第4話 慰めの報酬(2)
忌名が動くよりも早く、レインマンの手首ごとククリナイフをもぎ取った。
ククリナイフは手元で小気味よく反転、忌名の突きを迎撃した。
金属同士が火花と共にハウリング。二つの凶器が己の有用性を証明せんとする。
忌名の突きは止まらない。精妙な手元の操作によって短槍は金属であることを忘れたかのようにしなり、僕の肉を喰い千切ろうとする。
十合ほど打ち合ったところで、忌名が何かに気付いたような顔をした。だが、もう遅い。
僕がククリナイフを手繰ると、忌名は何もない空中から手を引き抜くような動きをした。一瞬の後に、彼女の槍が磁石に吸い寄せられたかのごとく天井に向かって飛び、刺さる。
レインマンから奪ったのはククリナイフだけではない。極細の殺人ワイヤーが宙を舞う。
蜘蛛の糸ほどの重さのワイヤーを感じ取る忌名の驚異的な反応速度。本当にこいつ人間か?
無手のまま異様に直線的に距離を詰めてくる忌名。その目には実力で劣る僕に対しての侮りもなければ、武器を失った狼狽もない。ただただ自分が為すべきこととして最短距離/最短時間/最善手を選ぶ凶器自身の有り様。
あっという間に懐に入られた。投げを避けるために脊椎を狙ってナイフの柄を振り下ろすが、忌名にあっさりと払われる。シマウマめいた視野の広さである。そして、ククリナイフを持った右手の親指が軽く打たれただけで砕けていた。彼女の指の一本一本が寸鉄同様の威力を持っているのだ。
指は再生するが、間に合わない。たまらずククリナイフを取り落す。お互いの息がかかる、素手の間合い。
足元の水が跳ねる。上から流れ込んだプールの水は、既に膝下までを濡らそうとしていた。
濁った水に隠したはずの蹴りは、何と忌名には読まれていた。攻撃の出先、膝の皿に
忌名の攻勢は止まらない。僕の膝を踏み台に、水月、顎と蹴り技で駆け上がる。
忌名はひるまない。伸びきった僕の腕を巻き込むようにして、肩ごと僕の頭を抱えた。
「――
技の名前らしきものを呟くと、忌名は後ろへ自ら倒れ込んだ。同時に、僕の頸椎に凄まじい圧力がかかる。
連続した蹴りから首折りへと繋げる流れが『飛王』と呼ばれる技か。
しかし人間なら即死を免れないであろう技も、悪魔の耐久性でねじ伏せる。
みりり、と首から嫌な音がした。筋力で忌名の身体を無理やり支えているためである。
「飛王に耐えるか」
技を受けられたのを一瞬で悟った忌名は、躊躇なくプランを切り替えた。
不吉が人の元を訪れる速度で、両足が僕の首にかかる。ぞっとするほど冷たく/硬く/慈悲のない、絞首刑の縄の感触。
前三角絞め。
悪魔の能力は魂に
「不味い」
以前、助野透に僕がやったことの逆転が起きている。
とっさに変化して逃れようとすると、魂が内側から引っ張られるような感触がして、変化が中断された。
脚の輪越しに、忌名と目が合った。絶対零度の瞳は人間のくせに、僕の魂を真っ直ぐと見据えている。
魔を散らす力を持つ目を、浄眼と言う。
魔力が唯物の世界に作用する時、法則にほんの一瞬の揺らぎが生じる。その揺らぎを観測することによって確定させ、術式を打ち消すのが浄眼の能力だ。
いくら強いとはいえ、人間が悪魔を狩っているというのは半信半疑だったが、浄眼持ちなら納得である。まさか自分が出くわすとは思わなかったけれど。
駄目だ、相性が悪すぎる。
万力めいた力が首にかかる。落とすことよりも、首の骨を圧搾してへし折ることが目的のようだ。一度僕が気絶すれば、魂が絶えるまで何度でも殺す構え。
目をえぐろうと、固められた方の腕の指を伸ばすが、わずかに届かない。
圧迫される力を利用して、自分から肩の関節を外すと、忌名の身体が支えきれずに床に落ちた。それに合わせて僕の上半身も
忌名は濁った水の中からもまだ僕を見ている。お互い水中で息が出来ないが、首を絞められていた時間分、僕の方が不利だ。
外れた肩だけ間合いが伸びた。僕は人差し指を伸ばし、忌名の鼻孔へ突き込む。苦痛が泡となって水面に浮かび出た。
ほんのわずかの隙。それで僕には充分だ。
僕は2mほどの大カマキリに変化した。サイズを変えて前三角を逃れることは出来なかったが、問題はない。
昆虫は腹部の気門によって呼吸を行う。下半身の大部分が地上にある僕はこれで意識が落ちることはない。呼吸が出来ないのは忌名だけだ。
僕の形が変わったのを悟った忌名は、金属でもプラスチックでもないキチン質の鎌が喉を切り裂く前に、またすぐに技を解いた。一つ一つの動作にことごとく
お互いずぶ濡れのまま向かい合う。僕がえぐった忌名の鼻孔から、ぬるりと太い血の筋が這い出て、呼吸を阻害しているのがわかった。そしてそれによって更に彼女の殺意が高まったことも。
忌名は壁を蹴って、天井に向かった。刺さったままの槍を回収するためだ。
僕はそれを見るか見ないかの内に、忌名に背を向けて走り出す。
「しぃやっ」
背後から忌名の怒りの声が聞こえ、背中に数本の鏢が突き刺さった。熱い痛みと、鏢の刃に塗られた毒の凍てつくような悪寒を感じたが、それでも僕は足を止めなかった。
まるで勝てる気がしない。
僕はもうまともに闘うことを諦めていたし、どこかに逃げ場がないかと、全力で周囲を感覚していた。
その探知網に、一つの禍々しい魂が反応した。正直近づきたくないが、他に何も思いつかない。
曲がり角で忌名の視野の外に出た一瞬で水浸しの床に腹ばいになり、魚に変化した。水中で加速するも、追いつかれる。人間の動きではない。広大な船の中で、逃げるために、角にさしかかるごとに僕は様々な動物に変化して見せた。魔力の大盤振る舞いだったが、必要な出費だと思いたい。
嫌な気配の魂に向かって、這う這うの体で逃げる。忌名も誘われているのは丸わかりだろうが、真正面から僕を潰すことにしたようだった。
目的の部屋に近づくと僕の強化された感覚器が、ブンブンと怒った蜂の羽音めいた言葉を拾った。発音からして、多分中国語だろう。
『アタシは
言っている内容はわからなかったが、扉の向こうにある魂が憎悪に浸かりきっているのがわかった。自らの憎しみを動力に更に増殖していく、狂気の無限機関。
おぞましさに僕の心はすくみ上ったけれど、僕の身体は
ドアノブに手をかける。
開かない――水圧のせいだ。
馬鹿かよ! 何で人間がやるみたいに普通にドアを開けようとしてるんだ!
背後で忌名が
一瞬でドアノブに触れた手のひらに魔力が圧縮され、解放された。
僕の手は背中で隠れているから、忌名の浄眼に遮られることなく爆撃の術式は起動する。
爆音と閃光をたっぷり。金属製のドアが紙細工めいてひしゃげる。
忌名の視線が遮られた隙に、僕は仕上げの変化をする。
突き出された短槍が食い込むであろう位置に、ちょうど短槍が刺さったかのような穴が元々開いていた死体に化ける。
爆風の向こう側からは太い真紅の釘が飛来――部屋の中にいたのは緋蜂か。
釘を弾き飛ばすが、死を演じるために身体の内側から緋蜂のものに似せた釘を生成し、命中したように見せる。
破壊がひと段落し、くたばったように見える僕を挟んで二人の殺し屋が対峙する。
片桐忌名、そして緋蜂。
どちらも噂に違わぬ殺人の手練れである。向かい合った二人は、すぐに互いを敵に値すると認めたようだった。
僕はと言えば、その二人の足元で死んだふりに必死だ。
忌名の目の前で何度も生き物に変化して見せたのは、僕が無生物に変化出来ないという思い込みを植え付けるためだった。それがどこまで効果を発揮しているのかはまだわからない。動かない心臓がドキドキするような気がする。
鉄器には悪魔の魂を散らす効果があるという。
これは一種の呪術だ。『そうである』という認識が因果を逆転して、効果を発揮する。
だが、それはもう金属器自体が貴重品だった昔のことで、今はどこに行っても金属があり、そんなことを言っていては生きていけない。現代の悪魔はほとんど金属の呪縛を克服している(銀のような例外もあるが)。
そのはずだったのだが、僕の偽装した傷口に刺さっている槍の穂先は、冷たい炎のように内側から僕を
僕以外にも何人も悪魔を殺してきたという結果が、短槍を悪魔殺しとして呪い、鍛えているのだ。
苦痛への悪態と祈りが通じたのか、忌名は用心深さと躊躇のなさが同居した手つきで槍を手繰り寄せた。僕はぽっかり開いた穴から血を噴き出させて、致命傷をアピール。敵を前にして、じっくりと死体を検分する暇もないだろう?
緋蜂はトレードマークである赤い釘を、ドレスの袖から抜き出して構える。深い皺に柔和な笑みだが、この世すべてに対する憎悪をもはや隠してすらいない。暴力的な老婆のアンバランスな容貌で、底なしの狂気を体現。
一瞬の加速――交叉/赤と黒の衝突。
金属と金属、肉と肉を打ち合わせる音が何度も響き、そして遠ざかって行った。僕はそれを床に倒れ伏したまま聞いていた。
やがて、浸水したベッドの下からすすり泣きと共に少女が現れた。
隠れていた少女は、二人の殺し屋がもう戻ってはこないと考えたようだった。僕も同意見だった。
ようやく僕は部屋の中にまで気を巡らすことが出来た。
部屋の中には赤い釘を全身に刺された男と、その娘らしき少女がいた。少女は足を引きずって、それでも必死に仕立ての良いスーツを血に染めた父にすがりついていた。
ベッドの側には車椅子があり、緋蜂が足に障害があるであろう少女をわざと見逃したのは明らかだった。中国語はわからなかったけれど、緋蜂が殺す相手に自分の中で膨れ上がった憎悪を無分別に振りまいているのはわかっていた。あるいは、自分自身が過去に受けた痛みを再生産しようとしているのかも。
僕は生成した釘を体内にしまい込み、絶対零度の焼き
「お父様に近寄らないで! 殺すなら私を殺しなさい!」
健気にも、少女は両手を広げて父親を
凛とした声。だが、今の僕には頭にガンガン響いてキツい。
全身が酷くだるかった。何度も変化して、死んで、生き返って、僕の魂はしわくちゃのティッシュペーパーみたいに疲弊しきっていた。何か意味があると思えるものに触れたかった。
死につつある父の尊厳を守ろうと、敵の行く手を防ごうとする少女。その目には涙。
少女のあごをつかむと、死への恐怖と、尊厳を踏みにじろうとする無作法な相手への正しい怒りが震えとなって伝わった。
僕は少女の目尻に溜まった涙をひとすくい、舐めた。
愛情と、勇気の味がした。
この世はクソだし、中でもこの船は最低最悪で、僕は相変わらず疲れ切っていたが、それでもまだ信じるだけの価値があるものも存在するのだと思えた。
「……変態っ」
少女が僕の頬をビンタした。
僕はそれに構わず、血まみれの男に魔力を注いだ。胸に刺さった赤い釘を抜いて、止血をした。
僕が触れた場所から見る見る内にピンク色の肉が盛り上がって再生する様に、少女は驚いたようだった。
「アンタ、何をしたの!?」
「気休めだよ」
事実だった。僕を構成する魂を生命力に変換して少しだけ注ぎ込んだが、全然足りない。大学生が出先のどこででもスマートフォンの充電場所を探しているようなものだ。
「すいません、あなたを助けることは出来ません。ですが、僕には特別な力があります。今、『契約する』と言っていただければ、娘さんを逃がすことは出来るかもしれません」
どれも嘘ではない。釘で心臓を貫かれただけならどうにでも出来るが、緋蜂がそんな甘いわけがない。十中八九、呪毒を打ち込んでいるはずだ。その証拠に、男は血圧が酷く低下し、呼吸もヒューヒューとおかしくなっている。このままではすぐに死ぬ。
娘のことも同じ。逃げ切れるかどうかは保証しない。
僕に出来るのはいつだって、その場しのぎに過ぎない。自分に対しても他人に対しても。
「私の名前は
「それは遺言のつもりですか? 僕はあなたの魂に安らぎを与えることは出来ない。出来るのは契約であり、手品程度の魔法だけですよ」
「お父様に何て口のきき方してるのよ! いいから助けなさいよ!」
僕の言い草に少女――姫香は怒った。
「気持ちはわかる。でも、無理だ。人はいつか死ぬ」
そう言うと、姫香は黙った。そのことは彼女自身がすでにわかっていたことであり、改めて突き付けられた事実の残酷さに酷く傷ついたにおいがした。
同時に僕は、自分にとってもその当たり前のことが胸につかえて、悲しみを生み出していることに気付いた。
人はいつか死ぬ。ただそれだけのことが、たまらなく悲しい。
僕はこの子に感情移入しつつある。僕は高校生で、大人並みの責任を求められるのに、心の中にはまだ子供がいる。姫香は子供の僕自身であり、僕が今も助けようとしている八幡琴音でもあるのだ。
部屋に満ちたにおいを嗅いだ。血の、赤茶けた鉄じみたにおい。ざらざらした塩のにおい。僕はそれらを嗅ぐ機会は何度もあったが、いつでも新鮮な気持ちで恐怖した。しかし、禍月剛造からも変わったにおいがした。
肉体に煙で
悪い手段で金儲けをした人間が、自分自身もそれにどっぷりになるのはよくあることだ。
緋蜂が来なくても、近いうちに薬の副作用か裏稼業のいざこざでこの男は死んでいただろう。
自業自得だと思い、すぐにその考えが剛造の命を助けられないことを納得させるために用意されたものだと自覚し、自分の卑しさと惨めさが口の中一杯に広がった。
しかし、彼自身もそう思っていたのか、苦痛の中に納得の色もあった。
「私は馬鹿な男だ……成り上がろうとして、いつの間にか成り上がること自体が目的になっていた……だが、娘だけは助けてほしい……」
血に塗れていることを差し引いても、仕立ての良いスーツの上品さを打ち消すように、剛造の指にはタトゥー、口髭は粗野。
「悪党が土壇場で改心したところで、そんなに上手い話があるわけないだろ。おたくに出来るのは、契約するかしないかの判断だけだ」
善悪はただの言葉に過ぎない。しかし、自分の行いが自分に返ってくることは確かに存在する。それがカルマだ。
死にかけの人間のどこにこんな力が、と思うほどの勢いで剛造は僕の胸ぐらをつかんだ。これも僕の無遠慮な言葉に対するカルマだ。
「娘を、助けてくれ」
「僕の話を聞いてましたか? 僕は弱いから約束なんて出来ない。足手まといがいれば尚更――」
「君なら出来る」
剛造は僕の目を見た。
僕は目を逸らすことが出来なかった。
彼の瞳の中に映り込んだ僕は、酷くうろたえていて、まるで子供のようだった。
「勝手なことを言うな! 人は必ず死ぬのに、何でもかんでもおっ被せてきやがって……責任なんて取れるわけないだろ!」
人は何故、勝ち続けることが出来ないのか。
――人は間違える。正しさが目の前にあっても、間違った選択肢を選んでしまうものだから。
人は何故、間違えるのか。
――
人は皆、いずれは真っ平らになる。幸運も悪運も、永い永い時がすべてをすり減らしていくのだ。それはもしかしたら、人が死ぬ寸前の心電図にも似ているのかもしれない。
僕は人間ではないから、これからも幾度となくカルマに直面することになるだろう。助けた人間が僕より先に寿命で死ぬだろう。
責任の重さに、僕は耐えられない。人が生きて死ぬのはただの結果なのに、僕に責任があるように思えてしまう。
心がざらざらする。
僕は深呼吸した。
「出来たとしても、僕に得がありません。契約してください」
「契約、ね……それで得るのは魂か……? まるで悪魔だ」
「察しが良いですね。そう思うなら早くした方が良い。もう毒が身体に回りきる」
「ならばわかるだろう……君は私自身だ。薬で身を持ち崩して、因果が返ってきた私と同じように、いずれ悪運も尽きる……」
「そうならないように、天国に行くための善行を為せって? 善人だって理不尽に死ぬ」
お説教は嫌いだ。意味がないからだ。
「違うな……死ぬ時にも納得していられるためにだ」
その言葉を最後に、禍月剛造は死んだ。
独楽の回転が弱まるように、呼吸と脈拍が収束して止んだ。
「お父様……? お父様……」
「死んだ」
姫香は泣いていたし、助けられなかった僕にも父を死に至らしめた緋蜂やこの船の馬鹿げたゲームに対しても怒っていたが、それ以上に人はいつか死ぬということを至極自然に受け入れていた。父が死んだのに狂ったように悲しめない自分自身に戸惑っていることが、自然と伝わってきた。
僕は目を閉じ、少しの間深呼吸して、目を開いた。
剛造が言っていたのは、若い頃はヤンチャしてた年寄りが死ぬことをリアルに感じ取れるようになって宗教にハマるのと同じことだ。
人は死ぬし、そのことに何の意味もない。人の心はただそれだけのことに耐えられないから、意味をこじつけようとする。
僕は探偵助手であり、悪魔だ。
この船をゲームという枠組みを含めて奪い取ろうとする灰川に命じられて、前衛芸術家みたいに自分のやってることがアートだと勘違いした面白殺人鬼共を迎撃するのが目的だ。それ以上でも、それ以下でもない。
僕は今弱っている。禍月剛造と契約して魂を奪えれば良かったが、それも失敗した。
次善の策として、姫香と契約することも考えたが、これは旨くない。
「アンタ、私と契約してよ」
泣き腫らした目で、禍月姫香は言った。
「嫌だ」
「何でよ。アンタ悪魔なんでしょ。魂が欲しいんでしょ!」
「君が欲しがってるのは、暴力だ。この世に報復するための、この船を丸ごと沈めてしまうための。そいつで真っ先に殺されるのは、間抜けな売人の僕だ。だから、嫌だ」
図星を突かれた姫香は言葉に詰まった。
「出来るかどうかだけで言えば、君の魂なら可能だよ」
「なら」
「でも駄目だ。君のお父さんはそんなことを望んではいない」
「~ッ! 信じてもいないことを! 言うな!」
姫香は吠えた。その目にはもう、行き場を失った悲しみや自棄の色はなかった。一切は僕への憎しみとしてシンプルに昇華されていた。
「馬鹿な奴。子供らしく騙されてれば幸せになれたのに」
「アンタどうしようもないクズね。大人ぶってんじゃないわよ」
僕だってしたくてやってるわけじゃないよ、こんなこと。恩着せがましいから言わないけど。
「殺してやる」
「あっそう」
そうは言うものの、実際、充分な時間があれば彼女はそれを成し遂げるだろう。僕が普通の人間でなくても完遂するに違いない。彼女の魂の輝きがそう、僕に教える。
自棄になっているのはきっと僕の方だ。
僕は姫香を車椅子に乗せた。姫香は抵抗しなかった。
この部屋を出て、また悪魔を倒しに行く。そうしなければ、灰川が死ぬ。僕は弱っているし、足手まといもいるが、それでもやる。これが自棄でなくて、何だって言うんだ?
姫香を見捨てることは出来る。その方が得だ。正直なことを言うと、僕はもうこの少女の側から一刻も早く逃げてしまいたくて仕方がなかった。そばにいるだけで、彼女の心の痛みが伝わってくる。でも、そうしない。僕の心と行動はちっとも比例しないのだ。
心は魂の引き鉄である。心の震えが、魂の力を動かす。
僕の心は何に震える?
剛造の言いなりになったつもりはないけれど、僕の心が僕を動かす。何かに心を囚われることは、自分で自分を動けなくしてしまう。僕は自分の心に従っている。何も、問題はない。
実際、姫香の心は折れかかっていた。僕は筋肉がすっかり萎えた彼女の足を見た。怪我か病気か。どちらにしろ、動かない足との付き合いはもうずいぶんと長いだろう。
なるべく気取られないようにしたつもりだったけど、見られることに慣れた姫香はあっさりとそれに気付いた。わざわざ口にはしない。それでも、見る者と見られる者の一種暴力的な関係性がその場に生まれた。
僕は人の顔をあまり見ないし覚えない。怖いし、興味がないからだ。そんな僕でもわかるくらいには姫香の顔は整っていた。足は弱いがまったく動かないわけではない。とっても綺麗で、メンテナンスにも手がかからない芸術品。そんな彼女はさぞ男共の庇護欲をそそるだろう。
禍月姫香は誇り高い。彼女の矜持は憐れまれることを許さなかった。周りからの同情も憐憫も、燃えるような怒りに触れて姫香を癒すことはなかった。
それが、父の死によって折れてしまった。僕に言わせれば麻薬の取り引きで成り上がった勘違い犯罪者だが、それでも娘にとっては世界で唯一の理解者だったのだ。姫香にとっては四肢をもがれるよりも辛いことだろう。
僕はそれらのことが手に取るようにわかった。姫香と会って一時間も経っていなかったが、僕の心は、ひび割れた器に満たされた水のように、傷ついた心の有り様に浸透し、感応し、同じ形をとった。
僕はただ、姫香の心の痛みを消したかった。彼女の痛みは僕のものなのだ。
これはきっと、酷い傲慢だ。
僕の自嘲の笑みを、しかし姫香は別の意味として受け取った。
「アンタみたいな男、知ってるわ。女をトロフィーとしてしか見てないの。困ってる私に構って、恩に着せるつもり?」
「そうだよ。君が今まで会ってきた父親以外の男共と同じ、君の顔を見て、身体つきを見て、鼻の下を伸ばしながらも偉そうにする馬鹿さ。だから君も、そいつらと同じように僕を扱えばいい」
もう一度父のことを話題に出すと、姫香はひるんだようだった。僕に値段を付けあぐねているのか。
僕は、英雄的な行いについて思いを馳せた。
顔が良い女を悪い奴から救い出して、みんなに褒められ、感謝され、うらやましがられる。何て素晴らしいんだろう。まさに英雄的な行いだ。魂の価値は何を為したかによって決まる。そのことで僕は悪魔としても強くなるに違いない。
しかし、僕はそのことの馬鹿馬鹿しさに気が付いてしまっている。そんなんじゃあ、僕の心は震えない。
僕の魂の価値はいくらだ? そもそもそういうのって、相対的に決められるものなのか? 既存の社会の価値観で自分を幸せに出来るのなら、僕はそもそも悪魔になんてならずに済んだはずだ。
困っている子供を助けることには何の意味もない。僕自身が困っている子供なのだ。損得で言うとまったくの赤字だ。でも、やるしかない。
「まあ、悪徳は楽しんでこそだよね」
ぼそりと口の中だけで呟いたつもりだったが、姫香がそれに反応した。
「? ……やっぱりアンタよくわかんない。クズなのはわかるけど」
「はいはい」
「死ね」
「その内ね」
「殺す」
「うん」
*
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