第5話 慰めの報酬(3)


   *


 停電が起き、船内が暗闇に包まれた。


   *


 船内の客室スイートの一室。そこはすぐに停電から復帰した。

 この船の中にいくつもある客室の一つだったが、それ故に何らかの特別な手段で調べなければたどり着けない場所だった。

 復帰した明かりに、死体が照らし出される。

 それだけなら珍しくもない。この船の中では死は既に常態化している。

 部屋の中には死体の他に、パソコンに繋がれたカメラと、人形があった。

 ――不老不死の誘いをかけた、ゲームの支配者が死んでいた。

 支配者の首は切断されていたが、それが直接の死因ではないはずだ。この船内にいた誰もが、首を落とした後も動く彼の姿を見ている。支配者の腹には、焦げ付いた大穴が開いており、血や内臓の破片が飛び散っていた。

 死体以外に、客室内には数人の人間がいる。この部屋にたどり着いたということは、つまり彼らは資格を持っているのだった。金銭というこの世を動かすルールの中で泳ぎ抜き、更に他人を出し抜く知恵と力を。

 重い空気の中、一人の男が口を開いた。

「はっきり言って、俺は君たちを疑っている。俺より前にこの部屋にいたのは君たちだ。俺が来るまでにどれだけ現場を汚染したんだね?」

 メシエ・ブラックマン――ワインレッドのシャツにダークスーツ。ネクタイには金糸で髑髏の模様。顔の半分ほどを覆う分厚いサングラスの向こうにある皮膚は焼け爛れ、眼球は白濁している。悪趣味さをゴージャスに着こなす盲人の悪党。鉄鉱業の家に生まれ、レアメタルの採掘で財を成した。

 付き従う黒い盲導犬シドは、いつでも対面の相手に飛びかかれるように身をかがめている。

「NO。最初に来たのは私ではなく、ミスター・チャンです。現場保存の原則を気にしなくていいのなら、もっとしっかりと死体を調べたかった」

 クロエ・ミュラー――漂白したような髪/肌/歯を持つ、六十過ぎの女性。清潔と言うよりかは、病的な潔癖さ。真っ白なスーツには、セフィロトの樹めいた幾何学的な文様が凹凸で示されている。若かった頃から、現代よりも倫理的な面で反対が多かったクローン医学を、専門的かつ強硬に推し進めたことで知られている。

 背後に立つ二人のボディガードは、すべての体毛を剃り上げており、何の特徴がないようにも、どの民族の人種的特徴をも兼ね備えているようにも見えた。彼女は彼らのことを『素体』と呼んでいる。素体たちは、まったく同じ姿勢で懐の銃を抜く瞬間を待っている。

「現場保存ねえ。信じてもらえるなんて思ってないけど、ボクは死体には触れてないよ。部屋の中は少し弄ったけど。ねえ、誰かこの人の頭を知らない? どこにも見つからないんだ」

 チャン占任チャンジェン――中国訛りのない英語。子供のような口調に相応のソプラノボイスだが、紺地のダブルのスーツはでっぷりと肥えた脂肪でボタンが弾け飛びそうになっている。何も持たない貧困層の生まれだが、独自AIの開発で見事に成り上がった時代の寵児である。

 押し上げられた顔の肉は福々しく笑顔に固定されているが、目の奥の光はどこか投げやりで何をしでかすかわからない、まるで大黒天マハーカーラの不穏さがあった。武器こそ持っていないが、緋蜂フェィファンを御しているという噂は信憑性が高い。金持ちを嫌うはずの緋蜂だったが、彼を例外としているのは同じ貧困層出身故のシンパシー故か。

 広々としているはずの室内の空気が、圧縮されて凝り固まってしまったような錯覚。

 沸騰寸前だった空気は、ノックの音によって水を差された。

 誰かが返事をするよりも、彼らの側近たちが武器を向けるよりも早く、訪問者は勝手にドアを開けた。

「どうも、僕だ」

 灰川真澄――探偵。

 けたたましいブザーが鳴り、ドアの向こうに防火シャッターめいた金属製の壁が現れた。同じく、窓も外の景色が見えなくなる。

『この中に、私を殺した犯人がいる。謎を解いた者には、不死の法を授けよう』

 人形が喋った。船内のどこかで全員が聞いたことのある、男の声だった。

 張とクロエが猜疑心を以て周りの人間を見渡した。

 ブラックマンには視線というものがない。代わりに、ボディーガードでもある犬の背中をなで、いつでも牙を剥けるように合図した。

 灰川は誰よりも先に、悠然とソファに座る。誰が主人かを表す傲慢な態度。

 謎があり、探偵がいる。

 かくして物語は始まる。


 グレイマンはどこにもいない。

 彼がすべてを失ったのは、飛行機事故に遭ってからだ。自爆テロによる墜落。テロがその後、どのような政治的問題を引き起こしたか、彼は知らない。彼は眼前に迫る炎を覚えている。それだけがすべてだった。

 彼は肉体のほとんどを失った。皮膚は焼け落ち、手足はもげ、内臓もこぼれ落ちた。それでも彼は死ななかった。

 奇跡的に命を取り留め、その治療の過程で彼はモルヒネ中毒になった。痛みを消すための薬が、彼の心の痛みを増す毒となった。

 彼は国に引き取られた。ほぼ脳だけで生きている奇跡的な生命力を研究したいという人間は多かった。

 研究の過程で、彼は身体の大半を失った不具の人間から、サイボーグとでも言うべきものへと変化した。元々の生身の部分が専用の身体をすることで、誰にでも変わることが出来るようになった。

 この時点では、まだ彼はグレイマンではない。

 彼は新しい身体をくれた国家に恩を感じていた。身体を代えても残った生身の部分の痛みは消えなかった。モルヒネが必要だった。しかし、愛国心が痛みを麻痺させた。彼は国に身を捧げるように、志願した。彼に新しい身体を与えた者たちもいずれそれを要求するつもりだったので、お互いに何の問題もなかった。

 ここで、彼は正式にどこにもいない男グレイマンになった。

 ありとあらゆる身分がなくなった。それらは作戦に応じて国から支給される使い捨てのものになった。事故に遭うまでにいた家族に会うことは二度とない。そのことへの郷愁も、もう記憶としてしか存在しない。

 国家の敵を打ち斃すごとに、自らの有用性を確信することが出来た。自分には価値があるのだと、誰かから必要とされているのだと、そう思えることがモルヒネを上回る快感だった。

 彼は自らがいずれ死ぬことがわかっていた。生身の部分は無理やり生かされているだけであり、いつ限界が来るかもわからない。前例がないのだ。それに、作戦の失敗で敵に捕まることもあるかもしれない。そうなった時、彼は死ぬ。彼には戸籍も国籍もない。死んだあとは星になる。作戦を遂行したという名誉だけが残る。それでいいと、彼は思う。

 グレイマンは室内を見渡した。豪華客船のスイートルーム。そして、死体。

 彼は、もう誰でもない。どこにもいないから、誰にでもなれる。作戦は滞りなく進行している。

 グレイマンの眼前では、いずれも劣らぬ悪党共が、不老不死の法を巡って見えない火花を散らしている。

 どいつもこいつも有罪だ。

 手段を問わずに金を集める現世の亡者共が、寿命という制限まで失ってしまっては社会が混乱する。罪のない国民たちが被害をこうむる。

 ――許せるものか。

 グレイマンは義憤に震えた。自身が破滅しようとも、この船を丸ごとという決意を新たにした。

 ふと、悪党の中の一人、灰川真澄がグレイマンを見た。

 何故だか、彼は目が逸らせなかった。

 灰川はそんな彼に、ウィンクを返した。


   *


 停電で暗くなった廊下を、姫香の車椅子を押しながら歩く。そのことで初めて、もう夜になっていることがわかった。自分がどれだけの間、闘っていたのかわからない。僕は腕時計をしないし、わざわざ携帯を取り出して確認する気もなかった。

 空調も切れているのか、じめじめと蒸し暑くなってきた。

「アンタ、どこに行こうとしてるの? 自分がどこを歩いてるのかわかってる?」

 僕は船内の地図を持っていない。見てもわからないだろう。ただ、その内に会う奴を斃せばいい。奇妙な楽観があったので、姫香の言葉には応えなかった。

 気になるのは、こんなに停電が長引いているのはおかしいということだった。だだっ広い海のど真ん中で、この規模の船が「電気が使えなくなったので、もう動けません」なんてことを許すとは思えない。本当ならすぐに予備電源に切り替わるはずだ。

「そもそもこんなことに終わりなんてあるの? どこかに隠れてみんなくたばるまで待ってればいいじゃない。ウロウロ出て回るなんて馬鹿げてるわ」

 発電室がどこかしらの勢力に抑えられたとみて間違いないだろう。手慣れたテロリズムのにおい――朽縄まどかの手か。

「ちょっと、聞いてるの!?」

「『仕方なくなりたい』と思っているね」

「何の話よ」

「君は自殺は弱い人間のすることだと思っている。責められるべきことだと。だが、君はもう生きることに耐えられないとも感じている」

「そんなこと」

「ないとは言えないはずだ。見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。君は憎悪に疲れ切っている。だから、仕方なくなりたいんだ。交通事故や、隕石の欠片や不治の病で死んでしまいたい。そうすれば、君には何のもないから」

 やっていることでは、いずれ心が動かなくなる。僕は責任が怖い。でも、何かが足りてないのはわかる。それはきっと、姫香も同じことだ。

「アンタに何がわかるのよ。そんなの、ただの言葉じゃない」

「僕も同じことを思う。仕方なさの渦の前に、人は必ず諦めてしまう。だから僕には敵が必要なんだ」

「私の命に責任を持ってるつもり? 助けてもらったなんて思ってないわよ、さっきも今も」

 君はそう言うと思ってた、その言葉を呑み込んだ。自分の望んだ言葉を強請ることで気持ちを慰めようとしたが、むしろ渇くばかりだった。

 僕には自分の卑しさを許す習慣がなかった。忘却が必要だった。

 血と鉄と、人の恐怖と興奮のにおいが一歩一歩進むごとに濃くなっていく。

 僕たちはダンスホールの二階にたどり着いた。真ん中がぽっかりと開けて、ぐるりと通路が楕円を描いている。階段はなく、一階に行くためには元来た廊下を戻らなくてはならないようだ。

「ひっ」

 声を上げようとした姫香の口をふさいだ。車椅子のタイヤの側には、ライフルを抱えた死体が転がっていた。通路が暗く、触れられるほどまで近づいてようやく気付いたのだろう。

 頭を銃弾に砕かれた死体は給仕の格好をしており、運営側の狙撃手と思って間違いはないようだった。灰川、忌名、そして朽縄まどか。ゲームマスターの手駒を潰して回る輩がこんなにも多いとは。

 一階を見下ろす細い通路には、元々彼ら運営側の狙撃手が配置されていたのだろうが、今は別の者たちが立っている。彼らは同じ暗がりにいる僕たちに気付いていない。

 僕のフクロウの目は、銃を構える屈強な男たちをとらえた。彼らは一様にガスマスクを装着している。服の下にも隙間がないほどびっしりと刺青を施したロシアンマフィアの軍隊。バラやキリストの図柄は、彼らのアイデンティティを昔ながらのやり方で主張している。しかし、僕たちの目を惹いたのはもっと別の刺青だった。

 特殊な蛍光塗料で施された刺青は、不気味に暗闇で浮かび上がる。普段の日の光の上では見えないそれは、骸骨の姿を表していた。空調が止まり、暑さで何人かが半裸になっており、彼らのあばら骨や背骨が光って呪わしくも陽気な死の在り方を主張していた。

 ちょっとした体育館並みの広さで、余裕でパーティーが出来るような一階には人がたくさん集められている。恐怖のにおいはここからしていた。僕が契約して逃がしたような人たち、殺し合いに乗ることが出来なかった羊たちの群れだ。ロシアンマフィアの銃口は彼らに向けられていた。

 怯えた人たちを取り囲む銃口からは、暴力と優越感による興奮のにおいが発散されていた。

 僕はこのにおいが嫌いだった。人が人を踏みにじることにありとあらゆる正当性があるとは思えなかった。暴力で彼らにそれを思い知らせることは、また新しいカルマを生むだけだとわかっていても、僕は我慢がならなかった。

「あの人たちを助けることに、意味があると思う?」

「さあ?」

 返す声は小さく、震えている。しかし、混乱はない。先ほど死体があったことには怯えていたが、すぐに起こるであろう死に対しては姫香はもう適切な距離の取り方を見つけたようだった。

 姫香の心は、恐怖と自棄と気高さの間を短い間に何度も行ったり来たりしている。僕にもそれが伝わって、心がブレる。

「あの人たちが生きることが良いことなのか、悪いことなのか。損なのか得なのか、そもそも人間のほんの一握りが少しばかり寿命を延ばして何が出来るっていうんだ? 今の僕は気が滅入っていて、本物と偽物の違いがわからない」

 いや、違うな。僕は人の命に関わって、責任が発生することを面倒がっているだけだ。

「新興宗教なんかに興味はないわ。それに、ここまで来て今更何を言ってるの? 大事なのは今、自分がどうしたいのかでしょ? 一々架空の何かにおうかがいを立てて、バッカみたい。私は今は自分が生き残ることで精いっぱいよ。お父様もいないからどうでもいい。アンタがあの銃口の前に立って、撃たれてあげに行くってのなら、ざまーみろって言ってやるわ」

 姫香は賢かった。僕が必要な言葉を引き出そうとしている以上に、望んで言葉を選んだ。

 僕は傍の死体をまさぐって、拳銃を取り出した。姫香に渡す。

「使い方は……まあ、テレビ見てたら何となくわかるでしょ。使わないで済むと良いけど」

 場合によっては、この銃で姫香が自害に及ぼうとするだろうとも考えた。

 助けるとは言ったが、誰もがいつでも強くあれるわけではないと僕は知っていたし、それを責めるつもりもなかった。銃はただの道具だ。そして、道具を使うのは人の意志に他ならない。

 姫香は銃の安全装置を確かめた。慎重に、そして使う時に少しも後れを取らないために。

「アンタは?」

「銃は苦手だからね」

 僕は心臓が跳ねるのを抑え付けるようにして、始めはゆっくりと、そして徐々に音もなく加速していった。

 暗がりに乗じて、瞬く間に二人の男をダンスホールに突き落とす。落下した男の悲鳴で、一斉に銃口が大まかにこちらに向けられる。

 ガスマスクをかぶった骸骨の群れ。冷たく熱狂する死の有り様。彼らは音に反応しただけで、僕の姿をとらえてはいない。僕ほど夜目が効く人間はいない。

 その中に、場違いとも思えるゴスロリの少女が一人。

 ずいぶんと離れていたけれど、その少女だけは僕の姿を正確にとらえていた。遠くにあっても何故か僕にはその目がしっかりと認識できた。縦に割れた瞳孔、歳に似合わない邪悪な笑み――朽縄まどか。

 僕は素早く通路を一周すると、一階のフロアへと飛び降りた。

 手元で蛇の呼気めいた音がして、巻き取り機構が回転、二階の男たちの首が飛ぶ――ククリナイフと共にくすねたレインマンのワイヤーが猛威を振るう。

 マズルフラッシュが瞬く。暗闇の中で放たれた弾は見当違いの方向に飛んで、僕には当たらない。フロアの中央に集められた客たちが銃声に怯え、床に伏せる。銃社会の人らはこういう時に話が早い。

『助けて! 助けて!』

 客たちが叫んだ。僕に向けられた言葉ではなかったが、結果的にそれに応えることになる。

 ワイヤーで切断した首を投げる。アンパンマンみたいに頭がすげ変わったロシアンマフィアが、反射で指を握りしめてあらぬ方向に連射。

 人の頭は重くて硬い。具体的には、ボーリングの球くらいには。なので当然、悪魔の剛力で投げつけると人が死ぬ。

 結わえたワイヤーを手繰り寄せ振り回すと、音速で生首が飛び、血を振り乱す。伏せた客たちには当たらずに、ミキサーめいて死を量産。

 生首で撲殺、僕とそれを繋ぐワイヤーが間合いに入り込んだ不幸な荒くれを血袋に変える。遠心力に引っ張られた糸が、硬化した僕の指をそれでもなお喰い千切ろうとする。

 銃声/悲鳴/罵声の中に、それを貫く生首の奇怪な風切り音。散発的な銃火がカメラのフラッシュのように地獄の光景を照らし出す。流れ弾に当たる客。恐怖が恐怖を呼び、増幅する悲鳴。

 ――朽縄はどこにいる?

 死んだのは銃を持った男ばかり。この程度で死ぬようなら、テロリストの中で神のごとき扱いを受けはしないはずだ。

 ワイヤーとは別に、感覚の糸の半径を広げる。

 死体と敵と銃と怯えて丸まった人たち。その中に朽縄まどかの姿はない。

「……敵が減ってない?」

 首や胴を両断された死体たちが、てんでんばらばらに再び立ち上がり、僕に銃を向けてくる。生きていた時とは違い、それは確かに僕を狙っていた。

 暗闇の中に、骸骨の刺青が蛍光グリーンに浮かび上がる。砕けた白骨死体を再構築する検死官を幻視するような、奇妙な有り様。

 動揺は、する。だがそれで動きが止まることはない。ワイヤー半径の動く死体共を何度でも切断/切断/切断。

 その中で思い出すのは、灰川から聞いた殺し屋共のプロフィール。ゾンビを操るのはブードゥーの呪術を使うアバラッドだったはず。何故、朽縄まどかが彼らを操っているのか。

 切られても切られても骸骨たちが徐々に迫ってくる。断続的な銃火。火と鉄の化身、戦争の神オグンがここにいる。

 ゾンビたちは射線が重なることなど気にせずに、僕を包囲して撃ってくるため、すぐに同族が巻き込まれ出した。鉄火に練り潰されて刺青が原形を失うと、その死体は動かなくなった。代わりに残った刺青の部分が他のゾンビに取り込まれ、異形の怪物となった。

 その凄惨さに、過去に闘った助野透を思い出した。彼女もまた、ゾンビを用いた陽動で僕を殺そうとしてきた。ならば、今回のゾンビの主である朽縄は?

 僕はとっさに近くにいたゾンビのガスマスクを剥いでベルトにくくり付けた。直後、停電していたはずの部屋が明るさを取り戻す。

 部屋の中央、伏せた客たちの真ん中に一人、朽縄が立っている。

 電気が復活したことにより、空調が動き出したのが音でわかった。それと同時に、客たちが苦しみだす。

「ぜひっ、ぜひっ」

「ひゅーひゅー」

 呼吸を阻害され、苦しむ人の群れ。再起動した空調が、無味無臭の気体を辺り一帯に撒き散らしたのがわかった。

「毒ガスをばら撒くのがお前の目的だったのか」

 僕の言葉に、朽縄は拍手で応える。

「本当だったらもっと早い段階で空調設備を奪取したかったんじゃがの。お主が来るタイミングが早かったせいで、せっかく兵隊共に用意したガスマスクが無駄になってしまったわい」

 鈴を転がすような少女の声に、老獪な蛇の語調。気味が悪い。

「嘘つけ、最初っから死んだらゾンビとして使うつもりで用意したくせに。アバラッドと組んでるのか?」

「これこれ、聞き出すにしてももう少し手順を踏むべきじゃろ。若いのはせっかちでいかんのぅ」

 僕には時間がない。船内全域が毒ガスで汚染されたら灰川が危ないし、姫香も死ぬ。客たちを救えなかったのは痛いが、優先しなければいけないことが多い。

 そんな僕の焦りを見透かしたように、朽縄は邪悪に笑う。

「安心せい。苦しむが、死ぬまでにはたっぷりと時間がある。お主が魂に糸目をかけねば、こいつらも救えるだろうよ」

 つい、と片手を上げると、ゾンビの一体が彼女に拳銃を手渡した。朽縄は無造作にその引き金を引く。

 バン!

 客の一人の背に穴が開く。黒人の子供だった。自分の息子が目の前で撃たれたというのに、その両親と思しき男女はもだえ苦しむばかりで、悲しみに心を裂く余地がないようだった。

 朽縄はそんな彼らを面白そうに、あるいは慈しむように覗き込んだ。二股に割れた舌が、口元でのたくった。それが彼女の笑みの形なのだと理解するのに、僕はかなりの想像力を必要とした。

「人の心は曖昧、そして不可思議じゃ。善を望んでも、行動に移さないことがある。悪徳に溺れることもある。そう思うじゃろう?」

 バンバンバン!

 飛び出した僕は一発目の銃弾を硬化した前腕で弾き、次が発射される直前で朽縄の手を蹴り上げる。二発目、三発目は天井に消えた。

 客たちの前に僕は立った。残り少ない魂を更に分割して、撃たれた子供の出血を止めた。弾は貫通していたはず。あとはもう、僕の責任ではなく運の問題と思うことにする。

 ゾンビたちは周囲を警戒するように僕たちを取り囲み、朽縄の次の命令まで待機している。光の下では蛍光色の刺青そのものは浮き上がらないが、呪術のパターンは消えることがない。

「僕、お喋りしながらバトルするアニメとかって『早く話進めろよ』って思っちゃって苦手なんだよね。あとはもう、遺言だけにしとけよ」

「くはは、ならばたんと喋ってやろう! そうさな、アバラッドを雇ったのはワシじゃ。殺し屋が殺し屋を雇っていけない道理はあるまい?」

 僕の放った蹴りに応じて朽縄が踊るようにターンすると、ドレスのフリルが目の前一杯に広がった。黒と白の中に、銀色の閃きが混ざり、皮膚の表面に痛みが走る。

 ドレスの中にカミソリめいた刃が仕込まれているのだ。

 僕もただ切られたわけではない。かわされたかに見えた蹴りの先には、変化の際に体内に取り込むのが遅れて千切れた靴の断片が舞う。本来なら当たらない距離だったが、僕の爪先には異形の鉤爪が生え、朽縄の喉を裂いていた。

 頸動脈を断たれた朽縄の首から、すさまじい量の血が噴き出る。

 朽縄は死につつある自分の肉体に執着しなかった。人形めいて整った少女の顔が、見る者の正気を歪ませるように変形する。あごが外れ、口腔内からぬるりと指が這い出てくる。

 糸を引っかけて切断するも、朽縄はもうを終えていた。蛇の不死性が、悪夢のような形でこの世に顕現していた。

 朽縄まどかは悪魔ではない。悪魔は人間が魂を獲得した瞬間から生じたものだが、彼女はもっと古く忌まわしい、別の何かだ。

 殺せるのか?

 そもそも不死の者を相手にする際に、勝ち負けといった概念が意味を持つのだろうか?

 僕にはわからないことが多すぎる。悩むのは金がなくって時間ばかりがある貧乏人の趣味だ。この船にいる間は似合わない。

 しかし、この場に限ってはその時間もない。朽縄がそれを思い知らせに来た。

「シャーッ!」

 噴気音。しかし、威嚇ではない。朽縄の吸血鬼のように伸びた牙から、毒が噴射された。再生が追いつかない傷口を狙われている。

 リンカルスという毒蛇はドクハキコブラとしても有名であり、名前の通り防御行動として敵の目を正確に狙って毒を吐くという。僕も獲物の例に漏れず、かわすことが出来なかった。

 コブラの毒は神経に作用する。その効果は麻痺やしびれ、最悪の場合は呼吸や心臓が止まり、死に至る。もちろん、朽縄まどかが最悪を用意していないわけがない。

 僕は悪魔だから基本的に毒は効かない。しかし、毒を毒と認識して無効化する、というプロセスを経なければならない。蛇の毒にはもう一つ出血毒という種類があるが、そちらよりも神経毒の方が効果が早い。

 神経に作用するため、意識がぐらつく、ブレる。毒を無効化するのが遅れる。

 毒の作用で筋肉が急に収縮してうずくまりそうになった僕のあごを、朽縄が馬鹿みたいに分厚い靴底で蹴りぬいた。

「善も悪も、ただの言葉に過ぎぬ。常にあるのは混沌のみよ。ワシはこれが大好物でのぅ」

 苦痛はダメージを認識するために人の身体に備わった機能だ。僕はまだちゃんと機能している。相手が何だろうと、最後に勝つのは僕だ。

「殺し屋同士でも共闘や裏切りがある。それを雇う人間にも当然、損益の配分が重なる瞬間がある。全ての人間が何気なくやっていることと何も変わらないのじゃよ。クロエお嬢ちゃんはワシを管理していたつもりじゃろうが、それもお互い様というもの。完全なヒトの複製を作るためには莫大なコストと記憶引継ぎの問題があったが、あの小娘はクローンを拒絶反応のないドナーとして利用した。ワシは臓物工場と呼んでおるがの。世界のどこかで戦争やテロが行われ、その過程で死に損なった者共が一縷の望みをかけてクロエお嬢ちゃんにすがりつく。安全な内臓、安全な手足、安全な皮膚が死に損ない共に移植され、それで儲かった金がワシに払われ、新しい兵器が作られる。ワシらを含めた多くの人間の間に利益の共有があり、社会と経済が生じる。秩序だって見えるが、これこそが混沌の本質でもあるのじゃよ」

 心が死の恐怖に震える/心の震えが魂に伝わる/認識が僕の世界を変える――苦痛が止んだ。

 毒が消えて晴れた視界には、銃を構えるゾンビの群れ。無数の銃口は正確に僕をとらえている。

 僕の放った肘打ちが朽縄の、見た目だけは可愛らしい少女の側頭部を砕くが、すぐにそれは再生される。ボロボロと鱗が剥げるようにして、超スピードで固まった血が落ち、その下から真新しい皮膚が現れる。

「この船はそれ自体が一個の怪物じゃ。命を競い合わせ、最後に生き残ったものの魂を喰い尽くす。不死の法はついでに過ぎぬ、いや、むしろ呪いか。生き残ったものは次が来るまで囮にされる。ここに来た殺し屋連中にも様々な理由があったようじゃが、このゲームの主催者から直々に自分を殺すようにという依頼もあったのじゃよ。だがしかし、このワシにも不死殺しは出来なんだ」

 おかしいと思った。携帯電話が通じなくなるような妨害が出来るのに、トランシーバーが有効だなんて都合が良すぎる。それがあった方が殺し合いが面白くなるから、わざと許可してあったんだ。

 利益と損害の共有。そして誰かにとっての損害が誰かにとっての利益になるということ。僕は闘うことは得意だが、戦争は苦手だ。人がたくさん関わると社会や政治が生まれる。僕には理解のできない領分だ。いや、本当は誰にも完全に理解することは出来ないのかも。それこそが混沌なのだから。

 更に蹴りを入れようとする朽縄の足を抱え込んだ。お互いの動きが止まる。

「何かを共有することは、その外側にあるものを認めないことと同じじゃ。クロエお嬢ちゃんも完全なヒトの複製の目途が立った今、ワシを切り捨てるためにこの船に送り込んだ。裏切り者を赦すつもりはないが、それ自体が珍しい事態というわけではないのぅ。ただの社会的なやり取りの一環に過ぎぬわい。さて、お主は誰と何を共有しておる? それがいつまで有効な切符だと認識しておる? その認識はどれだけ正しいものか、確かめたことはあるかのぅ?」

 自分もまとめて撃たれる直前だというのに、馬鹿げた饒舌さ。意味のないことでも、それをやらずにはいられない。ベラベラ喋って僕に嫌がらせをすると決めたら、それこそ命懸けでする。化外の者たちは、世界のルールを踏みにじることは出来ても、自分のルールだけは無視出来ないのだ。

 ゾンビたちは構えを解かない。不死の属性を持つ朽縄は、人質にはならない。わかっていたことだ。

 一斉掃射。

 時間の感覚が透明な泥めいて鈍化した。

 口の中でぼそりと呟く。

「――変身」

 脊椎を中心に黒く、細く、薄く、そして質量のない触手が無数に伸びた。それは僕の全身を何重にも覆い、硬質化していく。

 昆虫と人間の畸形児に変化した僕の全身を、フルオートの銃弾が襲った。黒い甲殻の表面を火花が舐めつくすがしかし、一発も僕の肉まで貫くことはない。

 対して、朽縄の身体はいともたやすく鉄火の前に引き千切られる。破壊→再生→破壊→再生→破壊→再生→……。死に死に死んで生き返る朽縄の肉体は、どちらがニュートラルな状態なのかを忘れてしまうような混沌の有り様を、自ら体現している。

 絶え間ない銃火と硝煙の煙。僕の甲殻にぶつかった火線の一つが天井に跳ねた。シャンデリアを貫き、スプリンクラーが砕かれ、水が撒かれた。大海のど真ん中で真水が浪費される馬鹿げた状況。

 銃声が止んだ。撃ち尽くした弾倉を交換するずぶ濡れのゾンビたち。

「頑張るのぅ。だが、次に狙うのはお主ではない。どれだけの命を救えるか、試してみるのも一興じゃと思わんか?」

 ゾンビたちのライフルが今度は僕ではなく、伏せたまま怯え、毒によって苦しんでいる客たちに向かう。その中には、先程の子供もいる。

「僕は命に価値を見出してなんかいない」

「嘘じゃの。なら、何故子供を助ける? お主には何の得もないのに。信じていない価値観では魂は動かぬ。お主には人間性が必要なんじゃろう?」

「僕はただ、餓えているだけだ。生き物すべてが死ぬ瞬間まで抱え続けている絶え間ない飢餓のために、時には不味いものでも食べるのさ」

 僕はカジノの奥で、あまり食べたくなかったブロッコリーを食べた。あれには毒が入っていた。効かないのがわかっていたとはいえ、食べる必然性があったわけではない。どうしてだろう。残すことだって出来たはずなのに。選んでそうしたようにも思う。選ぶほど考えずに、ただ何となくそうしたようにも思う。わからない。ただ、結果として僕は毒を食べた。それだけは間違いない。そして、僕にはそれだけで充分だった。

「命の価値を信じているのはおたくだ、朽縄まどか。おたくは他者を殺すし、自分自身も死ぬ。それが何でもないことのように出来るのは、最後には結局生き返るとわかっているからだ。本当は滅びてしまうのが怖いくせに」

「何を……言って、おる……?」

 朽縄の顔色が変わる。

 僕は撃たれていた間もずっと握りこんでいた朽縄の手を離すと、内側に隠すように指の股に挟んでいた、虫ピンめいた細い釘を見せてやった。

「それはっ」

「緋蜂の、不死殺しの釘だよ」

 その釘はぞっとするような赤色に塗られていた。

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