第6話 スカイフォール(1)


 悪魔は唯物の世界の生き物ではないが、似た性質を共有することがある。

 弱い悪魔は唯物の世界の毒物でも効果があるために、認識して無効化する必要があるし、恒常的に自分に害為すものを無効化している存在級位の高い強い悪魔でも、呪力や魔力を帯びた毒物によって死ぬことがある。

 ピンからキリまでいる悪魔だが、体内に入った毒物を抗体によって無害化するという仕組みは変わらない。

 強い悪魔ほど体内の抗体の働きが強く、その種類も豊富だということになるのだが、ここに落とし穴がある。

 緋蜂フェィファンは名前の通り、蜂の性質を持つ悪魔である。有名な所で言えば、スズメバチの毒は強力だが、それ自体で死に至ることは少ない。炎症作用を持つヒスタミン、心肺停止の原因となる神経毒。しかし、更に危険なものが毒のカクテルには含まれているのだ。

 アナフィラキシーショックを引き起こすペプチドとタンパク質。一度目でも充分起こり得るが、二度目に刺された時の方がアナフィラキシーショックが起きる確率は高い。

 アナフィラキシーとは要するにアレルギー反応の一種、免疫反応が抗原に対して過剰に起きることを指す。

 つまり、毒を認識して結合し体内から除去するはずの抗体が身体に害を為す。毒が効かない悪魔や不死者でも、いや、毒に対する強い抵抗力を持つ存在ほど、アレルギー反応には対応が出来ない。よって、自家中毒で死に至る。

 緋蜂が事前にターゲットの前に姿を表すのは本人の心のこだわりもあるだろうが、事前に毒を一度投与するためなのだ。気付かない内にほんのわずかなひっかき傷でもつけることで毒を投与(この際には神経毒などの配合を抑えておく)、耐性をあえて作らせる。二度目に刺された時には、確実にアナフィラキシーショックが起きる。自ら制約を課すことで、呪毒はその効果を増す。

 僕のポケットの中にあったミニチュア版の毒針は、「お前などいつでも殺せるぞ」というサインを二重に発していたのである。

 朽縄の言葉を信じるなら、この船のゲームマスターは船そのものに操られ、自身の意思に反して不死の呪いをかけられているという。そしてその呪いから解放されるために殺し屋を雇ったとも。

 緋蜂なら不死者を殺せる。恐らくもう仕事を済ませた後だろう。それを知った朽縄は焦ったはずだ。緋蜂の毒は朽縄にも効く。身体を脱ぎ捨てても、一度作られた抗体はリセットされない。そうでなくては同じ病気に何度でもかかってしまうからだ。

 朽縄は賢い。灰川と似たタイプだ。つまり、暴力すらも政治的な駆け引きの一環に過ぎず、複数の目的を持ち同時進行でことを進める。それらすべてを看破することは僕には出来ないし、探るだけ無駄だ。先程のクロエ・ミュラーのクローン技術などの話はノイズでしかない。灰川に任せればいいことだ。

 僕にわかるのは、自分を殺せる可能性のある緋蜂を消すことが、朽縄まどかの大きな目的の一つだということである。

 その証拠に、朽縄は一人で来ても充分テロは完遂できただろうに、アバラッドと組んでゾンビの兵隊を借り受けている。かすり傷が致命傷になりかねない相手に対しては当然の準備だ。

 だが、僕が緋蜂の釘を持っていることは知らなかった。

「ごっ、後生じゃあ! 殺さんでくれぇ! ワシはまだ死にとうないんじゃあ!」

 ゴスロリ姿の少女がいかにも哀れっぽく、僕の足を舐めんばかりにすがりついている。がしかし、その実態は老いやそれに伴う死に押し潰されそうになっている老人そのものだ。同情心は湧かない。何故なら、呼吸が出来ずに苦しんでいる客たちがまだ目の前にたくさん転がっているからだ。

 僕は朽縄の腕をつかんで無理やり立たせた。いつでも手首に二度目の毒針を刺せるようにしながら、歩く。本来なら足音を覆い隠すカーペットも、そこら中に撒き散らされた血や臓物を吸いきれずに、一歩進むごとに水っぽい音を立てている。

 ダンスフロアのあちこちで待機しているゾンビの皮膚を削り取り、刺青として刻まれた呪術のパターンを破壊していった。

「おたくがやるのはさっきと何も変わらない。ベラベラ余計な事を喋って、僕に情報を垂れ流せ。本当だったらこの毒ガスも止めさせたいが、空調室じゃなくて今ここにいるということは、無理なんだろ?」

「わ、ワシは毒ガスの原液を渡しはしたが、実行したのはアバラッドじゃ。電力室と空調設備を奪取したのも、奴の手駒のゾンビじゃ」

「ガスの効果は? いつ死ぬ」

「一昼夜苦しむ。その苦痛が呪いとなって、死んだ時に次のゾンビを作るんじゃ。刺青を施されたゾンビ共より統制は取れぬが、船や街を丸ごと乗っ取るには充分じゃろう」

「ふーん。今すぐ死ぬわけじゃないのか」

 少し迷って、僕はゾンビの破壊を優先した。姫香にも客にも悪いが、また撃たれるかもしれないことを考えると、この方が効率的だ。

 ゾンビを無力化し、ガスマスクを回収する。

「アバラッドに連絡を入れて、ガスの散布を止めさせることは出来ないのか? おたくとしては緋蜂を殺せばいいだけなんだし、その用事だけ済ませてゲームを途中で降りるとか」

「ワシは不死じゃから降りることは可能じゃが、アバラッドは無理じゃ。だから、ワシが降りることを知れば彼奴きゃつはすぐに裏切る。ゾンビ禍は止まらん」

 生身の人間では通り抜けられないような仕掛けが船の外にあるということか? 確かめたいが後だ。

「上手いこと言って騙せば」

 僕の言葉に朽縄ははふーとため息をついて、「やれやれ」のポーズ。何だか無性に、腹が立つ。

「電力室を抑えたということは、監視カメラも掌握してるじゃろ。ワシがお主と今こうやって話してることもバレてるに決まっとろうが」

「クソが」

 ゾンビを片付け終えると、血や諸々の体液を拭き取る間も惜しんで、乗客たちに回収したガスマスクを被せていく。そうしてから、体内の毒を除去していく。唯物の世界と不安定な魂や魔が支配する世界にまたがって存在する、僕の透明な魔力の触手が乗客の肉体に浸透し、肺や血液の中に融け込んだ毒を無効化した。

 それを何度も繰り返す内に、僕の魂はどんどんと擦り減っていく。頭が痛い。吐き気が酷い。クソ、こんなことに何の意味がある?

 毒の支配下を逃れ、我に返った人たちが僕を見た。黒い外骨格に血みどろで、感謝の気持ちより先に恐れと排斥の気配が漂った。感謝されたくてやったんじゃないと口に出して言いたかった。

 命を助けた。英雄的な行い。しかし僕の魂はちっとも力を取り戻さなかった。つまりはそういうことだった。恨むつもりはないし、後悔もなかったが、優しくない世界で生きていくことの意味を考えずにはいられなかった。

 言外の思いが視線に込められていた。彼らの目をことごとく潰してやりたくなった。八幡琴音や禍月姫香は、いつもこんな値踏みするような視線に耐えてきたのか。

「後悔したかえ? こんなくだらない連中を助けるために命を懸けたことを、一瞬でもその価値を信じそうになった自分が恥ずかしくてたまらんじゃろう?」

「何度も言わせるなよ。僕は命の価値なんて信じてない。納得したくてやっただけだ」

「その自分の納得すらも、他の何にも影響を与えられないと知っておるくせに」

 僕は思わず、釘を持ったままの手で朽縄の手を握り込もうとした。

 二度目の毒/アナフィラキシーショック――確実な死。

 その瞬間、僕は朽縄の目を見た。

 先ほどまでのみっともないまでの死への恐怖の奥に、もっとずっと昏い何かがあった。巧妙な偽装、あるいは本当と嘘が入り混じって区別することの意味が失われてしまったのか。

 朽縄は長生きしすぎたせいでそれを手放すのが怖くなったものだとばかり思っていたが、その推測があまりにも甘い、人間の価値観に押し込められた狭いものだということがわかった。

 無理に言葉にするのなら、それは餓えだった。

 僕が採算を度外視して乗客を助けたのと同じように、朽縄も自分の中に足りない『何か』を満たすためならどんなことでもするのだということが、一瞬で伝わった。

 釘を刺しこむ手がわずかに遅れた。それを見逃さず、朽縄は自らの身体を脱ぎ捨てた。彼女にとっては何でもかんでも使い捨てなのだった。大事なものが一つもない。何にも価値を見出していない。

 蛇の素早さで、一飛びに朽縄はダンスフロアの上階に昇った。手すりの上に陣取り、こちらを睥睨している。後ろには、姫香がいるのとちょうど反対側の廊下がある。追ってもすぐに逃げられるだろう。

「殺されてやっても良かったが、今日はお預けじゃのう。ワシは一抜けじゃ」

「いいのか? 緋蜂が勝ち残るかもしれないよ」

 ほとんど負け惜しみだった。生も死も朽縄にとっては同じ価値なのがもうわかっていた。それが自分自身のものであっても。

「その時はその時じゃよ。カオスが人を選別する。そこに意味なぞない」

 哄笑と共に、朽縄まどかは身を翻した。

 僕はもう追うつもりはなかった。朽縄にとっても、もうこの船での出来事は終わったことなのだとわかったからだ。

 ため息をついた。身体が重い。

「大丈夫?」

 声をかけられた。さっき撃たれた子供だった。肺の中で固まりかけた血を吐きだしたあとが口元にあった。

「僕はいつだって大丈夫だよ。君こそ平気なのか」

 僕は英語で応えた。あまり上手くはないが、少しなら何とかなる。少年の顔に喜色が浮かんだ。

「うん。ちょっと痛いけど。お兄さんが助けてくれたんでしょ?」

「気のせいだよ。トンネル効果で身体を傷つけずに弾丸が通り過ぎたんだ」

「何それ」

 子供は笑った。笑うと傷ついた肺が引きつって痛そうだったが、笑ったことには違いがない。

 平気か、と聞いたのは化け物丸出しの格好のままでいる僕に話しかけていること、それを遠目に黒人夫婦がハラハラした様子でうかがっていることについてだったが、その子は気にした風もなかった。

 感謝されたから意味があるとまでは思えなかったけれど、少しは気分がマシになった。

 そんな僕を嘲笑うように、銃声が一つ、二つ。

 ライフルではなく、拳銃の音だった。朽縄が逃げた反対側の通路から聞こえた。

 後回しにしていた姫香に渡したものだという、嫌な確信が僕の背筋を駆け抜けた。

「あー、今、大丈夫じゃなくなったかも」


   *


「この部屋は密室だったと言ったが、それは疑わしい。俺は知っているんだぞ、チャン君?」

「何をさ?」

 すねたような口調の張・占任。たるんだ腹を揺さぶるようにしてソファに座る。芋虫のように丸々と太った左手の薬指には、つい最近まで指輪をしていたようなくびれがあった。

 対面のメシエ・ブラックマンは盲目にしてすべてを見透かしたような態度。針のようなシガリロ(細い高級葉巻)の紫煙を身に纏い、自分の核心を隠すよう。

 クロエ・ミュラーは薄いゴム手袋をした素体たちに死体の断片を持ち上げさせ、観察していた。汚らわしい物には直接触れない、古めかしくやんごとない立場の者めいた振る舞いだった。

「AI開発は難しい。それこそ、人間の脳がごく自然に処理していることの再現すら出来ないほどに。AIを一から組むよりも、ブラックボックス化した人の脳を丸ごと転写した方が簡単だ」

「だから?」

「往生際が悪いぞ。君は自分と同じ、戸籍を持たない貧しい人間の脳を片っ端から開いてAIの元にしていた。複数のパターンが必要だからな。だが、それでもおっ付かなくなってクロエ君の臓物工場に頼っただろう? クリーンな脳みそだ。つまり、君たちは利益によって結びつきがあった。証言は当てにならない」

 元々白かったクロエの顔色が紙のようになった。

「NO。それは言いがかりですよ。私はあなたが複数の殺し屋を雇ったことを知っています。私の協力者であるミス・朽縄に対抗するため、緋蜂に声をかけていたということも。ミスター・張を無視して彼女を雇用することは難しいでしょうから、貴方にも事前の繋がりはあったはずです。そこを責めるのはお門違いでしょう」

 過剰に物事の色分けを明確にしようとする言葉遣いとは裏腹に、自らの立ち位置を曖昧にしようとするクロエ。

 紛糾する議論――沸騰してはいるが、どこか空虚。政治的闘争に付き物の、すべての価値が曖昧になっていく臨界点があった。

 彼らの内の誰かが雇った殺し屋が不死のゲームマスターを殺したのは明白だったが、殺し屋の裏切りや引き抜きも珍しくなく、更には彼らがお互いに秘密を隠し合っているために、事態は加速度的に複雑になっていく。

 政治のための政治/本質が見失われたパワーゲーム/中身が既に抜き去られた卵の奪い合い。

 一発屋ではない金持ちなら、誰もが知っている。金そのものはただの紙切れであり、数字も何かを表す指標に過ぎない。ただの紙切れに『何とでも交換出来る』という価値を付与出来る社会構造そのものに意味があるのだ。

 政治にもそれが言える。何かを得るための何かを得るために、様々なものが曖昧になっていく。誰かにとって価値のないものも、他の誰かにとっては価値があるかもしれないし、その逆も然り。

 そうした社会的価値観に翻弄されずに勝利し続けるためには、ある種の狂気が必要になる。組織を乗っ取るため、大金を得るため、不老不死になるために彼らはデスゲームに参加した。今はその延長線上で犯人探しをしている。しかし、本当に命を懸ける価値があるのだろうか? 大きくなった組織や財産で何をしたいのか、本当にそれに意味はあるのだろうか。

「探偵なんだろう、男勝りのお嬢さん? 君がさっきからやっているそれに意味はあるのかね?」

 ふいに、争いの中からブラックマンが灰川に声をかけた。

「お嬢さん、お嬢さんね……。僕をそんな風に呼ぶ人間は珍しい」

「男の子扱いされたかったのかね? 戦争ごっこに入れてもらえないのが寂しいか?」

「いや、その手のセンスのないからかいをする奴は、大体すぐに死ぬから。何だかおかしくって」

 灰川は議論に参加していない。先程からずっと、ベッドのそばにあったメモ帳を破ってはせっせと何かを折っている。見る見る内に、迷いのない精密な手つきで、ある種の工業製品めいた規格の紙飛行機が作られていく。

「意味がなければ闘えないのはね、雑魚だよ」

 灰川は言った。

「僕は無意味を楽しむことが出来る。多くの人はほんの少しの間だけなら無意味に興じてみせることが出来るけど、長引けばやがては耐えられなくなってしまう。だから人の心の中には物語が必要なんだ。自分は何か意味のあることをやっている、というようなね。特に高度に発展した社会の中では、自分の役割がなくては人は不安になってしまう。それは社会的な動物としての機能に過ぎない。栄養補給の必要が生じたら餓えを感じる、ダメージを受けたら痛みを感じるのと何も変わらない」

「キミは後から来たから犯人とは関係がないって言いたいのかな? でも、ちょうどいいタイミングで入ってきてボクらが閉じ込められたって考えると、すごく怪しいよねえ。すごくすごく」

 子供っぽく言葉を繰り返す張。

「どんなに優れた設計の飛行機でも、飛んでみるまではどこまで行けるかわからない。。信じた意味のあることに向かって努力していれば必ず報われるという考えは、結果的には運命論者にも似た妄念にしか辿りつかない」

 灰川は二つの紙飛行機を完成させた。やや小ぶりな紙飛行機を、大きな方の上に乗せると、子供好きする宇宙船のようなフォルムになった。

「NO。何を言っているのかわかりません。そもそも、貴方は他人に理解してもらおうとしていないし、論点をズラすことで私たちの思考を誘導しようとしている」

 そう言うクロエ・ミュラーだったが、議論を中断して皆が灰川の紙飛行機に見入っている時点で、既に誘導は成功していた。自覚があっても、気にせざるを得ないのが灰川の持つ特有の引力なのだった。

 紙飛行機を持ったままソファから立ち上がり、灰川はまるで自分の物のようにブラックマンの胸ポケットに手を突っ込んだ。取り出したジッポライターで、組み合わせた紙飛行機の上の方にだけ器用に火を点ける。

「失礼」

 まるで失礼とも思っていない口調で灰川はライターをブラックマンのポケットに戻した。あまりにも当然のような仕草だったため、当のブラックマンも咎めるタイミングを失ってしまっていた。

 灰川は燃える紙飛行機を天井に向かって投げた。ロケットを使い捨てるスペースシャトルめいて空中で二つの紙飛行機は分離し、下段の大きな紙飛行機は重力に従ってすぐに失墜した。

 火の点いた方の小さな紙飛行機はその炎に引っ張られるようにして、天井に設置されたスプリンクラーにたどり着いた。

 誰かが「ばか――」と言った。もしかしたら、その場にいた灰川以外の全員かもしれない。

 果たして、スプリンクラーはその機能を全うした。

 火と煙に反応して、部屋中に水がばら撒かれた。しかし、それも一瞬のこと。煙草の先ほどの小さな火は、すぐに消えた。役目を果たしたスプリンクラーはすぐに停止、あとに残されたのは通り雨に打たれたような悪党たち。

「……自分が何をしたのか、わかっているかね? 説明してもらおうか」

 あからさまに答えが用意されてる問題についてあえて問いかけることで、相手に罪悪感を植え付ける技法。しかし、灰川にそのような良心は存在しない。

「ええ、わかっていますよ。普通のスプリンクラーは起動したら貯水槽が空になるまで止まることはないが、この部屋にあるのは特別製だと確認出来た。僕の予想が正しければ、今頃どこかの誰かが雇った朽縄まどかというテロリストが毒ガスを船内中に撒いているはずだが、この部屋に影響があるようにも見えない。空気の循環までも完全に独立している一種のシェルターだ」

 強くベッドを蹴るも、上にかけられた毛布と枕以外は床から少しも動かなった。固定されている。

 クロエ・ミュラーのプラスチックめいた表情がわずかに痙攣したが、すぐに平静を取り戻した。

 灰川は確かにそれを見たが、何も言わない。一つ優位に立ったということをほんの少し態度で示し、に留める。

「何故、その朽縄とやらが毒ガスを撒くとわかった?」

「本気で言ってるなら笑わせますね。毒ガス使いのテロリストが船内に乗ってるなら、使わないわけがない。おまけに、僕はここに来る途中にプールの底が抜けるのを見た。今時どんな手抜き工事をしても、水漏れの心配を考えたらありえない。事前にくり抜かれていたんだ」

「何でかな?」

 訛りこそないがチャイルディッシュな口調で問いかける張。濡れた髪が額に貼りついている。

「それこそ、そこの彼に聞けばいい」

 灰川はメシエ・ブラックマンに向かって紙飛行機を飛ばした。空中で彼の愛犬シドが機敏に反応、叩き落とした。それでも、クシャクシャになった紙に書かれたメッセージを張とクロエは読み取った。

Bomber爆弾魔』の文字。

「鉄鋼業をやっているなら、爆発物の扱いはお手の物でしょう? それを雇った殺し屋に横流しするのも」

 今度こそ、クロエの表情が確かに引きつった。張は目を見開き、ブラックマンは苦々しげ。

 灰川はこの船全体に爆弾が仕掛けられていると言っているのだった。

「確率を上げることは出来る。だが、人間にとって『絶対』は過ぎた言葉だ。このシェルターがどれだけの爆発に耐えることが出来るのか、現時点で確認する術はありませんね」

 その言葉に、広い部屋いっぱいに欲望のにおいが発散された。

 誰もがこう考えた――船が爆破される前に不老不死の法を手に入れなくては、と。


   *


 例えば、僕はお気に入りの鉛筆を使うのが好きじゃあない。

 使えば使うだけちびていって、どんなに大切にしていてもいつかは使えなくなって、捨ててしまう時が来る。

 それが道具本来の正しい在り様だとしても、僕は我慢ならない。

 例えば、僕は犬を可愛いと思っても自分で飼うに至ったことは一度もない。

 自分より早く死んでしまう生き物なんかに本気になってしまったら、大変だ。

 彼らから向けられる好意を、僕は持て余すのがわかっている。

 例えば、僕はいつか来る両親との永遠の別れを思うと、それだけで胸が張り裂けそうになる。

 人は死ぬ。いつか絶対に死ぬ。それが定めだ。

 わかっている。わかっているけど、でも、どうしても悲しい。

 魂の力は、その者が持つ無意識の才能だ。

 僕はすべてのものに等しく時間が流れていて、良きにしても悪しきにしても変化していくという、ただ当たり前のことが怖い。

 怖いということは、その対象を遠ざけることだ。しかし、それは同時に恐れの対象を自分の心に縛り付けることをも意味している。

 恐れれば恐れるほど、心はその対象を手にとって、微に入り細を穿ち、毛穴の奥まで見つめ込もうとする。

 僕は変化が怖い。だから、変化する。

 その矛盾こそが、僕を僕たらしめている。

 僕は灰川のそばにいる。

 僕は灰川が怖い。

 灰川の何が怖い? 灰川はいつだって僕の予想を超えてくる。灰川は強くて賢い。でも、それは半ば僕が望んで理想化した部分があって、灰川にも出来ないことがあるし、確実に僕よりも劣る所もある。それが人間というものだ。

 僕は、灰川が死ぬのが怖い。

 人は死ぬ。

 いつか死ぬ。

 絶対に死ぬ。

 誰が死ぬって?

 灰川が、

 誰が、

 灰川が、死ぬ。

「――認められるかよ」

 トランシーバーを握りしめた。

 僕は電話が好きじゃない。電話で告げられる用事はいつだって僕を憂鬱にさせることばかりだからだ。トランシーバーで灰川に連絡をすることは出来る。しかし、返事がなかったら? その時こそ本当に僕は不安で潰れてしまうかもしれない。

 僕はもう既に二つも失敗をしている。灰川の安全を確保する前に、朽縄まどかに毒ガスを撒かれたこと。助けると言ったはずの姫香をさらわれたこと。

「う゛ぅ~、う゛ぅ~」

 気付けば、僕は爪を噛んでいた。その癖はなくしたはずだった。灰川に止められて。噛みすぎて剥がれた爪が、早回しのような速度でギシギシと再生する。僕は人じゃない。灰川や姫香とは違う。

 僕は歩いている。歩きながら考えている。大丈夫だ、まだ取り返せる落ち着け落ち着け。

 毒ガスは撒かれた後だから、灰川がちゃんと対策していれば生きているし、駄目だったら今から僕が出来ることは少ない。一昼夜で苦しみつつゾンビになるなら、解毒をしに行くのにまだ余裕はある。朽縄のことは灰川も知っていたし、配下のロシアンマフィアたちはそこら中にいたはずだから、灰川がガスマスクを奪って回避した可能性は高い。

 問題は姫香だ。銃を撃つ余裕はあったようだから、忌名や緋蜂のような凄腕に襲われたわけではないだろう。多分、朽縄とのやり取りを監視していたアバラッドが、ゾンビを差し向けたんだと思う。

 人質が有効だと思われてる辺り、僕はナメられてるのか。イライラする。

 僕だってただ姫香をほったらかしていたわけじゃない。ワイヤーを取り込んで魔力に組み替えた糸が僕には見えていた。それは姫香に繋がっている。糸を辿って行けば、姫香を取り戻せるはずだ。

 しかし、姫香を助けることにどれだけの意味が――

 ブー。

 僕の頭の上で、映画が始まる時のようなブザーが鳴った。

 バン・バン・バンと弾けるような音と共に明かりが消え、通路の各所に配置されたモニターが起動する。暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる画面には、今では見ることもなくなった白っぽい砂嵐。

 過剰な演出が続く。どいつもこいつもテレビみたいなやり口だ。

『窓の外をご覧覧ください』

 奇妙な繰り返しと、粉っぽいノイズが混じって加工された声。自分の本物を誰にも明け渡さない呪術師の本領――アバラッド。

 見たくなかった。しかし、僕はその言葉を無視できなかった。乾いた砂に水が染み込むように、するりと僕の心に働きかけ、身体を動かした。

 ほんのわずかな希望すらも呑み込んでしまいそうなほど暗い海原に、いくつかの黄色い救命ボートがあった。ボートの上には先程助けた人たちがたくさん乗っていた。中には、僕が撃たれた胸を治した黒人の少年とその家族もいた。

 ふいにボートの側の、不穏に波すらない水面が、急激に沸騰したように盛り上がった。

 それは分厚くたるんだ皮の上に、海生生物特有のぬめりがある、巨大な触手だった。酷く醜く膿んだようで、しかし内側からおぞましいまでの生命力が供給されているのがわかった。

 遠近感がおかしくなるような長大な触手は、そのサイズからは想像も出来ないような速度で救命ボートを襲った。触手は人間が塩をつまむように、いくらかの乗客を巻き取った。遠すぎて声は聞こえなかったが、彼らは確実に悲鳴を上げていた。

「あーあー」

 いつの間にか、僕の口からは意味のない音が漏れ出ていた。それは死にゆく彼らの肺腑が絞られて、声帯を無理やり震わせていることと同じなのかもしれなかった。

 巨大な触手に持ち上げられてこぼれ落ちた幾人かは、吸盤に捕まった。吸盤の一つ一つが岩のうろに潜む怪蟲めいて、内側に尖った歯のようなものが生えており、人を呑み込んではズタズタにした。

 触手は一本ではなく、次々に水面を乱してボートを持ち上げ、叩きつけた。誰も彼も、逃げようがなかった。

 黒人の夫婦が、息子を海に突き飛ばすのが見えた。その直後に、彼らが乗っていたボートはのたうつ触手に潰された。

 少年と同じようにいち早く救命ボートを降りた人たちはいたが、すぐに何かに足を捕まれたように一瞬で沈んだ。

 誰も、浮かび上がっては来なかった。

 長大な触手は、それ自体が苦悶をたたえた別々の生き物のようだった。苦痛にのたうち、世界に憎悪をぶつけるように人と船を弄んだ。この世の全てに報復を求めているかのようだった。恐ろしいことに、どうやら触手たちはどれも、僕たちがいる船・アデライードの底に伸びているようだった。

 やがて、ボートも人も轢き潰され、海面を漂う塵芥になった。

『オマエが助けた者共は、皆くたばった。全部の全部が無駄だった。ちょっと命を長らえた程度で、世界がより良く良くなったと思ったかな?』

「思ってない。僕がやりたかったのは本当にほんの少し目の前にあった命を長らえることだけだ。魂の価値を上げるためにやったことだし、そこから先には僕の責任はない」

 わざわざアバラッドが言葉にしなくとも、以前に僕が契約した人たち全員が、あの救命ボートのように触手に襲われたのであろうことがわかった。人がわずかの間生き延び、皆死んだ。それだけのことだった。

 契約したはずの魂たちは、僕の懐に入ることなく船底のに吸収されてしまった。つまり、ピンチは続くということだ。

 僕が一歩一歩進むごとに、廊下の先が暗くなっていった。それは、僕が把握している姫香への方位と重なっていて、向かう方向が正しいことを示していたが同時に、辿り着くまでの苦難を予測させた。

『責任がない? 面白いことをことを言うんだな。そう思うなら、最初っから無理に助けようとなんてしなしなければいいのに』

「いいや、助けること自体に意味はある」

 ぬるりと生温かいものが口元に垂れた。いつの間にか鼻血が出ていた。僕の魂が身体を維持するのが難しくなっているのがわかった。

 アバラッドめ、心の扉から僕の魂を失墜させようとしてやがる。

 僕は応えなくてもいいことにまで一々応えてしまっていた。それこそがアバラッドの呪術なのかもしれなかった。僕の無意識にするりと入り込み、言葉を引き出していく。免疫力が下がった人の肉体を蝕むウィルスのように、アバラッドの呪術は僕の心の揚力を奪っていった。

 魂は世界を変えてしまうほどの大きな力を持っている。しかし、その引き金はちっぽけで矮小な個人の心が握っている。心が方位を見失ってしまえば、魂は失墜する。失墜した魂は、二度と元には戻らない。それは生き物がただ死んでしまうことよりも、ずっと恐ろしく惨めなことだった。

『オマエはただ、その場場場しのぎで責任逃れをしているだけさ。灰川真澄に従う、誰かの命を助ける。ぜーんぶ人のせい。その過程で敵を殺殺殺すのは構わないのか?』

「僕がどうこうしなくても人間なんて勝手に生きて死ぬっつーの。イキッた中学生が吹っかけるような倫理議論は興味ない」

『その中学生が心の中に持っている倫理観という柱すら、オマエにはなななない。心の中に行動の基準がない奴はただ状況に任せてあっちにフラフラ、こっちにフラフラするだけで、その行いには何の意味もない。何の意味も生み出せない魂は、腐って腐る腐った果実のように落ちていく』

「おたくみたいなの、知ってるよ。自分だけこの世の真実を知った気になって、インターネットとか駅前とかでずーっと誰にも聞いてもらえない演説してる奴。寒いから黙ってろ」

『諦観/冷笑/韜晦/自虐――どれも真面目に人生に向き合うことが出来なくなった人間のやり口だ。その場しのぎで心は守れても、長期的には何も生み生み生みだす力を失う、弱虫の生き方だ。バイトが終わるのを頭低くして待ってる時給七百五十円の三十路フリーターだ』

「話にならないね。おたくの言ってることは決めつけばっかりだ。ただの言葉だ。僕のママでも気取るつもりか?」

 鼻血が止まらない。僕はアバラッドの言うことなんか信じてない。信じていないはずなのに。

『本当にただの言葉か、試してみるかかか?』

 長い廊下の途中、一つだけ明かりが再点灯した。

 劇の主役めいて照らし出されたのは、一人の男。銀色のリボルバーを西部劇めいてクルクルと弄んでいる。男は言った。

「このゲームは最高だ。早撃ちなら誰にも負ける気がしなかったが、人を撃つなんて今まで出来なかったからな。この船で最速が誰か、お前もすぐに思い知ることになる。不老不死を手に入れるのは俺さ」

 僕は一足飛びに男との距離を詰め、力任せに殴った。男は脳漿を飛び散らせて死んだ。銃を構える間もなかった。明かりが消える。

 再び、数歩先の明かりが点く。

 照らし出された男は怯えていた。生真面目そうな眼鏡に船内スタッフの格好。しかし、大事そうにライフルを抱え込んでいる。

「こんなはずじゃなかった、こんなはずじゃあなかったんです……。僕はただのスタッフの仕事をやっていたはずなのに、いつの間にか銃を持たされて、人を撃てって……ううう撃たなきゃ僕が殺されてた! 上司が逃げようとするスタッフを撃ってたし、暴徒化した客たちが僕を襲ってきた! だから、だから僕は悪くない!」

 眼鏡の男がライフルの照準を合わせるよりも早く、僕は足元にあった西部劇気取りの死体を彼に投げつけていた。交通事故めいた衝撃にライフルを取り落して倒れた眼鏡の男に僕は歩み寄り、首を踏み折った。

 消灯/点灯。

 照らし出された女は、僕の姿を認めるとすぐにこちらに走り寄ってきた。

「助けてください! 一緒に来た恋人は殺されました! 友達はゾンビにさらわれてしまって、わたしはもうどうしていいのかわからなくって……。何でもするので、命だけは!」

 綺麗な髪を振り乱し、泣き崩れる女性。靴を舐めんばかりにすがりつこうとするのを止め、立たせた。

「わかりました。とりあえずここは危ないから、ついてきてください」

 手を取り、暗い廊下を歩きだそうとすると、背後で女性の気配の質が変わった。

「バーーーーカ!! そんな都合の良い女がいるもんか!! 騙されやが」

 女は最後まで言い切ることはなかった。僕の裏拳が下顎ごと首の骨を砕いていたからだ。

 消灯。

 どいつもこいつも言葉ばっかりだ。何の意味もないくせにベラベラ喋りたがる。朽縄まどか。アバラッド。名もなき雑魚共。自分語りばかりは一丁前のくだらない連中。同時に、そういうクソみたいなものを見れば見るほど、僕は感情移入してしまう。彼らと自分に、どれ程の違いがあるのかと。

 僕は歩く。どれだけ歩いたのかわからない。こんなに長い廊下があるのか? 僕は疲れていた。

 僕はモニターに向かって言った。

「僕を試しているつもりか? こんなことに何の意味がある」

 アバラッドは応えた。

『何の意味もないよ。オマエの魂と同じだ』

 鼻血が止まらない。

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