第2話 解錠師
*
僕はいつでも夢を見る。寝ている時も、起きている時も。
たまたま今回は寝ている時のほうの夢だった。
夢の中の僕は女を追跡している。
連続失踪事件、いや、連続誘拐殺人事件の犯人だ。犯人が力ではなく重さで対象を切断せしめる鉈を使ったのは、力がそれほどない女性だからだ。
僕は彼女と精神が混じり合うほどに感情移入出来る。だから彼女の動機がわかる。何故人体を切断しなければいけないかも……いや、やめよう。僕は探偵ではないのだ、動機に言及しても意味がない。
姿は消せても、魂のにおいは消せない。彼女はまだ悪魔になって日が浅いのだ。だからそんな当たり前のことにも気がつかない。同族に追われることなど考えたこともないのか。
しかし、僕は容赦などしてやらない。猟犬の執拗さで彼女を追跡する。
しばらくして彼女が自分の家と思しき建物の前に立った頃、ようやく僕に気がついた。
周りは住宅街だが、灯りは一つもない。誰もがみな寝静まっている。
僕はこれ見よがしに黒犬から灰白色の羽毛を持つフクロウに変化(へんげ)した。これで夜を隅々まで見通すことが出来る。
ついでに「ホホーウ」と鳴いてみせた。声は冷え切った闇の中でやけに大袈裟に響いた。
誰も見ていない。もちろん、彼女は第三者がいたところで見ることは出来ないが。
僕の誘いに合わせて虚空から鉈が風を切る音が聞こえる。僕は塀から飛び立ってかわす。
存外に素直なのだな、そんなことを思った。
苛立ったような女の声。
「邪魔をしないで。お前が誰だか知らないけれど、私たちが完全になる妨げになるなら、殺す」
「喋っちゃったら透明になってる意味がないと思うけど」
嘲弄に向けて舌打ちと共に爆撃の術式が飛んできた。まさかそんな目立つことをする馬鹿だとは思わなかったから、咄嗟に反応が出来ない。
イタチに変化するのが一瞬遅れて、尻尾を焼かれてしまった。折角の綺麗な毛並みが台無しだ。
瓦礫になった塀から背中に青いラインの入ったトカゲになって抜け出す。黒焼きになった尻尾は泣く泣く切り離して逃げた。
彼女の力がまだ弱いせいか爆撃の威力はさほどでもなく、家の中の住民がマッシュされるのはどうやら回避出来たようだった。
他人事だからこそ、素直に「よかったね」と思う。
*
僕は眠りが浅い。夢うつつのラインを行ったり来たり。
そのせいでくたびれることも多いけれど、代わりに朝には強い。深い場所から水面を目指すよりも、浅い所から息継ぎをする方が楽だ。
意識が一気に覚醒する──。
眼を開けずに、寝ている間に世界が終わっていないか確認する。
ほのかな石鹸のにおいは僕の部屋に馴染んでいた。ずっと前からそこにあったような。スムーズな体重移動、うつ伏せでなければ聞き取れないようなわずかに畳が軋む音。その眼で見なければ、勝手に部屋に入ってきた黒豹が僕を狙っていると言われても信じられただろう。
ほとんど諦めの境地で眼を見開くと、息がかかりそうな距離にまた灰川がいた。
「うわー何で僕の部屋におたくがいるんだー」
「君は演技が下手だな。そこは減点だぜ」
悪戯が好きなようだったからリアクションをしてやったのに、何て言い草だろう。ぷんすか。
灰川が僕に触れる前に、さっさと起き上がる。
ようやく部屋を見渡すと、物は少ないはずなのに的確に散らかった印象を与える男子全開の僕の空間。見慣れているはずなのに違和感を覚えるのは灰川による蹂躙の跡か。
自覚的かどうかはわからないが、彼女はどこにいてもその場の中心を自分にしてしまうようだった。竜巻かブラックホールのような態度。
「あー何でおたくがいるのかを聞きたいのは本当だよ」
「安心したまえ。男友達の部屋に来たらエロ本を探すのがセオリーだが、部屋中を引っ掻き回すような無粋はしていないよ」
「聞いてない聞いてない帰ってほしい」
「昨今では物理書籍ではなく画像データでの保存が当たり前だ。君のパソコンの型は三年前のもの、機械いじりに精通しているようには見えないから、中身もそのままだと見ていいだろう。この部屋にある本の出版年月と合わせて中学生時代の夢見がちな少年が好む傾向を推理すれば、おのずとパスワードは特定されるのさ」
「探偵らしさをそんなところで発揮するな!」
やいのやいのと言いながら灰川を部屋から追い出して制服に着替える。大学生になったら毎日私服で学校に通わなければならないのかと思うと、今から気が重い。この世のありとあらゆるファッション的な要素は僕にウィンク一つくれないのだ。
カリカリのベーコン、しっかり火を通した目玉焼き二つ(僕は世界のすべてを敵に回したとしても、半熟の卵を認めない)。オリーブオイルに醤油と酢と塩コショウを混ぜたシンプルなドレッシングのかかったブロッコリーに、パンではなくご飯、という微妙に徹し切れていない朝食をグルグルと食べる。
「いただきます」
ふと正面を見ると、灰川の視線とかち合った。
彼女は本当にどうして僕の家に来たのだろうか。容疑は一応晴れたし(本当に一応)、今まで灰川と何も接点がなかったからここまで一気に距離を詰められる理由がわからない。
物欲しげと言うよりは、ファミレスでご飯を食べる息子を見守る親のような表情の灰川。
理由を聞いても、きっと真面目に答えてはくれないだろう。さっきと同じようにはぐらかされるのがオチだ。
仕方なく別の質問を投げかける。
「おたくも食べる?」
「いや、結構。もう食べた」
そりゃ普通に家で食べてくるよなまあ別にただの社交辞令だけど、なんて思っていると台所から母が「良い食べっぷりだった」なんて答えるもんだから、僕はお茶を吹きそうになる。
熟練した専業主婦に共通する、途方もないタフネスがにじんだ母の背中。その圧迫感に詳しく問い詰めることを躊躇わせられたので、代わりに灰川をジトッと睨む。
「どうもごちそう様です。いやあ、由良君のお母さんは料理がお上手でいらっしゃる」
いつの間にか随分と外堀を埋められているようで、何だかわからないうちに僕は追いつめられた鼠じみた気持ちになった。
学校への道すがら、確認の意味も込めて昨日と同じように、僕が連続失踪事件の犯人だったらするであろう行為を灰川に話した。真犯人と思しき透明人間がいたことは意図的に隠して。
そこがメインかもしれないが、あんまり超常現象を見たなんて話をしたくもない。確かに世の中にはそういう不思議が入り込む余地はいくらでもあるのかもしれないけれど、それらを前提条件のように扱うのは往々にしてラリッてる奴らだ。僕は自分をそんな奴らと同じように見てほしくない。
……ちょっと待って、妙な眼で見られるのが嫌だって? 僕が? 誰に、灰川に?
灰川が話し始めてまだそんなに経たない僕を、十年来の友達のように扱うから、頭では変だと思っていても知らず知らずの内にそれに合わせようとしてしまったみたいだ。
自分と家族くらいしか意識に容れず、誰のことでもどうでもいいようなつまらなく卑しい人間だと、自分自身に対して思っていただけに、正直かなりビックリしてる。
「ふうん、それで錯乱した君は持っていた鉈を振り回して暴れてしまった、そこに僕が来たと」
「そういうこと」
灰川が僕の稚拙な嘘を見破ったのがわかったし、灰川は灰川で僕が嘘を見破られたことを自覚したのを悟った。
恐らく今彼女は僕がこんなつまらない嘘をついた理由を考えているだろう。もしかしたら、もう何らかの答えを出したのかもしれない。それでも、これ以上何も追求しない灰川の態度を、(馬鹿げたことだけれど)紳士的だと思ってしまった。
僕は自分を戒めつつも、灰川の不思議な引力に侵されつつあることを認めなければいけなかった。
途中、グシャグシャになった家屋を見た。ガス爆発があったらしい。
僕は「ふーん」としか思わなかったけれど、灰川は違ったらしい。いやに剣呑な眼をしていたから、それが僕に向かわないよう祈った。
「君はもっと本を読むと良い。今も少しは読んでいるみたいだが、もっともっとだ。何せ探偵や探偵助手というのは、いらん知識を山ほど持っていなければならないのだからね。それに、完璧を期すなら小説家になるべきだ。君も探偵助手の端くれならば、僕の偉業を称えることで口を糊することを許そうじゃないか。いやいや、よしたまえよこんなところで五体投地して感謝を示す必要はないさただどうしてもと言うのなら二人っきりの時に僕の足の指の股を舐める権利をあげよう嬉しいだろうそれでは探偵助手のマナーを学ぶためにいくつか読んでほしい本があるがしかし何から行くべきかなこれは好みになるのだけれど僕は海外産の荒事専門のハードボイルド的な探偵はあまりスマートとは思えなくてねどちらかと言うなら日本産の気取りや衒いが芸術の域にまで達したキャラクターものとしての探偵の方がいっそ愉快だと思えるのさ」
「……うん」
それから休み時間の度に灰川は僕に話しかけ続けた。卵が好物で生のトマトが少しだけ苦手なことや、紅茶よりコーヒー党であること。今まで解決した事件のこと。おととい喧嘩していた相手は皇四時(すめらぎよんじ)(変な名前だ、と灰川は言ったけど、探偵は変な名前であるべきだとも言っていたから、単純にうらやましいんだと思う)と言い、探偵としてのライバルで、反りが合わないということ。
灰川は相当のお喋りだったが、僕もただ聞いているだけではなかった。家族のことや、今まで読んだ中で面白いと思った本のこと。コーヒーは苦くて飲めないことや、鼻が敏感すぎるきらいがあって、石鹸にはこだわっていること。それを買うために百均の前を通ったんだということを今更思い出したってことまで、ちょっとだらしないほどに喋ってしまった。
彼女と話していると何度も不思議な気分になる。
知らない自分を見出すような、ずっとこうしていたような、何かを思い出すような……はたまた、その全部か。
昼休みにもなると、僕のことを無愛想と見ていたクラスメイトたちが奇異の視線を向けてくるようになっていた。
ただ話しているだけなら、自分から話しかけることがないとしても、受け身としては特に問題のない僕のことだ。気を引くことはなかっただろうけど、あいにくと話し相手が灰川だったせいで目立たずにはいられなかったらしい。
クラス中から好奇心と嫉妬心のベタつく視線も無数に絡んできたから、どうも灰川は男女問わずメチャにモテるらしい。
周囲からの関心をほぐしてみると、やはり好意的なものが多い。
男装の麗人として高い評価を受けているようで、灰川の装いや口調、ちょっとした振る舞いがそれらの視線を弾いて震わせるのを感じた。
僕に取り調べをした時の『目立つ性質』というのは、逆に控えめな言い分だったのかもしれない。
灰川にはやはり魔性とも言うべき引力があるようだった。悪目立ちではなく、ただその場の中心をかっさらわずにはいられないのだ。そして関わった者の感覚を狂わせずにはいられない、規格外の磁石のような特性を持っていた。
実際、自閉的で空想癖のある僕がわざわざ周囲の眼を気にするようになったことは、常の感覚からの遊離を意識させずにはいられなかった。
そうすると、彼女が今まで解決した事件にも説明がつく。
事件に灰川が出くわしているのではない。灰川を中心に事件が起きるのだ。灰川によって感覚が狂わされた人間は謎めいた事件を残す。さもなければ器用にトリックが駆使された殺人事件などそうそう起きるものではないのだ。
それこそが探偵に必要なものなのかもしれなかった。もしくは、才能と好きな物事の関係、その理想的な結果の一つ。
うらやましいことだと言う僕の顔を見て、灰川はニヤニヤと笑った。
「僕に言わせれば、君にだって探偵の血は流れているように見えるがね。それも相当に濃いものが。何せ、君からは僕と同じにおいがする」
「おたくの言ってた感情移入の能力か?」
「そうだ。優れた自己投影能力。君はその気になれば、人の心を容易に解体することが出来る。楽しいぞ。僕と一緒に遊んでみたいと思わないかね?」
「簡単に言うよねえ……」
ため息を一つ。
僕が普段から人を読まないのは、そこにいやらしさを見出すからじゃない。そのいやらしさが自分の中にもあることを思い知らされるからだ。
精神の醜さはどんな人にでも、ありとあらゆる角度で宿りえるとは頭でわかっている。でも、それが自分の中にあるとは、やはり思いたくないものなのだ。馬鹿馬鹿しいとわかっていてもそれを馬鹿馬鹿しいと思っている自分が最も惨めで馬鹿馬鹿しくって……とメタな主観のドツボにはまってしまう。
そしてもう一つは、どんなに悪いことを考えていようと、それを実行に移すまでは絶対に無罪であるという、当然の権利を侵してしまうからだ。
僕は動機と犯行を区別しない。なんて傲慢なことなんだろう! そんなことをする馬鹿な奴を、例え自分だろうとのさばらせておく気にはなれない、そういうことだった。
つまるところ、僕という人間はどうしようもないほどの小心者だった。
今も鋭敏になった僕の感覚の触手は、周囲に節操なく絡み付いていた。
においを嗅ぐ──嗅覚は記憶と密接な関係/そこにある事象を読み解く=感情移入。
斜め前の席のグループ、「自分でお弁当作ってくるとか、えらーい」と言われている女子。褒められた一瞬、頬の筋肉に苛立ちが表出しかけた。彼女は好きでお弁当を作っているわけではなく、家族が作ってくれないから自分で作るしかないのだ。それに兄か姉がいる。兄(もしくは姉)はお弁当を作ってくれないばかりか、彼の分までつくるように押し付けてくる。不満。大したものを作る余裕がなくて入れた冷凍食品のグラタンの不味さも伴って鬱屈が破裂しかけたのだ。僕にはそれがわかる。
黒板の前の床に直接座っている男子二人。彼らは互いに互いを見下しあっている。
眼鏡をかけている方はさっきの小テストで自分の方が点が良かったことで優越感を覚えている。クラス全体からしてみれば中の上程度であり、それほど優れているわけでもないし、何より特別偉いことでもない。そのことに自分自身でも薄々気がついていて、生まれた劣等感を誤魔化すために更に相手を見下そうとしている。だから相手が投げてくる会話に否定的な回答を被せて封殺しようとしている。
相手の男はいかにもなサッカー部だ。首元にかけたバンド(運動するときに髪を留めたりするやつ。正確な名前は知らないけれど、そんなんするくらいだったら髪を切れと思うから知りたくもない)からわかる。彼は最近カノジョがセックスをさせてくれないことに戸惑い、苛立っている。放課後、三号館のトイレから聞こえてた声がなくなったことから周知の事実だが、彼自身は上手くやってきたと思っている。同時に眼鏡の男子が童貞なのも知っていて、そこにおいて自分の優位性を確信していた。だからこそ領分を侵されたと思っているし、ここぞとばかりにナメた口をきく眼鏡が気に食わない。
ここまでお互いを嫌い抜いていながら、結局最後の一線は越えない。元いたグループから疎ましがられて自然とはぐれてしまった二人は、次に行く場所を知らないのだ。
僕にはそれらがわかる。
ウンザリだった。僕が面倒を見切れるのはやはり、自分一人分だけの卑しさだけなのだった。勝手に他人のそれを背負い込むのは馬鹿馬鹿しいことだ。
目の前に座る灰川が、次に言おうとしていることがわかる。
灰川は僕の感覚を外に向けさせたのを自分だと彼女自身理解している、というのがわかった。罪悪感のにおいはせず、代わりに責任感がわずかに発散された。人気のない所へ行こうと提案するつもりだ。
僕はそれが嬉しいし、乗るつもりだった。
「顔色が悪いようですね」
不意に横からかけられる声。
僕はそれを感覚すると同時に失神した。
*
このところ、僕は失神しすぎだ。
起きて最初に思ったことはそれだった。
使用感の少ない布団、消毒液のにおい。保健室のベッドに僕は寝ていたようだった。
閉められたカーテンの向こう側に人の気配はしない。保険医はいないようだった。代わりに人じゃないものの気配がする=うへえ、最悪。
「目が覚めたようですね」
皇四時の声。
僕は逃げ出したくてたまらない気持ちを必死で抑えた。何せこいつは人間じゃない。何をされるかわからない。
カーテンに遮られてはいるが、皇のゆるくうねって茶色がかった髪や、モデルのように脚が長くメリハリの利いた身体という外見が、甘ったるい糖衣のように薄っぺらであることがわかった。
奥にある彼女の本質は、何て言うか、僕が見た限りでは、その、ちょっとばかり触手が多すぎるんだ。
「妙な動きをしないのは賢明ですわ。世界を少しだけずらしていますから、今は私とあなたの二人きり。もちろんこのお話が終われば、あなたの枕元で真澄さんが待ってる基底現実に戻してあげます」
何だかよくわからないが、僕の今までの人生のルールでは理解出来ない事態が進行しているようだった。
「常識なんてものは結局個人の経験則でしかなく、容易くいくらでも覆るものですわ」
「そんなことは聞いてない」
「あら、聞きたそうにしているように見えたのですけれど……勘違いでしたかしら?」
「そっちからは見えないだろう」
「あら、こんなものに意味があるとお思いになって?」
僕の頬をぬるりとした細長いものが撫でた。透明で見えないけれど、この先に皇が繋がっているのは間違いない。
取り得る反応は……諦めと受容。麻雀のルールを漠然と教えられて「まあ、やってみればわかるよ」とゲームが始まってしまったような気分で話を聞く。
「あなた、映画はお好きかしら?」
「アクションとかコメディに限るかな」
「ホラーは?」
「苦手」
「あら、残念ですわね。ホラーの中でもゾンビ物って一大ジャンルがありましてね、私たちはそれに似ていると愚考しますのよ」
「話が読めないよ」
読めないけれど、自分が一種の「詰み」のパターンに入りかけているのがわかった。
僕の大切にしてきたもの。僕の生きる世界観が揺らぎそうになる。
「そうね、例えば『ケンタウルス』と言えば老若男女問わず、上半身が人間で下半身が馬の生き物でしょう。それはミノタウルスだとか人魚だとかドライアドでも、事情は似たり寄ったりなわけですが、悪魔はちょっとばかり違いますの。
まず魂の形が個体によって全然違います。魂そのものの化身である種族なので当然、形が変われば特性や能力もメチャクチャに派生していきます。もちろん、似たような魂や欲望を持っている方はある程度似てきますが、新種の発生が早すぎて分類のほうが追いつきませんわ。生まれつきの悪魔と人間上がりの悪魔に分けることだって出来ますが、人間のころから悪魔らしい方がいたりしますから、当てになりませんわね。しいて言うなら個人主義の傾向がありますが、人間関係における強迫観念から悪魔と契約する方もそれこそ星の数」
僕は僕だけの妄想に世界に逃げ込んで何もかもを忘れようとしたが、絶妙なタイミングで触手が首を絞めてきた。クソ、嫌な奴。
「ちょ、ちょっと待って。本当に何の話だよ」
「愛情は嫌悪なんかよりもずっと危険な動機になりうる、という話ですわ。そういう方は決まって、自分の所属するグループや特定の相手に固執しますわね。
ならば、一人一種の変異種族なのかと言いますと、そうでもありません。私たちは互いが互いにどこか深い部分で通じているものがありますの。腹立たしいことに。
あなたのように完全に自閉しきっていたり、よほどのお間抜けさんでない限り、まず面と向かって同族を見間違えることはまずありませんわ」
「……」
「あら、気を悪くしたらごめんなさい」
「いや、いいよ。おたくが話したいように話すといいさ。僕は諦めた」
嫌だ! もう聞きたくない!
「なら、失礼して。ここで話が最初に戻りますけど、ゾンビ映画をご想像していただけるかしら? ブードゥーの秘術や化学兵器のアウトブレイクなどで、街はゾンビで埋め尽くされていますわ。買い物帰りを襲われたのであろう妊婦のゾンビ、車にこもってやり過ごそうと思った思慮の浅い男のゾンビ、生前は煙草の一本も吸ったことのなさそうな気弱そうなサラリーマンのゾンビ、学校ではみなの会話の中心にいて殿方にも人気だったであろうイケイケの女子高生のゾンビ……。ああ、素敵……」
「おたくがゾンビ好きなのはわかったよ。で?」
「はっ!? 失礼いたしました。それで、とにかく腕が千切れているだとか脳みそが露出しているだとかの差異はあっても、みんな等しくゾンビですわね? そう、彼らはゾンビという点ではまったくに平等ですの。悪魔とはそういうものなんだと私は思っていますわ」
「何らかの結論が出たみたいだけど、それが僕に何の関係があるのか、さっぱりわからない」
「いいえ。あなたは本当はわかってる。わかりたくないだけ。彼女と闘ったことや、大切なことを全部夢だと思い込むことで、責任逃れをしているだけ。魔法や悪魔なんて非現実的だって言って、認識を狭めているに過ぎませんわ。そんなことでは私が困りますの。実際問題、あなたが事件を解決することは私にとって損ですわ。しかし、それ以上にあなたにはちゃんとしてもらう必要がありましてよ。でなければ、私がしたことが全部無駄に……」
「……」
「とは言え、まだ思い出す気がないなら忘れさせてあげるのも情けかしら」
「何を──」
──ガチャリ、と僕の頭の中で鍵がかかる音がした。
このところ、僕は失神しすぎだ。
起きて最初に思ったことはそれだった。
使用感の少ない布団、消毒液のにおい。保健室のベッドに僕は寝ていたようだった。
閉められたカーテンの向こう側に人の気配はしない。保険医はいないようだった。代わりに人じゃないものの気配がする=うへえ、最悪。
「目が覚めたようですね」
皇四時の声。
僕は逃げ出したくてたまらない気持ちを必死で抑えた。何せこいつは人間じゃない。何をされるかわからない。
カーテンに遮られてはいるが、皇のゆるくうねって茶色がかった髪や、モデルのように脚が長くメリハリの利いた身体、というものが甘ったるい糖衣のように薄っぺらであることがわかった。
奥にある彼女の本質は、何て言うか、僕が見た限りでは、その、ちょっとばかり触手が多すぎるんだ。
「妙な動きをしないのは賢明ですわ。世界を少しだけずらしていますから、今は私とあなたの二人きり。もちろんこのお話が終われば、あなたの枕元で真澄さんが待ってる基底現実に戻してあげます」
何だかよくわからないが、僕の今までの人生のルールでは理解出来ない事態が進行しているようだった。
取り得る反応は……諦めと受容。麻雀のルールを漠然と教えられて「まあ、やってみればわかるよ」とゲームが始まってしまったような気分で話を聞く。
「あなたの疑問を解消して差し上げようと思いまして。ただ、その前に……」
カーテンの向こう側で、皇の気配が揺らいだ。嫌なにおいが消えて、皇が哀れな子供と入れ替わったのかと思うような変化だった。
「──本当に、私のこと覚えてないの?」
「は?」
「ななななななな何でもありませんわ! 忘れなさいっ!」
──ガチャリ、と僕の頭の中で鍵がかかる音がした。
このところ、僕は失神しすぎだ。
起きて最初に思ったことはそれだった。
使用感の少ない布団、消毒液のにおい。保健室のベッドに僕は寝ていたようだった。
嫌々ながらも閉められたカーテンに眼をやると、その向こうにはおぞましい気配。
「目が覚めたようですね」
皇四時の声。
逃げ出したくてたまらない気持ちはあったが、何をしても無駄だという確信もあった。僕は後者に従うことにした。
「妙な動きをしないのは賢明ですわ。世界を少しだけずらしていますから、今は私とあなたの二人きり。もちろんこのお話が終われば、あなたの枕元で真澄さんが待ってる基底現実に戻してあげます」
何だかよくわからないが、僕の今までの人生のルールでは理解出来ない事態が進行しているようだった。パニックが一周した平静さと、自棄の態度で話を聞く。
「月並みな話だけどさ、おたく何者だよ」
「悪魔、ですわ」
端的な返答。
「よくわからないけど、よくわからないなりに話が早くていいな。じゃあおたくは何をしたくてここにいるんだ」
「趣味と実益のためです」
「何故僕なんかに正体を見破られたんだ。隠すことも出来たんじゃないのか」
「半分はあなたの才能ですわ」
「あとの半分は?」
「質問は三つまで。残りの質問は次回をお待ちになって」
「勝手に呼びつけてルールの後出しとは、随分だよね」
最後の僕の言葉を聞かずに、皇はもういなくなっていた。カーテンの向こう側はすっかり空虚だ。
……おや? 何か物足りない気がする。でも、思い出せない。
少し視界がブレたような感覚がしたかと思うと、代わりに枕元には灰川がいた。
これが世界をずらすということか。ラジオをチューニングするようなものなんだな、と事象をスケールダウンすることで無理やり自分の中で納得した。
我ながら適応の速さにビックリしていると、灰川が不機嫌そうに話しかけてきた。
「君は随分と感じやすいんだな」
微妙な言い回しに僕が戸惑っている間にも、灰川は続けた。
「僕は君の限界値を見誤っていた。君を良いように操作しようとしていた。僕のミスだ」
ヘの字口で言い捨てる灰川から、今度こそ罪悪感のにおいを感じ取ったので、それが彼女なりの謝罪だということがわかった。
「ちょっとした貧血だよ、ほら、朝ご飯を食べていなかったから」
少しばかり落ち込んだ灰川を励ますためにそう言ってから、灰川が朝ご飯を食べるところにバッチリ居合わせたことを思い出して、自分でも馬鹿だなあと思う。だけど、
「もっと上手に嘘をつきたまえ」
と言ってくつくつと笑う灰川を見ていると、「馬鹿でよかったなあ」とも思えて随分と気が楽になった。
*
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