈に過ぎない。不可能を可能にしてしまえるだけのスペックを持った個体が偶然生まれたとしても、何もおかしくない。
偶然の存在を完全に許容した時点で、すべての『ありえない』という理屈には蓋然性が漏れ出す余地が出来てしまうのだ。
その恐ろしさ。
自分たちの信じてきた世界が、認識が何の意味もなかったと思い知らされ、揺るがせられる恐怖。
やはり灰川は魔人だ。
由良にも言える部分だが、その集団と価値観を共有できない個体は、大多数にとって社会的な化け物として認識される。
──危険だ。
鏡の思考のすべてが、そう言っていた。
「偶然は理由よりも上位にあるということですか」
「違うな。別の概念だと言いたい。人が人である以上それらを紐付けてしまうのもわかるが、お互い本当の臨界点では干渉しあえないものなのだ。偶然は偶然なのだから偶然。これは理屈でも何でもなく、翻訳や解説を拒むアンタッチャブルであることこそが偶然の本質なのだから。つまり、結果が原因に先んずることもあり、その場合は人の認識をどうにかするための翻訳行為が必要となる。翻訳を介するからには、どうしても原典からこぼれ落ちるニュアンスもあるのだ。これを常に人の心は繰り返している。だから、自分でも間違った行為だとわかっていても感情に振り回されてしまうことはある。人を愛するが故に間違った行いをしてしまう人を責めるのは簡単だが、それを容易く断罪しようと考えるのは越権行為に過ぎない。人の心の臨界点に触れてはいけないのだから」
「……」
重たい言葉だった。人の生き死にを見てきている探偵だからこそ言えることのように思えた。
「ああ、もちろん僕は例外だ。争いは同じレベル帯でしか発生し得ず、神である僕は何をしても問題はない。ま、せいぜい、頑張りたまえってことだね」
それで電話は切れた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
僕の性はねじくれてしまっている。
童貞だから元々その
馬鹿なことを考えているとは思うし、一部の問題を全体化して語りたがるのは間抜けだってわかっている。
わかってはいるけれど、気持ちの方がついて来ない。勃たない。
それに、灰川!
僕はあいつを、今でも『彼女』と呼ぶか『彼』と呼ぶかで迷うことがある。
灰川は身体こそ女だが、性同一性障害かつ同性愛者、つまり性自認と性指向が共に男なのだ。
そんな性がツイストした灰川のことを好きな僕も、自然と一緒に踊らざるをえなくなる。
ねじくれたまま共に成長した一対の樹木は、互いの
このことを正しく人に伝えるのは難しい。でも、いずれ琴音には話しておかなければいけないんだろうなあ……。
気が重い。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
帰宅した鏡が手帳を開くと、新しいページにおかしな文章が書かれていた。
普段の意識の空白を埋めるための自分の筆跡ではない、やや端々が尖った書き方。せっかちな風に文字の右肩が上がっている。
──由良だ。
そう直感した。
実際、手帳はバッグに入れたまま手放してはいなかったし、由良の前であまり見せたことはなかったが、それでも、そんな一般常識は奴には通用しないように思えた。
ふと眼を離した隙に、熱い紅茶を氷漬けに出来る相手である。
こちらに気取られぬうちに手帳に文字を書き込むなど、造作もないだろう。
問題は、由良がどういう意図でこれを書き込んだのか、ということだ。
ほとんど下衆な迷惑メールにも似た脈絡のない文章は、場合によっては重要な告白とも取れなくもない。
つまり、琴音との生活において、自分が彼女の親代わりとしてちゃんとやっていけるというアピール。そして、自分の弱みを晒すことで、同じ立場の鏡に歩み寄ろうという姿勢の表明。
悪くない。
琴音の前では見せない、記者としての獰猛さで鏡は笑った。
思い出すのは、灰川に言われたこと──僕と由良君は手品師の右手と左手だ──である。
元々、鏡は由良の内面に関して探りを入れるつもりだった。向こうから来てくれるのなら、願ってもないことだ。
これは言わば、由良と自分の交換日記だ。
書き込むことが出来るのなら、読むことも出来ると考えた方が良いのかもしれない。深読みかもしれないが、何も考えないよりはマシだ。
あまり見られたくない情報も、子供の頃からの赤裸々な日記も含まれていたが、背に腹は代えられないと割り切った。
手帳を別の新しいものに変える発想はなかった。
幼い頃から使い古した黒革の手帳は、もはや鏡の半身と言っていい存在であり、何も持たずに生まれてきた彼女の絶対の拠り所だった。
すぐには書く内容が思いつかず、鏡は手帳を閉じ、眠ることにした。
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