目玉焼きのこだわり

第1話 Call of Duty(1)

『由良』

 多くの場合人は変わることが出来ず、その不可能性、不可逆性に自分自身を規定されるのだけれど、それと同じくらいに変わらないものなんてない。

 月が満ちていくように、ただゆっくりと形を変えるものもあれば、劇物をあおり、突然に毒々しく色を変え、二度と戻らないものもある。

 僕は、灰川真澄という毒を飲んだ。

 灰川は探偵で、僕はその助手で、そうであるからにはもう、そうでなかった時のようではいられないのだ。

 変わらないもの──僕の壊滅的なファッションセンス。電話にはめったに出ないこと。腕時計をしないこと。劣等感。ダサくて不細工で卑屈さと傲慢さが入り混じった僕が僕であること。

 変わったこと──コーヒーが飲めるようになったこと。毎日髭を剃るようになったこと。喧嘩や詐欺が少し上手くなったこと。免許はないけど、車が運転できるようになったこと。死後硬直から大体の死亡時刻を推定できるようになったこと。人を何人か助けたこと。人を何人か殺したこと。

 そして──人間ではなくなったこと。




『津田』

 そこそこの歴史を感じさせる日本家屋の広い庭に、車が複数台停まっている。

 その内の一つ、黒塗りで後部座席のスライドドアが大きいファミリーカーの横に、二人の男が立っていた。

「ちっ」

 舌打ちをしたのは、男の片割れだった。白いパーカーと黒いシャツ、太いネックレス。威圧的に見せたいのだろうが、どうにも軽い服装。眉毛は先の尖った三角形。髪は長めで、前髪が目にしっかりかかるくらい。鏡になりそうなものがあれば逐一弄らずにはいられない、といった風なワックスの付け方だった。近づけば、安っぽい青リンゴのにおいがするだろう。

 彼は不満げな表情で、足元を軽く蹴り上げた。

「八回目」

 じゃす、と砂利が飛び散る音に、隣から声が被せられた。

「あ?」

「今日、お前が舌打ちをした回数だ。今月に入ってから俺の前でした回数は……」

「あーうるせえうるせえ、そんなの聞いてねえっつーんだよ」

 憤懣やるかたなし、という風に青リンゴのワックスをつけた男、津田亮二は車に寄りかかった。

「風間ァ、おめー、その数え癖やめらんねえのかよ?」

「すまない」

 風間と呼ばれた男は、浅黒い肌で身長が高い。ひょろりとした風ではなく、かといって肉の量が多いわけでもない。骨格ががっしりとしていて、それに必要な分だけの筋肉を纏っているようだった。服は頑丈そうなジャケットとジーンズ。髪は短く刈り上げられ、ぎょろりとした目に固く引き結んだ口。本人の意図しないままに、人に近寄りがたいと思わせる風貌だった。

「謝んなくてもいいけどよ、わざわざ口にすんなってこと。オワカリ?」

「確かに。だが、お前の舌打ちだって、あまり人に聞かせるようなものじゃない」

「ちっ、普段は喋らねえくせに、こういう時だけ……」

「九回目だ」

「うっせえーんだよ!」

 津田は思わず、寄りかかっていた車の黒く広いドアを蹴り上げた。

「傷つけると灰川に怒られるぞ」

「ちっ、あいつはその程度でギャーギャー言わねえよ」

 十回目、とはさすがに言わないようだった。

 それでも津田は、何もかもが気に食わなかった。

 この寒い日に、わざわざ外で待たされるのが気に食わない。

 隣にいるのが、話し相手としては恐ろしく気が利かないでくのぼうであることが気に食わない。

 同級生の助野がその友達を殺しては喰っていた連続猟奇殺人からずっと、灰川真澄に良いように使われているのが気に食わない。

 いや、百歩譲って灰川にこき使われるのは良いとしよう(「いつか殺すけどな」と津田は思っていたが、その具体的な方策も、「いつか」がどのタイミングかも考えようとしない辺りが、彼の限界だった)。しかし、その金魚の糞である由良俊公にまで下に見られるのは、我慢ならない。

 津田は憎しみと共に、由良の顔を思い描いた。

 線が細く、顔色が悪い。表情は常に怯えと無関心が奇妙に混ざり合った、ひ弱な草食獣の趣き。夢見がちな態度で、誰からでも蔑まれるような男だったが、津田には彼が逆に、その目の奥で自分たちを見下している風に思えて仕方なかった。

 どこで間違ったんだ? と津田は考える。

 クラスのみんな、由良を馬鹿にしていた。自分もその中の一人だった。

 普段通りの休み時間、あいつが大きな声でトンチンカンな独り言を言っていて、自分でもそれに気付いたのか、恥ずかしげに教室を出て行ったことがあった。馬鹿だと思った。笑いものにしてやったらウケると思ったから、そうした。そしたら、酷い反撃を食らった。ケチのつき始めはそこからだ。

 灰川にボコられて弱みを握られて無理やり捜査に協力させられたりもしたが、何より恐ろしいのは、その時の由良の眼だった。まるで感情が読めなかった。馬鹿にされて怒ってるとか、そういうレベルじゃなかった。色素の薄い栗色の瞳が、ぞっとするような光を帯びていた。

 津田は灰川には逆らえないと思っていたし、助野が、同級生が人肉を饗していることがわかった時は吐いた。灰川らに使われていくつかの事件に触れ、そのたびに人間の狂気に恐ろしさを感じこそしたものの、あの時の由良ほどではなかった。

 自覚こそないが、津田は由良に完全に屈服していた。頭では見下していたが、深い根の部分で、心が折れていた。ただ、それを認めたくないだけだった。

「ちっ」

 だから、無自覚に舌打ちが出る。

「十一回目」

「うっせー」




『鏡』

 人はどこから来て、どこへ行くのか。

 どんな手法で言い換えても、本質は変わらない。人生はつまるところ、その連続。

 それが鏡亜矢の哲学だった。

 服は安く地味な物ばかりだったが、組み合わせ方が上品で貧乏臭さを感じさせない。アクセントとなるのは赤縁あかぶちの眼鏡。その奥には、自分の能力を最も活かす方法を知る人間に特有の眼光があった。

 鏡は自分がどこから来たか知らない。孤児だった。だから、調べること/知ること/暴くことに熱中した。そうすれば、見失った自分自身に近づけるような気がしたからだ。

 その点において彼女には熱意があったし、才能もあったので、将来記者となる自分を疑うことはなかった。

 才能を持つ人間は、それを社会のために役立てなければならない。生まれつき社会との繋がりが希薄な鏡にとって、そうすることが己に課された当然の義務であるように思えた。好きなことだからこそ、より上手くなる。喜びが技術を耕し、義務を達成出来る。幸せな循環が自分を生かしていると鏡は信じた。

 もう一つ、鏡は時々、起きて活動しているのにもかかわらず、意識を失くすことがあった。赤ん坊の鏡が名前も知らない誰かに見つけられたのは、ゴミ箱の中。黒くて中身の見えないビニール袋に包まれて、泣き声をすら出す力を失っていた。幼い頃の酸素不足による臨死体験。それが彼女の脳にちょっとした障害を与えた。

 今も、その意識の空白を感じた。

 とっさに腕時計を見ながら考える。

 ──私はさっきまで、スクランブルエッグにケチャップをかけて、トーストを一緒に食べていたはず。

 最後に確認した時間から、それほど間が開いているわけではない。鏡の時計は電波時計で、日付表示も正確だった。彼女なりの、当然の備えだった。

 鏡が今立っているのは、外で、民家の密集地帯で、電信柱の隣だった。ズボンに泥のシミが飛んでいるのに気付いて、苛立ちがつのった。

 しかし、鏡は焦らない。

 使い慣れた鞄から、一冊の手帳を取り出した。黒い革の表紙が手に馴染む。いつから使っているのかは忘れたが、材質からして安物ではないとわかる。その生い立ちから、質素を旨とする鏡には珍しいくらいだった。

 手帳の最新のページを繰ると、こう書かれている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

・八幡邸に急げ!

・殺人事件(被害者:八幡浩二/家長である八幡修平の弟)→親戚同志の集まりで彼の死体が見つかる→いったん全員が部屋に戻り、再び確認したところ、死体が消失。

・殺人/死体消失事件→何故殺人があったのか?→どうやって死体は消えたのか?

・一番怪しい容疑者は、家主の八幡修平。

・探偵が関わっている。謎解きに遅れるな。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 どこから来たのかわからなくても、どこに行けばいいのかはわかる。

 鏡は手帳を閉じ、八幡邸へと向かうことにした。


 灰川真澄という探偵に、鏡は奇妙なシンパシーを感じていた。

 灰川は奇妙な女だった。

 男装に身を包み、自ら探偵を名乗り、捜査と称した深夜徘徊などの奇行を繰り返したが、それそのものは重要ではない。それら全てに彼女なりの計算があったことこそが問題なのだ。

 灰川に会った人間は、ほとんど第一印象で彼女を変人だと思う。エキセントリックな言動、相手を小馬鹿にした態度。しかし、彼女が実際に数々の難事件をするりと解決し、相対している自分のことも見透かしているという事実に気付いた時、やはり多くの人は平静ではいられない。そういう風に、周囲の心をいともたやすくかき乱すのが、灰川真澄なのだった。

 鏡が、同級生である灰川に興味を抱くのはもはや必然であった。鏡に自覚はなかったが、特別な人間を暴き暗い部分を見つけ出すことで、相手を自分と同じ、もしくはそれ以下だと思うことが出来るというのが、彼女の楽しみだった。あるいは記者としての才能だった。

 しかし、灰川を暴くことは出来なかった。

 灰川が「灰川真澄」という名義で探偵活動を始めたのは、極々最近のことだった。それまでも彼女は自分の知性をひけらかしてはいたものの、探偵ではなかった。いや、灰川に似た子供が殺人事件の現場にいた、また、事件解決に貢献したという話はあったが、噂の域を出なかった。灰川にはいくつもの身分と顔があったのだ。

 ある時は、警察に一通の手紙が届いた。それには、事故と処理した事件が実は殺人であるということの証拠が記されていた。

 ある時は、事件の関係者に電話がかかってきた。彼は当初容疑者とされていたため、疑いを晴らそうと藁にもすがる気持ちで電話の指示通りに動くことにした。その結果、彼に濡れ衣を着せた犯人とその共犯、更に彼らをそそのかした黒幕、都合三人が死亡した。

 ある時はインターネット、ある時は使いの人間をやって、ある時は灰川に騙された人間が結果的に事件を解決することになる、など。

 灰川自身が手を下さなくとも、解決された事件は無数に存在する。

 そして、裏で糸を引く彼女は、偽の情報をいくつも用意していた。

 両親とは死別し、現在は寮で一人暮らし。保険金で生活をしている……。嘘ばかりだ。まず、両親と死別とあるが、両親の死んだ正確な時期がわからない。ダミーの記録ばかりで、外部の人間からは調べられないようになっている。保険金で生活と言っているが、灰川は事件解決にあたって犯人を強請るわ、事件自体を隠蔽するよう依頼を受けるわで、非合法な収入を得ている。それもかなりの額。告発できるような証拠を残さない辺りが憎らしい。

 これだけの情報を得るのにも、かなりの危険を冒した。灰川の手は広く、長い。調べている途中、彼女の手下と思しき人物にストーキングされたこともあった。学生にしては場数を踏んだつもりの鏡だったが、あの時は生きた心地がしなかった。

 わからないことばかりだったが、逆に障害が鏡を奮い立たせた。

 社会のルールを、法を嘲笑うような灰川の態度に反発して鏡の正義感が燃え立った。

 こんなにも才能を持っているのに、それを社会のために何も還元していない。それどころか、秩序をかき乱している。人が人として生きていく上での義務を、蔑ろにしている。──許せない。

 しかし、彼女は心の底で、探偵に、自分を重ねていた。それら混沌とした感情のカクテルが、彼女の執着の原動力だった。

 ──見ていろ、灰川真澄。いつか私は、あなたへとたどり着く。


 八幡邸は、大きい旧家のたたずまい。格式があるというよりは、古臭さと、そこから来る寂れた活気のなさばかりが感じられた。

 鏡は、その門の奥に数台の車が停まっているのを確認した。

 ──フラッシュバック=数日前と同じ車/事件があったその日と同じ状況////////何故、私は事件に居合わせた?///////灰川による再現。

「灰川は……八幡家の親族の集まりに居合わせた……。遠縁の親戚だと嘘をついて……八幡家の中に灰川に情報を漏らした相手がいる……そいつは事件を解決してほしかったんだ」

 ぶつぶつと、鏡は頭痛にも似た思考の閃きを口にすることで再確認した。

 彼女は気付かない。自分がこの事件にかかわることについて、不自然が混じっていることに。あるいは、自分が気付きたくないということに気付かないふりをしているのかも。

 使い込んだ手帳を開いて、鏡が考えにふけっていると、背後に人の気配がした。

 立っていたのは、八幡修一郎。

 細面に整えられたあご髭。白いスーツと黒みがかった紺色のシャツに、これまた細い革のネクタイ。先の尖った革靴は、よく磨かれている。いかにもな伊達男の風情。彼が八幡家の長男である。

「また来たのか。野次馬は迷惑なんだけどな」

 修一郎のトゲのある声。

 鏡はこれに対し、記者に特有の厚顔で応じる。

「ええ、もちろん。灰川さんの謎解きも見られそうですし」

 すっ、と修一郎の目が細まった。かすかに不穏な気配が漂う。

 彼がただ見た目通りの男ではなさそうだと、鏡は遅まきながらに感じ取った。

「そういうのが野次馬だって言うんだよ。あんた、自分が何をしているのかわかってないだろ」

「わかってますよ。私は、そこに事件があるなら暴かずにはいられないだけなんです」

 八幡家では、殺人事件が起きている。いや、起きた。

 被害者は八幡浩平。八幡家の家長である修平の弟であり、修一郎からしてみれば叔父にあたる。八幡家は、先程も鏡が言及した通り、定期的に寄り合いを開く程度には親戚同士の仲が良い。にもかかわらず、殺人事件が起きてからも警察に通報をしていない。あろうことか、互いに箝口令まで敷く始末である。

 はっきり言って、異常だった。

 そこに灰川というイレギュラーまで絡んできて、だからこそ鏡は興味を持ったわけだが、しかし、この異様な家族にことを考えずにはいられなかった。

 鏡は以前、灰川の手先と思われる男たちにストーカーされた時と同じ悪寒が、背骨をなぞるのを感じた。

 恐ろしかった。

 そしてそれ以上に、興奮した。

 やはり、見られて困るものがここにはあるのだ、と。

 それを暴くことこそが、鏡亜矢の生き甲斐だった。誰にも譲ることの出来ない、存在証明だった。

 鏡は、己の能力を信じていたし、それを振るう機会を見逃さなかった。有能な人間に特有の、チャンスへの機敏さ。アマチュアながら記者として着実にステップを踏む自分を、胸中ひそかに誇りに思った。


 二人の間にある緊張をぶち壊すように、クラクションが鳴った。

 振り向くと、酷く無自覚な、がさつで乱暴な運転の黒い車が、鏡たちのいる門の辺りに突っ込んでくる瞬間だった。後部座席の扉が大きく開く、ファミリーカーだった。

 服の袖に引っ掛けられそうなギリギリを車は通りすぎたかと思うと、庭の砂利をいたずらにこするようにして停車した。

「やあやあ、ごきげんようお二人さん。知らない間に随分と仲が良くなったようで重畳重畳。僕も混ぜてくれよ」

 車の後ろから降りてきたのは、灰川真澄その人だった。

 黒髪を直線的に切り揃え、くっきりと濃い眉が意志の強さを主張している。格子縞の二重回しインバネスコート、前後につばの出たハンチング帽の下から、黒曜石の瞳が炯々と光を放った。陶磁器のように白い肌の色と、健康的な精気を同時に放つ、ある種の矛盾は人の目を強く惹く。黒い手袋は指先を細く見せ、防寒と繊細な機能を両立させる特注品。

 フェティッシュな男装に身を包んだ探偵は、悠々と歩を進める。

「灰川さん、でしたっけ? そこに車を停めないでほしいってこの前も言ったはずだけど」

「なに、すぐにどけますよ」

 不機嫌そうな修一郎に対して、あくまで灰川は泰然としている。

 車内から二人の男が出てくる。鏡の同級生である、津田と風間だ。

「まいったな。ガキばっかりだ。あんたの高校は、その年で免許取らせてくれるのかよ」

「人を殺しても警察がすぐに捕まえには来ないんだ、ちょっとくらい見逃してくれますよ。──君たちはそこで待機していたまえ」

 当たり前のように、嫌味も受け流す。

 津田はどこか怯えた風に、風間は当然とでも言う風に命令を受け入れた。車内にも戻らず、本当にそのままの場所に棒立ちになった。

 その反応に満足したようにうなずくと、灰川は八幡家の玄関へ向かった。

 呼び鈴も鳴らさずに、堂々と灰川は家の中へと入る。

 鏡は、灰川が瞬間記憶能力の持ち主であることを知っていた。だから、彼女が自信たっぷりに歩くのは、この家の間取りを完全に暗記しているからなのだと推測した。一度入ったことがある部屋ならば、目をつぶっていても灰川はそこで生活できるだろう。

 良い隠れ蓑だ。そう思った鏡は、いつものように灰川に随行することに決めた。

「ああ、それでは失礼します。と言っても、すぐにまた会うことになるでしょうが」

 適当に修一郎を振り切って、追いつく。

 灰川が「灰川真澄」として活動するようになり、鏡がそれを追うようになってから何度か繰り返した、お決まりのパターンだった。灰川は鏡のことなど歯牙にもかけないし、鏡は取材が出来る。お互い損はなかった。鏡のプライド以外は。

 灰川は中に入ると、手袋を脱いだ。白く細い指があらわになる。官能すら漂う左の指は、完全な形で六本あった。同形の薬指が二本。多指症の症状、彼女の手袋が特注である理由だった。

 小指に近い方の薬指には、飾り気のない銀色の指輪がはめられている。普段学校でも灰川はこの指輪を外さないが、あまりにもそっけないデザインであるために、校則違反にもかかわらず、言われなければ彼女が指輪をしていることに気付かない人が大半だった(鏡は自分が最初にこの指輪の変化に気付いたと思っていたし、ひそかにそれを誇ってもいた)。

 鏡はその一連の動作を、自分の中で取材開始の合図とした。

「やっぱり、今日が謎解きの本番なんですね」

「僕が手袋を外したのを見て、そう思ったのかい?」

 灰川には、相手の考えていることを盗むようにして会話を進める癖がある。

 それは関係を有利に進めるためのデモンストレーションだったし、また、彼女自身の性格によるものだった。

「ええ、灰川さんは捜査の時は指紋を残さないため、高確率でその手袋をしています。それを外したということは、今日はもう謎解きだけをするために来たということに違いない。そうでしょう?」

「真の美しさは、叡智にこそ宿る」

「えっ」

 返答は、予想していたものとは違った。

 自分の推理に自信があっただけに、灰川の唐突な言葉に鏡は戸惑った。

「本当の知性を持つ人間は、輝いて見える。だが、君の眼はただのガラス玉だ。知識はあっても、それを運用する知恵がない。自分では何も生み出せない」

「どうして、そこまで言われなければならないんですか!」

「自分のことを賢いと思っている馬鹿ほど、始末に負えないものはないからだ。いいかい、今日、僕が謎解きをすることは事実だが、そこに至るまでの式はほころびだらけで、部分点すらつけられない。まずデータとして正しい情報を参照しないと、どんなに考えを巡らせたところでそれは憶測の域を出ない。これまで僕が自分で足を運んで推理して解決した事件は642件あるがその内、手袋をしたまま捜査をした事件が103件、六本指の既製品なんてないから右手にだけゴム手袋をはめて捜査した事件が210件。数にしてみれば半分程度しかないんだ。君の発言はただの主観でしかなく、いいかげんな統計で相手を推し量ろうとするのは、マスコミとしては酷くお粗末だと思わないかね?」

「そ、そんな……」

 鏡は呆然としたが、続く灰川の言葉に更に激しく揺さぶられることになる。

「ああ、ちなみに今の件数は嘘だ」

「はあ!? どういうことですか、それ!」

「やはり君は途方もない大馬鹿だな。君は僕が嘘をついているのかどうかすら確かめる術がないということを、証明してやっただけじゃないか。嘘だという言葉が嘘だとは考えないのかね? 実際にそれを確かめる手段は? ここで僕の発言を馬鹿正直に信じるということは、君が正しい情報を取捨選択する能力を持たず、勘に頼って適当なことをばかり言う無責任で無自覚な人間であると認めることに他ならない。違うかい?」

 貧血症状を起こしたように、鏡の足元がふらついた。

 灰川に叩きつけられる一連の言葉は、自分が一瞬、どこにいるのかすらも忘れてしまうような衝撃を持って鏡を打ちのめした。

「う、う……」

 八幡家は広く、同じような部屋が連続するせいで、まともな状態でも眩暈がするような造りだった。

 鏡は、柱の一つに寄り掛かった。木目のざらざらした感触。


「だから、最初から隠し通すなんて無理だと言ったんだ!」

 奥の部屋から、言い争う声が聞こえる。

 いくらか押し問答が続いたかと思うと、乱暴にふすまが開いて、中から男が出てきた。

 がっしりした体躯に、丸っこい童顔が乗っかっている。普段はそのアンバランスさにユーモアを感じさせるのだろうがしかし、その表情は怒りで沸騰している。

 八幡家の次男である八幡修二だ。

 修二は、面白がっているような表情の灰川を見て、はっとした。部屋の中での言い争いを聞かれていたのではないか、という焦りで冷や水をかけられたようになる。

 次いで、明らかに具合の悪そうな鏡を見て、心配の表情が表れた。傍からは、彼女を心配することで自分の失点を塗り潰そうとするようにも見えたが。

「君たちは、この前の……」

「どうも。お邪魔しています」

 応えたのは灰川だった。修二は、やはり灰川の方を強く警戒しているようで、少しばかり嫌な顔をした。

「事件のことなら、これ以上お話しすることはないよ」

「ええ、こちらとしてもこれ以上聞くことはありません。あとはもう答え合わせをするだけですから」

 灰川はあくまで慇懃無礼。

 対して、修二は再び瞬間湯沸かし器のように顔を赤くさせた。

「へえ……随分でかい口を叩くんだな」

「そりゃあもう。色々と知ってますからね。のこととか」

 会ってから一分もしない内に、修二の顔色はめまぐるしく変化した。今度は青くなり、白くなり、最終的にはそれすら通り越して、病人のような土気色になった。

「ど、どうしてそれを……」

「おや、あの程度で隠しているつもりだったんですか? 大声で宣伝しているのかと思ってましたよ」

 ここにも、鏡の知らない水面下の動きがあったようだった。鏡はこっそりと歯噛みした。彼女が得たいと思う、「暴く者」としての理想がそこにあったからだ。

 鏡はそれを見ていることしか出来ない。

 いや、本来ならば記者が事件の当事者であってはいけない。そのことは理解しているはずだった。しかし、灰川を見ていると、自分からその渦に巻き込まれたくなるのだった。

 灰川は大きな回転そのものだった。事件があるところに彼女が現れるのではなく、彼女がいるから事件が起きるという風にすら思えた。つまりは、それが探偵の才能だった。

「出入り口で何をやってるのよ」

 部屋から次いで出てきたのは、この過程の紅一点である長女の睦美と、修一郎だった。

「あれ、修一郎さんはさっき、」

 鏡はとっさに感じた疑問を口にした。修一郎がこの部屋にいるのはおかしい。

 だがその疑問は拾われず、灰川を中心に話は進む。

「あんたら、いたの」

 気だるげな調子で睦美が声をかける。肉厚な唇が、まるで別の生き物のように艶めいて見えた。

「ええ、もちろん。覚めない夢などありませんからね。いわば僕は、朝を告げる雄鶏の鳴き声です。僕が来たからには、終わらぬ事件などない」

 望むと望まざるにかかわらずね──。そう、灰川は言った。

 そこにいた誰もが一瞬だけ息を呑み、動きを完全に止めていた。

 灰川の真っ黒な瞳は、見る者全てを吸い込んで離さないような、貪婪なブラックホールにも似た表情をたたえていた。

「ふ、ふん、どうせあんたみたいなガキにこの事件を解決なんか出来るわけないじゃない。勝手に入ってきて、勝手なことばっかり言って。何が目当てなんだか」

 せっかちな調子で言葉を繋げる睦美。顔色を悪くした修二に「何も言ってないだろうな?」という視線を送る。それを見て、やっぱり姉弟なんだなあ、と何だか場違いなことを鏡は思った。

「しいて言えば、事件自体ですかね。好きなんですよ。こういうのが」

 傲然と返す灰川。その表情は、今の言葉に嘘がないことを如実に表していた。本当にただ殺人事件が、それを取り巻く人の心や状況をかき回すことが、楽しくて楽しくて仕方ないと言うような悪魔の貌。

 鏡はすっかり雰囲気に呑まれていたが、そうでない者もいたらしい。

 今まで黙ったままだった修一郎が割り込んだ。

「特別、俺に用事がないなら、もういいかな? トイレに行きたいんだよ」

 それまで毒々しいとまで言える緊張に満ちていた場が、一瞬真空地帯になったようだった。灰川に何らかの致命傷を与えられた修二も、気だるい敵意を剥き出しにしていた睦美も、毒気を抜かれたようだった。

「ああ、どうぞどうぞ」

 灰川だけが当然のようにそれを受け入れ、道を譲った。

 他の皆が靴下をはいている中、一人だけ裸足で板張りの廊下を歩く修一郎のぺたぺたという足音が何だかより一層、間抜けな雰囲気を醸し出していた。

「それで」

「まあ、ここで話すのも何だ。僕は部屋で待ちますよ。用意が済んだら、またここに集まるといいでしょう」

 睦美を遮り、我が物顔で部屋に入る灰川。あまりのことに反応出来なかったその場の視線をなるべく集めないように、こそこそと鏡も続いた。

 和室の中央には頑丈な機能性と高級感を並立させた黒い机が置かれており、隣には柔らかな座相の男が一人。

 家長の八幡修平である。

「来ましたか」

「ええ」

 彼は、灰川の襲来を予想していたようだった。柔和な笑みを絶やさない修平は、毛糸の室内帽をかぶり、糸のように細い目の横には笑い皺が染みついている。

 ふと、鏡の脳裏によぎるものがあった。

 殺人事件は、八幡家の親戚同士の寄り合いの中で起きた。何故か灰川はそこに居合わせたが、明らかに不自然であり、何者かの手引きがあったことは明らか。そのことについてはわかっていたが、手引きしたのが誰かはわからなかった。しかし、修平の態度を見る限りでは、彼こそが灰川を引き入れた張本人なのではないか。

 殺された八幡猛のことを家族ぐるみで皆、隠そうとしている。修平もその中の一人だ。だが、殺人が起きることを彼がそもそも知っていたとしたら? 警察を呼ばずに事態を収拾する方法として、探偵を呼んだのが彼だとしたら?

 ぞくり、と冷たいものが鏡の背を伝った。

 同時にそれ以上の興奮が逆に背骨を上っていくのを感じた。

 少し前まで鏡の常識の中には、事件をそんな風に片付けるという発想はなかった。自由に真実を隠蔽し、同時に暴き立てる手腕にくらくらするような憧れを覚えた。

 これが、灰川真澄なのだ。真実も虚構も、彼女の前では意味を持たず、等しく無価値。

 ともすれば叫び出しそうな鏡の興奮は、背後からの声によって水を差された。

「灰川。こっちはもういいよ」

「ご苦労だったね、由良君」

 幽鬼めいた、青ざめてぼんやりとした表情。髪は角度によっては茶色がかっているようにも見え、不健康に白い肌の色と合わせて、全体的に色素が薄いことをうかがわせる。黒いタートルネックシャツ、こげ茶の分厚く柔らかい生地のジャケットに、裾を折った飾りのないジーンズ。最低限の実用性にしか興味のない服装、言い換えれば野暮の骨頂だった。

 由良俊公──鏡は幾度目かの疑問を浮かべる。どうして、こんな奴が灰川の助手を?

 極端に存在感が薄く、誰からも軽んじられずにはいられない男だった。不思議なことに、由良と相対した人のほとんどは、彼を無自覚に軽蔑、あるいは無視してしまう傾向があった。本人が特別に嫌がっている風には見えないのも、それに拍車をかけているのかもしれない。

 修平も、出入り口の方を向いていたのに、由良がいつ入ってきたのか気付けなかったことに驚いているようだった。

「お前はこれからどうするの」

「君は実に馬鹿だな。探偵が殺人事件の現場に来て、謎解き以外の何をすると言うのかね?」

「お前のその自分が頭良いのをひけらかしたがる癖、良くないぜ」

「ふむ、どうしてそう思うんだい?」

「ほとんどの人は心のどこかで、自分が一番賢いと思いたがってるから。世の中、まともな客観性があるやつばかりじゃない」

「なるほどなるほど……。つまらん、却下だ。僕には馬鹿に気を遣っている暇などない」

「あっそ。でも、忠告はしたよ」

 乾燥したやり取りだった。しかし、鏡にはそれがどうしても不快なものには思えなかった。あまりにも二人の態度が自然だったからだ。

「じゃあ、僕はこれで」

 言うことは言った、というような態度で、由良は来た時と同じようにあっさりと部屋を出て行った。

 ──ここで、鏡に必要に足るだけの注意力があったなら、由良が廊下を歩く時に、修一郎と同じような音をさせていることに気付いただろう。二人が裸足だという共通項を見出した所で、それ以上の発想の飛躍はないかもしれない。だが、灰川なら玄関にあった黒い運動靴が紐を二重に結んであったこと、ジーンズが見た目よりも伸縮性に富んでいて動きやすいことから、彼が何に備えているかを看破したはずである。もちろん、彼女にそれを口にするつもりはないが。

「謎解きですか……」

 入れ替わるように言ったのは、修平だった。

「ええ。僕が来たからには全部終わりですよ」

「仕方ありませんね。あとで、全員を集めます」

「ごゆっくり」

 家長を差し置き灰川は主人の態度で、そう言った。



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