第10話 月下の騎士 または 君と卵を美味しく食べる方法
*
彼女らが後ろ手にドアを閉める音がした。その間、僕と助野は睨み合ったままだ。
「剥いだ皮」
「それが遺言か?」
僕の嫌がらせに、助野も嫌味で応じる。僕たち、本当に仲良しだな。
「おたくは、殺した四人の皮を剥いでる。専用のナイフを持っていたし、肉にも皮が付いていなかった。僕は朝からここで料理の下準備をしていたけど、おたくは一度も帰ってこなかった。殺すだけならそんなに時間はかからない、解体だって四人もやってれば慣れるはず。なぜそんなに時間がかかったのかと言うと、剥いだ皮で服を作っていたから。おたくにはお洒落になりたいというコンプレックスがあったからな」
クローゼットにしまわれた服たち。本当は穿きたくないズボン。
観念したのか、助野は無言で服をたくし上げ、胸をあらわにした。乱雑に縫われ、なめしもそこそこだったせいでまだ血が付いているスキンスーツが見えた。
いや、違う。直接自分の皮膚の上に、剥いだ被害者の皮膚を縫いつけているのだ。
小ぶりな本来のものより少し下の方に、もう一つ乳房が縫いつけられてだぶついている。手が届かない場所は、針の大きいホッチキスで止めてある。
「なるほど、透明化の能力はそこから来るのか」
助野の能力が徐々に強化されていったのは、皮膚を覆う面積が増えたから。これも思い込みだ。それでも、思い込みは人を強くする。信じることは力そのものに他ならない。事実、するはずの血のにおいがしない。
透明化の術式、その本質はただ見えなくなることではなく、認知されないこと。助野は儀式を達成したことで、そこまでの境地に至ったのだ。
「マユが死ぬ前に、私を攻撃してきた。使ったのは業火の術式。答えろ、マユと契約したのはお前だな?」
「賭けだったんだよね。新城が生き残るかどうかは」
反論する助野に、なるべく何とも思っていない風を装って返事をする。新しい肉を調理しておいて何だけど、ショックがないと言ったら嘘だ。
実は、僕はあらかじめ新城と契約をしていた。助野はもちろん、グループ自体とも心の距離が離れていたのがわかっていたから、新城が僕と契約するのはほとんど必然だった。命の危機がかかっているのだから、賭けにすらならない。
問題はその後だったのだけれど、結果として新城は死んだ。
僕はこの事件に巻き込まれることになったきっかけのドロップキックを思い出す。あの時灰川は、僕が助野を殺そうとしていると思っていた。起こってしまった事実だけを取り出してみれば、灰川は結局間違っていなかった。探偵が事件を追うのではなく、事件に連なる事象すべてが探偵を追いかけるのだ。
「本当は、人殺しなんかこれで終わりにするつもりだったけど、事情が変わった。殺す。今日ここにいた奴は皇以外、みんな殺す」
「そりゃあ嘘だ。おたくは本当は灰川を殺したいだけだ。何故なら、灰川はおたくがなりたくてもなれない理想の存在だから」
灰川は助野を性同一性障害と推理したが、僕はそうは思わない。自分のことを特別だと思いたい、ただの紛いものだ。だからこそ助野は、特別な本物である灰川が愛おしく、そして憎い。
「灰川はおたくと違って本当の性同一性障害だ。その上で同性愛者。つまり、性自認が男性で、性的指向も男性なんだ。あいつの性はツイストしてる。だからおたくなんかを好きになりはしないし、近づくことも出来ない」
「……そうかもな。でもやることは何も変わらない。オレは灰川を殺して、首のないあいつの身体を隅々まで味わうよ。鎖骨にキスをして、お尻に歯形をつけてやるよ。そして最後に、顔を剥いで、私の顔と入れ替えてやる」
「おたくは何でそう、嘘ばっかりつくんだ?」
「何っ」
「まず一人称。さっきも言ったよな? 自分を演出したいのはわかるけど、徹底しきれてないからすぐにボロが出る。透明人間願望の行きつく先は自殺だが、おたくは死ぬことにすら取り残されてしまっている。パソコンの壁紙を見たぜ。あれにはおたく自身が写っていなかった。普通、自分が写ってない記念写真を毎日見る壁紙になんかするか?おたくは自分がまがい物で、本当はどこにも居場所がないのがわかっていたから、透明化の術式を覚えたんだ」
視界が回転した。
助野が自分と僕の間にあった机を砕き、僕の顔を蹴り飛ばしたからだ。
僕の中で一秒が千倍にも引き伸ばされて感覚される。
口の中で、音がからからと鳴っている。折れ砕けた歯が、互いにぶつかり合っているのだ。
僕の頭皮が庭に面したガラスに触れる/ガラスが割れ/砕け/飛び散るその刹那に、紫紺の眩暈が到達した。
顔を短めの芝生が削る。庭を転がり、呻いた。
助野の方に顔を向けると、割れていないガラス戸を開けながら近づいて来るのが見えた。ずらされた先の世界では、ガラスはまだ割れていないのだ。
「お前の生皮は、靴に仕立ててやろう。死んでからもオレの足を舐め続けろ」
助野は立てかけてあった鉈を手に取った。その手は震えている。
僕も自分が震えているのがわかった。僕が、助野に投影された僕が、助野が、混ざり合った僕でも助野でもないものが、震えている。
ああ、僕は恐ろしい、何もかもが恐ろしくて仕方がない。助野の苛立ちも、恐れも、すべてが流れ込んでくる。
闇夜に、助野の眼だけが赤く輝いて見える。僕は、初めて助野の顔をまともに見たような気がした。
平たく、ゆで卵に切れ込みをいくつか入れたような容貌だった。
薄い唇、一重まぶたの眼には常時から攻撃性が塗り込められていたのだろう。美人だが、不思議と人に与える印象が希薄。普段はそんな評価を受けていそうな顔だったが、今は剥き出しの殺意でてらてらしている。これを見れば、二度と印象が薄いなどという者はいなくなる。
呑まれるな。僕は深く息を吸った。
「……もう一つの嘘は、おたくが出来もしないことを言ってるってことだ」
「誤魔化しはもう通用しない。お前こそ、つまらない嘘ばかり。うんざりなんだよ」
「僕がいるかぎり、誰にも灰川には手を出させない。お前なんかに、指一本触れさせやしない」
そう、僕は自分がいつか死ぬ人間だと、言葉にするまでもなく知っていた。
自分が住んでいるのは日本だ。戦争もない。銃を持っている奴だってほとんどいない。病院に行けば大概の怪我や病気は治るし、飢えて死ぬこともない。裕福ではないけれど、貧乏でもない家に生まれたからには、ほとんどの悲惨を知らずに生きてきた。
それでも、銃なんかなくたって人は死ぬ。いつか僕は交通事故に遭うだろう。いつか通り魔に刺されるだろう。いつか治療法のない病に侵されるだろう。いつか地震や津波に呑まれるだろう。肩がぶつかっただけでヤクザに殴り殺されることだってあるだろう。
きっと、誰にでもいつか来る「その時」が来たら、僕は為すすべもなく死ぬだろう。造作もなく死ぬだろう。映画のように切り抜けられはしないだろう。自分が期待通りの男ではなかったことに気づく間もなく潰されるだろう。
恐ろしいと同時に救いでもあった。僕にとって生きることは闘うことで、恒常的な戦闘の中で責任を投げ出せる場所を探していたからだった。
それは悪魔になった今でも変わらない。自分を殺す方法なんていくらでもあって、この世から恐ろしさがなくなることなんてないということを僕は嫌というほど知っていた。
知らずには、いられなかった。
「でも、ああ、くそ。お前のことを、僕は我慢ならねえと思ってる。ぶっ殺してやると思ってる。そこには正しさだとか合理的だとかそーいうのは全然なくって、やるしかないってことだけが僕の心の中にある。だからこれは宣戦布告だ。僕の地獄への招待状なんだ」
だから、僕は命を賭けた。初めて本当の意味で闘いの場にその身を晒したのだった。
「許さなきゃ、どうだってのよォ」
「こうするのさ。〈変身!〉」
もはや腕と一体化した鉈を掲げて襲い掛かってくる助野。
投げつけた圧縮言語を彼女が開封するよりも早く、変化する。
──金属音。
鉈の斬撃を、黒鋼の手甲が受け止めていた。
脊椎を中心に黒く、細く、薄く、そして質量のない触手が無数に伸びた。それは僕の全身を何重にも覆い、硬質化していく。
成長した助野を倒すためには魂の無駄遣いをしている余裕などない。僕は最後の変化として、昆虫と人間の融合体のような身体を選んだ。
「僕は〈夢想家/ムーン・パレス〉。月から探偵の行く先を照らす、一筋のサーチライトだ」
「オレは〈屋根裏の散歩者/ワーウルフ〉。誰にも見られることなく、誰もを彼もを食い殺す、不可知の人狼だ」
「今宵、月下の騎士となる!」
「こんな夜には、喉が渇く!」
そして、死闘が幕を開けた。
*
側頭部を鉈がかすめるが、なだらかな甲殻の面が受け流し、それを致命傷にしない。
助野は既に透明化の術式を発動しているが、まだ捉えられる距離だ。左足を大きく踏み込み、右ストレート。ぐちっ、と肉を拳で喰う音がする。
当たったのは肩の周辺だろう。距離を取ろうとする動きが、拳から伝わってくる。逃がさない。
前に出した足を中心に、回転を全身に伝えるイメージ。ボディブローが深く刺さる。
「げ、え」
馬鹿だな、声を出しちゃあ意味がないって言ったじゃないか。
身を大袈裟によじって、助野が僕から離れた。拳にはむしり取られた肉がこびりついていた。
甲虫は肢の末端や間接に、樹に長時間貼りつくための鉤爪を備えている。
いわば、僕なりの透明化の術式対策だった。
「じゃっ」
「かっ」
透明になっているから、自分は見えないから後ろから攻撃しても避けられないだろう。お前がそう考えることはわかっていた。後頭部を右手でかばうと、果たして手の甲に鉈がぶつかる金属音が響いた。
振り向きざま、足払い。
倒れないか。それでもいい。
ラリアート気味に腕を振り回す。触れた。
もう一度足払い。さっきと違うのは、触れた部位の肉をつかんでいるということ。首か、胸か。どうでもいい。引き倒せればいい。
二人分の体重が、芝生に沈む音がした。
気付けば、ぞっとするほど静かだった。僕と助野、二人の肉と骨が軋む音しかしない。
「ぜっ、ぜっ」
どこかで熱い息が吐かれている。
自分のものか、助野のものかもわからない。
見えないから、相手の身体をまさぐって確かめる。触れた部位の肉は、千切り捨てる。
無茶苦茶に暴れて、マウントを取った。
どっちが上だか下だかわからないが、どっちでも構うものか。
「しゅっ」
細い息を吐いて、殴った。
殴った。
殴って殴って殴った。
マウント、そして喧嘩の基本。相手を動けなくして死ぬほど殴る。
胴を殴った。
何だか出っ張ってる部分を殴った。
何だか丸くて硬い物を殴った。あっ、これは頭か。なら、こっちが上で良かったんだな。
抵抗はあったが、下からでは重い鉈は有効に機能しない。助野がどれだけ馬鹿力でも、こっちも甲殻の形成に残りの魂をありったけ注ぎ込んでいる。薄い切れ目を入れるのが精一杯だろう。
「う、ふぐうううう」
下から突き上げるような衝撃。
装甲越しのどうってことない痛みだと、やけに冷静な自分が告げる。
しかしそれ以上に熱くのたくる僕の獣の部分が、報復を求めていた。
頭は硬くて滑るから、首から胸周辺へと打撃を集中させた。鎖骨が折れる感触がした。肋骨が砕けるのも時間の問題だろう。
殴られた部分がやけに熱を持っているように感じた。
そして、殴りつける拳の先にどうしようもなく生きている者の熱を感じた。
助野の姿は相変わらず見えない。
だから、この暴力の絶え間ない温度だけが僕たちを強固に結びつけている。
僕は狂おしいまでの痛みに夢中だった。。
そのためか、背後からの攻撃に気がつかなかった。
「ぐ、が?」
雷が閃いたかのようだった。
打たれてなお、打たれたことに気付かなかった。甲殻に覆われた右の眼が、ゆっくり離れていく僕の左眼を見た。僕の頭蓋は正中線で割られ、不可視の刃は胸にまで食い込んでいた。
不意打ちか。二人いたのか。
卑怯とは言わない、だが、誰だ?
僕はべろり、とめくれた半分の顔でもって後ろを睨んだ。
一瞬だけ、裂けた僕の頭からほとばしる血と脳漿をかぶって、そいつの形が浮かび上がった。
──阿修羅。
そう思った。そいつは、うっすら肉がこびりついた三つの髑髏だった。皮を剥がれた六本の腕だった。寄る辺を失くして絡みついた内蔵だった。
損壊しきっていたが、そいつには面影があった。足立玲美、高木詩歩、平田瑠華。彼女たちの食べ残しで作られた、ゾンビだった。
「服作りの次は、お人形遊びか? 随分と女の子らしくなったじゃないか」
「ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」
ガラスを引き裂くような奇声と共に、既に助野は僕の下から脱出していた。
悪魔の力は結局のところ発想勝負だ。想像力=創造力で、それを形にするのが魂であり、魔力だ。
だから仮初めだとしても、死体に命を吹き込んで動かすなんて無茶も出来ないわけじゃない。普通やらない。でも、だからこそやる価値がある。
僕の頭蓋は既にくっついている。阿修羅ゾンビも僕の血を既に透明化させ終わっている。
仕切り直しだ。
問題は、単純な数的不利。
「ぎいいいいいいいいいいいい」
奇声が右から聞こえ、反射的に僕は右手のガードを上げてしまう。すると、がら空きの水月に中足が刺さる。
「ぐむ」
甲殻が軋み、その奥にある僕の肉が押し潰される。
フェイントやコンビネーションが面白いように決まる。手数が倍以上になるとは、そういうことだ。
良く考えていやがるな。眼に見えないからこそ、声には咄嗟に反応してしまう。何だ、結局僕の方が声を頼りに動いてるって情報を盗まれていたんじゃないか。やっぱり、あいつは馬鹿じゃないな。いや、僕が馬鹿なだけか。
冷静ぶってそんな考えを弄んでいる内にも助野と人形は僕を殴り続け、苦痛の上に苦痛が堆積していく。
「ぎいいいい、ぎいいいいいいいいいいい」
打、打、打。
埒が明かない。見えないからかわせない。なら、頭だけをかばって、打撃が来る方向へ突進する。ダメージは鎧のような外骨格にすべて任せた。
見えないなりに足に組みつくと、更にその上から踏みつけが襲ってくる。
阿修羅ゾンビの方を相手してしまったようだ。硬い踵を馬鹿力で叩き落されるのはいくら何でも、厳しい。外骨格が軋みを上げる。
しかし、こちらもやられっぱなしではない。貫き手でめったやたらに露出した内蔵をかき回す。
背骨に鉈が打ち込まれ、痛みを通り越した太いだるさが全身を焼き尽くす。が、それも一瞬のこと。すぐに再構築される。
人外のもの同士の闘いは、いよいよ苦痛と狂気を燃料に勢いを増していた。
冗談めいた腕力で突き込まれた助野の鉈は、先端が尖っていないにもかかわらず僕の下腹部を貫いた。
だが、その程度で僕は止まらない。
もう止まれない。
勢いに任せ自分で自分のはらわたを引きずり出すと、月光の下でもどす黒い血が飛び散った。それによって助野の驚いた顔が空中に浮かび上がる。
僕は両腕をクロスさせ、花輪をかけるように助野の首に自分の腸を巻きつけた。
「うぐるふうふう」
敵の首を絞めつけながら漏れるのは獣の声、そして逆流する体液。
この程度で終わらないのはわかっている、そう、お互いに。
何をしていいとか、何をしてはいけないなんてことは、もうとっくに彼岸にまで追いやられていた。
自らの獣に命じられるがまま、僕と助野は暴力の交歓を続けた。
猿臂/もう、既にわかっただろう、助野。
鉄槌/結局のところ、僕とお前の闘いは、
掌底/互いの命の核を砕いて果てるまで、
裏拳/ひたすら無為に続くだけなんだよ。
化け物には、必ず致命的な弱点が存在する。
それは銀の弾丸であったり、雌鶏の血であったりする。
また、心臓や脳みそであったりする。
段々近づいてきたな。
ある種の妖怪は人の姿を取ってはいるが、己の正体を見破られると形を保てなくなってしまう。場合によっては、その本体を砕かれて死んでしまうこともある。
そう、命の核とは、誰にも傷つけられてはならない、己の本質だ。
僕たちは、腕をもがれようが腹を裂かれようが、再生することが出来る。魂の力あってこそだが、ただの生き物の死とは程遠い。
しかし無敵かと言うと、全然そんなことはない。
悪魔の心臓だ。
僕たち悪魔は酷く不安定な存在だ。普通なら自分の魂を極端に何度も変形させるような真似をしていれば、自我が崩壊してしまう。
それを防ぎ、元々の魂を基底現実へと繋ぎ止める楔が、命の核なのだ。だからこそ、それを破壊されては生きていられない。
ここまでの僕と助野の闘いは、ほとんどお互いの命の核の探り合いだった。
しかし、最初に変化が表れたのは僕の方だった。
傷の治りが遅い。
何度も受けに使った右腕の甲殻が、剥がれたまま元に戻らない。
明らかに魔力が欠乏しているがための症状だった。
だから何だという気分だった。
魔力の源である魂を、そもそも僕はほとんど持っていない。何も成し遂げていないクソガキ一人分の魂なんて、たかが知れている。不利は始めからわかっていた。その上で喧嘩を売った。問題は、ない。何も。
「いぎぎぎぎぎぎぎぎいぎいいいいいいいいいいい」
助野の絶叫。それは苦痛か、歓喜か、あるいはその両方か。
魔力が尽きかけているのは、僕だけじゃない。
そもそも助野だって、ゾンビを作り出すためにこれまで手に入れた魂の大半を死体に練り込んでいるのだ。何度もそれを攻撃されて、無事なわけがない。
透明化の術式が、ほとんど切れかかっていた。
助野、お前は魔力の尽きつつある僕を見て、透明化の術式に頼らずとも、ごり押しで勝てると踏んだな。
僕にはわかる。
僕はいつの間にか助野のことを「お前」と呼んでいて、そのことは助野のことを全く対等の敵として認めているということだと悟った。
助野よ。僕にはわかる。思想とか事がここに至るまでの背景とかを全部抜きにしても、自分の技を、力を、全部をぶつけて比べ合えるっていうのは、何だか幸せなことだ。そう思うよな。
だって、助野。術式を解いたせいで見えているぜ。
お前は笑っている。
僕も笑っているのだろう。
だからこそ、もう終わりだ。
そしてお前の負けだ。
「お前の負けだ」
言ったのは助野だった。
馬鹿め、お前は何もわかっちゃいない。
そう言ったつもりだったが、荒い吐息が漏れただけだった。
「もうお前には身体を維持する魔力すらも、ろくに残ってない。終わりだよ」
まだ反論するだけの息が整っていない。
「ごぼぉ」
口を開くと、ヘドロのようにどす黒く粘つく血が垂れた。
同じような血はさっきから何度も吐いていたが、それには何度も感じていた苦痛の熱がなかった。それより今は、やけに寒い。
一歩、正面に向かった助野が鉈を構えて近寄ってくる。針金のような器官が何本も、肉と刃に食い込んで一体化している。
二歩、背後に立った阿修羅ゾンビが、その全身を初めて見せた。
僕は振り向かずに感覚の触手で彼女たちの形を確認した。透明化の術式は、僕の魂の感覚器官をもあざむいていたから、いっそ新鮮な気がした。
よし、呼吸が整った。
「死ね」
「僕は三つの賭けをしていた」
しかしそれは動くための呼吸じゃない。僕は助野の心に言葉を刺しこむ。
「……お前の言葉はもう、聞かない。心がザラつくだけだ」
おやおや。学習したじゃないか。でも、次の言葉でお前は絶対に僕の話を聞くようになる。
「新城真由は、まだ生きている」
「……ハッタリだ」
そうとも、僕の大好きなハッタリだ。でも、わかるだろう。説得力のある嘘には真実が多分に含まれているってことを。そして、お前がそれを見抜くかどうかも、僕の賭けの内だということも。
鉈の重い刃先が震えている。同時に、阿修羅ゾンビも動きを止めた。僕から情報を引き出すまでは勝手な行動を控えるよう、命令されたのだろう。
「一つ目の賭けは簡単だった。これは命の核をどこに隠すかという問題。場所や物の中に保管するのは不安が残る。常に見張っているわけにもいかないし、持ち歩いていたらそもそも自分から切り離す意味がない。
本当の意味でただの一人も友達のいなかったお前にはわからないだろうが、これは心から信頼のおける相手に預けて、肌身離さず持っていてもらうのが正解だ。もちろん、その人に危害が及ばないように全力で気を配る必要があるが、その賭けに僕は勝った。お前は唯一のチャンスを逃したんだ」
ダラダラと節操なく続く長口舌。
まったくもって下らないことだけど、助野はこれを聞かざるを得ない。何故なら、一度灰川の推理を聞かされてしまっているから。ある種の言葉には、強制力があるのだ。
「二つ目の賭けは、お前の命の核の場所だ。お前は普段は透明化しているから、攻撃する部位を絞られにくい。だから普通に自分の身体に仕込んだままかもしれない。もしくは、想像力がない割に小心者で感傷に行動を左右されるから、殺した親友の死体に埋め込んでいるかもしれない。
結局は二択なんだ。僕は今から残った魔力を全部注ぎ込んで、その命の核を狙うよ。ありったけで行くから、賭けに負けたら、生きてるお前の攻撃をモロにくらっても、もう再生できないだろうな。僕は魂切れで自分の形が維持できなくなって死ぬだろう」
助野の関心が高まるのを感じる。
奴は今、自分で自分のことを馬鹿だと思っている。どうしてこの期に及んで僕を殺してしまわないのかと。頭ではそう思っていても、実行に移せない。興味が、そして感傷が理屈を上回っているからだ。
ここが僕の千と一夜目だ。
噛みしめろ。
「三つ目は、新城真由のことだ。彼女の能力は自己複製だ。多重人格の最も多いパターンで、辛く苦しい事態に遭遇した際に、こんな酷い目に遭うのは自分ではなく他の誰かだと思い込むことで、新しい人格を作り出し、それに苦痛を肩代わりしてもらうというものがあるな? 新城の場合はそれから一歩進んで、完全な身代わり人形を作り上げる。人形と言っても、自分自身の魂を分けた完全な複製だ。
お前が殺したのはそのコピーロボットだ。本物は生きてるんだよ。もっとも、全く同じものをどっちが本物かなどと決めることは無意味だけどね」
「つまり、マユの魂が私のものにならなかったのは、殺したのがコピーだったからか!」
焦れたように助野が叫んだ。また一人称がブレてる。最初っからやめておけばいいのに。
「いや、全然ハズレ。本当の賭けは、時間稼ぎが成功するかってことだったんだよね」
助野の背後に、紫色の切れ目が現れた。
それは世界そのものの傷口だ。一時的にずらされて生まれた世界に、通常の人間が干渉することは出来なくても、同等の熱量を持った魂でなら干渉が出来る。助野をここまで弱らせた甲斐があったということだ。
背後の亀裂に、助野はまだ気付かない。だから、駄目押しをしてやる。
「今だ、やれ! 新城っ!」
「見え透いた嘘をっ! つくなっ!」
助野は僕の言葉に翻弄されることに疲れている。だから、最後の発言を嘘だと片付けて無視しようとする。
結果として、後ろから組みついてくる新城をかわせない。ざまあみろ。
「お前はあ、お前だけはあ、絶対に許さないっ、助野オオオオオォ!」
「何っ」
〈それが遺言か? 最後まで芸のない奴だな〉
今は一秒が惜しい。圧縮音声で別れの挨拶をし、僕は振り返って、一気に敵との距離を詰める。
僕は、黒い嵐の一片だ。
僕は、暗い夜道を往くあの人の露払いだ。
そう望み、そうあれば良い。何だ、簡単じゃないか。ははは。
──よし、飛ばすぞ!
助野って奴は何だかんだ言っても本当の意味での『自分』ってのがなくて大事な所の価値判断を全部他人に委ねているようなまがい物なので自分の中に大事なものを置いておくなんて出来るわけがないじゃあ誰が信頼出来るかって言うとグループの中の誰かで頭ってのは硬くて丸くて実は殴るのが難しいし拳や爪先と同じように身体の先っぽだからブンブン動いて当てようと思っても中々当てにくいから大事なものを隠すにはもってこいだ脳みそが良い例だ三つに絞られた頭の中のどれに助野が自分の最も大切な物を隠すかというとやはり何だかんだで一番信頼していて一番最初に自分に殺されてくれて一番愛と憎悪を注ぎ込んでいた足立に決まっている足立の方が実際助野をどう思っていたかなんて結局のところ分からないのだけれど!
「ぎいいいいいいいいいいいいいいいい由良あああきっ貴様ぁああああああ!!!!!!」
「月の光に、なっちまえ」
僕は思い切り振りかぶった拳で、ほとんど肉の削げた足立の頭を粉砕する。
本来なら眼球がはまっていたであろう、右の孔から、ビー玉のような光球が転び出た。
僕の拳に込められた魔力は黒い颶風だ。高速で回転する刃物のように、ビー玉をその渦の中に巻き込み、微塵に刻んだ。
助野の命の核が砕け散ると、助野自身はそれよりもあっけなく、薄い煙のように消えてなくなった。
透明人間願望の終着点が自殺であり、本当に消えてなくなってしまうことならば、彼女もある意味欲望を達成出来たのかもしれない。
だから、これはせめてもの負け惜しみだ。
「……僕の一つ目の賭けは、謎解きの時点で終わってたんだよ。あそこで逆上したお前に灰川が殺されるのが、一番怖かった。新城の魂がお前のものにならなかったのは、お前とではなく僕と契約していたから。本当は僕は死んだ新城の複製の分だけ魂のエネルギーが底上げされてるから、こんな怪我なんて簡単に治せる。お前は捨身という僕の演技に騙されて自分から弱点をさらけ出したマヌケ。やーいバーカバーカ、騙された上に女まで取られてやーんのー!」
荒い息を吐く新城が、はしゃぎまわる僕を白い眼で見ている。
「私が生きてるのはあんたのおかげだけど、あんたのことは未来永劫軽蔑し続けると思う」
知ったことか、と返事をしようとしたけれど、助野がいなくなったせいで世界が基底現実へと戻り、言葉は眩暈に遮られた。
*
「どうした、由良君!」
灰川が扉を開けて部屋に戻ってくる。基底現実ではまだ、ガラスが割れた瞬間から数秒しか経っていないのだ。
怪我は治っても、疲れがなくなるわけじゃない。僕はばったりと庭にぶっ倒れる。ズタズタの服を再構築する余裕もない。これで二秒。
灰川が割れたガラスを確認して、庭へと出てくる。時間の感覚が間延びしている。四秒。
眼だけを動かして、周囲を確認すると、新城の姿がないことに気付く。確かにここにいたら不自然だ。でも、彼女はこれから先どうするのだろう? 死んだということにして身を隠すにしても、やっぱり生きてましたーってことで帰ってくるにしても、どちらにしても大変だろうなあ。他人事だからこそ素直にエールを送る。五秒。
「由良君、助野はどうした?」
灰川が仰向けに僕の顔を覗き込むようにして話しかけてくる。十秒。
「逃げられた」
「……ここで、まあ君にしては頑張ったんだろうよしよし偉いねって言ってくれる甘々な僕と、犯人確保も出来ないのかこの役立たずって助手を蹴っ飛ばす探偵な僕と、どっちがいい?」
「……後の方で」
「犯人確保も出来ないのか、この役立たずっ!」
こめかみを蹴飛ばされて、僕は意識を手放した。この間、約二十秒。
*
「君のその服、言っちゃ悪いがダサいな」
灰川が僕のシャツを指差した。
「そうか? ……母さんには赤の方が良いって言われたけど、反対して着て来たんだ」
「お母さんが正解だ。まあ、お洒落ってのは慣れだからね」
「お飲み物は?」
客室乗務員の人が声をかけてきた。
「僕はコーヒーで」
「僕も。あ、砂糖とミルクを三つずつください」
注文を受けた客室乗務員が行ってしまってから、灰川がまた話しかけてくる。
「……君、コーヒーが嫌いだったんじゃなかったっけ?」
「そうだっけ」
「そうだよ。君はコーヒーのことを『良いにおいのする泥』って言ってた」
「でも、ほら、良いにおいがするだろ?」
「ははあ、やっぱり君は変わったね」
「それって良いことなのかな?」
「少なくとも、僕にとっては都合が良い。それより重要なことは、この世界に存在しない」
相も変らぬ傲慢さ。だけど、僕にはそれがちっとも嫌に感じられない。
ちぇっ、確かに僕も変わったのかもな。灰川の都合の良いように。
「さて、君は卵を美味しく食べる方法を知っているかい?」
「好みによる」
「どんな調理法でも、一つだけ確実なことがある。それはね、殻を割ることだよ。君は君自身の殻を割ることが出来たんだ」
僕たちは今、飛行機に乗っている。
実は飛行機に乗ること自体が初めてなせいで、結構ビビってる。
「リラックスしたまえよ、由良君。落ちたりなんかしないって」
「あのな、無茶を言うなよ。二日で北海道まで行って帰るって結構な強行軍だぞ。変な時間に寝たせいで、疲れが全然取れてないんだ」
あのゴチャゴチャした事件から、灰川と僕はもっとゴチャゴチャした事件をいくつか手がけていた。
灰川は探偵として精力的に飛び回っていたし、僕は僕で、いつの間にか探偵助手でしかいられなくなっていた。
もちろん、そのこと自体はただのポーズであって、本気で嫌なわけではないのだけれど、それでも少しは愚痴を言いたくなることもある。
灰川真澄を名指しで来た依頼、八角塔の四重密室殺人事件をわざわざ北海道にまで飛んで解決するのは、百歩譲って良いとしよう。
でも、その日程が土日でほぼ日帰りっていうのはどういうことだ?
おまけに事件自体は依頼人に会った瞬間に推理を聞かせて解決してしまった。
残り時間は「観光だ」って言って、他に行きたい場所もあったのに時計塔に無理やり連れて行かれた! 「あはは、本当にがっかりだねー」ってがっかりなら一時間も見るなよ!
「また行けば良いじゃないか。事件の謎は依頼の電話の時点でほとんど解けてたんだし、助手へのちょっとしたサービスだよ」
すねたような顔をしているけど、こんな一見ただの性悪が警察も誰も解けなかった殺人事件のトリックを話だけで暴くんだから、大したものだと思う。
それとこれとは別だけど。
「そういう問題じゃないよ。お土産選ぶ時間も全然なかったんだから」
「お土産?」
そう言うと、灰川は怪訝な表情をした。なんか不味いこと言ったかな?
「君が誰にお土産を買うんだ。僕以外、友達なんていないのに」
死ね。
「家族とか」
「ああ、なるほど」
「皇とか」
「何であいつなんかに買うんだ! 捨てちまえ、そんなもん!」
皇の名前を出した途端、灰川は烈火のごとく怒りだした。
実は、僕はあれから皇にちゃんと謝ることが出来ていない。
繰り返しになるけど、大事なのは僕自身の罪悪感で、未だ僕は皇に対してそれを清算出来ずにいる。
「む、これが皇へのお土産だな! 僕が今ここで片付けてやる!」
灰川は勝手に僕の荷物を開けて、マルセイバターサンドをむしゃむしゃと食べ始めた。
仲直りが出来ない原因の大半はこいつだ。
「……一応聞くけど、何でそれが皇へのお土産だってわかったの?」
「君と君のお父さんは、ラムレーズンの酒精も嫌うほどの下戸だ。お母さんと弟君はお酒に強いが、甘いものは嫌いだ。だから消去法でこれは皇のお土産!」
「何で僕の家族の好みまで把握してるんだよ!」
「何でって、仲良しだからさ。連絡は小まめに取り合ってるし、今回の旅行だって『息子をよろしく頼みますね(はーと)』って言われてるんだから」
「実の親がメールで使ってる絵文字なんか聞きたくねえ……」
冗談はさておき、皇への清算っていうのは僕の記憶を巡る一連の謎に繋がっている。
記憶を取り戻したように見えても、それは所々欠けているし、また変質してもいる。
僕はあれから、いつも使っている石鹸を売っている店を調べようかとも思った。そこを辿ることで、記憶ではない記録が見つかるかもしれなかったから。
でも、僕はあえてそれをしなかった。僕はただの助手で、謎を解くのは探偵なのだ。
灰川も自分の記憶の謎には気付いているだろう。それでも彼女が動かないということは、今はその時ではないということに違いない。
その探偵はマルセイバターサンドをたらふく食べてご満悦のようだけれど。
……また一つ、温めていた謎が浮上してきた。こんなことを聞くのはよほどの恥知らずで自意識過剰な奴だと思うけれど、聞かずにはおれない。
「灰川、さ。お前は、僕のことをどう思ってるの」
それを聞くと、灰川はニヤリと笑い、あごに左手をやった。
──白くて細い六本指。その薬指には、僕の命の核がはまっている。
「僕はね、由良君。君のことを食べてしまいたいと思っているんだよ」
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