第3話 Call of Duty(3)

『鏡』

「八幡琴音は存在自体が高密度の媚薬だ。それを男連中、いや一部の女もか。そいつらの手の届く場所に置いたら、樹に塗られた蜜のように虫共に貪られるのは当然だろう。彼女の美貌は、馬鹿げた話だが人の劣情を狂おしいまでにかき立ててまともな判断を見失わせるのだ。傾国の美女ってやつだね。ははは。まともな判断が出来ないと言えば、琴音の死亡届は出されておらず、そもそも彼女は学校にも行っていない。その内、役所かどこかから追及が入っただろうに地元から移らないとは、随分と杜撰な考えもあったものだね」

 灰川はまるで見て来たかのように、八幡家の家族ぐるみでのおぞましい所業について語った。

 修一郎と修二の兄弟は何度か立ち上がり探偵の演説を遮ろうとしたが、その度に叩き伏せられ、肩と股関節を外されてからはただの呻く肉の袋になっていた。

 睦美はその惨状と、自分たちの罪業が暴露されることに顔色を失い、家長の修平は面を伏せて表情が読めない。

「まったく、味気ないにも程があるよ」

 灰川は冷笑と共に、謎を終わらせた。

 あまりの残酷さに鏡は見ていられず、ついに口をはさんだ。

「この家の人間が腐っているのはわかりました。ですが、あなたがわざわざそれを暴きに来たのは何故ですか?」

「簡単なことさ。僕は時々こういう風に突っつけば埃が出そうなところを、探って回るようにしている。ちょいと話をすれば、良いになってくれるからね」

 あまりの怒りに、鏡の視界が赤く染まった。

「あなたは……あなたは最低だ! 弱い人を食い物にする、最もよこしまな悪魔だ!」

「義憤か? ユニセフにでも全財産を投資すると良い。少しはマシな気分になれるかもな」

「ああああああああああああああ!!」

 沸騰した気持ちで震える手を握りしめ、鏡は灰川に殴りかかった。

 勝算があったわけではない。倒れ伏した二人を見れば、自分も同じような目に遭うのはわかりきっている。それでも、自分の怒りを表明せずにはいられなかった。

 鏡は知らず知らずの内に、生まれてからずっと自分という存在を殺され続けてきた八幡琴音に感情移入していた。どんな人間であっても、そんな非道な扱いをされて良いとは思えなかった。だから、彼女を利用しようとする灰川が許せなかったのだ。琴音を慰み者にした八幡家の人間と何も変わらないと感じた。

 勝って得があるからとか、勝てなさそうな相手だから喧嘩を売るのを止めるだとか、そういう打算は出来なかった。例え自分だけでも、なけなしの勇気を引っ込めるような卑怯者がこの世の全てじゃないと、証明しなければいけなかった。

「ふん」

 だから、振り上げた拳があっさりとつかまれても、手首から握られているだけでへし折れそうな力が伝わってきても、絶望はしなかった。

「折るなら折ればいい。私は絶対にあなたには屈しない」

「馬鹿な女だ」

 灰川はその細身からは想像も出来ない万力めいた握力で、鏡の膝を無理やり床につけさせた。

「君は自分の薄っぺらな正義感が為した結果が、どこに向かうかをまるで考えていない。それで義務だの正義だのと、よく言えたものだ。自分の行為を全て自分のエゴから生じるものと決めつけている由良君の方が、百倍マシだ」

 その言葉で、ようやく鏡は由良の存在を思い出した。不思議なことに、彼のことを意識しようと思っても考えが端からすり抜けていくような、細かい砂か煙のような感覚がした。

「彼は、今どこに?」

 鏡の質問に対して、灰川は抱き込むように口を鏡の耳元に近づけて、囁いた。

「僕と由良君は手品師の右手と左手だ。片方が派手にハンカチを見せびらかしている時に、もう片方が種を仕込む。もっとも、彼は自分が何をしているか僕に気付かれていないと思っているようだが、ね」

 もっと詳しく内容を聞こうとしたが、それは鏡自身によって遮られた。灰川は言い終わると、鏡の右手の人差し指と中指をまとめて折ったのだ。まるで小枝のように、軽い調子だった。あまりにもシンプルな痛みに、鏡はただ悲鳴を上げることしかできなかった。

「感謝したまえ。手首を砕かなかったし、指も綺麗に折ってやったんだから。それとも、君の正義の怒りはその程度の苦痛で忘れられるようなものなのかい?」

 熱い涙が両目からあふれた。

「う、うう、うううううう」

 折られた指から痛みが全身に広がって、四肢がバラバラになるような気がした。肉体だけではなく精神の痛み、酷い無力感だった。これまでの自分の人生を全否定される苦痛を、鏡はこの短時間に徹底的に叩きこまれていた。

 それでも鏡は立ち上がらずにはいられない。灰川に、自分に、そしてまだ顔を見たこともない八幡琴音に、不屈の意志の尊さを証明しなければならないと信じていたからである。

 灰川への意地か?──惜しいが違う。

 ジャーナリストとしての使命?──それもあるが、それだけじゃない。

 人としての尊厳?──かなり近い。

 つまり、人として生まれたからには為さねばならない当然の義務として、鏡が己に課しているもの全て──それらが一気に彼女の細い肩にのしかかってきたのだ。

 記者という仕事について回るある種の厚顔さと、青臭くさえある正義感は、鏡の中で矛盾せずに同居していた。

「うおおおおおおお!!」

 叫んだ。

 だが、それだけだった。それ以上でも、以下でもない。

「何か勘違いしているようだが、正しい気持ちから生じた行為が正しい結果を導くとは限らない。多くの人は気持ちと行動が比例しないし、同時に理想を達成するために必要な能力が足りないことがほとんどだ」

 鏡の決意も虚しく、自然災害にも似たシンプルさで灰川は脇腹を引っかけるように蹴り上げた。

「見たまえ。あれが狭い了見りょうけんで正しさを推し量ろうとした挙句、何もかも失った人間の顔だ。君がどう思っていようと、もうこの事件は全部終わったんだよ」

 イヴをそそのかす蛇の狡猾さで灰川は鏡のあごに手をやり、無理やり顔を上げさせた。

 視線の先にあったのは、死相とも言える虚無を貼りつけた八幡修平の顔だった。さっきまで顔が見えなかったが、こんな表情をしていたのかと思うと、鏡の背中にどっと冷や汗が噴き出た。

 顔は知っている。パーツは全部見たことのある同じもののはずなのに、前と今とでは全然違う。まるでとでも言うべき不吉さがあった。

「由良君が全部片付けたのさ。彼は、探偵小説のクライマックスは謎解きであって、その後は蛇足でしかないということをよく心得ている」

 鏡は無力感に続いて、酷い疎外感を覚えた。

 自分が怠けていようが頑張っていようが、それとはまったく関係ない場所で時間は進み、世界は油断なく回転を続けるという当たり前のことに気がついた。それが記者である自分の限界だと知った。

「それでは地下室へ向かおうか」

 にやりと笑う灰川の顔は、まさに悪魔そのものだった。


 地下室への入り口は既に開けられていた。

 ぽっかりと開いた暗い穴からは、生臭い湿り気と桃のように甘い香りが同時に漂ってきて、生理的な嫌悪と欲求を混ぜ合わせたものを喚起させた。

 尻込みする鏡の後ろには、灰川が見張るように立っている。

 八幡家の面々はそれぞれ結束バンドで縛られて拘束されているが、修平は放心状態、修一郎と修二は関節を破壊されて動けず、睦美も似たように怯えており、拘束の必要性はあまり感じられなかった。

 地下室の入り口前には現在、鏡と灰川の二人のみだった。

「行きたまえ。それとも、恐ろしいか? 八幡琴音を助けたいのだろう?」

 一種の脅迫であり、挑発だった。

 灰川は自分に八幡琴音を助けさせようとしている。それが何故なのかはわからないけれど、不安は可哀想な女の子を助けない理由にはならない。

 鏡の指は最低限の応急処置こそされているが、紫色に腫れ上がって酷く痛む。手の先に心臓がもう一つ出来たようなおぞましい感覚。そんな痛みや恐怖を無理やり抑え込み、地下室へのはしごを降りていく。

 通路は|一本道で

 行き止まりの部屋は座敷牢になっていて、格子の向こうにはむごたらしい恰好の少女が座り込んでいた。

「ひ、酷い」

 あまりの凄惨な在り様に、鏡は我を忘れて駆け寄った。

 格子に手をかけると、入り口の部分がすんなり開いた。錠のボルトの部分が何者かの恐ろしい力でねじ切られていたためだが、それを気にする余裕もなかった。

 鏡は少女を抱き寄せた。少女はぐったりと力のない様子で、何の抵抗もないクラゲのようにただ為すがままだった。

「あなたが、琴音ちゃん……?」

 鏡は自分の声が震えているのがわかった。少女は垢と体液と汚物にまみれていたが、それでも嫌なにおいはまるでせず、更にとてつもなく美しかった。触れれば壊れてしまいそうな儚さは、彼女のこれまでの境遇を思わせ、涙を誘った。

 声に反応して、少女は目を開いた。

 顔をこちらに向けてはいるが、まるでピントが合っていなかった。瞳はトルコ石のような丸みを帯びた水色だった。精巧な義眼である。

 彼女本来が持つ貌に加えられたアクセントは、一種の破滅の美学めいたものを孕んでいた。その美しさに見とれるほどに、少女が盲目であることを、そして彼女がこれまでに背負ってきた不幸と痛苦の道程を予感させた。

「……ぅ、ん。あぁたが、せいぎの、みかた?」

 八幡琴音は、長い間喋らなかったせいで発音の仕方を忘れたような喋り方だった。

「うん、そう。あなたを助けに来たの」

 地下室に漂う桃のような甘い香りが琴音から発せられていることに、鏡は気が付いた。するともう、鏡の心の中は琴音への愛おしさと庇護欲、それらが入り混じった義務感でいっぱいになった。

 何故彼女が鏡のことを正義の味方だと思ったのかはわからなかったが、わずか一瞬でその称号に見合う自分になることを決意していた。

 琴音は助けられることを望んでいて、望まれた分の善行を為している自分は正しいのだと、冗談のような素直さで鏡は無自覚に考えた。

 もっとも、それらの善意から生じる無責任さは灰川にとって嘲弄の対象であり、この間ずっと感動的な場面を後ろからせせら笑っていたのだが。

 聞かれたならば灰川は答えただろう──赤ん坊が可愛いのは、愛を対価に守ってもらう必要があるから。つまるところ、愛がその子の商売道具なのさ。

 気付かぬ内に思考を塗り替えるほどに、人の持つ本能を鷲づかみにする琴音の魅力は、この世のものではなかった。

「うん、うん。もう、大丈夫だからね! 私があなたを守るから!」

 琴音はうつむいたままだったが、強く抱かれて嫌がっている風でもなかった。それが摩耗しきった彼女の心象風景を垣間見せ、鏡はまるで自分のことのように傷ついた。

 だから、背後の一つ増えた「ぺたりぺたり」という足音に、憎悪を持って振り向いた。

「どこで何をしていたんですか……!」

 由良だった。先に行っていると聞いていたのに、何故か彼は後ろから来ていた。

「言いたくない」

 人を食ったような物言いだった。鏡は自分のしていることがほとんど八つ当たりでしかないのがわかっていた。だが、止められなかった。

「何で、何で、この子のことを知っていたなら、もっと早く助けてあげなかったんですか! この家のことを探っていたなら、一分一秒でも早くここから出してあげればよかったのに!」

「色々あったんだよ」

「色々って何ですか」

「言えないことだよ。察せよ」

 ──今日は気持ちをかき乱されてばかりだ。

 どこか頭の冷めた部分でそんなことを考えながら、鏡は指が折れた方の手で由良の顔を殴りつけた。激痛が走ったが、耐えられた。琴音のことを思えば、これくらい耐えられなくてどうすると思った。

 由良は、灰川のように避けたりはしなかった。むしろ、避けようとする素振りもなくストレートに殴られ、倒れ込んだ。

「あなたも灰川さんと同じですよ。自分の都合のために他人を平気で食い物にする。人を人とも思わない、外道です」

「あっそ」

 由良は痛そうにしていたが、そのことに対して怒ったり恨んだり、ましてや殴られた原因に罪悪感を感じた様子もなかった。ただ昆虫のように感情の見えない眼で鏡を見ていた。痩せて病んだような顔色と相まって、酷く不気味だった。

 おかしなことに、相棒であるはずの由良が殴られても灰川は顔色一つ変えず、ただ見ているだけだった。

「ご苦労、由良君。それで、君のお眼鏡には適ったかね?」

「うん。責任感もあるみたいだし、大丈夫じゃない? 多分」

「……何の話ですか?」

 お互いだけに通じる話をする二人に、冷めやらぬ怒りと共に鏡は割り込んだ。これ以上この二人に好き勝手させる気はなかった。しかし、その考えはすぐに打ち砕かれる。

「八幡琴音を、君が世話するんだ」

「はぁ!?」

 灰川の言葉に、鏡は思わず大声を上げてしまった。腕の中で琴音がびくりと震えるのを感じて、罪悪感が湧いた。

「まあ、とりあえずその子にまともな格好させてあげようじゃないか。酷い恰好だ」

 どの口で言うんだ、と言いたくなったが、概ねその意見には賛成なので、鏡は従うことにした。内蔵を抜かれたように軽い琴音を抱き上げて、地下室の出口へ向かった。

 道すがら灰川の説明を受けた。内容は、

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・八幡琴音は全盲で事情が特殊なため、通常の施設(障害者を支援する特別支援学校も、この場合の『通常』の範疇である)ではケアしきれない可能性がある。

・しばらく灰川は仕事で海外に行くため、暫定的に空いた灰川の家に住まわせることにする。

・由良のみではしきれない世話をする人間が必要だったが、それに鏡が選ばれた。

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 ということだった。

 由良は終始ぼーっとしていてつかみどころのない表情だったが、話が灰川が海外に行くという箇所になると、一瞬だけ顔色を変えた。どうやら彼も聞いていなかったらしい。

 話がある程度まとまると(とは言え、灰川が一方的に決めつけたことばかりだったが)、ぐったりした八幡家の面々を尻目に、琴音の服を見繕った。しかし、普段から八幡家に住んでいるのは修平一人で、琴音の身体に合うような服はなく、当然下着もなかった。仕方なく、由良がフリーサイズのタートルネックと上着を琴音に渡し、代わりに箪笥の中から適当に修平の服を奪って着ることになった。琴音は酷く背が低かったので、由良のシャツがワンピースのような格好になった。

 琴音を着替えさせるのは、鏡が請け負った。由良に任せるわけにもいかず、灰川は嫌がっただろう。それでも、最初から自分がやるつもりだった。

 頑丈な拘束衣を脱がすと、痛々しい身体がむき出しになった。琴音の全身は風が吹いただけで折れそうなほど細く、痩せこけたあばらは内臓まで透けて見えそうなほどであった。

 しかし、その身体は哀れを誘うだけでなく、津波めいた官能も同時に引き起こした。まるで激流の中で磨かれた玉のような美しさだった。長い間、日の光を浴びなかった皮膚は、ぞっとするほど凄艶な艶めかしさを発散していた。

 虐げられた幼さが、背徳的な獣性を誘う。

 ともすれば意識を飲み込んでしまいかねない眩暈を振り払いながら、鏡はどうにか琴音を着替えさせた。

「……お、姉ちゃん」

「何ですか?」

「あり……が、とぉ……」

 喋ることに慣れていない舌っ足らずな声だったが、そこに込められた意味は途方のないものだった。

「いえ、当然のことをしたまでですよ。むしろ、助けに来るのが遅れてごめんなさい」

「ぅうん……」

 ──この子はどんな酷い目に遭っても他人にお礼を言うことを優先させられる、良い子だ。今はくすんだ表情ばかりだけれど、いつかこの子に笑顔を教えてあげたい。

 鏡は琴音を抱きすくめながら、静かに決意した。

 着替えが終わり部屋を出ると、由良にタオルを渡された。

「それを巻いて、琴音の顔を隠してやって」

「どうしてですか?」

 タオルは顔に巻くとちょうど目が来る辺りに二つ穴が開いていて、即席の覆面になっていた。

「その子の顔を見ると、大抵の人はまともでいられなくなるんだ。本当は肌とかも一切見せない方が良いんだけど、まあ、一応ね」

 由良が言うには、周囲を発狂せしめる琴音の持つ魔性の美への対策らしい。先程の灰川の演説にもあったことだ。

 にわかには信じがたい話だが、着替えの時に感じた眩暈を思い出すと、妄言と切って捨てるのもためらわれた。するとかえって、こんな行き当たりばったりの対応で足りるのかと不安が出てくる。

「うん? ああ、そうだ。嘘じゃないよ」

 黙り込んでしまった鏡を、自身を疑っていると取ったのか、由良は取ってつけたような言い訳をした。あまりにもズレた台詞に、鏡には彼がまるで人の心を理解出来ない宇宙人のように見えた。

 ここでこんな嘘をつく理由もないだろう。騙されたとしてもそこまで大きなデメリットも生まれるまい。そう判断して、鏡は半信半疑のまま琴音にタオルをあてがった。

 少し歩かせようとしたが琴音は立つことすらままならないようで、肩を貸した鏡もグニャグニャとした捉えどころのない立ち方に苦労した。結局、由良が背負って行くことになった。まるきり芯が抜けたクラゲのような格好は、不思議と拘束された修平に似ていた。親子であること以上に、拠り所を互いに見失った人間の相似があった。

 気に食わないことばかりだったが、琴音を助けるには探偵たちの手を借りることは避けられない、と鏡は判断していた。

 八幡琴音はただの監禁と強姦の被害者にしては、また異なる雰囲気を擁していた。それの原因をこの二人は知っているし、対処する術も持っているだろう。

 鏡は持ちうる自身の賢明さを総動員して、その推理を立ち上げた。

 使えるものはすべて使えばいい。だが、あくまで利用するだけだ。原因を突き止め、自分で対処できるようになれば用済み。琴音を助けることを最優先に考えろ。

 それが鏡の現時点での結論だった。


 外に出ると、津田と風間の二人が車にも入らず灰川に命じられた通り、最後に鏡が見たのとまったく同じ場所に立っていた。別れた時と異なるのは、津田の足元に散らかった煙草の吸い殻だけだった。

「ご苦労。君たちの仕事はこれで終わりだ。悪いが、帰りは徒歩で頼む」

 悪いと思っていないことが見え透いた調子で、灰川は常の傲岸さを発揮した。由良の言うことが正しければ、琴音の顔を見られることで生じる面倒を避けるためには必要な措置だった。もっとも、そのことに彼らが納得できるかどうかは別だが。

 はたして、津田は舌打ちと共に、風間は粛々と命令に応じた。

 津田が由良に車の鍵を渡すと、由良はポケットからガムを取り出した。

「食べる?」

「……何のつもりだ?」

 似合わない朗らかさを見せた由良に、津田はいぶかしむような視線を向けた。

 本当はきっかけなど何でも良かったのかもしれない。どっちにしろ、津田には不満が溜まっていて、それを向ける対象が灰川より由良の方が都合が良かった。それだけのことなのだろう。

 話しかけたのは由良からだったが、明らかに津田は由良に喧嘩を売っていた。

 人の心の中で因果関係は容易く逆転する。その典型だった。

「機嫌が悪そうだったから」

「余計な御世話だ」

 横で灰川が愉快犯じみた笑みを深くした。鏡には知る余地もないがこの時、津田は八幡邸に来るまでに寄ったコンビニでの会話を思い出していた。「あれ? 由良君ってガム嫌いじゃなかったっけ? 口の中の水分が吸われるからってさ」。

 ますます津田の表情が険しくなった。

「あー、うん、ごめん。本当は煙草のにおいが嫌いなんだ。おたくが吸うのは勝手だけど、それと同じくらいに僕が煙草を嫌いだと思うのも勝手だろ。だからまあ、これがお互いの妥協点だと思う」

 ぼんやりとした表情のまま、由良はガムの包みを再び、ずいと差し出した。包みは開封したばかりで、一枚も減っていなかった。

「テメェ……!」

 剣呑な空気が周囲に発散される。

 灰川はニヤニヤとチェシャ猫のような表情を浮かべ、琴音は怯えて鏡の後ろに回り袖をつまんだ。風間はどちらに組するわけでもなく、成り行きを見守るようだった。鏡もそうするつもりだった。怖がる琴音を安心させるように頭をなで、それ以上のことはするつもりもなかった。

「前から思ってたけど、お前、俺を舐めてるよな? あ? 何? 自分は殴られないとでも思っちゃってんの? 調子乗ってる?」

 えぐるような目を向ける津田に対して、由良は徹底して目を合わせようとしない。おどおどとした風だが、それだけではない不気味さがあった。

「えっと、その、かなり伸びてきたから、切ろうかなと思って」

「は?」

「髪だよ」

 まるで見当違いの由良の返事に、津田の気が一瞬、外された。

 その隙に由良の手は津田の頭に伸び、髪をつかんで引き倒していた。とっさに四つん這いになった津田の背後を取り、ぶちぶちと何本か毛を引き抜きながら裸絞めをかける。髪は離さない。

「だってほら、髪が長いとこんな風に危ないでしょ?」

「ぐ……コッ……」

 かろうじて弱った鶏のような声を出すばかりの津田に、押し殺した声で由良は囁く。

 痩せぎすの由良の腕は骨ばっていて、絞め落とすというよりは喉を圧迫して苦痛を与えているようだった。

「ガムを、噛むか?」

 白けたような口調だった。

 対象に一切の感情移入を打ち切ることで限度を越した暴力を振るうのが、こういう場合の由良のやり方だったが、鏡の目にはただ彼が人間らしさを持たない残酷な男であるかのように映った。

 ついに声も出せなくなった津田は、あおぐろい顔を可動範囲ギリギリでわずかに上下させた。続いて、喉を押し潰さんとする由良の腕をタップした。

 思ったよりも素直に由良は津田を解放した。ひゅーひゅー、と細く荒い息をする津田に由良が手を差し出すと、苦しんでいた姿が嘘のように津田の身体が跳ね起き、猛然と由良に殴りかかった。

 全身のバネを利用した見事な奇襲だったが、後ろに弾かれたのは津田の方だった。

「ごっ、コェッ、かっかっ、っ!」

 鏡は一瞬何が起きたのかわからなかった。

 喉を抑えてのたうちまわる津田を見てようやく、由良が人差し指と親指をピストル型にし、飛び込んでくる津田の喉を逆に突き込んだのだと理解した。

 由良はそもそも、目にもとまらぬほどの速度で動いたわけではない。頭が切れるわけでもないから、考えていたのでは一手遅れる。

 速いのは、心の速度だ。やると決めた時には、もうやっている。異様なまでにためらいがない。

 そして、人の虚を突くのに長けている。と言うより、彼を見た者は油断せずにはいられない。そのことを自分でもよく知っているのだった。

「おたくがそういう奴だってのはわかってた。離したらどうするかも、どれだけ僕のことが嫌いかも」

 喉仏の下、鎖骨が交差する部分の上の柔らかい皮膚を突かれた津田は応えるどころではなく、カブトムシの幼虫のように丸まって、ただ痛苦が過ぎ去るのを祈るのみだった。

「僕は喧嘩弱いから、あんまり手加減出来ないんだよね。ごめん」

 そう言うと、由良は津田を滅多やたらに踏みつけ始めた。かかとを尖らせるようにして、胴体を中心に打撃を与えた。

 鏡は目の前の光景を傍観しながら、あることを考えた。それは今までの価値観の否定であり、彼女にとってちょっとしたパラダイムシフトであった。

 ──この世には、暴力がある。

 今までそれはだと思っていたけれど、時と場合、そしてある人種にとってはなのだ。教育や社会的倫理、法によって意識が向かないようになっていたけれど、純然とこの世界には暴力が存在し、それによってしか動かないパーツがある。

 そもそも法が機能するには、体制側に法を犯す者よりも大きな暴力がバックとして付いている必要がある。そんな当たり前のことが見えなくなるのが健全な社会の証明なのだが、記者の認識としては不十分だ。

 灰川は充分にそのことをわきまえている。そして、ずっと下だと思っていた由良でさえも、暴力の存在する世界を当たり前のように受け入れている。何だか無性に悔しかった。

 鏡は自分の袖が先程より強く握られるのに気付いた。見れば、琴音が助けを求めるように鏡を見ている。いや、事実助けを求めているのだ。わずかに覗いた琴音の目は涙で潤み、暴力が支配する混沌とした世界に怯えきっている。

 そうだ。この子は暴力の支配する世界で生きてきたのだ。生きるために殺されてきた少女を守る。そう決めたのではなかったのか。

 鏡は空いている方の手で包むように琴音の手を握った。彼女は一瞬びくっと震えたが、すぐに安心したように手を委ねてきた。お互いの体温が心地よかった。

 ふと見ると、由良と津田の喧嘩は、もう終わっていた。

 一方的にぼろ雑巾のように叩きのめされた津田を、灰川が検分している。

「ふむ。殺していないし、重症も負わせていない。これなら及第点を上げてもいいかな」

 探偵助手として最低限の格闘術は覚えてもらわないとな──そう言うともう興味を失ったのか、灰川は倒れ伏した津田の腕をを放り捨てた。

 半分気絶したように朦朧としている津田を、風間が背負い上げた。

「三十二回」

 ぼそりと風間がつぶやいた。津田が踏まれる数を数えていたらしい。怒った風でもなく責める風でもなく、ただそこにあった数を数えただけとでも言うような口調だった。

 それを聞いても相変わらず由良は茫漠とした顔つきのままだった。傍から見る鏡は、このコミュニケーションの空虚さに寒々しい思いをした。

「これ。津田がまた煙草吸ったら渡して」

 風間は無言でうなずくと、由良が丸ごと渡したガムの包みを受け取ってポケットにしまった。

「乗りたまえ。話の続きは車の中でしようじゃないか」

 灰川のうながすままに、鏡は足を踏み出した。敵地へ分け入る覚悟と共に。


 由良の運転は、見ているこっちがハラハラするような危なっかしいものだった。

 津田のように乱暴なわけではない。むしろその逆、慎重すぎるせいでトロくさい。スピード違反は厳禁だが、公道というのはある程度のスピードを出さないとかえって他の車の邪魔になる。前のめりでハンドルにかじりつき、視野狭窄に重ねて複数の事象に対処しきれずテンパる姿は、教習初日の女性のようだった。

 対向車どころか後続車もまるでない田舎道でなければ、クラクションを鳴らされまくっているだろうと鏡は想像した。

 琴音は鏡と離れようとせず自然と彼女らは後部座席に、運転する由良の隣の助手席に灰川が座ることになった。灰川はシートベルトは付けず、思い切り座席をリクライニングさせてダッシュボードに組んだ足を乗せている。傍若無人のふるまいだった。

「僕が海外に行く理由だが、君たちは虫々院ちゅうちゅういん蟲々居士ちゅうちゅうちゅうちゅうこじという者を知っているかね?」

 奇妙な響きだった。

 やたら長ったらしく、聞き慣れない。

「早口言葉ですか?」

「どうやら組織の通称らしい。ボスの名前かもしれない。居士と付くからには仏教徒かもしれないが、まあ当てにはならないな」鏡の茶化すような返しに対して、灰川はいたって真面目な表情だった。

「僕は世界中に手下を伏せているが、どうやらそいつらの邪魔をしている奴らがいる。悪い時には殺されている」

 灰川の話はやたらと壮大だった。スパイ映画を観すぎた誇大妄想狂の類にも思えたが、そう断ずることを許さない迫力もあった。地元に限って言えば、鏡も灰川の組織力をある程度は思い知っている。

「あー、えーと、あなたがCIAのボスみたいなことをしているのは良いとして、その部下の人たちが虫々院蟲々居士という名前を仕入れたというわけですか?」

 自分の中の常識と帳尻を合わせるため、鏡の応答は自然と慎重になる。

 由良は運転に集中しているが、内容を聞き取れないはずがない。灰川の手の広さを知っていて驚かないのだろう。琴音は、興味がないのと理解出来ないのとで眠そうな顔をしている。鏡の手を離そうとしないので、鏡の方からも柔らかく琴音の手を握り返す。彼女の存在がぐらついた感覚を繋ぎ止めているような気がした。

「そうだ。彼はその名前を伝えたのを最後に連絡が取れない。恐るべき組織力だ。情報伝達に齟齬がなく、行動までに一切の躊躇やタイムラグがない。虫々院という奴がボスなのならば、相当の手腕だろう」

 これはかなり参ってるな、と鏡は思った。灰川が他人の能力を手放しに称賛するのは、彼女が知る限りでは初めてだったからだ。

 同時に、早めに灰川と縁を切る(それも穏便に)ことも考え始めていた。

 灰川はこの性格なので、多方面から怨みを買っていることはわかりきっていた。それらすべてを彼女の腕力(知力財力暴力ゆすりたかり恐喝駆け引き賭けごとその他何でも)でねじ伏せてきたわけなのだが、それが通用しない相手がいるとなると、不味いことになる。

 琴音にまともな生活をさせるためには、支援が要るのはわかっていた。その点に関して鏡に自惚れはなかった。何だかんだ言ったところで、社会的には自分はただの高校生でしかないことを把握していた。鏡は現実主義を自認していた。

 しかし、パトロンの立場が不安定になりつつある今、船を乗り換える当てを探す必要性がうっすらと見えてきたのだった。

「で、灰川さんはその虫々院とやらの対応に追われている、と」

「うちは組織とは名ばかりで、実質は僕のワンマンチームだ。下がいなくなってもすぐに困るわけでもないが、喧嘩を売られて許す僕でもない。彼らを動かすよりも僕がやった方が早いしね」

 実際の所、灰川は自分の能力を過大評価も過小評価もしていなかった。ただ他の人間のほとんどと基本性能に圧倒的な開きがあるだけで、それに見合った態度をしているだけだと考えていた。しかし、それを理解できる人間は少なく、単に彼女のことを大言壮語の傲慢な人間とだけ受け取った。鏡もその一人だった。

「そう上手くいきますかね」

「いくよ。僕がやるのだからね」

 疑るような意地の悪い台詞を、いつものように灰川は無視した。本来、皮肉のような持って回った交流は同レベル帯でしか意味を為さず、その点において灰川は他人を見下すことに慣れていた。

 鏡はそれが気に食わなかったが、やり方を変えるのは屈服したように思えるのでそうしようとしなかった。由良のように己の至らなさをありのまま受け入れるには、鏡はまだ若かった。

 腹の底に溜まった黒いものを吐き出すように、鏡はため息をついた。琴音の手を握ると、昂った気がほんの少し収まった。

 ふと、琴音が震えているのに気が付いた。

 何かに怯えているように。

「……お姉ちゃん」

 琴音は急速に言語を取り戻す過程で、鏡のことを『お姉ちゃん』と呼んでいた。鏡はそれでいいと思ったし、いつか本当の家族になれればいいと思っていた。

「どうしましたか、琴音ちゃん?」

「な、何だか……ざわざわ、する。何か来るよ、お姉ちゃん」

「だ」

 大丈夫、と鏡は言おうとしたが、その声は遮られた。

 目を通さず、脳の中に直接テレビの砂嵐の情報が流れ込むような、猛烈な眩暈が彼女らを襲ったからだった。

「いだっ?!」

 眩暈に気を取られていられたのも一瞬、車が急加速を始めたせいで鏡は前の座席に頭をしたたかに打ちつけた。舌を噛まなかったのは幸運だったが、それを理由に無茶な扱いを許す気にはなれなかった。

 由良に抗議するために頭を上げると、元々灰川がいた場所に見慣れぬ人がいた。

「趣味の悪い車ですわね」

 不機嫌そうにリクライニングしていた座席を定位置に戻し、シートベルトを締め直しているのは、鏡たちと同級生の皇四時すめらぎよんじだった。

 ゆるく巻いた髪に、豊満さとスレンダーさを極端に兼ね備えた肢体。白を基調にした上等な服と立ち居ふるまいのせいで、同い年にもかかわらず気後れするようなを鏡に感じさせた。

「勝つ自信がなかったんだ」

「なるほど、拉致して逃げるにはこういう車の方が向いてますものね」

 皇は後部座席の広いスライドドアを見て、言った。

 拉致、とは恐らく琴音を対象にした言葉だろう。どうやら由良は、琴音を一方的にさらって逃げることも計画の一つとして考慮していたらしい。津田と風間はそのための人員である。

 自分たちの通う学校には奇人の類が多いと思っていたが、中でも皇は灰川と並んで極め付きだった。

 鏡は高校に進学するまで、推理小説のような殺人事件が実在するとは思いもしなかった。記者になる気持ちこそ変わらなかったが、事故やスキャンダルの類を扱うことになるだろうと考えていた。その認識は灰川と皇、二人の探偵に覆されるのだが。

 彼女たちは探偵であり、ライバルだった。現実離れした態度だったが、彼女らがそれを望み、実現させたのだった。

 二人はまるで物語の中の探偵をなぞるかのように易々と人の想像を上回り、事件を解決した。鏡が、ないと思っていた奇妙なトリックを使った殺人を、彼女ら自身が引き寄せた。

 灰川は言った──この世は何でもアリだ。皆、自分の認識で世界を狭めているに過ぎない。

 皇は言った──特別な人間には特別なことが出来るものですわ。

 実際そうだった。鏡が見ていた世界は表層のもので、彼女たちはその裏を暗躍していたのだった。

 だがいくら何でも、この場所この瞬間に皇が現れたのには、驚いた。認識が追いつかない。

 確かめるように隣を見ると、顔面を蒼白にした琴音がいた。彼女は皇が突然現れたことには驚いた様子ではなかった。見えないにもかかわらず、顔を大きく後ろに向けて浅い息をしている。

 つられるようにして鏡も後ろを振り向くと、巨大な蜘蛛がこちらの車に追いすがっていた。あまりのスケールに、彼我の距離感を見失いそうになる。八本の脚を猛烈な速さで動かす姿には、さして虫嫌いではない鏡でも怖気を振るうような生理的嫌悪を抱かさせられた。蜘蛛の頭の部分からは、脱色したような白さの人間の胴体が生えている。ぐったりとして蜘蛛の胴体の動きに振り回されて千切れそうになっている人間部位は、先ほど別れたばかりの八幡修平のものだった。

 巨大な蜘蛛から逃れるために由良が急加速したことを、ようやく鏡は理解した。

「説明してください!」

 鏡の精神は限界を迎えつつあった。

 あまりに目まぐるしく、そしておぞましく変貌を遂げた世界に押し潰されそうだった。納得が必要だった。何らかの理由がなければ耐えられない。

「八幡琴音さんは不安定ね」皇は鏡を無視した。畜生、どいつもこいつも私を無視しやがって。

「淫毒のせいで身体がほとんど悪魔化しているんだよ。だから、ずらした先の世界と基底現実にまたがって存在してる」

 由良は緊張した声音だったが、必要な力みであるようにも見えた。しかしそんなことは鏡には関係なく、ただ自分を蚊帳の外に展開される会話に腹が立った。

「その子がずらした後もいるのはわかりましたわ。でも──」

 そこでようやく皇はルームミラー越しに鏡を見た。

「あなたはどうしてここにいるのでして?」

 そんなことは鏡が聞きたかった。自分を置き去りにするのなら、最初から少しもかかわらせないでほしい。そんな普段ならば抱かないような弱気な言葉が頭をよぎった。気持ちが参っていたせいで、続く皇の言葉に怯まされた。

「飛び降りなさい」

「……はい?」

「だから、飛び降りろと言いましたのよ」

 皇はもう鏡を見ていなかった。

 誰も触れていないのに、ひとりでに後部座席のドアが開いた。高速で後ろへ流れていく景色。びょうびょうと風を素通りさせるように口を開けたスライドドアは、皇の発言と相まって頭上から自身の首を舐めるギロチンの刃に見えた。

「運が良ければ、骨折程度で済むでしょう。八幡修平さんが追っているのはあなたではなく、娘のようですし」

「い、嫌です」

 馬鹿に素直な言葉が口を突いて出た。それしか言えなかったのだ。

「なら、私が今殺しますわ」

 皇の美しい人の形から、どっとヘドロのような殺気が溢れ出した。

 妖気に当てられて、琴音が喘息の発作のように苦しげな声を出した。鏡もうずくまってしまいたかったが、そんな琴音を見ているとそれは出来ないように思えた。生き物としての恐怖と、彼女の中の人間性がせめぎ合い、臨界点を迎えようとしていた。

 それを横から救ったのは、由良だった。

「その人は殺さないであげてほしい」

 由良の言葉を予想していたようではあったが、それでも不快だったらしく、皇は形の良い眉をわずかに吊り上げた。

わたくし、疑わしきは罰すると決めているのですけれど」

「何で灰川も君も、司法制度を積極的に蔑ろにしたがるのかなあ。人って殺さないで済むなら、それに越したことないだろ」

「悪魔に人間の法が適応されるとでも?」

「まあ、そうなんだけどさ……」

 その言葉に、一度逸れた皇の意識を再び向けてしまうのがわかっていても、鏡は尋ねずにはいられなかった。

「あ、悪魔とは?」

「答える義務はありませんわ」

「僕たちは、人間じゃないんだ。だから非現実的なことが出来る」

 当然のように突っぱねる皇に対し、馬鹿正直に応じる由良。発言をあっけなく覆されて、皇は恨みがましそうに運転席を見た。

「話しすぎですわよ」

「じきにバレることだよ。そもそも、見ただけで性欲が抑えられなくなるほど美しい女を作る方法なんて、普通あるかよ? それに、おたくが家の中で会った方の修一郎は僕が化けたやつだ。悪魔にはそういうことが出来る」

 鏡は信じられないという気持ちと、信じるしかないという状況の板挟みになっていた。

 琴音と震える手を互いに握り合うことで、かろうじて現実感を保っていた。

 ──点Aと点Bを1mm間隔で打つ。それから少し離れた場所に点Cを打ち、それぞれの点を通る線をずっとずっと引いていく。線が長くなるにつれ、線CAと線CBの間隔は開いていく。これを世界そのものでやると、わずかの魔力で基底現実からた場所に行くことが出来るんだ。

 由良は聞かれたことを答えているだけだったが、それは鏡が求めていることではなかった。本当はあるがままではなく、彼女自身の現実、つまりは個人単位の幻想を補強するものが必要なだけだった。

 依然として追いかけてくる蜘蛛の怪獣を振り切ろうと、由良は慌ただしくハンドルを切った。鏡は頭を打つ代わりに琴音を抱き留め、皇はシートベルトのために堂々としていた。

 ファミリーワゴンとは思えぬ加速性能だったが、追っ手も只者ではないために、ある種の拮抗が生まれていた。

「彼の魂を奪ったのではなくて?」

「あれは空っぽだった。ただの宿主だ」

「なるほど。それが虫々院蟲々居士の能力なのですわね。“転生の魔人”、“廻るときを化かす者”……噂に違わぬ化け物でしてよ」

 虫々院蟲々居士。再びその名前が出た。

 どうやらすべての事態はそこに収束するらしい。

 由良は鏡の知らない、事件の裏で進行していたもう一つの事件と、虫々院蟲々居士との邂逅について語った。


   *


 見上げるような大きさの蜘蛛が、苦痛の声を上げてついに倒れ伏した。

 腹部が破れ、白っぽい粘液があふれた。それは空気に触れて急速に固まっていく。蜘蛛の糸の元だった。

「琴音、幸せに、おなり……」

 それが八幡修平の最期の言葉だった。

「どいつもこいつも、気持ちと行為が比例していないんだ。自分の正しさや善意を盲信しているから、そんな酷いことが出来る」

 由良は怒っていた。

 八幡琴音に自己投影していたからだった。感情移入は弱者の防衛本能であり、その点において由良も琴音も間違うことなく弱者だった。一種、天性のであった。

 視界に入れることも腹立たしい、とでも言う風にその場を去ろうとした。琴音をこの牢から救い出すのは、自分の役目ではないと決めつけていた。

 今ここにある蜘蛛の顕身あらわしは肉を伴ったものではなく、魂のみで練り上げられた物であったため、組成を保てなくなったらほどけて消えるはずだった。

 しかし、由良の背後で起きていたのはまったく異なる現象だった。

 嫌な気配に、思わず振り向く。そこにあったものは果たして──。

 破けた腹、粘液のの奥から、ごぼりごぼりと黒いものが這い出てくる。

 それは無数の蟲だった。

 由良が想像したのは、生まれてすぐに母親の身体を餌にするという種類の蜘蛛のことだったが、それとはまた様子が違う。

 ──親子と言うよりは、宿主が死んで困った寄生虫のようだ。そう思った。

 わらわらと群がる無数の蟲。それらは大小様々で脚や腹の節の数もまちまちだったが、どれも本質的な部分は同じように由良は感じた。蟲たちは総じて黒かったが、それだけが判断材料ではない。

「ひどい悪意のにおいだ」

 ちきちき、ちきちき。

 蟲たちの鳴き声、脚や翅が触れ合う音が無数に重なって耳障りだった。

 しかし、それはただの蟲が生きていく上で立てる音ではない。

 彼らは嘲笑っているのだった。

 修平と自分が、そして琴音や、この事件に関わったものすべてが嘲りの対象なのだと、由良にはわかった。

 由良が手を出しあぐねる間にも、蟲は湧き出し続けた。明らかに元々の蜘蛛の体積よりも多いだろうことから、これらが超常の妖異であることは明らかだった。そればかりか、蟲たちはあふれ出たその場でまぐわい、卵を産んでいた。おぞましいスピードで孵化、成長し、また交わう。

 狂気が現実を侵したような有り様だった。もはや増えすぎた蟲は部屋を埋め尽くし、由良の腰の辺りにまで達していた。地下道にまで進出しているだろうが、由良は背にしているために見えない。狂気の源泉である修平の死体から眼を逸らすことが出来なかったのだ。

 その判断は正解だった。蜘蛛から生えた冬虫夏草である修平の上半身に、無数の蟲がまとわりついて何らかの形を成そうとしていた。

 まるで騙し絵のようだった。

 蟲が人の顔の上に寄り集まって、新しい別の顔を形成している。由良の感覚が正しければ、それは鷲鼻で口元とあごにひげを蓄え、後ろに髪をなでつけた老人のように見えた。

 丸まったムカデのような蟲がはめ込まれた部位が、由良の方を向いた。それを受けて、由良は確かに視線を感じた。ムカデがいる場所は、明らかに落ち窪んだ眼窩だった。

「ちきちき、ちきちき。随分ト頑張ッてくれタじゃなイか」

 蟲のざわめきが偶然人間の言葉になった──そんな風な声だった。調子っ外れホンキートンクで聞く者を不安にさせる甲高い響き。

「吾輩ハ虫々院蟲々居士。今回ノ事件の、いわバ黒幕さ」

 月並みな言い草だった。

 あるいは意図してジャンクな言葉と演出を選んでいるのかも。

「……」

「オや、だんまりかネ?」

「……もっと話したいだろうから、待ってたんだけど」

「ちきちきちきちきちきちきちきちきちき!」

 由良の発言を蟲の塊はいたく気に入ったのか、大笑いした。

「面白い男だ、由良俊公クン。君も吾輩の手元ニ欲シいくらイだよ」

「も?」

「ソこニ気付くトは聡いナあ。マスます吾輩好ミでアルことよ」

「馬鹿にされてる気しかしないな。良いから、悪党らしく目的と誇大妄想をベラベラくっちゃべんなよ」

 由良の口調が白けていく。彼なりの殺気だった。人並み以上に臆病な彼は、安易な敵対の防止策として最低限の礼儀を好んで用いるが、最初から敵対している相手にはその限りではなかった。

 蟲はそれを受け入れた。過剰演出とチープな言葉選びは彼の流儀か、いよいよ勢いを増して続ける。

「吾輩は芸術家ダ。美シい物を作リ、手ニすることが幸せデある」

「僕は根暗共が思わせぶりなことをボソボソ言って、したり顔するタイプのアニメが嫌いなんだよ。ハキハキ喋れ馬鹿」

「ワカッテいるジゃないか。吾輩は狂人デ、己ノ欲望のたメには何だッてするノさ」

 虫々院が馬鹿のふりをしたがっているのを、由良は彼独特の感受性で理解した。

「狂ってると思われたがってる時点で芸術家じゃなくてだってーの。……それで八幡修平を操り、琴音を作り変えたのか」

 静かな怒りと、由良の人生観の大半を占める諦念に起因する無関心さが混ざり合って、彼自身も持て余しているような口調だった。

 ちぐはぐな由良の対応を、興味深そうに虫々院は見つめる。彼がわずかに身をよじるたびに、蟲の群れがぞわりと蠢いた。おぞましい様相だったが、それを嫌悪として表す者はここにはいない。

「操っタト言うノハ不正確ナ表現だ。彼はそレを自分で選んだのだヨ。淫毒ノ材料を与エたり、彼自身と契約したリ、助力はしたガネ」

「詐欺師はみんなそう言う」

 由良の言葉に、虫々院は表情を変えた。彼の表情とはつまり、彼自身を構築する蟲全体の動きだった。蟲たちは今までの勝手なざわめきの中で偶然形を保っているような行動を控え、統一された意志のもとで目的を果たさんとする、練度の高い軍隊のように整列した。

「美しさに敬意を払え」

 厳かな声であった。今までの声に含まれた不吉な甲高さが取り払われていた。

「人生に最も必要なものは、美意識だ。それのみが苦しみを淘汰し、己を磨き上げる」

 断固たる決意の表明であった。

 これが、こいつの核か。由良はそう思った。

 悪魔は自分の魂を、全存在を懸けてまで成し遂げたいものを持つ者ばかりだ。だから、それを握ることで優位に立つことが出来る。しかし、核となるのはもちろんその者にとって最も固い部分であり、揺るがすことは容易でない。触れたが最後、お互いに殺し合うしかなくなる。

 由良は、あえてそこに踏み込んだ。

「見解の相違だな。僕の人生に必要なものはユーモアだ」

「君のことは手に取るようにわかるよ、由良クン。何故なら吾輩と君は似た者同士だからだ」

 虫々院は、由良のことを以前からよく調べて知っているような口ぶりだった。なるほど奴の蟲はどこにでも潜入し、どれだけでも情報を持ち帰れることだろうな、と由良は思った。

「君の世界観は唯我論に似て、認識できる範囲を自分のすべて、ひいては世界と決めている。もちろん、認識の外に他人や事象が存在し干渉しあっていることをわかった上で、手を伸ばす範囲を決めているのだろうがね。混沌の中で無力感と手の届かない範囲の事象に圧殺されるのを防ぐためには、ユーモアが必要だ」

 何もかもが曖昧で信用ならない世界観では、諧謔がわずかの慰めになることを彼らは知っていた。由良はそれこそが自分に足りないものだとも思っている。灰川の傍にいる理由の一つが、彼女の持つ独特のユーモアがうらやましいからだった。

「しかし、それは美意識の持つ顔の一側面に過ぎない。君も本当はわかっているはずだ。真の美しさのためになら、人は何でもするということを」

 この時、由良が思い出していたのは先日の連続食人事件だった。犯人である助野を、ひいては自ら被害者となった彼女らを突き動かしたのは、本質的な美しさへの憧れではないか。

「……かもね」

 それが由良の納得と敵対する相手への応対としての落としどころだった。

「吾輩は八幡琴音の美しさが臨界点に達したところで、彼女を器に転生する」

「ガワが良くっても中身がオッサンじゃあ、完成品もたかが知れてるよ」

 由良の皮肉交じりの返しを、素直に受けて虫々院は笑った。

「ちきちき。そレまでソの子は君ニ預ケテおくとシよう。君ガどんな美意識ヲ以てその子を育テルのか興味ガ湧いた」

「あっそ」

 悪魔というものは、自分の執着する部分において互いに譲り合うことはない。そのため、相手のフィールドで会話や交渉が成り立つことはほとんどないと言っていいだろう。由良はそのことを知っていたので、適当に会話を打ち切った。

 終わったかと見ると、虫々院を形作っていた蟲たちがほどけ落ちた。

 次いで、部屋に満ちた蟲たちが共喰いを始めた。現れた時と同じく質量保存の法則を無視して、蟲たちの総量はどんどん減っていく。効率的な蠱毒を思わせた。

 最後に残った蟲は、背を丸めて自分の腹を貪った。腹がなくなっても自分を喰い続け、喰ったものがどこに行くのかはわからなかった。脚を、翅をぼりぼりと喰い、最後に残った頭は溶けて自壊した。

 八幡修平の死骸も同じように喰われたのか、影も形もなかった。そもそも、魂のみで構成されていたのだから、当然のことだったが。

 残ったのは、幽鬼のごとき表情を宿した由良のみだった。


   *


「なるほど、それが虫々院蟲々居士という悪魔ですのね。やはりイカれてますわ」

 話をすべて聞いて、皇は言った。

 依然として背後に蜘蛛は迫ってきている。鏡としては、何をのんびり話しているんだと言いたい気持ちでいっぱいだった。大体、修平も消えてないじゃないか。

「あれはただの妄念だ。娘への執着が勝手に形を取った、一種の幽霊みたいなもんだよ」

「それって追いつかれても大丈夫ってことですか?」

「いや、怨念で生前より魔力が増してるから、僕でも勝てないよ」

 俊公君は本当に弱いですわよねえ、と呆れたように皇は言った。

「話を戻しますわね。虫々院蟲々居士の正体について」

「知ってるの?」

「話に聞いただけですわ。古い悪魔ですので、伝承には事欠きませんの。彼は、今の虫々院に性別という概念があるかどうかはともかくとして、私たちと同じく人間として生まれて後天的に悪魔になった者です」

「そうなのか? でもあいつは僕たちとは全然違ったように見えたけど。命の核がないというか、存在が分散しているというか……」

「あながち間違いではありませんわね。彼は既存の悪魔と契約するのではなく、自分自身を生け贄に自分自身と契約したのです」

「ふーん。なら居士ってのは戒名かよ」

 自分で付けたものでしょうがね、と皇が補足した。

 詳しい理屈こそわからないが、鏡はウロボロスのように自分の尾を喰らい完成する円環を想像した。

「虫々院が転生する形代かたしろに選んだのは蟲そのものではなく、蟲の群体ですわ。彼の本質アートマ集団レギオー。生まれ生まれて死に死に死んでいくことを自分の内側ですべて完結させているため、本体と呼ぶべきものが存在せず、滅ぼし尽くすことが出来ない。故に命の核を隠すこともないのです」

「それって、自我の同一性とかはどうなってるの?」

「さあ? 狂人の考えることなどわかりませんわ。相手にするだけ無駄ですもの。もっとも、一々それに相手をしてしまうのがあなたなんでしょうけど」

「……だから、八幡琴音を手放せってこと?」

 混乱することばかりだったが、それを聞き逃すことはなかった。

 由良の言葉に、鏡の腕の中で琴音が身を固くした。彼女はもう誰も無条件に頼れる者などおらず、捨てられることに酷く怯えている。

 鏡は返事をするまでにあったわずかの間を、由良が皇に従おうとしているから生じたものだと考えた。

「させませんよ。そのチューチュー何とかのことは知りませんが、この子は誰にも」

 急カーブ。

 側頭部を窓ガラスにひびが入るほど強く打ちつけて、一瞬気が遠くなる。

「口だけにも程がありますわね」

 滲み出す涙をこらえようとする鏡を、皇の冷ややかな視線が迎え撃った。

 何度も何度も、形を変えて繰り返される無力感。自分はもっと出来るはずだ。なのに、鏡の望む自分になるためには、圧倒的に何かが足りなかった。あるいは、何もかもが。

 背後に迫る蜘蛛から逃げる内に、舗装の怪しい開けた田舎道から、ビルが密集した市街地の道路に場所が移っていた。

 街は、昼間にもかかわらず人が一人もいなかった。それどころか、鳥やらの動物も見えない。静寂に支配された場所だった。

 自分たちの車がアスファルトをこする音と、蜘蛛が狂気じみた勢いで脚を組み替える音ばかりがどこまでも響いていく。道路にある他の車の運転席はすべて空で、ただの配置された駒のようだった。

「琴音っ、琴音えええええええええええっ」

 終わってしまった命から振り絞られた声は、どこまでも不吉な響きだった。落としどころを見失った人生の断末魔だった。

 立ち向かわなければならないのに、鏡は怯えすくんでしまう自分を抑えられなかった。彼女に出来るのは、八幡と抱き合い恐怖のもたらす痛みを分かち合うことだけだった。

「心配してくれるのはありがたいけど、せっかく助けたんだし行ける所まで行ってみるよ。向こうは琴音が欲しいってのは本気だしやるからにはマジだろうけど、どんな手段を使ってでも執着するってわけでもないと思う。その内に飽きるよ。当面の問題はあの親バカだなあ」

「彼に感情移入しましたの?」

「勘違いされがちだけど、僕は人の心が完全にわかるわけじゃないんだよ。それに、虫々院は人間と精神構造が違いすぎてほとんどわからなかった。でも、あいつは個人としての短いスパンでの執着はあんまりなくて、どちらかと言うと種族としてって感じの長期的な視点で物事を捉えてる。その上で自分のことを芸術家って言っていたから、本気の趣味人だ。だから琴音はいくらでも代替可能なアイテムの一つで、今後あいつの美意識から外れることがあればすぐに忘れられるだろう」

 由良はつらつらと台本を読み上げるような調子で言った。

 彼の中ではそれは決定事項であるかのようで、皇も当然のようにそれを受け入れた。鏡は由良の特殊な技能が悪魔とやらの力であり、だからこそ灰川が彼を助手として認めたのだと信じ込んだ。実際には感情移入の能力は由良の行き過ぎた繊細さに起因するものであるのだが、今の鏡が知ることはない。

「降ろして、降ろして!」

 鏡の腕の中で琴音が切迫した様子で言った。

「わたっ、私がいてあげないと、お父さんが一人になっちゃうよ。み、みんなも死んじゃう! だから、降ろして」

 琴音が声を上げるたびに、彼女の姿が古いテレビの砂嵐のようにブレた。基底現実とこの世界線での狭間で存在が不安定になっているのだった。

「させません。行ってどうなると言うんですか? 殺されるだけ、いや、今までもずっとあなたは殺されてきたんですよ。過去に追いつかれても良いことなんかないのですから」

 後半はほとんど自分に言い聞かせるような口調だった。語ることで、思考や決意が固まっていくような気がした。続けて、由良に向かって怒鳴る。

「何をチンタラやってるんですか、もっと飛ばしてください!」

 自分でもこんなに激しい声を上げられるとは思っていなかった。しかし、由良相手にはちょうどいいように思えた。案の定、由良も大して気にした様子はない。

「その子の言うことをあんまり真に受けなくてもいいよ。琴音の存在が曖昧なのは、魂の礎になるものが存在しないからだ。だから、無意識に父親を大切なものだと思い込むことで自分を守ろうとしているんだよ」

 言われて初めて、鏡は自分が琴音の発言にショックを受けているのに気が付いた。

 あんなに酷いことをされていても、家族は家族なのかと。自分では、誰の家族にもなれないのかと。

 ちらりとミラーを覗いた由良は、後半の「自分を自分で守れない子供にとって、親は神だから」という言葉を飲み込んだ。灰川から聞いた、彼女が孤児であるということを思い出したからだった。

 彼のような男が見せる気遣いはさりげなさすぎるせいで、認められることはほとんどなかった。今回もそれを汲んだのは、この場では皇のみだった。

「基底現実にお戻りなさい。こちらは私が引き受けますわ」

「いいの?」

「あなたも柄の悪い連中を相手にしたはずですわよ」

 由良が倒したバタフライナイフの男のことを言っているようだった。どういうわけだか皇は今回の事件の裏のことまで把握しているらしく、八幡修平の雇ったヤクザが動いていることを警告しているのだった。

「わかった」

 鏡の視界が再び眩暈に呑まれた。

 見れば、先程まで皇がいた座席に灰川がいる。戻ってきたのだった。琴音が砂嵐のようになることもない。極々短い間に当たり前が当たり前でなくなってしまった鏡にとって、それはとても貴重で、懐かしいことのように思えた。

「来たな」

 ミラーを覗いて、灰川は不敵に笑った。まるで映画のワンシーンのように気取った仕草だったが、不思議と灰川にはそれが似合った。当然のように自分を演出する術を心得ているのだった。

 さっきの焼き直しのように振り向くと、蜘蛛になった八幡修平と同じように、やたらと使用感のない黒い車がこちらへ向かって来るのが見えた。

 車に乗っているのはどこにでもいるような男だったが、灰川と由良の目にはそう映らなかったらしい。

「脅されている。琴音を奪えなければ、家族が殺されるんだ」どうしようもない諦念が貼りついた声で由良は言った。鏡にしてみれば何の根拠もない発言だったが、ぞっとするような説得力があった。

「運転を代われよ」対して灰川は、状況をのみ楽しんでいる。と言うより、彼女にとってこの世のすべてが諧謔の種なのだろう。

 示し合わせたような早業で二人が位置を変えると、それを合図にしたかのごとく背後の車が加速した。

「君たちは日本の映画でカーアクションが少ないのは何故か、わかるかい?」

 鏡は応えなかった。自分と琴音にシートベルトを厳重に着用し、舌を噛まないように備えている。彼女は勉強熱心だった。

「道路が狭いから? それとも予算がないから?」

「逃避行で主人公が奪う車が軽自動車になりがちだと、カッコ悪いだろ」

 後ろに衝突されるギリギリでの急加速。馬鹿げたGが後部座席の二人を席に縫い付けた。

 タイヤのゴムがアスファルトに摩り下ろされて悲鳴を上げる。摩擦で生じた煙がガラス越しににおってくるようなスピード感。

 由良とは比べ物にならない運転技術で、魔改造されたワゴン車の異様な性能が際立った。

 周囲が畑ばかりの田舎道を抜け、二台の車は街中へと飛び込んだ。

 今度はさっきまでとは違い、他の車には運転手が乗っており、当然のごとく走っている。

 しかし、そのすべてを灰川は無視して突っ切る=不敵な笑み。

 車線を越えて前の車を追い抜き、対向車のサイドミラーをかすった衝撃でもぎ取り、獰悪なライン取りで更に加速。

 灰川の技巧は冴えに冴えていたが、敵もそれに追従した。並大抵の腕ではない。ワゴン車が切り込んで空いた隙間を狙う分、楽な個所もあったが、同時に前の車体が邪魔になってかわしにくい場面も生じる。追いすがる敵はそのリスクとリターンを器用に物にしていた。

 拮抗する局面であろうことか灰川はその状態で片手を離して、助手席の前の小物入れを開けた。

 ごとり、と転がり出したのは艶消しの黒。

 拳銃であった。

「僕は忙しいから、君がやるんだ。追いかける気力を失くしてやれ」

「街中だぞ」

「だから?」

 社会的倫理というフィルターを取り払って評価するなら、灰川は極めて優れたエンターテイナーだった。観客の心をつかみ、魅了する術を知り尽くしている。その彼女が劇場型犯罪者の周到さで以て「今、ここが見せ場だ」と言っているのだった。

 由良は口では咎めつつも諦めた様子で、元々そうあるべきだった場所に戻すようなスムーズさで銃を手に取った。

 銃は、筒にレンコンのようなシリンダーを組み合わせた形状である。リボルバーだった。銃身は短い。

 窓を開け、身を乗り出して由良は撃った。

 バン、バン、バン、バン、バン、バン。

 銃を手に取った時と同じような無造作さで、由良はすぐに装弾された分をすべて撃ち尽くした。

 まるで変わらぬ調子で乗り出した身を下げ、窓を閉めた。

 ほとんど動画の逆再生のような現実感のない一連の流れを、鏡は毒気を抜かれたように見ていた。

「灰川ァ。この鉄砲、壊れてるって。一発も当らないんだもんよ」

「壊れてるのは君の目ン玉だよ、このスカポンタン!」

 奇跡的なドライビングテクニックを披露する傍らで、由良の頭を引っ叩く灰川。

「あははは!」

 漫才のようなやり取りに、可愛らしい笑い声が重なった。

 隣を見ると、この状況にもかかわらず琴音は笑っていた。銃声に怯える気持ちよりも、極限状態での緩和が上回ったようだった。

 すると何だか鏡も馬鹿馬鹿しくなって、腹の内から笑いが込み上げてきた。

「ぷくっ、ふ、あははははは!」

 追いつめられたせいで、色々馬鹿になってるのかもしれない。急激なスピード感による高揚を、愉快さと取り違えているのかも。

 けれど笑い続けている内に、これから先に待ち受けている困難も、何とかなるような気がした。

 根拠も何もないけれど、そうなればいいと思った。

 気付けば、鏡と琴音は再び手を繋いでいた。

 ──私は何度でもこの子の手を取ってみせる。

 そう思った。それは決意よりも美しく、確信よりも堅牢なものだった。

「ふふん、それじゃあもっと飛ばすぞ!」

 言うが早いか、灰川がハンドルの横の赤いボタンを押す。するとワゴン車の背後で爆発するような火柱が起き、アッパー系のドラッグをキメたような車内の笑い声は最高潮に達した。


   *

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