第6話 鬼道


   *


 何だか学校に行くのが随分久しぶりのような気がする。

 実際は普通に土日が去って、満を持して月曜日がやって来ただけなのだけれど、全身を縛り付ける鈍痛とそれに伴う憂鬱さが「もっと休もうぜー」って言ってくる。僕自身はそれに大賛成なのだけれど、借金取り兼探偵が許してくれないのだ。

「今日は嫌がらせをしようと思う」

 出し惜しみのないとびきりの笑顔でそんな事を言う灰川にウンザリ&諦観。

「一応聞くけど、誰に」

「この事件の犯人様さ。僕は思うんだが、古畑任三郎やコロンボに代表されるように、探偵には嫌がらせの才能が必須科目ではないかな。あいにくと僕は性格が良いから、心が痛むよ」

「さすが、サイコパスは言うことが違うね」

 助野が可哀想にすらなってくる。

 無論、嘘だけど。


 確かに時間の感覚というものは、僕の思っていたよりもずっとフレキシブルだ。

 あっという間に訪れた昼休み、灰川は流れるように工作室に助野を引きずり込んだ。

「いきなり何を」「まあまあ、この前は随分僕の助手を可愛がってくれたじゃないか」「あれは」「わかってるよ、不幸なすれ違いというものは存在する。しかしそれを差し置いても、君にはここ最近の事件の容疑者として聞きたいことがあるんだ、まさか拒否権があるとは思わないよな?」

 スムーズな恫喝/話題のすり替え/味方のない立場を作る手口。どれをとっても一流の悪党の手腕だ。

 工作室はほこりっぽく、木くずや絵の具のにおいが窓を開けてさえ充満している風に感じる。ここで昼食を食べたがる人はいないだろう。

 ご丁寧に灰川は入ってからすぐに内側から鍵をかけた。

 ガシャン!

 わざと大きめに立てられた音は、助野へのプレッシャーになる。逃げられないというアピール、一対二という不利の再確認。

 この場合は僕はボンヤリ立っているだけでいい。むしろ喋らないでいれば余計に犯人は想像をかき立てられ、勝手にストレスを感じてくれるというわけだ。これで僕も立派なゲスの仲間入り。

「さて、君に聞きたいことがある」

 嫌がらせ、もとい尋問はもうとっくに始まっているが、手順を踏むことも重要だ。相手の意識がどう切り替わるかということも、推理の材料になる。

「この前のトイレのことなら、そいつが悪いんだ」

 そう言って指をさされたので、意識して相手を馬鹿にした薄笑いを浮かべる。効果はてきめんで、助野の内側で怒りの溶岩が更にとろけ出すのがわかった。

 おお、普段から僕はこんな風に他人に接していたのか。そりゃあ嫌われるわな。

 まず僕に矛先を向けたのは、灰川にコンプレックスを持っていて、僕の方が攻撃しやすいと考えたから。

「そいつが! マユを襲ったんだ! レイプしようとしたんだろ!」

 彼女のとぐろ巻く怒りを一掬い食べてみると、酷い味がした。

 助野の深い部分にあるのは劣等感だ。僕も劣等感には事欠かないから、それだけ深く繋がってしまう。読んでしまう。

 ベリーショートの髪の毛にピアスという一種のパンクファッションは、男性から性的に見られることの拒絶。とはいえ、どうだろう? いくら何でもみんな他人に対して常にセックスセックスってばっかり考えていられるわけじゃないし、これは被害妄想なんじゃないか? つまり自分がそーいうことばっかり考えてるから、他人もそう考えてるに決まってるだろ、ってこと。それが彼女の想像力の限界なのだろうし、もしかしたら僕の限界なのかもしれない。

「おたくは、男なのか女なのか、どっちなんだ?」

「は?」

 意図的に相手の意識の方向を捻じ曲げる。灰川の悪辣さの百分の一もないけれど、それでも充分だ。

「髪の毛を刈り上げて自分のことを『オレ』って呼んで囲いを作るのは男性的な振る舞いだ。スカートを短くするのはパンツが見えそうになったり太ももが露出して男に媚びているみたいに思われがちだけど、実際は脚全体が長く見えるっていう、女性が女性の社会で優位を取るためにされるファッションだ。で、校則違反のところをあえてピアス穴を開けるのは、自分というキャラクターを立てるための、言わば内向きの自分に対するファッション。おたくが何をしたいのか、自分をどの立場に置きたいのか、全然わからないんだ。教えてくれよ」

「オレは女だよ、見ればわかるだろう!」

 わずかばかりの嬉しさと、不安を怒りでかき消そうとする心の動きが見えた。

「おたく、今少し嬉しそうにしたな。自分の中に何もない人間は、周囲から変わり者だと言われることを喜ぶ傾向がある。どんなレッテルでも、拠り所が欲しいんだ。おたくが自分の性別の境界を曖昧にしているのは、振り切れない性格を他人に委ねてるからだ」

 言ってしまってから、僕は不味いと思った。

 これは助手の領分を越えてしまっている。探偵に任せるべきことだった。

 舌戦の上では僕が言いくるめたようになっているが、これはかえって失敗だった。

 助野の敵愾心に応じて、反射的に敵愾心を持って話を続けてしまったのが僕の敗因だ。感情移入というものは、こういったデメリットもある。冷静さを欠き、相手のペースに引き込まれがち。

 警戒を強めてしまった助野からは、推理の鍵となる情報を引き出すことは難しいだろう。

 門は固く閉ざされてしまった。僕のせいで。

「まあまあ、その辺でいいだろう。僕が聞きたいことはそんなことではないし、君の推測はまるきり的外れだ。この男には強姦なんか出来るほどの度胸はありはしないさ」

 わざと強めに僕を引っ張り、二人の視界の端へぼうん、と放ることで強引に僕という駒を盤からはじき出す灰川。

 ヨロヨロと哀れっぽく話から締め出された僕を見る助野の眼には、またしても暗い優越感が滲む。

 助野が男性という分類そのものを、ほとんど憎悪しているのがわかった。

 酷い対抗心/敵愾心が僕のような男らしさのない男を見ることで侮蔑に変化する=猿山のマウンティング。上下関係を決めたがる辺り、酷く男性的な思考だけれど、自覚はないのだろうな。似ているから憎むのか、それとも憎む内に魅入られてしまったのか。きっとその両方なのだろう。

 同時に思うのは、助野が酷く分類を気にしているということだった。

 自分の劣等感の原因を、男性性という漠然とした分類そのものに転嫁し、また劣等感が反転した怒りを向けている。思考の幅が狭いため、対象を貶めることでしか自分の優位を信じられないが、属性という大きすぎるものを敵に回したせいで、助野の怒りは常にくすぶったままで、消えることがない。

 助野は自分よりも上手く男性的な行動様式を使いこなす灰川に、憧憬と同族意識を抱いている。だから、感情移入出来る灰川が僕というこの場における敵としての男性を貶めることに快感を覚えているのだ。

 自分と灰川は『良い』男性、由良という男は『悪い』男性。

 ……僕としては正直どうなんだよそれ、って感じだけれど、多くの場合、人は理屈を感情で曲げて運用するし、曲がったものでも本人はまだ理屈だと思ってるわけで、外野がとやかく言ってもどうにかなるものじゃない。

「聞きたいことは、その他でもない、失踪した君のお友達のことさ。彼女ら三人は、まだ生きているかもしれないんだ」

「ああ、当然だ。あいつらが死んでてたまるかよ!」

 あえて見当はずれなことを言う灰川。揺さぶる意図だったが、逆に強く返事をされて僕は戸惑う。

 助野は確実に三人を殺しているはずだ。なのに、彼女らが生きていると言う助野の態度に、嘘のにおいがまるでない。

 疑いの色が濃い僕の視線が気になったのか、助野は再び怒りを再燃させたようだった。

「レミはオレたちの中で一番頭が良かった。本当に困った時はいつでも知恵を出してくれた。しぃは教師になりたいって言ってたけど、本当は歌手になるのが夢だってオレだけに教えてくれた。ルッキーはイラストが上手くて、コピックを何本も持ってて、それ専用の筆箱を持ち歩いてた。どれも、どれもお前なんかが面白半分に嗅ぎまわっていいもんじゃねえんだよ」

 あだ名のせいで分かりにくいけれど、つまりは助野の友達連中のことだ。

 抑制しているせいで、小刻みに震える声。

 逆に僕は心がどんどん冷え切って、うんざりする。時々、自分以外がみんな馬鹿に思えることがある。言い換えれば、僕自身その程度の器でしかないってことなんだけれど、それでも、想像力がないから自分の大事なものが他人にとっても大事だし、そう扱われて当たり前って態度を取る馬鹿の相手をしていると、ため息の一つもつきたくなる。

「教えてもいいが、そいつには聞かせたくないな」

 助野が再び僕を指さした。

 平行線の話題を切断し、灰川に水を向ける。悪い手段じゃあない。……相手が灰川でなければ。

「ああ、当然だな。君は出ていたまえ」

 灰川も合わせて、あえて冷淡な態度であごをしゃくる。助野が自分に向けている同族意識を読んだのか、相手の感情に寄り添うことで情報を引き出すことに決めたようだった。僕は意図せず「悪い刑事」の役を演じてしまったらしい。

 すごすごと二人に背を向けて廊下に出る、と、眩暈のような感覚に襲われた。

 世界が一瞬、紫色のノイズに呑まれて──。


   *


 僕は本当は色んなことを覚えている。

 覚えていたくないことばかり覚えているせいで、忘れるフリが上手くなり、忘れたフリをしている内に本当に忘れてしまうのだ。

 この感覚を、僕は覚えている。これは悪魔に世界をずらされた時の感覚だ。

 そうだ、僕はもう、自分で思っているよりもずっと昔から、こんなことを繰り返していて……。

「──オレが男か女か、知りたいと言ったな」

 ぞっとするような声。

 振り向いたが誰もいない。

 しかし、おぞましい気配は消えず、更には僕のこめかみ辺りに女の指が触れる感触がした。

「やば」

 言い切る前に、左眼で痛みがはじけた。視界の半分が真っ赤になる。

 戸惑う間すら与えられずに、世界が回転した。

 ──走馬灯。


 夢の国の図書館に、僕は意識を一気に飛ばす。

 扉をどんどん蹴り開けていく。バン! バン! ここでもない、ここでもない!

「走馬灯というのは、生命の危機に瀕した際に、これまでの経験からピンチを切り抜けるための知識を引き出そうとする、極めて合理的な行動だ」

 黒い扉。

 偽物の灰川。黒い服。

「世界をずらされたから、助けが呼べると思わない方がいい。

 敵は助野透。陸上部に所属しているが、ほとんど幽霊部員だな。大会の成績もそんなに良いわけではなく、部内でも軽んじられている。

 自分に何もない人間だから、新しい自分の立ち位置を確保しようとする。それ自体は悪いことではないが、やりようが随分だとは思わないかね?」

 そんなことは聞いてない! ってかお前、消えたはずじゃなかったのかよ!

「敵はかなり強いよ。単純に力もあるが、それ以上に手持ちの駒を有用に使う頭がある。まず、透明になって警戒を無効化し、人差し指と中指をリードにして親指で眼をえぐる。ダメージを受けて混乱している所に大外刈りだ。透明化を除けば、不意打ちに急所攻撃、怯んだところに比較的かけやすい柔道技で相手を無力化する、と特別なことはしていない。しかし、効果は抜群だぜ」

 偽灰川はいつの間にか弟になっていた。

 どうすれば今助かるか教えてくれ。

「本当なら、もうお前はここに来る必要なんてないんだ。記憶を取り戻してるんだからな」

 母さん。

「弱い者が強い者に勝つための道具なんだよ、武術ってのは。むしろ、それが出来なきゃ意味がない」

 子供のころの灰川。

「あなたは悪魔なんだから、この程度で死にませんわ。悪魔同士の闘いは命の核を隠すのが当たり前、ならば肉体を構成し、術式を撃つための燃料である魂を削るのが定石です。勝つために自分を殺しなさい」

 皇。


 ──衝撃。

 後頭部が硬い床に打ちつけられて砕ける感触。血やそれ以外も飛び散った気がするし、助野の親指がさらに深く眼下に突っ込まれた。脳みそに痛点はないが、嫌な感触がする、多分。

 だが、僕はその程度では死なない。むしろ、相手が仕留めたと思っているこの瞬間は最大のチャンスだ。

 眼球をえぐった助野の指をあえて抜かずに、あごを引き手首を取り、極める。倒れた状態から首に足をかけ、こちらに引き込む。──「そうだ、一対多では袋叩きにされるが、一対一なら寝技は有効だ。特に倒れているという不利な状態からかけられる技は覚えておいて損はない」言ったのは誰か。きっと子供の頃の灰川だろう。僕はそのときから喧嘩が弱かったから。──三角絞めだ。

 僕も助野も壊れたところから再生するなら、壊さずに無力化させ続けるというのはどうだ?

 そして、組んでしまえば透明かどうかなんて、関係ない。

 物理法則は無視出来るくせに、人体の構造にはある程度忠実だなんて、中途半端な作りをしているからつけこまれるんだマヌケめ。

「う、ぐ」

 くぐもった声で苦しみを漏らす助野。

「このまま、一度落とすから」

 僕の宣告に危機感を覚えたのか、無理やり腕力だけで助野は僕の身体を持ち上げた。素手で人を破壊出来るというのは、こういうことだ。

 ダン!

 床に叩きつけられるが、僕は足を緩めない。

「その程度じゃあ、まだ駄目だな」

 嘘。本当は背骨が変になってる。だけど、まだ無茶は出来る。

 無理を通した甲斐もあってか、助野の透明化の術式の効果が薄れてきた。その剛力だけしか知らなければ、想像もつかないほど細身のただの女子高生が姿を現す。

「ご、うお、おおおお」

 もう一度僕を持ち上げる助野。悪あがきかと思っていると窓に叩きつけられ、再び視界が回転する。

 ここは四階、この高さはさすがに無理無理無理無理!

 一緒に落ちる助野を、先に頭砕いて死ねとばかりに蹴飛ばし、離れる。

 自分は足をヴェロキラプトルの鉤爪に変化させて、ベランダの手すりに引っ掛けて減速する。

 カッ、カッ、カッと段階的に着地したときには、既に眼球も後頭部もすべて再生を終えている。

 助野はと言うと、普通なら足が折れるような無茶な姿勢で着地したが、ダメージを負った様子はない。逆に僕のことを観察する余裕すらあるようだった。

 まだ再度の透明化はしていない。距離が離れているため、僕は本来なら急ぎ組みつきに行く必要があったが、それが出来ない理由もあった。

変化へんげなんて弱い術式ばかり使う、ダメージを回復させるのも遅い。お前は、魂のストックが全然ないんだな」

「おたくみたいに、殺してばっかりじゃないからね」

 外側の世界に影響を及ぼすための術式より内側の世界、自分自身にのみ影響を及ぼす変化の術式は、魂のエネルギー変換効率がいい。しかし、それでも足りないのだ。

 僕は弱くて弱くて弱いから魂の価値がまるでない。だからなるべく節約しなければいけないのだが、そのことを見抜かれてしまったのは痛い。

 おまけに向こうは殺した三人分の魂のストックがある。ただ殺しただけじゃ魂は上手く収穫出来ないが、三人の死因は一種の自殺だと灰川は言っていた。つまり、その行為自体が『魂を捧げる』という契約に該当するのだろう。

 要するに、僕は今かなり不味い状況にある。

 相手が強くて、こっちは弱い。敗北の確定パターンだ。

 僕が攻めあぐねているように、助野もまた動きを止めていた。今まで何度も僕を仕留め損ねていたから、慎重になっているのだ。

「何がおかしい」

 唸るような声を上げる助野。意図がわからず、聞き返した。

「別に、何も?」

「ニヤニヤ笑いやがって。ムカつくんだよ」

 そうか。僕は笑っていたのか。

 つまるところ、僕はそういう人間だったのだな。

 助野が僕の奥を見ているのがわかった。僕の魂の本質(アートマ)は卵の形をしている。一見、何てことのない鶏の卵。しかし、中身は虹色の硬くて柔らかくて熱くて冷たくて甘くて苦くて、何にでもなれるものだ。それがひたすら回転している。堅固な殻は自閉を意味する。中身が孵化することがあるのか、僕自身にもわからない。

 助野は蟹だ。お化けみたいな大きさのシオマネキ。右の大きなハサミの刃は鉈になっている。左のしょぼくれた小さなハサミは劣等感の表れ。片方で何かを持ち上げて、もう片方で何かを貶める、卑しい分類癖が魂の形になって露出しているのだ。

 不意に、僕の殻の中身が形を変えた。

 虹色の流体はシオマネキになり、「他人事みたいな顔してるけど、あいつの小心さが反転した意地汚い攻撃性は、僕自身の中にもあるんだぜ」と主張してくる──感情移入。わかってる、わかってるさ。

 癒着した助野と僕の精神を、無理やり剥がす。

 次の瞬間、一気に距離を詰めた助野の右フックが鼻先をかすめた。

 あとわずか、自分のやるせない気持ちに囚われていたら死んでいた。

 僕はやはり、放っておくと良くないことを心の中に呼び込みすぎる。僕のぼんやりした様子を勝機と見られたか。はは、舐められてやんの。

 ──そうだ。結局のところ、暴力はすべての生き物に共通する選択肢の一つだし、最もシンプルに自分の意思を通すための道具に過ぎない。必要になったら使えばいい。それだけのことだ。僕もただ、そうあればいい。

 助野の眼が赤く光った。術式を発動するためのスイッチ(馬鹿な女だ。わざわざ自分の手の内を見せてしまうなんて)(ひけらかしたがり)(悪魔になった程度ではしゃぎやがって)。

 もう透明化の術式を発動させている。二発目の裏拳はもう、視認することが出来なかった。しゃがみこんでかわせたのはかなりの幸運だ。

 幸運ついでに、低い姿勢のまま腕を大きく開き、タックルを仕掛ける。僕が助野に勝つには、組みつくしかない。自分でも驚くほどのスピードで相手の片足を捉えることが出来た。

「せぇ、のっ!」

 勢いのまま、引きずり倒す。かかとを右脇に抱え込み、アキレス腱固めの構え。

 足を絡めようとして、違和感を覚える。おかしい、抱え込んだ足の先に体重を感じない。と言うより、何もない。

 運動靴からじわりと熱い液体が染み込むのを感じ、助野に一杯食わされたことを悟る。

 透明化の解けた足が、その姿を表した。足は付け根で切断されており、断面からはまだどくどくと体温のままの血をあふれさせている。

 以前、僕がトカゲに化けて尻尾を残して逃げたのを見られていたのだ。

 相手を見下すという僕の悪癖を思い出した。軽蔑の対象からは何も学ぶことが出来ない。わかっていたはずなのに、相手が学習し成長するという当たり前のことを忘れていた。僕は本当の馬鹿だ。

 そして、一見ここは僕が助野を逃がしてしまったようだが、それは違う。

 実際、僕が助野に組みついた時点では互角、むしろそれでも僕の方が不利なくらいだった。あそこから逆転する方法なんていくらでもある。

 僕が助野に見逃されたのであり、理由は時間が経てば経つほど向こうの有利になるということがバレたからだった。

 つまり、ここでも魂のストックの差がものを言う。

 正攻法で勝とうするなら、助野以上に魂を収穫しなければならない。しかし、あの連続殺人鬼よりも多くなんて、どうやって……。

 まだ温かい助野の足を投げ捨てながら、自分の考えを見つめなおしていると、自分が殺人自体に嫌悪をあまり抱いていないということに気づき、おかしな気分になった。

 罪悪感を抱けないことに対する罪悪感。変なの。

「それよりこの格好、どうしようかな……」

 きっと、そろそろずれていた世界が元に戻るだろう。それまでに血みどろになった靴や制服をどうにかしないと。ブレザーの肩にこびりついた自分の脳の欠片を弄りながら、僕はため息をついた。


 僕はまだ生き物以外に変化するのがあまり上手くないからやりたくなかったけれど、グチャドロになった制服を着ているよりかはまだマシのはずだ。

 自分の皮膚を内側から押し上げて服を構築する、変化の術式の応用。思っていたよりは上手に出来た、と思いたい。

 そう、僕はずっと自分で思っているよりもずっと、めまぐるしくシャッフルさせる身の回りの出来事にちゃんと対応出来ている。まだ取り返しのつかないミスは何もしていない。僕はまだ、終わってない。そうだ、大丈夫大丈夫大丈夫……。

 気づけば僕は親指の爪を噛んでいた。あまりに強く噛んでいたせいで、酷い割れ方をしてしまっていた。これを灰川に見られたら疑われてしまうだろう。元の僕がいた世界ではまだ数秒も経っていないはず、しかし異様に鋭い灰川のことだ。違和感の元は断つに限る。

 墜落した中庭から元いた階まで戻るのに、ゆっくり歩いて大体五分。その間に服も爪も再生が終わっている。

「そろそろか」

 そして世界の『ずれ』が元に戻る。僕達がくんずほぐれつした結果割れた窓は、ずれた先の世界の窓だから、基底現実の窓には傷一つない。怒られないで済むぜと一安心、そしてみみっちい自分に常習化した幻滅。

 人通りの少ない廊下は寒い。仲間外れにされた僕は、灰川と助野の話が終わるのをひたすら待つ。

 その間考えることはやはり自分自身のことばかり。本当、僕は他人とか身の回りで起きてる事件とかに興味がないんだな。良くないぜ、そういうのマジで。

 あえて見ないようにしていた扉が開く音がした。

 振り向いて見ると、そこから出てきたのは灰川でも助野でもなく、皇だった。

「あら、こんな所で何をしているのかしら? 工作室に用でも? 俊公君」

 くるくると肩にかかった髪を弄ぶ皇。顔に貼りついた笑みは灰川のものと同質だが、その奥にあるものは明確な悪意だ。理由はわからないが、僕も嫌われたものだ。

「……戻る瞬間に今度はおたくがずらしたのか」

「つまらない返事ねえ。女の子にモテませんわよ」

「それ真剣な悩みだから、本当マジ言及しないでお願い」

「……冗談はさておき、あなたの質問に答えてあげようと思いまして、ね」

「ああ、このタイミングでやるのね」

「もちろん、質問は三つまでですわ」

 僕は試されている。試すってことには相手を見下しているっていうのが多分に含まれていて、僕はそれが気に食わない。皇がじゃなく、そんな風に誰からも見下されてへらへらして生きてきた惨めな僕自身が、だ。

「じゃあ一つ目。悪魔とは何だ。どういう生き物なんだ」

「聞くのが随分遅れましたわね。

 お答えすると、悪魔は魂の生き物ですわ。これは比喩ではなく、身体を構成するものはすべて魂から成り、食事のように定期的に他者の魂を摂取しなければ生きられず、魔法を使うのにも魂のエネルギーを使いますの。タイヤもフレームもエンジンも魂で出来ていて、その上ガソリンタンクに魂を突っ込んで走る魂カーみたいな生き物、と言えばわかりやすいかしら?

 でも魂って、他人様を殺して奪うようななやり方では上手く収穫出来ませんの。正当な契約の上でないと腐ってしまいます。それが良いって言うお下品な方々もたくさんいますけど、私たちはグルメですので、願いを叶えて代償に魂を奪うというトラディッショナルなやり方に固執せざるをえないわけですわ」

「二つ目。僕には両親がいるし、彼らは普通の人間だと思うんだけど、どうして僕はこうなったんだ?」

「うふふ、今回は随分核心に迫りますのね。ずっと楽しみに考えていてくれたのかしら?」

「そうかもね」

「悪魔は契約で奪った魂の中でも見込みアリと感じた方の魂をそのまま消費せずに、自分と同じ悪魔に仕立て上げることがあります。悪魔だって死ぬことがある以上、増えなきゃ減っていくばかりですから」

「……三つ目。おたくの能力は、記憶を操作することか?」

「っ!」

 初めて、皇の表情に痛苦の色が混じった。

「灰川なら『簡単な推理だよ』とでも言うんだろうかな。おたくなら、『どうしてそれが?』ってところか」

「……いいでしょう。あなたに合わせてさしあげますわ。どうしてそれが?」

「そこにあったものを消し去っても、それによって生まれた空白は消すことが出来ないんだ。おたくのやり口は雑すぎた」

 人は何かを覚えておこうとした際に、繰り返すことで記憶を定着させる。

 僕の場合、忘れないように習慣として残しておいたにもかかわらず、すべて忘れてしまっていたことがあまりにも不自然なのだ。

「嘘をつき通すには、その過程でより多くの嘘をつく必要がある。おおかた、過去の最も重要な部分を隠蔽するために、僕の頭を弄って普段から何でもかんでも忘れるようにしたんだろうが……」

「ちょ、ちょっとお待ちなさい! あなたが忘れっぽいのは子供の頃からでしてよ?!」

「えっ、マジで?」

「マジですわ」

 ……あー、ちょっとした手違いこそあったがとりあえず、皇の能力は継続するが術をかけること自体は瞬間的であることと、灰川と同じように幼い頃に僕と出会っているということがわかった。結果オーライ。

「あなた、やっぱり探偵には向いてませんわね。肝心なところで詰めが甘いんだから」

「ほっとけ。僕は探偵助手なんだ」

 僕の周りの女の人は、みんな母親のようなことを言う。そんなに頼りなく見えるのかな?

「はあ、何だか毒気を抜かれましたわ。ええ、そうです。私の能力は記憶の操作。これで、三つの質問は終わりです」

 皇はくたびれたようにヒラヒラと手を振った。そこには、いつもの底光りするような悪意は見えず、言う通り本当に毒気を抜かれてしまったようだった。

「本当は、おたくが何をしたくて僕に接触してるかが気になるんだよね」

「必ずしも私が全部答えるとは限りませんことよ」

「だろうね。だから聞かない」

 本当に僕の記憶を隠しきろうと、言うのならこんな風に質問に応じる必要はないのだ。むしろ記憶のフックになりそうなものは徹底的に除外するのが望ましいはずだ。なのに、彼女が僕と接触するということは、きっとまだ僕にはわからない意図があるのだろう。

「そうですわね……じゃあ代わりにサービスとして良いことを教えてあげますわ。あなたが人殺しに抵抗を覚えない、場合によっては自分自身の手を汚すことも何とも思わない理由、聞きたいでしょう?」

「別に。ただの慣れだろ」

 エピソード記憶が失われても、習得した技術は簡単には失われない。経験は自覚の有無にかかわらず、蓄積していく。つまり、自転車に乗る練習をした日のことを忘れても、自転車には乗れるってこと。

「僕と灰川は昔に会ってるんだから、その頃から殺人事件に連れ回されててもおかしくない」

「ええ、それもあるかもしれませんわね。最初、あなたは酷い泣き虫でしたもの。でも、それ以上にあなたが狂っているのが大きいでしょうね」

 狂ってる、ねえ。安直な分類にしか思えない。

「僕は馬鹿だけど、僕くらいの馬鹿はそれこそいくらでもいるだろ。そんな風に言われる筋合いはない」

「いいえいいえ、やはり何もわかっていませんのね。あなたはこの世を愛しいと思える何物をも持たずに生きてきたのよ。だから、誰とも噛み合わない。あなたにはただの一人も友達と言える人はいない。家族だって、血の繋がりを忘れてしまえばすぐに疎遠になる程度の付き合いではなくって? あなたは直線だけで出来たパズルのピースなのですわ」

 息が止まるような思いがした。

 誰と噛み合うこともなく、繋がりを持たずに打ち捨てられるビジョン。

 僕は、何も、何も言い返すことが出来なかった。

「うふふ、それではごきげんよう、俊公君」

 貝になってしまった僕からプライドを奪い返したのか、皇は優雅に切りつけるような一瞥をくれて、僕の横を通り過ぎて行った。

 扉から出て来た時と同じような柔らかい足取りで、追えばすぐに追いつくはずだったのに、僕はそこから微動だに出来なかった。

 世界が再びずれるまで、僕はずっと悔しさに震えていた。


 扉が開いて、まず最初に出てきたのは助野の方だった。「レディーファースト」だとか「ご協力感謝します」だとか自分自身まるきり信じていないおべんちゃらで、部屋を出る順番まで灰川に操作されたのだろう。心なしか悔しげな表情だ。

 助野は充分に僕を睨みつけてから立ち去る。

〈次は殺す〉

 届けられた圧縮言語に僕は返事をしなかった。悪魔同士で使われる魔力を介した会話は、普通の人間の灰川には聞こえない。

 他人ってのはどうしてつまらない台詞ばかり周囲に刻み付けようとするんだろう? やはり僕にはわからないことばかりだった。

「次は殺す」だと? そんな当たり前のこと、わざわざ言う必要なんてないじゃないか。お互い様だ。

「やあ、待たせたね。由良君」

 僕が首をひねっていると、灰川がいかにも偉そうに工作室から出てきた。いつもの石鹸のにおいに、すえた木のにおいがうっすら被さっている。歩く内にすぐ消える程度のものだろう。

 意識してみると、随分気恥ずかしくなってくる。昔に会っていたとは言え、今の僕からしてみれば一週間もない付き合いの中でここまで灰川のことに詳しくなってしまったのだから。気を引き締めておかないと、馬鹿なことをしてしまいそうだ。

 ふと思う。灰川は僕にドロップキックを喰らわせたとき、初めて会った風に話していたけれど、あれはどこまで本当なのかと。

 灰川のことだから、僕に忘れられているのを知って嫌味として嘘をついた可能性もある。灰川は僕より賢いので彼女が嘘をついていた場合、恐らく僕に見破る手段はない。

 それとも、もしかしたら記憶を奪われているのか。──僕と同じように。

 確認する方法を思いつかないけれど、そのうち何とかしないとな。

 今の僕が抱える最重要問題は、灰川という相手を僕が酷く意識してしまっているってことだ。意識すればするほど、奥に入り込まれてしまう。

 浮かれた気分を追い出すよう、何とか努力して「いや、すぐだったよ」と言った。

「健気な返事じゃないか。それでこそ僕の助手だ」

「ちぇっ、言ってろよ」

 まあ、口ではそうは言っていたが、実際のところ全然嫌じゃなかったし、そうするのが当然だと思えた。

 探偵助手ってのは嫌々、事件に巻き込まれないといけないのだ。灰川もそこんところのお約束を熟知しているようだったから、反抗的な僕をかえって嬉しそうに見ていた。

「君は変わったね」

 灰川はいつだって見透かしたような物言いが好きだけれど、このときは特別にヒヤッとした。

「そうかな」

「そうさ。例えば、君はいつからか僕のことを『おたく』って呼ばなくなったろう。あれは君にとって他人と距離を取るための言葉だ」

「気付かなかった」

「君は自分で自分のことを何もわかっちゃいないのさ。だから他人が怖いんだ。他人は自分の鏡だからね」

「ますます人付き合いに自信を無くしそうなことを言わないでくれよ」

「気にすることはないよ。君の周りの鏡は歪んだり傷物だったりで役に立たん」

 言外に「僕だけは別だがね」という意図をにじませた態度だった。灰川は自分に僕を依存させようとしている。人をたらしこむ手口の一つだった。それが嫌じゃないのも、操られた結果なのかも。僕にはわからないな、うん。

 灰川は背が低いのに大股で歩くせいで、すぐに僕よりずっと先を行ってしまう。置いて行かれないように、僕は歩調を速めた。


   *

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