悪魔のグルメ
伏見彦人
卵を美味しく食べる方法
第1話 卵を美味しく食べる方法 または 名探偵灰川真澄の挨拶
ある種の凄惨はどうしようもなく人を惹き付ける。
一面の血の海に立って、僕は考える。
足元には横たわった一人の女。
その膨大な血がこの小さな身体に詰まっていたなんて、にわかには信じがたい。小さく見えるのは、両腕がもがれているからだけど。
床には広く青いビニールシートが敷かれていて、一片一滴も彼女を逃さないという意思があった。
僕はそれを望まないことだと思っていて、いやらしく、陰惨で、救いがなく、悲しく、悪いことだとも思っている。
一刻も早く、この場を離れたい。血のにおいが骨にまで染みついてしまうような気がした。
けくっ、けくっ、と喉が痙攣する。
とっさに吐き気だと思って、僕は口元に手を当てた。この場所を胃液で汚してはならないと考えたからだ。しかし、実際には違った。
左手がなぞった唇は、大きく歪んでいて、それでようやく僕は自分が笑っていることに気付いた。
口元に当てられた手は、血に濡れている。高く吊り上がった口角から伝った鉄の味を、僕は深く感じる。
そうだ、これは僕がしたことなのだ。僕は罪業の徒で、暴力の信望者なのだ。そう望み、そうあれば良い。ははは。
僕の声に怯えたように、女が身をよじる。出血量から見てもそう長く生きられはしないだろうが、それでもその瞬間を一秒でも伸ばしたいのか。
右手に持った鉈を、握りなおし、振りかぶる。
肉色の芋虫に刃が到達するまでの間、僕は絶頂にも似た快感の中で笑い続けていた。
*
その時、僕は本を読んでいた。
何を読んでいたかはどうでもいい。「本棚を見れば相手の人となりがわかる」なんて言葉を真に受けたスチャラカが、他人の趣味をとやかく言いたがるパターンに僕はウンザリしていたから、シェークスピアでも地図帳でも何でも好きなように受け取ってくれると助かる。
大事なのは、それを読んで僕が夢の国に飛べるかどうかだ。
まず最初に声がかけられた。
「
僕は現実へと引き戻された。
冷たいプールにいきなり突き落とされたような気分。実際肌寒い。じゃあ今は冬だ。学校の机で本を読んでいる自分を認識する。僕は痩せっぽちでボーっとしがちな高校生だってことを思い出す。お弁当のにおいがするから今は昼休みだろう。
これで大体の現実との同期が出来たから、あんまりトンチンカンなことも言わずに済む、はずだ。
視線を本から少しズラすと、僕の机の上に置かれた手が見えた。
左手。
毛が生えていないすらっとした指だ。おかしなことにはそれはどう見ても6本ある。何度数えても6本。自分の中の『当たり前』が、軽くねじ曲げられる感覚。
「気になるかい?」
そう言うと、その人は左手を顔の前まで持ち上げてヒラヒラと振った。素直に目線で追って、それでやっと僕は相手の顔を見た。
「多指症なんだ。こんなに綺麗に揃ってるのは珍しいそうだがね」
その人はじっと僕を見返した。何も言うことが思いつかなくていたたまれなくなった頃に、相手はもう一度口を開いた。
「知らなかったのかい? 僕はこの学校に入学してからずっと君と同じクラスだった。何度か話したことだってある。それに自分で言うのもなんだが、僕は目立つ性質だから同じ学年でこの指のことを知らない人の方が少ないだろう」
「うん、ごめん」
「……それだけ?」
「爪の形が良い。爪を短く切ってるのが良い」
適当なことを言ってる間、僕はその人の名前を思い出そうと必死だった。
この年になってようやくわかってきたことだが、僕が目指す『清潔な無関心』を他人は『積極的な無愛想』と取るらしい。共感出来ないことではあるけれど、多くの場合、人は他人の粗探しをせずにはいられないし、周囲に自分を刻み付けていないことにはいられないのだ。
「……灰川だよ。
僕の困惑はたっぷりと表情に出ていたらしい。二本ある薬指が机を叩いてせっつくようなリズムを刻み、僕はばつが悪くなる。
「また一つ賢くなったよありがとう。で、何かわ、僕が忘れてる用事でもあったかな?」
「君はしょっちゅう色んなことを忘れているみたいだね。その調子で一昨日のことも忘れてないと良いんだが」
「一昨日? 何かあった?」
「まさか知らないって言うのか。連続失踪事件、これで三件目だ。いずれもこの学校の生徒だ」
「ふーん」
「ニュースや新聞を見ていたなら、少しは知っててもおかしくないんだがね」
本当はそういうのを面白く思えない程度に無教養なので見てないのだけれど、斜に構えてるダサい奴だと言われたら嫌なので、
「忙しいんだ」
「そうかい」
冗談に失敗。ユーモアのセンスは来世に期待。
「それで、その日は君は何をしていた? 手がかりになるようなことを少しでも知っていてくれると助かる」
「わからない。忘れた」
「へえ、非協力的ってワケか」
咄嗟に思う。こいつは苦手なタイプだ。賢くて冷笑的。現実の伴わない夢見がちな人間を、小馬鹿にしてる。
「違う、本当に一々自分のやったことなんて覚えてないだけだって。一昨日ってことは月曜日だろ? だったら六限まで授業があるから、面倒くさくなって本屋には寄ってないはず、多分まっすぐ家に帰ってゴロゴロしてたと思う」
「その日は祝日で休みだぜ」
「そうなの? じゃあ昼は本屋にいたと思う。あとはレンタルビデオ屋か」
いかにもな冴えない奴であることを自分から暴露しなきゃいけない気分がわかるか、おたくは?
「失踪した女の子をその日百均のある通りで見たという話があった。そこに君がいたとも聞いた。君の家からはずいぶん離れた場所だ」
「じゃあ、いたんじゃないかな」
「君は気を付けて喋るってことを覚えた方が良いと思うよ」
一言ごとに灰川の視線が冷気を帯びていくのを感じる。でも、本当に覚えていないんだから仕方ないじゃないか。
段々早くなる灰川の指が刻むリズム。いつの間にか僕もそれに合わせるようにして中指と薬指で机を軽く叩いていた。
「その、上手く説明できる気がしないんだけどさ、例えば苦手な分野の教科書をテスト前にとりあえず開くけど、全然頭に入ってこないってことあるだろ? それと同じで、僕は寝てるとき以外は、全部そんな感じなんだよ。僕にとってはどうでもいいことばっかりなんだ。だから一々覚えられない。 こういうこと言うと怒られるかもしれないけど、クラスメイトの顔とか名前も『見てる』けど『読んで』ない」
わかってもらえるとは思ってない。いつだって必要なものは理解だけれど、いつだって不足してるのも理解だ。でも、とりあえずの弁明が次点で必要になるときもある。
案の定、灰川は同意を示さずにただじっと、真っ直ぐに切りそろえられた前髪の下から僕を睨むだけだった。
「わかりにくいかな? でも僕はおたくに向かって話してる。おたくは賢そうだから、きっとわかってくれるだろう」
「それは嘘だ。君は誰にも理解されたいなんて思ってない。自分の領土を守ることにばかり汲々としている、つまらない男だ」
やっぱり苦手だ、こいつ。
灰川は本当のことも言える嘘つきだ。何てことのない言葉の中に、刃物をチラつかせることに慣れている。
「そう思うなら、もう話すこともないんじゃないかな」
意識してつっけんどんに振る舞うけれど、向こうが最初からこちらの意思を尊重する気がないのはわかりきっているので、効果は薄い。他人の心を踏みにじることに慣れた重戦車の態度。
「ちょっとよろしいかしら?」
またしても横から声がかかった。
声をかけてきた女はゆるくうねった髪を肩まで垂らしていた。
「
遅れて来た方は灰川の方を見ようとしていなかったが、その言葉は明らかに僕よりも灰川の方を向いていた。
「
「あら、いらっしゃったの。小さくてわかりませんでしたわ」
鈍い僕でもわかるほどに二人は仲が悪いようだった。心底どうでもいい争いを見せつけられるこちらとしては、ウンザリの二乗って感じ。頭の斜め後ろから自分を見下すもう一人の僕が、白けた顔をするのがわかった。
僕の知らない所でも人は色んな営みを続けていて、その結果として複雑な関係性が出来上がるわけだけれど、いかんせん僕自身に興味がないせいで、それらが常に新鮮な驚きと戸惑いをもたらす。
ここにはあらすじも登場人物の説明もなくって、僕の知らないところでもみんなちゃんと生きていてそれぞれが互いに関係性を持っていてその人なりの人生観や気持ちを持っていて……って考えると何だか頭がおかしくなりそうになる。
ただ当たり前のことなのに、それが僕には荷が重い。僕は馬鹿なんだ。そうに決まってる。だから僕のよく知らない人がよくわからない理由でよくわからないことを話していても困るだけなのだ。巻頭に家系図と屋敷の見取り図があるタイプじゃないと、読みにくくって仕方がない。
僕の人生の至る所にこびりついた諦観が、今になって追いついてくるのを感じた。そこら辺からはほとんど聞き流して、さっきまで読んでいた小説を、頭の中でぼんやりと思い返す。面白かったような気がするし、つまらなかったような気もする。本当はどうでも良いのかも。
何にしても、今の僕の人生に読書より優先すべき程の事が見当たらない。
皇と呼ばれた女がいくつか質問をしてくるけれど、これも灰川のした質問とまるで変わり映えがしないので上の空で相手をする。
「……あなたは本当に、興味のないものを欠片も意識に入れないのですわね」
うんうん、ふーん、そう。
その内に飽きたのか諦めたのか、二人はどこかに行ってしまった。
頭の中で充分楽しんだので今度は本の中に入ろうとすると、また別のクラスメイトに話しかけられた。「何かしたの?」「灰川さんと皇さんに話を聞かれるなんて」ふーん。有名人なんだ。知らないけど。
また別のクラスメイト。焼き肉パーティ? 誘ってくれるのは嬉しいけど、うん、大体見てたらわかってくれると思うんだけど、僕って自分以外と話すのが上手くないし好きじゃないんだ。ごめんね。
やたらと長い通学路。
ただ一人で歩くという単純作業が、僕をどうしようもない考えの螺旋に突き落としてくれる。そのことが良いか悪いかまでは、あえて考えなかった。
何が必要で、何が必要でないのか。いつだって僕はそれを考えなくちゃならない。
連続失踪事件──どうでもいい。そもそも僕が失踪してない(ここが肝心)。
灰川と皇はこれをただの家出やらではなく、誘拐やもっと悪ければ殺人のたぐいだと考えているようだ──あっそ。
あの人たちは僕を関係者もしくは犯人だと疑っている──警察ってのは世のボンクラが十人集まっても出来ないことをすぐにやってのける。本当に事件ならすぐに真犯人は見つかるだろう。それが仕事で、彼らはプロなんだから。僕がいくら忘れっぽいといっても殺人や誘拐なんかしたら忘れないだろうし、そもそも動機がないのだ。馬鹿げてる。
僕が何故女子高生が失踪した当日、普段行かないような場所にいたのか──これはちょっと考える必要があるな。
大雑把にまとめた考えを手荒に脳内にあるダンボールに放り込んでおく。
身体の方では家の玄関の前に立って鍵を探している最中だ。
いつもは鍵をズボンの右のコインポケットに入れているのだけれど、今日はない。落としたとは考えたくないので、ブレザーのポケットを一々ひっくり返してみる、が、ない。鞄をあさってみても、ない。十分ほど荷物をわやくちゃにしてようやく筆箱から鍵が見つかった。しかし実際には家の鍵はかかっておらず、玄関の方で不審な音がすると思って様子を見に来た母に冷たい視線を向けられるのみだった。
これは極端な例だけれど、忘れっぽい人間というのは往々にして過去の自分が何をどう思ってどうしたかということを推理する必要に駆られる。人間の精神の連続性のなさが露呈する瞬間だ。おわかりか?
……それとも僕が特別マヌケってだけか?
*
僕の夢はあまりにも真に迫っているせいで、カミソリのような寒気が頬をなでつけても、夢か現実か区別がつかない。
まどろむような感覚と共に、すっかり灰色の空の下、僕は人気のない通りを歩く女を追っている。
誰? 何故?
少なくとも僕は鉈を持っている。殺す気は満々だ。じゃあ僕は殺人鬼か。何であの女を殺そうとしてるんだろうな。僕にはわからないことばかりだ。
女は高校生だ。ブレザーの着崩し方がまだ様になっていない、おそらく一年生の中でも要領の悪い娘だ。ふーん。こんな子を殺すのか。僕はもう少し気持ちのピントを合わせようとしてみる。
手足は細い。そそられない。僕個人としてはもっとぽっちゃりした女の子の方が好みだけど、どうやらそういう意味じゃないらしい。それより、硬い布地の制服の下にある腹部や、白い咽喉のような柔らかい部分にばかり眼が行く。ふーん。
僕はこの娘を食べようとしている。スケベな意味じゃなくって、そのまま。人肉って美味しいのか? やっぱり僕にはわからない。
彼女は何かに気づき、それに吸い寄せられるようにしておあつらえ向きの薄暗い路地へと曲がった。当然のことながら人影はない。
僕は背負っていたナップザックから、スルスルと鉈を取り出す。
機能的な形状、確かな重さ。
実感を頭の中だけでロードするのが夢の夢たる所以で、結局これが現実なのかどうかわからない。
ただ、そうするべきだという衝動に従って、彼女の背後に忍び寄る。
「トール? トールなの?」
彼女は誰かを探しているようだ。それは僕だ。
……ん?
「違う、僕じゃない」
「え?」
そこで彼女はようやく背後で鉈を振りかぶった僕に気づいた。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
防犯ブザーみたいなウルトラスーパーソニックボイスが僕を打ちのめして、何だか僕の方がパニックになる。
「落ち着いて、ここには殺人鬼がいて危ないから、早く逃げ」
「あんたじゃん! 殺人鬼ってあんたじゃん! きゃああああああ!!!」
まったくもってその通り。状況はすべて僕を殺人鬼だと言ってるがこれには訳がある。と言っても聞いてくれることは期待出来ないけれど。
不意に怖気を感じて、彼女を路地の更に奥へ突き飛ばした。こっちに引っ張っても全力で抵抗されると思ったからだ。
その考えは図に当たったのか、彼女の頭が数瞬前にあった場所を鉈が切り裂く気配がした。姿なき殺人鬼とは、なんともはや。
何だかよくわからないが、僕の人生でその何だかについてわかっていることの方がレアケースだ。
とりあえず牽制として鉈をやみくもに振り回す。やたら重い刃に身体全体が振り回されてあんまりみっとも良いもんじゃない。それに彼女としては、いきなり自分を突き飛ばした殺人鬼(仮)が虚空に向かって刃物を振り回し始めた、ってことになるわけでもう何が何やら。
「とりゃあああああああっ!」
自分の人生全部に対して悲観的になりかけていたところ、ジェットコースターの急加速みたいな暴力が僕をぶっ飛ばした。あんまり予測の出来ない動きだったからか、僕から充分な距離を取っていたであろう見えない殺人鬼に少し触れることが出来た。
「はーっはっは! 僕が来たからには安心だよ、君ィ! この名探偵灰川……」
僕にドロップキックをかました人物の馬鹿丸出しの名乗りを右耳で、地面に密着した左耳で殺人鬼が逃げ出す足音を聞きながら、僕はゆっくりと意識を手放した──。
自分の意思以外で手にした睡眠からの覚醒は基本的に最悪の気分を伴う。
その例に漏れず、背骨の痛みときつく縛られた手首と足首が僕の憂鬱を加速させた。背中に当たるのは冷たく、真っ平らなコンクリートの感触。
眼を開けるのが嫌だった。重くて温度のあるものが僕の薄い腹筋を死ぬほど圧迫していたからだ。しかし、僕の瞼の下の眼球の動きで狸寝入りがバレたのか、僕の上に乗っている人物は無理やり僕の眼を開かせた。
「おかしいな。君は犯人じゃないのに何で鉈を振り回していたんだ?」
びっくりするほど核心を突きながら僕の眼を覗き込んでいるのは、やはりと言うべきか、灰川真澄だった。
その声は意識を手放す直前に聞いた声と同じで、常温で液体の金属のような印象を受けた。不自然なまでに黒々とした髪をおかっぱに切り揃え、対照的に肌は白い。中でもこちらの気を引くのはその眼だった。黒曜石の瞳からはこの世のすべてにユーモアを見出す、炯々とした好奇心の光を照射している。
まつ毛が触れ合うほどに接近して、ようやくほんのりと石鹸のにおいがするのがわかった。灰川は極端ににおいがついていない。どんな人間にも体臭があり、環境が色を付けることを考えれば、これは不思議なことだ。
それはさておき、他人に触れられるのはあまり良くない気分になる。もぞもぞと脱出しようと動いたが、灰川はより体重をかけて僕を逃がそうとしない。
「僕は最初、君のことを本当になんとも思っていなかった。オタクにありがちなナルシシズムが形作る理想の自分と、現実の自分との間にあるギャップに耐えかねて妄想の世界に逃避しているような、そんな自閉した人間だと思っていた。
だがどうやら一概にそうとも言えないらしい。君は僕が昨日声をかけた時、自分の一人称を口にするのに口ごもったね? あれは普段使っている『僕』ではなく、『私』と言おうとしたんだ。君があの時読んでいた小説の主人公は、対外的にこそ『僕』と言うが地の文では『私』を用い、物語も彼の一人称視点で進む。また、僕と話している途中に君は僕が机を叩くリズムに合わせて自分も叩き始めた。僕をからかっているのかとも思ったが、自分でもそれに気づいていない風だった。
つまり、君は強い感情移入の能力がある。自分でも知らないうちに対象を真似てしまうような感応能力だ。ともすれば自分の精神を危険に晒しかねないから、普段は自閉して周囲と自分を隔絶しているわけだ。すると、ほうほう、君は失踪事件の犯人に感情移入したな? 犯人がどのように犯行をするかを辿っただけではなく、次に狙うであろう対象にまで接近したのか。ははあ、これは思ったよりすごい才能だぞ、君」
ベラベラと推理を披露する灰川は、自分で投げかけた疑問も自分で解体してしまった。それもあっという間に。しかし、僕はそれより気になっていたことがあった。
「おたく、女だったんだね」
「……なるほど、そこまで他人を自分の意識に入れていないのか。そうさ、僕は美少女だよ。面と向かって気づかれなかったのは初めてだがね」
「自分で言うもんなの、それ?」
「さあね。少なくとも言ったもん勝ちだろ」
そんなものかもしれない。
灰川が着ている制服は男物のブレザーだったが、奇妙にそれが似合っていた。灰川は男らしくも女らしくもなかった。彼女の中で性がツイストしていて、それが妖しい魅力を練り上げているのだった。
美少女と言うより魔少年だ。そう思った。
「男装はファッションじゃない、僕の流儀だ。譲るわけにはいかない。そしてさてさて、犯人じゃないとなると縛ってしまって悪かったということになるね。すぐに解いてあげよう」
「いや、いいよ。自分で取れた」
僕はほどけた縄をかかげて見せた。最初こそきつかったが、少しもぞもぞしていたら勝手にほどけたのだった。灰川が結び方を間違えたのだろう。
「へえ、縄抜けまで出来るとはね」
「勝手にほどけたんだよ」
「そういうことにしておこうか」
灰川は何故か頑なに信じようとしなかった。まあ、ここで変に彼女のプライドを刺激しても旨くない。方向を変えることにした。
「でも、僕が本当は犯人だったらどうする気だったんだ?」
「一つ、探偵である僕が君を犯人ではないと推理した。二度とは間違えない。もう一つは、僕は強い。君程度なら機関銃を持って十人いた所でお話にならない」
「確かにあのドロップキックは痛かったよ」
「美少女に蹴られて嬉しかったろう?」
「まだ引っ張るのかよ、それ」
並んで立つと、灰川は僕よりも頭一つ分背が低かったが、印象としてはもっとずっと大きく見えた。内側からほとばしる彼女の活力が彼女の姿を拡大して見せたし、容姿はその表情のおかげで単純な造形の何倍にも魅力的に映った。
灰川はお喋りで、一方的にベラベラと聞いていないことも、聞きたかったことも話してくれた。曰く、最初から怪しいと思って僕を尾行していたこと。僕が縛られていたのは廃ビルの一室だったということ。
そのビルはと言うと、中はやたらと広く、足音が寒々しく反響して聞こえた。外に出てから入口から数歩下がってみても、てっぺんを見るのが難しい。
「勝手に使ってよかったのか、こんな場所」と聞くと「僕の物だから好きに使っていいんだよ。ヤクザからもらった」と灰川は答えた。
僕の知っているヤクザは不動産をくれたりはしないのだけれど、それは僕が知らないだけで、くれるヤクザもいるのかもしれないなあ、と思った。思考放棄は嫌いじゃない。
結局、僕の家の前にまで灰川はついてきた。
「そうだ、別れる前に連絡先を交換しておこう」
さも名案であるかのように灰川は言った。
「何でよ」
「君に興味がある」
「僕はおたくに興味ない」これは本当のことだった。
「僕の都合がすべてに優先する。携帯を出したまえ」
「持ってないんだ」
灰川は意地悪そうな笑みを浮かべて、ポケットに手を突っ込んだ。
トゥルルルルル……、と僕のポケットから着信音が鳴る。
「出た方が良いんじゃあないのかい」
より深くなる灰川の笑み。
嫌々ながらに僕が自分のポケットに入っている重みを確かめると、それは見覚えのない赤い端末だった。極端に直線的なシルエット、キメッキメに歌舞いたレッド。
代わりに灰川が取り出した青い端末は僕の物だった。白か黒かを選ぶのもつまらない、かと言って派手にもなりきれない、臆病なブルー。
電話のコールをしているのもその端末で、ついでとばかりにアドレス帳に新しく追加された灰川の連絡先を見せびらかされた。
どうやら、僕が気絶している間にすり替えられていたらしい。
僕は電話に出た。互いが互いに目の前にいるのにもかかわらず、灰川は通話を続けたまま話す。よほどの気取り屋、演出家だった。
「これは一つの実験だった。
まず、君の端末には保護シートが張ってあるだけで、カバーやキーホルダー、イヤホンジャックに類する飾りがまるでない。更にアドレス帳には家族以外の連絡先が入っていない。待ち受け画面も初期のものだし、アプリも買った時に入っている要らないものばかりだ。これは君の社交性のなさ、携帯電話というアイテムに対する無関心さを示すものだ。ここまで来るまでに一度でも携帯を使おうとしていればすり替えに気づいていたはずだしね。同時に、保護シートを貼ってあるということからいざという時に最低限の機能を失わないよう用心もしている。
君はつまらないお喋りはしない、もしくはその相手を選ぶタイプ。また、人生の致命傷を恐れるだけの想像力もある。これだけわかれば充分だ、君は今から僕の助手見習いさ」
聞いているだけで口の中に苦いものが満ちた。
「どうやってロックを解除したんだ」
「君は次から手袋をして操作すべきだ。指の油が付くからね」
「覗き見は悪趣味だ」
「探偵だからね。暴くのは生業さ」
僕は負け惜しみの言い方を知っていたし、灰川はそれを礼儀として堂々と受けて立った。
そして僕たちは、互いに端末を交換した。
極々スムーズにそれは行われ、当然のように僕は携帯をポケットにしまった。僕は灰川の連絡先を削除しなかった。今すぐするほどのことでもないや、と思ったが、きっともっと後でも何かと言い訳をつけて消さないような気もした。
灰川はこの実験によって、曲がりなりにも気絶させられて拉致監禁されたのにもかかわらず、助けを呼んで自分をどうにかしないような人間だと僕を見定めたのだ。
それが愚鈍さへの侮蔑なのか、口が堅いことへの信頼なのかはわからない。
どっちにしても彼女は危険な事件に巻き込んでも構わない人材として僕をカウントしたのがわかった。
「それじゃ、これからよろしく頼むよ」
わざわざ手袋を脱いだ右手を差し出して、灰川は握手を求めてきた。
「勝手に決めるなよ」
「嫌か? それともこっちの手が良かったか。しかし、左手での握手は決裂を意味するから、よしておいた方が良いな」
そう言って、灰川は左手を振る。奇妙な六本指。
「嫌かどうかも決めかねるってことだ。僕とおたくは、話してから一日しか経ってないんだぞ」
「人間なんて二分見れば充分だ。幸いにも、君を観察する時間はいくらでもあったしな」
駄目だ、勝ち目がない。それでも、ちょっとばかり悔しいので反撃することにした。
「僕もおたくのことが少しわかったよ」
「ぜひ聞きたいね」
「おたくはひけらかし屋だ」
「ふふん、優れたものを広めるのは先駆者の務めさ。それが知性の結晶なら尚更だ」
灰川は自分に言及されて嬉しいようだった。存外に寂しがり屋なのかも。そのことは言わなかったけれど。
握手は無視した。ふん。
*
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