第5話 夢を見る人


   *


 僕は夢を見る。

 僕だけの夢の国だ。ここは安全で清潔で他の誰も立ち入ることは出来ない、僕の、僕だけのための聖域だ。

 大通りを抜け、摩天楼を通り過ぎ、宮殿へと足を踏み入れる。

 回廊を抜け、螺旋階段を降り、意識の下へ下へと向かう。

 地下大図書館の僕専用のソファに深く身を沈め、息を吐く。

 右手を手繰ると、本が引き寄せられてくる。ページをめくり、その間に染みついたにおいを嗅ぐと、様々なことを思い出せる。

「そうだ、この本を読んだのは中学三年の時、古本市で十円で買ったんだっけか」

 日に焼けて茶色くなった本の淵、寝転んで読むとパラパラとカビが降ってくるので座って読む。

 ここには忘れっぽい僕が忘れたくない物語が無数に貯蔵されている。それを何度も何度も読み返して、僕は楽しみに浸ることが出来る。

 人生は楽しまなくっちゃ意味がない。見たいものを見て、嫌なことは忘れてしまえばいい。そのためにこの図書館は、そして夢の国は存在するのだ。

「飲み物が欲しいなあ」

 そう言うと、手にはマグカップが握られている。中に入った紅茶は大量のミルクと砂糖で、でろでろの甘さになっていた。やっぱり、コーヒーは邪道だ。

 この場所は安全だ。誰にも侵されない。

 視界の端に黒い扉が映った。嫌な記憶はあそこに閉じ込めて、漏れ出してこないようにしてある。鍵は僕だけが持っている。開けるつもりはない。

 人間世界の悲惨は、僕のところまで追ってくることは出来ないのだ。

 女子グループのおどろおどろしい人間関係も、助野透が引き起こした殺人も、皇四時が手繰る陰謀も、何も僕には関係がない。誰も僕に触れられない。ざまあみろ。

「そう上手くいくと思ったら大間違いだよ、由良君」

 ──まず最初に声がかけられた。

 次に建物全体が軋むような異音と共に、黒い扉が蹴破られる。

「僕から逃げられるわけがないだろう。君はもう僕の探偵助手なのだから」

 扉の向こうから溢れ出した腐臭を握りしめ、僕を見下ろす黒衣の探偵。

 僕はそれから逃げるように、目を覚ました。


   *


「いつまで寝てるんだ、起きろ」

 で、起きた。

 最初に眼に入ったのは真っ白くて灰色のボツボツがある天井、次に感じたのは今寝ているベッドのふかふかさ。全体的に清潔感があって、気分を落ち着かせてくれる雰囲気。

 これで全身の痛みと横から嫌味を言ってくる自称名探偵がなければ最高なのにな。

 しかし、病院っていうのはそういうものだから仕方がない。怪我や病気がなければ来ることもないし、お見舞いの客もこっちじゃ選べない。友達のいない僕なんかに、会いに来てくれる人がいるだけ喜ばなくちゃあならない。

「君に休みをくれてやった覚えはないぞ。ベッドで寝たけりゃ、死んでからにするんだな」

「それが怪我人にかける言葉かよ」

「自殺志願者なんて馬鹿者と口をきいてやってるだけ、ありがたいと思いたまえ」

 まあ確かに、あの瞬間の僕は厭世観に支配されていたし、傍から見れば急に勢いよく道路に突っ込んだパッパラパーでしかないので、その扱いもむべなるかなというところだった。

 それよりも気になることがある。

「灰川、事故のときにお前は何をしていた」

「君を突き飛ばそうとしたが間に合わなかった。だからすぐに君を道路から除けて、救急車を呼んだ。応急処置も全部僕がやった」

「もし、次にそんなことがあるとしたら、二度と、二度と僕を助けようなんて思うな。特に、僕を突き飛ばそうとなんてするな。お前が轢かれるかもしれなかったんだぞ」

 自分でも驚くほど硬質な声が出た。

 あるいは、夢の中で見たことと何か関係があるのかもしれなかった。

 でも実際にはただの恩知らずな発言だ。灰川は気にした様子もないが、いつか謝る機会がほしいと思うし、今すぐに謝れない自分の情けなさにもウンザリする。

 やっぱり車に轢かれて死んでいればよかったんだ。

「君を助けるかどうかは僕が決める。助手の命は探偵(ぼく)のもの、好きに出来るとは思わないことだ」

 そして差し出された手を、僕はつい握ってしまった。双子の薬指。

 灰川は僕が右利きなのを知っている。それなのに左手を差し出してくるのは、自分のアイコンの一つである多指症であることを僕に印象付けたいのだ。最初のとき僕にそのことを知られていなかったがよほど悔しかったと見える。

 ──この指だ。

 指が五本しかないっていう、僕の中の当たり前がこの指に揺らがされていく。

 完全な形。欠損ではなく、過剰であること。だからこそ、それが最小限の違和感しか抱かせずに僕の日常を侵食していく。

 でも、考えてもみてほしい。たった一度の角度のずれが、直線をずっと長く引いた先で、どれだけ大きな差になるかを。

 灰川は僕をどこか知らない場所へと連れて行く、恐怖の使者だ。僕が悪夢を見ることも、この事件に僕が巻き込まれたことも、全部灰川のせいだ。彼女が、あの薬指で僕の人生をかき回しているのだ。

 背筋がぞっとして、上体だけ起こしたらすぐに振り払うようにして灰川の手を放してしまった。

 ベッドから降りて着替えようとしていると、看護師が入ってきて顔色を変えた。

「ちょ、ちょっと! まだ立っちゃいけませんよ! 足が折れてたんだから!」

 言われて初めて気がついたけれど、右足にギプスがされている。痛くないから気がつかなかった。というよりも、他の部分の方が痛むから忘れていた。

「とにかく安静にしないと、」

「大丈夫だよ。ほら」

 看護師の制止も聞かずに、灰川は勝手に僕の足を引っ張ってギプスを剥ぎ取った。軽い痣こそあったが、それほど腫れているわけでもなく、まして骨折しているようには見えなかった。

「う、嘘……?」

「というわけで退院だ。由良君、先に外で待っているよ」

「勝手に決めんなよ!」

 確かに身体は痛むが動けないほどでもない。骨折だって何かの間違いだったのだろう。かと言って、まったく痛くないわけじゃない。

 当然これを理由に学校を休んでダラダラしたくないわけではないし、殺人事件の捜査なんて論外だ。退院を決めるのだって僕でもないし灰川でもない。医者だ。そう言おうとしたが、

「さっきの暴言を後ろめたいと思うなら、行動で示したまえよ」

 これだ。まったく嫌な奴だ。


 軽い診察を受けてからロビーに行くと、灰川は待ちくたびれたと言わんばかりの様子だった。

 全身の軽い打撲しかないことを確認した医者はかなり驚いていたが、その程度の怪我で入院させておくのも馬鹿らしいし、本人の意思を尊重するという形で、晴れて退院することになった。

 滅多に使わない携帯を見て確認したら、僕が気絶していたのはどうやら一日だけだったようだ。インスタントな入院生活だった。

 しかし、他に問題がある。

「一応事故だろ? 飛び出した僕に責任があるわけだし、取調べとかで時間取られるはずじゃないのか。探偵ごっこなんてしてられるのかよ?」

 賠償金とか、いくらくらいするんだろう? ううー、両親に顔向けが出来ない。親不孝な息子でごめんなさい。

「ああ、それは示談にしておいた。お金も僕がポケットマネーから払っておいたよ」

「えっ」

「つまり、君は僕に借金が出来た形になるな、うん。これで僕はより一層君をこき使えるようになったわけだ」

「法治国家ナメてんのかお前」

「ルールは破るためにあるのだよ。ほら行くぞ奴隷君、三回まわってワンと鳴け」

 釈然としない気持ちを抱えながら(灰川との付き合いにおいて、それは常習化していたのだけれど)、僕は灰川を追って病院を出た。


 痛む体を引きずって歩く途中、何度か目的地を聞いたが灰川には答える気がないようだった。

 わからないならわからないで別に構わないのだけれど、どうでもいいことは過剰に話すくせに、妙な所でもったいぶる彼女の暴力的な気まぐれさに慣れつつある自分が何となく嫌だった。

 僕はこいつの何なんだ? 友達か? 冗談だろ。

 灰川のずるい所は、お金を払ったとは言ったが、その具体的な金額についてぼかしている所だ。

 もし僕が灰川に返済の努力をしたとしても、額が足りないと言われてズルズルとこき使われるだろうし、そもそも恐らくは非合法なスピード示談をしている時点で僕も一種の共犯者だ。脅迫されるネタには事欠かない。

 何より恐ろしいのは、ここまで自分の領域をえげつなく侵されているというのに、全然怒る気分になれないことだった。

 ある種の小心者や、自分の内面にしか興味のない排他的なオタクの例に漏れず、僕は自分のテリトリーに侵入されることが我慢出来ない性質だった。

 他人を部屋に入れるのはもちろん、自分の物の位置を変えられるのを嫌い、煙草や食べ物のにおいを服につけられるとイライラし、流行曲を行く先々で聞かされるとムシャクシャするタイプの人間。

 この手の潔癖症じみた性格は他人を遠ざけるのに十分のはずだった。だというのに、灰川にはそれがまったく働かない。嗅覚が完全に麻痺してしまったかのようだった。

 僕は灰川に酷いことをされるたびに怒らなきゃ怒らなきゃと思って、ことごとく失敗してむしろ自分自身にイライラし始めていた。

「ここだ」

 考え事をしていたせいで、急に立ち止まった灰川の背にぶつかりそうになった。相手の背が低いから、あごをカチ上げられそうになる。

 見渡してみると、酷い場所だった。

 一つ路地を曲がっただけなのに、寒気がするほどに薄暗く、人目がなかった。田舎に特有の社会的な真空地帯とも言えた。

 寂しく錆びついた雰囲気は、ここで為されるどんな悪行も看過するように冷たかった。

 そして最もおぞましいのは、一帯に凄まじい血臭が立ち込めていることだった。にもかかわらず、血そのものが流れた形跡は一切見当たらない。

 転がった砂利にも、コンクリートの隙間から這い出た雑草も、まるで他人事のような表情だった。

「これが君に見せたかったんだよ」

「……血液反応は?」

「やって見せた方が早いだろうね」

 僕のショートカットしすぎな問いかけにも、灰川は軽く応じた。

 鞄から霧吹きを取り出し、中の液体を適当に噴霧する。ルミノール反応のための溶液だろう。

 実際は液体がかかった部分に血痕があれば光るため、暗所で見るという手順を踏む必要があるのだけれど、濡れたブロックの一部が異様な速度で乾いた。と言うよりも、触れた瞬間から透明になって消えていくようだった。

 結果、何らかの液体がかかったような模様が、乾いた部分として浮き上がって見えた。しかし、それは見た目だけで、実際に触れると湿った感触があった。

 ……これはルミノール反応どころじゃないな。

 僕の中でようやく、『失踪事件』という言葉が『殺人事件』に置き換わった。

「君は初めから探偵という存在の必要性を疑問視していたね。ただの失踪事件など警察に任せるべきだと。しかし、これでわかったろう。確かに普通の事件なら警察が動いて解決すればいい。だが、これは彼らには解決出来ない事件なのだよ」

「お前にも手に負えないんじゃないかな?」

 かろうじて僕はそう言った。声が震えたのは、噎せ返るような血臭のためだけではなかった。

 警察どころか、灰川にも、誰にも手に負えないような気がした。

 血のにおいはするのに、血は存在しないことになっている。

 明らかにここで人が殺されているというのに、それを証明するものは何もない。

 女子高生がいなくなったという空白だけが推理のか細い糸。

「ちっちっち。甘いぜ由良君。外国のキャラメルとチョコが合体した何かよくわからないお菓子くらい甘い」

 人差し指を左右に振る灰川。馬鹿馬鹿しいまでのポーズがキマってる。

「証拠はなくなっても、証拠を消したという証拠は残る。空白は消せないんだ。そこから辿ることは出来る」

「これはどんなトリックでやったって言うんだよ?」

「馬鹿だな、馬鹿という言葉は君のためにあつらえられたと言ったら、誰もが信じるだろうよ。科学的に証明出来ないことがあったとしても、魔法を使える奴を探し出せばいいだけだろう。簡単なことさ」

「それも『空白を辿る』ってことか」

「探偵というのは一種の巫女だ。謎を聞き手にとって納得出来るような形にまで変換するのが探偵の機能であり、使命だ。僕もね、何度か科学だとか常識だとかの理屈の外にある事件に出くわしたことがあるよ。それらも全部解決してきた。しかし、それは相手のレベルに合わせてのことだ。唯物論者に『被害者は呪いによって殺されました』なんて話しても信じてもらえないからな。わかるかい? 探偵は正しくある必要なんかない。推理を聞いた人間が納得することが、事件の解決であり、ゴールななのだよ。つまり、別のトリックや動機にこじつけてわかるようにしてやっただけだ。だが、君がいれば取れる手段が増える。君は最高の助手だ」

 フラッシュバック──僕の夢で見たもの=××を食べる彼女/幾通りにも変化する僕/悪い愉しみ。

 灰川は何でも見透かした風なことを言う。今だって僕の領分を侵犯している。怒れ! ほら今だ! 怒るんだよ!

「……お前が何を言ってるのか全然わからない。どっちにしても僕を買いかぶりすぎだ」

 半笑いで誤魔化そうとするこの馬鹿を、自分じゃなければ殺したいほど僕は憎んでいた。

「まあ、君がそう思いたいなら今はそれでいいさ」

 それすらも手の平の内、とでも言うように灰川はすっかりお決まりになった邪悪な笑みを浮かべた。


 家に帰ってから僕がすることは、まずお風呂にたっぷりとお湯を溜めることだった。冬場のあまり汗をかかない時期でも大抵この習慣は変わらない。

 外でついた色、要するに、においを落としたくてたまらなくなるのだ。人は自分で思っているよりたくさんのにおいをこびりつかせて生きている。それが気になる奴だっているってこと。

 コートを脱いで壁にかけて、少し考える。

 いくら寒いと言ってもまったく汗をかかないわけではないし、消臭スプレーを使うかどうか。結局、僕はスプレーを使わずに棚に戻した。においを消そうとするためのにおいは、やっぱり好きになれない。

 玄関の方でガチャガチャと自転車を乱暴に停める激しい音がした。

「なっちゃねえ、なっちゃねえぜ!」

 弟だ。

 大方、別の高校の不良辺りをボコボコに殴り倒してきたのだろう。相手が思ったより強かったのか、弱すぎたのか。

 恐らく前者だろうと見当をつけるが、それでも負けたとは思えない。僕は弟が喧嘩に負けたのを見たことがない。

 彼は僕より背が高くて骨太で筋肉があり、顔が良い。頭も良い。常に何かに対してキレている、ふりをしている。他人の馬鹿さが許せない彼は、罵詈雑言をわめき散らしながらいつも誰かしらと喧嘩をしているのだ。

 僕と弟は一見正反対の性格のようだけど、実際かなり多くの部分で似ていて、母には「この世を減点方式で見るのをやめろ」なんて二人まとめていつも怒られている。母の言うことはわからなくもないけれど、僕ら兄弟はやっぱりそういうのに我慢がならないのだ。

「おかえり、アキ君」

 ヤンキーと言うよりバンカラ気味だけど、僕にとっては可愛い弟だ。「明彦」とちゃんとした呼び方に変えるタイミングを見失って、随分経つ。それに何でも出来るのに兄の顔を立ててくれる弟に、一番風呂を譲るくらいの料簡はある。

「ん、帰ってたのか兄貴」

 退院したと連絡は入れてあったが、それよりも弟は別の部分が気になるようだった。

「帰ってるさ、そりゃ」

「最近は外で遊ぶようになってたから、もっと遅いかと思ってた」

 見た目からはわかりにくいが、弟も僕と同じように繊細な洞察力がある。彼は僕ほど他人の心に囚われないから、そのことが外には見えないのだ。

「血のにおいがする。兄貴も喧嘩するようになったのか」

「しないよ」

「少しはしてくれないと困る。兄貴は怒るべきところで怒れないから、殺されるばっかりだ」

 兄弟にだけのみ通じる、言語の曲芸飛行を弟はよく使う。僕のことをそれだけ信用しているのだと思うと、そんなに悪い気はしない。

「喧嘩するばっかりが意見の通し方じゃないと思うけど」

「通し方だよ。兄貴みたいな馬鹿がクソ野郎をのさばらせておくから、クソ野郎がクソ野郎のまま生きていけるんじゃねえか。そんな社会があったら社会の方がクソじゃねえかよ、クソ野郎はぶん殴って叩き潰さなきゃ駄目だぜ」

 こんな具合に、弟は常に世界を敵に回して戦っているようなところがある。実際、賢いんだからもっとスマートに生きていけるかもしれないけど、それは彼のプライドや生き方、流儀が許さないのだろう。

 彼曰く、結局のところ最後の最後ですべてを決着するのは暴力である、とのこと。確かに一種の真理かもしれないが、日常でそれを実践するほど僕は刹那的に生きられない。

「兄貴はこの世のクソさをわざと忘れたり無視したりして生きようとしてるけど、それってやっぱりいつか限界が来ると思う。だって、辛そうだもんよ」

「……大丈夫だよ」

「かもな。最近の兄貴は少しマシになってたから。彼女でも出来たのか?」

「あー、彼女じゃないけど探偵が出来た」

 さすがにこの言い回しの意味はわからなかったのか、弟はキョトンとした顔をした。

「入らなくてもいいなら僕が先に行くけど……。お前、ローキック受けた足が痛いんじゃないのか。よくマッサージしとけよ」

「なん、」

「何でわかった、って、そんなに足引きずってたらわかるよ。最近ボクシングジム通ってたから、下半身の打撃に対応が遅れたんだろ。で、柔道もやってる相手だったから組まれたけど、投げ返して勝った、って感じだろ」

「や」

「やっぱり、って言われてもお前は僕を買いかぶりすぎだよ。ずっと一緒にいるから見てわかるってだけだからさ」

「け」

「喧嘩は無理だって。余裕があるときにゆっくり見て、やっと理屈がわかる程度なんだから。じゃあお風呂行ってくる」

 ことごとく台詞を奪われて、不機嫌面の弟を居間に残し、お風呂場に向かう。

 弟をいちびるのも兄の特権だ。駄目な兄貴だけど、たまにはちょっとくらい偉そうにしても罰は当たらないだろう。

 何はともあれ、とりあえずシャワーだ。

 こびりついたにおいが少しは落ちる。

 においは感情移入や記憶を呼び覚ます効果があるが、灰川が言うように『感じやすい』僕では時々持て余す。だから短いスパンでリセットを繰り返さなければならない。

 次に、タオルに石鹸をこすり付け、念入りに泡立てる。シャンプーなんかは共用だけど、この石鹸だけは僕専用だ。なんたってこだわりの、

 ……あれ?

 思わず手が止まる。

 何で僕はこんな石鹸なんかにこだわってるんだ? においを消すためだったら家族と同じボディーソープでもいいのに、あれ?

 灰川に聞かれたときにも答えられなかった、灰川、灰川? 何で今、灰川の話になるんだよ?

 においは記憶と密接に結びついている──「身についた習慣はそう簡単には変えられない」──灰川の台詞を思い出す、何で今?

 グルグルと勝手に思考が渦を巻く。

 あれ? あれ?

 人間離れした力を持ち、素手で肉を引き千切れるのにあえて鉈を使う、夢の中の彼女のことを思い出す。

 そうだ、習慣は外部から記憶を定着させるための儀式だ。繰り返すことで、無意識化に記憶を刷り込む。

 忘れたくないことがあったんだ、この石鹸に──石鹸のにおい/極端に体臭のない女/僕はこのにおいを嗅いだことがある! この家で!

「灰川ぁぁああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」

 思い出した! このにおいは灰川のにおいで、ってことは灰川もこの石鹸を使ってて、偶然として片付けるには僕はこの石鹸に固執しすぎていて、つまり、ああ、そうだ、僕はずっと昔から灰川のことを知っている。

 嗅覚は他の感覚器官よりもずっと麻痺しやすい、つまり灰川に体臭がないように思えたのは、普段から嗅いでる自分のにおいに慣れて感じ取れなくなっているから。

 僕が理由もわからないのにこの石鹸をずっと使っていたのは、灰川のことを、ああ、クソ、認めたくない!

 だって、恥ずかしすぎる! 僕の分際で、ヒョロヒョロで他人を見下していて卑屈なくせに傲慢で不細工で小心なのに、でも、それしかない。

 僕は灰川を忘れたくなかったんだ。だから思い出せるように、習慣を残しておいたんだ。

「ぐおあああ……マジかよ……」

 しばらく一人、風呂場で僕は悶えた。

 奇声に心配して様子を見に来た弟を追い返すのに手間取ったというのは、また別の話だけれど。


   *


 僕は僕の記憶を辿らなければならない。

 夢の中、僕は黒い扉の前にいる。

 深呼吸すると、向こうの部屋から漏れ出る悪臭を肺いっぱいに吸い込んでしまった。しかし、それでかえって踏ん切りがついた。

 黒塗りのドアノブは一見錆びついてるようだったけれど、ごくごくスムーズに回転した。

 僕自身が勝手に開かないものだと思いたがっていただけなのだ。

 部屋の中は、酷く散らかっている。──吸いさしの煙草、生臭いビールの缶、雨でふやけた新聞紙、カビが深く根を張った排水溝のゴムの部分……。

 僕が忘れたい、ウンザリする物たちが無節操に積み重なって出来た部屋だ。

 折りたたむだけでどれだけの錆がこぼれるだろうか、と邪推したくなるパイプ椅子には、真っ黒いタキシードを着た灰川が座り、こちらに話しかけてくる。

「君は他人のことを読まないように、読まないようにと生きているつもりでいるが、実際はそれを遂行出来ていない。本当に他人がどうでもよければ、自分が読んでいる本についてどうこう言われることなど気にしないからだ。見ないようにと言われるものほど見たくなる。君は本当は見たいんだ。人間の精神が生み出す地獄を、かぶりつきの特等席で」

 無視して僕は探し物を始める。

 雑多な物を一つ一つ拾い上げて、斜めに透かして見る。

 たまたま手に取ったサバの水煮の缶から垂れる虹色の油を読むと、「……る日曜日の午後、プールに行く途中にホームレスの年寄りが、ちょうど食べ終えたばかりの缶詰をこちらに向けて、『百円ちょうだい、百円ちょうだい』と言ってきて怖くなった僕は逃げて、後ろから怒鳴る声が聞こえてもっと怖くなった」と書かれていた。これはハズレ。

「理解や共感を断ち切るのに必要なのは何だと思う? そう、軽蔑だよ。蔑みの対象からは何も学び取ることが出来ない。何も読み取れない、何もわからない。君が皆から嫌われるのは、卑屈に振る舞いながらその実、誰も彼もを見下しているからだ。何もかもを馬鹿にしていながら自分だけを特別扱いしていれば幸せなマヌケで済むが、君が最も侮蔑に値すると考えているのは自分自身だ。だから君の傍には誰もいないし、君自身憂鬱に支配されたゾンビのように生きるしかない」

「うるさい」

 いやらしい饒舌を遮ろうと、液体糊がベタベタついて切れ味の悪くなったハサミ(幼稚園の時、僕のハサミを同級生に勝手に使われて駄目にされた。僕は悲しくて先生に言ったのに、先生は怒ってくれなかった。結局、新しいハサミを買ったけど、僕はあのハサミが良かった)を投げつけた。

「お前は僕の頭の中の、ただの妄想だ。灰川のふりをするんじゃない」

「おっと、また自分自身を貶める発言をしたな。いいか、何度でも言うぜ。君は君自身を誰よりも、何よりも深く軽蔑している。だから、君は君自身のことを何もわかっていない。自分の人生にあったことを忘れていくと言うことは、一秒前の自分自身を殺していくことに他ならないんだ」

 僕の手が止まる。

 投げつけられた物は、ことごとく黒衣の灰川を透り抜けて床に落ち、最初からそこにあったかのような停滞した状態に戻った。

「君は君を殺してる。だから君は卑屈に振る舞うし、実際何の価値も生み出せない」

「そう思うなら、とっとと必要な記憶をよこせよ。お前は僕なんだから、何がほしいのか知ってるだろ」

 イラつきを抑えない僕の言葉に対して、黒い灰川は肩をすくめて「やれやれ」のポーズ。そんなところまで再現しなくてもいい。

 落ち着け。僕がイライラしてるのは、こいつの言うことが図星だからだ。

 こいつは僕なんだから心の弱点を突けるのは当たり前なのだけれど、本質はそこにはなくて、問題なのは僕という人間の生き方がいいかげん不味いラインにまで来ちゃってるんじゃないの、ってことだ。

 灰川に会って事件に巻き込まれて記憶を取り戻しそうになっている、ってのはただのきっかけに過ぎない。

 つまりは、ゴミを捨てないで積み重ねただけで「掃除しましたー」って言い張るような人生を歩んできた僕がどうしようもない馬鹿で、そのゴミの山がついに崩れたってだけの話なのだ。

 本当のことを言ってしまおうか。

 僕は馬鹿でマヌケのポンポコピーで、殺人事件とか人間のえげつない部分を嫌だ嫌だって言いながらも、結局心のどこかで見たがっていて、そのために探偵助手という立場はうってつけで、灰川のことを性格悪くてずるくて嫌な奴だと思ってるけどそれ以上に好感も持ってて、僕は、そうだ、その、えーと、

 あの人のために両手じゃ抱えられないほどの綿を編みたい。

 あの人には毎日美味しいご飯をお腹いっぱい食べていてほしい。

 あの人の行く先を月光が照らしだしてくれたなら、どんなにか嬉しいことだろう。

 そう、思っている。

「……補欠合格、ってところかな」

 黒衣の灰川は煙のように消えてなくなった。

 代わりに、僕がこの前病院でしていたギプスが残されていた。


   *

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