第3話 探偵の流儀


   *


 ちょうどその時、彼女は食事中だった。

「う゛えっ、え゛えっ、えうぅう゛……」

 えづきながらも無理やりそれを飲み下そうとする彼女に、僕は声をかけた。

「不味いなら、食べなきゃいいのに」

 返事の代わりには鉈が飛んできた。

 視界いっぱいに広がった刃をかわすと、既に彼女は透明化を済ませていた。

 すぐに足元に眼をやる。

 本体は見えなくても、足元には血の水たまりが出来ているから動けば位置は確認出来る。

 そう思っていたのに、波紋が生じた部分からその血すらも透明になっていく。

 ヤバいヤバいヤバい、この女、能力が成長してる?!

 風切り音。

 とっさに頭をかばうと、ガードした腕の上から容赦ない打撃。

 尖った拳の感触──その痛みが僕に、彼女がもう鉈を使わなくても人間を解体出来るほどの腕力を持っていることを教える。

 飢えた犬のように荒い息遣い──僕にはわかる。彼女がそれでも鉈を使うのはそれが習慣になっているからだ。人殺しという特殊な事象に挑むにあたって、自分の行動に変化を加えたくないのだ。

 誰にも理解してもらう必要のないモージョー。狂気を安定して出力するための儀式。

 変化する余裕もなく、ただの前蹴りを繰り出した。

 彼女を突き飛ばすどころか、僕自身が後ろに倒れ込むようになったけれど、距離を取ることだけは出来た。

 地面に触れるまでに肉体を再生させる。骨が露出していた腕を再構築する。

 ばしゃり。

 今度は僕が血に塗れて音を立てる番だ。

 鉄のにおいがキツ過ぎて鼻はまったく利かない。むしろ、意識した途端に気持ち悪くなってきて、吐きそうだ。

 ばしゃり、ばしゃりと彼女の足音が急接近してくる。ストンピングか、運が悪ければもう鉈を拾われてるかもしれない。どっちにしても最悪だ。僕はオオサンショウウオに化けて極々浅い水面を滑るようにしてエスケープする。

 おっかないと思いながらも、僕は笑っていた。

 やっぱり彼女は面白い。また見に来よう。


   *


 最近おかしな夢を見る。

 夢を見たって大概はすぐ忘れるのだけれど、覚えていられるんだからやっぱり変な夢だ。そう思いながら布団を畳む。首を回すと、ぐぎりごぎりと嫌な音がした。

 夢の中の僕は××を食べる人を面白がって見ている。起きている僕はそれを悪趣味だと思うけど、夢の中にいる間はそれすらも面白い。

 何だか気が狂ったような気分だ。それとも、ずっと夢の中にいれば狂ったことにも気にせず楽しいままでいられるのだろうか? 善悪関係なしに罪悪感を覚えずにいられるのなら、羨ましいことだと思った。思っただけだけれど。

 とりあえず、気分を切り替える。気分をウンザリさせる諸々を棚上げするために忘却があるのだ、その能力をフル活用。

 平日よりもゆっくり起きる休みの日は、自分で朝食を用意することになっている。午前10時現在、母は買い物で父は部屋で趣味に没頭、弟は部活だろう。誰にも煩わされずに台所を使えるわけだ。

 薄く焼いた溶き卵にレタス、ハムを片面だけトーストしたパンで挟む。簡単なサンドイッチを2セット、ラップにくるんで鞄に入れる。

 父に挨拶をして出かける先は灰川の家だ。初めて行く場所だけれど、学校近くの寮とのことなので迷わなかった。

 別に灰川が言う探偵助手ってのに付き合う理由はなかったのだけれど、逆に言うなら付き合わない理由が特別にあるわけでもなかった。だから休日にもかかわらず、彼女の呼び出しにも応じた。暇なんだ、実際。

 素人が探偵ごっこをしたところで、事件そのものをどうこう出来るわけでもなし、それで灰川が満足するのなら付き合うのも悪くない。これも一種の思考停止だけれど、思考が現実に影響を与えるケースなんて微々たるものだ。

 とりあえず動いてみるのも悪くない。

 学生寮かくあるべし、と言うくらいにボロボロな建物の二階に灰川の部屋はあった。

 2階の手前から2番目の部屋で22号室のはずだったが、表札には汚い字で付け足しがされている。「22(1B)」。……どうやら、灰川は形から入るタイプらしい。

 呼び鈴を押してもカスカス言うだけで手応えがまるでない。しょうがないので軽くノック。ノック、ノック……。まったく反応がないので次第に強く叩いていたら手が痛くなってきた。結局、中に入れたのはその十分ほど後だった。

「ん、おふぁよ……」

 灰川の部屋は恐ろしいほどに雑多な使い道すら判然としない物が散らかっていたが、それ以上に灰川本人がグシャグシャだった。

 どうも、朝に弱いらしい。あとで聞いた話では、僕を迎えに来た日は一睡もしていなかったそうだ。徹夜で活動することは出来るけど、一度眠ると起動に時間がかかるとのこと。

 朝ご飯を用意して来てくれ、と言われたのも納得だった。仕方ないついでに台所を借りてコーヒーを二人分いれる。

「えーと」

「砂糖は……上から二段目の棚……」

 寝ぼけていても、僕の考えを先回りすることくらいは出来るようだ。

 未開封の葉巻の箱、どうやら本物らしい人間の頭蓋骨や、得体のしれない泡を吐き続けるビーカーを机から除けて、遅い朝食の場所を作った。

 サンドイッチを一口食べるごとに、灰川のまぶたが徐々に上がっていった。わかりやすい。

 コーヒーは豆が上等なのか、僕のいれ方がヘボいのを差し引いても、とても良いにおいだった。やっぱり味は嫌いだけど、砂糖とミルクを死ぬほど入れれば飲めないほどではない。僕も自分の分のサンドイッチを、良いにおいのする泥で流し込む。うん、ドス黒い甘さだ。

「で、今日は何をする予定なんだよ」

「事件で消えた人たちの周囲へ聞き込みかな」

 ざっくりとした方針の取りまとめ。

「主に聞き込みは僕がする。君は隣で話を聞いてくれればいい」

「それだけのために僕を呼び出したの?」

「あとで相手の印象や感じたことを教えてくれ。場合によっては、それが役に立つ」

 どうも、灰川は僕を嘘発見器のように扱うつもりらしかった。

 僕に出来る程度のことは灰川にも出来ないはずがないと思ったけど、黙っていた。何で黙っていたのかは自分でもわからない。ただ朝ご飯の世話だけで帰るのも馬鹿馬鹿しいと思ったからなのか、それとも……まあいいや。

 僕のような人間が物事を余計に考えるのは、徒労や良くない物を招き入れることに繋がる。そう決めつけた。


 学校に入るのには本当は制服を着ていないと不味いのだけれど、僕が私服で来たせいで灰川もそれに合わせることになった。名誉のために言っておくと、灰川が着替えている間、僕は外で待っていた。

 行方不明になった女子は皆、同じグループ(ことあるごとに同じ班になったりお弁当を一緒に食べたりトイレに行くにも何故かお互いに誘い合うような仲、と言えばわかりやすいかも)。五人組で、残っているのは二人。

 格子縞の二重回しに前後につばの出っ張ったハンチング帽という(脳みそが)キマりきった格好で灰川は現状の確認をした。

「五人?」

 ある種の女子生徒ってのは大体において自分たちの仲が良いことを確認し、アピールしたがるものだし、学校行事の班組みは二人か四人で行われがちだと思っていたので、僕は違和感を覚えた。

「奇数でいいんだ。一人抜けた時に残りがそいつの悪口を言うものだから」

 灰川はあっさりと答えてくれた。うへえ、って感じだ。でも思い返してみれば、こういう人間関係のいやらしさってのは男女を問わないものなのかもしれない。

「しかし、彼女らの場合は事情がいくらか異なるがね……」

 まず、僕らが聞き込みをしに行ったのは残った二人ではなく、行方不明者の恋人たちだった。グループは一人を除いて全員彼氏持ち、それも全員運動部の男子生徒。ただの偶然かもしれないけれど、一応は共通点だ。調べるフックとしては悪くないだろう。

 特に部活に入っていない僕には関係のないことだけれど、うちの学校では土日も運動部が集まるため、そこそこ活気がある。適当に騒がしいグラウンドを灰川について歩く。

 まずは一人目の行方不明者の彼氏、陸上部の男子生徒に灰川は声をかけた。

「すまない、少しいいかな」

 すまないとは言いつつも、実際には有無を言わさぬ口調。尋問するのが当たり前のような態度で、なるほど探偵とはこうやるのかと感心した。

 陸上部の男子は同学年のはずだったが体格が良く、僕よりも年上なんじゃないかと思えた。

 声をかけた灰川に陸上部の男子は一瞬意外そうな顔をして、それからすぐに女性の身体に男装という一種の倒錯した色香に、粘着質な視線を投げかけた。

 次に彼は隣に立つ僕に、灰川に向けたものより無遠慮で威圧的な視線を向けた。

 ヒョロヒョロで肌が生っ白くて不細工な顔の僕を見て、自分の男性的機能と魅力、その優位性への確信を深めた表情を見せた。反転して、「何故お前ごときがこの女の隣にいるのか」という不愉快さ=圧倒的に下だと思っていた相手に優越される部分があることを許せない/認められない/飼い犬に手を噛まれた気持ち。

 すべて僕には伝わってくる。

 僕はすっかり萎縮してしまって、オドオドと挙動不審になってしまう。思わず灰川の隣ではなく半歩後ろに下がろうとすると、つまさきを思い切り踏まれた。抗議しようとしたけれど「しっかりと見ろ」という灰川の視線に抑えつけられてしまった。

 仕方なく、僕は灰川がこの男子生徒を解体する一部始終を、最前席で見ることになった。


「時間を取らせて悪いね。すぐに済むよ」

「何だよ」

「君の彼女のことを聞きたいんだ。最近どうだい、何か変わったことでも?」

「あー、あいつか。お前も玲美の友達なの」

「いや、別に。ただ調べてるだけさ」

「ふーん。まあ、あいつがあのグループ以外に友達いるとは思えないからな」

「グループって言うと、他の行方不明者たちも含む五人組かい?」

「そ。あいつはカレシの俺よりあっちの奴らの方が良かったんだと思うよ。キスどころか手も繋がせなかったし」

「なるほどねえ。じゃあ、彼女が失踪する心当たりなんかもないと?」

「駆け落ちじゃないけど、家出とかじゃねえの。同じグループの奴らと集団で、親にも黙って旅行とか」

「ふむ。それじゃあ、あといくつか質問を……」


 まだ失踪していない女子生徒の彼氏にまで当たってみたが、どれも最初の陸上部の男子と似たり寄ったりの反応だった。まとめると、

・彼女たちはグループ内でベッタリ、他に友達はいる様子もなし。

・恋人はいるものの、プラトニックな関係(むしろ態度は冷たい?)。

・男子生徒は行方不明の彼女たちのことについて知らないことの方が多い。

 っていう具合だった。

「それで? 感想はどうだい」

 校内を歩きながら、灰川が僕に問う。

「あの人たちはみんな、恋人に全然興味がないみたいだった。何て言うか……いなくなってくれて良かった、って感じがした」

「ふむ。なるほど」

「男女って、好きだから付き合うんじゃないのか? あの人たちの態度も気に食わないけど、それ以上に彼らは疲れていたよ。スケベ心の端っこに、良いように使われて寂しがってる気持ちもあったんだ。それで僕には恋愛ってのがよくわからなくなった。嘘がたくさんあって、その嘘を自分たちでも信じようとしているからどんどんねじくれてしまっているように感じた」

「へえ……」

 感心したような声を出すと、灰川はしばらく黙りこんでしまった。

 ある教室の前で立ち止まると、慎重に言葉を選ぶように灰川は口を開いた。

「君は、ロマンチストなんだな」

「馬鹿にしてるのかよ」

「そうじゃない。本当はわかっているんだろう、人は理想がなくては生きられないことに」

「おたくはそういうの馬鹿にするタイプだと思ってたけど」

「身の程知らずを叩き潰すのは好きさ。でも、僕自身がロマンチストだ。夢があり、それを叶える実力を持っているから、そう振る舞う。同じように理想と現実の耐え難いギャップを聡明さで埋めていく姿勢には、価値がある」

 真っ直ぐな言い分だった。玉鋼のように精錬されている。

 目と目が合った。僕の心の奥までを貫き通す視線。

 落ち着かない僕に、続けて灰川は言った。

「君の心は遠く月の裏側にまで飛んで行ってしまっている。だからきっと、そんな風に感じやすいんだろう」

 答えに詰まっている間に灰川はすいっと教室の中に入ってしまった。

 追いかけようとすると、片手で追い払うようなしぐさ=「そこで待っていたまえ」。

 中を覗くと、この前僕が襲いかけた女子がいた。なるほど、軽々しく顔を合わせていい相手じゃないな、うん。

 前回は慌ただしかったから、改めてちゃんと観察した。彼女は長い髪を下の方でゆるくまとめて縛っていて、ダボッとしたブレザーと折り方の上手くないスカートが、少し隙のある雰囲気をかもし出している。近くに置いてある鞄は黒くて硬そうで、彼女が吹奏楽部であることがわかった。きっとトランペットか何かが入っているだろう。

 早めに練習を終えたのか人のいない教室でぼんやりとしていて、どうも誰か人を待っているようだった。そこに灰川はズケズケと近寄る。

「やあ、先日はどうも」

「あ、この前の……」

「早速で悪いが、ここ最近の事件のことについて聞きたいんだ。君を襲おうとした男とも関係があることだしね」

「あの人が犯人じゃないの?」

「うむ、あれは不幸な勘違いだったのだよ。詳しい説明は省かせてもらうがね……。それで」

 最後まで聞く義務があると思ったが、それは叶わなかった。と、言うのも、僕は猿轡を噛まされて教室からすぐ近くの女子トイレに引きずり込まれたからだ。

 舌にざらざらと当たるのは厚手のタオル。くそっ、二度とポケーッと口を半開きにして立っていたりなんてするもんか。

 途中何度も振りほどこうとしたが、やたらと強い力で二の腕を抑えられていて抵抗出来ない。抑えている指は細くて、圧力が集中して痛い=【女の指】。

 そのまま個室に叩きこまれた。

「お前がマユを襲おうとした『男』か」

 僕を拉致した女は言った。周囲の人間が自分の言うことを聞くことを、当然とするかのような口調。

 違和感。

 生じたそれを噛み砕く前に、打撃が加えられた。

「何のつもりか知らないがな、『オレ』たちに男が近寄るんじゃねえよ」

 この女が何かをするたびに違和感が膨れ上がっていく。

 動揺する気持ちがないわけじゃない。でも、同時に意識を自分の頭の斜め上に浮かせて、考える。

 いきなりのことで僕は怯えきっていたが、感覚の触手で相手をまさぐることも忘れてはいなかった。

 女は、髪はベリーショートで、制服のスカートは短め。校則違反のピアス穴は、他の女子生徒のように長い髪で隠すという常套手段が使えるはずもなく、彼女の反骨精神をうかがわせた。

 より深く観察すると見えてくるもの──どことなく嘘くさい男言葉/妙にズレた問題意識/僕という曲がりなりにも男一人を引きずり込んだにしては、やけに弱々しい殴打。

 実際痛かったけれど、今すぐ命の危険を感じるようなものではない。

 本当、何がしたいんだこいつ?

 猿轡をされてはいるものの、手足は完全に自由だ。なのに殴られっぱなしの僕を、女は抵抗する意思もない腑抜けと見たらしい。目元に優越感の色が光った。それはいやに男性的な色を帯びていた。

 薄い頬の肉のせいで、殴った女の拳が赤くなっている。様子を確かめるように指を何度か握りなおしている間、個室の外から声が聞こえた。吹奏楽部だろう、練習の合間の休憩か?

「由良っているじゃん、あの地味なヒト。あれ怪しいんじゃないかって」

「怪しいって?」

「失踪事件の犯人じゃないかって~」

「えーっウソー!?」

「まだ決まったわけじゃないけど、っぽくない?」

「あーまあ確かに、ウチらの探偵さん達に話聞かれてたけどぉ」

「しかも両方だよ? ダブル探偵ジャン」

「ダブル容疑だけど、ダブル判決くらったわけじゃないから、まだセーフっしょ」

 ふーん。僕がマジで犯人だったら片方は確実に殺してるな。危機管理意識がなってないぞ。それとも、容疑者がトイレでリンチくらってるとは思いもしないか?

 打、打、打。

 拳に異常なしと判断したのか、女が僕を殴るのを再開した。痛みはあるものの、腰の引けたパンチ。表情にあるのは嫌悪感。汚物を蔑むけど、触れたくはないって感じ。

 ……そうか。僕は疑われているのか。自分がもうこの事件から抜け出せないことを、遅まきながらに実感した。僕を殴るこの女も事件の内の一環で、いずれ何らかの決着をつけなければいけないことなのだ。

 バン、と強めに最後の一発。後頭部が便座に当たって硬い音を立てる。

「次はこの程度じゃ済まさない」

 女が言い終わると、個室にノックの音が響いた。

 そう言えば、ここは女子トイレだったなあ。殴られることに集中しすぎて忘れてたけど、今ここで誰かが入ってくるのは、かえって僕の社会的立場を危うくするのではないだろうか。

 テンパっている僕に唾をかけて、女は出て行こうとしたが、ノックをした相手を見て固まった。

 個室の前に立っていたのは灰川だった。

「使ってもいいかな?」

「あ、ああ、好きにしなよ」

 リンチの現場に出くわしたにしては堂々としすぎな灰川に毒気を抜かれたのか、女は一瞬固まって(動揺/見られた相手が灰川だから?)、すぐに場所を譲った(妙な従順さ/僕と灰川の関係を知っている?)。その場を後にする時も何故か灰川にじっとりとした目線を向けてから踵を返した(男性的な性欲混じりの視線/好意?)。

 疑問は増えるばかりだ。

 一気に手元に集まった雑多な情報を処理しあぐねている僕に、灰川は手を差し伸べた。

「随分とやられたじゃないか」

 悪戯っ子の笑み。

 つまりは、灰川は僕があの女に殴られるのを知っていてほったらかしにしていたのだ。

 くそ、少し気を許そうかと思ったら、これだ。

「来るのが遅いよ」

「それは悪かったね。でも、立ち聞きよりも有益な情報が得られただろう? 何事も体当たりで経験してみないことには、わからないことだってあるのだよ」

「お前が素直に謝ってみせるのは、皮肉の時ばっかりだ」

 ムカつかないわけではなかったけど、それでも僕は灰川のことを憎み切れなかった。

 白くて細い六本指。

 結局、その手は取らずに自分で立ち上がった。何が僕をそうさせるのか、自分でもわからないままだった。


   *


 僕は夢を見る。

 だから、これも真昼に見る夢なのだろう。意味なんてない。価値なんてない。きっと、二秒後には忘れてしまうことなのだ。


「特別になりたいんだ」

 灰川と名乗った子は言った。

「特別?」

「そうさ。僕はみんなと同じようなものを、どうも面白がれない。みんなのやってることをみんなと同じようにやってもどうもつまらないし、みんなよりずっと上手く出来ても『だから何?』って感じ」

「その変な喋り方も君が特別だから?」

 沈痛な面持ちで灰川は首を横に振った。

「僕みたいにみんなから浮く程度の奴はいくらでもいるさ。変な喋り方の奴とか、ちょっとだけ賢い奴とか……。そんなのは全然特別じゃない。特別になろうと向かった先で収束する程度の個性になんて何の価値もないよ。もっともっと、誰かや何かの特別にならないとつまらないじゃないか」

「つまらないのは、駄目?」

「駄目じゃない。ただ、僕は好きになれない。それだけさ」

「君の言ってること、何となくわかる気がするよ。気がするだけだろうけど。僕もみんなと何だかテンポが合わない。でも、僕みたいな奴はきっとたくさんいるだろうし、みんなに上手く愛されないだけで何が出来るわけでもないよ。それでも楽しいんだ。いや、そう思いたいだけなのかも。自分のことをつまらないと思って生きるのはつまらないから」

「僕の愛情を疑うってワケか?」

「違う、ただわからないんだ。君は可愛くて賢くて面白いから僕が好きになるのは当たり前だけど、僕は可愛くもなくて賢くもなくて面白くもないから、君に好かれる理由が見つからないんだ」

「不思議でも何でもない。君はただ不安なだけだ。それは自分に自信がないからで、何らかの証拠を欲しがってるだけだ。本当は人が人を好きになるのにきっかりした証拠なんてないケースの方が多くて、月がゆっくりと満ちていくようなものなんだ。それに証拠を挙げようと思えばいくらでも挙げられるけど、君にはどうせ共感の得られないものばかりだろう。

 いいかい、僕は君の垢抜けないところが好きだ。いつもどこかしらに劣等感を抱えていて、でも、だからこそ人に優しくあろうとすべきだと考えるところが好きだ。あまり赤い色の服を着たがらないところが好きだ。爪を伸ばすのが嫌いなところが好きだ。電話が苦手なところが好きだ。美味しいものを食べた時の表情が好きだ。まだまだもっともっと君のいいところはたくさんある。君は自分で気付こうとしていないだけだ。

 そう、君はつまらなくなんてない! 君は、特別だ。他のみんなが君をつまらないと思っても、僕だけは君を特別に思い続ける」

「ありがとう。僕はそれで充分に過ぎる。でも、君は僕の特別だけじゃ足りないと思う。君はもっともっと、何もかもを燃やし尽くしてぶっ飛ばすようじゃないと満足出来ないだろうから」

 僕の言ったことが自分の中でも本当のことだったのか、灰川は黙り込んだ。

 しばらくしてぽつりと、

「この喋り方は特別がどうとか関係ない。ただ言葉を覚えてからは、こうするのが一番しっくりくると思っただけだ。僕は僕のことを、『僕』って呼びたかったんだ」

 そういう彼女は少し恥ずかしそうにしていた。

「好きだな、その喋り方」

 それを聞くと、隣に座っていた灰川はそっぽを向いた。僕から見えるのは耳と首筋だけで、そこは夕焼けがかかったようになっている。代わりに灰川の指が、僕の指に触れるのを感じた。

 熱く、柔らかい六本目の薬指が絡んだ。

 それからしばらくの間、僕たち二人は特別だった。他の何ものにも侵されることなく、宙に浮いたままだった。


 二秒。

 ──ガチャリ、と僕の頭の中で鍵がかかる音がした。


   *


「あれが助野透、例の女子グループのリーダーだ。……おい、聞いてるのか由良君?」

 茶碗蒸しをすくいながら灰川は言った。

 それで僕は現実に引き戻される。

 学校から歩いて十分辺りの中華料理屋、七天飯店で僕たちは情報をまとめがてら食事をしている。

 店構えや調度品がいかにも怪しげだし、他の客も見当たらないしで敬遠しかけたが、料理は美味しいので気にしないことにした。

 そう、たとえ店主や店員が語尾に「アル」をつけていようと、厨房の奥の方から聞いたこともない生き物の鳴き声がしようと、僕は気にしない。気にしないんだってば。

「……ん、ああ、ごめん」

「君はボーっとしすぎだ。いいか、ちゃんと聞けよ。あのグループで唯一恋人がいないのは彼女だ。助野は軽度の性同一性障害、つまり肉体は女であるにもかかわらず性自認が男というわけだ。で、周りの四人も実は同性愛者。ハーレムだな。彼女らが恋人に身体を許さなかったのは、恋愛という行為がただのカモフラージュだったからだ」

 助野が性同一性障害、というのに引っ掛かりを感じたがそのまま聞き流す。

 確かに僕を殴るときの反応、あれは男性嫌悪の気持ちからくるのかもしれない。元々女性しか好きになれなくて同性愛者になったのではなく、男性が嫌いだから女性を好きになるようになったのか。ふーん、まあそういう人もいるのかもね。

「まあ、性同一性障害というのはほとんど当てずっぽうだったが、トイレで僕と眼が合った時に確信出来た。あれは僕に獣欲を抱いた男がよくする眼だ」

 自分が性欲の対象となっているというのに、灰川はあくまで冷笑的な態度を崩さない。

「さっきのさ、カエルの肉なんて初めて食べたなあ」

 憶測を口にする代わりに、僕は回鍋肉とご飯をかきこみながら適当な返事をした。辛みと味噌の風味が食欲をいたく刺激する。

「いい子にしていればもっと珍しいお肉を食べさせてあげるさ。それよりも僕の話を聞いていたのか? 君の意見がほしいんだがね」

「うん、僕をボコッたのが助野ってボス猿なんだろ」

 トゲのある言い方になってしまうけれど、自分を殴った相手にまで紳士的にしてはいられない。とは言え、本人の前でそう出来ない辺り、かえって惨めかも。

「それだけじゃない。あのグループは助野を頂点として、他の四人がそれを崇め奉る一種のカルトだ。小規模ではあるが、ね」

「カルト?」

 女子高生グループがどうしてカルトに結びつくのかわからなくて、思わず芸のない返事をしてしまうが、灰川は気にした様子もない。あんがかかっていない、中国式のかに玉を端から攻略しながら応える。

「何かを必要以上に信じ込むことがカルトでなくて何だと言うんだ? あのグループは助野が言うことだったら何だってするだろう、そういう風になってしまっている」

「あー、『教祖様は絶対』ってやつ?」

 助野の喋り方を思い出す。周囲からチヤホヤされることに慣れきった、傲慢な甘ったれの風情。確かにそうかもしれない。

 そして、馬鹿を煽動するのには明確な敵を作り出すことが重要だ。それが彼女らにとっての『男性』なのだろう。短い接触だったが、助野には物事に勝手な線引きをして、自分たちの側を持ち上げるために他方を貶めるような性質があることがわかった。教祖にはうってつけだ。

「そうだ。そして、彼女らは殉教しようとしている」

「おいおい、それって……」

「助野以外のグループの人間を僕は調べた。根っここそ違え、彼女らは全員支配されたがる性質を持っていた。犯人は実質的に助野透だ。ただ、一種の自殺だからその一点において罪に問うのは難しいかもしれない。気になるのは、助野がどうやって四人にそれをそそのかしたかで、」

「結論を出すのが早すぎるって! お前、証拠もないのに滅多な事を言うなよ。そもそも、わかってるのは失踪だけで、殺人である確証もない」

 そこで灰川は一旦、皮蛋の殻をむく手を止めた。本当に卵が好きらしい。

「そうだろうな。形のある証拠は何もない。だが、僕は探偵だ。間違うはずがない」

 誰をドロップキックしたと思ってんだ、と言おうとしたけれど、鉈を持って暴れていた男が無罪放免となるわけもないので黙っておいた。

「何でよ」

「君は探偵を何だと思う?」

「何って、浮気調査とかペット探しでなければ、まあ謎を推理して事件を解決する人だろうね」

「もっと根本的なものだ。探偵とは、言ってしまえば正解にアクセスする権限を持っている人間のことだ」

「……どういう意味だよ」

「推理小説では、メタ的な観点から言うと、すべてを管理しているのは作者だな? 探偵はそのシステム自体に介入出来る。他の人間が謎に翻弄されている間、探偵だけは作者から謎を解体する権利と道具を与えられているのだ」

「現実の話をしろって」

「してるさ」

「つまりお前は自分が神に愛されてるって言うのか? それこそカルトじゃないか」

「違うね。僕が神だ」

 二人の間に気まずい沈黙が横たわった。もっとも、気まずいと感じていたのは僕だけだったのか、灰川は超然としているし、店員も追加の料理をどんどん持ってきて、食事が再開された。

「えっと、じゃあとにかくお前は助野透が犯人だとわかっているんだな?」

「時々勘違いされるが、僕は本当の意味で推理したことは生まれてこの方、一度もないんだ。ただ、ポンと正解だけが頭の中に浮かぶ。それをそのまま人に言っても、誰も信じてくれやしないだろう? だから、何故そこに思い至ったのかを証明しなければいけない。結果として推理したように見える、というわけさ」

 証明、という数学を用いた例えで、ようやく少し納得することが出来た。あえて理屈をつけるなら、自分でも追いつけないほどのスピードで答えを出してしまう、超直観の持ち主とでも言うのだろうか。

 でも、本当に本当のところは、彼女は超能力のようなものでこの世から正解を思うがままにえぐり出すことが出来るのかもしれない。ぞっとしない話だ。そしてそれこそ悪魔の証明で、容易に答えの出せない謎なのだと思う。

「面白いだろう?」

 灰川に言われて、ふと気づいた。油まみれの僕の口元は確かに笑っていた。

「で、助野透が犯人なのはわかってるから、次は証拠を固めようってことに、なるのかな」

 僕は油淋鶏を頬張ってニヤケ面を誤魔化そうとした。灰川の引力にあまりにも引き寄せられすぎた気がしたからだ。カリッと揚げられた鶏肉に絡む甘酸っぱさが口の中に広がったが、それ以上の愉悦が僕の喉を痙攣させていた。

「探偵助手としての自覚が出てきたじゃないか」

 バチバチ激しい音を立てる中華餡のかかったおこげを、これまた激しい音を食べながら頬張る灰川。その表情はあくまで楽しそうだ。

「よく食べるなあ」

「君だって、随分な健啖家だよ。……そうだ、君に良いものをやろう」

 そう言うと、灰川は自分のサラダに添えられていたプチトマトを僕の皿に寄越した。

「食べられないの?」

「生のトマトは嫌いだ」

 僕だって本当は好きじゃない。けれど、出されたものを残すというのも決まりが悪い。あまり噛まないようにして、僕はトマトを食べた。

「勘違いしないでほしいんだがね、僕はトマト以外は何でも食べられるんだからな」

「ふーん。偉いんだね」

 灰川は何故かムキになっているようだった。

 普段は白い顔が、それこそトマトのように赤くなっている。

「君は、好き嫌いが多い人間は嫌いだろう?」

「何でそういう話になる?」

 確かに、好き嫌いが多いよりは少ない方が良いとは思う。でも、それが何だって言うんだ? 僕だって好き嫌いは少ない方じゃない。

「前に言ってた気がしてね」

「覚えてないな」

「……そう、か。覚えてないか。じゃあ、僕の勘違いだったのかもな」

 言った通り、灰川は卵料理を中心に、トマト以外は何でも食べた。僕もかなり食べたが、それでも灰川ほどではなくって、特に後半は彼女の食事を見ているだけで、満腹の胃にさらに食べ物を詰め込まれているようだった。

 あまりに食べっぷりに、店員が厨房から顔を出してこちらをうかがっている。味も量も申し分なかったので、灰川が満足したのを見計らってからそちらに向けて挨拶をした。

「ごちそうさま」

「うん、美味しかったね。あと、これを店を出る前に軽く読んでおいてくれないか」

 そう言って渡されたのは女子グループの個人的な資料だった。極々プライベートな情報までがファイリングされていて、見ていて悪い気がしてくるような内容だった。おいおい。

「探偵だからね。身辺調査はお手の物さ」

 咎めるような僕の視線を、灰川はむしろ傲然と受け止めた。

「速読くらい出来るだろう? 早めに店を出ようじゃないか」

 ちぇ、おまけにこっちをよく見てやがる。最初に話しかけたときに、僕が本を読むスピードを計っていたのだろう。

 つくづく性格の悪い奴だ。やはりとても心を許すわけにはいかない。注意を払うよう、気を引き締める。

「ここからは君にも働いてもらうからな。前払いだ、ここは奢るよ」

「やった、灰川大好き!」

 こんなので買収されると思うなよ。

「心の声と逆になってるぜ」

 ……今のはノーカンで。


   *

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