第2話 Call of Duty(2)



『由良』

 自分で言うのも何だけど、僕はかなり情緒不安定な部分があって、例えばお肉を食べることに物凄い罪悪感を抱いてしまう時がある。理屈から言うと、それは全然正しくなくて、「でも結局、食うんじゃん」「魚や野菜は平気って、それはかえって選民意識っぽくない?」「僕一人が食わなくても、死ぬ生き物の数は変わらないよなあ」とかまあ、色んなのがあるわけだけれど、実際それは理屈じゃなくて僕の感情から来るものなので、正しさなんかが一切届かない場所にある。「嫌なものは嫌なんだよ」。はいオシマイ。議論の余地なし。それはそれとしてお肉は食べるけど、悲しい気持ちはなくならないし、僕はそれでも生きていかなくてはならない。うわ~!

 突き詰めてしまえば、この世に生きるということは混沌カオスであって、僕たちは自分の主観というフィルター、あれは好きこれは嫌いとかをタグ付けすることで、どうにかこうにか生きている。

 えーと、何が言いたいかって言うと、僕は、自分がやることに対して罪悪感を持ちたくないのだ。

 悲しくなりたくない。

 でも、僕はお肉を食べるし、戦争や貧困をなくしたりは出来ないし、生きるために人を殺したりもする。いや、ぶっちゃけ日本で普通に学生やってりゃあ、あんまり直接人を殺す機会には恵まれないとは思うんだけど、僕はそういう世界に巻き込まれてしまったし、巻き込まれるだけの理由があったし、そもそもそういう人間だったのだから仕方ない。

 正しいか間違っているか、という基準を一旦棚上げして考えて見ると、やらなきゃいけないことなら、いかに負担を軽減してやるかということに尽きる。これが現実的な思考であり、実際問題として僕の負担となるのは目下のところ、罪悪感だというわけ。

 うーん、自分のやっていることを正しいと思うことが出来たら話は早いんだけど、悲しいことに馬鹿は馬鹿でも僕はそこまで馬鹿じゃない。自分の正しさを確信している奴のことを、僕はキチガイと呼ぶようにしているからだ。

 さっきも言ったけど、この世に正しさなんてものはないように思うから、「間違っているのは向こうだから、俺は正しい!」なんて考えられず、代わりに「向こうはああやって間違ってるけど、僕はまた別のやり口で間違っている」って考えてしまって、辛さが螺旋状になるばっかりなのだ。

 いつかこの負のスパイラルから抜け出したいと思うけど、現状は出口が見えない。

 って言うか、精神病院に行けば鬱病とかの診断とお薬とカウンセリングを施されて、綺麗サッパリ解決するのかもしれないけれど、お薬で簡単に変容してしまう自分のテンションに、自己同一性を見失ってしまいそうな気がして、どうにも足が進まない。

 馬鹿馬鹿しい話だけど、この世にはきっと馬鹿馬鹿しくないことなんかなくって、それらに意味があると思い込もうとしている人たちがいるだけなのだ。馬鹿馬鹿しい馬鹿の僕は悩みを抱えながらも、それはそれとして生きていかざるを得ない。それがまた悲しい。

 僕はこんなんで大丈夫なのだろうか?

 本当にちゃんと生きていけるのか?

 社会でやっていけないように思う。

 それでも、目の前のやらなきゃいけないことはなくならないので、精々罪悪感が最小限であることを祈るしかないのだ。

 そんなことを思いながら、僕は上着のポケットの中の丸めた靴下を弄ぶ。

 季節が「寒い」を「涼しい」に切り替えるのを渋るせいで、あらわになった裸足に冷たい空気が刺さって仕方がない。でも、これも必要なことなのだ。

 角を曲がった向こうから音がする。

 バシャッ、バシャッ、バシャッ。軽快なカメラのシャッターにも似た金属音。

 人の気配。

 ──八幡家の人間じゃない。今、灰川が居間に関係者を全員集めて謎解きをしているから。僕が本当に知られてはいけないを嗅ぎまわっているので、それを阻止するために真犯人が外から雇った人間だ。事件が起きてからあまり時間がなかったから、特別腕が立つ人間を選ぶ余裕があったわけではないだろう。それでもこんなヤクザな仕事を受けるってことは、話し合いでの解決は望めない。顔色の悪いガキが余裕で勝てるなんて楽観も捨てるべき。

「嫌だなあ」

 曲がる前に、相手に聞こえるような声量で独り言を言う。

 せめて台所にあった消火器を持ってくれば良かった。目立つから出来なかったわけだけれど。それに、和室ばかりで近くの部屋に椅子もない。事件があってから家人の神経がささくれ立ってるところにスタンガンや警棒を持ち込めるはずもなく、正直やりたくない。

「すうー」

 吸う。

「はあー」

 吐く。

 覚悟未満自棄以上の気持ちで、僕は足を踏み出した。ぺたりぺたりと板張りの廊下に冷たい爬虫類じみた音が響く。

「来たな」

 廊下の行き止まり、本棚を背にして待っていたのは一人の男だった。

 黒いウィンドブレーカー、やけに据わった眼。動きやすい服装で、僕と同じく裸足で格闘を意識している。暴力のにおいを撒き散らしながら、柄が赤いバタフライナイフを片手で開閉=バシャッ、バシャッ、バシャッ。

 勘弁してくれよ、今時バタフライナイフってお前。

 喉元まで出かかった感想を飲み込み、間合いを測りつつ走り出す。

「おま」

 先手必勝。

 相手はまだ何か言いたげだったが、暴力に慣れた人種に特有の反応の速さで、半身になってナイフを順手に構えた。僕が走り出すことも予想していたのだろう、長く突き出された右手には深く刺す意志こそないものの、間合いに入ったこちらの手足を少しずつ削ぎ落とす残忍さが宿っている。

 使い古したような凶暴さと、こちらへの侮りがわずかに発散された。

 一部の親しい人を除いて、ほとんどの人は僕を見て侮らずにはいられない。だから、目の前にいるのに意識を逸らしてしまう。結果、僕はいつでも真正面から不意を突ける。正当な試合なんかでは発揮しにくく、戦闘が長引けば不利になるというデメリットこそあるものの、有用な僕のアドバンテージ。使わない手はなかった。

 大股で一歩、二歩。まだ遠い。

 三歩、四歩目は細かく刻むように、間合いを調整する。

 左手でジャブを撃つような仕草。もちろん、切られてはたまらないのでフェイント。

 フェイントであることは相手も見抜いているので、無反応。依然として刃はこちらを向いたまま。しかし、こちらも自然に左手を前に出した半身になることが出来た。

 互いに突っ込んで自分も手傷を負うことを避ける、安全策としての冷たい迎撃姿勢。相手側としてみれば、急いで僕を殺す必要はない。部外者と言えど、相手は雇われた人間だ。勝手に人の家を引っ掻き回す僕よりも正当性がある。そのため、向こうから積極的になることはないのだが、正直こちらとしては助かる。積極的に刃物を振り回す相手に勝つには、まだ練習が足りない。

 右ハイキック──これもまたフェイント。腰の辺りまで膝を上げて出すフリ。間合いに入った瞬間、即座に斬りつけるために正確に追尾するナイフ。僕はそのまま陰になった右のポケットから、靴下を取り出す。

 本命の武器──靴下を手首でしならせて、相手の右拳を打擲する。本来ならどうってことのない、嫌がらせにもならない動作。しかし、靴下からはじゃらん、と金属音が鳴った。

「ぐ、うっ」

 相手は苦痛の声を上げ、一瞬の隙が出来た。ナイフを落としこそしないのは流石と言うべきか。しかし、それでも隙は隙。僕にその右手を取ることを許してしまった。

 左手で相手のナイフを持った手首を強く握りながら、そのまま何度も靴下で相手を打ち据える。

 じゃらん、じゃらん、じゃらん。

 靴下の中に詰められた無数の小銭が跳ねる音がする。即席のブラックジャック。

 相手は頭を左手で庇おうとするが、あまり意味はない。ボクシング等ならともかく、腕だろうが他の部位だろうが金属製の武器で殴られ続けて無事なはずがないからだ。

 ナイフを振るって脱出するために、強く右手を引こうとするが、手首を思い切り握ることでそれをさせない。今引き抜かれたら、握っている僕の指が落とされかねない。

 それを悟ったのか、相手は引くより押すことに作戦を変えたようだった。

「うおおおおおおおおお」

 がむしゃらなタックル。何とか踏みとどまるが、もつれ合いになった。

 距離を殺されるとこちらのブラックジャックは使えないが、相手のナイフは少しづつでも切りつけることが出来、危険度が増す。

 手首こそ捉えたままだが、相手の右手が折りたたまれてしまった。このままでは下から腹を刺される。

 タックル直後の相手の体勢が低い内に、背中に肘を振り下ろす。

 二度目の肘打ちで相手の息が一瞬止まるのがわかった。

 当たればいいな、くらいのつもりで放った蹴りが、タックルのためにスタンスを広く取った相手の足をすり抜けて金的に命中する。

「う」

 勝機。

 丸まろうとする相手の頭と言わず背中と言わず、ブラックジャックで滅多打ちにする。

「ぐう」

 じゃらん。

「う」

 じゃらん。

「ぅ」

 じゃらん。

 徐々に相手の声が小さくなっていった。

 台詞が苦痛の呻きから「助けてください勘弁してくださいゆるしてゆるしてゆるして」になった辺りで、僕はもう一度全力で相手の側頭部を打ち据えた。ぐったりしたのを確認してから靴下をポケットにしまい、代わりに自分のズボンからベルトをはずした。

 革ではなく、硬い布製のベルトが上手くフィットする。ベルトで意識の朦朧とした相手の首を絞め、数秒。

 がしゃり、と相手の手からバタフライナイフが手放され、ようやく僕は緊張を解いた。想定していたよりスムーズに落とすことが出来た。

 念のためにナイフを拾い上げて、僕は考える。

 ナイフを閉めるバシャッ開けるバシャッを繰り返しながら、言葉が浮かんでくるのを待つ。そう、これは。

 ──罪悪感。

 こいつは僕を殺そうとした。ロクな奴じゃない。まだ捜査をする必要があるから、単純にこいつを殺して後腐れなく活動することも当然、考えている。起きて再び襲ってくるかもしれない。それは考えすぎかも、しかし、邪魔をされるわけにはいかないのも事実。

 探偵助手になってから今日まで、そういう手合いがいなかったわけじゃない。そしてそいつらを全部許したわけじゃないし、全部殺したわけでもない。

 法的なことを言えば、僕はほとんど素手で相手は刃物だったのだから正当防衛だ。そもそも殺人が起きてそれを揉み消そうとした八幡家に雇われた人間なのだから、罪に問われる以前の問題かもしれない。

 だから、問題は損得勘定と、罪悪感。意外と後先を考えたがらない僕の頭が、前者はどっちでもいいと言っている。

 僕は奪ったナイフを振りかざした。

 答えは──。

 ナイフから嫌な感触が伝わる。

「ふう」

 色んな意味のこもった、「ふう」だった。

 相手の頭の数cm横、床に突き立ったナイフを見つめ、腹の中に溜まった澱を吐き出すように深く息をする。そうでもしないと、やってられない。

 疲れた、がまだこれからもっと疲れることが待っている。

 携帯を取り出し、時間を確認する。まだ大丈夫。予定の範囲内だが、かと言って特別余裕があるわけでもない。急がなければ。

 灰川は手袋を外したが、僕はまだ手袋を外していない。

 バタフライナイフの男が守るように立っていた本棚を探る。廊下の行き止まりなんかに本棚を置いても、取りに来るのが面倒で利便性は低い。当然、ほとんどの本の上面には埃が積もっているが、一冊だけやけに綺麗になっている本があった。

 これだ。

 僕は目当ての本を強めに引っ張った。本来なら飛び出すはずの本は、一定の角度で固定され、代わりに何かのスイッチが入るような音がした。

 ズズ、と重い音と共に、本棚が扉のように手前側にズレた。本棚がどいたことで露出した床には、隠し扉。施錠されているが、あらかじめ渡されていた合い鍵で難なく解除。

 表れたはしごは、暗い地下室へと続いていた。


 僕の眼の奥には照膜が形成され、暗闇の中でもわずかな光を元に周囲を見回すことが出来る。

 フクロウは女神アテナの使い、知恵の象徴であり、灰川は「知性こそがこの世で最も美しいものだ」と言った。だから僕は、フクロウによく化ける。

 この眼はあまり色を捉えられないが、暗闇で動くものがあればすぐに察知する。

 地下室までの道は長く入り組んだ迷路になっている。細く曲がりくねった通路は、閉所恐怖症なら発狂しそうな様相だ。

 僕の魂は肉体に収まりきらず、自分の意思とは裏腹に好き勝手に周囲を感覚する。

 だから、この屋敷に淀んだ残留思念を嗅ぎ取り、同じ時間軸で暴れまわっている灰川の姿を脳裏に描くことも出来る。いや、出来てしまう。

 僕は拡散し、収束する量子の集まりだ。自分のみならず他人の感情にも振り回される、官能の表れだ。

 通路を進むごとに、嫌なにおいが濃くなっていく。

 汚辱のにおいだ。

 人間の尊厳が奪われる、暴力のにおい。

 辺りには魔力が満ちていて、いやらしい結界が張られているのがわかる。見せかけの混沌とした迷路に迷わされようとしているが、そのにおいを頼りに進んでいく。

 灰川は僕のことを「感じやすい」と言う。それはかなり的を射ていて、僕は一々しなくてもいい感情移入をしてしまう。犯人や被害者の気持ちをトレースしてその度に悩んでしまうのは、探偵助手としては致命的ではあるけれど、同時に有用でもある。だからこそ、何のとりえもない僕が灰川の隣にいられるのだと思うと、中々複雑ではある。

 ざらざらしたコンクリートと淀んだ空気は、僕の心によくない考えを運び込む。

 息苦しい。

 灰色で暗く湿った通路はまるで、人間の脳髄の中のようだ。

 ああ──。


   *


「お──…とお──さあ…──ん……──……お父…──さ…ああん──」


   *


「さて」

 灰川はいつも、この一言から推理を始める。

 彼女にとって推理は儀式であり、ならばしかるべき手順を踏まなければならない。

 反社会的であり、絶対的に己の天才性のみを頼む探偵が、世界のすべてを敵に回すための宣戦布告だった。

 その声を聞く鏡の脳は、一種の官能で埋め尽くされ、とろけていった。

 鏡は知らない。彼女は灰川への憧れも、そこから生まれる憎悪も、愛情も、その意味も価値も知らない。知ろうともしない。

 これは鏡に限った話ではない。灰川のような特殊な事象に相対した人は、鈍感になることで自分を守ろうとする場合がある。当然の防衛反応だった。

「先日の八幡家の集会における八幡浩二氏殺人事件および、同日の死体消失事件についての話をしようと思います。午前九時に全員が居間に集まり、十時三十分頃に休憩をはさみ、各自解散して自分の部屋やトイレに自由に行き来した。浩二氏の死体が発見されたのは十時五十分頃。発見した修一郎氏と修二氏が全員に呼びかけ、現場と目される場所に集合したのが十時五十四分。しかし、そこには死体はなかった。僕が調べたところ、血液反応が微量に検出されたが、血は拭き取られた後だった。つまり、僕たちは死体そのものを見たわけではない。わずか数分の間に、如何にして死体を隠蔽したのだろうか……と言っても、これは本当は推理するまでもないことだ」

「どうしてですか? 修一郎さんと修二さんが偽証をしているとでも?」

 興奮して余計な口をはさんだ鏡に、八幡家の人間からの非難の視線が集中する。しかし、それは続く言葉のせいですべて灰川へと矛先を変えた。

「いや。その二人だけではなく、この家族全員が嘘つきだ。そもそも、家族や恋人などの親しい間柄の人間の証言はアリバイにならない。もっともらしく時間を挙げて見せたが、部外者である僕や君が死体を確認していない以上、浩二氏が死んでなくてもおかしくはないし、全く関係のない別人の血液反応であることも考えられる」

「手前! 俺たちを疑ってるってのか!」

「疑いだと? これは確信と言うのだよ」

 八幡家の総意を表すような修二の抗議に対して、ついに灰川は薄っぺらな敬語すら使わなくなった。

「じゃっ」

 吐く息も荒く立ち上がった修二の膝に、灰川の前蹴りが突き刺さる。関節が外れる嫌な音がした。足を床に戻さず、流れるような回し蹴りが修二の側頭部を襲った。

 フォローするように修一郎が灰川の後ろから殴りかかるが、振り向きざまの目打ちで怯まされ、水月へ肘打ちを受けて逆に吹き飛んだ。

 一瞬の内に、大の男二人が畳の上に倒れ伏していた。

 灰川は残った八幡家二人と鏡を値踏みするように睥睨した。台風じみた暴力を振るっても彼女の呼吸は乱れず、汗の一滴すらない。

「続けてもいいかな?」

「……ああ」

 睦美は顔を伏して応えず、修平はどこか諦めが漂う口調で言った。

 鏡は一連の暴風を、ただ呆気にとられて見ていることしか出来なかった。

 彼女にはわからないことだったが、灰川にとっては暴力もパフォーマンスの一環だった。大仰な語り口で推理を口にして、周囲を丸め込む。その過程での示威行動として灰川は暴力を効果的に用いる術を心得ていた。

 灰川の演説はいよいよ勢いを増して続く。誰もそれを止めることが出来ない。誰もそれから眼を逸らすことは出来ない。

 だからだろう、本来ここにいなければいけない探偵助手のことなど、鏡は一瞬たりとも考えようとしなかった。


   *


「人は、目の前にある自明の正しい選択肢を選ぶことが出来ない。

 良い生活がしたいと言う人間はいくらでもいるけれど、それには金が必要で、金をたくさん稼ぐには医者や弁護士のような高給取りになる必要があって、そのためには良い学校に入るために勉強しなければいけないのに、目の前の面倒な数学の問題を解くのを先送りにしてしまうのが、ほとんどだ。

 結局のところ、人は試されないことには、その本当の価値はわからないのだ。世の中のほとんどが自分自身ですら、自分が何者なのか、何を欲しているのかをまるで理解しておらず、それを知ることなく一生を終える。どんなにまともで誠実そうに見えても、実際には腹の内に何を飼っていてもおかしくないのだ。

 そのことに私が気付いたのは、何もかもが手遅れになった後だった。

 妻が病気で死んだ時、辛かったがまだ大丈夫だと思った。人はいつか死ぬ、それが早かっただけだと思えば、耐えることが出来た。それに、私には妻が残した娘がいた。彼女を想えばこの世の悲しみが自分に追いつくことはないと思えたし、娘のためにも嘆いてばかりではいられなかった。

 しかし、それでもこの時点ではまだ、私は試されていなかった。

 娘は、穏やかな気性だった。自己主張が弱いため、私の方から意を汲んでやらないと、いつまでもわがままを言わず、辛いことがあっても我慢してしまうことが多かった。肺を病んでいたが、それを隠し通そうとして死んでしまった母にどこか似ていた。

 私は娘のためにすべてを捧げた。娘のために何でも揃えたし、彼女が満足するような対応を出来たと思う。彼女の控えめな所すらも、美徳と思えた。

 しかし、娘が失明した時ばかりは、どうしてちゃんと言ってくれなかったんだと思った。

 緑内障だった。

 視神経に障害が起き、視野が徐々に狭まるという症状が見られる。

 慢性的にゆっくりと進行していく病気のため、早期発見が難しい病気だった。

 それでも、絶対に治らない病気ではないはずだった。そう思いたかった。自分が娘の病気に気付けず、更に治療できる確率が低いなどということを認めてしまえば、心が壊れてしまう気がした。

 何か選択肢があったはずだ。そう誤魔化すことでしか、私は耐えられなかった。

 末期まで症状が進んだ娘は、ついに疼痛を訴えた。眼球を摘出するしかないというところまで、症状は悪化していた。

 私にはどうすることも出来ず、彼女が手術を受けている最中、どこか現実に膜が張ったような感覚の中で、ただぼんやりと待っていた。

 術後の病室で、私は初めて娘を口汚く罵った。

 ──何故、相談しなかったのか。私はそんなに信用ならないか。

 ──お前は心の中で私を馬鹿にしていたのだな。

 ──自業自得だ。

 ──妻が死んだのも、お前と同じだ。馬鹿だからだ。お前もいつか自分の愚かさに殺される。

 今思えば、大切な物を失ったから動転していたという言い訳が通用しないレベルだった。妻に対してもずっと抑えていたものが、噴出したのだろう。私は咆哮する活火山だった。

 娘はそのすべての言葉を、ただ黙って受け入れた。娘の顔のほとんどは包帯で覆われていて、表情が見えなかった。だからだろう、私は罪悪感なく気分よく説教が出来た。

 個室だったせいで、誰にもそれは聞かれなかった。内向的な娘は、唯一の家族である私以外に頼る術を持たず、医者や看護師に相談することもなかった。

 それから毎日、私は娘の病室に通った。周囲の皆、私を良い父親だと言った。娘が寂しくないように、そう思う気持ちは当然あった。しかし、そう思えば思うほど心は裏返り、誰も邪魔を入れられない二人だけの部屋で、私は娘に呪詛を投げかけた。彼女は、当たり前のように受け入れた。私も次第に、それが当然だと思うようになった。

 娘が退院してからも、呪いの日々は続いた。

 全盲になったため、娘は普通の学校には通えなくなった。本当なら小学校に入学するはずの時期に、彼女はずっと病院にいた。買ってあったランドセルは無駄になった。

 代わりに、特注の義眼を贈った。

 本物の眼球を再現するのではなく、美しくあることだけを求めたものだった。それが彼女に良く似合った。

 特別支援学校に通うことは、私が認めなかった。最も彼女のことを理解している私ですら、娘を傷つけてしまったのだ。これ以上危険に晒すことは出来ない。

 理解されないだろうが、呪いの言葉を四六時中囁いている中でも、私は娘を愛していた。愛がより強固な毒となって彼女を蝕んでいるのがわかってなお、それをやめる気にはなれなかった。

 娘は美しかった。親の贔屓目を抜きにしても、同年代の女の子の誰よりも、テレビで見たアイドルなんかと比べても、ずっとずっと美しかった。

 奇妙なことに、娘の美しさは失明してから、より磨きがかかったように思えた。私の方を向いてこそいるが、ピントが合わない義眼では、見られているという実感が湧かなかった。それが良かった。

 視線には力がある。それを奪われた娘は無力で、庇護欲をそそった。

 娘の美しさをいつの間にか彼女の母であり、私の妻である女性と比べ、娘の方がそれを上回っていると確信した時、私は娘に服を脱ぐように言った。娘は裸身を私の目の前に晒していた。

 私は娘に手を上げたことなど、一度もない。これからも、これまでも。私はただ、私の物を私の望むように扱ったまでだ。これは暴力などではない。決して。

 打ち捨てられた人形のように、ベッドの上に肢体を投げ出した娘は、この世の何よりも美しかった。破瓜の血と欲望の色が混ざり、こぼれた。

 それから、私が娘を面罵することはなくなった。極々自然に「愛してる」と言えるようになった。ずっと言いたかった言葉。妻にも、そしてこの子にも。

 娘は私の愛を受けて、植物が成長するように日に日に美しさを増していった。

 呪詛を受け入れていた時のように、娘は常に私を受け入れてくれた。

 ──見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。

 安部公房の引用だ。娘と私の関係を的確に表しているように思えた。娘が私を見ることは、もうない。一方的に私だけが彼女を見る。そこには、罪悪感や既製のモラルが入り込むことのない、完全に昇華された愛だけがある。

 ──お前は愛の子だよ、琴音。

 私は娘に語りかける。

 しかし、幸せな時間も、長くは続かない。

 親戚の奴らが、これを嗅ぎつけた。娘には戸籍があるし、完全に隠蔽は出来ない。具体的に私たちが何をしているのかまではわからなかったようだが、馬鹿なりに考えのある奴らは娘を解放しろと言った。

 ベストよりベターを目指すのが、何をするにしても長続きのコツだ。時には妥協も必要。私はそのことを知っている。だから、奴らに娘を紹介した。娘は私の考えをわかってくれたし、手伝ってくれた。最後には奴らもわかってくれた。

 私たちは協力して、娘の部屋を飾った。それが必要だったからだ。社会がこのことを知れば、私と娘を引き離そうと働きかけるだろう。それが娘を傷つけることになるとは考えもせずに。そんなことを避けるために、私たちは地下室を作った。そこが娘を守る最後のシェルターだった。彼女の存在を秘密にし、なおかつ難しい作業を行うのには、家族が最小の単位だった。血の繋がりと娘とのが、私たちを強く結びつけた。

 関係が破綻し始めたのは、弟の浩二が原因だった。

 親戚の集まり、つまり娘と親睦を深めるための会があった時に、私の元から娘を奪い去ろうとしたのだ。許されることではない。

 子供の頃、私の両親が話し合っているのを偶然盗み聞きしてしまったことを思い出した。

 ──浩二は、私の本当の弟ではない。

 もはや確かめる術はないが、彼が裏切ったのも血の繋がりがないからだと考えれば、納得出来た。やはり本当に信用出来るのは、もはやこの世に娘しかいない。

 だから、壁に頭を打ちつけて動かなくなった浩二を見ても、何とも思わなかった。娘を奪おうとしていたのを早期に発見して阻止できたのは僥倖だったし、ちょうど地下室の出入り口で仕留めたので、すぐに死体を地下室に隠すことが出来た。その途中で第三者に浩二の死体を見られたのは予想外だったが……。

 信用できないと言えば、あの探偵だ。灰川真澄と名乗ったあの女。どうして、あんな奴が我が家にいた? 最初に死体を見られたせいですぐに追い返すことも出来なくなってしまったが、誰かが最初に招き入れたはずだ。何がどうなっているというんだ?

 あいつは地下室のことを知っていた。何故かはこの際どうでもいい。とにかく、娘を逃がさなくては。

 浩二が死んだのは仕方のないことだ。しかし、それによって私が拘束されれば娘は一人になってしまうし、私以外の奴が娘に触れることは虐待だ。

 彼女をこれ以上傷つけるわけにはいかない。それが私の存在理由なのだから」


   *


「本当は、お父さんがおかあさんをころした。お父さんはおかあさんよりわたしが好きで、おかあさん、じゃまだったから、まいにち白いのごはんに入れてころした。ほんとう。わたしもじゃまで、そうおもってて、ほんとうは、おかあさんがいるとお父さんがとられるとおもって、ほんとうはそのこと知ってたのに、いわなくて、おかあさんごめんなさい、こわくて、お父さん大すき、でもわたし、いまは、おかあさん、たすけて。ごめんなさい。だいすき。お父さん。おかあさん。ほんとうに。わたしにはもう、なにがほんとうでなにがほんとうじゃないのかわかりません。わからなくて、こわい。こわいので、おこらないでください」


   *


 ようやく、開けた場所に出た。

 開けた、と言ってもそこはまるで座敷牢だ。中々広いはずの部屋は真ん中で区切られ、壁のような太い木の格子からは中にいる人間を外に出すまいという、強い意思が感じられる。

 人間の体液で汚れ、黒ずんだ畳。

 格子の向こう側には、一人の少女がいる。

 上半身には拘束衣が着せられ、両手がふさがれている。下半身は裸で、病的に白い脚とその付け根に薄いピンクの性器が露出している。部屋の隅におまるがあるので、排泄のための妥協だろう。対角の隅には食事用らしきボウルとスプーンが転がっている。

 僕は、牢の中に入った。

 奇妙なことに、酷く汚れているはずの少女からは甘くかぐわしいにおいが漂ってくる。しかし僕には、それが表面だけのもので、彼女の魂がどす黒いものに犯されているのがわかる。屈辱と絶望が常習化した人間のにおいだ。

 ボウルの中に残った残飯をこそげ、舐めてみる。

「淫角、ヨウランザクロ、六頭ナマコ、サテュリオン……」

 間違いない、淫毒だ。

 古い中国に桃娘タオニャンというものがある。

 幼い少女たちに赤子の頃から桃のみを糧として与えることで作られる、一種の性奴隷である。肉を食べたり煙草を吸ったりすると体臭がキツくなるということがあるが、桃のみを食べる彼女らの体臭や体液は甘く、桃の香りがすると言う。彼女らの飼い主は、それらを珍味妙薬として好んだ。性奴隷とはいえ、桃娘が直接の性交に及ぶことは稀だ。処女で混じり気がないからこそ彼女らに価値があるのであり、同時に歪んだ成長をした肉体が性交の激しい刺激に耐えられないためである。

 だが、今僕の目の前にいる少女は違う。淫毒と呼ばれる八仙邪法の一つ、外法中の外法である特殊な調合を為された一種の毒を恒常的に摂取することで、性的魅力に特化した怪物とも呼ぶべきものに身体を作り替えられているのだ。

 前もってある程度調べてはいたが、これで八幡家の身内での争いに納得がいった。皆でこの子を虎視眈々と狙っていたが、その均衡が八幡浩二の暴走によって崩れたのだ。

 少女は起きていて、僕がいることにも気付いているはずなのに、まるで反応を示さない。

 こんな生活環境にもかかわらず異様に艶やかな髪をかき上げると、予想通り(と言うのもおかしいけれど)この世のものとは思えない美貌が現れた。

 日の光を一切浴びていないせいで透き通るように白い肌、奇跡のようなバランスで配置された小ぶりな顔の各部位。舌を噛まないようにくわえさせられたボールギャグも、失明しているために閉じられた目も、彼女の美しさをわずかたりとも損なうことはない。高級な肉牛を飼うようにして与えられた淫毒の成果だった。

 実年齢よりもずっと幼い容姿なのに、空気に色が付くほどの性を発散している。

 ボールギャグを外すと、でろりとよだれがこぼれて僕の手に垂れた。

「あぁた……だれ……えぅか……?」

「……」

 ここで僕が名を明かすのは良いことなのだろうか? あまり自信がないのでぼかすことにする。

「もうしばらくしたら、正義の味方がおたくを助けに来る。それまで少し待っててよ」

「……だれ……」

「僕はやることがあるから」

 視界がぶれる。

 眩暈にも似た感覚は、いつまで経っても中々慣れない。

 悪魔──“契約”によって奪った人間の魂を媒介に異能を操る、人ではない者。

 生まれつきの悪魔の奴もいれば、契約の成り行きで後天的に悪魔に転化する奴もいる。僕は後者だし、もそうだ。

 僕たちはラジオをチューニングするみたいに世界をずらし、そこで色々と人に見せられないようなことをする。時間の流れ方や、いくつかの物理法則は基底現実とは異なってくるので、何かと都合が良いのだ。

 振り返ると、格子の向こうには巨大な蜘蛛がいた。

 斑模様が入った、太く丸い腹。禍々しく伸びた八本の脚。蟲の本来の頭の部分からは、冬虫夏草のように人間の胴体が生えている。人間の部位は、八幡修平のものだった。

「娘に手は出させない」

 ふと、決心が揺らぎそうになる。

 八幡修平の声は娘を守ろうとする父の慈愛に満ちていて、少女自身もこの関係を壊されるのを望んではいないんじゃないかと、そんな馬鹿げたことを考えてしまう。子供にとって親は神で、どんなものであろうと、それを奪おうとするのは横暴なんじゃないかと。

 少女──八幡琴音は生まれた時からずっと八幡修平と一緒にいる。だから、不幸の意味を知らない。自分がどんな状態にあるのかも。

 正論では救われない人もいる。この親子は間違うことでしか生きられなくて、それがどん詰まりの所まで来てしまったのだ。

 いつも通りの感情移入/自己投影=役に立たない悩みを量産するだけ。

 僕は自分のやってきたことを正義だなんて思わない。これまでも、これからも。

 まあ、いいさ。どうにでもなれ。やると決めたんだから。

 やけっぱちな覚悟。

「手ェ出したのはおたくだろ、ロリコン親父め」

 異貌を目の当たりにしても平然としている僕を、八幡修平はいぶかしむような眼で見ている。顔全体をみっしりと埋める八つのレンズ。

「おたくは叫ぶ派か? 呟く派か?」

「何を言っている?」

「何って、〈変身〉のことさ」

 脊椎を中心に黒く、細く、薄く、そして質量のない触手が無数に伸びた。それは僕の全身を何重にも覆い、硬質化していく。

 前腕部分から伸びた刃のような甲殻で格子を切断する。

 僕は黒い人型の甲虫に〈変化へんげ〉していた。

 ──異貌と異貌が対峙する。

 八幡修平が世界をずらしたせいで、八幡琴音はこの場にいない。それだけでなく、上の階の灰川や他の八幡家の人間も介入出来ない。

 正真正銘、二人だけの世界。

「そうか……お前が琴音を奪いに来た悪魔だな」

 化け物はお互い様だろう。

 彼の心が既にどうしようもなく凝り固まってしまっているのがわかった。まるでどす黒い墨の塊のようだった。そして、ありとあらゆる会話がこの期に及んで何の意味ももたらさないことをも。だから、僕は安っぽい台詞を呑みこんで間合いを詰めた。



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