第7話 スカイフォール(2)


 意味があるから偉い、ないから偉くない。そういう社会の価値観の外に出たのが悪魔だ。自分の価値観だけを信じて魂を捧げられる。だからこそ、自分のルールだけは絶対に裏切れない。

 何もかもを裏切ってしまえば、混沌に呑み込まれてしまう。自分自身が混沌そのものになってしまう。

 昔気質の悪魔は、どんなに人を堕落させようとしても絶対に嘘はつかない。意味と言葉は密接に繋がっていて、言葉の力を濫用することは魂の力を削ぐ行為だと信じているからである。

 僕はその手のおまじないを信じていないから平気で嘘をつく。けれど、信じていないということは暗闇の荒野を歩くための指針を何も持たないということだ。結局は、魂の力が損なわれる。意味がない。

 意味がないと、頑張る理由がなくなる。頑張らないと、魂の揚力は失われていく。飛べなくなる。失墜する。

 本当のことを言うと、もう一歩も自分の力で歩きたくなかった。

 灰川に言われたことをやる/敵が襲ってくるから仕方なく闘う/人の命は大切だから助ける/自分の命を長らえるために魂の契約をする――どれも偽の動機付けだった。価値がないとまでは言わないが、自分がそれらを信じ切れていないのがわかった。しっくり来ない。

 死んだガンマン気取りの拳銃を拾い、撃った。一発もモニターに当たらない。撃ち尽くした拳銃を投げると、ようやく画面が一つ砕けた。

『別別別にモニターを一つ壊したところで何の意味もないってこと、わかってるくせに。よくやるやるやるよね。その調子でやっていこう』

「クソが」

『ずっと見てたけど、悪魔のくせに普通に鍛えた人間みたいな闘い方するね。手加減してるるるつもりなのかな? だったら尚更さっきの連中をわざわざ殺さなくて済んだはずだけど』

「僕がやるのは、それしか出来ないからだ。敵は敵だ。僕は分をわきまえているだけだ」

『嘘だね。人間性を守るために人を助けることはあるが、命の価値価値価値価値価値を信じてないから簡単にそれを捨てる。使い捨ての価値観は、魂にとって何の足しにもならない』

「地球の裏側にいる貧乏人共のために毎月の給料全額寄付する奴がいたら、アホだろ」

『さっきオマエが殺した三人は、別にゾンビでも何でもなかった。たまたまこの船に乗り合わせて、ゲームから降りられなかった哀れな哀れな連中だ。殺さなくても良かったし、誰かに助けられてしかるべきだった』

「敵は敵だって言っただろ。どうせおたくがそそのかしたくせに。笑わせるなよな」

 無意味な一問一答。それを無意味と断じつつも、僕は答えをずるずると引きずり出されてしまう。魂が弱り、心の扉が完全にこじ開けられそうになっている。

 ぼんやりとした砂嵐が映るモニターが廊下に点在し、暗闇の中に浮かび上がっている。しかし、僕の視界は赤く染まってそれを見ることはない。肉体が維持できなくなってきているのだ。顔に手をやると、目からも生ぬるい液体がこぼれていた。血なのか涙なのか、判別することも出来ない。

『オマエは灰川真澄を大切に大切に思っていると。自らの魂を懸けるに値すると。だがそれは誤りだ。灰川は死ぬ。今日を何とかやり過ごしても、百年後にはもういない。たったそれだけの時間の流れで擦り切れてしまうものに、意味なんてない』

「灰川は友達だ。意味はある」

『信じても、信じてもないヤンキー漫画の主人公みたいなこと言っちゃってぇ。なら仮に意味があったとしても、灰川が死んだ後はどうする? また新しい女を囲うのか?』

「そんなことは……出来ない……」

『じゃあ意味はないな』

「意味は……ない」

『最近、何となく楽しくない』

「最近、何となく楽しくない」

『訳もなく悲しい』

「訳もなく悲しい」

『将来が不安だ』

「将来が不安だ」

『虚しい』

「虚しい」

『どうでもいい』

「どうでもいい」

『死んだ方がいい』

「死んだ方がいい」

『そう思うだろう?』

「そう……思う……」

 僕はアバラッドの言葉を繰り返していた。奴の呪術だとわかっていても、言葉が僕の心に浸透してきた。何故なら、それが僕にとっての本心でもあったからだ。アバラッドの内心は僕にすらちっとも読み取れなかったが、僕の心は奴の言葉が持つ意味に共感していた。

 自分の心にこうまでの惰弱がはびこっていることが、僕には許せなかった。それ故に今まで蓋をされていたことだったが、もう隠せない。

 僕は依存する対象を探している。その向こうに、たまたま灰川がいただけで、その灰川も結局はただの人間なのだ。

 血は止まっていた。痛みがなくなったのではない。ただ、枯れてしまったのだ。

 顔をぬぐうと視界が取り戻された。しかし、目の前にある廊下、そして窓から見える外の風景は、酷く色あせていた。

『虚無がオマエに追いついた』

 変化したままだった甲殻が剥がれ落ち、僕の元々の身体が外の世界に触れた。一度取り込んで再構築された制服に、穴が開く。撃たれて誤魔化していた部分が、もう取り繕えなくなったのだ。

 とうとう床に膝をつくと、音もなく肉体が崩れ始めた。白い灰にも似た何か。元々僕だったもの。力を失ったもの。

 その中に、ごとりと確かな重さを感じさせるものがあった。敵から奪ったトランシーバー。今、灰川と連絡が取れる唯一の道具。

 しかし、それすらも僕にはどうでもよくなって――

『あろーあろー、聞こえているかい由良君? まあ電話が嫌いな君のことだし、片方ずつしか喋れないのがトランシーバーの特性だから、このまま話すことにしよう。君は僕の言葉ならば聞かずにはいられないんだからな。そうだろう?』

 灰川の声がした。

 ただそれだけで、アバラッドの声が遠ざかった。まだ何か言っているようだったが、僕の心の中で意味を結ぶには至らなかった。

 聞きたいことがあった。生きていたのか。毒ガスを回避して。そんなことや、言いたいこともあった。このゲームの裏にある、暗殺者共を誰が雇っているのかという、もう一つのパワーゲームについて、僕が知っていることなど。

 だが、どれも言葉にならない。僕の声帯は崩れつつあったし、灰川は一方的に話すつもりのようだった。それでいいと思った。こんな惨めな有り様を知られたくはなかった。

『そうだな、まずは何から話そうか……善悪の基準は時代や文化によって変化していくからただの言葉に過ぎない、という話は以前したと思うからそこから始めようか。

 君の心を安定させるために言ったことだったが、勘違いさせてしまったかもしれない。言葉には力がある。何故なら、言葉は意味と認識を繋げるからだ。フレイザーが金枝篇の中で記したように、魔術の基礎の理論には共感の法則というものがある。これは『接触したもの同士には、何らかの相互作用がある』というものだ。更にその中に含まれる類感の法則には『似たもの同士は性質を共有する』というものがある。

 僕たちは風を感じるし『風』という言葉を使うことでそれを他人に伝えることが出来るが、風そのものを見ることは出来ないし、捕まえて渡すことも出来ない。通貨と同じだよ。それ単体では何の価値も持たないが、何とでも交換できることに価値がある。価値を生み出す構造こそに意味がある。

 つまり、言語というものはそれそのものが類感の法則に依拠する呪術的構造を持っているし、言葉を扱うこと自体が他人や自分に呪いをかけることにもなるということさ。僕たちは言葉を規定しているように見えて、言葉に規定されている。その仕組みこそが呪術なのだよ。呪いなんて、くだらないと思うかい?』

 少し前ならそう思ったかもしれない。しかし、認識を操るということがどれだけの力を持つか、僕は身を以て学んだばかりだった。呪術はどんなところにでも入り込む。社会や常識、偏見や当たり前の習慣こそが呪術たり得る。それを無視することなんて、誰にも出来ないに違いない。

 アバラッドが本当はどこの国の生まれなのかはわからなかったが、彼は僕に対して日本語で話しかけていた。繰り返される言葉も、意図されたものだった。僕以外の人間に呪術をかける際には、そいつに適した言語と語彙で話すのだろう。

『善悪といった倫理観に振り回されることは馬鹿馬鹿しいが、人間の認識が言葉によって規定されている以上、なかったことには出来ないんだ。君は人より多く言葉を知っているせいで、自分の意思を規定していると感じていたかもしれないが、実際は人の心はそう単純ではない。矛盾や不条理が多くを占めている。そのことに対して君は自覚が足りてないようだったから、ちょうど今頃、僕のかけた呪いが解けているだろうと思って、声をかけたんだ』

「呪い?」

 トランシーバーは一方通行で、僕の声を拾うことはなかったが、灰川はまるで目の前にいるかのように喋り続けた。

『そう、呪いだよ。事実、善悪は言葉に過ぎないという僕の言葉を聞いたせいで、しばらくそのことに思い悩まずに済んだだろう? しかし、何にでも有効期限はある。言葉ならば尚更ね。心は変化していく。時間は止められない。だから、新しい呪いを僕がかけてやる』

 僕は注意深く、灰川の言葉を観察した。それに混じってトランシーバーの向こう側では、複数の人間が言い合いをしているのが聞こえたが、日本語ではなかったので上手く意味を把握できなかった。

『メシエさん、あんたとは長くレアメタルの取引でやってきただろ。何でそうまでボクとクロエさんを疑うんだ?』

『優れた電子工学にはレアメタルが必要だ。その点において俺たちは良いビジネスが出来ていたはずだった。だが、さっきも言っただろう。君はクロエと組んだ。人間の脳は優れたAIの元であると同時に、生きた演算装置だ。脳を生きたまま取り出して動かす技術を君達は持っている。知られていないとでも思ったか?』

『NO。複数の生体を切り離して生かしておくことは、クローンの素体を育成することよりも手間がかかります。それこそ旧来のスーパーコンピューターを使った方がよっぽど効率が良いほどに。少し利益が減った程度で一々こちらを疑るのはやめていただきたい』

『脳の複写と、脳を摘出して一時的とはいえスパコン並みの演算装置として活用する技術。それに人間の素体をクローン技術で作り出す技術があれば、不老不死は達成可能だ。コストに見合うかどうかはわからんがね。技術をビジネスに還元する際に大事なのは、それが唯一無二の代替出来ないものであることだ。この船で行われるデスゲームの景品はバランスを崩すものだろう?』

『だから殺したと? マフィアの抗争じゃあるまいし、一々そんなことしてられるか。ビジネスは自由競争なんだぞ。損得の差こそあれ、負けることだってあるし、それをボクが考えてないとでも思うのか』

『不老不死の実現性は否定しないのか』

『……。不老不死のゲームマスターを殺す方法があるとは思えません』

『俺が殺し屋を雇うのは、少なくともまともな方法で消せない相手を消さなきゃならない時なわけだが、君らは違うのか? まあいいさ、俺の中ではもう決定事項だ。そこの探偵のお嬢さんだってとっくにわかってることさ。じゃあお次は俺が来る前に君達がこの部屋で何をしていたのか、聞かせてもらおうか』

 せわしなくかわされる英語の応酬は、僕にはよく聞き取れなかったが、一人の鋼のような声音の男が子供っぽい舌っ足らずの男ともう一人の女を問い詰めているのがわかった。

『彼らの声が聞こえるかい? どれも言葉だが、君の中で意味を結ぶには至らない。言葉は意味と価値を結び付ける力を持ち、君は世界に混在する意味を感じやすい方だが、それでもすべてをありのまま受け入れているわけじゃあない。君が疲れてしまうのは、君が賢いからだ。想像力が恐怖を生み、言葉を抱え込みすぎることで心が重くなって飛べなくなる』

 僕が賢い? 冗談だろ。

『もちろん、僕の方がずーっと賢いけどね。君はたくさん物事を考えているが、それで自分が得したことがあるとはこれっぽっちも思っていない。それがいいんだ。要領のいい奴ならいくらでも見た。自分のことを賢いと思っている奴には飽き飽きだ。だから君がちょうどいい』

 酷いことを言っているぞ。わかっているのか、そのことを。

『僕は自分の望んでいることがちゃんと、正しくわかる。だから君を選んだ。だが、多くの人は自分の本当に望んでいることがわからない。言葉やコインにすり替えられたものを、自分が欲しいものだと勘違いしている。意味はそこにあるのに、疲れた心はそれを感じ取ることが出来なくなってしまう。掘った穴を埋めさせる拷問のように、人の心は無意味に耐えられない。だから人は意味を欲する。絶え間ない餓えに駆られるようにして。そのせいで毒を口にすることになってもね』

 現在進行形でトランシーバーの向こう側で誰かが、モニターからアバラッドが声を出している。アバラッドに操られた連中や朽縄まどか、みんながベラベラと言葉を使っていた理由が今ならば何となくわかる。

 人は言葉を規定しているようで、実際は言葉によって規定されている。自分の望むものがわからなくなってしまった心は、バラバラになるのを防ぐために自らを言葉で定義づけようとする。しかし、そこにある意味も一人だけだとすぐに風化してしまう。だから、他人が必要になる。

 人に言葉を聞いてほしい。人に自分を見てほしい。他人に自分を刻み付けることで、自分を見失い忘れられてしまう恐怖から逃れようとしているのだ。

 古くから生き、自分自身を定義づけるものすべてを失ってしまえば、朽縄まどかのようになる。混沌を生み出すのではなく、自分自身が混沌そのものになってしまうのだ。

『だが、あえて勝ち負けに限定して言うのなら、他人が決めたルールの中での意味の有無について考えてる時点で負けなんだ。君は周りと違う価値観を持っている。普通の人が捨てられないものを捨てられる人間は、一瞬だけ加速して見えるが、かと言って、何でも捨ててしまえば燃やすものまで失ってしまう。長期的に見れば推進力がなくなるだけ損だ。今の君はカラカラになっている。人とは違う世界を持つことは強みにもなるけれど、それで君はいつも悩んでいる。せっかくリフレッシュ旅行に来たっていうのに』

 でも、人は負けたら終わりだ。そんなものに意味はない。

『君はちょっと勘違いしてるな。別に人生勝ち続けなきゃいけない決まりなんてないんだぜ。ははあ、殺し合いばっかりしてたせいで、一つの失敗が恐ろしくなってしまったんだな。勝ち負けを膨大な数重ねることで、人は虚しくなってしまう。でも何かに対して、好きなら好きなままでいいし、嫌いなら嫌いなままでいればいい。それでも変わってしまったのなら、また別の何か楽しいことを探せばいい。何かの“ため”にやっていると、心がすり切れていく。何かの“ため”に規定された心では、いつか動けなくなってしまう』

「それは、」

 思わず返事をしてしまったが、僕はその後の言葉を口には出来なかった。

 ――それは、百年程度で死んでしまう、逃げ切ることが出来る、人間の言い分だ。

 人の心の領土は有限で、楽しいことを一つづつ使い潰していくのは焼き畑農業だ。いつかすべてが灰になり、意味が失われてしまう。

『意味や理由がなければ闘えないなんて、雑魚だぜ。手足が動く限り踊り続けるんスクランブルだ』

「……ずるいよ。聞こえのいい言葉でそそのかして、その場しのぎの希望で騙くらかして、無意味なことをさせるなんて」

 向こうに聞こえていないのはわかっていたけれど、僕は言った。無意味な言葉がフラフラと飛んで行った。

 人には生きていくための物語が必要なのだ。自分を無意味だと思って失墜することを防ぐための物語が。

「綺麗な音楽や格好いい小説を読んでうっとりして……そして、自分にも特別な意志の力があると勘違いする。自分にも何か物語があると。お前の魂胆は見え透いているぞ。そーいうのは、その場しのぎで無意味をなだめすかしているだけだ」

 多くの場合、社会という存在が人に物語を与える。

 社会とは、多くの人間が共有する巨大な幻想だ。

 そのほとんどが、サンタの存在を信じようとする子供のような必死さで相互に幻想を強固にし、維持しているのだが、時たま幻想の外にはじき出されてしまう人間が生まれる。

 サンタを信じられない人間は幸せだろうか? 僕にはわからない。ただ、その子はきっと来年からプレゼントはもらえないだろう。

 社会の外、薄皮一枚隔てたその先、一寸先の闇には、虚無がある。

 虚無は腹ペコで、いつでも誰かが落ちてくるのを今か今かと待っている。満ち足りることを知らない、無限の飢餓。

 陳腐な言い訳で自分の心を慰撫するのも、真面目に頑張っている人を冷笑するのも、虚無から目を背けるために他ならないし、それこそが虚無の一端でもあるのだ。

 虚無は問いかける――それって、何の意味があるの?

 虚無は焦らない。いつまでも待っている。それは死ですらない。すべてのすべてが行きつく先であるが故に。問いにつまづく日が、誰にでもやってくる。今は良くても、次か、次の次か。わからない。でも、いつかだ。

 僕の心のすぐそばにも、もう虚無がいる。僕は恐ろしい。

『だからこそ物語の更新が必要なわけだが、気が滅入ってる人間は最悪の状態が続くか、それとも今よりもっと悪くなるものだと思い込みがちだものな。ねえ、由良君。時間が物事を変えていくのは悪いことばかりではないし、そもそも君は忘れっぽいじゃないか。嫌なことはちゃんと忘れられるんだよ』

 悪魔にとって、魂はエネルギーの塊だ。生きてる人間は電池みたいなもので、魂は電気そのもの。

 契約によって貰い受けた魂で僕たちは生き延びているわけだが、すべての魂が売約済みなわけではない。契約されなかった魂は、物から熱が奪われていくようにエネルギーとしての形態を変えるが、消えてなくなるわけではない。

 早い話が、生まれ変わりがこの世には実在するということだ。いや、『この世』と言うと語弊があるかもしれない。魂は唯物の世界の法則に縛られないため、別の世界やパラレルワールドに流れ込む可能性もある。これは僕が自分で確かめたわけではないが、悪魔の中ではそういうことが気になって仕方がないやつもいる。

 元の形ではないかもしれないし、二度と会えないかもしれない。でも、もしかしたら、という話がまるきりないわけでもない。

 悪魔はロマンチストが多い。

 中でも僕は夢想家だ。夢見ることにかけては、誰にも負ける気がしない。

 時の流れがすべてを平均化しても、その瞬間にあった出来事が消えてなくなるわけじゃあない。

 意味を無意味が呑み込んでいく。それを止めることは出来ないけれど、無意味から意味がまた生じていくのだ。

 僕も灰川も親しい人も、いつかは死ぬ。それは止められないことだけれど、失墜さえしなければ、またいつかどこかで会うことがあるのかもしれない。

 途方もない夢物語だ。だからこそ、信じたい。信じたいけれど、僕はまだ信じられずにいる。無駄な足踏みを。

『人は勝ち続けることが出来ない、と僕は言ったな。覚えてるかい?』

 灰川は言った。僕が聞いていることを信じて、目の前にいる僕に話しかけるのと同じように、言葉を投げかけた。

「うん」

 僕は応えた。応えること自体に意味があった。

『いつか、どうしようもなくなる時が来る。避けようのない敗北が。そのことがわかっているなら、立ち上がる準備をしておけばいい。地下室で爆弾を作るいじめられっ子のように、変えようのない強大なものに対する復讐の手段を練り続けるんだ』

「いじめっ子が何を言ってやがる」

 僕は笑った。久しぶりに屈託のない声が出たことに、自分でも驚いた。

『物語が持つ欺瞞に気付くことは、物語の外に出ることだ。けれども、そこで冷笑主義に足をすくわれてはいけないよ。サンタがいないことに気付いたのなら、君が今度はプレゼントを誰かにあげる番なんだ』

 灰川の特技=僕の考えていることを言い当てる。トランシーバー越しにも自慢げな顔が浮かぶよう。灰川は僕がどう応えるかを完全に理解した上で言葉を続けた。ただそこにある意味を翻訳するために。

 僕と灰川の意思の交信において、もはやほとんど言葉は必要ではなかった。しかし、あえて言葉にして受け取ることで僕の心の中で、意味が再構築されていった。

『心は休まなければならない。そうしなくては、いつか動けなくなってしまうから。心は物語を受け取らなくてはならない。そうしなくては、虚無に呑み込まれてしまうから。だがね、由良君。。踊り続けるとは、そのことさ』

「……僕は探偵助手だものな。探偵助手が、探偵の活躍を本にするのはよくあることだ」

『この世界には、大きな力の流れがある。それは人の感情であったり、熱力学の法則であったり、時間が移ろいゆくことでもある。同時に、語ることで何かが失われてしまうものだ』

 僕は自分の内側を循環する魂の本質アートマを思い浮かべた。あるいは、闘いの中でしか生きられない人間のカルマを。

『ミケランジェロが元々大理石の中に埋まっている天使を掘り出していたように、物語ることはそれ自体が自分というフィルターを通して世界を翻訳することにも似ている。僕の言ってる意味がわかるかい?』

「わかる、気がする。いや、それも思い上がりなのかな。何かがあるのはわかるが、その何かを定義しようとするのも無理があるように思う。でも、翻訳することが無意味なわけではないのかも」

『その通り。星がめぐりまわり、たくさんの物事が形を変え、あるいは失われていくことだろう。だが、それでも物語れ、この夜を』

 僕は立ち上がった。

 時間の感覚が少しばかり狂っていたが、問題はなかった。

 姫香へと繋がる糸は依然として結ばれている。眩暈の中のように思えた廊下は、ただの廊下に戻っていた。

 凝り固まった肩をほぐすように首を回すと、白い灰が体表から剥がれ落ちた。その下には意味を取り戻した魂によって再構築された健康な肌があった。

 モニターから聞こえるアバラッドの声――僕にはもう届かない。その横には僕を監視するためのカメラ。

 指をさして言う。

「待ってろ。姫香は必ず助ける」

 ふっつりとモニターの光が消えた。初めてアバラッドの内心を感じ取ることが出来た――これは諦めだ。

 姫香を助けることが出来なくても、僕は本当はどうでもいい。彼女は大勢いる、魂を搾取する対象の一つに過ぎない。だが、目の前で自分の有用性を奪われるのに我慢がならないというのも僕の本心だ。

 露悪的な態度から自分の心に張られる予防線を感じ取り、僕は苦々しく笑った。この馬鹿げた遠回りすらも僕を規定するものだ。捨てられない。

 僕はトランシーバーを拾い、灰川に向かって自分から話しかけた。

「クロエ・ミュラーっていう悪い金持ちが朽縄まどかを裏切った。殺し屋同士でも裏切ったり裏で手を組んだりをしている。まだ見てないグレイマンは、多分そっちに行ってるけど、誰についているのかわからない」

『ふむ、有益な情報だね』

 言外に「わざわざ報告しなくてもわかってる」という内心が滲む声。もっと違うことを催促。

『多くの人は合理的にあることが利益と信じてそうあろうとするが、何故利益を得ようとするかと言えば、自らの心を満たすためだ。時に合理的にあるために感情を排しようとするが、それは間違っている。大事なのは欲求から来る自由意思だ。分をわきまえることは大事だけれど、欲望を抑圧することとイコールではない。君はこの船に乗ってからずっと、居心地悪く思っているのではないかい?』

 図星。

『多くの人に感情移入する才能を持っている君が、社会的成功者を自分とは違う人種として考えているのは卑しいことだ。心が偏っているから認知が歪む。正しい望みを見つけられなくなる。君は何がしたい? 本当の本当に心の底から望んでいることは何だい? 言葉にしてみたまえよ』

「僕は……そうだな、これが終わったら温泉に行きたい。この船のマーライオンからお湯が出るようなお風呂もいいけど、熱海の旅館に行って窓際の椅子に座ってダラダラしたい。美味しいものも食べたいけど、疲れてるから脂っこい肉とかじゃないのが良いなあ」

『いいな、一緒に行こう』

 灰川が嬉しいと、僕も嬉しい。灰川のためなんかじゃあない。強いて言うなら、灰川の友達である僕自身の気持ちを満たすための下心だ。

「あとは、闘いたい。闘って闘って、根限りまで闘って……自分自身をこの世に刻み付けないと気が済まない。世界を穿孔したいんだ。闘うことは痛いし惨めだし人が死ぬのは悲しいし結局は虚しいことだけど、どうしようもなく好きなんだ。やりたいんだ」

 思い浮かぶのは、緋蜂と片桐忌名。まともにやったらどうしても勝てないだろう相手。

 痛みに耐えるような仕草/はぐれ者たちの哀悼/不敵な笑みを浮かべて、世界をかき回す悪巧み。

 きっと何よりも誇り高いもの。

 トランシーバー越しにも灰川の表情がわかった――にやり。

『好きにしたまえ』

 通信が切れた。

 それと同時に、姫香に繋いだ魔力の糸が断ち切られた。生命が停止した感覚はなかったが、アバラッドの居場所で何かがあったことは確実だった。

 そこに僕の望む敵がいることも。


   *


 通信を終えた瞬間、灰川の表情がごっそりと抜け落ちた。生命力に満ち溢れた普段の彼女の姿を知る者からすれば、怖気を覚えるような表情だった。事実、部屋にいた他の三人も鬼気迫るものを感じたようだった。

「そいつがキミの切り札か?」

 張の口調は切り札ではなく愛人とでも言いたげだったが、それを口にしないだけの分別が彼にもあった。

「そうだよ」

「NO。通話に出たのはずいぶん若い声でした。おまけにくだらないことでダラダラと悩んで……私の部下たちに敵うとは思えません」

 クロエを守るように、二体の素体が前に出た。

「部下? 朽縄まどかはあなたの部下じゃあない。その証拠にとっくに裏切った。僕にとっての由良君も、そういう関係じゃあない」

「絶対に裏切らない相手か。若い子が考えそうな、いかにもロマンチックな関係だ」

 椅子に深く身を沈めたブラックマンの皮肉。全盲のため顔の向きは固定されたままだが、誰に言ったのかは明白だった。この部屋に入ってから一度も盲導犬に繋がるリードを手放していない。言葉とは裏腹に、信心にも似た用心深さ=何も信じていない故の逆説的な態度。

「僕は美意識の話をしている」

 対して、灰川もブラックマンの方を見すらしない。代わりに詩を暗唱するかのように言った。

「由良君には、僕にない美意識がある。だが、鋭い心は、研がれた分だけ脆くなってしまう。由良君の強さは心の速さだ。誰よりも速いから誰よりも悩む。だから僕はわざと折れ目をつけてやった。カッターナイフの替え刃のように、折れれば折れるほど彼の心は鋭さを増す。再生するたび息を吹き返す」

 喋りながら灰川は爪を噛んだ。表情は、ない。

「爪を噛む癖はね、元々は子供の頃の僕のものだった。由良君はすぐに他人の心に感応してしまう。彼はお風呂が好きだ。いつも自分に染み付いたにおいを消そうとしている。特にストレスを感じた時は。わかるかな、助野透のような透明人間願望に似ている。あのはた迷惑な他罰と自罰が入り混じった精神状態にあてられた由良君が、僕の前から姿を消したらどうしよう……? 彼が好きなことを好きなようにした結果、僕を離れたらと思うと、僕は……」

 灰川が言っているのは明らかに、人に聞かせるために用意された内容ではなかった。部屋にいる誰もが、見てはいけないものを見てしまったような顔をした。

 言葉の途中で、灰川は急に表情を取り戻した。先ほどまでの虚ろさと不安が入り混じった態度がまるで嘘のように消え、傲岸不遜な顔で部屋を見渡した。

「何だ、君たち。まだいたのか?」

 人を人とも思わない灰川のニュートラルな態度だったが、それだけに剥がれそうになるまで噛まれた爪の形が異様だった。軽く振られた指先から血の玉が飛んで、白い革張りのソファにまだら模様を付け加えた。

「そりゃあいるさ。ボクだって不老不死が欲しいもんね。それよりも探偵さん、暇ならゲームマスターの死体の首を探してよ。さっきから探してるけど、どこにもないんだってば」

 自分に使うためか、それとも技術を独占するためか。どちらにしても張は目的がまるでブレていない。図々しさとそれを利用する抜け目のなさ。脂肪に押し上げられて笑みの形が張り付いた表情の奥で、眼だけがギラギラと貪欲さに燃えている。

 ざらりと皿にあけたミックスナッツとドライフルーツを、張は頬張った。

「腹が減った。腹が減っている。子供のころからずっと、金持ちになって何でも食えるようになっても変わらない。でも、もう、餓えることにも飽きた。一時はお腹いっぱいになることがあるけれど、またすぐにお腹が減る。次の次の次の飯を食うために、いつまでもあくせく働き続けなきゃいけない。もうウンザリだ。ナッツは腹持ちが良いから好きだ。でも、間に合わせだ。ボクは一度食べたらそれだけでずーっとお腹いっぱいになるものが食べたい」

 福々しくも不吉な目。

 飽食と飢餓。

 それらは矛盾せず、張の中に存在する。生きるということは、絶え間ない矛盾にさらされることだと皆が心のどこかで知っている。

 灰川はそれを嘲笑う。彼女にとってそういった人間性というものは、付け入るための隙でしかない。

「死んだばかりの脳から情報を転写するつもりか。もう時間が経ちすぎてるから無理ですよ」

「へぇ、詳しいんだな。探偵ごときが専門家より詳しいとは思えないけど」

「調べればわかりますよ。この事件がもうとっくに終わっているということも」

「の、NO。終わっていません。まだ何も、犯人が誰かもわかっていません」

 彼女には珍しく、何かに怯えるような口調でクロエが否定した。隠し切れない焦燥感。

「そんなに焦らなくても、緋蜂はあなたを殺しませんよ」

 嘲るような灰川の声音に、クロエの顔が蒼白を通り越して紙のような色になった。

 たっぷりと周囲の注目を集めた灰川は、指揮者のように手を掲げた。この場所にいる誰もが、それから目を離せなかった。傲慢さに慣れた彼らですら、自分が灰川に指さされ、犯した罪を暴かれることに恐怖を感じてしまったのである。

「さて、そろそろこの事件も解決してしまおうか。犯人は――」


   *

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