第9話 Call of Dirty(2)
*
『鏡』
昼休み。
鏡は学校で、トランプに興じていた。
相手は由良と風間と熊谷と中禅寺。
「津田が最近、学校に来てないらしい。その彼女も」手札を持て余した風の熊谷。
「それを僕に言って、どうしろって言うんだ」伏せたままの手札から、適当にカードを切る由良。
「ダウト。お前も人を嫌うことがあるんだな。誰のこともどうでもいいと思ってるみたいに見えるのに」
「はずれだ、持ってけ。じゃあ何か、お前、僕にどうでもいいと思ってほしいの?」
「そういうわけじゃないよ。ただ、津田も馬鹿なだけで、根っからの悪い奴ってわけでもないと思うんだ」
「自分を脅してた奴を、よくそんな風にかばえるな。愚かさが悪でないわけないだろ」
「何だ、見てたのか」
「見てただけだよ」
「本当にヤバくなったら、助けてくれるつもりだったんだろう?」
「お人よしも時と場合によりけりだな。そう思いたいなら、好きにするがいいさ」
より手札が増えてしまった熊谷に対して、由良はあと数順であがるだろう。
会話の流れがつかめない中禅寺は、同じく会話の外にいる鏡の顔を見て、よくわからないままにニコニコしている。
──琴音と暮らすようになってから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
最近の琴音は、非常に安定している。元々動物好きで、動物の方からも好かれる性質であったため、猫を飼うことにした。それが非常に上手くいった。由良は「猫アレルギーなんだ」と言って触ろうとしなかったが、琴音は目に見えて情緒が安定していき、どもることも減っていった。
元々は野良だったオスの三毛猫を、琴音は『ミケランジェロ』と名付けた。鏡は、やはり琴音は目が見えているのではと疑ったが、答えを聞くのが怖くて黙ったままである。
彼女の精神が安定しているため、一人でも留守番が可能になった。その結果、誘拐への対策をした上で、由良と鏡の両方が同時に学校に来ることが増えたのである。
共通の話題を探る内に、自然と中禅寺がヤクザに拉致された時の話になった。
もちろん、余計な騒ぎを避けるために、熊谷には具体的なことはほとんど何も言っていない。部外者である風間も当然のように無関心をアピールしている(存外に上品な振る舞いだった)。しかし、何らかのトラブルに巻き込まれたことは伝わっていたし、そのことを熊谷は非常に感謝していた。
由良は、どうにも扱い兼ねるという態度ばかり。彼は承認を求めていたが、褒められ慣れていないのだった。
「あのね、探偵に依頼するくらい心配なら、お互いちゃんとした証拠を残しておけよ」
「僕と地味子は、その、約束をしてるんだ。高校卒業までは、そういうことをしないって」
照れながら言う熊谷に対して、由良は物凄く嫌そうな顔をした。
「そういうことって何だよ」
「え? そういうことは、そういうことだよ……ほら、わかるだろ」
由良の問いかけに、
「なーにがそういうことだ馬鹿、カマトトぶってんじゃねえよ。セックスだろ、ほら、セックスって言え!」
何が引っかかったか知らないが、由良は酷く怒っているようだった。
「いいか、高校生カップルはまず十中八九卒業したら別れる。何でかっていうと、そもそも恋愛ってのは美男美女がやらないとみっともないところを、自分を高く見積もった馬鹿どもが自分自身でいることの惨めさに耐えられなくなって、手を出すからだ。小学生の時は足が速い奴がモテるし、もうちょい進むと、声のデカい奴・クラスの中心にいる奴・ヤンキーなんかがモテるようになる。ヤンキーが何でモテるかっていうと、限定的な社会において弱い者いじめをする能力ってのは重宝されるからだ。大学や二十代になったらそれが変わるかっていうと、別にそんなことはない。その頃には金が重要なファクターになるんだが、根が明るいもしくはアッパッパーな奴は金遣いが荒いから、近くにいると金持ちに見えるからだ。んで、三十代四十代になるとようやく内面や貯金なんかが加味されるようになるんだが、学生時代モテなかった奴の性格が良いわけもなし、更にその頃になるとチンコの勃ちも悪くなって女のことなんて割とどうでもよくなってくる。最後に残るのは、寂しさとコンプレックス混じりの後悔だけなんだよ。だから、ちゃんと避妊すればいいんだし普通にセックスして変なこじらせ方をするのをやめろ!」
極端な言い分だったが、あまり気分の良くない説得力があった。人間の愚かさを、徹底して採用したような口ぶりである。
「な、何でそんなに怒ってるんだよ……」
「僕がそういう、キリスト教的な性を汚いものとして扱うノリとか、社会的な嘘が大っ嫌いだからだ。セックスはセックスだろうが。お前らが隠した所でなあ、そこには依然としてセックスがあるんだよ! 別にセックスするのは生き物として当たり前のことだ。何にも恥ずかしいことなんてない。だが、その前段階として恋愛っていう、社会的な承認を踏まないといけないのが気に食わない。社会に承認されなくても誰と
「じゃあ何だ、由良は、僕が中途半端な気持ちで地味子と接しているように見えるっていうのか。その上で、セックスを変に神聖視してるのが馬鹿馬鹿しいと、そう言いたいのか」
「そうだ」
「僕は本気だぜ」
「口では何とも言えるさ」
「証明してみせるよ。この世には本物があるんだ」
馬鹿にされたはずなのに、熊谷は怒った様子はなかった。それどころか、挑みがいのある試しを受けたような表情だった。
鏡は、唐突に由良の本質を理解した。
彼は夢想家。言ってしまえば、由良は途方もないロマンチストなのだった。高すぎる理想に、自分自身がくじけそうになっている、幼い少年を心の中に住まわせているのだ。彼は、人はもっと気高く生きられるはずだと、心のどこかで信じたがっている。だからこそ、それをぶち壊しにされるようなことをされると怒る。そして、子供の頃からずっと理想を踏みにじられ続けたせいで、すっかり諦めが染みついてしまったのだろう。
由良が熊谷に対して怒ったのは、熊谷と中禅寺なら彼の理想を叶えられるかもしれないと思っていたからだ。由良は彼らに発破をかけたのだ。
──人生は短いぞ、と。
──もっと本気で生きて、本気で人を愛さないことには、本物になることは出来ないのだ、と。
熊谷は正しくそれを受け取った。中禅寺も同じ気持ちだろう。
「僕らには、僕らのやり方がある。そりゃあ身体の結びつきがあれば愛情は育みやすいけれど、愛には定跡なんてないんだ。僕と地味子は、それでいく。その上で、お前に僕たちを認めさせてみせるよ」
「やってみせろ」
由良はうなずいた。
ゲームの内容は『ダウト』である。意味は『嘘』。
トランプをすべてプレイヤーに配り、順番に1から13までの数字を宣言しながら真ん中の山札に裏向きで捨てていく。宣言通りの数字でないものを出しても良いが、他のプレイヤーに見破られると、それまでに蓄積した山札をすべて回収しなければならない。逆に、数字が宣言通りのものであった場合、言い咎めたプレイヤーが山札を回収することになる。手札をすべてなくした者が勝ちである。
後半は足の引っ張り合いになるため、非常に終わりにくいゲームだが、会話の片手間にやるくらいならダラダラ続くのも悪くない。
ここでは更にローカルルールを導入している。
まず、ジョーカーの使用許可。これは
次に、番号をずらすルール。基本のダウトのルールでは、ダウト宣言(他プレイヤーを疑い、カード開示を要求すること)をして山札の回収をしたあとでも、数字の順番は次のカウントから続く。そのため、人数から自分が出すべき手札を逆算することが出来てしまうのだ。それを避けるため、ダウト宣言後は、前の数字から続けることにする。ダウトをするたびに順番がずれるため、予測が狂う。
このゲームは、由良がべらぼうに強かった。
彼は既に手札を一枚も持っておらず、高みの見物をしている。最初にダウト宣言をしたのは彼だったが、山札をすべて回収する羽目になった。しかしその後、怒涛のダウト宣言で他のプレイヤーの手札をことごとく撃墜した。逆に、自分が受けるダウト宣言はすべてシャットアウト。手札の潤沢さを存分に利用し、他人のダウトのタイミングを見計らった予測のたまものだった。
「将棋なんかより、こういうゲームの方が好きだな。配られたカードで勝負するしかないってのが良い」
灰川どころか鏡にも勝てないゲーム下手の言い分。めったにない勝者の余裕を満喫するようだった。
逆に鏡はダウトが苦手だった。他人が何を考えているかなど、わかるはずもない。かさばる手札を持て余して、ため息。
「カードは伏せて持ッた方が良イ。そレでは後ろカラ見えテシまウ」
不意に、それまでカードの枚数を数えていただけの風間が、甲高い声で言った。
鏡はその眼に、良くないものを感じた。本当の意味で何も映していない、虚ろな蟲の眼。
振り向けば、ゲームに参加していないクラスメイトの一人が、じっと鏡の手札をうかがっていた。合図を送るという風でもなく、ただ見ているのだった。
視界や思考を共有する完全な組織に、意思疎通の乱れなど生じ得ない。
「来る頃だと思っていたよ」
うんざりしたような表情の由良に、風間の中に潜んだものは引きつれたような笑みを返す。
虫々院蟲々居士。
とっさに鏡は身構え、次に辺りを見回したが、クラスの誰もこの以上に気付いた様子はない。
いや、違う。
静かすぎるのだ。時間が止まったかのように、教室の中の誰もが動きを止めている。
動いているのはダウトをプレイしているメンバーのみ。しかし、由良と鏡以外は眼に虚無を宿している。止まることを忘れた機械のように、プレイを続行する。
「随分ト頑張ってイるヨウじゃナいカ」
「おかげさまで」
「フらレたそうジャナいか。傷心かネ?」
「ほっとけ」
何気ない世間話──お前のことは見張っているぞ、というアピール。敵の手は広く、長い。わかってはいたが、それでもぞっとする。
一音一音をクラスメイトたちが別々に発しているが、精密な歯車が噛み合うようにタイミングが揃えられているため、文章となって聞こえる。奇妙な輪唱だった。
「少シだけ頭ガ良い人間は、他人ノ個性を認めラれない」
そこで、クラスメイトたちの視線が一斉に由良へ、そして鏡へと集まった。表情こそ変わらないものの、そこに込められた意図は嘲笑だった。指をさして笑っているのだ。
「キミもそウだろう? 限定的ナ状況におイて非常に優れた働キをすルガ、ソの反面、長期的ナ視野を持ちエない。本当の意味でハ人の心がワカラないし、社会からモ相手にされナイから、政治的駆ケ引きも出来ナい。良き戦術家デハあってモ、良キ戦略家たり得ナいノダ」
その間もゲームは続く。テーブルに伏せたままプレイする鏡の手札は、かなり減っている。
熊谷が数枚のカードを扇子のようにして、由良の頬をペチペチと叩いた。
「苦シいナア、由良君。消耗戦ダ。旧日本軍のよウに弾すラ尽きても戦うコとを求めらレル人間の悲哀を感ジルよ」
「お前の望むことはわかっている。月が満ちるように、琴音はもうすぐ、その美しさの最高潮の時を迎える。彼女を器として手に入れるための、邪魔をしてほしくないんだ。お前がどれだけの時間を持ち、どれだけの軍隊を持っていたとしても、その瞬間だけは同等の条件になる」
鏡には悪魔の世界がどういうルールで動いているのかはわからない。だが、由良を信頼している。彼がそう言い、闘うつもりなら、自分はそれについて行こう。
──私には私の闘いがある。
鏡はカードを切った。
──勝負だ、虫々院。
「ソンな当たり前のコとを指摘シテ、吾輩の優位に立っタツもりかネ? 何ナら正体のヒントを教えてやろウか」
由良に聞いたことがある。
悪魔にとって、魂に刻まれた名前や、その正体を知られることは、致命的な弱点になり得ると。
虫々院はそのことなど、何でもないと言っているのだ。
人の群れから、津田が進み出た。
「吾輩の蟲は『三尸』よ。人が生まれ落ちるその時より体内に潜み、六十日に一度の庚申の夜に抜け出しては天帝に人の罪業を告げ、その寿命を縮めるのだ。お前がどれほど吾輩の端末を潰そうと、人の子らが滅びぬ限り、吾輩も永遠である」
「ふん、大物ぶりやがって。お前みたいな奴は結局、愛と正義の前に敗れ去るんだ」
「ちきちきちき。信じてもイナイこトを言うモのじャないナぁ、由良君」
津田は、由良の短く刈り揃えられた髪を無理に引っつかみ、そのまま頭を机に叩きつけた。
したたかに鼻を打って、血が噴き出した。
虫々院は由良の本質を見抜いている。
由良は、この世を愛しいと思えるための何かを、常に探しているのだ。
信じるに値するものを、信じられずにいるのだ。
言葉は、心の通貨だ。
通貨は何かと交換出来るということに価値があるのであって、紙幣や硬貨自体には何の価値もない。価値という概念を可視化して見せることにこそ、その本質がある。
そして、通貨の価値を保証するのは社会なのだ。
由良や虫々院は、本質的な意味で社会に属していない。社会が価値を担保しないのなら、紙幣はただの紙切れに変わる。彼らにとって、言葉は意味を
そんな男が、愛や正義を口にしたのだ。虫々院でなくても、一笑に付すだろう。
しかし、他の誰が嗤っても、鏡だけは笑わない。鏡は由良の言葉の意味を一切誤解しなかった。
「勝負するのは僕じゃあない。ぽっと出の記者風情に、お前は負けるのさ」
ゴリゴリと額を押し付けられながらも、由良は鏡を見た。
託すようだった。
あるいは、すがるようだった。
あの無頼の男が。私を見ている。
意味を、価値を、信じようとしている。
私を試している。信じるに足る者かと。
──見せてやるさ、私の性能を。
鏡は最後のカードを切った。
「負ケる?」
本気の本気で互いの可能性を削りあった先にあるものが何か、私は知っている。
「コの吾輩ガ?」
偶然が勝敗を分ける。
「キミにナら、アるいはト思うことモある」
数回の『ダウト』
「キミと灰川真澄なら、アルいは」
敵の三人は手札を共有しているために、山札以外のカードを把握している。
「だガ、鏡亜矢とシーモア・グラースにそんな性能ハなイ」
しかし、鏡の手札すべてを読み切っても、それをどういう順番で切ったかはわからない。
「知ッテいるぞ、彼ラは吾輩が作っタ失敗作」
このままだと鏡の勝ちになるため、どちらにせよダウト宣言は避けられない。
「美ノ基本形を備えテはいるが、汎用性に欠ケル」
最後の最後は、確率の勝負である。
「
「
「
「
「
「
「
クラスメイトたちの口と言わず目と言わず、穴という穴から黒いものがどっとあふれ出た。コールタールのような粘性の液体にも見えるそれは、よく見ると細かな蟲が絡み合った群体だった。
生理的な嫌悪感が、鏡の心を吹き飛ばしそうになる。
中禅寺が、熊谷が、風間が、顔を近づけて、薄皮一枚剥いた先にある人のどす黒いものを見せつけてくる。
恐ろしくないわけじゃない。
だが、恐怖を知り、それを退けることにこそ意味がある。
まがいものじゃない、本物があるのだ。
勇気だ。
人間の尊厳だ!
深呼吸し、鏡は山札のトップをめくる。
「私は勝ち、あなたは負ける」
──
最強のワイルドカード。
「勝負です。虫々院蟲々居士」
これが私の宣戦布告。
「そうか。キミは吾輩の敵だったのか」
本当に、今の今まで気付かなかったという風な声だった。
何もない場所でつまづいた人間が、ほんの少し驚いた、とでも言うような。
あるいは、それが虫々院蟲々居士という存在と、人間とを隔てるものの大きさを表しているようだった。
蟲たちがざわめいた。
ちきちき。
ちきちき。
ぞろりと這い出た蟲たちが、一斉に窓の外に飛び出した。彼ら独特の笑い声と共に。
「なラば、来イ。八角館で待ッテいルぞ!」
それきりだった。
時を止めたように表情を失っていたクラスメイトたちの顔に徐々に血が通い、先程までの狂態の証拠を一切残さず、当たり前のごとく活動を再開した。時計が、時間が進んでいることにも誰も気付いていないようだった。
「はしゃぎやがって、畜生。あいつ、僕らをプロレスラーか何かだと思ってやがるな」
「八角館って、何なんでしょう?」
ようやく机から頭を上げた由良に、鏡は尋ねた。
由良の頭から手を離した津田は、自分が何をしていたのかまったく理解出来ない風で、ぼんやりした表情のまま廊下に出て行った。虫々院の毒が抜けきっていないのかもしれない。
「さあ? その内に向こうから招待状でも来るんじゃないのか。あいつはエンターテイナーだからな」
最後にぽつりと『灰川に似てる』と言ったのは、鏡にも聞かせるつもりはなかったのかもしれない。それを口にする彼の表情は、酷く傷ついたようだったから。
礼儀を知る人間である鏡は、上品にそれを無視した。
「あれ? どうした由良。鼻血が出てるぜ」
ぽかんとした表情の熊谷。
手札の計算が狂って、珍しく酷く動揺した様子の風間。
わけもわからず、とりあえずニコニコする中禅寺。
彼らの記憶の整合性はどうなっているのか、少し気になるところだった。
「さてはエロいことでも考えてたな」
「ほっとけい」
ティッシュで乱暴に血をぬぐうと、由良の鼻の下が真っ赤になった。
*
『津田』
特に理由があったわけでもない。
その日、津田は偶然、喫茶店の窓側の席に座る由良を見つけた。
別に尾けていたというわけでもない。
彼のような人種は、常に『面白いこと』を探している。今のままの自分でいることにいられないから、欠落を埋めるため、その場しのぎの快楽を求め続けるのだ。このまま成長してしまうと、精神は空洞化し、外部からの刺激に単純に反応するだけのアメーバやゾンビのような存在になってしまう。
津田にその自覚はない。
ただ、暇だったから街を歩いていて、気に食わない相手を見かけ、無視することも接触することも出来ず、遠目にうかがっていた。自分が何をしたいのかもわかっていなかった。
由良は人を待っているようだった。差し出されたコーヒーには口を付けず、湯気だけをすするようにカップを抱え込んでいる。
しばらくすると、由良の席に人が来た。津田の妹、穂波である。
彼らがこうして時々会っていることを、津田は知っていた。だからこそ、灰川に逆らえなかったのだ。
しかし、実際に見るのは初めてだった。
穂波の表情は、クルクルとよく動いた。妹の明るい顔を見て、津田はその笑顔がもうずっと長い間、自分に向けられていないことを思い出した。
夏祭りがあったあの日から、兄妹間の仲は冷え切っていた。というより、津田が妹に一方的に嫌われているのだった。言い訳をすることも出来なかった。
元から予兆はあったのかもしれない。世の兄妹というものは往々にして、そうなりがちであるし、津田は穂波のことを思っても、行動で示すことはなかった。彼の優しさは酷く独りよがりで、妹が本当に望むものを汲むことはなかった。
店の外からでは由良たちの声が聞こえようはずもないが、津田は嫉妬によるものか、天啓めいた超直感で妹の唇を一部だけ読み取った。
「兄が、いつもごめんなさい。迷惑をかけているでしょう」
「気にしてない」由良は、穂波の紅茶に砂糖を溶かす仕草を注視している。
「そんなことない、とは言わないんですね」
「言葉の綾だよ」
「嘘が下手な人。ねえ、知ってます? 私、ちょっと前まで病気だったんですよ」
「へえ」
「名前もない病気。私が初めてかかったせいで、治療法もわからなかった。もしかしたら、そのまま死んでいたかも」
「知らなかった」
嘘だ。
津田は知らなかった。妹も、家族の誰も自分には教えてくれなかった。それを、由良は知っていたのか。
「でも、由良さんとこうやって会う内に、段々良くなっていったんです。今日、病院で最後の検診に行ってきました。完治だそうです」
「そりゃあ、おめでとう」
「由良さんのおかげですよ」
「僕は何もしてない。偶然だろ」
「そうかも。そうじゃないかも。確率って、不思議なものだから。でも、私は信じませんよ」
──ありがとう。
そう言うと、穂波は頬を赤らめて席を立った。
由良は送るでもなく、憮然として座ったままだった。
彼はまだ、誰かを待っているのである。
穂波が完全に店の外に出るのを確認したと思われるタイミングで、別の席にいた女がカップを持って移ってきた。
その女も、津田にとっては見慣れた相手だった。
同級生の新城真由。
親しげ、と言うにはあまりにも一線を引いた態度で、由良と新城は言葉を交わしている風だった。
だが、津田は安心できなかった。彼らのちょっとした表情の端々に、相手の能力を信用しているような、ビジネスライクながら絆とも呼べるようなものを感じ取ったからである。
やがて話す内容も尽きたのか、新城は席を立った。
そこでとうとう、津田にも我慢の限界が来た。彼にしては、よく保った方だった。
由良はまだコーヒーを一口も飲んでないようだったが、それを確認するよりも、津田は店から出てくる新城を優先した。
「マユ」
津田は自分の恋人に声をかけた。
新城は津田を見て一瞬だけ驚いたような顔をしたが、『俺のものをどう扱おうが、勝手だろう』とでも言うような傲慢さを感じ取り、すぐにそれが嫉妬心に起因するものと見破った。この手の駆け引きはやはり、女の方が数段上手い。
「由良と何を話していた」
「本当に聞きたいのはそうじゃないでしょ? 私は由良と浮気なんてしてない。って言っても信じられないだろうけど」
その通りだった。
だからこそ、津田の不機嫌は更に増した。
新城の頬を平手で引っ叩いた。
津田は今まで、恋人に手を上げたことはなかった。しかし、それも時間の問題だったということだ。その瞬間が今だったというだけの話。
赤くなった頬に触れることもなく、新城は薄笑いを浮かべた。
暴力をひけらかせば、大抵の相手は自分の言うことを聞く。そんなシンプルな世界観の中で生きてきた津田にとって、理解の及ばないものだった。以前に脅しをかけた熊谷のことを、そして手痛い反撃をしてきた由良を思い出した。
「記憶を完全に移植した人間のクローンがあったとして、それがオリジナルとどう違うと言えるのか、あんた考えたことがある?」
「何を言ってるんだ」
自分の示威行為を無視されたと感じた津田は、続けて新城のコートの襟をつかんだが、奇妙なことに新城の身体はびくともしなかった。まるで、岩の塊に手をかけたようだった。
「人を作るのは、素質と環境。同じ肉体を持っていたとしても、記憶やそれの元となる経験によって差が生じる。ならば、ある時点までの記憶を共有する完全なクローンを別々の環境で育てたら、どうなるのか。どこまで差が生じるのか。私が記憶を共有できるのは、術式を解除した時だけ。だから今のこの私は、あんたのことを好きでも何でもないのよね」
徹頭徹尾わからないことだらけだった。
そもそも、津田はわかりにくいことがあると理解しようとする意志自体を放棄する癖があったが、新城が言うことは今までの中でも極め付きだった。
「お前、誰だ? いや、何なんだ?」
津田には、目の前の女の肌の下で得体の知れない怪物が蠢いているように思えた。
「私は中継係。監視役のカバー、虫々院蟲々居士の劣化版。まあ、言ってもわからないだろうから、電話してみたら?」
新城にも見える化け物が津田に渡したのは、携帯電話だった。それは、津田のポケットにあったはずの。
表示された番号は新城真由、恋人のものである。
奪うように携帯を取り返した。
数回のコールの後、応答。
「もしもし~? 津田ぁ? 何かあったの?」
聞き慣れた声──新城真由の。
当然、目の前の相手は電話に出ていない。
ならば、こいつは何者なんだ?
「私は魂の分割者。自分自身のドッペルゲンガー。もっとも、覚えたところで今の私と会うことは、もうないでしょうけど」
津田は顔を上げたが、そこにはもう影も形もなかった。今の今までコートの襟をつかんでいた感触すら、嘘のように思えた。
彼女の声だけが、耳元の電話と虚空の両方から聞こえた。
どういう道を通ったのかはわからない。
津田は与えられた刺激に反応するだけの、血と糞が詰まった袋だった。
そんな彼が、いや、そんな彼だからこそ、与えられた刺激の大きさに、身を持て余していた。
何故/俺が何をしたというんだ/何もしていない/俺は悪くない/なら、悪いのは誰だ?/奪われた/妹も、恋人も/騙されてる/助けなければ/俺にしか出来ない──由良を、殺す。
極々短絡的に、いともたやすく殺意が津田の中で結晶した。
そのために、津田はすぐに行動した。彼の行いはそのほとんどが反射的なものであり、今回もその例に漏れない。
「──銃が、欲しいんですってね」
皇四時。
灰川に並ぶほどの神算鬼謀の持ち主なら、銃を横流しすることなど簡単だろうと津田は考えたのである。
「その程度で良いんですの?」
「ああ、充分だ。撃つ相手は俺が選ぶし、そうでなきゃあ意味がねえ」
「まあ、あなたごときの魂では、その程度の願いがお似合いかしらね」
──契約は、完了しましたわ。
その声と共に、津田は自分の頭の中で鍵がかかる音を聞いた。
気付けば、津田は自分の部屋にいた。
津田は覚えていない──昼間、自分が何のために街に出ようとしたのかを。本当はどうでもいいことだからだ。彼がどんなに馬鹿だとしても、そういったことには薄々気付いてしまうものである。
津田は覚えていない──自分がどうやって拳銃を手に入れたのかを。
机の引き出しを開けると、ガラクタにまぎれて艶消しの黒が表れた。無造作に引っつかみ、そのスライド部分をなぜた。
自動式拳銃。
細かい名前は知らない。彼はミリタリーおたくではないし、撃てて、当たるならば、他のことは興味がなかった。
彼のような男にもかろうじて残っている、なけなしの理性が『これはヤバいんじゃないか?』と言っていたが、すぐにどうでもよくなっていった。
撃つべき相手のことだけは、覚えていたから。
*
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