第3話 慰めの報酬(1)


   *


 殺伐とした船内の景色の中、たった一人だけ以前の豪華客船の趣きを切り取ったような人影があった。

 灰川真澄である。スーツの上に大勢から奪った拳銃をベルトで幾重にも巻き付けており、非常に武骨で重いはずだったが、彼女がそうしているとまるで高級な腕時計やセンスのいいカフスボタンめいて見えた。過剰な優雅さであった。

 灰川はどんな時であっても、自分自身を誇示せずにはおられないのだった。灰川が歩けばどこであろうとそこはレッドカーペットになった。立ち塞がるものは皆、絶命した。敵はその死ぬ間際にも、彼女が銃を構える姿すら見ることが出来なかっただろう。

 そんな灰川が、アーケードの一角で急に足を止めた。廊下の向こうから迫り来るを敏感に感じ取ったためである。

 ショーウィンドウのガラスをぶち破って、男が転がり出てきた。男は酷く怯え、混乱していたために、手元にあるアサルトライフルがまるで棒切れのように見えた。

「なっ、何で俺がっ! だって、俺はゲームを管理する側で、こんな目に遭うなんて、聞いてない!」

 男は自分が来た方に向けてライフルを掃射した。しかし、それはすぐに中断させられた。男の目からは矢じりのようなものが生えていた。ひょうと呼ばれる、中国の投擲武器である。

 男は死んだが、灰川はそこから眼を離さなかった。

 やがて、遅くも速くもない歩みで、黒衣の女が現れた。辺りにガラスの破片が散らばっているはずだったが、足音どころか衣擦れの音一つなかった。

 女は片桐忌名だった。

 忌名は鏢を引き抜き、死んだ男の服で血をぬぐうと、懐に仕舞った。人の死に対して、あるいは闘うということに対して、何の思うところもない振る舞いだった。常人が呼吸をするように、それが彼女の日常の一部になっているのだ。

 灰川はその間、抜け目なく観察をしていた。片桐忌名という敵、利用出来る周囲の環境に対して。わかったことは、本来いるはずの他の参加者も運営側の狙撃手も、ここ一帯にはいないということだった。自分と、この女が狩り尽くしたのである。

 そしてようやく、忌名は灰川を見た。

「お前は、強いのか」

 忌名の言葉は、あまりに直截ちょくさいな問いだった。抜いたが最後、血を吸わずにはいられない魔刃の有り様。

 両手は無造作に垂らされ、その右には襤褸布にくるまれた棒状のものがある。――ただ、それだけの立ち姿が、異様な不吉さであった。

「僕は、強いよ」

 応える灰川は微笑した。男だろうと女だろうと、それを前したならば狂わずにはいられぬような妖しさだった。

「そうか――片桐忌名。立ち合いが望みだ」

 灰川が認識出来るものは由良とは違い、すべて唯物の世界のものだけだったが、確かにこの時、人の形に押し込めてなお溢れ出る殺意の幻臭を嗅いだ。

 それは多くの人間にとって自らの死臭であったが、灰川は気にした風もなく、むしろいよいよその笑みを深めた。

「ぬるいことを言うんだな。それが知りたければ、聞く前に仕掛ければいいのに」

「言い訳をさせたくない」

 いっそ潔いとすら感じるような口調でぬけぬけと忌名は言った。先程の悠長な仕草は明らかに誘いだった。しかし、それを気にする灰川でもない。

「不意打ちに耐えられない程度の強さに何の意味があるんだい?」

 表情は鎧われたように動かなかったが、その言葉に忌名の殺気が膨れ上がった。それこそが彼女が敵に望むものであったからである。

「まあ、いいや。お言葉に甘えて一つ質問を――」

 灰川の言葉の途中で、二人は同時に動いていた。

 不意打ちはもうない、と思った瞬間に普通なら気が緩む。お互いにそれを狙ったのである。

 灰川は、敵の構えから弾道を推測して銃弾をかわす忌名の技量を正確に推し量り、抜き打ちざまに銃を撃った。反動を人間離れした腕力と握力で抑え込み、銃声がひと繋がりになるほどの連射。同時に後ろに跳び下がる。

 忌名は瞬時に襤褸をほどき、眼前に投げつけて目くらましにした。弾丸が布地を裂いたが、どれも忌名の肉には辿りつかない。既に彼女は重力を無視するかのように、天井に降り立っていた。その手には、実用性以外の何ものも必要としないと主張するかのような、穂先から柄まで一つの金属から掘り出された短槍たんそうがあった。鞘は、とっくに払われている。

 片桐忌名の心は、人を拒む雪山のように、修羅に覆われている。殺し合いは彼女にとって日々の営みの一つに過ぎないが、だからこその喜びもある。

 あれをしてはいけないとか、ここを狙ってはいけないとか、そんな禁じ手のない闘いこそが忌名にとっての『本物』であり、他はすべてそれに至るまでの代用品である。

 忌名は主に徒手で闘うが、銃を持ち出されても、毒ガスや核ミサイルで狙われても、それを卑怯だとは思わなかった。卑怯だと言うのなら、ただびとがのうのうと生きている間に人殺しの手管を磨いている自分こそ卑怯であったし、それこそが武の本質であるとすら思っていた。

『いつでも、どこでも、誰とでも』そう信じる彼女にとって、卑劣さに手を染めることに躊躇のない灰川の姿は、例えようもないほど美しいものだった。

 ――そう、強いことは美しい。

 忌名は強くそう信じる。

 横殴りの暴風雨にも似た銃撃を、壁を縦横無尽に飛び跳ねてすべて忌名はかわした。急加速に加えて急停止を駆使し、まるでコマ落としのように動いた。視覚が認識に追いつかない程の動作の緩急が、灰川をして狙いを絞らせないのだ。弾丸が脇腹をかすめて遥か背後に過ぎていくごとに、忌名は灰川に近づいた。

 灰川の連射。すぐに弾を使い果たした銃を枯れ枝のように放棄して、全身に巻いたベルトから流れるように抜き撃つ。面で浴びせかけるような弾幕だが、それでも忌名を捉えられない。

 そしてついに、突き出された槍の穂先が、灰川の持つ自動式拳銃の排莢口をとらえた。

 弾が詰まり使い物にならなくなった銃を、灰川は躊躇なく放棄。そして二人の距離がなくなった。

「うふ」

 灰川が笑った。

 忌名はそれを、プライドの高い人間が死に際に浮かべる虚勢の類だと思った。頭の中の考えとは別に、忌名の身体は最適化された速度と軌道で最も有効な技を繰り出す。そこに油断など、入り込む隙はない。

 短槍が忌名の手のひらの中で反転し、石突いしづきが灰川の喉元を目がけてはしった。


   *


 この場に灰川がいてくれたらなあ、と思ったが、すぐにそれはないと思い直した。

 灰川は探偵で、謎と動機がある殺人にしか興味がない。

 レインマン弟のククリナイフの振り下ろしを、相手の手首を抑え込むようにして受け止める。

 ――僕たちは違う。

 両手をクロスさせてふさがった僕に、背後からレインマン兄が斬りかかる。少しも音がしないのは流石だが、それでも僕には感覚出来る。

 手首を支点に、レインマン弟をたいを入れ替えるようにして背後に投げ飛ばす。ぶつかることを期待したが、中空で兄弟は身をかわして難なく着地した。

 僕らは理由がなくても殺し合うことが出来る。そこに謎はない。

 いつも感じる、悪党を前にした時のチープな共感――こいつらと僕はどう違う?

 同時に、どうしようもなく自分と他人はわかり合えないということを思い知らせる、暴力の断絶。それらは僕の中では一切矛盾せずに存在する。

 ククリナイフの独特な形状から生じる重さと遠心力を利用した必殺の斬撃。相手が一人なら反撃のしようもあるのだけれど、レインマンは常に前後左右の対角線上から同時に攻撃してくるため、防戦一方になってしまう。

 まるでどデカいハサミに襲われているようだ。

 どちらかを先に片付けてしまいたいが、完璧なチームワークに付け入る隙がない。

 悪魔の生命力を盾に無理やり強襲しようにも、一撃で四肢を断たれては一手遅れるだろう。

「ずるいな、そっちだけ二人なんて」

「そそ、そっちだって、悪魔じゃあないか。ずるいぞお」

 レインマン弟が苛立ったような声を上げる。しかし、ククリナイフを扱う手元には少しのブレもなく、僕はうんざりする。

「出し惜しみか、それとも出来ないのか。悪魔のくせに普通に鍛えた人間のような技ばかりだ」

 ぼそりと呟かれた兄の言葉はそんなに間違っていない。

 八幡琴音を助けるために僕は自分の魂の大部分を使ってしまったため、殺人鬼の中でもまだマシな方である人間相手に術式を使う余裕がないのだ。ここで無茶をすると、自分の唯物の世界にあらわした肉体を維持出来なくなってしまう。

 そして、僕の能力は正直あまり戦闘向きではない。爆撃や衝撃といった派手な術式も使えないわけではないが、魂の変換効率から言って下策だ。個々の悪魔が最も得意とする術式は、無意識の才能が表出したものであり、それ以外を使おうとするとどこかしら無理が出るのである。

 甲殻を展開したところで、銃撃なら曲線によって斜めに弾き逸らすことが出来るが、鉈にも似たククリナイフ相手では分が悪い。撃ったら撃ちっぱなしの銃弾とは違い、敵に触れてからも力のかけ具合を変えられる刀槍とうそうの類は、使い手によっては恐ろしい程に殺傷力を増す。

「普通で何が悪いんだ。普通に生きて普通に死ぬし、普通に殺す。おたくらみたいな芸人と一緒にするなよ」

 僕の言葉に、レインマン兄弟の表情が歪んだ。

 言うまでもなく、レインマンは一般社会からしてみればじゃない。普段はそれを気にしていないだろうが、僕にそのことを突かれると意味が変わってくる。共感というのは双方向のものであり、僕が彼らに感情移入してしまったのと同様に、彼らも僕に対して、殺し屋稼業をやっていく内に自分たちが失ってきたものを投影していた。だから、無意識に傷ついた。

 社会的価値観というものは、普段は関係ないと思っていても、意外な角度から覆いかぶさってくる。それがどんな場所や時代であっても、人と人がいる限り何らかの尺度が生まれ、常にそこに押し込められてしまうのだ。

 悲痛と怒りのにおいが、雨合羽のビニールを突き抜けて噴出した。

「じばっ」

 奇声と共に、レインマン弟がククリナイフを投擲した。

 重心が先端の方にあるため、真っ直ぐではなくバトンのように回転しながら飛んでくる刃を、紙一重でかわす。

 僕を挟んでお互い3メートルも離れていないような距離だったが、レインマン兄は正確にナイフを受け取った。代わりにもう片方のナイフを既に投げている。驚異的なコンビネーション。

「ふん」

「ばっ」

「ふん」

「あばぁっ」

「ふん」

 死のジャグリングの中央で僕は踊る。

 リズムもメロディもないけれど、生きるためにはそれが必要なのだ。

『どうして人を殺してはいけないのか?』――中学生を過ぎて口にしたら馬鹿扱いされるような問いだが、あえて今考えよう。

 倫理や道徳? 法やルールによる処罰への恐れ? それらは『社会』という点に収束する。

 すべての生き物は環境に適応し、より良く生きるため、そして今よりももっともっと繁栄しようとしている。そのために技術を磨き、進化していく。

 人間が得たものは社会性である。

 キリンの首が伸びていったように、人間は社会を作り、その中で助け合って生きていくことが最も生存において有益であると考えたのだ。

 殺人を行い、他人から金品を奪う行為は、極々狭い視野では得をしているかもしれない。しかし、社会に与える損害を考えると赤字であるため、排除されなければいけない。個人が得る短期的な利益よりも、社会を維持することで得られる利益の方が圧倒的に大きいということである。

 つまりは、優先順位の問題だ。

 個人の中にそれは普段はそうと気付かせることなくインストールされている。あるいはそれこそが倫理や道徳と呼ばれるものだ。

 しかし、時代や場所によって社会のルールは変化する。今、僕たちがいる場所では殺人はルールに抵触せず、むしろ推奨されている。それを更に灰川は革命しようとしているのだ。

 社会=ルールの破壊と再構築。歴史が今日に至るまで幾度となく繰り返してきた行為に他ならない。

 僕はどこまでついて行けるだろうか?

 悪魔は基本的に属することを嫌う。社会より己の価値観を優先するためだ。しかし、その価値観が社会によって植えつけられたものではないとどうして言えるだろうか?

 社会がどうしようもなくした時、魂の礎は打ち込まれた時と同じように機能するだろうか?

 不意に肩に痛みが走った。傷を確認する余裕はないが、肉がざっくりと割れているのがわかる。

 投擲されたククリナイフはかわしたはずなのに、何故?

「雨っ、雨だっ!」

 レインマン弟の狂気の笑み。

 対して、兄の表情は少しも変わらない。罠を回収する狩人の冷徹さで、手元のククリナイフを手繰り寄せるような仕草をした。

 今度はナイフを投げられてもいないのに、太ももが裂けた。制服に血がにじんでいく。

 足が止まったのを好機と見てか、再びレインマン兄弟が直接ククリナイフで斬りかかってきた。

 縦横無尽に襲い来るギロチン。

 四本の刃をすべてかわしているはずなのに、それ以上の切り傷が全身に増えていく。

「ふーん」

 このままではジリ貧だ。勝利条件を変えなければならない。

 正面にいた弟の方に組みつきに行った。まるで剃刀かみそりの雨に打たれたかのように、全身に切り傷が走った。でも、それはどれも致命傷にはならない。

 レインマン弟が、僕の右の鎖骨を袈裟がけに砕いた。ククリナイフのやいばは肺腑にまで達していたが、僕は死ななかった。人間ではないとは、こういうことなのだ。

 深手を負わずに勝つつもりだったが、仕方ない。僕の魂が削られ、肉体が再構築される。唯物の世界の生物ではありえない程の再生能力は、ククリナイフを身体に埋め込んだまま僕を生かした。

 致命傷を負いながらも勢いを止めずに襲い来る僕に、初めてレインマンの目に狼狽の色が浮かんだ。

 だが、もう遅い。

 彼の背後にあるプールに、僕とレインマン弟はもつれ合いながら飛び込んだ。

 一瞬、激しい水飛沫の音が上がり、すぐに粘るような静寂と水圧が全身を包んだ。このプールは思ったよりも深い。

「ごぼごぼぼぼぉ」

 悪魔は音より早く動くこともあるため、圧縮言語と呼ばれる独自の意思疎通方法を持つが、レインマンはただの人間であり、魔力を持たないために水の中では言葉が伝わらない。本当だったらここで勝ち誇りたいところなんだけど。

 先程のレインマン兄がやったように、僕も水中で手をぐるりとかき回して手繰った。すると、針が刺すような痛みと共に、予想通りの物に触れることが出来た。

 人間は水中で目を開くとぼやけてまともには見えないが、僕は目をワニのものに変化へんげさせて瞬膜を形成した。だから、問題なくを見られる。それとはすなわち、極細の金属糸ワイヤーであった。

 遠心力と重さを利用してククリナイフを操る仕草に隠されて、気付くのが遅れた。つまり、彼らがやっていたのはジャグリングではなく、だったのだ。

 目の前で罠を張られていくことを察知する前に、多くの人間や悪魔が死んだことだろう。

 だが、プールの中では水の抵抗が強いため、ククリナイフもワイヤーも殺傷力を失う。

 一刻も早く水上に逃れようとするレインマンのトレードマーク、黄色い雨合羽をつかんだ。

 激しくもがくが、もう遅い。

「う゛ぇるるろ゛ろあ゛あ゛ぁ゛っ」

 僕は獣の声を上げ、抱え込んだレインマンの首をへし折った。

 咆哮はすべて、あぶくとなって消えた。彼らが殺してきた人と同じ、彼が逃れようともがいたのと同じ。すべて現れては消える泡と同じ、無駄なことだ。

 僕にこんなことが出来るなどとは誰も、僕自身ですら知らなかったことだ。

 本当のことは、本当の瞬間が来てみないと誰もわからない。

 首が折れたままレインマンは僕の腕から抜け出し、天も地もなく跳ねた。

 馬鹿な男だ。

 知らなくてもいいのに、この先のことなんて。首を折られて素直に死んでおけば、本当の痛みなんて知らずに済んだのに。

 レインマン弟はなおも反撃をしようとした。しかし、陸の上での動きとはかけ離れた鈍さで振るわれるククリナイフをもぎ取るのは簡単だった。そのまま異形の刃物を、彼の腹に返してやった。

 冗談みたいに明るい色の合羽の奥から、ものすごい勢いで体液が吹き出し、プールをどす赤く染めた。

 そこまでされても、まだ死んでいない。そういう風に刺した。餌は生きが良いのに限る。

 金属糸で繋がったレインマンの片割れである兄に、異変が伝わる。

 彼は絶対にこの水底まで来る。

 それが罠だとわかっていても、自らの半身を見捨てることなど出来ないだろうから。


   *


 金属と金属がぶつかり爆ぜる音。

 灰川が腰から抜いた銃は親指で引き鉄を絞られ、変則的な角度から弾丸を放った。それは忌名の槍を真上に跳ね上げた。

 しかし、忌名は止まらない。槍は強く弾けば、それを遠心力に変えて攻撃の手を加速させる。

 ひるがえった刃が身体に届くよりも速く、灰川は自分から距離を詰めた。銃身をつかみ、ハンマーのようなシルエットになった拳銃で柄をいなすと、金属同士が擦れる嫌な音がした。

 もう片方の手には通常通りの作法で拳銃が握られ、行儀よく忌名の胴体を狙っていた。最も面積が広く、かわしにくいためである。

 ふいに、灰川の身体がブレた。忌名が急に短槍を手放したのだ。

 撃つのが遅れたその一瞬の隙、それを見逃さずに忌名が銃を蹴り上げた。灰川自身に当てることも出来たはずだったが、あえてそれをしなかったのは先程の曲芸じみた射撃への対抗心か。青い焔のような情念がちらついた。

 忌名は高く上げられた足をすぐに下ろさず、灰川の髪を足の指でつかんだ。忌名が履いているのは靴ではなく、足袋たびだった。そのまま、足で引っこ抜くような常軌を逸した投げを放った。

 首の骨が外れるような投げに対して、灰川は自分から跳ぶことで一切のダメージを回避した。猫の三寸返りめいて、投げられた先で見事着地。

 無理な角度からの投げによって体勢が崩れた忌名を、今度は灰川が投げる。手を使わずに、頭を振ることで自分よりも大きい身体の忌名を軽々と飛ばした。合気道の達人めいた投げ技である。

 つかんでいたままでは逆に不利だと知り、離れる忌名。

 お互いに跳び退すさって距離を置いた。その時にようやく、忌名が手放した槍が床に落ち、重い音を響かせた。一瞬の時間が引き伸ばされ、歪曲したかのような攻防であった。

「……僕の髪を抜く奴がいるなんてな。ちょっとムカつくかも」

 忌名の足袋に絡まった数本の髪を指して灰川は言った。銃の引き金に指をかけたまま、冷え冷えとした目で、忌名だけではなく周囲の環境を丸ごと驚異であり武器であると認識し、睥睨している。

 対して、忌名はただひたすらに灰川を睨み、視線を切らない。

 猛獣を相手取るかのように、そろそろと槍を手繰り寄せた。その間ずっと、灰川に対しての警戒を絶やした様子はなかった。

 二人の間に再び緊張が満ちた。

 辺り一帯の空気にまで火が点きそうになったその時、通路の天井が轟音と共に貫かれ、瓦礫と大量の汚水が降ってきた。


   *


 レインマン兄を悪魔の怪力で何度もプールの底に叩きつける内に酷いひび割れが生じ、やがて穴が開いた。血をたっぷり吸った水と一緒に吸い込まれて下の階に落ちていく瞬間に、ほんのわずかだったがまだ息があったレインマンと目が合った。

 狂った弟と、それにとことんまで付き合った兄。

 彼らを知る者はみんなそう思うが、本当は最初に弟に殺人という悪い遊びを教えたのは兄だった。弟も、ただ騙されて殺人を繰り返したのではない。

 それが彼らにとっての適正であり、有用性だったのだ。兄は自分と弟の素養を正確に見抜き、鍛え上げたのだ。

 硬い小石のようなレインマン兄の目を見て、そのことがわかった。土石流めいた瓦礫とプールが巨人の腕めいて、レインマンたちを下の階の床に叩きつけるその瞬間まで、兄の目を僕は見ていた。

 血煙に汚染された水を越えて弟の亡骸と対面したレインマン兄の口がわずかに開いた。

 声にならない声――「俺とお前の悪運も尽きちまったなあ」

 当たり前のことだった。そして、みんなが忘れていることだった。

 人は正しい選択肢を選び続けることが出来ない。

『人は勝ち続けることが出来ない』――ふいに灰川の言葉が思い出される――しかし、間違えることに意味がないわけではない。少なくとも、レインマンにとってはそうだった。

 レインマン兄弟はとても上手くやったものだと思う。その証拠に二人とも、死ぬ瞬間にあっても後悔のにおいは少しもしなかった。

 彼らが己の魂の声を聞き、それに従い、ついにはまっとうしたからだ。

 僕はレインマンがうらやましい。

 今の僕には、自分の魂が何を望んでいるのかわからない。少し前まではそれでもよかった。しかし、悪魔であることに目覚めてしまってからは違う。灰川によって既存の社会が規定する倫理観を壊されたからだ。

『探偵助手は嫌々事件に巻き込まれるもの』――これはある種のお約束であり、僕の心が望んだ欺瞞でもある。

 今の僕は灰川の言うことに従うくらいしか、することがない。そうでもしないと、行き先を見失った魂が崩壊しかねない。

 これは冗談なんかじゃあない。誰だって、どうでもいいことには本気になれないだろう? なら、何もかもがどうでもよくなってしまった人間はどうなる?

 死ぬことが怖い時点でどうでもよくなんかなってないじゃねーかって部分はあるけれど、人の心は正しく一つの方向に向かうばかりではない。

 僕は毎日楽しく自分が自分らしくあれるようでいたいし、灰川は友達だから会う度に良くしてあげたい。美しい景色や美味しい食べ物、ワクワクするような物語が大好き。

 そう思っているはずなのに、それらに対して本気で打ち込むことが出来ない。

 背筋を冷たいものが伝った。

 僕の心が、魂が、内側からずるずると腐り、ほころび始めているのがわかる。早く早く、もっともっとの何かを見つけなきゃ。焦るほどに僕の心は乱れ、方位がブレる。ちょっと誰でもいいからマジで聞きたいんだけど、『何か』って何だ?

 レインマンは走り切った。

 僕はどこまで行ける?

 瓦礫が後頭部を打ち、水が鼻から肺にまで逆流して凄まじい苦しみを感じたが、僕は死ななかった。僕の魂があらわした肉体は、その程度で立ち止まることを許さない。

「あっは」

 僕が船の中で溺れるという奇特な状態にあるのを灰川が見て、笑った。そしてそのまま身をひるがえす。

 やがて、プールの水の勢いが弱まり、僕が立ち上がると、目の前には槍を持った死神が立っていた。


 灰川が向かったのは黒幕の居場所であり、そこを突き止める前に片桐忌名と接触して交戦。二人が闘っている間に僕とレインマンが落ちてきた。まともに相手するのは面倒なので、灰川はいつも通り僕にパスして離脱。

 すごくわかりやすいいつものパターンだからそれ自体に今更僕から言うことはないが、ラストが少しおかしい。

 僕が悪魔であることを灰川には隠しているつもりだけれど、そうすると灰川が一対一で倒しきれない相手を僕に任せたということになり、やはり見抜かれている気がする。そもそも、隠す意味があるのだろうか? 頭ではすっかり全部話してしまいたいが、心がそれを裏切っている。どうやら僕が悪魔になった時の記憶にまだ抜けがあるらしい。

 僕は悪魔だけれど、同時にただの高校生だ。子供ほど自分の責任に無頓着でもいられないが、大人ほど経験豊富に立ち回れるわけでもない。みんなそこを勘違いしているように思う。

 灰川が本気でやっても殺せない相手。僕に勝てるわけがない。

 だが、この場を放棄することは出来ない。灰川を追われては困る。

 逃れられない難題が、僕を駆り立てる。それだけがつかの間、僕の魂を輝かせるのだ。ただの仮初めの理由であっても。

「選手交代だ。次は僕がやる」

 足元にくずおれたレインマンの死体を足で跳ね上げて、忌名にぶつける。

 不意打ちのつもりだったが、あっさりと中空で死体の胴が両断され、左右に分かれて落ちた。血の一滴すら忌名はその身に触れさせなかった。槍の軌道すら見せぬ、絶技。

「お前は、強いのか」

 片桐忌名が僕に問うた。

 きっと灰川にも同じ質問をしたのだろう。しかし、今の言葉には確かめるまでもないという色があった。僕の弱さをすっかり見透かしたような色が。

 でも、闘わない理由にはならない。僕にとっても、忌名にとっても。

 忌名は鉄の杭を呑んだような立ち姿。対する僕はズタズタのビチョビチョの制服姿で、随分情けないことだろう。それでも、口元には灰川譲りの不敵な笑みを浮かべてみせる。

。お手軽に気持ちよくなりたいなら、それでもいいけどね」

 安い挑発だったが、たわいない言葉がことごとく忌名の心を泡立たせるのがわかった。

 忌名は、弱くて弱くて仕方がない僕の存在全てが許せないのだ。

 そして一方の僕はと言えば、弱いなりに闘いたくて仕方がない。身の程知らずにも、悪い奴をやっつけて、世界を救う勇者になりたくて仕方がないのだ。だから、どっちを向いても敵がいるこの船が大好き。いつもの社会ではありえない特異点に立っている。

 僕は自分の浅ましさと卑しさが身体から立ち上るのを感じ、目一杯吸い込んだ。忌名もそれを感じたことだろう。

「わかった。お前を殺して、すぐにあの女も殺す」

。おたくには無理だ」

 僕の言葉に、忌名の氷山めいた心がいよいよ沸騰した。

 微動だにしなかった忌名の表情が初めて変化した。

 殺意が、微笑の形をとっていた。

「――私は、諦めたことがない」

 僕を目がけて、死の風が吹く。

 最悪だったが、僕はそれをこそ望んでいたのだ。

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